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ニーハオ春庭中国日記「美人新入生&ベリーダンス」

2011-07-17 08:00:00 | 日記

ニーハオ春庭「美人新入生」
2009/07/23
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(21)美人新入生

 美人揃い、ハンサム揃いの我がクラスの、「美人平均値」が一段と上がったのは、7月6日に、新入生が加わったから。他のクラスの男性陣も「美人新入生」に注目。
 修士課程修了後、大学のアシスタント教師をしていた女性で、自己紹介スピーチとして、生まれ故郷の無錫の紹介をしてくれました。大学の仕事を辞めてこちらに来る前の、自分の教え子学生たちとの記念撮影では、学生に囲まれた写真のようすから、皆に慕われた先生だったことがよくわかりました。修士の専門は日本経済。同志社大学の博士過程では経済学を専攻する予定です。

 彼女は学部では日本語日本文学を専攻し、日本語能力試験1級に合格していますから、本来は、日本語教育の受講は免除されています。しかし、彼女は「日本語の復習をしたいから、クラスに参加したい」と自分から希望して授業に出席することになりました。

 中級の2級レベルを学習しているクラスですから、彼女にとっては、すでに習ったことばかりのはず。でも、彼女は熱心に授業に参加し、クラスメートたちにはよい刺激になりました。

 自己紹介のスピーチでも、1級レベルになると、このようになめらかに豊富な語彙を使って表現できる、と言うことがクラスの学生たちにわかって、よい刺激になりました。
 他のクラスの「まだ恋人いない軍」の男子学生たちも、美人新入生が3班に入ったことをうらやましがっています。

 2007年のときのクラスは、大学若手教師がほとんどを占めていて、21名の学生のうち、独身は5人だけでした。(そのうちの2人は日本に行ってから恋人同士になったようです)

 2009年の今年のクラスは、2008年6月に修士課程修了する前に「国費留学生試験」にパスして、就職経験を持たずに日本語教育を受講している学生がほとんどなので、班長のキンセイさんと、学芸委員のソケツさんが結婚しているだけで、あとは独身。

 といっても、美女美男の我がクラスですから、ほとんどの学生は、学部時代、院生時代にすでに恋人を得ています。クラスの中には、院生時代から恋人同士になったカップルがいて、ふたりが仲良く並んでいるようすは、恋人同士というより、むしろ「長年連れ添った夫婦」のような互いの信頼感と落ち着いた愛情が感じられます。

 男性の「恋人いない3人組」のうち、ショウケンさんは最近「学食デート」して女性といっしょに食事している姿を見かけたのですが、交際申し込みが受け入れられたという噂はないので、まだ恋人成立には至っていないらしい。彼は84年生まれで、一番若いので、これからいくらでも恋人を得るチャンスはあるでしょう。

 男子学生で一番年上のレイトウさんは、学部を卒業した後、数年会社で働いてから修士課程に進学した人です。とてもよい性格で落ち着いた優しい人柄なのに、なぜか今まで恋人はいなかった。
 レイトウさんは、宿題の「習った文型を使って短い文を書いてください」という課題に、クラスメートの学習委員について、話題にすることが多かった。

 レイトウさんは、女性の中で一番若くて日本語が上手な学習係が、気になってならないようすでした。たとえば、「~ばかりでなく」というフレーズをつかって文を書いてください、という宿題を出すと、「私のクラスの学習委員は、頭がいいばかりでなく、美人だ」と、書いてくる。「~はずがない」というフレーズの作文では、「カショさんは、頭がよくてきれいなので、男性は彼女が嫌いであるはずがない」と書きました。

<つづく>

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2009年07月25日


ニーハオ春庭「シングルたち」
2009/07/25
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(22)シングルたち

 ある日の作文、「~べき」「~か、どうか」というフレーズを使って作文を書きなさい、という宿題ではレイトウさんは、「もうすぐ、中級の授業が終わりになり、クラス替えがある。残念なことにならないよう、自分の気持ちを言うべきだろうか。告白をするべきかどうか、、、、」と、書いてきました。私は、「勇気をだして告白したほうがいいですよ」と、コメントを書き込んで宿題を返しました。さて、どう進展したか。

 学習委員のカショさん、クラスで一番若い(84年生まれ)学生。修士号取得を最短で終了してきた優等生です。彼女は、とても活発で親切。歌と踊りが上手で、日本語も上手です。彼女が、文法問題や日本語類義語の微妙なニュアンスの違いなどを質問してきたときなど、私が日本語で説明し、彼女が理解した後、それを中国語でクラスの人に解説してもらう、という場面もよくあり、学習係としてクラスの日本語学習の向上に役立ってきました。

 彼女には北京に恋人がいて、今は遠距離恋愛中です。中国でも最近の学生遠距離恋愛は、スカイプ利用でパソコンで会話ができ、互いの気持ちを伝えあうのでも、すれ違いはないようです。彼女に恋人がいることは皆知っていました。

 コメントに触発されたのかどうか、レイトウさんは思い切って学習係に告白したみたい。結果は、、、、、、残念。「今、恋人がいるから、ごめんなさい」でした。仕方がないですね、今のカショさんの恋人もとてもすてきな人のようです。
 レイトウさんは、「結果は残念だったけれど、告白しないで心残りになるより、思い切って言ってよかった」と前向きにとらえて、クラスの中では「ふられてスッキリ」とふるまっています。クラスメートたちも皆それを知っていて、温かく見守っています。頭がよく、背が高くハンサムなレイトウさん、いつか必ずすてきな恋人と巡り会うことでしょう。

