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ニーハオ春庭中国日記「世界遺産瀋陽の旅」

2011-07-11 06:10:00 | 日記
2009/07/02
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(1)瀋陽市

 遼寧省の省都、瀋陽。
 都市名は、中国風水思想により山の南側と川の北側は「陽」という考え方から命名されています。市内の南部を流れる渾河の古名「瀋水」の北に位置することから「瀋水ノ陽」という意味で、「瀋陽」という名になりました。これは、瀋陽市出身のゴタンさんとレイショウさんふたりのレポートによる知識です。
 中国東北部最大の都市であり、清王朝の古都としても知られています。女真族(清朝成立後は満州族と改称)の建てた「後金」の首都としての都市名は「盛京」です。

 現在の瀋陽市は、市区の人口500万人、周辺地区を入れると700万人という大都市ですが、歴史は古く、7200年前には定住集落(新楽遺跡)があったことが知られています。遼寧省博物館でこのあたりの歴史はたっぷり勉強してきました。
 瀋陽博物館は、たいへん内容が充実しており、中国磁器や絵画、歴史や考古学の好きな人にとって、丸一日使ってゆっくり見ても時間が足りないくらい。私は半日しかいられなかったのが残念でした。しかも無料!2008年から始まったという「無料開放」の恩恵を受けました。

 原始時代の展示室には、新楽遺跡のドルメン(石造の建築物)のレプリカや人々が洞窟で暮らしたようすの再現ブースなどがあり、7200年前という太古から、この地に人々が営々と日々の暮らしを営んだようすが展示されていました。
 そのほか、中国東北地方の歴史が時代ごとに展示室を設けてあり、社会科見学の小学生中学生がおもしろそうに見ていました。

 考古学的発掘品のほか、古銭の収集でも際だったコレクションが収蔵されていて、「中級日本語」の読解教材「銀貨や銅貨はなぜ丸いか」というページに出てくる「刀の形の貨幣」「鍬の形の貨幣」「貝がら貨幣」などがびっしりと並べられています。
 美術品の収集も充実していて、元、明、清それぞれの時代の陶磁器が展示してありました。中国美術に興味がある人にとっては、一日中見ていたい国宝級の美術品がありましたが、私は時間がなくて、どの展示室も駆け足でまわりました。

 満州族古都時代は、盛京と呼ばれた瀋陽。清朝3代目の順治帝が北京に遷都したあとも、初代と二代目の陵墓がある故地として大切にされ、副都として重きをなしてきました。

 日本近代史にとっては、。1905年の日露戦争で、当時史上最大規模の野戦である「奉天会戦」の戦場となり、日本近代史のターニングポイントとなった地でもあります。
 清朝滅亡後、瀋陽は張作霖張学良父子を代表とする奉天軍閥の拠点となりました。馬賊から身を起こし、卓抜な軍事力で「事実上の満州王」としてこの地に君臨した張父子の拠点となった家が張氏師府。
  
 瀋陽観光は、宿のすぐそばにある張氏師府の見学から。宿から歩いても5分くらいの場所にあるのですが、自転車タクシーに乗りました。タクシーの中に駅前で買ったばかりの瀋陽地図を置き忘れてしまった。
 張氏師府の入場料50元は、隣にある「瀋陽金融博物館」の入場料も兼ねています。う~ん、こっちも無料にしてくれればいいのに。
 張氏の邸宅は、東北軍閥政府の政務庁を兼ねていた大きな屋敷です。伝統的な「三進四合院」という建築様式の私邸部分と、近代建築の西洋風の公務用邸宅があり、張父子はここで日本の関東軍要人や外国人貿易商らとの面会、政務を行っていました。

 入り口を入るとすぐのところに、張作霖の娘たちが学校に通うために使用した馬車が展示されていて、中国人観光客はわいわい騒ぎながら、馬車の前で写真を取り合っていました。

<つづく>
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2009年07月03日


ニーハオ「張氏師府」
2009/07/03
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(2)張氏師府

