私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

深まる秋の日々

2013-09-29 20:09:22 | 日記
September 29, 2013

テレビに雑音が入るようになった。おもにニュースを見るぐらいなので少々の雑音を我慢して見ていると、わが家の文鳥が騒ぎだす。この文鳥、ずいぶん長生きだ。つがいの文鳥から生まれて、親はとっくに死んでしまったのに、環境がいいのかそろそろ10歳になる。文鳥がどのくらいの平均寿命なのかは分からないが、老いてきたことは確かだ。そのひとつが、今書いた騒音を嫌がることだ。外で植木屋さんが電動草刈り機を使いだすとさわぎだすので、急いで窓を閉める。こんな現象が2,3年前から強くなった。おかしいのは、掃除機を使って鳥かごの周辺を掃除していたら、この間はその音で失神してしまった。鳥と音量の関係について調べてみたい気もする。ピアノ曲などのCDの音はまったく嫌がらない、ときには音に合わせてさえずったりする。騒音はどんな生物にとっても嫌なものなのだろう。もうテレビのない生活にも慣れて、ラジオが友達の日常をおくっている。これが結構楽しい。

昨日は1日中椅子にへばりついて、サラ・バレツキー『ビター・メモリー』(早川書房)を読んだ。半月ほど休館していた図書館がそろそろ開くので、借りている本を消化しないといけない。サラ・バレツキーは、シカゴを舞台に女性探偵ウォ―ショースキーが活躍するミステリでデビューした作家で、以前私はこのシリーズが文庫化されると必ず買って読んでいた。あの頃、私立探偵が登場するミステリが花盛りだった。時は過ぎて、あの作家たちもみな年老いたり、亡くなったりした。私自身も前のようにミステリにのめりこむ生活ではなくなった。この小説も、1982年のデビュー作『サマータイム・ブルース』からすると新しいものだが、2002年発刊だからだいぶ前のものだ。しかし久しぶりにウオーショースキー探偵の元気な姿に接すると、やはりうれしくなる。この本の後に翻訳されたものを調べて、図書館に予約して読んでみよう。

というわけで、今日は午後から出かけた。実は新聞の片隅に「おから料理」の記事を見つけて、久しぶりで作ってみたくなった。「おから」を買うのが目的だったのに、鳥のえさや金魚の水をろ過する紙やパウンドケーキの紙型を買ったりして、もう少しで「おから」を買うのを忘れそうになった。おからに入れる具は何でもいい、今日はニンジン、干しシイタケ、ゴボウ、油揚げ、こんにゃくがあったのでこれらを使った。私はさらに、とりのひき肉を入れてだし代わりにする。辰巳浜子さんの『手しおにかけた私の料理』をみると、「むき身」を使っている。この本は長年愛用しているが、いろいろと手が込んでいるので、参考にさせていただく程度にしている。うの花料理では、こういった、だしにプラスするものについてヒントをいただいた。辰巳さんの本には、おからを洗って絞りすり鉢ですってごま油でさらさらになるまで炒るとあるが、わたしは具を煮た煮汁の中におからを入れて水分がなくなるまで炒り煮する。これが結構時間がかかる。よく出来上がったものを買うと、おからがべちょべちょしていることが多い。鍋におからが少しこびりつくぐらいに炒ることが、この料理(?)のコツなのかもしれない。今日はこのほかに牛乳があったので、カボチャのスープを作り、冷凍しめサバを解凍した。トマトときゅうりと玉ねぎのサラダを添えて、結構豪華な夕食になった。山ほどできた「おから」は、チャック付きの袋に小分けして冷凍する。友人に「箸休め」に解凍してめしあがってくださいとお渡ししたりする。

画像は、友人のメールから「秋明菊」。秋の色ですね。


路傍の石

2013-09-27 18:21:11 | 日記
Sepyember 27, 2013

ブログの更新が、気になりながら遅れがちな昨今だ。1日おきぐらいに点訳関係の勉強会や例会などで東京まで出かけていると、心に余裕がなくなってしまう。気をつけなければ。さて今日は、表題にした「路傍の石」という言葉がふと頭に浮かんだ。子供の頃誰もが1度は読んだことがある山本有三の小説の題名でもある。思いがけず70歳を過ぎてから、 点訳を通して沢山の未知の方と接することが多い日常だ。そしてこの言葉である。人は、私を含めて、路傍の石にはなれない、いやなる必要はない。それぞれの人が自分の個性を発揮していけばいいのだから。しかし狭い世界に生きてきて突然大勢の人の中に入ると、驚くことも多い、そして、自分のことは棚に上げて、ああ人はなぜ路傍の石でいられないのかと思ったりもする。