 もうひとりの「恋人いない歴26年」のエンテイさん、彼とは、毎日学校で顔をあわせているほか、「運命の出会い」がありました。7月4日に宿舎のすぐそばのスーパー近くで、偶然会ったことがあります。エンテイさんは先輩と近くの繁華街桂林路で食事を済ませたところでした。

 エンテイさんは、動物園散歩をしたおりに、私の宿舎へきたことがあるので、「宿舎はすぐそこだから、いっしょにお茶でも飲みましょう」と、部屋でおしゃべりすることにしました。先輩の四喜さんは、日本語は全くわかりませんが、エンテイさんが通訳してくれました。英語が少しはわかるというので、英語で話しかけてみても、エンテイさんが中国語に通訳するので、しばらく、英語日本語中国語のチャンポン会話を続けました。

 エンテイさんの先輩、四喜さんは、近くの大学病院で働いています。二人は薬学を専攻し、先輩の四喜さんは大学病院に職を得て働くようになり、エンテイさんは、大学院へ進学しました。

 エンテイさんは先輩をたて、とても優秀な人だと紹介してくれましたが、四喜さんは、東京大学に国費留学することが決まっているエンテイさんの境遇のほうが、大学病院で働くよりいいと考えているらしく、「大学病院の仕事はあまりおもしろくない」と、こぼしていました。
 確かに、博士過程に進学する国費留学生は、博士号をとって帰国して中国の大学で働くとしたら、薬学部教師のポストが与えられるでしょうから、四喜さんからみると、エンテイさんはエリートコースに乗ったと見えるのでしょう。四喜さんも「まだ恋人いない」でした。
 
 恋人いない歴○○年のレイトウさんもエンテイさんも四喜さんも、きっといつかすてきな出会いがあるだろうと思います。それまではシングル男の自由さを楽しんでください。

 自分の気持ちをきちんと告白したレイトウさんを見習って、私も「運命の出会い」をしたエンテイさんにプロポーズしておきました。「あなたを私の息子にしたいです。日本にいったら、私の娘と付き合ってね」
 回答は、「お友達から始めましょう」でした。

<つづく>
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2009年07月26日


ニーハオ春庭「民族楽器音楽会」
2009/07/26
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(23)民族楽器音楽会

 6月末の学内縄跳び大会で学内イベントは最後かと思っていたら、7月10日に校舎1階の多目的ホールで「民族楽器音楽会」という盛大なイベントがありました。大学教職員芸術団楽団の演奏による、民族楽器の紹介と演奏。6時から8時までありました。
 勤務校のテイ先生の肝いりで、教職員芸術団楽団のメンバーが、学生と教職員のために、演奏会を開いてくれたのです。
  
 テイ副校長は、皆から「書記」と呼ばれている大学の重鎮です。日本の小中学校生徒会とかPTAでは、役員の中に会長副会長の次くらいに「書記」という係があって、会議の記録などを書いていくのが書記ですが、中国で書記といったら、政治局のエリートであり、とてもエライ人。トップは総書記と呼ばれ、現在の総書記は胡錦涛(ホゥー・ジンタオ)です。

 我が校の「書記」テイ先生は、政治のエリートというより、芸術家の雰囲気がする人で、中国語や中国文化を学ぶために中国に留学している外国人学生に、中国文化を教えるなどしています。私も2007年に、太極拳を教えてもらいました。テイ先生は二胡の演奏にも秀でており、大学教職員芸術団楽団のメンバーでもあります。

 演奏会は、「紅楼夢選曲」から始まり、次にテイ先生による民族楽器紹介がありました。私は二胡は知っていましたが、二胡の同類の楽器に、高胡、板胡、京胡、中胡と、何種類もあることをまったく知りませんでした。これらは拉線楽器の種類。
| 吹奏楽器には、竹笛、笙などがあります。日本の篳篥(ひちりき)に似た管楽器、また、巴烏(バーウー)という雲南省の少数民族の楽器も紹介されました。巴烏は、竹の管に銅のリードをつけ、低音の含みのある音が出ます。
 あとは、さまざまな種類の打楽器。京劇でなじみの打楽器が多い。

 弾撥楽器の種類には、日本と同じ琵琶(中国の琵琶が日本へ伝えられたのだから、同じというのは当然だが)のほか、中阮、大阮というバンジョーに似た楽器が紹介されました。
 楊琴と古箏は、以前紹介したことがある私の好きな弾撥楽器です。楊琴はピアノのように鋼線を張った上を、木琴のように棒で叩いて音を出す。私が習ってみたい楽器のひとつです。
 古箏は21弦で、私はクラスの学生の持ち物である古箏を弾かせてもらい、「里の秋」が上手に弾けるようになりました。

 日本にある中国伝統楽器専門店のサイトをリンク。日本では、どの伝統楽器も20万円ほどしますが、中国で買っても、よい品は5千元くらいして、中国物価からすればとても高い。初級者用は千元くらいから。

二胡の類 http://www.13do.com/product-list/11
中阮  http://www.13do.com/product-list/22
竹笛  http://www.13do.com/product-list/15
巴烏 http://www.catalog-shopping.co.jp/shop/shop14/china/bawu/

 テイ先生の板胡独奏では、「東北風吹月児明」という曲の見事な演奏に聞き惚れました。司会をしていたチャンリー先生は、初級コースのときに博士コースの担任だった先生で、男子学生あこがれの美人教師。ダンスも上手だし歌もうまい。チャンリー先生は「好日子」という曲を独唱して拍手喝采を受けていました。

<つづく>
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2009年07月27日


ニーハオ春庭「里の秋」
2009/07/27
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(24)里の秋

