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ニーハオ春庭中国日記「一元バスツアー」

2011-10-22 16:15:00 | 日記

2007/07/04 水
ニーハオ春庭中国通信>1元バスツアー・見知らぬ村へ

 1元バスに乗って市内を巡る、ひとりツアーを続けています。

 3月4月は、仕事が終わって帰宅する5時半には薄暗くなってきて、夕食を食べに出るともう真っ暗だったので、1元バスツアーも、週末、日が明るいうちにしかできませんでした。
 しかし、日が延び、北国の夏、夏至の前後は8時近くまで明るいのです。週末だけでなく仕事が終わってからバスに乗って一回りすることができるようになりました。

 1元バスツアー。
 5時半に宿舎に着いて、6時に夕食を食べに出ます。
 バス停から、どこへいくのかわからずにバスに乗って、終点で食事、また折り返してバスでもどってくる。宿舎に着く8時ごろまで、外はまだ明るい、という夕食ツアーです。

 車窓を流れていく街並を眺めているだけで、楽しく過ごすことができましたが、そろそろ、だいたいの町並みは「あ、ここは前に通ったことがあるな、見覚えがある」ということが多くなり、「どこへいくかわからないドキドキ」は少なくなりました。

 6月末、明日は中間試験、という日。試験の準備は済んでいるし、翌日の授業準備に追われて夜遅くまで仕事を続けることもないので、気分はのんびりしていました。

 124路線のバスに乗車。
 車内の停留所表を見ると、いつもより停留所の数が多いので、どこまでいくのかなあと思いながら乗っていました。
 終点は「大屯」。大きい村?

 7時。まだ明るいから大丈夫。途中で下りてしまうと、帰りのバスに乗りはぐれる心配もあるから、とにかく終点まで行って、このバスで折り返して市内に戻るのが一番確実。
 だんだんあたりは暗くなって来ました。まだバスは走り続けています。7時半。
 
 あたりは田園地帯になり、畑が広がっています。
 いったいどこまで来たのやら。
 いくつかの村に寄りながら、やっと終点に着いたときには8時すぎ。もう暗くなっていました。

 バスを下りた所の横の広場では、東北地方名物の「ヤンガー( 秧歌)」という盆踊りのような踊りのお囃子がにぎやかに聞こえてきました。ヤンガーの音楽は、チャルメラの種類の笛がメインで、太鼓や鉦がリズムをとります。
 次々に変わるリズムに合わせて、赤やピンクの派手な色あいでひらひらした大きな扇子と、くるくる回す独特な布を手に持って、年配の人たちが輪になって踊っています。

 バスの運転手に、「このまま乗っていて、市内に戻りたいが、出発時間は何時?」と尋ねました。
 バス出発まで時間があるなら、ヤンガーを見物して時間をつぶそうと思い、戻りの時間を確かめておこうと思ったのです。

 ところが。
 バスの運転手の返事は「これは、もう戻らないよ。明日の始発まで、もう市内に戻るバスはない」

 あらま、こりゃたいへん。  

<つづく>


07:07 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2007年07月05日


ニーハオ春庭「1元バスツアー・村の広場]
2007/07/05 木
ニーハオ春庭中国通信>1元バスツアー・村の広場

 見知らぬ村で。
 明日のバスの始発は、朝5時20分。始発に乗れば、仕事に穴をあけることのない時間には、市内に戻れる。
 
 バスの運転手にこの村に泊まるところはあるか聞いてみた。
 「大酒店(ホテル)没有(メイヨー=ない。旅店(旅館)没有」
 あらら。

 「でも、向かいにある浴池(銭湯)、あそこの二階に泊まれる」
 なんだ、泊まれるところがあるんじゃないの。

 バスの終点前に「浴池」があります。浴池は、公衆浴場。ただし、湯船はなく、シャワーが並んでいるだけ。13年前に、中国の公衆浴場はどんなところかと思って、一度だけシャワーを浴びたことがありました。
 村の浴池。そこの2階に宿泊スペースがあるという。
 バス停留所をはさんで、通りの向こう側に浴池があり、その反対側が「公安=警察の交番」です。

 この、「公安」市内の街角ところどころで見かけましたが、これまで道を尋ねるために利用したこともありませんでした。中国語で道順を説明されても、わからないから。
 泊まるところがあって、公安がある。ちょっと安心して、それならと、広場の 秧歌(ヤンガー)を見に行きました。

 普段も、宿舎の近所でヤンガー踊りを見かけます。
 繁華街の銀行の前のちょっとした広場で、毎夜20~30人くらいのおじいさんおばあさんが集まって踊っている。赤や青の派手な民族衣装を着たり、ズボンにTシャツの普段着に扇子だけ派手な色のを持っていたり、服装はそれぞれ。

 村のヤンガーもひらひら扇子や布をくるくる回すのは同じ。でも、服装は普段着の人が多く、民族衣装を着ている人は少数派。

 広場の中央でヤンガー、その周りに見物人。その外側には、炭火の四角いコンロの上に網をのせ、網焼きを食べさせる露天の店がずらりと並んでいます。それぞれなじみ客があるらしく、客がコンロを取り囲んで腰掛けに座っています。

 おばさん、たまに若い娘が、網焼き係り。おじさんは、ビール出したり、お金受け取ったり、離れて座っている人のところへ焼き上がった串を運んだり。

 豚のしっぽ、茄子、じゃがいも、ピーマン、鶏の頭、鶏卵などを串にさして炭火の網にのせ、焼いています。煙がもうもうと上がっている。
 みな、ビールを片手に焼き上がった茄子や肉をほおばっています。

 おばさんのコンロの前へ。試しにじゃがいもをひと串頼んでみました。5角(1元の半分、7円くらい)
 2本と言えばよかったかな。でも、ちょいと衛生面が心配な露天だから、肉系はやめたほうが無難。腹をこわしても、病院がある村かどうか、わからない。旅館がないくらいだから、病院もないかも。そのかわり、薬局は交番のとなりにありました。