 張氏師府には、日本語の案内パネルがあって、ガイドなしでも説明がわかってよかったのですが、この日本語の説明が実に笑える「日本語でどづぞ」式だったので、「う~、添削してぇ!」と、叫びながら読みました。添削した紙を係官に渡したらどうか。そんな紙はひねりつぶしてゴミ箱へ。すでに設置されているパネルの書き換えなど提案しても、だれの得にもならない。得にならないことを役人がするはずない。

 いつか中国人のエライさんに出会って、「中国人の日本語力はこの程度かと思われたら、中国の恥になりますよ」くらいのことを言えば、国際的観光地の日本語パネル表示が訂正されるかも。それまでは「日本語でどづぞ」を読んで楽しみましょう。

 張氏師府内の写真豊富なブログをリンク
 http://kangeki.blog.so-net.ne.jp/2008-03-22-2

 日本語が聞こえてきたので耳をすますと、50~60代くらいの日本人男性ふたりを、若い女性ガイドが案内しています。しかし、彼女の日本語は少々おそまつで、たとえば、展示品の火鉢の前では、「冬、寒いね。手、します」と、手を摺り合わせるジェスチャー。まあ、意味が伝わったからいいのだけれど、集安市で出会った日本語ガイドの金さんが、完璧な日本語を話していたのと比べると、「ああ、この程度でもガイドとして通用しているんだなあ」と思ってしまいます。

 朝鮮族であり、文法が日本語と同じである母語を持っているため日本語が達者だった金さん。彼のガイド料は、1日300元(約4500円)と言っていました。高句麗や好太王の歴史についてもきちんと説明してくれるにちがいありません。貧乏旅行の私は金さんにガイドを依頼できませんでしたが、この「手、こう」のガイドさんは、もっと高いガイド料とっているのかもしれません。瀋陽は大都市ですから。

 ガイドされている日本人二人は、「張作霖?知らないなあ」と、日本近代史には何の興味も持っていないようでしたから、「手、します」くらいでちょうどいいガイドだった。
 もし、近代史に興味をもっていたり、「偽満州」史や日中関係史などに関わる人のためだったら、もう少し歴史的な説明ができるガイドがつくのでしょう。

 中国では、事件現場の地名をとって「皇姑屯事件」と呼ばれている事件。日本では、事件当時は「満洲某重大事件」と呼ばれ、現在の歴史教科書には「奉天事件」あるいは「張作霖爆殺事件」と記載されている事件。近代史のなかでは大きな事件なのですが、興味のない人にとっては、張作霖も張学良も歴史のかなたの「昔の人」に過ぎないでしょう。

 日本では、近代史や近代日中関係史を中学高校ではほとんど扱わないので、張作霖と張学良親子について知らない若い人は大勢います。でも、せっかく「張氏師府」という張親子の居宅兼政庁に観光に来たのだったら、もうちょっと中国に関する興味を持ってほしいなあと、思いつつ、歴史的な写真パネルや張学良の遺品などを見て歩きました。

 張学良は、数奇な一生をすごした人です。何よりも100歳まで生きた「歴史の証人」でありました。
 「事実上の満州王」として中国東北地域を支配した張作霖の長男として生まれ、プリンスとして、幼少時から英才教育を受けて育ちました。父張作霖が日本軍によって列車ごと爆殺されたあとは、軍人としての才能を発揮して父の後を次ぎ、東北軍閥を掌握しました。
 以下、張学良と後妻の趙一荻の物語。

<つづく>
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2009年07月04日


ニーハオ春庭「張学良」
2009/07/04
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(3)張学良

 張学良は、西安事件など、中国近代史に重要な役割を果たしました。現代中国では「周恩来との秘密会談によって、抗日に協力した英雄」という評価を受けています。蒋介石を「国家の敵」とするために、張学良を持ち上げている、という評もあり、歴史上の評価は、中国、台湾、その他の国でも評価が定まっていません。

 張学良自身は、1991年にNHKのインタビューに答えた際も、西安事件については詳細を語りませんでした。しかし、1994年に、陸鏗(香港の著名ジャーナリスト)のインタビュー(香港『百姓』1994年)に対して、彼は、「(西安事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」と述べ、自身が果たした歴史上の行為について、結果的に西安事件が国共内戦においては共産党に有利に働いたことを「後悔していない」と語っています。このようなことも中国側の評価を高くしている理由でしょう。