 中国人学生にとって、エレキギターなどの現代風の曲を聞く機会はよくあるけれども、民族楽器オーケストラを聞く機会はそれほど多くなく、中国民族楽器音楽会は、中国の伝統文化を知る貴重な機会となりました。
 二胡の演奏では日本の「荒城の月」の演奏もあり、歌や演奏はよく知られた中国の伝統曲ということで、学生たち、2時間の民族楽器演奏会をおおいに楽しんでいました。
 
 演奏会が終わってから、日本人教師は、中国伝統楽器の試演奏をさせていただき、私はあこがれの楊琴を弾いてみました。調律がたいへん難しい楽器だというので、買って帰ることはあきらめましたが、いつか習ってみたい楽器のひとつです。
 古箏、近所の楽器店で2千元という格安ものが展示されていました。日本円に換算すれば3万円くらい。でも、古箏は、大きくて持って帰るのが大変そうだし、狭い家では、いったいどこに楽器を広げて弾いたらいいのかわからないから、これまた買ってかえるのはあきらめることに。

 古箏は、クラス一の芸術家、エイケツさんの楽器を借りて練習しました。エイケツさんに、古箏はドレミソラの五音階であることを教わり、基本的な弾き方、糸の押さえ方をならいました。日本の十三弦の琴と同じです。あとは、さぐり弾きで「里の秋」を練習しました。「里の秋」は典型的な「ヨナ抜き」つまり、ファとシの音が出てこない曲で、しかも音が順番につながって出てくるので、たいへん弾きやすい。
 クラスのカラオケパーティでも、私は「里の秋」を歌いました。スクリーンには中国語の歌詞が出るので、学生は中国語で、私は日本語で「♪し~ずかな静かな、里の秋、お背戸に木の実の落ちる夜は~」と、歌いました。

 「里の秋」は、敗戦直後のラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」や「復員だより」のテーマソングであり、外地から帰る人々を待つ思いが込められている歌です。遼寧省葫蘆島市の「中国及び満州からの引き揚げ者帰国記念碑」の前で歌おうとおもっていたのですが、行くことができずかないませんでした。

 「里の秋」は、中国ではテレサ・テン(麗君デン・リージュン)の持ち歌「又見炊烟」として知られ、女性が恋人のことを思う歌となっています。
 以下、「又見炊烟」春庭拙訳。(簡体字を日本漢字に変換)

想問陣陣炊烟 你要去那里  あなたがこの里を去ってから、私は夕ごはんを炊くかまどの煙にさえ、あなたを思っています
夕陽有詩情 黄昏有画意   夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你  絵のように美しい景色を見ても、私の心の中には、ただ、あなただけがいる
又見炊烟升起 勾起我回憶  かまどの煙を見てはあなたを思い、あなたの追憶にひたる
願你変作彩霞 飛到我夢里  朝焼けの中に、あなたが飛んで私の元へ来ることをどれほど願い夢みたことだろう
夕陽有詩情 黄昏有画意  夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你  詩歌や絵画に美しい境地はあれど、私の心の中には、ただ、あなたへの思いだけがある。
詩情画意雖然美麗 我心中只有你

 テレサテンの歌声はこのサイトで。
http://www.haoting.com/htmusic/21022ht.htm

 私も「里の秋」を歌いながら「引き揚げ」完了です。
 というわけで、「日本の博士課程に留学する日本文科省国費留学生への日本語教育」の全任務を終了し、無事帰国いたしました。
 「だだいま!」


<つづく>
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2009年07月28日


ニーハオ春庭「おみやげは肚皮舞衣装」
2009/07/28
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(25)おみやげは肚皮舞衣装

 おみやげ、妹や職場の同僚への物をいくつか買いましたが、自分のためのおみやげもあれこれあります。
 自分のおみやげに楽器を買うことはやめましたが、「よくお仕事がんばりました」の記念品を買い込みました。そのひとつは、ベリーダンス衣装です。コインをつなぎ合わせた腰巻き(ヒップスカーフ)と、スカート、胸を覆うコインをつなぎ合わせた胸当て。
 
 3度目の中国滞在の今回、東方肚皮舞(ベリーダンス)を3ヶ月間習って、けっこううまく踊れるようになりました。(あくまでも主観的な意見ですが)
 あ、ダンスの老師も、「このリーベンレン(日本人)は、私の説明は听不懂(聞いてもわからない)のに、うまくまねをして踊っている」と、誉めてくれたんですよ。
 私、これまでクラシックバレエ、モダンバレエ、ジャズダンスと、ダンス歴は30年、ベリーダンスもレパートリーに入れることができて、大満足です。

 所属しているジャズダンスサークルへのおみやげにも、ベリーダンスの衣装として10人分ヒップスカーフを買い込みました。来年の発表会のとき、皆で「ベリーダンス風」の踊りを発表するのもいいかなって思って。

 私は、練習のときも臍だしはしませんでした。もっとも私が臍を見せても、だれもドキッリともしやしません。自慢じゃないが、まったく色気を感じさせることのない腹です。インストラクターの劉先生が踊ると、同性でもドキドキするくらいセクシーなのに、同じ動き(をしているつもり)でも、私が踊ると、オバハンの健康体操。

 衣装はこんなイメージ。
http://www.tolcore.com/shopdetail/025000000022/

 いっしょに肚皮舞を練習してきたリグン先生からも腰巻き(ヒップスカーフ)をプレゼントしてもらいました。私が買ったのとは違う種類のコインがじゃらじゃらついているヒップスカーフです。リグン先生はちゃんと臍出し衣装で踊っていましたが、こう言っちゃなんですが、お人柄そのままの非常にまじめな踊りで、少しもセクシーではない。中学生の母親と大学生の母親ふたりが、並んでベリーダンス。リグン先生ともこれで2007年2008年2009年と、3年のおつきあいになりましたが、学校で日本語教育の話だけしているときより、ベリーダンスレッスンでいっそう親しくなれた気がします。

