私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

図書館へ

2018-07-31 15:18:21 | 日記

July 31, 2018

長かった7月がやっと最終日まで来た。7月を長いと感じるのは、この季節の持つ特徴かもしれない。テレビでも誰かがそんなことを言っていた。昨日図書館から本が届いたというメールがあり、久しぶりで図書館に出向いた。本は、柚月裕子『盤上の向日葵』(中央公論新社)。たぶん本屋大賞を受賞した本を気まぐれにに予約したのだろう。こういった本はすっかり忘れていた頃に通知が来る。昨日と今日で読了したが、なんと感想を書いていいかわからない。しいて言えば、日本のミステリーは、よほどのことがないと松本清張の亜流になってしまうということだ。筋立てだけでなく、筆力も違う、さらにいえば、作者の生きざまが違うということだろうか。松本清張の作品は、結末がわかっていても何度でも読み返したいと思う。

猛暑が1休止したかと思いきや、またぶり返してきたようだ。回覧板に、駅前にある映画館「アルテリオ・シネマ」の上映スケジュール表が挟まってくる。暑さもあって大分映画から遠ざかってしまった。また実際6,7月と、どうしても見たいという映画がなかった。8月は何本かある見たい映画の中では、フランス映画「グッバイ・ゴダール」を見逃さないようにしたい。ノーベル賞作家モーリアックの孫、アンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝の映画化だそうだ。豪雨や台風の通過、さらに猛暑と、西日本に住む人々は心休まることのない日々を送っていられる。代り映えのしない日常だが、この日々に感謝しよう。

画像は、図書館の庭に咲く「百日紅」。毎年おなじみの写真です。


点訳の勉強会

2018-07-28 17:36:56 | 日記

July 28, 2018

7月26日(木)
猛暑の中休みか、朝から続いた熱気がウソのような普通の夏日だ。月1度の点訳の勉強会のために武蔵境まで出かける日で助かった。この会は、辞書パソコン点訳会の英和辞典の点訳に携わっている人たちの集まりで、今は実働6人、平均年齢が80歳を超えているのに、皆さん身体も脳も健在だ。10:00から12:30まで、駅前の「武蔵野パレス」という建物の予約してある部屋で、疑問点などを話し合い、ランチを食べて散会となる。外部との結びつきが薄い生活をしている私には、楽しいひと時だ。校正のファイルをたくさん預かって帰宅した。

7月28日(土)
東京でオリンピックが開かれるまであと2年とか言って、騒がしい。私はオリンピックには反対だ。私の周りには反対の人が多い。今回の西日本の水害など、その復興にはいくらお金があっても足りないだろう。開催地となることに手を挙げている都市がいるのだから、多額の借金を抱えている日本がしゃしゃり出ることはなかったと思う。でも、オリンピックを開催することで何かいいことがある人たちが、権力機構の中にたくさんいるのだろう。「ごまめの歯ぎしり」、力のないものは体制に屈するほかはない。8月はまた暑さが返ってくるそうだ。老齢の身、熱中症に気を付けよう。

画像は、猛暑のベランダで開花した「クレマチス」。春に友人からいただいた鉢の2度目の花だ。四季咲きなので、花が終わって短く剪定すると秋にはまた花をつけるだろう。


猛暑

2018-07-24 18:13:36 | 日記

July 24, 2018

ブログの画面を開くのは久しぶりだ。すっかり忘れていたというのが正直な話だ。今年の暑さは激しい。外に出るのが怖いのでエアコンのなかにいると、身体が固まっていくような気分になる。属している点訳の会の、送られてきた総会報告の文書で、以前一緒に点訳に携わっていた方が亡くなられたということを知った。大きな組織の中で、点訳するグループが同じになっても、それがすむとまた分かれてしまう。濃いつながりではないが、それでも校正のファイルを交換し合ったり、たまには個人的にランチをご一緒したりした方なので、思い出にふけりながら、ご冥福を祈った。今8人ほどでやっている英和辞典の点訳も、平均年齢が80歳を超えている。普段は年齢を意識することはないが、こんな時ふっと我に返って、気を付けなければと思う。

