私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

猫と暮らした日々

2014-05-30 16:07:34 | 日記
May 30, 2014

ハルノ宵子『それでも猫は出かけていく』(幻冬舎)を読んだ。著者は、漫画家で、哲学者・吉本隆明氏の長女だ。猫が好きというだけではなく、吉本家の話も読みたくて、新聞の広告でを見てすぐ図書館に予約した。こういった本は読み手が少ないのか、すぐに手元に届いた。排便排尿が困難な白い猫が吉本家に飼われるようになってから8年間の家族模様、猫模様を記した、猫を飼ったことがある人に気持ちが伝わる本だ。また、難解ではあるが先進的な哲学を語り、叙情的な詩を残し、市井の庶民としての一生を貫いた吉本隆明の人物像も垣間見ることが出来る。

本書を読みながら、そうだった、私も、人間のパートナーはいなかったが、飼い猫のメリーと20年間暮らした歴史があるのだと、改めて思い及んだ。たまたま友人宅で飼い始めたチンチラの子猫をみてどうして欲しくなり、後先考えずに、同じブリーダーから譲ってもらった。吉本家の猫たちのようなどこかにけがを負っている、前身は「のらちゃん」たちと違うのは少し残念だが、母がよく、「メリーちゃんほどかわいい猫はいない」と言ってくれたことで、よしとしよう。本当にきれいな猫だった。洋猫によくあるように、けして膝に乗ってくるといったことはなく、また最晩年になるまで、鳴き声もほとんどださなかった。ただこの猫のために、すりガラスの上の方の透き通ったところか外を覗けるようにと、特別な花台を「東急ハンズ」で見つけてきたり、中部地方に住む両親のもとに猫を連れていくために車の運転を習ったり、もしメリーがいなかったら別な生活をしていたのではないかと思う。また、母たちが一緒に暮らす姉の家にはすでに猫がいたので、隣の妹の家に世話になった。先のことを考えずに行動に移してしまう私をやさしく見守ってくれて、皆さんありがとう。

独り暮らしをし始めてから、最初の数年間は一人だったが、メリーを飼うことになり、メーリーが旅立った後、今は文鳥と金魚を飼っている。ペットと言ってしまえばそれまでだが、彼等とも10年以上一緒に生活している。この頃文鳥が少し弱くなったような気がするので、ネットで調べてみたら、だいたい8年が寿命だという。なんとか元気で1年でも長く生きてほしい。昨日姉から電話があり、関東地方と中部地方に暮らす姉妹が、元気な間に、真ん中あたりの場所で会って、両親の思い出話などをしましょうかと提案してきた。個人の思いにばかり浸っていないで、せっかく姉妹がいるのだから、集まって思い出話をするのはとてもいいことだと思い、すぐに賛成した。楽しみが増えたような気分でいる。

画像は、以前油絵を習っていたときに描いたメリー(サムホール)。油絵を描くことはもうない。絵具も道具も人にあげてしまった。メリーと同様、思い出の中のものだ。以前ブログに載せたかもしれない。

百貨店

2014-05-23 22:57:55 | 日記
May 23, 2014

今週は、新宿とたまプラーザで、別の友人とあっておしゃべりを楽しんだ。新宿では、京王百貨店の上階にある「資生堂」で、「喜寿」のお祝いとかいわれて、ご馳走になった。私より少しだけ年上の方で、なんだか申し訳ない気持だったが、お言葉に甘えさせていただいた。なかなか落ち着いた場所で、お料理もおいしかった。この方は、点訳を通して得た友人なので、知り合いになってまだ日は浅いのだが、私のわがままを受けてくださるので、お話も楽しく、この日を忘れないように、思い出の1ページに加えさせていただいた。

