私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

洋風調味料

2016-03-30 08:29:17 | 日記

March 30, 2016

はっきり記憶してはいないが、ひとり暮らしをしている方が、土鍋で野菜類をコンソメで味付けして具入りスープにし、翌朝はそれにうどん類を入れて食べるといったことを語ってられるのを耳にしてから、この料理が大いに気に入っている。私は洋風だしとして 、コンソメとブイヨンを、それにベーコンもだし代わりに使ったりする。今日の朝日新聞の朝刊「ことばの広場」という欄で、ブイヨンとコンソメの違いが話題になっていた。実際、私もブイヨンとコンソメの違いはよく分らないまま、レシピで固形スープの素とある時はブイヨンを使ったりしている。でもコンソメも固形もあるわけだし、ということでこの記事はとても参考になった。記事には、「市販品のコンソメは、そのままお湯で溶いてスープとして飲めるのに対し、ブイヨンはそのままで飲むには向かないといった差がある・・・。」(朝日新聞、2016年3月30日)とある。結局料理の調味料としてはどちらも大きな違いはないとのことだ。

寒かった日々、コンソメプラス野菜プラス鶏肉といった鍋料理を毎日作っていた。朝はパン食なので、昼にこの鍋に野菜を足してうどんを入れたランチにした。毎日同じ料理でも誰にも文句を言われない。しかし暖かくなってきたので、そろそろ鍋料理は卒業してブイヨンを使った一品料理も作ろう。みそ汁は別として、私は和風だしよりは洋風調味料の方が簡便だと思っている。

先日の文鳥の別れに続いて、やはり10年以上飼っている金魚が、多分今日あたりさよならしそうだ。頭にこぶが三つもでき逆立ちした状態のままで浮遊しているが、まだえら呼吸はしている。次々とペットとの別れは淋しいが、そろそろ身辺を本気で整理しなさいと告げられているのだろう。点訳関係の紙類だけでも未整理のものが山ほどある。これを選別して廃棄したり、今頭の中で描いている食器棚の移動などの模様替えも、まだ体が動くうちにやってしまおう。久しぶりに更新したブログなのにあまり話題がなく、身辺雑記で終わった。

画像は、妹のメールから、「ヒマラヤユキノシタ」。


別れ

2016-03-23 10:37:29 | 日記

March 23, 2016

10年以上共に暮らした文鳥が、旅立った。不思議なことがある。以前長年飼っていた猫は、読書会の日に、皆さんに見送られて最後の時を迎えた。文鳥も、数日前から巣の中に横たわっていたのでもうだめかなと思っていたのに、読書会の昨日、にぎやかな声に誘われたのか、止まり木に止まったり、水をのむほどの力を取り戻した。しかし、今朝、とうとう力尽きた。ここ数日の姿を見ていると、もっと生きていたいという鳥の声が聞こえてきそうなほどの頑張りだった。最後は、鳥かごの底に横たわり、もう足も硬直しかけているのに、私が名前を呼ぶ声に何度もくちばしを開いてくれた。この仕草が6,7回続いて、安らかに死んでいった。つがいで買った文鳥から生まれた、まさに純粋培養の私の鳥だった。それだから長く生きたのかもしれない。明日は点訳の例会の日、朝早くから出かけなければならない。そんな私の心を読みとってくれたのだろうか。この鳥も、何度かブログに登場させてもらったので、最後の日についても言葉を残したかった。

画像は妹のメールから、「クリスマスローズ」。妹の家の庭の風情が好きだ。


読書会

2016-03-21 15:47:03 | 日記

March 22, 2016

季節の変わり目はいつもけだるい。読書会の日、暖かいお天気でよかった。本は、石川明人『キリスト教と戦争』(中公新書)だ。日本のキリスト教徒は総人口の0,8パーセントにすぎないが、様々な面、たとえばクリスマスのような行事などで、人々の生活に深くかかわっている。著者は、愛と平和を唱えるキリスト教徒がなぜ戦争をするのかといった素朴な疑問にこたえる形で、キリスト教と戦争の歴史を、多くの文献を駆使して、分りやすく解説している。そういった点ではこの著作は成功しているのだが、戦争について語る姿勢があまりにも単純に思えた。著者は現在42歳、戦争を知らない世代だ。この世代に共通するものであるとは思うが、彼らの未来にいらぬ危惧感を抱いた。しかし一方で、人は時代を生きるという。それぞれの時を共通する人たちが感じる想いは、彼らに委ねるべきなのかもしれない。

私がレポーターだったので、珍しくレジメを作ったりした。しかし、ここは読後感を書く場所ではないので、内容の詳細には触れない。その歴史は戦争の歴史といっていいほど戦争と密接な関係を持ってきたキリスト教の、歴史的背景や、様々な闘いに登場する人物についての記述は、薄れかけていた世界史を再読する機会になり、勉強になった。ただ、歴史の中でのキリスト教と戦争のどんなかかわり方に対しても、著者の結論が、人間の根本的な矛盾と限界で締めくくられていることには、物足りなさを感じた。西欧の文化に接する上で欠かせないキリスト教について、またキリスト教徒と切り離せない戦争について語る時、さらに踏み込んだ政治的、哲学的視野を持って探求してもよかったのではないか、と思う。さらに、戦争を知る世代の人間として一言付け加えるならば、戦争はあくまでも平和と共存しないものである。戦争の悲劇を忘れないことこそ、いつの時代においても、世界中のどこにあっても、私たちに必要なことだろう。前段とは矛盾する内容になってしまったが、悩ましところである。

