私の日常

毎日の生活で印象に残った出来事を記録しておきたい。

妹達と

2016-02-27 21:04:45 | 日記

February 27, 2016

私は5人姉妹の次女だ。中部地方に住むすぐ下の妹が、千葉の住むふたりの妹のところを訪れたのに合わせて、私も金曜と土曜、妹たちと過ごした。今回は姉はいなかったが、4人姉妹が顔を合わせるのはめったにないことだ。腹蔵のない姉妹のおしゃべりに花が咲き、またトランプをしたりして、楽しい週末だった。土曜日には、妹の主人の運転で九十九里まで連れて行ってもらった。遠くまで見渡せる地平線、貝殻を拾ったりしながら広い海原を満喫し、近くの店で海の幸の料理でランチを済ませた。パラグライダーを楽しんだり、サーファーをする若者の姿も、海ならではの風景だった。通学の便が良いとかで大学生の孫を預かっている、忙しい身の次の妹にとって、あわただしい旅だったようだが、姉も含めてまたこんな日を作りましょうと言って下の妹たちと別れた。名古屋方面に帰る妹を東京駅まで見送リ、7時過ぎにわが家に帰宅した。

 少し生活のリズムがマンネリ化しはじめていたところ、今週は、火曜日に読書会、水曜日に点訳の例会で練馬まで出かけ、週末は千葉と、珍しく変化のある週だった。妹たちの生活に接すると、驚くような細かい手仕事による作品が出来上がっていて、手仕事が好きだった母の姿が重なった。手仕事はとても真似が出来ないので、新しいパンの作り方だけ教えてもらった。まずはこれに挑戦してみよう。育ったころには喧嘩をしたり競い合ったりしたこともあったが、皆が70歳を過ぎて、健康な姿で集いあえることができたことを両親に感謝したい。つかの間のにぎやかな数日を過ごし、春に向かって体の中に活力が戻ってきた。

画像は、海の風景。


読書会

2016-02-23 17:34:26 | 日記

February 22, 2016

少しずつ春が近づいてきている。若い頃に体験したあの肌が切れるような寒さはどこにいったのだろう。今日も天気予報の割には暖かく、まずまずの1日だった。私の歯の治療のこともあったりして、予定していた2月初めの読書会がだいぶ遅れてしまった。本は、浅田次郎『姫椿』、『月のしずく』(文春文庫)、2冊とも短編集だ。この作家の作品は今まで1度も読んだことがなかった。読者も多い作家なので、こういった機会に作品に触れられたのはよかった。ストーリー・テラーとしての才能は分ったが、この二つの短篇集に限って言うならば、どの作品も人情話で落ちが来るのにはまいってしまった。しかし、考えを変えてみると、読者層という言葉があるとおり、この作家の作品を好む読者層もいて当然である。ただ私が小説に求める、すでにある人間社会の空気を突き破るような何かが寸分も感じられなかったのが残念だった。

次回のレポーターは私だ。心が傾いていたキルケゴール『死に至る病』は、1974年に始まったこの読書会の長い歴史の中で、1976年の第12回で取り上げられていた。メンバーのひとりの方が、第1回から、読書会の開催日、取り上げた本、レポーターの名前を記録しパソコンで打ってデータとして残してくださっていたものが、こういったときにすぐに役立った。これだけ長い年月の記録は、本当に貴重なものだ。さまざまなジャンルの本の長い年月にわたる記録に目を通していると、駆け抜けていった過去が、何か厚みを持って感じられる。私たちは当然のことながら年齢を重ねて、すでに老境に入った身ではあるが、健康に気をつけてこれからも読み続け、語りあい続けていきたい。もちろん同じ作品を何回取り上げてもいいのだが、今回はもうひとつ候補に考えていた、石川明人『キリスト教と戦争』(中公新書)にした。朝日新聞の読書欄で、「愛と平和を口にすることで暴力を正当化するのは宗教のみならず人間の普遍的なこと、という視点から戦争論に新たな切り口を開く。」(朝日新聞、2016年2月14日)と紹介されていた。しっかり読んで、良いレポートができるようにしたい。