新宿西口には、この京王百貨店と小田急百貨店が隣りあってあるが、同じ百貨店でも少し趣が異なるのが面白い。小田急には私が、贈り物の時に利用する「洋菓子舗ウエスト」は入っていない。また今日ご馳走になった「資生堂」もない。その代わりに地下の食料品店は品ぞろえが豊富だ。私の感じでは、小田急の方がどちらかといえば庶民的な感じがして、自分にあっているように思っている。また、小田急線を利用していることもあって、「ウエスト」に行く以外は、京王へはほとんど行かなかった。最近になて京王にも足を運ぶようになってみると、私がよくパウンドケーキの材料を買う「富沢商店」も上階にあることが分り、便利をしている。私は自分の感じたままに行動しているので深い事情は知らないが、たぶん百貨店の成り立ちがそもそも違うのだろう。「私は京王百貨店しか利用いたしません」なんて言う人もいるかもしれない。

1日おいて、今日はたまプラーザで、よく本を貸していただく友人と会った。今回は、河出書房新社から出ている雑誌「文藝」別冊の「村岡花子」をお借りした。今NHKテレビで話題になっている方だ。村岡花子さんがいろいろな方と対談しているものを集めてあるようだ。面白く読めると思う。実は、私は今、小倉千加子『「赤毛のアン」の秘密』(岩波現代文庫)を読みかけている。本書は2004年に岩波書店から出版された単行本が、今年3月に文庫本化されたものだ。本屋で単行本の際の「あとがき」を立ち読みして、ぜひ読んでみたいと思って購入した。次にその「あとがき」の一部を引用させていただく。

・・・私は(教員として)女子学生から「人生最大の関心事は結婚」という言葉を飽きるほど聞かされる日々を送ってきた。同時に、昔『赤毛のアン』に夢中であって、今も「ギルバートのような男性を探している」という言葉を、大人であり、私から見ても知的であると疑いようのない友人たちから、これも想像以上に数多く聞かされ、遅ればせながら密かに『赤毛のアン』に興味を抱くようになった。『赤毛のアン』は通俗的な物語である。しかし、その通俗性の裏に隠されたアンという少女の心性が分らなければ、学生や友人たち、ひいては戦後の日本人女性の心性は解明できないと結論するに至るようになった。(小倉千加子『「赤毛のアン」の秘密』岩波書店)

こうして書き出してみると、理屈をこねるのが好きな私好みの文章だと思い苦笑してしまったが、まあそういうわけで、少し厚い本なので、ゆっくり読んで機会があればまたブログで触れたいと思う。私はもうテレビのドラマは見ていない。

話変わって、最近は手放せなくなった「ガラ携」を買い替えた。ずいぶん古くなっていたために少し不都合が生じ、ショップに持っていって、結局買い替えることにした。といっても代金は20ヵ月に割りふって毎月の携帯料金の中に組み込まれて引き落とされるから、当面は一銭も払わずに新しいものを手にすることが出来る。まあ私の場合は月に+千円ほどなのでそれほどの負担ではないが、こうして一見無料のような形でさまざまな商品が手渡されていくのが現代という社会なのだろう。

画像は、友人のメールから、「クレマチス」。クレマチスにはいろいろな種類があるようだ。頭に描いている「クレマチス」とはずいぶん違うが、小さくて可愛いい。

ある歌集

2014-05-20 08:11:26 | 日記
May 20, 2014

ブログの更新が遅れてしまった。よく考えてみると、忙しい時ほど日常は平凡だということだ。私のブログは、我が日常を記すつもりで始めたが、何かちょとしたエピソードをとらえて書いてきた。更新しないということは、変わりばえのしない日常の雑事が忙しくて心に余裕がなくなり、気分転換が出来なくなっているということだろう。それでもあえて恥ずかしいことを白状すれば、2,3日前銀行でお金をカードでおろして、お金を取るのを忘れて、美容院で払う時に取り忘れに気付いたということがあった。銀行に戻って聞いてみたら、そういう場合は通帳に戻っているから確認してくださいとのこと、たしかにおろした金額がもどっていた。通帳は持参していなかったが、カードと一緒に戻ってくる紙切れが役に立った。この小さな紙が必要かどうか答えるテロップが出て、いつもは「いいえ」にするのに、今回は何故か「はい」にしていた。美容院の隣が銀行だということでことなきを得たが、またもや「おばあさん」の世界を演出してしまった。

