私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

読書会

2014-10-27 18:46:44 | 日記
October 28, 2014 

読書の秋、10月27日から11月23日までは、読書週間だそうだ。私は中学生以来初めて裸眼で本を読んでいる。まさかこんな日が来るとは思わなかったので、うれしい。今回は友人宅にお邪魔した。本は、ガルシア・マルケス『予告された殺人の記録』(新潮文庫)。久しぶりで濃い内容の読書会だった。マルケスは、1982年にノーベル文学賞を受けている。この作品は、1951年にコロンビアのスクレという田舎町で実際に起きた事件を、十分な時間をかけて小説に仕上げたものだ。

文庫で140ページほどの中編の中に詰め込まれたテーマは、重いものがある。民衆の意識や共同体のメカニズムは、自分とはかけ離れたところの物語のように思えるが、予告されていながら、誰もがこの殺人に気づいていながら、それを阻止できなかった結末は、私たちの身の回りでも起こるかもしれないような事柄を予見しているという皆の感想だった。内容には触れないことにするが、改めてマルケスの鋭い感性を感じさせられる作品だった。ミステリーがかった事件を改ページで五つに区分し、どんどん話が盛り上がっていく様は、見事だった。あとがきで、訳者の野谷文昭氏が書いている解説は、この作品のすべてを物語っているように思えるので次に引用させてもらおう。そして、1981年に刊行された、この決して古くなっていない優れた作品の一読をお勧めしたい。

 この作品でまず指摘できるのは、構成が優れていることである。番号は付されていないが全体がほぼ均等の五章に分けられ、それぞれの章が独立しながら次の章を呼ぶ形になっている。作者によると、最後の章で殺人を克明に描くことは最初から決まっていたという。書き出しに呼応しつつ、クライマックスとして読者に余韻を残す上で、確かに効果的な配置といえる。それから、目立った特徴は、時間の処理の仕方で、様々な過去時制を用い、モザイクのように入り組んだ過去を作り出している。特に、カフカの『変身』の影響が指摘されている冒頭で、すべたは過去であることを示しつつ物語を進めることにより、早くも悲劇的な雰囲気を醸し出すのに成功しているといえよう。・・・(G・ガルシア・マルケス『予告された殺人の記録』新潮文庫の訳者あとがきより)

画像は、友人が「昭和記念公園」で撮られた「コスモス」。自然の色のコントラストは素晴らしい。




ウォーキングシューズ

2014-10-24 23:14:02 | 日記
October 24, 2014

秋日和。洗濯を済ませ、今、夢中で励んでいる部屋の片づけの続きをやり終えて、ゆっくり昼食を取った。この頃、ヒガシマルの「カレーうどんスープ」が気に入っている。「うどんスープ」はずいぶん前から使っているが、最近こちらも見つけた。玉ねぎと少々の肉を炒め、うどん、水、このスープの素を入れて2分煮れば出来上がり。贅沢に慣れている方にはおすすめできないが、私はおいしくいただいている。

午後から駅前に出かけた。以前このブログでも書いたと記憶しているが、点訳の会合で靴を間違えられて、その後見つからないままになっている。重宝していた靴がないと不便だ。軽い運動靴のようなものを買いたいと思っていたところ、今日の新聞の「ABCマート」の折り込み広告に、「Reebok」のウオーキングシューズが安売りで出ていた。早速その広告を持って、駅前のビルの中にある店に出かけ、購入して、そのまま履いて帰ってきた。いつも黒ばかりなので、今回はグレイにしようと思っていたが、店員さんにワイン色を勧められて、結局これに決めた。ウォーキングシューズなので少しごつい感じはするが、軽くて安定感があり、気にいった。これからは、どこへもこれを履いて行こう。

帰宅して郵便受けを覗くと、「医学辞典」の点訳を仕切っている方から葉書が来ていて、85歳、疲労とストレスで倒れ、ドクターストップがかかったのでこの会を退く旨のことが書かれてあった。厳しい言い方かもしれないが、何でもご自分で抱え込んで、人を信用できない、必然的に荷オーバーになり、最後は「退きます」、これは悲しいことだ。この会はすでに役員が2人倒れ、今回は3人目だ。私はだいぶ前から完成出来ないのではないかと思っていたが、いよいよ現実のものとなった。ここで私が常日頃感じているボランテイアについての意見を述べたところで虚しいので止めるが、沢山の人を動員して何かをやる以上は、先々のことをよく考えてスタートすべきではないか。久しく聞かなかった「甘えの構造」という言葉が頭に浮かんだ。