画像は、友人のメールから、「冬牡丹」(鎌倉鶴岡八幡宮の牡丹園)。


友人のブログ

2016-02-22 09:18:52 | 日記

February 22, 2016

新聞の「文化・文芸」欄」で、キルケゴールを取り上げていた。その解説で、キルケゴールは、「自己の不安と絶望を見つめつつ、神の前にひとりで立つ「単独者」の存在(神の前の実存)と罪を考察した。」とある。そして、この欄の筆者は、この哲学者についての案内のことばを、「人間疎外に抗し、主体の真理を唱えたキルケゴール。デジタル社会での主体のあり方を考える上で学ぶべきことは多い。」と結んでいる。(朝日新聞、2016年2月22日) 同じページに連載されている夏目漱石の『門』での、主人公が心に不安を抱いて、座禅で救いを得られるかと、鎌倉の禅寺を訪れるあたりを読んでいたためか、昨夜眠れぬままに、自分の来し方での「罪」について考えていた。もう救いを得るには遅いが、なにか得るものがあるかもしれないと、次回の読書会の本にキルケゴールの『死に至る病』を選ぼうかと思ったりした。

友人のブログを覗くと、私がブログで書いた、ある本についてのことばに触れてくださっていた。大変な読書家なので、私の本選びの先生と言っていいほどの存在だが、それとは別に、友人のブログを読む楽しみが最近強くなってきている。人はひとりでは生きられないことを実感しているこの頃だ。歳をとるにつれて外出したり人に会ったりするjことが少なくなってくる。まして、私のように一人暮らしの身には、誰かと言葉を交わすことなく数日が過ぎていくことがある。そんな時、友人のブログを読んで、生身の人の存在を実感する。ネット社会にますます移行していく今日、いろいろと問題もあろうが、どこかで友人と、また不特定多数の人とつながっているという状況を、何か心強いものと感じている。キルケゴールの「単独者」としての人間存在を探りつつ、人とのつながりを求める凡者の思い、つれづれの中での贅沢な悩みである。

画像は、ベランダでやっと咲いた「クリスマスローズ」。美しいとは言い難いが、私には貴重な開花である。


初めて読む作家の本

2016-02-16 11:01:16 | 日記

February 16, 2016

三寒四温、と優しく言葉に出せないような天気の移り変わりの激しさに、なかなかついていけない。湯たんぽを入れたベッドにもぐりこみ、いつ眠ってもいいような状態で、米澤穂信『王とサーカス』を読む。初めて読む作家だ。多分若い人が好んで読んでいる作家だろう。何回も新聞に取り上げられていたので読んでみた。

ネパールの王室で皇太子が国王を含む親族を多数射殺した実際に起こった事件を背景に、同時に起こる殺人事件が謎となって物語が展開する。たまたま雑誌の取材のためにこの地を訪れていて、二つの事件の取材をすることになったフリーの記者である主人公・大刀洗万智への、異国の事件を傍観者のように伝えるといった現地人の批判は、メディアを通して世界中から送られてくる事件を毎日消費している身には、なかなか辛辣な言葉と響いた。本書は、2015年の日本のミステ界で評判になった作品だという。日本のミステリはあまり読まないので、かえって新鮮に感じたこともあるが、単なるなぞ解きではない点が面白いと思った。いくつか他の作品も読んでみよう。

活字は好きだ。ちょっとした広告のチラシでも、 どういうわけかじっと読んでしまう。そんなわけで、私にとって本を読む楽しみがなかったら、日々の生活は味気ないものだろう。読書会を通してもずいぶん多様な本に触れてきたと思うが、今こうして読んだことがない作家の本を読む機会があると、ディレッタントの読書も捨てたものではないと思う。ただ、図書館が頼りなので、財政難か、最近新刊書がなかなか買ってもらえず残念だ。司修『O e 60年代の青春』(白水社)も、予約を入れてみたが該当する本がないとのことだった。題名の入れ方が間違っているのかもしれないので、直接図書館に出かけて尋ねてみるつもりだが、高価な本なので、図書館に入れてもらいたい。

