2014/05/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>十四事(5)居合、薙刀、鎌
十四事武術に関連して、思いついたことを並べ立てるシリーズ。
武術には縁がなかったので、直接武術にかかわらない周辺のことばかり述べております。今回も十四事の残り物の鎌、薙刀、居合について思い浮かんだことをランダムに。
娘と息子が武器購入をめぐって論争しています。「やはり、ここは鎌じゃなくて、剣と槍を買うべきだ」などと。
物騒な話ですが、ゲームのキャラクターが身に付ける武器のことを忖度しているのです。勇者にふさわしい武器を調達するのも、なかなか大変らしいです。
平和ニッポン。息子もいい年になって、武器との関わり方が、ゲームキャラの武器購入程度のことで、ほんとうによかった。この先も、徴兵されどこかの紛争地域で「お友達の国を助けるために」武器をとらされる、なんてことになりませんように。あのう、うちの息子、実にヤワで、徴兵されてもけっしてお国のお役には立たないと思いますので、、、、お目こぼしを。
鎌はもともとは農具ですが、「刀狩り」などで武器を持てなくなった農民にとっては、唯一「武器になりうる道具」でした。農民一揆のとき、お百姓たちが手に手に鎌や鍬なんぞをもって集まっている、という時代劇を思い出します。
私が手にした鎌は、子供の頃、家で飼っていたうさぎの餌の草を刈るための鎌。持ち手の丈のみじかい刃鎌でした。
鎌をふるっての草刈と、まさかり振り上げての薪割りは、子供の頃の私にとっては好きな「家のおてつだい」でした。包丁をつかう料理とか針をもっての縫い物などはまったく苦手だったのですが。
牧草などを刈る西洋式のサイズ(scythe)に当たる長柄の鎌は、日本の農耕では用いられることはなかったのだろうと思います。西洋では、この長柄のサイズは、死神の持ち物になっていて、命を刈られるイメージがあります。
かってのソビエト連邦の連邦旗は、赤字に黄色で農民を象徴する鎌と工場労働者を象徴するハンマーが交差している図柄でした。鍬なんぞよりも鎌が農民のシンボルになったのは、やはり「立ち上がって闘う農民」というには、鎌のほうがふさわしかったのでしょう。
手の丈がみじかい日本の鎌を武器として使うためには、鎖をつけて振り回す鎖鎌になりました。
薙刀の稽古を続けてきた友人の結婚式に出席したとき、友人の先生が薙刀を持ち、先生の先生が鎖鎌を携えて、古武道の型を披露してくれたことがありました。友人が習っていたのは対戦試合の薙刀ではなくて、形の美しさを見せて点数を付けるほうの薙刀術でした。そういえば、空手も対戦試合のほかに、形を披露して点数をつける競技があったなあ、日本の武術は対戦とともに「美しさ」が競われるのだなあと感じます。
居合術も、座った状態で、鞘から刀剣を抜き放ち、形を演武し、納刀に至るまでを採点します。こちらも、刀で切り合うのではなく、技の美しさを採点するということで、対戦型の西洋武術とは異なっています。
柔術も剣術も居合術もそれぞれ柔道剣道居合道となり、武術も大半は「道を極める」ための修養となっていることが多く、最終的な極意は精神的な修養によって得られるというのが、日本の武術の特徴のように思います。
剣道、弓道、柔道、みんな「道」になってしまったのに、馬術は「馬道」にならなかったのは、現在スポーツ競技として実施されている馬術は西洋由来のものであり、流鏑馬などの儀礼的な馬術以外に日本古来の馬術は競技化していないからかなあ、とか、いろいろ考えるところはありました。
武術に縁なく、たまにオリンピック中継や国体中継で剣道や柔道を見る程度の私ですが、 以上、日本の武術十四事にまつわるあれこれとりとめもなく思いめぐらすのは楽しかったです。
<おわり>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>十四事(5)居合、薙刀、鎌
十四事武術に関連して、思いついたことを並べ立てるシリーズ。
武術には縁がなかったので、直接武術にかかわらない周辺のことばかり述べております。今回も十四事の残り物の鎌、薙刀、居合について思い浮かんだことをランダムに。
娘と息子が武器購入をめぐって論争しています。「やはり、ここは鎌じゃなくて、剣と槍を買うべきだ」などと。
