私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

病院へ

2015-02-28 20:26:01 | 日記

February 27,2015

眼科にかかるために、いつもの総合病院へ。今日はこのはっきりしない眼の調子について、執刀医にちゃんと聞いてこようと、張り切って出かけた。9:30の予約だったが、実際に受診できたのは10:30を過ぎてからだった。医師は、いろいろとかなりくわしく検診した後、炎症もほぼ治っているので心配ないといわれた。6月に、私がよく出かけている図書館の近くのビルで開院することになったので、何かあったらそちらの方へということで、眼薬を少し多く処方してくださった。手術から今までの経過をパソコンに打ち込んでもらったものによると、術後、虹彩炎が再発し・・・といったことが書かれてあった。ということは霞がかかって見えずらかったのは白内障だけではなく、虹彩炎とやらも患っていたということなのか。白内障に関しては、これで全快したということのようだ。心配することは全くないという医師の言葉を信じて帰宅した。

考えてみれば、後期高齢者の年齢も過ぎ、これまでに使ってきた身体が生れたときのままであるはずはない。歯科に次いで眼科医への道筋もできたので、何かあったら受診するように心がけることにして、あまり心配するのはやめよう。午後から、以前私の英語教室に来てくれていて、大きなホテルに就職した青年のお母様が、ホテルで新しく売りだしたパンをたくさん持ってきてくださった。久しぶりに積もる話をして、楽しかった。お孫さんを預かったりされているようなので、冷凍してあったパウンドケーキを持って行ってもらった。若い時に思い描いていたような人生を送れる人は少ない。私も、こんなはずではなかったと思う老後ではあるが、今日という1日が無事に、また心温かく過ごせたことに感謝しよう。明日から3月、日本列島に寒波が押し寄せているものの、幸い関東地方の南部は、春の足音が聞こえ始めている。母の手作りのお雛様を飾った。今日の夕食はパンにしよう。

画像は友人のメールから、田園調布・せせらぎ公園で撮られたとのこと、常緑樹の緑が、梅の花を引き立たせている。 


眼鏡のことなど

2015-02-26 11:02:47 | 日記

February 26, 2015

明日は、眼科の予約が入っている。なかなか白内障の手術後から解放されない。眼鏡が出来て遠くを見るのには支障なくなったが、近くが、霞がかかっているようで、見えづらい。眼圧が高いのか、眼薬をつけていてもまだ炎症が残っているのか、素人考えをしていてもらちがあかないが、信頼していた眼科医にも、疑念がわいたりする。朝日新聞の「患者を生きる」という連載欄の記事が頭をよぎる。必ず目を通すコーナーだが、病気とは縁のない人生をおくって来て、半ば他人ごとのようであった内容が、現j実味を帯びてきた。患者の不安な心、信頼できる医師との出会いなど、今後の私の生活に欠かせない事柄だろう。

生れたときから「朝日新聞」と言ったら笑われるだろうが、いろいろあっても、この新聞の購読を変えることはない。論説を書いている人物がテレビに顔を出すようになってから政権寄りのような発言をしたりするのは腹立たしいが、そうはいっても朝日新聞の記事を信頼したい。毎月最終木曜日のオピニオン欄は、貧弱な私の政治感覚のよりどころにしている紙面だ。「論壇時評」は作家の高橋源一郎氏が書き、「あすを探る」は、何人かの論説委員が交替で書く。そのほかに担当者が選ぶ「注目の論点」、「論壇委員会から」というコーナと、論壇委員が選ぶ「今月の3点」がある。これらの記事を参考にして自分の意見を語れればいいのだが、なかなか難しい。で、この紙面からいくつか印象に残った言葉を引用させていただくことにする。高橋源一郎氏は、人質問題について、「イスラム国」を「狂信的集団」と糾弾する声に対して、1762年3月、宗教的狂信が起こした事件で、ひとりの新教徒が冤罪で処刑さえたのを知ってヴォルテールが書いた、『寛容論』の中の言葉を引用して、250年経った今も、彼の祈りの言葉はかなえられていない、と結んでいる。次に引用させていただく。