画像は、妹のメールから、「水仙」。近くの牧場で撮ったとのこと。


若い来客

2016-02-13 08:21:52 | 日記

February 13, 2016

英語教室の最後の生徒さんだったお嬢さんが訪れてくれた。美大を卒業して関連会社に勤めて2年余、まだ25歳になったばかりだ。午後は高校時代のお友達と会う予定があるというので、ランチをご馳走することにした。勤め人にとって土・日は大切な日だ。ちらし寿司に、メインは、以前新聞に出ていて切り抜いたおいた「鶏のパリ風カレークリーム煮」を作ってみた。少し味が濃すぎたかなと思ったが、おいしいと喜んでくれた。レシピどうりではなかったが、最後に入れた生クリームがこの料理の決め手のようだ。

毎日独りで食事をしているので、やはり食をおいしく味わうには相手が必要だと実感する。彼女の年齢は私にとってはまぶしいほどの若さだが、私の唯一のとりえなのか、たちまち同年代のように会話が弾む。昨年イギリスを旅行したときのお土産、「Whittard」の紅茶をいただいた。薔薇の香りのするお茶だそうだ。スマートフォンにある旅の写真を見せてもらったり、会社での日常の話も面白かった。この幸せなひとときは、生活のために必死で生きてきた若い頃の遺産だと思ったりする。

少しブログの更新が遅れた。 いつものように点訳が足を引っ張っていた。今の会は、点訳したものを校正に出す場合、点訳したファイルを収めたUSBかフロッピーと原稿とを郵袋という盲人用の無料で郵送できる袋に入れて、相手の方に送る。どういうわけかこの袋が三つもたまってしまい、ボランテイアなのだからといってもいられないような状況になり、毎日校正に明け暮れた。校正をして下さる方はそれぞれ状況が違うので、たまにこういったことがおこる。やっと一段落したところで今日の日を迎えられたことは本当によかった。最近は眼のこともあって以前のような点訳一筋はやめにしているが、たまにこうして頑張ってみるのもいいことかもしれない。心なしか眼の調子もいい気がするがどうだろう。

ずいぶん前に図書館に予約してあった、米澤穂信『王とサーカス』(東京創元社)が、やっと手元に届いている。この本を読みながら週末を過ごそう。画像は、お客さんが持参してくださったケーキ、いつも豪華なお食後をありがとう。


プリンターの故障やら

2016-02-06 16:07:35 | 日記

February 6, 2016

時の経つのが早いのか遅いのか。この前ブログを書いてからもうずいぶん経ってしまったと思い開いてみると、4日まえに更新していた。立春過ぎに続くこの寒さ、春を待ち焦がれる気持ちが時の回転を速くしているのかもしれない。この数日歯医者に出かけたり、美容院にいったりと、まあ何かしっか煩うことがあった。さて今日、差し迫った校正が送られてきたので、早速データをパソコンに移して印刷しようとしたら、どうやっても連動してくれない。朝は早いので6時ごろから動かしているのに、お昼近くなっても解決しない。若い頃だったら、どうせ安物のプリンターなのだからと買い替えてしまったのだろうが、それは出来ない。止まったままになった状態をそのままにして、部屋を掃除したり、根菜の煮物を作ったりして、はやる気持ちの時間稼ぎをする。状況は変わらない。

もしかしたらそろそろ寿命が来かかっているパソコンの方に問題があるのかもしれない(気づくのが遅い)。少しでもメカに精通している人ならば、あほなことをしていると思うだろうが、何事も自力で解決してこその今である。まず、中途半端なっているプリンターの操作をそのままにして、パソコンを強制終了させ、もう1度パソコンを立ち上げ、さらに再起動してプリンターにつないだところ、いつものように印刷ができた。一番不思議なのは、毎日使っていて差しさわりがなかったものが突然動かなくなること、機械も人間も老朽化には勝てないということか。こんな時この喜びを伝える人がいないのが少しさびしいが、ゆっくりコーヒーを飲んで小さな満足感に浸り、このブログを書いている。