 1937年、蒋介石は張学良を軟禁状態とし、以後50年間、彼は行動の自由を奪われて生き続けました。1949年に共産党が人民共和国を樹立したあと、国民党蒋介石によって台湾へ拉致され、軟禁が続きました。1975年の蒋介石の死後、1991年に正式に軟禁が解かれるまで、50年に及ぶ日々を幽閉状態で暮らし続けました。

 軍閥として国際的に名を知られた張学良が、37歳から50年間もの間、軟禁状態に耐えたには、強い精神的支柱が必要だと思いますが、この支柱になったのは、キリスト教入信と、後妻の趙一荻です。軟禁から解放された後、夫妻はハワイで晩年をすごしました。

 台湾に移送されて以後の張学良と添い遂げた趙一荻は、ハワイ移住後はエディス・チャン(Edith Chang)名乗っていました。
 趙一荻夫人は、2000年6月に88歳で亡くなり、最愛の妻を失った張学良はその翌年11月に妻の後を追って亡くなりました。張学良は100歳と4ヶ月という長寿をまっとうしました。 

 張氏師府の隣の地に、趙一荻が若いころ住んだ瀟洒な家が残されています。これは、張学良と趙一荻が出会った当時、張学良にはすでに妻子があったため、張氏師府の中に住まいを与えることができず、別棟を建てていたときの家です。
 先妻于鳳至は1916年春、張学良と結婚、二男一女をもうけていました。
 趙一荻は、16歳で27歳の張学良とダンスホールで出会い恋に落ちました。(その後、ダンスはふたりの共通の趣味として、生涯ともにダンスすることを楽しみにしていたそうです)。
 趙一荻は、美しく聡明な女性で、張学良が海外へ出かけるときは、男装して従いました。これは、表向き「秘書」として彼のそばにいるための方策でした。趙一荻旧居には、男装写真が階段の壁に掛けられていました。

<つづく>
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2009年07月05日


ニーハオ春庭「張学良と趙一荻」
2009/07/05
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(5)張学良と趙一荻

 張学良の先妻于鳳至は、夫が蒋介石によって軟禁されたあと、1940年 2月に米国へ脱出しています。(一説に病気治療のため)
 趙一荻は88年の生涯のうち、73年を張学良に連れ添いましたが、正妻の于鳳至をはばかって30年以上を日陰の身として「秘書」の名目で張学良に従いました。于鳳至と張学良の法的な離婚が成立したのち、1964年7月に晴れて結婚しました。出会ってから38年目、台湾での軟禁状態にある張学良をささえ続けて15年の末に得た正妻の座、趙一荻は52歳になっていました。

 1989年、張学良は、李登輝政権の下でようやく自由を回復しました。1991年に正式に釈放され、趙一荻は夫と共に1994年ハワイに移り住み、二人してハワイで暮らし、生涯を終えています。

 張学良の99歳(数え年で百歳)の誕生日祝いが盛大に行われたとき、趙一荻はどのような思いで来し方を振り返ったでしょうか。この誕生祝いののち、趙一荻はホノルルの病院に入院、そのまま帰らぬ人となりました。

 台湾での軟禁生活のうち12年をすごした台湾北部、新竹県五峰郷の清泉温泉の「張学良軟禁の家」は、2008年に改修整備されて一般公開されているそうです。
http://sankei.jp.msn.com/photos/world/china/081024/chn0810242238005-p2.htm

 2008年12月の開所式のテープカットは、馬英九総統が行うなど、台湾でも張学良の再評価が進んでいることがわかります。

 先妻の于鳳至は、『我与漢卿的一生:張学良結発夫人張于鳳至回憶録』という、口述筆記の自叙伝を残しています。出版は2007年5月(ISBN:7802142237 ISBN13:9787802142237 )
 張学良と趙一荻も、世界史的な事件に関わった人物として歴史の証人となるべく自叙伝を口述筆記でもよいから残すべき人だと思うのですが、今のところ、ふたりの回想録や口述筆記の伝記は見あたりません。