今日も勉強会に出かけて帰宅し、朝日新聞の夕刊を開き、夕刊の中で一番楽しみにしている「人生の贈りもの」という欄に目を通す。以前取り上げたかもしれないが、色々な分野で活躍されてきた65歳以上の方々に、それぞれの過ごされてきた人生について、おひとり4回ほどに分けて連載しているインタビュー記事だ。 今回は、今日で最終回だが、経済学者の橘木俊詔さんが登場している。最初の回からそのご意見に共感をもってはいたが、今日の記事のなかにあった、近著『「幸せ」の経済学』について、「なぜ幸せをテーマに」という聞き手の質問への答えがとてもよかった。橘木氏の言葉を次に引用させてもらう。

 日本人は経済成長しなければいけないという強迫観念を抱き、経済成長すれば幸せになれると信じている。そんな考えへのアンチテーゼです。ゼロ成長でいいじゃないかと。人が幸せを感じるのは経済成長に対してではなく、家族の絆とか、仕事が楽しいとか、余暇を楽しむとか、むしろ経済以外の豊かさです。経済成長を最大の目標に政策を運営する必要はない。ゼロ成長なら原発も徐々に止められる、というのが私の主張です。(朝日新聞、2013年9月27日)

「読書会」を続けていたら早速テーマにしたいような本だ。図書館に予約して読んでみよう。 岩波現代全書で1785円だそうだ。ちょっと難しいかな。横道にそれたが、橘木氏が言われる成長を超えた「幸せ」は、「路傍の石」に通じるのではないか、路傍の石である必要はないと豪語してみたが、この記事を読んで、やはり意を強くして「路傍の石」に徹する人生でいいのだと思いなおした。単純な人だとお笑いください。

画像は、友人のメールから、お庭に咲く「彼岸花」。毎年載せさせてもらっているが、今回はアングルがちがうので違った風情だ。これが写真の面白さなのだろう。

メークイン

2013-09-21 08:30:58 | 日記
September 21, 2013

じゃがいもは好きな食材だ。いつも男爵を使ってきたが、友人からメークインをいただき、この種類のおいしさに目覚めた。煮込み料理には男爵だとすぐに荷崩れして嫌だと思いつつ、メークインを試してみる機会がなかった。今回6個いただいたので、2個はカレーに、2個は煮物に、2個はクリームシチューに使ってみた。どれもおいしかったが、ここで気がついたことは、メークインは固いものだという考えを捨てて周りが少し崩れてくるほどに煮込むと、とてもおいしいことが分った。ブログのしょっぱなからジャガイモの話で始まってしまたが、ここでじゃがいも料理をひとつ。これは男爵を使う。「じゃがいもとピーマンのソテー」。レシピ:じゃがいもを拍子木切りにし、水に軽くさらして水気を切る。ピーマンは縦半分に切り、横に細切りにする。フライパンにサラダ油を少し多めに(じゃがいも2個に対して大さじ2)熱し、じゃがいもが半透明になるまで弱火で炒め、ピーマンを加えて火を強め、しんなりするまで炒め、塩、コショウで味付けする。じゃがいもは薄く切ったほうがいい。

毎日が飛ぶように過ぎていく。前回のブログにも書いたが、点訳は共同作業なので、他の方が点訳したものを校正したり、自分の校正していただいたものを直したりして、最後に点訳の会の事務所の点訳印刷機で刷りだしたり、メール送信したり、保存したりしなくてはならない。今回やっとこの手順がひと通り経験できた。なかなかマイペースでいかないことが多いので大変だと思いつつ、これは私だけではないのだからめげずに進もうと決めたところだ。そんなわけで、今週は毎日東京まで出かけていた。

点訳については、どこまで自分の頭と身体がついていけるか分らないが、出来るところまではやりたいと思っている。しかし、点訳はボランティアなので経費は自分で持たなければならない。というわけで、少し経済を見直すことにした。まず長年お世話になった生協をやめることにした。当面必要ではないものが冷凍庫に眠っているという生活を解消したい。重いものは、個別に宅配を利用することにし、また何回も途中で挫折している家計簿もつけることにした。少し予備費を見積もっても、何とか無駄を省いて生活すれば、点訳にかかる経費も捻出できるようだ。あまり景気のいい話ではないが、家に住みついたコオロギが夜な夜な鳴きつづけている様をわが身に置き換えて、命の続く限り、何かで世間とつながっていきたい。

画像は、妹のメールから「ほおずき」。ほおずきが「なす科」だということを今知りました。

ピアノのお稽古

2013-09-14 08:48:18 | 日記
September 14, 2013

長く続いた読書会が終了した後、ブログに触れさせてもらったということもあって、メンバーの方をはじめ、以前読書会に出られていた方から、あたたかいメールをいただいた。何かに終止符を打つ時は、そのエネルギーで夢中だが、そのあと一抹のさびしさはある。集合住宅なので、ベランダに出るとお隣の気配が分る。男のお子さんが3人いて、まだ小学生になるかならないかの長男の方が、 ピアノの「バイエル」の練習を毎日欠かさない。だから上達もする。最近はやさしい副本の曲も弾いている。これが私には楽しい。 音を気にされているのか、夏はしっかり閉めきっているが、秋口、やっとはっきり音が聞き取れる。