 本場のベリーダンスダンサーは、丸くてふくよかであるほどよし、とされており、やせていて細ければ細いほど美しく見えるクラシックバレエやジャズダンスとは違います。私がベリーダンスを気に入った一番の点は、この「ふくよかであるほうが色っぽい」とされる点にあります。セクシーさにかけてはちと疑問もありますが、「ふくよかさ」にかけては自信あり。

 5ヶ月間の中国滞在、成果はベリーダンスだけではなく、もちろん、日本語教育も大成功だったんです。
 我がクラスは、7月17日に実施された「中級終了最終試験」において、全員合格点で「専門日本語」への進級が決まりました。昨年10月にアイウエオから始まったクラス。私たち日本人教師が中国人の先生とペアになって日本語を教えるようになった3月には、4級レベルだった学生たちが、4ヶ月の間に急速に進歩して、2級レベルの試験に合格したのです。

<つづく>
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2009年07月29日


ニーハオ春庭「最終試験」
2009/07/29
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(26)最終試験

 7月に入るとまもなく、学生たちはカリカリピリピリしてきました。それもそのはず、2週間後に迫った中級日本語最終試験に合格しなければ、8月の専門日本語の授業が受けられず、専門日本語授業の最終日本語プレゼンテーションに合格しなければ、1年間日本語を学び続けた努力は泡と消えてしまうのです。

 日本への国費留学ができるかどうか、この試験にかかっています。いわば、一生の問題が試験一つにかかっているのです。試験に合格すれば、日本で博士号をとり、中国に帰国後は「エリート」としての将来が開ける。不合格ならせっかくのチャンスをふいにして、どこかに就職口を探すことになる。中国でも修士修了者が増えている現在、おいそれと望み通りのポストはないし、一般会社の就職口もよい条件のところは限られています。

 動物園散歩をしたあと、私のクラスから6人の学生が私の部屋に遊びに来たのですが、その後、私が日本語教師勉強会で発表しなければならなかったり、論文を提出しなければならなかったりで、時間がなかなかとれなくて、学生を部屋に招待することができませんでした。

 「先生の部屋に行って、おしゃべりできなくて残念だった」という学生がいたので、「試験前ではありますが、もし来られるなら、週末に遊びに来てください」と、クラスの人たちに言っては見たものの、「先生の部屋に行きたいです。でも、試験はもっと大切です」と、ソッコー断られました。もっともなことです。

 学生たちは放課後も週末も、ぴりぴりしながら猛勉強を続けました。私は、学生たちの不安を少しでも取り除きたいと、連日「必ず合格するから大丈夫」と言い続け、「ダンチョー先生が去年の修了生の試験平均点との比較をしたところ、3月の4級レベル試験の平均点でも5月の3級レベル試験の平均点でも、今年のほうがずっと点数が高い。そして去年、最終試験に不合格だった学生はいないのだから、今年も絶対に全員合格します」と、合格できるという暗示をかけ続けました。

 むろん、心配な人もいました。私に古箏の弾き方を教えてくれた芸術家のエイケツさんは、これまでの試験すべて合格点に達したことがなく、百点満点で90点80点とるのが当たり前というクラスの中で、一人だけ日本語がなかなか上達しませんでした。さぼっているわけでもなく、授業にはまじめに出席するし、教科書にはびっしり書き込みをして、一生懸命勉強しているようすが伺えました。でも、私が中国語を覚えられないのと同じように、相性の悪い言語はあるもので、英語ドイツ語フランス語ができるのに、エイケツさんは日本語が覚えられない。

 コミュニケーションをとることが語学上達の要なのに、彼女はクラスの中で孤高を保ち、クラスメートともルームメートとも交流しないでいました。友達と教えあうことは、教える側にとっても理解を深めることになるので、ペア学習、グループ学習は語学学習を成功させる重要な方法ですが、彼女だけは誰とも話さずいっしょに勉強せず、ひとりでいました。誰彼と無く面倒を見てきた学習係のカショさんも彼女だけはお手上げ。

 エイケツさん、芸術家風で変わり者ではありますが、純粋な心根を持つ、いい子です。中国語で執筆されている彼女の「昆曲のリズムと造園法」という修士論文も、その道の専門家に高い評価を受けています。私の願いは、なんとか彼女が合格点をとること。いっしょうけんめい励まして、17日を迎えました。

<つづく>
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2009年07月30日


ニーハオ春庭「合格」
2009/07/30
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(27)合格

 クラスの中で一人で過ごしているエイケツさんのことが、いつも心にありました。仲間と付き合うのが苦手からといって、決して悪い子ではなく、ただ人とうち解けることが難しいだけで、本来はとても純粋なよいひとです。音楽や芸術を愛する女性です。
 エイケツさんが仲間と円満にすごして最終試験を迎えられるよう願ってきましたが、エイケツさんは日本語学習がうまくいかないというイライラが昂じたのか、あと授業は残すところ1週間という時点でクラスメートとトラブルを起こしてしまいました。
 担任のシャ先生や日本語教育主任のマー先生が学生との面談を繰り返して、なんとかエイケツさんとクラスの対立を宥和しようとしてくださったのですが、なかなかうまくいきませんでした。

 エイケツさんが変わり者でクラスになじもうとしないとしても、それは彼女が芸術家であるからなのであって、縄跳びやカラオケに参加しようとしなくても、クラスは彼女の個性を認め、決して排除しようとしたりしなかった。この対立事件のあとも、クラスメートは彼女を仲間はずれにしたりせず、班長(クラス委員長)の結婚祝いのミニビデオ制作のときも、クラスの仲間たちとお祝いのメッセージを吹き込んでいました。