 張学良は自由の身となって以来、中国にも揮毫をさまざまに残しており達筆の人でした。たとえば、私が1994年に瀋陽市の東北大学を見学した際、正門の「東北大学」という文字は張学良の書によるものでした。50年にわたる幽閉生活では、旅行や外部マスコミとの接触などの自由はなかったものの、衣食住は保証されて労働の必要もなく時間はたっぷりあったと思うのですが、著作を残していないところを見ると、文章を書くのはあまり好きではなかったのかもしれません。

 国共内戦を戦った人々のうち、毛沢東や周恩来は読書家として知られ、多くの著書を書き残したのに対し、台湾へ去った蒋介石と張学良には著作がない。文字によって己の思想を書き残せる人のほうが、歴史的評価の点では有利。張学良の評価が歴史的に固まるのは、この先、さまざまな資料の解読がすすみ、研究が進展してからのことになるでしょう。

<つづく>
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2009年07月06日


ニーハオ春庭「東陵公園」
2009/07/06
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(6)東陵公園

 張氏師府見学のあと、若い友人リンリンといっしょに、中街の餃子店へ。おなかいっぱい餃子を食べました。
 大東門前のバス乗り場から218番の路線バス(1元=15円)に乗って、東陵へ行きました。近代史の舞台から一気に清朝の初代へ。東陵は清朝初代ヌルハチの陵墓があるところです。瀋陽市の東北11㎞の緑濃い丘陵地帯にあり、路線バスで30分でつきました。

 東陵の正式名称は福陵ですが、瀋陽市の東部に位置するので東陵と呼ばれ、現在は「東陵公園」として一般公開されています。入場料は30元。2004年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に指定されています。

 ヌルハチの死については、興城の攻防について記したとき述べました。明の領土への侵入をはかったヌルハチ13万の軍勢に抗して、明の知将袁崇煥が興城を守り抜いたというお話。ヌルハチは袁崇煥の撃った紅夷砲(ポルトガル製大砲)によって傷を受け、そのため死にいたりました。ヌルハチの息子のホンタイジも同じように明の領土への侵入をはたせず、袁崇煥に屈しています。

 ヌルハチの陵墓は、1629年に建てられ、ヌルハチと共に皇后イエホラナが眠っています。後金時代の1629年(天聡3年)に着工し、完成したのは、1651年。清の3代目順治帝のときでした。
 その後も歴代の皇帝が墓参に訪れ、康熙帝によって、整備拡張が続けられました。1672年(康煕10年)から1829年(道光9年)年まで、康熙・乾隆・嘉慶・道光の4皇帝が10回東巡し,福陵を訪れています。日本の歴代将軍が日光東照宮を訪れているのと同じ。

 山に囲まれていて、参道には108段の石段があります。リンリンといっしょにイーアルサンスーと数えながら登ったのですが、なぜか107段。最初の一段を上ったところから数え始めたのですが、登る前を一段目にすべきだったのでしょうね。仏教では108は煩悩の数とされ、除夜の鐘は大晦日には108回鳴らされますが、陵墓を完成させた順治帝が仏教に深く帰依した人だったので、ひいじいさんの墓も仏教思想を取り入れて完成したのだろうと思います。

 あたり一帯には松が植えられており、松林の中にこんもりと小山が築かれています。私はこの古墳の中にヌルハチ夫妻が眠っているのだろうと思ったのですが、リンリンが説明板を読んだところによれば、古墳っぽい丘の前に立つ立派な建物の地下が墓室だというのです。発掘したかどうかわかりませんでしたが、私がヌルハチなら、建物の地下より「古墳の山の中がいい。私がいいって言ってもどうにもならんが。

 この福陵にも、清時代の衣装を着て写真を撮る貸衣装屋がいて、若いカップルが皇帝皇后の衣装っぽいのを着て写真を取り合っていました。いっしょに写真をとってもらいました。
 福陵前の龍湖でしばし休憩。再び218番の路線バスで中街へもどりました。

<つづく>
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2009年07月07日


ニーハオ春庭「」盛京故宮」
2009/07/07
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(7)盛京故宮