<つづく>
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2007年07月06日


ニーハオ春庭「1元バスツアー・風呂屋に泊まる」
2007/07/06 金
ニーハオ春庭中国通信>1元バスツアー・風呂屋に泊まる

 8時半にヤンガーが終わったので、交番へ行ってみました。
 交番の看板は、「富峰鎮派出所」
 おまわりさんは、非番のようで、制服を着ている人は見かけません。でも、交番の中にいるのだから、一応警察官でしょ、と思って、泊まる場所について聞いてみました。
 
 「向かいの浴池に泊まれる」と、お巡りさん。
 うん、それは知っている。

 運転手に聞いて、すぐにひとりで宿泊交渉に出かけてもよかったのですが、私のカタコト中国語と筆談の交渉では、すぐに中国語が話せない外国人だということが、分かってしまいます。
 お巡りさんに浴池の宿泊についてわざわざ尋ねてみたのは、お巡りさんに、浴池へ連れて行ってもらおうとしてのこと。

 日本は、世界の中でもっとも安全な国で、女性がひとり旅をし、ひとりで宿に泊まる時、心配なことはありません。しかし、そうでない国も多い。

 中国は、アジアの中で、安全な国のほうです。他のアジアの国では、安宿に宿泊した場合、日本人とわかったら、持ち物を抜き取られたり、宿賃を3倍請求されたりということもあると聞きますが、中国では、旅行者が誘拐などの事件に巻き込まれたという話はまれです。スリや置き引きはいますが、それは、日本も同じ。

 盗難は、バスの中でも道ばたでも、よくあります。同僚のひとりがバスで財布を取られてしまったし、にぎやかな街角で、いきなりバックを引っ張られて、あやうく取られそうになった、という、同僚の体験談も聞いています。
 どの国にも、悪い人は必ずいるし、いい人もいる。

 危険な事件がまれとは言っても、どこで何がおこるかわかりません。
 個人旅行者にとって、常に安全に対する自己責任が必要なのはいうまでもありません。
 最初に交番へ寄ったのは、万が一の場合を考えて、私がこうしてこの村に来たことを、警察官に知らせるためです。

 ちょっと夕食を食べに出た、という姿ですから、パスポートはむろんのこと、仕事先からもらった工作証(身分証明書)も、宿舎に置いてきており、私がどこの誰かを証明するものは、何もありません。万が一の場合、私がここにいることを、誰にも知らせていないのでは、身元証明がありません。

 お巡りさんに、私が日本人であること、市内の大学で教師として働いていることなどを告げ、浴池に泊まりたいと、話しました。

 お巡りさんが浴池までいっしょに行って、フロントのおばちゃんと交渉してくれました。単純な思いこみかもしれませんが、お巡りさんが私を連れてきてくれたことで、盗難に遭う可能性も減ったような気がします。

 宿泊料、銭湯こみで10元(150円)。
 30年近く前に、ケニアで泊まった宿が一泊500円くらいの所だったことがありますが、私の「安宿記録」を更新しました。

<つづく>
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2007年07月09日


ニーハオ春庭「あか抜けた宿泊」
2007/07/07 土
ニーハオ春庭中国通信>1元バスツアー・あか抜けた宿泊
 
 村の風呂屋宿泊。
 フロントで、小さな石けん、薄いタオル。使い捨ての小さなパンティをもらいました。
ペナペナ化繊のバスローブとロッカーの南京錠は貸与。

 風呂場係りのおばさんが、私の南京錠の番号をチェックして、ここに服をいれろ、と示します。ロッカーに服を入れ、南京錠をかけて、鍵は腕にブレスレットのようにはめておく。

 シャワー室は、15畳くらいの部屋の三方の壁にシャワーが取り付けてあります。
 先客が3人。おばさんひとりと、若い娘二人組。自宅にシャワーや風呂の設備がない家が多いので、市内でも浴池は、街角ごとにあります。

 先客、悠々と念入りに体をこすっています。友人の調査では、夏でも蒸し暑くない東北地方、シャワーを浴びるのは夏でも3~4日に一回、冬は一週間に1回程度の「浴池行き」が平均なのだとか。
 
もらった石けんでチャッチャッと汗を流したあと、2階へ。
 泊まるスペースは、大部屋を低い板で仕切り、一人分の寝床スペースを区切っています。日本で言うなら、山谷の木賃宿か、終夜営業ネットカフェか。

 1階フロントから、日本人には個室を用意するよう連絡があったらしい。お巡りさんのおかげかな?
 2階フロントのとなりの宿直事務室のような部屋。ベッドと事務机がある。
 ドアの鍵が壊れているのがなんだけれど、ま、大丈夫でしょう。どこでも眠れるのが特技。

 外がいつまでもがやがやしていたけれど、いつの間にか眠ってしまい、朝5時前に目が覚めました。いつもの起床時刻です。

 5時20分の始発に乗り、市内に戻りました。来るときは知らずに、1元払っただけで乗り続けてしまったのですが、帰りは、料金を確かめると3元でした。来るときの分、自己申告しようかなと思いましたが、運転手が違う人だし、事情を中国語で説明するのもたいへんだし、ま、今回はいいかなと、3元だけ払いました。

 今回の風呂屋泊まり、何事もなく無事に専家公寓(外国人専門家宿舎)まで戻れましたが、あまり人に大声で吹聴できる体験ではありません。(と、言いつつ、こうして書いているんですけど、小声でこっそり書いた文章だということにして)
 万が一の場合、事件事故に巻き込まれてもしかたがない、という覚悟をもちつつ、それでも地元の中に入って過ごしてみたい人にだけ、「こんなお泊まりもありますよ」と、お知らせ。