画像は、妹のメールから、「あせび」。


本を売る

2016-03-17 15:15:37 | 日記

March 17, 2016

先日妹の家を訪れた際に、手作りだという布製のバッグが素敵だったので、お願いして作ってもらった。そのお礼とはいえないが、すぐ近くに住んでいるもう一人の妹にもと、自家製のマーマレード2瓶とマーマレード入りのパウンドケーキ2本を作って宅急便で送った。お菓子やパンを作るのは楽しいが、プレゼントする相手がいるのもうれしい。何でもお金を出せば買える時代であっても、手作りにまさるものはないと思う。妹からも、バッグと一緒にゆずジャムや、庭でとれたダイダイで作った橙ポン酢を送ってもらっている。家族内の話ではあるが、物のない時代に育った私たちの、ほこれる生活の知恵である。

だいぶ待たされたが、間違いなく4月の陽気に誘われて、このところ整理しはじめている本で、もういらないがまだ新しいものを、駅前のショッピングビルの中の「BOOK・OFF」に持参して、買い取ってもらった。文庫・新書が1冊50円、ハードカバーが100円、雑誌が30円だった。計580円、わずかな額ではあるが、ごみ置き場で処分するよりははるかに良い。当日だけ使える50円券をくれたので、これを使って、レベッカ・ブラウン『体の贈り物』(新潮文庫)310円を買った。なかなか楽しい経験だった。家でパソコンの前に坐って、アマゾンのサイトで本アサリするよりははるかに健康的だ。

寄り道せずに帰宅すると、途中まで見て出かけた、錦織圭×J・イスナーのテニスの試合がまだ続いていた。劣勢のように見えたが、錦織が勝った。財政難の日本での5年後の民族至上主義のようなオリンピックの開催には反対しているのに、やはり日本人が勝つのはうれしい。小さい身体で頑張っている姿が頼もしい。次回読書会の本『キリスト教と戦争』の中で、非暴力と戦争という矛盾を前にしたキリスト者を語るときに何度も登場する、「人間の矛盾と限界」という言葉が頭をよぎった。

画像は、友人のメールから、三浦海岸で撮られた「菜の花」。

 

 


映画「ヴィオレット―ある作家の肖像ー」

2016-03-10 20:56:16 | 日記

March 10, 2016

2013年製作のフランス映画「ヴィオレット」を観た。あらすじは、いつものようにパンフから。「1907年、私生児として生まれたヴィオレット。母親に愛されない想いを抱きつづける彼女は、やがて小説を書くことに目覚める。その後、彼女はボーヴォワールと出会い、その助けによって処女作を出版。・・・」とある。この映画は、代表作に、『私生児』『ボ-ヴォワールの女友達』があるフランスの作家、ヴィオレット・ルデュックの実話である。半世紀以上前の実存主義はなやかなりしころの作家たちが登場する時代の話が、なぜ今映画になるのだろうかと思ったが、自分の生と性を赤裸々に描くことによって時代を変えた作家として、文学界のゴッホにもたとえられ、再評価されているという。どんな環境の中でも身に備わった芸術魂は、人を清らかに、また高めていくということを、映画を観て感じた。

この映画は、私にとっては過去のものになりつつあったボーヴォワールが登場していることが、興味深かった。映画の製作者たちの意図は分らないが、私には、ヴィオレット以上にボーヴォワールを描いているようにも思えた。女性の解放を唱えた、ボーヴォワールの『第二の生』が翻訳された年は、私が高校2年生のころだったと記憶する。私の人生に大きな影響を与えた作品であり、作家だった。時代が進むのは速い。今、フランスでシングルマザーが多いという現実からしても、実存主義も、ボーヴォワールやサルトルも、古典の世界に入っている。それでもやはり、ボ-ヴォワールの名を聞くと、懐かしいだけではない心が騒ぐ。作品はすべて手元にあるので、もう1度読み直してみようかとも思う。

再び映画に戻ると、ソルボンヌ大学を最優秀で卒業し、作家、哲学者としての地位を確立し、その著作が次々と賞を勝ち取っていくボ‐ヴォワールと、貧困の中で書くことが生きることだったヴィオレット、顔形、服装、態度に至るまで、2人の役を演じる女優の対比がまた面白かった。この映画がどこまで真実かは分らないが、ヴィオレットに対するボ-ヴォワールの真摯な態度が、知性に裏付けられた教養を表している。しかし、真の芸術家はどちらか、これもこの映画が語りかけていることかもしれない。