 「我々の虚弱な肉体を包む衣服、どれをとっても完全ではない我々の慣習、それぞれ不備な我々の法律、それぞれがばかげている我々の見解、われわれの眼には違いがあるように思えても、あなたの目から見れば何ら変わるところない、われわれ各人の状態、それらのあいだにあるささやかな相違が、また『人間』と呼ばれる微少な存在に区別をつけているこうした一切のささやかな微妙な差が、憎悪と迫害の口火にならぬようお計らいください」(ヴォルテール『寛容論』、朝日新聞2015年2月26日)

「あすを探る」では、中東研究者の酒井啓子さんが、「命の値段」について書かれている。その一部を引用させていただく。

 命の値段に違いがある。テロリストが外国人を惨たらしい姿で殺害するのは、その命が「高い」とわかっているからだ。ISに乗っ取られたシリアとイラクで、殺されているのは外国人ではなく、専らイスラーム教徒だ。2011年の内戦以来、シリアでの死者は18万人を超え、イラクではIS侵攻以来、毎日100人弱が亡くなっている。
 だが、それでは世界は動かない。日本人のだれが、毎日数百人の中東での犠牲者に追悼記事を書くだろうか。今回の人質殺害事件で、イラクのアラビア語紙が紙面半分を割いて、日本人の死を悼む論を掲載したというのに。(朝日新聞、2015年2月26日)

私だけではないだろうが、小さい窓からしか世界を覗くことが出来ないものにとって、こういう記事は当然なこととはいえ、やはり世界で起こる出来事に対する自分の見方への大きな刺激になる。さらにこのページの紙面について書こう。「注目の論点」では、『21世紀の資本』が選ばれている。「本書の力はなによりも実証の力だ、理論がどうあれ、データはこうなっています、といえるところに本書のパワーがある」という評価があった。又「しっかりと情報を判断したうえで行動を起こせる市民を生み出すのに役立つ本だ」という著者自身の言葉も取り上げられていた。「格差社会」は実感していても、本書については、難しくて立ち入れないが、ふと最近の国会討論の空しさに想いが及んだ。安倍首相が国会答弁で語る言葉の虚しさだ。いったいあなたはどんなんデータを積み上げて、日本のいまや未来を論じているのですかと問いたい。

引用文の多いブログになったが、朝日新聞の今日のこのページで語られている記事に啓発され、また共感している。

画像は、道端で撮った「パンジー」。


漢方

2015-02-22 09:04:16 | 日記

February 22, 2015

あれはもう数年前のことになる。両足に湿疹が出来て悩まされたことがあった。結局は皮膚科にも行ったのだが、医者嫌いなので、まずデパートの上の方の階にある漢方の店を覗いた。いろいろ親切に対応していただいたけれども、金額の大きさに驚いた。とても毎月この値段で続けることは不可能だと思い、漢方のお茶を求めて店を後にした。今日の朝日新聞「読書」欄の「著者に会いたい」コーナーで、作家の群ようこさんの『ゆるい生活』(朝日新聞出版)が紹介されていた。「53歳の秋のこと、朝、体を起こしたらめまいがした。生活に支障がないが不快感を何とかしたいと、友達が通う漢方薬局へ。以後、漢方とつきあう日々をつづってきたPR誌の連載エッセーが、本になった。」とある。私は漢方はあきらめ、また皮膚科でもらった薬も大した効き目はなかったが、その後足の湿疹もいつの間にか治った。

今日この記事を読んで、値段が折り合わずあきらめたものの、説明してくださった女性の言葉がよみがえり、この本をゆっくり読んでみたいと図書館に予約した。順位が110番なので、いつ手元に届くことやら。「 甘いものと水分の取りすぎを見直すことから始め、目が充血して真っ赤になった時は「オーバーワーク」を指摘されたので、仕事は1日3時間、趣味の編み物や読書は休日の日中のみと少しずつセーブしていく。」という紹介記事の中にある言葉が突き刺さった。夢中になると1日中パソコンに向きあって点訳しているような状況を、まずやめなければなるまい。白内障の手術後の眼の調子があまりよくないのも、こんな日常が影響しているのかもしれない。

妹から宅急便が届いた。いつも気遣ってくれていろいろと送ってくれる。本当にありがとう。牧場に嫁いだ姪の所で作っている大豆と黒豆がたくさん入っていた。豆好きの私には何よりのプレゼントだ。ここの豆は、一晩水につけると、普通の豆の場合よりも一回り大きく膨らむ。まず、大豆をゆでて、小分けして冷凍し使いたい。料理本『作りおきそうざい』にでていた「甘みそ五目豆」を作ってみよう。