 う~ん、昔の山谷界隈簡易宿泊所に泊まったことある人だったら、ここでも眠れる。あるいは、アジアアフリカ旅行バックパッカー御用達の安宿に泊まったことがある人なら。
 星のついてないホテルには泊まったことがないって人には絶対無理。って言っても、星つきホテルに宿泊している人は、風呂屋の2階に泊まろうなんて気は起こさないよね。

 風呂屋だけに、私は、あか抜けたいい女になって、一皮むけたと思っているんですけれど、、、、、   

<1元バスツアーつづく>
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2007年07月11日


ニーハオ春庭「中国的村めぐり」
2007/07/11 水
ニーハオ春庭中国通信>村めぐり

 中国では、国→省→市→県、となっており、県は、市より小さい行政単位です。
 東京に23の区と、三鷹市などの市、大島町などの町、檜原村などの村があるように、今、私の住んでいる省都の市の行政区画は、7つの区、3つの市、ひとつの県を含んでいます。
 区や県、市の中に、さらに「鎮」という村が含まれます。

 私が住んでいるのは、市の中心地の「区」部ですが、区の行政区域のなかにも、さらに、鎮などがあります。
 風呂屋にとまった富峰鎮大屯は、朝陽工業開発区のなかの村です。

 市内を巡るバスは1元だけれど、郊外の村へ行くバス(郊線)は、3~5元だということがわかって、いくつかの村へ行って見ました。

 123路線は、市の北側へ向かいます。
 終着は焼鍋嶺(シャオグォリン)という村。1時間くらいバスにのって、料金は5元。(75円)
 道路は、ところどころ舗装が剥がれていたり、穴ぼこがあちこちにあったりして、のろのろ運転のことも多かった。だから、60分走っていたといっても、市の中心部からは30キロくらいしか離れていないのではないかと思います。正確なところはわかりません。こちらで買った地図には縮尺や1cmが何キロにあたるのかのスケールがついていないので。

 乗客は、市内で買い物をしたのか、売り物を村に持って帰るのか、大きな袋をかかえて乗り込んでいます。

 市内、北のはしにある「監獄」の前を通りすぎると、あとは、街道筋にときどき小さな集落が見えるだけで、どこまでいっても、トウモロコシ畑。
 町に売りにくる葱や茄子を作っている畑もあるのだろうけれど、とにかく、目に入るのは、全部トウモロコシ。どの畑の苗も50センチくらいに伸びたところです。
 
 トウモロコシ=玉米(ユイミー)は、東北地方の主食のひとつ。
 大連の友人ハンさんは、「子どものころ、毎日毎日玉米のおかゆで飽き飽きしていたから、大人になってからしばらくは食べたいと思わなかった」と言っていました。
 日本のように、粒がぎっしり並んだまま茹でたり焼いたりして食べることもありますが、小さな粒に刻んでお粥にしたり、粉に挽いて饅頭(マントウ)や麺にしたり。

 トウモロコシ畑の中のでこぼこ道、道の両側に並木が続いています。
 日本では田舎道の両側が並木になっているのは、昔の街道筋が松並木になっているくらいで、並木といえば都市の光景が多い。
 畑の中の道に並木がずっとつづく光景。バスで走っていくと、木と木の間から広がる緑のじゅうたんが心地よい。緑豊かな景色をのんびり楽しんで眺めていました。

<つづく>


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2007年07月12日


ニーハオ春庭「焼鍋嶺村」
2007/07/12 木
ニーハオ春庭中国通信>焼鍋嶺村

 焼鍋嶺の村に近づくと、雨が降ってきて、終点停留所に着いたらどしゃぶり。5月6月、2ヶ月間も雨が降らなかったのに、私が村に来たら、大雨だなんて。
 私はトウモロコシ畑に恵みの雨をもたらす雨女かも。

 筆談用のボールペンを忘れてきたことに気づき、まずは停留所前の食品雑貨店に入りました。

 小さな手帳を出して、手で書くマネをし、「我想買鉛筆(ウォーシャンマイチァンビー)」と言ってみる。おばちゃん、ボールペンを出してくる。お、私の中国語、通じてるよ。書く物を買いたがっていることが伝わった。
 って、ノートに手で書くマネをしていたら、消しゴムやちり紙は出してこないよね。

「ヅィガ(これ)、ドゥオシャオチェン(多少銭=いくら?)」
「ウーマオ。あんた、見かけない顔だね。どこの人?雲南人?」

「おや、ウーマオ、5角か。おつりもらうの面倒だな。2本買えばよかった」と、思う間もなく、おばちゃんは、5角コインをボールペンといっしょにこちらに渡してくれました。
 1元は、正式にはイーユェンと言いますが、日常会話では「イークヮイ」。1角は「イーマオ」と呼ばれています。5角は「ウーマオ」

 このあたりの方言では、標準語で「ヂェ(これ)」と言うところを「ヅィ」といいます。
 でも、私の発音は下手で、標準語とも違っているし、方言としてもへんな発音なので、「あんたは雲南人か」と、聞かれたりします。「雲南省の少数民族出身で、普通話(プートンファ=標準語)が下手な人なのだろう」と思われているのかもしれません。

 昔は、はるか南の雲南省の人間がこのあたりに来ることはまれだったので、雲南人ではなく南方人(ナンファンレン)か、と尋ねられたものでしたが、最近は、台湾人か、と言われたり、雲南人と言われたりします。
 私の発音は南方系に近いのでしょうが、とにかく言える言葉は、ニーハオ、シエシエ、ドゥオシャオチェン?