やっと、大西民子・歌集『印度の果実』(短歌新聞社)に目を通すことが出来た。小さな小冊子の後ろにある「略年譜」によると、1924-1998年とある。男児を早産で亡くされたり、夫との離婚など、生活の中での波乱はあったようだが、歌人として活躍、また長く教壇にも立っている。歌集も沢山出されていて、私は、友人の推薦もあった、夫との生活の破たんをモチーフにして反響をよんだという『まぼろしの椅子』を今読みたいと思っている。歌集の名前『印度の果実』については、「あとがきで」で、師と仰ぐ木俣修氏の急逝の一年後に出した歌集で、「せめてかぐわしい南国の果実の名を被せて、先生のご霊前に献じたいと思います。」と書かれている。私の全く個人的な感情も含めて、いくつか次に引用させていただく。

          
     語るべき人もあらねばセーターを重ねて梅雨の夜を起きゐる
     
     山茶花の散りしくあたり用のなき鶏のごとく歩めリわれは
     
     そのままを告げよとならば声あげてきゅんと泣きたき思ひと言はむ
     
     うつむきて印度の果実むきをればやいばはつねにわが胸に向く
     
     煮えくり返る思ひなりしが一夜明けてひらぎてゐるわれに愕く
                   (大西民子『印度の果実』短歌新聞社)


画像は、「センテッドゼラニウム」。何回も載せているが、小さな鉢にこぼれんばかりに花が咲き誇っているので、ついデジカメでパチリ。

自分にふさわしい生き方

2014-05-13 20:32:16 | 日記
May 13, 2013

久しぶりに重厚なミステリを読んだ。フェルディナンド・フォン・シーラッハ『コリーニ事件』(東京創元社)。友人のブログで紹介されていて、すぐに図書館に予約した本だ。エピグラフにあるへミングウェイの『キリマンジャロの雪』の冒頭の一節、「われわれは自分にふさわしい生き方をするようにできているのだ。」という言葉をみて、読み応えのある本だと予感はしていた。著者のシ―ラッハは、ナチ党全国青少年最高指導者の孫で、長くベルリンで刑事事件弁護士として活躍した人物だという。1964年生まれだから、まだ50代の作家だ。自分がこういった人物の孫だということを知らずに、12歳まで祖父の寵愛を受けて育った。ドイツには、ヒトラーの暗殺を試みて処刑されたり、ナチ党の幹部で戦後罰せられた人物の孫が同じ学びやで過ごしたことが「訳者のあとがき」で触れられている。すぐにレッテルを張るような日本とは違う点を感じた。「自分にふさわしく生きる」は、こういった現実を踏まえての言葉として紹介されたのだろう。この本のテーマとなっている。

この作品には人間が持つ裏表の顔が、冷静な目で語られている。法治国家の中で裁かれなければならない事実と、その奥に存在する真実を追求した作品、著者の背負った家族の歴史と長く法曹界に携わってきた経験があってこそ描くことが出来たのだと思う。友人はさらに同じ著者の『犯罪』についてもブログで紹介している。これも図書館に予約した。なかなか独りでは本探しはできないが、こうして紹介された本を安心して読める友人がいるのがうれしい。昨日のブログで触れたように、読書会が再開されたので、また自分では探せない本が読めるのが楽しみだ。

画像は、妹のメールから「あけび」。花が小さいのでお皿に載せて撮ったそうだ。実と同様、この何ともいえない自然の中のむらさきの色が好きだ。

五月晴れの中で

2014-05-10 13:59:33 | 日記
May 10, 2014

5月9日(金)
出来上がった点訳を点字印刷機で打ちだすために、事務所に出かける。朝から弁当もちで出かけ、帰宅したのは5時近かった。点訳は何とか人並みにできるようになったが、点訳データをそろえてひもでくくったりする作業は、もう無理だと実感する。指先の腹の部分の力がなくなってきているので、細かい作業が難しい。なるほど、これが歳相応ということかと、元気がなくなった。それはさておき、往復の電車を使って、読みかけていた乙川優三郎『生きる(文春文庫)を読み終える。表題のほかに『安穂河原』『早梅記』を含めた3篇の中編集で、直木賞を受賞している。