画像は、いただいた「巨峰」、あまり見事だったので、食べる前にパチリ。

映画『大いなる沈黙へ』

2014-10-21 14:25:51 | 日記
October 21, 2014

「アルテリア・シネマ」に足を運んだ。映画は『大いなる沈黙へ』、岩波ホールから降りてきたものだ。今見逃すと永遠に見れない映画のようなので、小雨降る中出かけた。パンフレットの解説がよくできているので、まずは、これを引用させてもらおう。「フランスアルプス山脈に立つグランド・シャトル―ズ修道院は、カトリック教会の中でも厳しい戒律で知られるカルトジオ会の男子修道院である。修道士たちは、毎日を祈りにささげ、一生を清貧のうちに生きる。自給自足、藁のベッドとストーブのある小さい房で過ごし、小さなブリキ箱が唯一の持ちものだ。会話は日曜の昼食後、散歩の時間にだけ許され、俗世間から完全に隔絶された孤独の中、何世紀にもわたって変わらない決められた生活を送る。」ドイツ人監督フィリップ・グレー二ングが、修道会との約束に従い、礼拝の聖歌のほかに音楽をつけず、ナレーションもつけず、照明も使わず、ただ一人カメラを携えて6ヶ月間を修道士と共に暮らして作り上げという。かずかずのドキュメンタリー映画賞を受賞している。

2時間49分という上映時間、久しぶりで見る映画、もう少し娯楽性のある映画を選べばよかったかとか、この映画は私にとって何なのだろうと考えながら見ていたが、だんだん引き込まれていったのは確かである。静謐な祈りだけの生活の中に響く教会の鐘の音、アルプスから吹き下ろす風、雪、雨の音、言葉には表せない感動があった。「主よ、あなたは私を誘惑し、私は身を委ねました」という字幕が何度も出てきた。この言葉の意味するところはよく分らないが、神に身を委ねることが出来た人の幸せは、理解できたように思う。礼拝の聖歌がまだ耳に残っている。いろいろな修道会があり、この修道院とは違うが、以前読んで感銘を受けた山形孝夫『砂漠の修道院』(平凡社)が頭に浮かんだ。この本も読み直してみよう。

まだ眼鏡を作れないので、前から3番目の席で見た。字幕がやっと見れる状態だった。照明を使わずに撮っているので、画面が暗く、もちろんこれがこの映画を意義あるものにしているのだが、少し疲れた。近くのスーパーで、日本産のレモンを1個買って帰宅した。料理本に出ていた「レモンカスタード」なるものを作ってみたら、なかなか美味だった。もう少し作ってみよう。表面をすり下ろすので、外国産は避けた。しかしレモン汁は足りないので、ポッカレモンで代用した。

画像は、『大いなる沈黙へ』のパンフから。

読書の秋

2014-10-17 07:56:08 | 日記
October 17, 2014


10月16日(木)
秋も深まってきた。図書館で予約してあった本を2冊借りてきた。リュドミラ・ウリツカヤ『ソーネチカ』(新潮社)と、松家仁之『優雅なのかどうか、わからない』(マガジンハウス)。松家氏は、長く新潮社に勤務し、海外文学シリーズの新潮クレストブックスなどを創刊し、『火山のふもとで』で作家デビューした人で、『ソーネチカ』がクレストブックスから出ている本なのは、偶然だった。『ソーネチカ』の方は、夕方までに読了した。作者は現代ロシアで活躍する人気作家の一人であるが、作品の舞台は、スターリン時代とその後の雪解けの時代のソ連である。本好きな少女が、歳の離れた反体制的芸術家と恋に落ち結婚し、娘を育て、その後の夫の背信などの試練を乗り越え、最後まで自己の精神世界を貫いた女性の物語だ。主人公の夫婦がユダヤ人であること、また時代背景など焦点を当てようと思えばいろいろな所にある作品だ。

私は、まず崩壊したとはいえ、長年世界に君臨したソ連という社会が、消えてなくなっていないことを、この作品を読んで感じた。この時代に生きた人の営みは、他の西欧文学から受ける印象とは少し違った様相を呈している。どんなにグローバルな社会になっても、国家の歴史を、民族の歴史をどこかで引きずって生きていく、そんなことを感じた。また、主人公のソーネチカの揺るがない精神世界は、少女時代の異常なほどの読書遍歴がもたらした強さなのだろう。平凡なようで決してそうではない人の一生は、尊いものだと感じさせてくれた。

10月17日(金)
左目の手術後の検診のため、朝早く病院に出かける。全く縁遠かった病院というものが、身近に感じられてきている。両眼ともきれいだというお墨付きをもらって帰宅した。1日4回の目薬の点眼などまだまだ解放されたわけではないが、日常生活を裸眼で不自由なく暮らせることは驚きである。また大騒ぎするほどのことではないが、自分の中で何か変化が起こっているようにも感じる。老境へ踏み出したというよりは、ギヤチェンジという言葉が適切かもしれない。まずはしばらく読書三昧の日々を送ろう。