 ボールペン1本購入し、ま、これで筆談ができると、2軒あるうちの片方の食堂に入りました。
 バス停留所前の店は、この食料雑貨店のほか、食堂が2軒、ガソリンスタンド1軒。それで全部。

 メニューを見て、指さし注文。並んだ漢字から料理や食材が想像できるものもあるけれど、何が出てくるのか、まったく見当がつかないものもあります。
 見知らぬ料理名をひとつ注文してみる。ちょっと冒険。それから、これまでに何度か注文したことがあって、無難な食べ物であることが分かっているものをひとつ注文。

 「ヅィガ、ターラー(大辣)マ?我不要大辣」一応、辛い食べ物が苦手なことは言っておかないと。唐辛子で真っ赤っかな料理が出てきたら食べられない。

 ちょこっと口を開けば、たちまち「よそ者」であることがばれてしまう。「あんたは雲南から来たのか?」
 また、「雲南人」かい?どうして、ここらの人は、「発音がへんな人なら雲南人」と思うのか。どうしようかと思ったけれど「我是、日本人(リーベンレン)」と正直に言いました。
 
 「この村に来て、この食堂でごはんを注文する初めての日本人」になるのかもしれないと思うと、ちょっと緊張。
 私が出会ったほとんどの人は、日本人に対し好意的で、私自身がいやな思いをしたことはないけれど、東北地方には、まだ先の戦争の痛みを抱えた人々も多く残っているし、日本人は嫌いと公言する人もいる。
 反日運動が吹き荒れたころとは違うといっても、日本人と表明したあとは、ちょっと緊張する。

「へー、日本から来たの?仕事?」
「中国に来たのは仕事だけれど、今日は仕事の日じゃないから、旅行だよ」
「ひとりで旅行?誰かに会うために来たの?」
「会う人はいない。ここでご飯食べたら、またもとのところへ帰るの」

 わざわざ辺鄙な田舎にご飯を食べにきた、へんな人だと思われたでしょうね。でも、昼ご飯夕ご飯を食べるために出かけてくるのが、私の1元バスツアー。

<つづく>
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2007年07月13日


ニーハオ春庭「村の食堂」
2007/07/13 金
ニーハオ春庭中国通信>村の食堂

 村の食堂のおばちゃん「おかずは、地三鮮と鍋包肉だね。あいよ、わかった。主食はどうする?米飯も饅頭(マントウ)もあるよ」
 このあたりでは、おかずプラス主食の米飯、饅頭、水餃子などを注文するのが標準。

 米飯は、日本の米とは違うので、私にはちょっとボソボソに思えます。米飯はおいしいと思えず、たいてい水餃子を主食にする。餃子は、日本では「おかず」ですが、中国では主食。
 
 マントウは、小麦やトウモロコシの粉をこねて、平たい円形やまん丸、俵型など、さまざまな形にしたパンのようなもの。日本の肉まんのように、肉餡が入っているものもありますが、これも主食のうち。日本でいえば、「かやく混ぜご飯」みたいなもの。

 また、小豆の甘煮が入っているのもあり、これは日本のまんじゅうの原型になったもの。さまざまな種類がある饅頭(マントウ)のうち、日本ではこの小豆甘煮入りだけが「まんじゅう」として広まったのです。
 中国の人が、日本で饅頭という文字を見て「主食」として買ってみたら、甘い餡が入っているものばかりで、おかずといっしょに食べるものがなくて困るかもしれません。

 注文してから料理ができるまでの間、雨も小やみになってきたので、「厠所 在 那里?(トイレ、どこ)」と、たずねました。
 「この店にはないよ。向かいのガソリンスタンドにあるから、連れて行ってあげる」

 店の人が連れて行ってくれたガソリンスタンドの裏手。
 裏庭が菜園になっていて、じゃがいもや葱が植えてある。畑のすみっこが厠所。
 4角に棒を立て、板を打ち付けて囲ってある。地面に穴を掘って踏み板を渡した、昔ながらの作り。穴は深くないから、人様の残したものが、おしりに届きそうに盛り上がっている。う~、ごはん前に来るんじゃなかった。

 とは、言っても、来てしまったからには、利用しなければなるまい。板を並べたドアを一応閉め、目をつぶって用を足す。
 次に、店の人も利用する。見事にドアは開けっ放し。私がドア前に立っていても平気。
 ドアなしトイレを利用する人、老いも若きも恥ずかしいとはだれも思っていない。

 「日本の温泉では、皆が人前で裸になるでしょう。知らない人の前に裸をさらして恥ずかしくないの? 」と、逆に聞かれたことがある。
 「う~ん、温泉に入るのは慣れているからね」
 「中国の人は、ドアがないトイレに、慣れているんだよ」

 そうだよね。恥ずかしいという感情は「これは恥ずかしいことだ」と、教わったことに対して恥ずかしいのだもの。
 中国の小学校のトイレ。
 十分な数はないトイレを、大勢の子どもが順番に利用するため、もともとドアを設けてていないところが多く、顔を次の人が順番に並んで待っている方に、おしりを奥に向けてしゃがむ。次の順番の人を目の前にして用をたす。みんなそうしているから、温泉で裸になるのと同じで、恥ずかしいなんて言ってはいられない。

 食堂に戻って、茄子(チエズ)の炒め物を食べました。
 写真を撮るとき、日本で「いちに、さん、はい、チーズ」と、笑顔を作るところを、ここらでは、「イーアルサン、チエズ」と言います。ナスは笑顔のもと。
 笑顔を作りながら、茄子、おいしくいただきました。
 
 雨もやんで、薄暗くなってきた村のトウモロコシ畑の中を、元きたデコボコ道、バスでトロトロと戻りました。

<おわり>

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2007年07月14日


ニーハオ春庭「新立城水庫」
2007/07/14 土
ニーハオ春庭中国通信>伊通河の新立城水庫

 村めぐり。
 長距離バスで、ちょっと遠出してみました。
 と、いっても、予定をたてて出かけたのではなく、たまたま長距離バスが止まったのを見て、乗り込んでみたのです。

 バスのフロントガラスに、行き先が伊通と書いてありました。
 地図を頭に思い浮かべて、それほど遠くでないことを思い出したので、いつもの「行きあたりばったりツアー」開始。
 行き先の伊通(イートン)鎮は、「伊通満族自治県」中心地で、80キロほど離れたところの町です。