私は、朝日新聞に連載された小説『麗しき花実』で乙川ファンになったので、その前の作品はほとんど読んでいない。今回この3つの中編を読んで、作家になろうとし始めた人の初々しさと、また、昨年の大佛次郎賞を受賞した現代小説『脊梁山脈』へ続いて行く道筋が約束されているような感じを持った。主君の死に殉死で応えるという時代背景の中での、人の本当の強さとは、あるいは弱さとは何かを問うている作品だ。避けていた武家物語の関連で、藤沢周平の作品もいくつか読んでみたが、読後に心に残る作品として、乙川の作品の方を取りたい。年齢的な近さにもよると思うが。

5月11日(日)
予定していた岩波ホールでの映画『ワレサ』を、友人とみた。ポ-オランドの独立自主管理労組「連帯」の闘いを、初代委員長ワレサと彼の家族の日々を通して描いた映画だ。当時撮影された記録映画が組み込まれていて、なかなかの迫力だった。監督は、『地下水道』、『灰とダイヤモンド』など、私も若い頃に何度も見てさまざまな場面が目に焼き付いている、第2次世界大戦におけるポーランドの苦難の歴史を描いた、アンジェイ・ワイダだ。パンフレットには、「1970年から1980年代のポーランドをはじめとする東ヨーロッパの国々は、ソ連邦の傘下、検閲や思想統制など社会的に束縛され、きわめて厳しい状況の中にあった。その体制に対して、人々が自由のために闘い、未来のために議論し、力を合わせて抗したことを、ワイダ監督は映画に記して、のちの世代に残そうとした。」とある。おりしも日本は、何かきな臭い方向に政治が進もうとしている。集団的自衛権の行使が容認された時に、まず矢面に立たされる若者たちが、もっと政治に関心を持ち、また熱く語ってもらいたい。今東ヨーロッパの国々は、平和を取り戻してはいるが、戦争の火種は世界中に転がっている。いつ日本の若者たちが駆り出されるやもしれない危ない法律が成立されたりしていく現状を、関係ないと見過ごしていかないでほしい。久しぶりで「闘う」という言葉の意味が具体化される映像に引き込まれた。

岩波ホールのある神保町のタイ料理の店で野菜の沢山はいったタイ麺を食べて、地下鉄三田線で一本で行ける友人の家にお邪魔させていただき、いつものことながら、まったくくつろいでしまった。読書会でご一緒だった友人なので、本の話から何とはなしに読書会に話が及び、やめてしまった「読書会」を復活させようかといった話になった。やめる時は手づまりになったように感じていたが、読書会を続けた40年の歴史は、戻る道筋もつけてくれるのかもしれない。私はやめると言った張本人なので少し恥ずかしいが、今、蜷川幸雄の演出で舞台で上演されているカズオ・イシグロ『私を離さないで』(早川書房)も、読書会でどなたかが選んでくださったから手にした本である。私はこの本にとても感銘を受けた。メンバーの4人で電話で話あって、7月から再出発することに決定した。今は少しわくわくしている。

画像は、「アネモネ」。一昨年植えた球根で、今年もたくさん花が咲いたのに、残り花になってしまった。

人との縁

2014-05-07 17:10:15 | 日記
May 6, 2014

初夏の陽気がそうさせるのか、今日は朝から気分がいい。まず部屋の片づけをする。一番嫌いな床のぞうきんがけも念入りにやり、金魚の水槽を掃除する。ここで一休みしないで、次に進む。休むと次のことに取りかかるのに時間がかかる。まあいつもそうというわけではないが、今日は続けられそうだった。昨日から冷蔵庫に買い置いてあるゴーヤを使ってチャンプルを作る。これは必ず小林かつ代さんの『野菜をたくさんつかったおかず』(家の光協会)をみて作る。小林かつ代さんは先日長患いの後亡くなられた。でもこうして私のようにあなたの料理本は生かされていますよ、と心の中で声をかける。さらに、数日前につくったマーマレードの余分になったつゆに、水分が少なすぎたまま瓶詰めしてあったマーマレードを合わせて、作り直した。小ビンで8個ほどできた。熱湯消毒などに手間がかかる。こんなことがいつまでできるのかと、ふと頭をよぎるが、面倒なことは考えない、どんどんやる。すべてが終わってまだ10:00、このことが何よりもうれしい。ここ数日手づくりのストック料理をしたために、調味料がなくなってしまった。醤油、みりん、酢、砂糖など、どれも重いものばかり、これらを買ってどうやって家まで運ぶか、リュックにするか、カートを使うか・・・、もうやめてしまった「生協」が恋しい。