画像は、知人の家で撮った「白いシクラメン」。昨年ご主人を亡くされた方だ。なんだか淋しげだ。


超多忙

2015-02-19 16:50:06 | 日記

February 19, 2015

 点訳をやっていると、1週間ほど猛烈に忙しい日が訪れる。というわけで、ブログの更新が遅れてしまった。今日の例会に間に合わせたいと思って予定を組んでいても、なかなか校正が回ってこなかったりなど、相手のあることなので、思うようにいかない。私のようにせっかちな性格のものは、ボランテイアには向かないのかもしれない。それでも、この、新しく参加した『英和辞典』の会は、私にはやっと探していた場所に思えるので、少々無理をしてもがんばって続けていきたい。これからは、三寒四温、昨日の寒さがウソのような暖かい日に恵まれて、10時から1時まで喧々諤々の議論をして、皆さんと練馬駅前でランチを食べて帰宅した。

もう少しで読み終わるところまできていた、ジョン・ル・カレ『繊細な真実』を読み終えた。この著者の作品は、1963年に刊行された『寒い国から帰ってきたスパイ』以来、翻訳されたものは読んできている。こういった作品を硬派のスパイ小説というのだろうか。フィクションではあるが、イギリスの公職守秘法で守られた〈秘密〉をテーマにしている。現代社会の問題と直結している事件展開はさすがだと思いつつ、私には理解しがたい内容の箇所があったりして、ミステリを楽しむという境地にはなれなかった。80歳を過ぎてもこういう小説を書けるのだからすごい。次作を期待したい。

やはり早川書房のテリー・ヘイズ『ピルグリム』は、1卷と3巻が届いて、2巻がまだなので、1巻だけ読んだ。この卷の目次の前のページに、ジョン・ル・カレの『鏡の国の戦争』の中の言葉「見知らぬ国で活動するスパイ以上に、絶えず名状しがたい恐怖にさいなまれる者はいない」が書かれていた。「訳者あとがき」によると、テリー・ヘイズは、ジョン・ル・カレ、フレrデリック・フォ-サイスなどの作品に触れてスパイ小説の大ファンになり、自分でもスパイ小説に取り組んだという。『ピルグリム』は文句なしに面白い。2巻を飛ばして3巻を読んでもいいと思っている。たまには自分の日常とは全く異なる、本の中だけの世界に浸るのも楽しいが、スパイ小説はこれくらいにしておこう。雑誌「AERA」の今週号が、「格差と貧困を考える」を特集していて、『21世紀の資本』の著者、ピケティを取り上げていたので、売り切れないうちにと思って買っておいた。私は格差社会を実感している者なので、解説をじっくり読んでみたい。

まずは更新をと思い書いたブログなので、上っ面の言葉を並べたようで恥ずかしいが、「格差と貧困」については、今後のブログで、もっと具体的に触れたいと思っている。

画像は、妹のメールから、「シンビジューム」。毎年送ってもらっているが、今年は特に花つきが素晴らしい。


野見山暁治の絵

2015-02-07 11:15:36 | 日記
February 10, 2015

2月8日(日)
日曜日、朝日新聞の「読書」欄に目を通す。いくつか読みたいと思う本があっ。クレア・キップス『ある小さなスズメの記録』(文春文庫)、小林聡美『読まされ図書館』(宝島社)、トマス・H・クック『サンドリーヌ裁判』(ハヤカワ・ミステリ)。トマス・クックの本は久しぶりだ。『緋色の記憶』以来のファンで、この作家には、単なるミステリではなく、私は高い文学性を感じる。文庫になるのは先なので、まず図書館に予約する。『読まされ図書館』は、人から推薦された本を読み、感想をエッセイに綴ってきたものだそうだ。私のように、特に専門としている学問があるわけではなく、ただ楽しみで活字を追っている者は、本の案内人をいろいろな所で探す。本書でも、たぶん思いがけない本に出会えるかもしれない。