 長距離バス、500km、800km先まで行くことは当たり前。でも、そんな遠くまでいくバスだったら、日帰りで戻れなくなります。80kmは、日帰りコースにちょうどいい。
 高速道路利用料金込みの高速バス代15元。約90分。

 満族(満州族)は、東北地方を中心に住んでいます。
 遼寧省の瀋陽市には、満族の首長から、清朝の皇帝となった愛新覚羅(アイシンギョロ)一族の最初の宮殿があり、13年前に見学したことがあります。今回行ってみようとおもいついた伊通には、そんな名所はなく、ただ、満族が多数集まっている自治県の町、というだけです。

 満州族自治県といっても、特別変わった町ではありません。
 満州族は、漢族でない少数民族の中では人口1千万人を越え、最大の少数民族なのですが、満州族が清朝を立てて以来、漢族と同化していて、話す言葉も皆、中国語=漢語(ハンユエ)です。

 「満州語」は、すでに死語になっていて、日常生活で満州語を使う人はほとんどおらず、モンゴル文字から改良された満州文字を読み書きする人も、研究者以外にはいません。
 満族出身の清朝皇帝ラストエンペラー溥儀も、満州語を儀礼的に習いはしましたが、日常生活ではすべて漢語でした。

 伊通へは、伊通河に沿って南下します。伊通河の途中、広い湖が見えました。湖の周りは灌漑が行き届くせいか、田植えのすんだ田圃が広がっています。
 この湖、実は人工湖で、伊通河を堰き止めて作られた、水資源確保のための湖です。

 名前は、「新立城水庫」といい、私の住む町の水、四分の一は、この人工湖から取水しています。
 13年前に、半年間暮らしたときには、水不足で、しょっちゅう断水騒ぎがありましたが、現在水不足が改善されたのは、この人工湖のおかげ。
 1970平方キロ、貯水量は5.92億立法メートルだそうですが、数字を言われても実感わかないので、写真をみてください。海のように水平線のかなたがかすむ湖です。

 日本語サイトで「新立城水庫」について言及している唯一のサイト。鳥取県から交流派遣された人が取った写真が、サイト画面の下のほうにあります。 
 http://www.pref.tottori.jp/kokusai/koryu/trend/2006/0607.html

<つづく>
14:28 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2007年07月15日


ニーハオ春庭「満族の町の床屋」
2007/07/15 日
ニーハオ春庭中国通信>満族の町の床屋

 伊通鎮は、満族(満州族)自治県(人口46万人)の中心地なのですが、要するに田舎町です。通りの両側に店が並んでいて、通りを抜ければ、あとは何もなし。
 見物するような名所もなく、町をぶらぶらすれば、見学おわり。

 私の住む町と違うところは、タクシーの車種。
 私が普段利用している中国で一番安いという初乗り5元のタクシー、第一汽車製造のジェッタ(捷達)という臙脂色の車が大多数。

 伊通のタクシーは、オート三輪。後ろに座席用のいすをとりつけて、ビニールの幌をかけた乗り物です。市内1元(15円)。

 夏は風通しがよいだろうが、冬は寒そう。あのビニールで雨はふせげるのかしら。オート三輪にのって町をひとまわりしようと思いながら歩いていたら、ほんのちょっと町をぶらぶらしただけで、突然雨が降り出しました。
 しかたがないので、軒先に入りました。そこは床屋の軒先。隣は風呂屋。風呂屋は富嶺鎮で入ったので、雨宿りがてら床屋で髪を切ることにしました。

 「我要剪髪」だけ言って、あとは手真似で髪を切るジェスチャー。店の人、うんうん、と納得のようす。分かってもらえたらしい。鏡の前のいすをすすめられたので、はい、ヘアカット、大丈夫よね、、座りました。

 そしたら、いきなり頭にシャンプーを振りかけられた。水とシャンプーを交互に振りかけながら、頭をごしごし。
 美容院では、シャンプー台に仰向けに寝てシャンプーします。
 日本でも、床屋では、このように洗髪しているのを見たことはあるのですが、これまで私は一度も床屋でシャンプーしたことがありませんでした。
 鏡の前の椅子に座ったままのシャンプーは初めてだったので、びっくりしました。

 いすから流しへ行き、お湯をじゃーじゃーかけられて、すすぎ。
 うん、中国に来て、こんなシャンプーしたことも、初めてのいい経験だなあ。カットが少しくらい下手でも、とにかく、シャンプーとカットで5元(75円)だ、文句も言えまい。

 シャンプーは若いオネーサンでしたが、カットはおばさん。
 シャギーを入れたり、段カットしたりというような面倒なものでなく、私のはただのオカッパ。ボブスタイルというものなので、失敗はないだろうと思うものの、まあ、失敗しても「もともと、ヘアスタイルの善し悪しで見栄えが変わるほどの顔でもなし」と、おまかせ。
 
 おばさん、はさみに集中してくれればいいのに、やはり「どこから来たのか、何しに来たのか」と、見なれない客に質問をしてくる。その程度の受け答えはできるけれど、早口で複雑なこと聞かれても、答えられない。
 あとで、紙に書いて筆談するから、複雑な質問はしないでよ。きまった文型しか言えないのだから。

<つづく>
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2007年07月16日


ニーハオ春庭「伊通のオート三輪タクシー」
2007/07/16 月
ニーハオ春庭中国通信>伊通のオート三輪タクシー

 中国、田舎町の床屋。
 ここでも「あんた、雲南人か」だった。よほど、私の顔は、雲南省のどこかの少数民族と同じ顔立ちだと見えるのか。みんなで「雲南人か」と、聞く。それとも、「どこのだれだか分からない人」という意味で「雲南人」と言われるのだろうか。