ここで友人から電話が入り、わが家のそばを用事で通られるとのことだったので、ここぞとばかりに寄っていただいて、強引にあり合わせの「マルちゃん正麺冷やし中華」をつきあっていただく。独りの食事は淋しいが、簡単なランチでも友人と一緒に食べるとおいしい。友人を送りがてら郵便受けを覗くと、別の友人からバルテュス展の絵葉書が届いていた。この展覧会には行かなければと思いながら、まずは手元に残っている点訳を片付けよう。すでに打ち終わっている点訳の問題点を、知人に電話して教えていただく。いつもこのブログで書いているが、点訳の世界の人間関係は難しい。でも本当に頼れる知人も、一人、二人できた。その中の一人の方だ。私よりはだいぶ点訳の先輩ではあるが、この方とのお付き合いも3年余になる。親しい友人にぶつぶつと愚痴を言いながらも、こうして頼れる方もできている自分の調子の良さに、苦笑しつつ、これから独りで続いて行く老後の生活に勇気が出てきたりする。

やっとパソコンを開き、まず友人のブログを覗くと、ご夫婦で、息子さんを誘ってレストランでお食事をした後、横浜の海岸まで散歩されたとのこと、おいしそうなお料理が紹介されていた。私のようなちまちました日常の中で暮らしていると、ふっとうらやましくもなる。この友人は、私にとっては、歳は遥かに若い方だが、精神生活でいつも私の導きの人である。彼女の読んだ本を読み、観た映画を追いかけ、どこかでつながっていく糸を感じている。今日のブログに、すでに3人の友人が登場した。まだ何人か心を許せる友達がいる。また姉妹もいる。長い年月の間に作り上げた友情、自分と縁のある人を見抜く力、たぶんそんなものがこれからの自分の生活の支えになるのではないかと思う。

画像は、ランチをご一緒してくださった友人のメールから、「ジャーマンアイリス」。

思い出のシベリウス

2014-05-05 11:51:26 | 日記
May 5, 2014

50代の終り頃よくヴァイオリン協奏曲を聴いていた。ベートーベン、メンデルスゾーン、モーツアルト、ブラームスなどなど、その中でシベリウスの協奏曲ニ短調は一番好きだった。昨日、NHKテレビのクラシック音楽館をつけていると、この曲が流れてきた。ワン・シジョンのバイオリンもよかったが、ふっとあの頃の気持ちがよみがえり、いつもならば「ながら」で見ているテレビの音を大きくして、聴きいってしまった。今朝になって、CDを探したがない。プレーヤーがないので聴けないが、思い出つながりで、引っ越しの時に束ねて押入れにしまったままのレコードを取り出してみた。しかし見当たらない。多分感激のあまり、あの頃開いていた英語教室の生徒さんの誰かにあげたのだろう。もちろんそれでいい。しかし今の自分の生活を振り返ると、若い頃(?)はずいぶん精神的に余裕があったのだと、改めて思う。また現在の、何かに追われているような日常を反省もした。不思議なもので、バックミュージックが全く気にならない、あるいはそれがなくては淋しいと思う時と、集中力が落ちてしまう時がある。面倒な点訳をやっていると、音楽さえ耳触りになったりする。こんなことではいけないと、シベリウスを頭に響かせながら、思いいたった。