さて、秋は深まっていくのだろうが、ここ2,3日、残暑が厳しい。不慣れで、あまり校正のことを頭に入れずに引き受けてしまった点訳の校正が戻ってきて、結構大変だ。1字挿入しただけでページが動くと、最後までページ数を書き変えなければならない。100ページ近いもので最初の方にそういったことがおこると、最後まで直さなければならない。ふと若い頃出版社に勤めていたときのことを思い出した。あの頃、絵入りの文章などは、活字を写植で打ちこんでいた。一字違っても全部貼り付け直さなければならず大変だと、印刷所の人が言っていた。そんな頃から比べれば、パソコンの普及は素晴らしい。点訳の世界でも、小さい点訳器に手で打ちこんでいたとき、同じ大変さがあったと思う。しかもその頃からまだ20年も経っていない。ぐたぐたいわずに頑張ろう。

地元の図書館が、コンピュータ機器の入れ替えなどの作業のためしばらく休館になるので、返却日が大幅に遅くなった。今手元に4冊ある。まだ読んでいない残りの2冊をゆっくり読もう。その中の1冊、小川糸『リボン』(ポプラ社)は、予約したのを忘れた頃に届いた。新聞の書評を見て予約したのだと思う。ポプラ社のものはどれも、読後気持ちがいい。たぶん夏の疲れをいやしてくれるだろう。

画像は、妹のメールから、「おみなえし(女郎花)」。毎年載せているが、中秋の名月も近いので。源氏物語から一首。

   女郎花しほる々野辺をいづことて一夜ばかりの宿を借りけむ(夕霧の巻)

センチメンタリズム

2013-09-09 11:53:37 | 日記
September 9, 2013

ヨーロッパの国々によく出かける友人は、旅のホームページを持っている。今回はバルト3国に行かれた。その旅日記をゆっくり見せていただいた。この方のブログも含めて、写真が美しい。特に外国の旅先で撮られた、建物、風景、お食事のメニューの写真は、それだけ見ていても楽しい。さて今回の旅日記の2日目、ラトヴィアの都市リーガ(リガ)についての記事の中に、あの有名なソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインの父親の作品だという、ミッソ私立学校の写真が載っていた。私は若い頃、エイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキン」を何度も見た、「モンタージュ理論」についての本を読んだ記憶もある。調べてみると、エイゼンシュテインはラトヴィアのリーガ生まれ、父はロシア正教会に属するユダヤ人の末裔の建築家だったそうだ。いま思いがけなく彼の父親による作品、白とブルーを基調とした美しい建造物の写真を目にして、「戦艦ポチョムキン」の中の階段を乳母車が落ちていく場面が重なった。これは私のセンチメンタリズムにすぎないが、この頃こんな感傷に浸ることが多い。

やはり秋はやってくる。少ししのぎやすくなったので、ベランダに出て、夏の間水ばかり飲まされてやせ細ってしまった植物類の手入れをする。何しろベランダ栽培なので、狭い鉢の中でこの暑さに耐えなければならなかった花たちは、どんなにつらかったことだろう。その中で唯一元気なのが「コーヒーの木」、20年近く前に100円で買った小さな苗が大きく成長し、沢山実をつけたことがあった。もちろんその木はもうないが、その実が成長して、今の木は4代目ぐらいになる。今年はずいぶん実をつけたので、グリーンから黄色、そして真っ赤に変わるコーヒーの実を楽しむことが出来そうだ。今日はこの木を少し大きい鉢に植え替え、10月過ぎると家の中に入れなければならない大木(1メートル数センチ)を安定させた。

画像は、妹のメールから「シュウカイドウ(秋海堂)」、好きな花です。


夏の疲れ

2013-09-07 15:07:44 | 日記
September 7, 2013

夏の疲れが出たのか、昨日あたりから身体がしゃんとしない。免疫力が落ちているなと感じる。こんな時は、少しでも行動した方がいいと、図書館へ、届いている本を取りに出かけた。チャールズ・カミング『ケンブリッジ・シックス』と、スティーヴ・ハミルトン『解錠師』、共にハヤカワ・ミステリ文庫だ。若い頃も気持ちが落ち込んでいるときにはミステリで乗り切ったことを思い出した。分厚いミステリを2冊読めば、疲れも吹っ飛ぶだろう。帰宅すると友人から電話があった。 先日プレゼントしたイコン像の画集を題材にした歌を詠んだが字余りになるので、たぶん聖堂を意味しているであろうロシア語をカタカナ読みでふり仮名にしてあわせたい、読み方を教えてというものだった。私の親しい友人には、2人短歌を勉強している方がいる。毎月何首かの歌を読まなくてはならないので大変だということを聞いてはいるが、 創造の世界にかかわっている方たちがうらやましいと思う。それは、裸の自分と向き合って、筆一本から醸し出される芸術の世界に身を置いていられると思うからだ。今日のブログはここまで。