 ものすごく熱いブローが吹きかけられた。「很熱(ヘンルゥァ)、熱いよぅ!」
 私の発音が悪いせいか、雲南人にとってこれくらいじゃ熱いうちに入らないと思っているのか、おばちゃん、気にせずブローを続ける。っく~、5元だからって、やけどしちゃたまらん。それでも一応終わりました。

 合わせ鏡でヘアスタイルを確認し、ま、こんなもんだろうと「とてもいい。很好(ヘンハオ)」と言いました。

 昔、夫が私に「どんなヘアスタイルをしても似合う女性と、どんなヘアスタイルしても代わり映えしない女性は、どんなヘアスタイルをしてもいいのだ。だから、あなたは、どんなヘアスタイルをしてもいい」と、言ったことを思い出しながら、支払い5元。
 ええ、もちろん私は、どんなヘアスタイルしても~~の方ですとも。く~っ!

 ヘアカットは終わっても、雨がやみそうもない。
 おばさんは、片隅のソファを勧めてくれて、あれこれ聞いてくる。「ウォーシーリーベンレン我是日本人」ま、言えるのはこれくらい。あとは、筆談。

 隣の風呂屋と中がつながっていて、風呂屋とセットで髪を切りにくるようだ。風呂屋の1階にいた人たちが、皆床屋に移動してきた。「めずらしい日本人」を見物に。

 たぶん、この床屋に入った唯一の日本人でしょう。というか、日中国交回復後、この伊通鎮に何人の日本人が来たことがあるのやら。

 雨はますます強くなってきました。よくよく私は雨女?
 これでは町歩きもできないし、帰るしかないかな。

 床屋のおばさんも、風呂屋から私を見物に来ている人たちも、くちぐちに、帰るなら、オート三輪タクシーで、長距離バス駅まで行くとよい、駅までなら1元だから、といいます。よし、雨のなか、バス発着駅まで行くとするか。

 オート三輪を停めて乗り込んだ。
 行き先をいう発音が悪いから、2元取られた。
 いつもなら、「1元のはずだろ、おっちゃん、ボルんじゃないよ!なめんなよ!」と、ケンカするところ(金額だけ中国語、あとは日本語で)なんだけれど、雨だし、隣町だし、おとなしく「よそ者料金」2倍を払いました。2倍といっても、15円のところが30円になった、というだけなんですけれど。

 長距離バス、もう人が乗り込んでいます。
 バスの隣では、白タクが「10元でいくよ」と客引きしている。長距離バスの15元より安いけれど、途中で「高速道路代金50元」とか言うのかもしれないから、やめておく。

 建物の中の窓口で切符を買いました。11元。あれ?来るときは15元だったのに、帰りは安い、と思ったのだけれど、バスのなかで、車掌に「これは高速道路代がついてない」と、言われて、5元払った。あれ?合計16元だ。なんだかよくわからんが、元来た道を戻りました。

 あとで調べると、午後4時半発の長距離高速バス、これを逃したら、またまた「泊まり」になってしまうところでした。
 オート三輪タクシーのおっちゃんとやりあって時間をかけていたら、乗り遅れるところだったので、2倍料金をおとなしく払った甲斐があったというわけです。

 今回の村めぐり、満族の町だけに、満足満足。
 ~くー、寒いダシャレかな。床屋のブローは熱かったのだけれど。

<おわり> 
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ニーハオ春庭中国日記「大連・友有り遠方よりたずねる」

2011-10-07 22:50:00 | 日記
2007/06/18 月
ニーハオ春庭中国通信>朋あり遠方より大連へ

 週末を利用して、大連へ行ってきました。老朋友(ラオポンヨー=長年友情が続いている古い友人)を訪ねての旅。
 13年前に知り合った中国で一番の友人、ハンさん。老朋友といっても、私よりずっと若い、今35歳です。(中国の数え年では37歳ですが)

 13年前に私に中国語を教えてくれた家庭教師であり、9歳だった娘と4歳だった息子が夏休みに中国へきたとき、私が仕事中に世話をしてくれた、子どもたちにとっても大事な人でした。

 このとき、彼女は大学日本語学科に在籍する3年生でした。
 卒業後は日本語教師として働き始めましたが、日本語の上達を願って、日系企業に転職、日本での1年半の勤務を経て、帰国。日本語教師に戻りました。

 子育てをしつつ、かつ日本語を教えながら大学院修士課程に進み、立派に修士号を得た努力家です。今は大学の中堅教師。
 現在、助教授昇進を控えて、授業にも研究にも忙しい時期です。

 論文提出や英語試験の忙しい時期にあたるのに、私を気遣って大連へ招いてくれました。
 (中国の大学では、一般的に、講師昇進時には「中国標準語」の試験、助教授昇進時には英語の試験があるそうです。日本では論文審査だけというところが多いので、昇任システムがちがいます)。

 実は5月のゴールデンウィークにも「いっしょに青島へ旅行しよう」との招待を受けたのですが、この時は彼女が旅行にでかける日と私が仕事を終える日が合わず、残念ながらあきらめた経緯がありました。

 6月中旬、私もようやく仕事がやりくりでき状態になりました。火曜日と金曜日の仕事を交換して、金曜日を休んでもいいことにしてもらい、木曜の夜、内陸から海辺の街へ向かいました。
 1時間遅れで出発した飛行機。夜間飛行の最後、大連の町の灯りがきれいに見えました。

 空港にはハンさんと、ハンサムなご主人が出迎えてくれました。
 木曜日と金曜日の夜は、大学内の「国際会議中心招待所」に宿泊。

 彼女は、登山やハイキングが趣味のご主人、歌と踊りが大好きな娘のシンシアといっしょに大学職員住宅で暮らしています。

 毎週のように土日には登山に出かけるご主人、この週末も友人とキャンプに出かけると言います。
 たぶん、私が気遣いなく土曜日の夜、彼女の家に宿泊できるように、出かけるスケジュールを組んでくれたのではないかと思います。