画像は、妹のメールから、「ベゴニア」。鉢植えも可愛いが、群生したのも見事である。

終わりました。

2014-10-11 16:53:43 | 日記
October 11, 2114

9月に入ってからのブログには、白内障のことばかり書いてきたようで、読んでくださる方々はうんざりされていることだろう。やっと両目の手術が無事完了した。さらに調整して、眼鏡が作れるのはまだしばらくかかりそうだが、中学生以来の裸眼で、日々を過ごしている。しかし、自分にこんな日が訪れることを思いもしなかった。思い切って決断してよった。また名医に出会えたことも幸運だった。付き添ってくれた妹を始め、心配してくださった多くの方々に感謝したい。この目を大切にして、残りの人生を有意義に暮らしたいと、心から思う。

まず読書会の本、G・マルケス『予告された殺人の記録』(新潮文庫)を読もう。読書会でマルケスを読むのは、『百年の孤独』以来2冊目だ。楽しみだ。ここまで書いて、ふと窓の外をみると、まだ5時を過ぎたばかりなのに、夕やみが迫っている。秋の日はつるべ落とし、何かさびしげな空気が漂う。ヘルマン・ヘッセの「書物」という詩を次に引用させていただいて、今日のブログは終わろう。

        書 物

 この世のあらゆる書物も
 おまえに幸福をもたらしはしない。
 だが、書物はひそかに
 おまえをおまえ自身の中に立ち帰らせる。

 おまえ自身の中に、おまえが必要とするいっさいがある、
 太陽も、星も、月も。
 おまえのたずねた光は
 おまえ自身の中に宿っているのだから。

 おまえが長い間
 万巻の本の中に求めた知恵は
 今どのページからも光っている―
 それはおまえのものだから。     (高橋健二訳『ヘッセ詩集』新潮社)

画像は、妹のメールから、「ケシの群生」。少し手を加えたら、幻想的な写真になった。


日本の色

2014-10-07 16:51:30 | 日記
October 7, 2014

左目の白内障の手術の日を指折り数えて待っていたが、やっと残すところ1日になった。何となく時間をもてあましてしまう日々、今日は近くの友人が昼食に招いてくださった。ランチもおいしかったが、広いお庭の花々の様子を見せていただくのも楽しかった。以前約束をしていた「ルコウソウ」の種子をいただき、吉岡幸雄『日本の色辞典』(紫紅社)をお借りして帰宅した。本書は、日本の伝統色のうち209色を中心に、近年身近で用いられるようになった外国の色名も含め、379色の色名を取り上げて解説してある。私の日本の色への関心の原点は、高校生の時に、古文の授業の副読本に使っていた小冊子で調べた、「蘇芳色」だ。なぜかこの色だけが今も頭に焼きついている。早速本書でこの色の箇所を開いて見ると、赤系の色の中に分類されていた。

本書には、「蘇芳という、インド南部やマレー半島などに生育する豆科の樹木の芯には赤色の色素が含まれており、それで染めて明礬(みょうばん)、あるいは椿や柃(ひさかき)の木などを燃やした灰を使って発色させた、やや青味のある赤色をさしていう。」とある。全く違う色ではあるが、若い時に本で見た「蘇芳色」つながりでは、ワイン色が記憶の中にあった。私が何となくセーターの色などにこの色を好むのは、蘇芳と関係があるのかないのか。他の色についても、見ているとあきない。しばらく貸してくださるというので、解説を読んで、またブログにも登場させたい。ざっと見ただけではあるが、「撫子色」、「女郎花色」、「菜の花色」などなど、色名に花から取ったものが多いのをみると、改めて花への愛着が深まる。

さらに索引を見ていたら、以前油絵を描いていたころに絵の具の色でよく使った「マゼンタ」(赤紫色)、「ビリジャン」(緑色)、「クロム・グリーン」なども載っていて、なつかしく、また、うれしかった。解説をゆっくり読もう。

画像は、散歩の途中で撮った「紫式部」。

『私の中の彼女』

2014-10-04 18:33:31 | 日記
October 4, 2014

左右の眼の度数がちがうので本が読めないことを嘆いていたが、少しならばいいかなと思って読み始めた本、角田光代『私の中の彼女』(新潮社)を、とうとう最後まで読んでしまった。片目で読んでいるような状態だから、読みづらいことは確かだが、慣れてもくる。明日あたり頭痛に悩まされるかもしれないが。私は、長い間、そう40,50,60歳代はもっぱら翻訳ものを読んできた。日本の若い作家の作品を読むようになったのは最近だ。角田光代さんの作品ももそうだ。そんなにたくさん読んでいるわけではないが、読書会で読んだ短篇集『ロック母』をはじめとして、どれも心に残る作品だった。本書を読んで、いろいろなことを考えた。