 エイケツさんも、きっと私の祈りが通じて合格するに違いないと信じて、17日の試験当日となりました。私の試験監督担当は、皆が苦手だと言っていた聴解の時間。エイケツさんは、文法苦手ですが、音楽得意なだけあって耳がいいので、聴解の点数はいいのです。自信をもって聴解試験を受けてほしい、そう思ってLL教室を見回しました。

 学生たちには、再試験もあるし、絶対に不合格にはならないから、不安なく試験を受けるように言ったのですが、小学生のときから常にトップの成績を取り続けてきた学生たち、万が一、最初の試験で合格点に達せずに再試験にでもなったら、恥ずかしくて仕方がない、と考えているのです。

 恥ずかしくないよ、語学試験なんて、その時の運、不運によってうまく自分の勉強したところが出ればよくできるし、運悪く勉強していないところがでる場合だってあるんだから、それでその人の全能力が判断されるわけでもない。百メートルを10秒以内で走れる人ばかりではないし、42kmを2時間で走れる人ばかりではないのと同じく、語学が不得意だからとしても、皆、それぞれの専門に関しては優れた業績を残してきた人ばかりなのだから、落ちたら堂々と再試験を受ければいいのさ、と、学生には言いましたが、実は私のクラスで再試験を受ける可能性があるのは、エイケツさん一人。

 結果。
 全員一発合格でした。17日の合格発表の時間、日本人教師たちは帰国の荷物を送り出すために郵便局へ出かけていました。携帯電話の連絡で全員合格を知り、航空便の段ボール箱に名前を書きながら、ボロボロ涙がこぼれました。2007年に全クラス全員合格の報を知ったときもうれしかったですが、それ以上に泣けてきたのは、エイケツさんの結果を心配する気持ちがあったからでしょう。
 エイケツさんは、「ぎりぎり合格」でもいいと思っていたのに、とてもよい成績をとっており、ラストスパートでどれほど彼女が努力したのかよくわかりました。

<つづく>
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2009年07月31日


ニーハオ春庭「合格祝いカレンダー」
2009/07/31
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(28)合格祝いカレンダー

 試験結果を見て、ソッコー故郷へ帰宅したのは、班長のキンセイさん。2週間の夏休みの間に、故郷で結婚式をあげるそうです。新婦は大学院の同窓生で、秋には二人そろって日本へ留学する予定。キンセイさんは国費留学ですが、奥さんは夫にあわせた私費留学。ふたりとも留学後は同じ指導教官のもとで研究を続けます。

 他にも、即刻帰省する学生が多く、金曜日の試験が終わってみると、残っているのは、電車の切符が試験の翌日翌々日にしか手に入らなかった学生たち。みんな一刻でも早く故郷の家族に会いたいのです。夏休みは2週間しかないので、故郷が遠い人の中には、今回は帰省しないという学生もいるので、「今回、帰省しない人は、先生の部屋に来てください。ビールで合格祝いの乾杯をしましょう」と言いました。

 土曜日と月曜日の2回、担任クラス3班の学生やそのルームメート、恋人もいっしょに集まりました。土曜日は、「先生の部屋に午前中しかいられません。午後の電車で家に帰ります」という人たち。ビールで乾杯!みな、試験が終わってほっとした顔で楽しくおしゃべりをして、故郷へ帰っていきました。

 月曜日は、「今回は帰らないで勉強をつづけ、専門日本語の最終プレゼンテーションに合格して留学が正式決定になってから帰省する」という学生が集まって、ビールとおしゃべりのあとは、宿舎の宴会ルームで昼ご飯とカラオケ。パラパラを踊ったりお得意の歌を歌ったり。

 私が「合格祝いにお昼をごちそうする」と言ったら、最初、学生たちは困っていました。中国では、学生と先生がいっしょに食事するとき、必ず学生が教師を招待するという習慣なので、教師からおごられるということにとまどうのです。「でも、今回だけは合格祝いですから、先生におごらせて」と言い、学生たちがまごまごしているうち、足止めの激しい雷雨となりました。学生も納得してゆっくり食べ、外の雷雨がやむまでたっぷり時間をとって歌い踊りました。

 帰省する故郷の家族へのお土産の一つは、私が手渡した「ひとりひとりへのメッセージ入り、日本の2010年のカレンダー」です。表にはパソコンからダウンロードした暦と「加油!(がんばれ)」の文字、裏には、クラス集合写真に、私が学生名をワープロ打ち込みをしたものを2つ作りました。1枚目には、私からひとりひとりへのメッセージを手書きで加えました。2枚目には、学生から家族へのメッセージを書かせて、ラミネート加工して学生本人用と家族用の2枚のカレンダーを作りました。

 他のクラスは写真屋さんに発注して写真とカレンダーをあわせてラミネートしたので、仕上がりは我がクラスより立派ですが、私のクラスは、学生の名前を入れたり、教師からのメッセージを入れたりという「手作り感」がポイント。ラミネート加工はA5サイズが1元(15円)、A4サイズは2元。値段は安上がりに仕上げたけれど、心がこもっているってところがミソ。お金はかけずに手間暇かけた。そして、ひとりに2枚ずつカレンダーを配ったってとこが「2倍お得」

 「このカレンダーは、先生からご家族へのプレゼントです。家族と電話やスカイプで話すとき、日本ではいつが休みの日なのか、これを見ればご家族にもよくわかるから、おうちの壁に貼っておいてね。」と、配りました。お手製合格祝いを皆よろこんでくれました。