<大連つづく>



2007/06/19 火
ニーハオ春庭中国通信>大連の大学キャンパス見学

 大連は、北京や上海の次くらいに、日本人にもなじみの深い町。遼東半島の先端にある港町です。

 1899年にロシアが中国から租借地を得て、海辺の辺鄙な地だった青泥窪に、極東経営の要として都市を建設、「遠い東の地」という意味のロシア語「ダーリニー・ヴォストーク」と名付けました。
 日露戦争後、日本が租借権を得て、ダーリニーに大連の漢字をあて、中華人民共和国建国後も大連の名のまま発展してきました。
 人口650万人、経済開発区には、1000社もの日系企業が進出し、投資額も大きいため、若者の日本語学習熱も他の都市を上回って盛んなようです。

 彼女の勤務するソフトウェア学部(軟件学院)は、数年前に本部から経済開発区ソフトウエアパーク(軟件園)に移転しました。
 大連市西部にある本部キャンパスから車で1時間(ラッシュ時の渋滞時間を含む)離れた場所にある、経済開発区の中の「大連ソフトウェアパーク(大連軟件園)」は、中国のシリコンバレーにすべく開発された特区です。

 外国語学部日本語学科だけではなく、理系の学部でも、日本語は第一外国語、第二外国語として学ばれています。
 ハンさんが教えている学部では、専門のソフトウエア研究のほか、卒業時には日本語能力試験2級合格と英語検定試験合格を義務づけており、日系企業その他の就職に有利なようにはかられています。
 
 ハンさんは、現在1年生の「初級後半」の授業と視聴覚授業を受け持っています。
 90分のうち、普段は教科書60分、テレビドラマ視聴30分のメニューですが、15日の金曜日、視聴覚の時間をさいて、スペシャルゲスト「3月に日本からやってきた日本人教師」による日本語特別授業を行うことになりました。

 最初はそんな予定はなかったのです。
 最初は、ただ「大学内を見学したい」と、ハンさんの仕事場までついていきました。
 ハンさんの教科書の授業を見せてもらう計画だったのですが、せっかく日本人がやってきたのだから、学生たちのために何かしゃべってもいいんじゃないか、ということになりました。

 30分の持ち時間のうち、15分はコンピュータのパワーポイントで写真を見せながら日本の生活文化について解説。
 食文化、衣文化など、身近な生活について、中国と同じところ、同じように見えて違うところなど話しました。
 また、質疑応答では活発に質問が出て、日本語を学ぶ学生たちの日本への強い関心がうかがえました。

 学生たちは、日本の生活のうち表面に見える部分については、よく知っています。この日の授業でも、教科書に入る前に視聴していたのは、日本のテレビドラマ『医龍』です。

昨年2006年に日本で放映された病院を舞台にしたドラマで、むずかしい医学用語なども出てくるのですが、学生たちはヘッドフォンで日本語をきき、中国語字幕で内容を確かめながら、視聴していました。

 生死を直接扱うドラマのストーリーを楽しむと同時に、テレビドラマのなかに表われている現代日本の社会や家庭のすがたが、よい学習材料となっています。

<大連つづく>
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2007年06月20日


ニーハオ春庭「大連で授業」
2007/06/20 水
ニーハオ春庭中国通信>大連で授業

 私の写真での日本紹介は、テレビドラマから学べるような、生き生きした現代社会を反映したものとはすこし違っていて、生活文化の歴史についてからはじめました。

 衣服の文化について。
 日本の衣服はどのような歴史を経て現在のようなスタイルになってきたのか、源氏物語絵巻の十二単や、浮世絵の女性の着物などを紹介し、着物の着付けはこのようにやる、というスライドショウを見せました。

 着物の着付けの複雑さに、学生たちびっくり。
 日頃、着物を着ている女性はテレビドラマのなかで見ることができても、このように、長襦袢、着物、帯の着付けの仕方を紹介することはありません。
 学生たち、和服の帯は、背中に座布団をくくりつけているのではないことが、初めて分かったのではないかと思います。

 食文化の紹介。
 弥生時代の食事メニューを再現した写真。奈良時代のメニューなど、日本人の食事の紹介。

 和食の献立。代表的な料理の写真。
 食材や調味料。醤油やマヨネーズは、同じように見えても、中国で売っているものは、微妙に味が違うことなども話しました。キューピー合弁会社のマヨネーズ、日本のより甘みが強い。

 昨年9月に入学した1年生の学生たちは、日本企業で働くことや日本留学に興味を持っているので、「日本の生活は物価が高いだろうけれど、留学生たちはどのように暮らしているのか」とか「日本企業でソフトウェアエンジニアとして働くとしたら、初任給はどれくらいか」とか、質問がでました。

 初任給は会社によって異なるけれど、大学卒初任給は20~30万円くらい、というと、「すご~い」と、その「中国に比べると高給」に驚いていました。

 「でも、中国で1元で売っているペットボトルの水は、日本では10元しますよ。食べ物は中国の10倍から20倍するし、東京近辺で風呂付き部屋を借りるなら、30~50平米の狭い部屋でも一ヶ月に10万円くらの家賃を払わなければならないから、中国で3000元(4万5千円)の給料をもらう方が、ずっと豊かな生活を楽しめる」というような解説をしました。

 給料の高さだけで日本を選ぶなら失望することもあるでしょう。
 でも、若いうちに外国で勉強したり働いたりすることは、とてもいい経験になるから、ぜひみなさん、日本へ来てください、とすすめて話をしめくくりました。

 次の1年生クラスの授業では、前半は「一番日本語が上手な学生」が「日本人と会話できる特権」を得て、キャンパスを案内してくれました。その間、他の学生たちは、教科書の復習授業。

