私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

パーマをかける

2021-06-23 11:03:00 | 日記

June 23, 2021

                                  

髪のスタイルは、いつもショートで決めている。長く利用している近くの美容室、パーマが3,300円、カットだけだと650円という安さだ。リーゾナブルを通り越した値段だが、この美容室を利用してから長い。その代わり、いわゆる女性の心をそそるようなおしゃれな備えは何一つない。ひとそれぞれではあるが、美容師さんとのおしゃべりもないし、私にはまたとない場所だ。多分店主の考え方なのだろう。結構流行っていて、長時間待たされることが多い。同じ場所に長く暮らしていると、なじみのお店もできる。しかし私は、どのお店の方とも長話をしたことは1度もない。いわゆるフレンドリーな性格ではないのだろう。私が今まで一人暮らしをしてきた遠因のようなものが、このあたりにあるのかもしれない。

寄る年波で、そんなことを考えたりする日々だが、暇でもない。締め切りがないとはいえ、預かっている点訳をいつまでも手元に置いておくわけにはいかず、朝からパソコンに向かった。以前はすべて記憶の中にあったちょっと複雑な点訳が突然わからなくなり、前にやったファイルを調べたりする回数が増えて、いままでの倍の時間を要している。同年代の点訳仲間と話すと、同じような言葉が返ってきて、安心する。ここが我慢のしどころで、自分にできる範囲の中でという決まり文句を頭の中で唱えている。

夕方、最近読んで面白かった本、デイーリア・オーエン『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)と『日本の名句・名歌を読み返す』(いそっぷ社)を妹に郵送した。これらの本については、いずれブログで触れたい。この2冊はネットで頼んだのだが、どういうわけか2冊来てしまった。私の打ちミスだが、返品するのも面倒なので、妹へのプレゼントにした。梅雨特有の空が低く垂れこめているうっとうしい毎日、こんな時は読書に限ると思うのだが、どうだろう。


新しい食生活

2021-06-18 14:17:26 | 日記

June 17, 2021

あまり過去を振り返るのが好きではなく、自分のブログも、読み返すということはしなかった。今回ブログを再開する際に、何年か前に1度遠ざかっていたブログの場所で続きを書くことにしたので、何とはなしに過去のブログが目に入ったりする。中止した最後の回の2007年3月のブログでは、「私の1票」というタイトルで、結構踏み込んだ政治的発言をしているのには驚いた。あの頃から時は過ぎて、私は今老境にいる。頭脳から始まり、身体的な衰えはいかんともしがたく、何かに対して戦うエネルギーがない。しかし、身辺を考えると、発言していかなければならないことは多い。まず、コロナ禍の中のワクチン接種、国家が進めている事業でありながら生じている不公平状況について、言いたいことはたくさんある。メディアに振り回されているようで、腹立たしくもある。買い物帰りのバスを待つベンチで聞こえてくる、「もうワクチンは打たれましたか」が、今の市井の人々のあいさつのようだ。そうは言いながら、私は、26日にワクチンの再予約の申し込みをするつもりでいる。何回も試みた後の結果だが、その日を待つことにしよう。ワクチンなんかもうどうでもいいという思いもあるのだが。

話変わって、タイトルの食生活について、触れてみたい。記憶はあいまいだが、昨日テレビに、ヴィーガン料理の資格を持つというご夫婦が、登場していた。初めて聞く言葉だが、世間には知れ渡っている料理法のようだ。私の今直面している問題の答えがあるように思えて、見入ってしまった。興味を覚えたので、ネットで少し調べてみた。ヴィーガン主義とは、「人間ができる限り動物を搾取することなく生きるべきだという主義」だという。あまり堅苦しく考えたくはないが、野菜中心の食生活を心がけてみようと思い立った。で、冷蔵庫を片付けるのに2時間ほどかかってしまった。いかにだらしのない生活を続けてきたのかと、我ながらいやになっている。それでも前に進むにはきっかけが必要だ。冷蔵庫の中がすっきりしたところで、ヴィーガンまがいの生活をスタートさせよう。テレビに出ていたご夫婦のような美しい体形になることを願って。


ラジオ・深夜便

2021-06-15 18:26:28 | 日記

June 15, 2021

眠れぬままに、ラジオ深夜便を聞き、いつのまにか寝るというというのが、私の1日の終わりだ。昨夜は、今朝になるかもしれないが、カズオ・イシグロの作品の訳者である、土屋正雄氏が登場していた。途中で眠ってしまったようで、記憶があいまいで申し訳ないが、お話は興味深かった。私たちは、土屋氏の訳でカズオ・イシグロの作品を読んでいるのだから、当然、そこには土屋氏が存在している。しかしあまりそういうことは考えたことがなかった。改めて土屋氏の語ることばを聞くと、翻訳者の姿が見えてきた。海外の作品を読むことが多いので、これからは、翻訳者を頭に入れておきたいと思った。

私が年をとれば、友人も年を取る。「人の振り見て我が振り直せ」ではないが、いろいろと考えさせられることの多い日常だ。私の当面の問題は、記憶力の劣化だ。それもそのスピードの速さには、我ながら恐怖さえ感じる。特に一人暮らしで、近くに親族がいないので、なかなか緊張を強いられる日々だ。最近は目に見えるところに、忘れてはいけないことを書いて張り付けている。小さな黒板もあるのだが、どうもそれでは足りないようになってきている。困ったものだ。

ブログを再開しての発見は、記憶が持続しないので、何か書きたいことが思い浮かんだら、すぐにパソコンに書き込むという早業だ。まあ見直したり、書き直したりできる範囲の中でのことだが、どこまで続けられるだろうかと、足を踏み入れたばかりで、心細いことばかりが頭をよぎる。月並みな言葉だが、まあ頑張ろう。


宇佐美りん『推し、燃ゆ』

2021-06-13 16:19:12 | 日記

 June  13, 2021 

何年かぶりに、自分のブログを開いた。今から見れば、若い私がいる。過去は過去として、老いた私の日常を、改めて書いてみたいという気持になった。人それぞれだろうが、私は79歳ごろから、急に年老いた、つまり老境に入ったということを実感し始めた。世の中は、様々な形で姿を変える。コロナ禍があったり、オリンピックが近いと騒がしかったりと。しかし、すべてが新聞やテレビなどのメディアを通してのことである。今の私の日常は、70歳から始めた点訳と、やっと面白さが分かってきた読書に費やされている。点訳についても、この10年余、ずいぶんいろいろな分野を経験した。今は、辞典を点訳するグループに属し、研究社の『オーレックス英和辞典』を点訳している。点訳は、ほとんどが、ボランティアで成り立っている。偶然足を踏み入れた世界だが、知ってみると奥が深い。40代、50代から携わっている方がほとんどで、私は教わることばかりだが、パソコンを使うので、結構楽しくやっている。

ブログを再開したいと思ったのは、宇佐美りん『推し燃ゆ』を読み終えたからだ。今年の芥川賞受賞作だ。最近の私の読書は、図書館から借りてくるミステリーや、本屋大賞関係のものがほとんどだ。最近読み終えた、 デイーリア・オーエンス『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)は、面白かった。翻訳部門の本屋大賞第1位だそうだが、納得できる。最近は、賞が付く本に目がいってしまう。

『推し、燃ゆ』に戻ろう。私はあまり文学的な解釈はできないのだが、格調が高い本だと思った。また、今を生きる人々にとって、何か心が通じるものがあるのではないかとも思う。私は、作者の年齢とあまりにも離れているので、最初は戸惑ったりした。しかし、すぐに引き込まれた。すべての人を包み込む文学の力がここにあると感じた。