<つづく>



2009/08/01
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(30)帰国&帰省

 カレンダーに書き入れた、私から学生へのメッセージ。キンセイさんへは「結婚おめでとう。二人で力を合わせて研究してください」、エイケツさんへは「古箏の弾き方を教えてくださって、ありがとう。いつかまたいっしょに合奏しましょうね」と、ひとりひとりへの思いを込めたことばを書きいれました。

 学生から家族へのメッセージには「必ず博士号をとって日本から帰るから、体に気をつけて待っていてください」とか「一家が平安でありますように」などの思いを込めたことばが中国語で書かれています。それぞれが「世界にひとつだけの手作りカレンダー」になって、よい記念品になったと思います。

 学生から私への記念品は、ひとりひとりの手書きメッセージに写真を添えた記念アルバムです。授業最終日の7月16日に、班長さんが代表になってプレゼントしてくれました。

 全任務を終了し、基礎日本語終了を祝うカレンダーを配りながら、来し方を振り返る。3月中旬から7月下旬まで4ヶ月半の短い赴任期間でしたが、成果はいろいろありました。

1)本務。担任クラス19名の2級レベル試験合格(受験した5クラス全員が合格し、国費留学生の資格を保持しました。さすが、中国全土から選抜された修士修了者たちです)

2)4ヶ月半の間に、文科省視察団の授業参観、日本語教師団団長の授業参観、中国人教師の個人的授業参観2回、勤務校中国人日本語教師総見の授業参観、他校の教師による参観、都合6回、参観授業を実施した。

3)本務に付随する仕事。教師としての実践報告。「文型教育及び読解教育のなかで行うパワーポイント利用の日本事情教育」という日本語教育実践報告論文を1本仕上げ、勤務校の「創立30周年記念論集」に応募。査読にパスして、国際日本語教育シンポジウムでの発表者に選ばれました。8月16日発表日に併せて再び中国へ行くことに決定。

4)大学院博士課程学生として。日本語言語文化に関する紀要論文を1本仕上げ、大学院のジャーナルに掲載。

5)「村上春樹研究」で博士論文を提出する中国人日本文学研究者の論文添削をはじめ、3人の中国人日本語教師の日本語日本文化研究論文の添削をした。学部4年生日本語科学生(日本人講師室アシスタントを務めてくれたかわいい女子学生ふたり)の卒論を添削。都合、論文4本卒論2本の添削。皆、私のところに添削希望を持ち込んできます。気安く頼みやすいからだと思います。

6)勤務地の日本語教師勉強会で、「日本語教育実践報告-パワーポイントファイルの読解教育利用-その利点と欠点」について発表。

7)東北地方の三か所の世界遺産見学。集安市、好太王石碑と将軍墳ほかの遺跡。遼寧省葫蘆島市の九門口長城。瀋陽市のヌルハチ陵や盛京故宮。

8)ベリーダンス習得

 私としては8番目のベリーダンス習得をおおいに誇るところです。おお、すばらしい活動成果!と、自分で誉めておく。娘&息子からは「ああ、あ、暑苦しいハハオヤが帰ってきちゃったよ」というふうに迎えられているのですから、せめて自分で自分に「よくがんばりましたで賞」くらい贈ってあげないと。

<つづく>
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2009年08月02日


ニーハオ春庭「健康第一」
2009/08/02
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(31)健康第一

 7月31日午後は、健康診断。区の無料診断の締め切りが7月31日でした。朝から食べてはいけないというので、ダイエットになるからがんばれと、自分を励まして午前7時に目覚めてから午後5時の検診開始まで空腹に耐えました。えらいなあ、私。って、みんな検査のときはこれくらいやっているよね。普段空腹に耐えることないので、えらい大仕事した気になっています。

 血液検査は、外部検査に出して結果が戻るまで5週間かかるということですが、あとの結果は、X線レントゲン、血圧、心電図、尿検査すべての数値が理想的な範囲に収まっていて、何の問題もない健康体であると、内診の若いお医者さんが保証してくれました。母と妹が患っていた糖尿病について心配していたので、今回の数値ではその心配もなかったことがわかり、ほっとしました。血糖値の心配は残っていますが。

 無事、中国での任務を全うすることができ、元気に帰国できたのも健康であったればこそ。同僚の先生方、みな一度はおなかの調子が悪くなり「脂っこい中国料理はこれ以上食べられない」という状態になったのに、一番年寄りの私ひとり、最後まで中国料理を食べ続けました。

 レストランで日本料理を食べたのは5ヶ月で6回。「古本吉田」というチェーン店の牛丼屋に1回、「888ラーメン」という北海道ラーメンのチェーン店に3回(安いから)、「プチ北国」という和食レストランで刺身定食1回。長白山ホテルの中にある「紅葉」という和食レストランで「200元で和食食べ放題」というのに1回行きました。

 自炊で和風料理を作ったのも、みそ汁を何度か作り、菜っぱのお浸しを作ったのやカレーライスを一度作っただけで、あとは大学職員食堂のセルフサービス中華ランチと宿舎食堂のテイクアウト中華おかずで暮らしました。中国の野菜料理、油炒めが多いので、たまには野菜をゆでただけの物に醤油だけでさっぱりと食べたくなりましたが、あとは特に、刺身が食べたいとか肉じゃがが食べたいとか思うこと無かった。東北地方料理も、湖南料理も北京料理も、何でもおいしくいただきました。健康で過ごせたのも、鉄の胃袋を持っているおかげと思います。

