February 26, 2015
明日は、眼科の予約が入っている。なかなか白内障の手術後から解放されない。眼鏡が出来て遠くを見るのには支障なくなったが、近くが、霞がかかっているようで、見えづらい。眼圧が高いのか、眼薬をつけていてもまだ炎症が残っているのか、素人考えをしていてもらちがあかないが、信頼していた眼科医にも、疑念がわいたりする。朝日新聞の「患者を生きる」という連載欄の記事が頭をよぎる。必ず目を通すコーナーだが、病気とは縁のない人生をおくって来て、半ば他人ごとのようであった内容が、現j実味を帯びてきた。患者の不安な心、信頼できる医師との出会いなど、今後の私の生活に欠かせない事柄だろう。
生れたときから「朝日新聞」と言ったら笑われるだろうが、いろいろあっても、この新聞の購読を変えることはない。論説を書いている人物がテレビに顔を出すようになってから政権寄りのような発言をしたりするのは腹立たしいが、そうはいっても朝日新聞の記事を信頼したい。毎月最終木曜日のオピニオン欄は、貧弱な私の政治感覚のよりどころにしている紙面だ。「論壇時評」は作家の高橋源一郎氏が書き、「あすを探る」は、何人かの論説委員が交替で書く。そのほかに担当者が選ぶ「注目の論点」、「論壇委員会から」というコーナと、論壇委員が選ぶ「今月の3点」がある。これらの記事を参考にして自分の意見を語れればいいのだが、なかなか難しい。で、この紙面からいくつか印象に残った言葉を引用させていただくことにする。高橋源一郎氏は、人質問題について、「イスラム国」を「狂信的集団」と糾弾する声に対して、1762年3月、宗教的狂信が起こした事件で、ひとりの新教徒が冤罪で処刑さえたのを知ってヴォルテールが書いた、『寛容論』の中の言葉を引用して、250年経った今も、彼の祈りの言葉はかなえられていない、と結んでいる。次に引用させていただく。
「我々の虚弱な肉体を包む衣服、どれをとっても完全ではない我々の慣習、それぞれ不備な我々の法律、それぞれがばかげている我々の見解、われわれの眼には違いがあるように思えても、あなたの目から見れば何ら変わるところない、われわれ各人の状態、それらのあいだにあるささやかな相違が、また『人間』と呼ばれる微少な存在に区別をつけているこうした一切のささやかな微妙な差が、憎悪と迫害の口火にならぬようお計らいください」(ヴォルテール『寛容論』、朝日新聞2015年2月26日)
「あすを探る」では、中東研究者の酒井啓子さんが、「命の値段」について書かれている。その一部を引用させていただく。
命の値段に違いがある。テロリストが外国人を惨たらしい姿で殺害するのは、その命が「高い」とわかっているからだ。ISに乗っ取られたシリアとイラクで、殺されているのは外国人ではなく、専らイスラーム教徒だ。2011年の内戦以来、シリアでの死者は18万人を超え、イラクではIS侵攻以来、毎日100人弱が亡くなっている。
だが、それでは世界は動かない。日本人のだれが、毎日数百人の中東での犠牲者に追悼記事を書くだろうか。今回の人質殺害事件で、イラクのアラビア語紙が紙面半分を割いて、日本人の死を悼む論を掲載したというのに。(朝日新聞、2015年2月26日)
私だけではないだろうが、小さい窓からしか世界を覗くことが出来ないものにとって、こういう記事は当然なこととはいえ、やはり世界で起こる出来事に対する自分の見方への大きな刺激になる。さらにこのページの紙面について書こう。「注目の論点」では、『21世紀の資本』が選ばれている。「本書の力はなによりも実証の力だ、理論がどうあれ、データはこうなっています、といえるところに本書のパワーがある」という評価があった。又「しっかりと情報を判断したうえで行動を起こせる市民を生み出すのに役立つ本だ」という著者自身の言葉も取り上げられていた。「格差社会」は実感していても、本書については、難しくて立ち入れないが、ふと最近の国会討論の空しさに想いが及んだ。安倍首相が国会答弁で語る言葉の虚しさだ。いったいあなたはどんなんデータを積み上げて、日本のいまや未来を論じているのですかと問いたい。
引用文の多いブログになったが、朝日新聞の今日のこのページで語られている記事に啓発され、また共感している。
画像は、道端で撮った「パンジー」。