仕上げなければならない点訳を抱えてはいるが、今日はそれは忘れよう。今手元にたくさん本が集まってきている。ほとんどが図書館の本なので、どんどん読まないといけない。乙川優三郎『生きる』(文春文庫)、大西民子『印度の果実』(短歌新聞社)、チャールズ・カミング『甦ったスパイ』(ハヤカワ文庫)、フェルディナンド・フォン・シ―ラッハ『コリーニ事件』(東京創元社)など。シベリウスはなかったが、ハイフェッツが演奏するヴァイオリン曲を集めたCDを聞きながら読書三昧の1日にしよう。曲はサラサーテ「ツィゴイネルワイゼン」、サン・サーンス「ハバネラ作品83」、「序奏とロンド・カプリチオーソ作品28」、ショ―ソン『詩曲作品25』、ベートーベン「ロマンス」、ブラームス「ハンガリー舞曲」、ワックスマン「カルメン幻想曲」。なぜ曲を羅列したかというと、こんなにいい曲ばかりが入っているCDなんだと今さらに驚いたので、記憶する意味で書いてみた。特に音楽に造詣が深いわけではないと、こんな風に聞き流していて、曲目をしっかり意識したりしない。そんな中でシベリウスは、私にとってなぜか記憶に残る曲だったのだろう。

画像は、「マーガレット」。駅に行く道沿いのお宅の玄関わきの小さな庭園の季節の花々に、つも楽しませてもらっている。今はこの花が満開だ。花屋さんの店先に同じ花があったので、思わず買い求めてしまった。私の悪い無駄遣い癖です。




詩人たち

2014-05-02 16:01:22 | 日記
May 2, 2014

ねじめ正一『荒地の恋』(文春文庫)を読み終えた。2007年単行本として出版され、今回文庫本化されたものだ。最近こういった本が多い。私は、手軽に手に取ることができて、助かっている。本書は、詩誌『荒地』の同人だった詩人たちが実名で登場する。田村隆一の夫人と、家庭人であった北村太郎が53歳で恋に落ち、そこから始まる生活が、時代背景の中で語られていく。作者は、同じく詩人であり、荒地の詩人たちを詳しく取材して書きあげたもののようだ。しかし、実名の物語が果たして成功しているかというと、疑問に思う。私は、吉本隆明だけは別格で、少し上の世代で時代背景が違うためか、「荒地」の詩人たちの作品はあまり読んでいない。大きなくくりで考えると10数年は同時代と言えるとしても、戦後の2,3年はだいぶ違う。そういった背景の中で生活した詩人たちの、作品ではなく生活を描いてしまうと、何か詩作品が個人のものに属してしまって、読み手の心に響かないのではないかという感想だ。

私は、短歌を含めた詩を読むのは好きだ。文学作品に感動するのは、時代を超えた共通するものに惹かれるからだろう。今回、北村太郎、田村隆一、鮎川信夫の作品のいくつか読んでみたが、共感を覚えなかった。多分私の文学的感性が不足しているのだろう。しかし、万葉集の名もない人の歌がなぜ今も読み続けられるのかということに思いをいたらせたりもした。詩の話のついでに、何度もブログで書かせてもらった石垣りん『詩の中の風景』を開いてみた。この本に登場する詩は、どの詩も素晴らしくて、何度も読み返し、またここに載った作家の詩集をもっと深く読んだりもした。本書は、石垣りんさんが好きな詩を取り上げて短く解説したものだ。この中に「荒地」の詩人は、中桐雅夫一人だけだった。今私が感じた感想と相通じるところかもしれない。本書の中から、八木重吉の無題の詩を次に引用させていただく。
             
              八木重吉
あるときは
うたをつくるのさえ悪であるとおもふ
こんな詩などつくらなければ
ほんとに私のせけん的のよくぼうはなくなる
そうしたら一挙にわたしのこころはきれいになつ
 てしまうかもしれぬ
だがまたかんがへえてみれば
たつたひとつのてすさびでありほこりである
かなしみでありよろこびである
詩をつくることをやめてしまふなら
あまりにすきだらけのうつろすぎるわたしのせか
 いだもの
ここにこうして不覚の子は
歯をくひしばって泣くまいとしてうたをうたふ
     石垣りん『詩の中の風景』(婦人之友社)より

八木重吉はキリスト教徒である。私は宗教には全く関係がない人だが、八木重吉の歌には惹かれる。『わがよろこびの頌歌はきえず』(いのちのことば社)は、信仰は別にして、今でもたまに開いて読む。

画像は、ベランダの「つるバラ」。今年は薔薇がよく咲いている。肥料を変えたからかもしれない。