 また、今回特に人間関係のトラブルがなく過ごせたのも、快適に過ごすために大いに役立ちました。2009チームの先生方のお人柄のよさに助けられての5ヶ月間でした。
 最初に中国で仕事をした1994年のときは、いっしょに赴任した男性助教授と女性助教授の折り合いが悪く、毎日のように机をたたき合って口論していたことを思うと、今回の派遣では6人のチームワークがたいへんうまくいき、机を叩くことも意地を張り合うこともなく過ごすことができたこと、ひとえに私の人徳のおかげ、、、、ってことはまったくなくて、、、。私は、最年長なのを掲げて、いつも「私は年寄りだから」と言い訳しつつできるだけ楽をしようと考え、皆に助けてもらうばかり。

 特にパソコン関係ではわからないことだらけなので、何かというと若い先生にパソコンの設定やらをお尋ねしながら仕事をしました。親切な同僚のおかげでなんとか任務全うできたのです。

 私が何か役にたったとしたら、ダメだめぶりを皆に見せ続けて、あんながさつな人間でも何とかやっていけるのだ、ってことを示せたことくらいかな。年中ばたばたとあわてていて、何かと忘れ物が多く、1回の授業で教室から2度3度忘れ物を取りに講師室に戻ってくる。毎日のドタバタぶりをみせて、年取ってもあんな程度でやっていけるのだ、という安心感を与えることができたかもしれません。

 また、誰一人中国語が話せなかった2007年の派遣チームと異なり、今回は中国滞在歴2年の先生や、以前中国で仕事をしたことがあり、中国語韓国語両方話せる先生もいらっしゃった、ということも、ストレスが少なかった理由だろうと思います。日本語を教える学校の中にいる限りでは、中国語を一言も話すことができなくても仕事はやっていけます。でも、町にでると、片言でも中国語が必要になる。そんな時でも、中国語ができる先生は、一人で着々と暮らしていて日常生活がスムーズにいくので、私も安心できました。

<つづく>
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2009年08月03日


ニーハオ春庭「みなさんありがとう」
2009/08/03
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(32)みなさんありがとう

 今回の中国滞在中、宿舎の生活でのトラブルは、道路工事のため3日間水が出なかったことと、水は復旧したと思ったら、そのあと3日間お湯がでなかったことがあった、ということくらいです。同僚はスポーツジムのサウナに出かけたりしていましたが、私はヤカンでお湯を沸かして体を拭いてしのぎました。不自由だったことはこれくらいで、あとは日本と比べてこれがなくてたいへんという物質的なことはなく、おおむね生活は快適でした。

 不自由だったのは、ユーチューブが制限されていて、ネットから遮断されていたことかな。投稿サイトは、政府にとって都合が悪いことも映し出してしまうので、情報の元そのものが遮断されたままでした。チベット問題も新疆ウイグル自治区の暴動も、テレビが伝えるニュースは、政府側の発表に基づく情報だけでした。

 あと、不自由と言えるのは、私の中国語がまったく進歩しなかったこと。片言でなんとか生活できてしまうので、それ以上の中国語を学ぶことがなく、4ヶ月半すぎてしまいました。今回の赴任では仕事仕事の毎日で、ちょっとの間があればパソコンに向かっていたので、中国語を学ぶ時間もなかったし。

 たとえば、私の部屋では風呂場のシャワータンクから漏水したこともありましたが、漏水のときは、受付へ行って、シャワータンクの絵を描き、水がぽたぽた垂れるようすを描いて、ただ「水、シュイ」と言いました。「明白了、ローシュイ、明天修理」と、受付の人に言われて、あれ、漏水は中国語でローシュイっていうんだ、と気づく程度の中国語力の私が何とか暮らせたのも、複雑な話になったら、同僚の中国語に助けてもらったおかげ。

 前回、前々回の滞在中は、中国語の家庭教師を頼んで、少しでも中国語を覚えようとしたのですが、今回は「もう年寄りだから、これ以上中国語覚えられない」と、完全に投げていました。そんな私でも、任務完了できたのは、同僚の先生たちに恵まれたからと感謝しています。
 おなかの調子をくずした人はいましたが、病院に行くほどの病気になった人がいなかったというのも、今回のチームがなごやかにすごせたひとつの理由。
 私もベリーダンスで踊ってストレス発散できたし、みなが体調よくすごせたことが、一番よかったことでしょう。中国人の同僚先生にもいろいろ助けてもらいました。

 担任クラスの学生たちにも恵まれました。前回前々回の学生たちももちろん非常に優秀な人たちで、よいクラスでしたが、今回も優秀で人柄のよい学生のクラスであって、たいへん助けられました。
 班長(バンチャン=クラス委員長)のキンセイさんは、皆から「シーバンチャン」と慕われ、リーダーシップを発揮しても決して強権的ではなく、なごやかにクラスをまとめていました。

 学習委員のカショさんは、日本語の聞き取りも上手で、クラスの皆の学習に役立ってくれました。体育委員のヨーショーさんは、明るく元気に縄跳び大会やバドミントンのとき活躍していたし、学芸委員のソケツさんは、人妻らしい落ち着きを見せながら、教師歓迎の学芸会をとりまとめていました。生活委員のエンテイさんは、クラスメートの寮生活やみなでお金を集めてパーティをするときなど、きちんと配慮して対処していました。その他の学生たちも、皆なかよく、楽しくクラスの中でお互いを認め合って、互いの個性とそれぞれの専門分野では優秀な人であることを尊重しあっていました。

 8月の専門日本語は、今までの基礎日本語のクラスがバラバラになり、専門ごとに10クラスに分かれる編成になります。医学専攻のクラス、化学専攻のクラスなどになるので、また違う雰囲気のクラス作りとなるでしょうが、基礎日本語クラスの3班は、8月に私が再び中国に行ったときは、もう一度元の仲間が集まってクラス会ができるかもと、期待しています。
 
 みなさん、本当にありがとうございました。

<つづく>
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2009年08月04日


ニーハオ春庭「論文発表会」
2009/08/04
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(33)論文発表会