 夕食は友人リンリンの故里である湖南省料理の店へ。ホテルの前から10メートルくらい歩いたところにあるので、土曜日の夕食と日曜日の昼食の2度食べました。その名も「毛家の店」店内には、共産党王朝の初代、湖北省出身の英雄、毛沢東の写真が掲げられています。毛王朝は、「皇后」江青の失脚によって二代目三代目とつづくことはありませんでしたが、隣の国では金王朝がどうやら三代目の跡目相続でもめているようす。

 さて、毛沢東が最も好んだと言われる紅焼肉や、竹の筒の中に餅米と豚肉が入っている竹筒蒸排骨、とてもおいしかった。湖南料理は四川料理と並んで辛いことで有名ですが、私が辛い物が苦手と言っていたので、リンリンは上手にメニューを選んで、辛くないものを並べてくれました。「これはお母さんの得意料理」という鶏肉のスープも辛くはなく、おいしかった。リンリンは、7月5日にお母さんや妹ヤータンの待つ故里へ帰りました。8月からはOLです。

 盛京(瀋陽)故宮は、後金(のちの清朝)の初代皇帝ヌルハチと2代皇帝ホンタイジの皇居で、規模は北京の故宮の12分の1です。
 盛京故宮は、北京故宮ほど壮大ではなく、こじんまりした印象なので、リンリンは「想像していたより小さい」と感想をもらしていました。

 1625年に着工、1636年に完成しました。初代ヌルハチと2代目ホンタイジはこの皇居に住んで全中国の統一をめざしました。
 3代目の順治帝が明を滅ぼして北京へ首都を移し、元時代から受け継がれている北京故宮(紫禁城)を住まいとしたのちも、歴代皇帝は故地を大切にし、盛京故宮は引き続き離宮として用いらました。

 入場料50元。敷地内は、主に東院、中院、西院に分けられています。
案内図のリンク
http://www.chinaviki.com/china-maps/Liaoning/sygg.html
世界遺産に指定された頃の写真をリンク
http://www.wakhok.ac.jp/~sumi/album/2004/10/07/album20041007b.html

故宮内の説明があるブログリンクはこちら
http://e-miai.biz/pipipiga/pipipiga.php?q_dir=.%2Fimg%2Fdir03

 満州族(女真族)は、もともとはツングース系の遊牧の民でした。そのせいかどうか、同じく遊牧民であった元朝が建てた北京故宮と同じく、建物にはあまり凝らなかったように思うのです。
 同じ17世紀18世紀に建設されたベルサイユやエルミタージュなどがやたらに華麗主義で飾り立て、また、日本の桂離宮などは素朴っぽい木造に見えて、建築材料はとても凝ったお金のかけようをしていて、柱一本天井板一枚に気を配って建てたようすがよくわかる。

 それに対して、北京故宮も瀋陽故宮も、壁や床が、見た目粗末っぽいのです。現在までアラビア半島などのテントによって生活していた部族の女性は、家は移動式でいつでもたためる「動産」であり、一番お金をかけるのは、ネックレスやイヤリングなどの装身具、体中にアクセサリーをじゃらじゃらさせているという印象があります。
 蒙古族も満州族も、建物にお金をかけるのは好きじゃなかったのか、という印象を受けます。もちろん、3階建ての鳳凰楼など、壮大な建物はあるのですが、内に入ると、建物の内部自体はそう華麗という印象ではない。

 金ぴかの茶室を建てた豊臣秀吉とか、華麗な障壁画を巡らせてあったという安土城、今も美しい姿を見せる二条城など、同時期の日本の権力者が建てた建造物に比べると、瀋陽故宮も福陵の建物も、それほど見た目はぱっとしていない。
 遊牧民の伝統というか、壁や床にはあまり気を配ったようすがありませんでした。

<つづく>
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2009年07月08日


ニーハオ春庭「ヌルハチ御殿」
2009/07/08
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(8)ヌルハチ御殿