人は言葉で語られる現実の世界とは別に、言葉で語られないそれぞれの思いを抱きながら人生を終える。小説家はこの現実の世界では言葉にならなかった思いを言葉にして物語を紡ぐ。しかし、小説家ではない私たちは、言葉にはならなかった自分の物語を抱え、いつの間にかその物語が現実であったかのような錯覚を抱く。私のように長く生きてきた人間にとって、これはある意味では怖いことでもある。『私の中の彼女』は、よくあるような現実の物語を軸にしながら、人間の心の奥に潜むもう一人の私について描いている。

ここで本書のあらすじを簡単に書くと、主人公の女性「和歌」は、大学生の18歳から15年ほど、1歳先輩のボーイフレンドである「仙太郎」と、恋愛から同棲へと生活を共にしていく。いつも自分より先を歩いている、センスも才能もある仙太郎に引け目のようなものを感じながら過ごしてきた和歌が、実家の蔵の中から見つけた祖母の「小説」をきっかけに、自身も創作の道に入っていき、どんどん売れっ子になり、おきまりのように仙太郎との間に齟齬が出来、二人は別れていく。その物語と同時進行で、祖母にまつわる話から母とも疎遠になり、思うように筆が進まない小説家としての自分に自信を失っていく。物語の終盤で、すでに40代近くになっている和歌は、偶然仙太郎に出会う。ここで語られる言葉が、私にはとても印象深かった。和歌と仙太郎の何年かぶりの出会いの場面を、次に引用する。仙太郎は4年前に結婚し、2人目の子どもが妻のお腹にいるという。

「君はバカだ、何も知らない、小説なんか書けるはずがない、人の営みなんか書けるはずがないって、どうして言い続ける必要があったの? どうしてそこまでして私をコケにしなけりゃならなかったの? それが知りたいだけなの、ねえ、なんでなの?」
 和歌は気づく。向かいにいる仙太郎が、おびえた顔つきになっていることに。その目線の先にいる自分が、突然あらわれた不気味な未知の生物であるような気持ちに和歌はなる。
「どうしたの和歌?だいじょうぶ。なんのこと?」
 そう訊く仙太郎の目はまっすぐ和歌に向けられている。そこに嘘はない。この人は、忘れているのだ。
「何か、煮詰まってたり、するの?」
 真顔で訊かれ、和歌は、自分の書いた小説の語り手である錯覚を抱いた。この人が忘れたんじゃない、私が捏造したんだ、書けないことを何かのせいにするために、この人に自信を奪われたという物語を作ったのだ―和歌は笑いたくなる。正確には何年か前か思いだせないほど前に別れたのに、ひとりの暮らしにとうに慣れたのに、あのころの自分ではけっしてないのに、一瞬で私は戻るのだ。(角田光代『私の中の彼女』新潮社)

画像は、妹のメールから「コスモス」。

ガチャ目

2014-10-02 13:32:10 | 日記
October 2, 2014

10月2日(木)
いつの間にか10月に入っていた。手術した右目と、もとのド近眼の左目の差が激しく、不自由な日々を過ごしている。私の眼を執刀して下さった先生が、しばらくガチャめだから・・・とおっしゃったので、そのままその言葉を使っているが、実際には初めて耳にする言葉だ。岩波国語辞典にも載っていない。俗語だろう。とにかくいい先生に恵まれて、あとは右目の手術を待つばかりである。ガチャ目のせいで歩くのも危なっかしいのだが、今日は図書館に届いている本を、だいぶ置いてもらっているので、取りに行ってきた。本は、角田光代『私の中のかの彼女』(新潮社)。何しろ新聞がやっと読めるといった状態で、手元に来たものの、読みはじめることが出来ない。友人のブログに、新しい本が紹介されていて、うらやましい。まあ、もう少しの辛抱だ。

10月3日(金)
今日は手術後最初の眼の診断を受けるために、病院に出かけた。足元に気をつけて行動していると、通常の2倍以上の時間がかかる。そのうえおまけまでついた。薬局で目薬をもらって、少し買い物をして帰りのバスに乗り込むと、病院でもらった次の入院の資料の入った紙袋がないのに気付き、急いでバスを降りた。薬局から以後に立ち寄った場所を逆にたどって、一番最初に訪れた銀行で預かってもらっていた。ここ数日、目が不自由なこともあって、何となくぼんやりと過ごしてきた。こういった日が続くと、いわゆる認知症になるのだと、怖かった。いやすでに予備軍に入っているのかもしてないが、忘れ物をするのも、この症状への入り口かもしれない。わが家に帰り、My Chair に腰を下ろすと、どっと疲れが出てきた。さらに本が読めないことがこんなにも淋しいことなのかと思っている。同じことを繰り返していますね。まあいろいろ考えさせられることが多い。

画像は、「シュウメイギク」。住まいのある団地の庭で撮った。ベランダの花と違って、自然の中に咲く花は生き生きしていて美しい。