
20250717
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩欧州の夢(5)ひびきあう美術 in 港区郷土歴史館
静嘉堂美術館は、世田谷の奥の奥にあったときはぐるっとパスが使えたのですが、丸の内の明治生命館という一等地に移転して以後はぐるっとパスが利用できなくなりました。残念。そのかわり、これまでぐるっとパスが使えなかった港区歴史郷土館がこの4月から利用可能に。これまでは旧公衆衛生院の建物見学は無料でしたが、企画展常設展は有料でした。私は建物は好きでしたが、企画展はよほど見たい絵があるとき以外はパスしてました。常設展と企画展合わせても400円なんですけど、無料が好きなもんで。
6月4日は、ぐるっとパスが利用できたので、企画展「ひびきあう美術」を観覧しました。私にとっての目玉は、明治期の女性画家の作品です。
港区郷土歴史館の口上
港区立郷土歴史館では港区の歴史や文化に関わる資料を収集しています。このたびは館蔵品の中から、港区で活躍した芸術家の作品や港区ゆかりの方々から寄贈された作品など、選りすぐりの美術工芸品を紹介します。
明治期に海外で活動した女性画家の洋画、初公開の肉筆画や木版画、文学者との交流から生まれた美術、無形文化財保持者による工芸品など、もたらされた経緯をひもとくと、郷土歴史館ならではの物語が見えてきます。さまざまな美術がひびきあう空間をお楽しみください。
明治期に海外で活動した女性画家の洋画、初公開の肉筆画や木版画、文学者との交流から生まれた美術、無形文化財保持者による工芸品など、もたらされた経緯をひもとくと、郷土歴史館ならではの物語が見えてきます。さまざまな美術がひびきあう空間をお楽しみください。
ラグーザ玉(1861- 1939)は、芝・清原の植木屋の次女として生まれ、西洋画のてほどきを受けたのち、1877年、工部美術学校お雇い外国人彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザから西洋画の指導を受け、かつヴィンチェンツォの作品のモデルも務めました。1880年21歳で20歳年上の師と結婚。2年後、夫とともにイタリアパレルモへ渡り、パレルモ大学美術専攻科で西洋画を学ぶ。夫がパレルモに美術学校を開設すると絵画科教師として指導に当たりました。1927年に夫と死別。1933年、甥・繁治郎の娘・初枝とともに、51年ぶりに帰国しました。1939年に脳溢血のため79歳で死去。現在残されている玉の作品は、帰国後のものがほとんどです。
ラグーザ玉「紫陽花図」1933-1939

「月見草」 「パンジーとさくら草」1933-1939


明治以後、欧米に続々と渡航した男性留学生は美術芸術の分野でもかなりの人数にのぼりましたが、女性が留学生として海を越えるには、津田梅子のように政府派遣留学生となるほか私費で留学できた女性は、ごくわずかでした。(津田梅子の2度目の留学は私費)渡航できたのは、妻として夫に同行した女性が多く、渡航後、かの地で職業を確立することができた例はまれです。
家族と共に渡欧した女性のひとりに岡本かの子(1889-1939 )がいます。夫一平は漫画家挿画家として名を上げましたが、放蕩三昧が続きました。相次ぐ肉親との別れのため、かの子は心を病み、さすがの一平も妻につくします。一平はかの子のために、歌集「かろきねたみ」の装丁を担当(1912)。
かの子は長男太郎を出産したあと、幼い長女次男を失って夫への愛も消え、夫公認で早稲田の学生を愛人として自宅に同居させるという暮らしを続けます。歌人として成功したのち夫と太郎のほか、愛人ふたりを伴って欧州へ渡ります。洋画修行を続ける太郎をパリに残し、1931年に米国経由で帰国。短歌や随筆などの作品制作を続ける中、脳溢血のため49歳で死去。
岡本一平 岡本かの子論集「人生論」表紙絵の原画1941(かの子死後の刊行)

洋行した女性だけではなく、日本へ渡ってきた女性画家もいました。 ヘレン・ハイド(1868-1919)はニューヨーク生まれ。1890年にはヨーロッパへ渡り、パリでジャポニズムに開眼。1894年にアメリカ帰国後、フェノロサらの影響を受け、1899年に来日。木版画、浮世絵を学び、日本の日常を版画に描きました。1914年に帰国するまで通算で11年を日本に在住。51歳没。作品は千葉市美術館横浜美術館などが所有していますが、港区郷土歴史館にも1点。
ヘレン・ハイド「蝶々」1908

それぞれの女性が夢を託して、渡欧し、来日し、自分の世界を作り上げようとしたこと、彼女たちが夢見た日々から遠くなっても、夢は続きます。

<つづく>
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