 帰国してものんびりはしていられません。
 8月中旬には、中国での勤務校が主催する国際日本語教育シンポジウムで発表するために、再び中国へいくことになったし、9月には前期お休みした分の授業の集中講義があります。学部日本人学生向けに1週間は日本語学概論、2単位分。2週間は日本語教授法4単位分。朝から夕方まで、一日に90分4コマの授業を集中して行います。声が枯れそう。
 さらに、学生としては、大学院の単位にする英文学との比較文学論のレポート執筆が2本。9月末日にはもう一度博士論文中間発表を行う。

 6月にパソコン故障のため失敗した「博士論文中間発表会」の再実施が7月30日に実施され、拙い発表でしたが、なんとかこなすことができました。事例研究として発表した論に対し「実証研究としてのデータがきちんと出されていない」という叱責も受けましたが、定型文の「今後の課題としていきたいと存じます」で切り抜けました。官僚や政治家の発する「前向きに検討していきたい」みたいなもんです。昨年9月の第一回目の中間発表に続き、第二関門突破。

 6月4日に予定されていた私の「中国からサイバー方式で博士論文中間発表を行う」というイベントが、その6月4日当日の朝にパソコンハードディスク損傷というアクシデントで、すべておじゃんになりました。
 指導教官は私のために何度も大学院教官の会議を要請し、前例のないことはしたくないという他の教官を説得して「中国からの発表を認める」ということにしてくださったのに、パソコンが壊れたという情けない事情で、先生の努力も無駄にしてしまったのでした。

 指導教官は、なおかつ「7月30日に再度、発表の機会を与える」という結論を教官会議で決議してくださり、チャンスを残してくださった。ですから、30日の発表はぜひとも成功させなければなりません。

 30日の発表、今度こそうまくいきますように、と祈りつつ迎えました。それでも、学生たちが試験を前に緊張していたほどではありません。学生たちは試験に落ちたら日本への留学ができなくなり、人生が変わってしまう。彼らと異なり、私は博士号とったからといって、残り少ない人生がよくなるわけでもありません。

 私が博士号を取ろうと志したのは、ただ、還暦記念として自分の学業に記念のメダルが欲しかっただけ。還暦記念にエルメスケリーの60万円のバッグを買うのも、1カラット60万円のダイヤの指輪を買うのも、博士号を取るのも、同じことです。私にはブランドバックよりもダイヤモンドよりも博士号が欲しかったというだけです。

 実は、ハカセゴーというのは、けっこう高い買い物です。私立大学の博士課程在学には3年間に結構な額の学費をつぎ込むことになる。息子の私立大学費も払わねばならぬ女の細腕にとって、いくら「服も化粧品もいらぬ」と節約してもスネが細るばかりの教育費。しかも、ダイヤはお金を出せばかえるけれど、博士号はお金を払っただけでは買えない。

 どうして修士課程出身校の国立でなく、学費の高い私立に進学したのか、と中国で学生に質問されたことがあります。出身校の博士課程の入試には、語学試験で「2つの言語に堪能なこと」というシバリがあった。英語と中国語とか、ロシア語とスペイン語とか、ふたつの語学ができることを求められた。私ができるのは英語とスワヒリ語ですが、入試科目にスワヒリ語はない。私立では英語だけでよかったので、語学苦手な私は「筆記試験は英語と論文」でよい私立を受験したのです。

 お金で買える博士号もあります。ディグリーミルと呼ばれるインチキ博士号にだまされて大枚はたいてしまった人もいる。ご注意あれ。海外からの迷惑メールの何割かはこの「博士号を手に入れませんか」というディグリーミルからの宣伝です。

 博士課程在学の学費をつぎ込まないで、論文執筆のみで博士論文審査に提出することも可能でしたが、怠け者の私は、コツコツ論文を仕上げるより、レポートや発表、紀要論文などで尻をあおられるほうが、確実に課題をこなしていけると考えたのです。今のところ、とりこぼしは、6月の中間発表、サイバー発表の失敗だけ。単位は取れてます。

 中国で、アラカン(アラウンド還暦)の記念品に、還暦祝い赤いちゃんちゃんこがわりの赤いポロシャツを25元(約400円)で買いました。これを着て近くのスーパーに買い物に行ったら、スーパーの店員がみな似たような赤いポロシャツを着ていた。スーパーのお仕着せとそっくりのシャツで、偽スーパー店員になってしまって「○○売り場はどこか」とか質問されて困りました。「○○」が聞き取れなかった。
 いつものように「听不懂チンブートン聞いても理解できない」と答えたのではまずかろうと思い、偽店員の返事は「不知道ブーチーダォ知りません」。

 本物の店員に聞いても、持ち場以外の売り場に関してはつっけんどんな返事しか帰ってこないので、まあ、スーパーのサービスに関して苦情が出るようなことはなかったろうけれど。同僚たちは赤いポロシャツを目にするたびに笑って「あ、今日はスーパーに出勤ですか」とからかうのでした。
 店員としては偽物でしたが、博士としては本物を目指したい。

 7月30日には、なんとか「博士論文中間発表」を終え、第二関門のクリアです。研究の不備を指摘され指導されたのは当然のこととして、次の発表9月末までにもっとよい論になるよう、まとめていかなければなりません。ファイナルステージまで、元気に持ちこたえていきたいものです。
 4ヶ月半の中国での任務、日本での博士論文中間発表、この半年間、厳しいけれど充実した日々をすごすことができ、老骨むち打った甲斐がありました。偽スーパー店員になったり、学生たちとカラオケで歌ったり踊ったりした日々をなつかしく思い起こしています。

<おわり>
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