点訳と読書といえば聞こえはいいが、1日という長い時間は持て余すことがある。そんな時は料理に限る、というわけで、手元にある材料で作った大根を使ったカレーライスがなかなかおいしかった。たくさんできたので、まだ3食分は残っている。この頃大好きだったジャガイモが胃に持たれるようになった。そこでジャガイモの代わりに大根を使ってみたら、水分が多い分だけ胃にやさしく、少し時間はかかるが、味がしみ込んでおいしいことが分かった。生協に1本届けてもらえば、いろいろと活用できる。この猛暑を乗り越えるには、3食しっかり食べることだ。手持ちの食材を利用して作ってみよう。

画像は、友人のメールから。名前はわからないが、可愛い花だ。


ウインブルドンテニス

2018-07-16 14:59:59 | 日記

July 15, 2018

寝つきが悪い、夜中に目を覚ますと眠れない、典型的な加齢による不眠に陥っている。ここ数日は、早寝をやめて、12時ギリギリぐらいにやすむという策をとってみている。寝つきに関しては少し改善されたように思う。昨日は、ウインブルドンテニス2018の男子シングルス決勝をテレビで見た。点数に関する細かいルールはわからないが、十分に楽しめた。サッカーもそうだが、やはり外国のスポーツマンの体は、しなやかで美しい。また、決勝とあって、解説付きで紹介される観客がすごい。メイ首相をはじめ、英王室の人たちや、選手の家族、これまでの優勝者など、さすがである。安保反対闘争のデモに明け暮れたりした青春時代を引きずって、こういったブルジョワのスポーツは避けてきた。しかし、ウインブルドンテニスにも象徴されるであろうイギリスの伝統の持つ重厚さ、美しさに見とれるばかりである。

決勝を戦ったのは、ノバク・ジョコビッチ(セルビア)とケビン・アンダーソン(南アフリカ)、思いなしかアンダーソンへの拍手が多いようだったのでジョコビッチを応援することにした。選手の出身国に思いをはせたり、 今回こんなに楽しめたから、これからは時間を気にせずに、スポーツに限らず深夜番組も覗いてみよう。ここで姉から電話が入り、長話を付き合わされてしまった。結婚して以来ずっとクリスチャンとして、教会中心の生活をしてきた人だ。でもこの頃よく電話がかかってくる。他愛のない話が繰り返されると少し悲しくなるが、2歳違いの私のたどるであろう道だと思うことにする。

画像は友人の写メールから。高山植物の「礼文金梅草」。

 


年齢の差

2018-07-12 13:25:01 | 日記

July 12, 2018

読書会をご一緒している友人が、お姉さまと北海道の礼文島を旅行されてきたとのこと、たくさん高山植物の花の写真を送ってくださった。今年は特に花が多かったそうだ。送っていただいた写メールを整理しながら、考えるともなく頭に浮かんだこと。読書会が始まってからずっとご一緒している友人、私よりは5歳ほど若い。この年齢の差は全く感じないようなときが続いたが(私の側からのことだが)、近年この差を強く意識する。つまり、5年前の自分を振るかえって考えたとき、全く今の自分の状況とは違っていた。まだ若かったのだ。人によって違いはあるとしても、80歳の坂を超えてから感じる様々なこと、老いを意識せざるを得ないということは、今のこの5歳という年齢の差が語っているようにも思える。この差をひっくり返すことはできないのだから、友人が私の年齢に達したときに、現状をできるだけ維持しておくように努めたい。

ベランダの数少ない植物に目をやると、夏の強い日差しをうけて、うなだれながらも育っている。鉢を動かす力がなくなってきているので新しい花は買わないようにしているが、今年誕生日に友人からいただいたクレマチスが、何年も前からあった小ぶりのものと並んで、元気に弦を伸ばし、つぼみもたくさんつけている。種から育てている朝顔も、もう花が咲きそうだ。朝目覚めてベランダをのぞくのが楽しい。夏はこれから本番だ。自然の猛威にさらされる心配が少ない環境にいることに感謝しながら、乗り越えよう。