 清朝滅亡後の混乱の中、めぼしい宝物は散逸してしまったといいますから、北京故宮や瀋陽故宮の床や壁を覆っていたタベストリーや絨毯なども無くなってしまったのかもしれません。
 江戸城明け渡しに際して、城内の宝物を「公共のもの」と見なして持ち出しを禁止し、そっくり西郷隆盛に引き継いだ天璋院篤姫のような人がいなかったのでしょう。

 清朝滅亡後は、中華民国成立後も混乱が続き、馬賊出身の軍閥が闊歩して略奪し放題だったのではないでしょうか。その点、八路軍はたいへん軍律が厳しく、略奪はしなかった、と言われています。(これは現在の政権から見た歴史的ストーリーですから、実際にひとつもなかったかどうかわかりませんが、少なくとも八路軍は農民からの略奪は絶対にしなかった)

 北京故宮の宝物はそのほとんどを蒋介石が台湾に持ち運んだとされています。西太后の陵墓には、「蒋介石が墓室内の宝物を全部盗んで持ち去った」という内容の説明板が立てられているそうですが、全部が全部蒋介石の仕業ではないにしても、王朝交代の混乱時に、前代の貴重品が散逸してきたというのが、大陸の歴史的事実。
 王朝が交代し、支配民族が入れ替わる大陸と、1300年前の正倉院の宝物が、そっくりそのまま大切に受け継がれてきた島国の違いなのかもしれません。

 江戸時代に、大陸では明から清へと王朝が変わったさい、明代の貴重な書籍絵画は散逸し、唯一日本に多くの書籍や絵画がまとまって残された。江戸幕府が長崎を通して明国の書籍絵画を輸入していたからです。2007年のときの教え子留学生の一人は、宋時代明時代の美術史研究にとって、日本での明代絵画研究が大切だと言って留学を決めたのでした。

 瀋陽(盛京)故宮は、瀋陽市のほぼ中央にあります。故宮見物をメインにするつもりだったので、中街という瀋陽で一番にぎやかな町の中に宿をとりました。張氏師府もヌルハチ故宮も歩いて5分くらいのところにあります。

 故宮は、東院、中院、西院の三部分に分かれています。
 東院は、ヌルハチが建てた最も古い部分で、政事(まつりごと)の中心であった大政殿の前に、「八旗」という満州族の軍事行政の基本となった武人組織の殿舎が一旗にひとつずつ建てられて両側に並んでいます。大政殿は八角形をしており、これは遊牧民の移動式住居であるゲル(包パオ)を模した建築様式なのだそうです。中央には玉座があります。

 ツングース系遊牧民であった女真族のことばでは、自分たちの部族を「ジュシェン」(または「ジュルチンと呼んでいました。その民族名に漢字をあてたのが「女真」です。女真族は初代ヌルハチが「後金」王朝を建て、のちに部族名を「満州族」と改称しました。北京入城後は王朝名を「清」と改め、満州族は漢族や蒙古族との通婚により、文化はほとんど漢族のものに同化しました。

 満州語やヌルハチが整備した満州文字もしだいにすたれ、皇帝の「教養」のひとつであった満州語満州文字の習得も、ラストエンペラー愛新覚羅溥儀などはほとんど学習せず、溥儀は満州語を書くことも話すこともできなかったと伝えられています。

 少数民族優遇策がとられている現在、自分自身を満州族であるとして戸籍登録している人は約1000万人おり、チワン族の1600万人に次いで、少数民族の中では2番目に大きい民族になっていますが、他の少数民族が独自の言語や生活様式を保有しているのと比べると、満州族の生活は言語や文化がほとんど漢族に同化しています。

<つづく>
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2009年07月09日


ニーハオ春庭「八旗と纏足」
2009/07/09
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(9)八旗と纏足(てんそく)
 
 満州族組織の基本である「八旗」はヌルハチが組織した軍事行政組織です。これをもとに、すべての満州人は八旗のいずれかに編入されて軍備行政の任を担当しました。後の時代には漢族八旗や蒙古八旗など、満州族支配に入った民族もそれぞれ八旗が組織され、清王朝の中国全土支配の要となりました。