話変わって、今日の朝刊の片隅に、「音訳ボランテイアを始めよう 無料説明会」という記事があった。私はもう年齢的にもとても新しいことに挑戦は出来ないが、今4,50歳代の人で、少し時間に余裕のある人ははじめてみるといいのではないかと思ったりした。これは朝日カルチャーセンターが行っているものであるから受講料は安くはない。しかし、私も英語の点訳の講習は、新聞の小さい記事から始まった。10年近く続けてきたからこそ見えてくるものもあるが、音訳は点訳よりは目の不自由な人の助けになると聞いている。私的なブログで人に何かを勧めるつもりはないが、長い人生、わずらわしいようでも何かに携わることはいいことだと思う。

画像は、妹のメールから、「紅梅」。

 


『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

2016-02-02 11:36:46 | 日記

February 2, 2016

文庫本化された村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文春文庫)を、友人から借りて読んだ。物語の大筋は、主人公・多崎つくるが高校時代に行動を共にしていた親友4人から、20歳の時何の予告もなしに関係を断たれ、死ぬことだけを考えて生きるという孤独のなかへ落ち込んで行くが、何とか立ち直り、36歳のとき知り合った2歳年上の女性の力を借りて、自分を断絶したかつての友人を訪ねて、あれはいったい何だったのかを問う過去への「巡礼」に出る、というもの。この物語のひとつの主題は、20代の初めに、何の前触れもなく突然その存在を否定され、その後の彼の人格の形成に大きな影響を与えたできごととそこからの自己の回復である。「たぶんそのために僕は人と深いところでかかわれないようになってしまった」と作品の中で「つくる」は語る。で、これだけでは、単なる青春小説のような安直な物語であるが、もちろん村上春樹の小説がこの範囲でないことはわかる。大きな主題を提起しているのだろう。ここで、まだ読み終わってないのだが、加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』の中で、本書について語っている部分を参考にさせてもらった。

まず、本書について書かれている部分を少し引用させてもらう。

  この小説が、村上として三・一一のできごとに答える最初の作品として書かれていることは、主人公の遭う厄災とそれからの回答の劇が、ちょうど彼(多崎つくる)の二〇歳の歳と一六年後、三六歳の現在を行きかう「巡礼」の時間を構成しつつ、一九九五年の地下鉄サリン事件から二〇一一年の原発事故までの「一六年」間にぴたりと重なっていること、しかもこの主人公の試練の物語に、この時間の起点と終点をなす「大地震」、また原発事故は現れることがない(起こらない)ことに、しっかり刻印されている。
 この小説は、日本社会に起こった東日本大震災と原発事故とそこからの回復という物語の代わりに、多崎つくるという主人公に起こる、理由のあかされない友人との共同体からの突然の排除と絶望、そしてそこからの回復の試みという試練を描くのである。(加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』岩波新書)

私は、加藤氏のこの見解にすべて賛同するわけではない、というかここまで並列して大きな主題と小さな主題を解説することには少し違和感を感じるが、単なる物語として読み切れないテーゼを含んでいることはわかる。それは、前回の読書会で読んだ、日常に潜む不安を描いた『国境の南、太陽の西』の時と同じである。しかし本書は物語の登場人物の悩みが共通感覚として読者に伝わらないのではないかと思う。これは村上春樹自身の悩みの軽さにも通じるのではないかとも思ったりする。今私は、村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』も、電車の中に持ち歩いて読んでいる。村上春樹の物語に描かれる孤独や不安と走ること、この同時進行が、もう私のような化石化しつつある世代には理解できないことかもしれない。あるいは、私の読みの浅さから来ているのだろう。

画像は、正月の花の残りの「千両」。長持ちしている。