物騒な話ですが、ゲームのキャラクターが身に付ける武器のことを忖度しているのです。勇者にふさわしい武器を調達するのも、なかなか大変らしいです。
平和ニッポン。息子もいい年になって、武器との関わり方が、ゲームキャラの武器購入程度のことで、ほんとうによかった。この先も、徴兵されどこかの紛争地域で「お友達の国を助けるために」武器をとらされる、なんてことになりませんように。あのう、うちの息子、実にヤワで、徴兵されてもけっしてお国のお役には立たないと思いますので、、、、お目こぼしを。
鎌はもともとは農具ですが、「刀狩り」などで武器を持てなくなった農民にとっては、唯一「武器になりうる道具」でした。農民一揆のとき、お百姓たちが手に手に鎌や鍬なんぞをもって集まっている、という時代劇を思い出します。
私が手にした鎌は、子供の頃、家で飼っていたうさぎの餌の草を刈るための鎌。持ち手の丈のみじかい刃鎌でした。
鎌をふるっての草刈と、まさかり振り上げての薪割りは、子供の頃の私にとっては好きな「家のおてつだい」でした。包丁をつかう料理とか針をもっての縫い物などはまったく苦手だったのですが。
牧草などを刈る西洋式のサイズ(scythe)に当たる長柄の鎌は、日本の農耕では用いられることはなかったのだろうと思います。西洋では、この長柄のサイズは、死神の持ち物になっていて、命を刈られるイメージがあります。
かってのソビエト連邦の連邦旗は、赤字に黄色で農民を象徴する鎌と工場労働者を象徴するハンマーが交差している図柄でした。鍬なんぞよりも鎌が農民のシンボルになったのは、やはり「立ち上がって闘う農民」というには、鎌のほうがふさわしかったのでしょう。
手の丈がみじかい日本の鎌を武器として使うためには、鎖をつけて振り回す鎖鎌になりました。
薙刀の稽古を続けてきた友人の結婚式に出席したとき、友人の先生が薙刀を持ち、先生の先生が鎖鎌を携えて、古武道の型を披露してくれたことがありました。友人が習っていたのは対戦試合の薙刀ではなくて、形の美しさを見せて点数を付けるほうの薙刀術でした。そういえば、空手も対戦試合のほかに、形を披露して点数をつける競技があったなあ、日本の武術は対戦とともに「美しさ」が競われるのだなあと感じます。
居合術も、座った状態で、鞘から刀剣を抜き放ち、形を演武し、納刀に至るまでを採点します。こちらも、刀で切り合うのではなく、技の美しさを採点するということで、対戦型の西洋武術とは異なっています。
柔術も剣術も居合術もそれぞれ柔道剣道居合道となり、武術も大半は「道を極める」ための修養となっていることが多く、最終的な極意は精神的な修養によって得られるというのが、日本の武術の特徴のように思います。
剣道、弓道、柔道、みんな「道」になってしまったのに、馬術は「馬道」にならなかったのは、現在スポーツ競技として実施されている馬術は西洋由来のものであり、流鏑馬などの儀礼的な馬術以外に日本古来の馬術は競技化していないからかなあ、とか、いろいろ考えるところはありました。
武術に縁なく、たまにオリンピック中継や国体中継で剣道や柔道を見る程度の私ですが、 以上、日本の武術十四事にまつわるあれこれとりとめもなく思いめぐらすのは楽しかったです。
<おわり>
騎;馬は気品があるイメージで、私は大好きです。
幼いころ荷物を乗せた馬をよく見かけていました。(遠い思い出)一度、路地で馬の横を通り過ぎようとしたとき舌でぺろっとおでこを舐められました。
怖いと思った私を見て友人達が大笑いでした。
やわら;柔道のヤワラちゃんの大活躍は誰もよく知っていますが、奥深さを知りました。
捕縛;パソコン遠隔操作、新しい犯罪もアナログミスでお縄。冤罪は悲しいですね。
息子に満員通勤電車に乗るときは「気を付けて!」といいます。「うん、手を上げているよ」と云っています。
難しい表題でパスしながら、ちょっと目を通させていただきました。分かりやすく説明されていて以外に面白く思いました。
>うちの息子、実にヤワで、徴兵されてもけっしてお国のお役には立たないと思いますので・・・
そうそう、どうぞ、ゲームのお話だけにしてください。私からもお願いします。
武術も武道も精神修養に役立つのはいいことだと思うのですが、どうか、きなくさい争いごとに役立つような武術でありませんように。平和が一番ですね。
もし戦争に参加したら、日本は終わりでようね。。。