 ヌルハチの軍は、当初は4軍でした。大政殿の前に立ち並ぶ八旗の駐屯殿舎は、1601年にヌルハチがこの制度を創始した当初の黄・白・紅・藍の4色の旗を持つ軍事組織であったものを、1615年にそれぞれの色を「正」「鑲(金+襄)じょう」に分け、八旗としたものです。

 組織に入っている満州族は「旗人」と呼ばれて領地を与えられており、江戸時代の武士と同じように、武人であると同時に官僚として行政を担当しました。

 中院は、二代目ホンタイジの建てた皇居です。瀋陽(盛京)故宮の中の最も高い建物である鳳凰楼は3階建てで、3階からは皇帝が盛京の街を見下ろしたそうです。ホンタイジの執務室(正殿)は、崇政殿と呼ばれています。

 記録に残された限りでは、ヌルハチとホンタイジにはそれぞれ12人の正后と側后があり子を残しています。子をなさなかった側室はさらにいたでしょう。皇后以下、宸妃、貴妃、淑妃、側妃、庶妃などの位があり、後の時代には、それぞれの后の持つ衣装の数や食器の数まで厳密に決められ儀礼儀式の中でがんじがらめの生活をすごしたようです。
 瀋陽博物館のなかに、后妃の持つ食器の数を一覧表にして展示してありました。後宮一番の権力者は皇帝の母、皇太后です。

 皇帝とその家族の生活空間であった清寧宮には、皇后の寝室と側室の寝室4棟があり、寝室のようすなどが復元展示してあったのですが、皇子誕生のときのゆりかごなども、本物は失われてしまったのか、ごく普通のハンモック型のゆりかごが展示されていて、豪華な雰囲気はなく、皇室の家具調度としたらちょっとお粗末なものです。
 もとは遊牧民なので、家具調度にお金をかけない主義であったのか、豪華な家具は盗まれてしまって、現代の復元にはお金をかけられなかったのか、知りたいところです。

 西院は、順治帝が北京入場を果たして以後の増築で、『四庫全書』が収められていた図書室、文溯閣などがあります。
 
 瀋陽故宮の売店で、中国四大美女を描いた扇子、十二代の皇帝の肖像を並べて描いた扇子など、お土産になりそうなものを買いました。

 お土産で買い損ねて残念に思ったもの。故宮に行く前に、中街の蚤の市の続くストリートを冷やかして歩きました。売り物の中に10センチサイズの「纏足の靴」があったのです。見た目、ただの「古い子供靴」にしか見えませんが、売り子は「古い時代の女性の靴」と言っていました。

 ほんとうに纏足の靴なのか、ただの古い子供靴なのか、私には見分けがつかないので、心ときめいたものの、買いませんでした。300元という言い値、日本円で5000円くらいですから、思い切って買っておけばよかったと後悔しています。これから先、纏足の靴などは手に入りにくいものでしょうから。もし、ただの子供靴だったら、、、、私の眼力のなさをあきらめればよかっただけですから、買っておくべきでした。

 纏足は、清の貴族女性や金持ち女性の習俗で、幼児の頃から、足を強く包帯で締め付けて、足の大きさを10センチから15センチ以上に大きくさせないようにした習慣です。体は大きくなっても、足だけは子供のまま。当然よちよち歩きしかできず、纏足は「労働をせず、男性の庇護のもとに一生をすごす」ことの象徴でもありました。

 清時代の男性は、この小さな足に魅力を感じ、より小さな足の女性が「美人」でした。「よちよち歩きしかできない小さな足」に魅力を感じる男性のために、足を成長させない習俗ができたのです。
 現代の男性が大きな乳房に魅力を感じ、女性は豊胸手術をしてまでも大きな胸になりたいと思うのとまったく同じことです。

<つづく>
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2009年07月10日


ニーハオ春庭「再見、瀋陽」
2009/07/10
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(9)再見、瀋陽

 ヌルハチを始祖とする清王朝の残した遺産のうち、八旗制度や纏足習俗などは失われましたが、故宮などの文物は中国の歴史を彩る文化遺産として残り、世界遺産にも指定されています。古い時代の建物も町の中に数多く残っていますが、現代中国女性たちは、はつらつと町を歩き回っています。男性たちも、よちよち歩きで男に頼って生きるしかない清朝時代の美人ではなく、生き生きと自分自身の人生を追求する女性に魅力を感じているのではないでしょうか。