画像は、妹のメールから、「海から望むベイブリッジ」。初秋の雰囲気が出ているので借用した。プーシキン美術館展に行った帰りに、山下公園あたりから船に乗って、船上から写したもの。夫婦で、展覧会の後で横浜近辺を散策したそうだ、やはり若しですね。

あてもなく

2013-09-03 20:04:05 | 日記
September 2, 2013

9月2日(月)
厳しい残暑に、家の中にいても息苦しく、いつものように当てもなく駅前まで足をすすめ、ショッピングセンターの上階にある普通の映画を上映する映画館で、「夏の終わり」を見た.瀬戸内さんが出家する前、瀬戸内晴美と名乗っていたときの、たしか女流文学賞などを受賞した作品が原作だ。あの頃(1966年頃)話題に負けて、私も読んだ記憶がある。今は出家されて、瀬戸内寂聴として名を馳せていられるが、この作品が事実上のデビュー作だったと思う。自伝的作品で、映画では小林薫が演じる売れない妻子がある作家と、染織家として自立して生きている満島ひかりが演じる女性と、さらにこの女性が夫と子供を捨てて家を出るきっかけとなった綾野剛が演じる若い男との、 満たされないながらも続いていく関係、 小説を映画化することの難しさを感じた。役者でもっているような映画で、今原作に忠実にこの作品を映画化する監督の意図が分らないうえに、芸術性はあまりないとも思った。


9月4日(水)
久しぶりの理数点訳の会の例会。会は午後からだが今日はその前に寄るところがあるので、10時ごろには出かけたいと用意していると、9時少し過ぎに地震があった。震度3といっていたが、もう少し強かったように思う。一人暮らしだと地震が一番こわい。震源地はやはり東北地方のようなので、3年前の東北大地震の余震なのだろう。さて家を出ようとすると、晴れていた空が突然曇り、大雨が降ってきた。竜巻とか、この頃の地球は油断が出来ない。びしょ濡れになって駅までたどり着き、銀行や郵便局の用事を済ませ、目的地に向かうためにローカル線に乗る。本屋を覗いていて買ってはみるものの、その後読む機会がなくて本棚に眠っている文庫本がいくつかある。 たまにそんな中の一冊をとり出して、電車の中で読むことにしている。今日は安野光雅『絵の教室』、先日ブログで触れた映画,「マルメロの陽光」についてもずいぶん長くページを割いて、絵画とリアリズムについて語っている。この映画は、「マドリード・リアリズム」で知られるスペインの画家アントニオ・ロペスが、庭のマルメロの木を「リアリズム」という姿勢で描く日常の様子を,ドキュメンタリーとして追ったもの(安野光雅さんの言葉から)。今私は絵を描くこととは無縁の生活を送っているが、彼のこの部分の文章を、少し長くなるが下に引用させてもらおう。絵と切り離して考えても、示唆に富んだ言葉だと思う。例会では、締め切りが遅い英文の理数関係の点訳を引き受けた。毎月出される宿題について、グループの人と検討していたら帰宅が遅くなってしまった。
 

 彼が絵を追求していくこのリアリズムの姿勢に、わたしは頭が下がりました。
 彼は写真を撮っているほどの姿勢で絵を描いているのです。「このマルメロに降り注ぐ太陽の朝の光が本当に美しい」。それをマルメロの「陽光」とはよく言ったものだと思うのですが、「梢に当たる朝の光のあの美しさを描きたいんだ」という気持もよくわかります。「だからこうやって、飽かずやってるんだよ」と人に漏らすのです。
 その気持ちは私には痛いほどわかるんですが、植物の成長と絵のスピードが今のところ合わないから無理なことを言ってるな、とも思います。でも絵描きである以上、その無理がしたいのです。そのように自分を駆り立てないと、なかなか絵が出来上がりません。あのドキュメンタリーは結局、いい絵ができておしまいというのではなくて、彼の真摯な態度を見るのが問題だったんだなというふうにわたしなりに考えました。  (安野光雅『絵の教室』中公新書)


画像は、「さるすべり」。空を見上げると、ピンクの花が目に入った。そしてその向こうの秋の空、思わず携帯でパチリ、逆光になってしまったが、それが秋空のブルーの色を際立たせている。