画像は、友人の礼文島の花シリーズの写メールから、「ハマナス」。


外の世界を思う

2018-07-09 13:12:07 | 日記

July 9, 2018

私の住む団地の住まいは、道路を隔ててマンションがあり、その隣は空地になっていた。急行が止まる小田急線の駅まで徒歩7,8分の立地条件は、当然何か建物が建つだろうとは思っていたが、今年になって集合住宅の建設が始まった。背の高い重機の風景や建設作業の騒音は、窓を閉めていれば気にならないとはいえ、何か気持ちをいらだたせるものがある。昨年までは、こういった環境を逃れて図書館に行ったり映画館に逃げ込んだりしていたのに、今年になって、家から出ることが億劫になってきている。友人のブログを覗くと、お妹さんとドイツ旅行をされたとのことだ。私よりは大分お若い方ではあるが、なんだかうらやましい。「ふらんすへ行きたしと思へども・・・」とはじまる萩原朔太郎の抒情詩の心を感じている自分がおかしい。グローバルな時代に生きているといっても、ドイツもフランスも、今の私には朔太郎の頃と同じく遠い場所だ。

ここ数日の豪雨は、西日本に大きな被害をもたらしている。テレビの画面を見つめている自分が何か罪深い気持ちになるような画像が映し出されている。それぞれにはぐくんできたであろう命が、自然の力の前にもろく崩れ去っていくのが悲しい。軽々に言えることではないだろうが、政府の姿が見えないように思えるがどうだろうか。毎年繰り返される土砂崩れや河川の氾濫は、未曽有のという言葉だけで終わっていいものだろうか。様々な疑問が膨らんでくる。

うえの文で触れた萩原朔太郎の短い詩の全文を次に載せよう。ずいぶん依然、このブログで引用させてもらったことがある。

       旅上
   
   ふらんすへ行きたしと思えども
   ふらんすはあまりに遠し
   せめては新しき背広をきて
   きままな旅にいでてみん。
   汽車が山道をゆくとき
   みづいろの窓によりかかりて
   われひとりうれしきことをおもはむ
   五月の朝のしののめ
   うら若草のもえいづる心まかせに。   (日本詩人全集、新潮社)

画像は、「アガパンサス」。通り道のお宅の玄関先にあるのをパチリ。

 

 

 


時は過ぎていく

2018-07-04 17:09:46 | 日記

July 4, 2018

いつまでも終わらないと感じる1日があるかと思えば、いつの間にか長い時が過ぎていることを忘れる。時を感じる力が加齢とともに衰えてきているということだろう。ブログもだいぶ更新しないままに過ぎてしまった。ブログを覗いてくださっている友人から、どうかなさったのですか、というお電話をいただいて、ブログのことをすっかり忘れていたことに気付かされた。私自身の経済のことで少し考えなければならないことがあって、いつの間にか日々が過ぎてしまった。そうそう、サッカーの試合をテレビ観戦していたのだった。なんだか遠い過去のように思えるから怖い。

まあすべて解決したことだが、必要なお金を得るために、売れる本がないかと書棚を探っていたら、父からもらった本がいくつか出てきた。父は本当の読書家で、『読書・蔵書・漁書』という随筆を自費出版している。その中で触れている2冊、Boni & Liveright 社の『The Art of Aubrey Beardsley』と『The Art of Rodin』がみつかった。ネットで売り出せば少しは値が付くかもしれないが、さすがにそれはやめた。私は父の随筆も、この2冊の美術書もしっかり読んだ気がしていない。私自身は本を読むのは好きであり、友人と長く読書会を開いたりしてきている。しかし今、父の随筆に目を通してみると、私は読書に関しては父の足元にも及ばないと悟る。また時代も違うとも思う。このことはいまの若い人たちについて、さらに言えることだろう。父が、この私家本でビアズリーに関係して書いている個所を、あまりにも個人的ではあるが、次に引用させてもらう。母も登場していて懐かしい。

 日本の挿絵画家でビアズリーの系統をひいているのは蕗谷紅児であるということを、ある美術専門家から聞いたことがある。たしかに、あの細かい点線による繊細な描写は、ビアズリーの型である。蕗谷紅児は、往年、少女雑誌に独特の繊細優麗な美少女の姿をかきまくった。今は65、6歳前後の老婦人が少女時代にこれにあこがれ、歓喜してこれを迎えたとのことである。このことは、わが妻の談である。1926,7年ごろであったか、『蕗谷紅児画集』というのが出た。ビアズリーの「サロメ」の挿絵で見るような怪しげな幻想的なところは少ないが、点線の多い繊細な線による表現はビアズリーと同様であって、それが全巻をうめていた。・・・(父の私家本『読書・蔵書・漁書』1976年12月発行)

画像は、ビアズリーの画集から。