 纏足靴は買い損ねたけれど、蚤の市ストリートでは、ほかにお土産をいくつか買いました。孫文夫妻の結婚記念写真や魯迅一家の写真のコピー、1枚1元。
 のみの市ストリート出店のテントの中で扇子に牡丹の絵を描いている女性がいました。しばらく見事な牡丹の花が描かれるようすを見ていましたが、見ているうちに欲しくなり、娘へのお土産用に牡丹の花を描いてもらうことにしました。

 画家は王暁敏さん。骨董市場の建物の中に店を持っています。以前は北京で画家として活躍していたのだけれど、瀋陽に移ってきてまだ日が浅いので、現在は宣伝中のため、格安の値段で描いている、という話です。
 表に牡丹の花、裏に娘の名前を書き入れてもらいました。

 午前中注文して、午後電車に乗る前に受け取りにくることを約束したため、瀋陽で見物したかったことが二つできなくなりました。
 ひとつは瀋陽駅前で写真をとること。この瀋陽駅は、旧時代の建物で、1910年(宣統2年)満鉄五大停車場の一つとして建設されたものです。

 瀋陽駅周辺には、近代建築史上の建物が残されており、現役で使用されています。
 駅近くの中山広場周辺には、旧ヤマトホテル(現・遼寧賓館)はじめ、旧満鉄共同事務所(現・瀋鉄大旅社)、満鉄貸事務所(現・瀋陽飯店)、満州医科大学付属病院(現・中国医科大学)、東洋拓殖奉天支店(現・瀋陽商業銀行・写真右)などがあります。

 私が往復に利用した中国新幹線の和諧(わかい)号は、新しい瀋陽北駅の発着なので、在来線の瀋陽駅を利用しません。瀋陽駅を写真を撮るための時間を予定に入れていたのですが、牡丹絵の扇を受け取りに行くことと瀋陽駅に行くことのどちらかをあきらめないと、午後4時半の和諧号に間に合わなくなります。

 古い時代の建物や、近代建築を見て歩くのが好きな私としては、ぜひ写真を撮りたかったのですが、今回は見物することができませんでした。
 1994年に瀋陽に来たときは瀋陽郊外にある平頂山博物館(日本軍がゲリラ掃討のために平頂山の村民全員を虐殺した遺体をそのまま保存し博物館にしている所)の見物に時間がかかって、やはり旧瀋陽ヤマトホテルなどの建物群を見物できなかった。

 写真で見る瀋陽駅は東京駅によく似ています。東京駅を設計した建築家の辰野金吾氏の様式(辰野式)を取り入れているので、東京駅と外観が似ているのです。設計の施行者は、満鉄技師の太田毅。2007年に大連で妹と宿泊した大連賓館(旧大連ヤマトホテル)の設計者も太田毅と言われています。(敗戦時の満鉄関連資料散逸のため、確実な記録は失われているそうですが)
瀋陽の近代建築紹介サイトをリンク
http://media.excite.co.jp/ism/extra/shenyang/00.html

 そのほか、瀋陽市出身の学生がスピーチで紹介し、「瀋陽に来たらぜひ見物してください」と勧めていた「瀋陽植物園」も見る時間がありませんでした。この植物園は、2006年に「世界園芸博覧会」の会場となり、現在はそのときの「世界中の植物を地域ごとに集めた植物園」「中国各地の植物を地域ごとに集めた植物園」が残されています。「雲南省の植物」とか「南アメリカの植物」など、テーマごとに植物を見ることができ、瀋陽市民自慢の植物園です。

 これら、見に行けなかった場所は、この次瀋陽に来たときのお楽しみといたしましょう。次に見たいと思っている場所があれば、いつか必ず再訪することができるでしょう。

 「もう一日あったらなあ」と心残りではありましたが、月曜日は仕事ですからしかたありません。午後4時半の中国新幹線、和諧(わかい)号に乗車して瀋陽をあとにしました。再見、瀋陽

<おわり>
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