夜、NHKテレビの「日曜美術館」で野見山暁治の作品を見た。画面を通してではあるが、素晴らしかった。以前私が知っている作品と比べると、歳をとってからの作品は色が美しかった。これはなにを描いているのだといった考えは全く頭に浮かばない。ただすっと身体の中に入ってくる絵に、自分でも驚いた。やはりこちらも歳をとって絵の見方が変わったのかもしれない。以前絵画教室に通っていたとき、野見山暁治の作品が好きな方がいて、何冊かこの画家のエッセイを貸していただいた。私も、『四百字のデッサン』が文庫本になった時に読み、たしかブログでも触れたと記憶している。私に本を貸してくださった方も、もう亡くなられたと風の噂で聞いた。2人の奥様にも先立たれ、いま90歳を過ぎて、お独りで生活しながら絵を描きつづけている画家の姿は、懐かしい思い出とともに、すがすがしい気分を運んでくれた。

2月10日(火)
「アルテリア・シネマ」で映画、『そこのみにて光輝く』を見た。アンコール上映ということ以外は何の情報もないままに選んだ映画だったが、映画館で配られている新聞により、毎日映画コンクールで日本映画優秀賞を受けた映画だと分った。呉美保監督が監督賞を、主演男優の綾野剛が主演男優賞を、主演女優の池脇千鶴が女優助演賞を受けていた。賞を総なめという感じだが、それは別にして、久しぶりに、高い文芸作品に出会った。パンフには、「採石場で起きた後輩の事故死から立ち直れない男と、家族を支えるために身体を売る女。函館を舞台に、寄る辺ない男女の運命の出会いを描く。『海炭市叙景』の映画化で再発見された作家、佐藤泰志の唯一の長編小説をもとに、再び函館で製作された苛烈な恋愛劇。」とある。どなたかが「底辺のリアリティ」という言葉を使われていた。確かに普通の日常を送っている者には、このリアリテイは無縁のように思えるが、映像を通して描かれる人間の根源にある優しさ(この言葉をあまり使いたくないが、適当な表現がないので)と弱さは、息もつけないほど画面に惹きつけられ、感動を与えてもらった。寒い日が続き、鬱々と家で過ごしていたが、一気に鬱が消えていった。原作も読んでみたいと思った。

画像は、映画『そこのみにて光輝く』の一場面、毎日新聞特集号から撮った。



立春

2015-02-04 14:08:48 | 日記
February 4, 2014

穏かな春の日差しが感じられる日だ。昨日までの寒さが信じられないほどだが、明日はまた雪の予報が出ている。こんな風にして春が近づいてくるのがうれしい。ブログの更新が遅れてしまった。やはり私は家にじっとしていると、ブログを書く話題さえ浮かんでこない。さて今日は色々たまっていた用事を片付けるために出かけた。まず図書館へ。本を返却し、届いていた本、須賀しのぶ『紺碧の果てを見よ』(新潮社)と、テリー・ヘイズ『ピルグリム』1(早川書房)を借りる。図書館の臨時の休館日が入るので、3週間借りれるとのこと、少しほっとする。

しばらく買い物に出なかったので、野菜類が底をついている。文鳥のための青梗菜も必要だが、自分のためにホウレンソウを買う。本のために背負ってきたリュックに詰められるだけ詰め、重くなった手荷物を下げて、今日はバスで帰る。白髪のわが姿は人にはどう映るかは別にして、自分では老人だという気持ではいない。しかしバスを待っている人たちを見ても、歩いている人を見ても、私と同様の老人ばかりだ。ちょうど昼時なので、早朝に病院に出かけて帰るであろう人の姿も多い。これからこういった風景はますます増えていくだろう。現政権は、「少子高齢化」の日本の現実から目をそむけて、中東地域を孤立化させてはいけない、などと叫んでいるが、国内にこそ置き去りにされている人々がいることを忘れるな、と言いたい。

話変わって、キーボードで練習していた「メト―ドローズ・ピアノ教則本」の最後までたどり着いた。これは「バイエルピアノ教則本」と同程度だということなので、バイエルの最後の104番を試しに弾いてみると、何とか弾けた。ところがである。以前買ってあったバイエルの50番から最後までの演奏が入っているCDを探しだして聞くと、自分が弾いているのと全く違う、つまり速度やリズムが違うのだ。これが独習の恐いところだ。専門家のような音色にならなくても、速度とリズムはCDの演奏にちかづけるようにするという課題が出来たら、少しマンネリ化していたキーボードがまた楽しくなった。置き忘れられた老人、でも一人一人が何かに挑戦したり楽しんだりできる社会でありたい。

画像は、今年最後の「ミニ・シクラメン」。毎年越年に失敗するので、今年はぜひ来年も咲かせたい。