画像は、映画のパンフから、ボーヴォワール(左)とヴィオレット。あまりきれいな写真ではないが、雰囲気は分ると思う。


♫春は名のみの・・・

2016-03-09 09:00:43 | 日記

March 9, 2916

道に落ちていたのを拾った実(種子)から成長したすももの木に、今年も、ここ数日の暖かさでいっきににたくさんの花が咲いた。もう記憶は確かではないが、多分実を拾って開花するまでに10年近くかかっている。白いさびしい花で、庭の大木の間ではひっそりと咲いて散っていくであろう。日照時間の短いわが家のベランダでは、一等地に置いて、毎年開花を楽しみにしている。さらに実がなれば、この木の一生涯が完成することになる。多分今年も実は望めそうもないが、実を待つ楽しみもある。

預かっていた点訳の三校、勉強会での改変個所もあり、何とか集中力をつなげてやり終えた。紙に刷り出すと100ページ近くあるものでも、三校となると、まったくミスのない場合がある。英和辞典の点訳なので、原文の一行が点訳では倍以上の行になり、発音記号があったり、英文があったり、日本文があったりと、ややこしい。これを三校とはいえミスが全く無いというのは、点訳者、校正者の実力である。まだまだ点訳の世界では初心者の私には驚異的に思える。ただ、校正をしていてひとつもミスがないと、なんとなくやる気がうせるのも、正直事実である。先日テレビで、麻薬犬を訓練する過程で、犬の士気を失なわさせないために、ダミーを1個置いておくと言っていた。校正作業にも通じるところがある。不謹慎ですね。話がそれてしまったが、私自身の点訳したものの初校もお願いすることにして、ふたつのデータをメンバーの方にお送りした。

ここまでは昨日のこと、今日は、4月の陽気が冬に逆戻りしたような天気だ。図書館に本が届いているようなので出かけたいが、今日は家にいて、この頃精を出している片づけに専念しよう。読書会の本もまだ読み終えていない。なかなか上達しないキーボードの練習もしたい。個人的なことに終始したブログになってしまったが、次回は、予定している映画「ヴィオレット」について触れられると思う。

画像は、友人のメールから、「河津桜」。三浦海岸で撮られたとのこと、ソメイヨシノの季節も近い。


友人たちと・・・

2016-03-03 15:44:34 | 日記

March 3, 2016

何歳になっても、雛祭りの日は心が躍る。その上今日は寒かった日から一転、春の日差しがまぶしいほどだ。図書館から借りた本の返却日もあって出かけた。ショップの花のコーナーに並ぶ春の花々が購買欲を誘うが、今は花より団子である。図書館の隣に出ている農協の売り場で、高価なうえに質も良くなくて生協では買えない野菜をいくつか買う。わが家からこのあたりに出かけてくるのに、歩いて10分はかからない。近くには映画館「アルテリア・シネマ」がある。図書館で自由にもらえる当映画館の上映パンフを見ると、今月は、岩波ホールから下りてきた「ヴィオレット」と友人もブログで紹介されていた「眺めのいい部屋売ります」の2本が上映作品に含まれている。こちらは、団子を我慢してもと思うが、苦しいところである。

荷物が多くなってしまったので、いつものようにバスで帰った。郵便受けを覗くと、月曜日に「たまプラーザ」でお会いしたばかりの友人から、お友達が描かれたという水彩画をあしらった素敵な絵ハガキが届いていた。いつも、ランチをとりながら最近読んだ本のことなど、何気ないおしゃべりをして別れるのだが、今回はお互いにせかせかしていてお話がうまくかみ合わないままにさよならをしてしまった感があった。早速のお葉書、何でもない一筆であるが、彼女のやさしい心配りに、改めて持つべきものは友であるということばを心にとどめた。

数日前に、点訳で知り合って意気投合し、また深いえにしを感じた若い友人から、福島智『ぼくの命は言葉とともにある』(致知出版社)を読まれて、その内容を紹介してくださっったメールが届いた。福島氏は、9歳で失明、19歳で聴力を失ない、現在東大教授の職につていられる。私が英語点訳の講習を受けた講座の始まる前に講演をされた方で、あのときの指点字を操る女性の姿に感銘を受けた。ちょうど東北大震災の前の年で、あれから6年が過ぎたのかと、思いを新たにした。さて話が横道にそれてしまったが、友人は、福島氏の、「伝達ではなく対話によって、人と人とが結びつく」という言葉を引用されていた。コミュニケーションの原点を思い起こしてもらった。私も、ぜひ福島氏のご本を読んでみたいと思う。

相変わらずまとまりのないブログになってしまった。先日妹たちの家を訪れてから少し刺激を受けて、部屋を模様替えした。いつも坐ると目の前に開いたままにしてあるパソコンを別な場所に移し、パソコン中毒になってしまっている状況を改め、意思を持ってパソコンに向かうという生活に切り替えることにした。というわけで、今このブログを、新しい場所に置かれたパソコンから打っている。余談ですね。

画像は、妹のメールから、シンビジューム。