 一学部だけのキャンパスなのに、広い、広い。歩き疲れました。
 案内してくれた1年生は、「水曜日に体育の授業があるので体育館まで歩いていくけれど、寮の部屋から同じキャンパス敷地内の体育館まで15分くらいかかる」と、言っていました。  

 後半は1コマ目と同じように写真スライドでの日本紹介と質疑応答。
 最後に学生たちと記念写真をとって、お別れしました。

 日本の大学では語学授業は「単位をとるためにしかたなく」学ぶ学生も多いし、設備も整っていません。せいぜい、ビデオ、CDや録音テープくらい。
 でも、さすがに最先端のソフトウェアパークにある大学だけに、ハンさんの語学教室の設備のすばらしさにびっくりしました。

 ハン先生は、DVDやパワーポイントを駆使して授業を行い、私たちが日本の大学で黒板にチョークで説明を書くところを、パソコンのキーボードでささっと打ち出した文字をスクリーンにうつして説明していました。

 私は中国にきて、今の勤務校で初めてパワーポイントをつかった授業をしてみたのです。日本ではまだまだ各教室にパソコン、スクリーン、DVDプロジェクターなどを完備したところは少ないです。
 理工大学ソフトウェア学部の設備は、勤務校を上回るものでした。

 ハン先生と学生食堂で米繊(ミンシェン)を食べて、午前中のスケジュール終了。

<大連つづく>
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2007年06月21日


ニーハオ春庭「大連の山と海」
2007/06/21 木
ニーハオ春庭中国通信>大連の山と海

 金曜日午前中に訪れた、経済開発区の軟件学院(ソフトウェア学部)。
 すぐ後ろには大連で一番高い山、大黒山がそびえています。標高663m。
 山をバックに写真を撮ったあと、バスで、いったん宿舎の国際会議中心招待所へ戻りました。
 午後は、海辺へ。

 私は、「どこへ行くのか知らないバス」に乗って、終点まで行って折り返してくる「ミニ・ミステリーツアー」や、「ただ電車に乗ってまわりの景色をみている」ことが好き。今、住んでいる町でも、週末にバスに乗って町中をただ走っているだけで楽しいです。
  私がハンさんに「大連でやってみたいこと」と、希望したことのひとつは、「トラム(路面電車=市電)」やバスに乗って町の中を走り回ること。

 大連には、昔ながらの路面電車が残っています。
 3系統のうち、町の西部を走る202系統は2両連結の新型トラム。流線型の新幹線のような形。
 大連駅から左右に伸びている201、203両系統は、海老茶色や緑色のレトロな車両が多いです。

 6月14日、金曜日午後。大連西部地域に位置する大学から、まず202系新型トラムで市の中心地へ行きました。
 それからバスとトラムを乗り換えながら、旧満鉄時代の駅舎がそのまま利用されている沙河口駅を見て、次は201系統トラムで大連駅へ。203系統に乗り換えて、魯迅路を通って終点の東海公園へ。市の、西から東へ、トラム全部に乗ったことになります。

 東海公園は、大連市の東端にある海辺の公園です。海も眺められるし、台子山、東山という山でハイキングもできる風光明媚な市民の憩いの場です。
 早朝と夕方7時からは無料ですが、私とハンさんが入場したのは6時20分だったので、入場料ひとり20元きっちり取られました。
 海之韵広場やゴマフアザラシの飼育池などの名所を散歩しながら海辺を回りました。

 台子山は、標高189mにすぎないのですが、海辺に立つ189mの石の山は、なかなかの偉容です。近づいていくと、地学・地質の先生たちなら、きっといろいろな発見があると思うような地層や柱状節理の岩があるのですが、私にはどの地層を見ても、区別がつきません。

 「大連山の会」のメンバーであるハンさんは、何度も歩いているコースなのだそうです。「でも、階段ばかりの山道なんでしょう?」と、泰山登山で階段登りに疲れてしまった私が聞くと、階段の道も坂道もあるとのこと。

大連東端の東海公園から、大連港の方向に沈む夕日を眺めました。
 夕暮れの海には、釣り船が浮かんでいます。海岸の堤防から釣り糸をたれている人もいます。

 そうだ、魚!9年ぶりに会う朋友とながめる夕日もロマンチックですが、花より団子、夕日の海より海鮮料理! 
 というわけで、夕ご飯は大連名物の海鮮料理へ。

<つづく>
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2007年06月22日


ニーハオ春庭「大連海鮮三昧」
2007/06/22 金
ニーハオ春庭中国通信>大連海鮮三昧

 私が暮らしている内陸地の町でも、冷凍冷蔵輸送の発達した現在では、魚や貝も豊富に手に入れられるようになっていますが、なんと言っても海辺の町大連に来たからには、海鮮料理が楽しみのひとつです。

 大連に住む朋友ハンさんのご招待で、「東海明珠美食城」という海鮮レストランへ行きました。大連でも評判のいい店だそうです。
 注文コーナーには、生け簀や水槽に、各種の魚、貝、蛸、蝦などがウニョウニョと動いています。客は料理してほしい食材を選んで、料理方法などを注文します。

 ハンさんは、海草と蝦の和え物、ホタテの煮物、蝦と野菜の鍋、赤貝の刺身、などを注文してくれました。
 ビールはこの店独自に作っているハウスビール。ちょっと変わった風味でおいしかった。

 赤貝の刺身、わさび醤油でいただきました。おいしいおいしいとぺろりと食べてしましましたが、あとで聞いてみると、やたらな店で刺身を注文してはいけないのだって。
 新鮮な材料を清潔に料理できる信用できる店でないと、生の海鮮でひどい下痢になった日本人の話は数知れず、、、、とか。

 実をいうと、私の上司もゴールデンウィークに大連に来て、最初の日に腹痛。6日間の大連滞在のうち、中4日間は病院で点滴を受けていたといいます。
海鮮料理にあたったのではなく、ビビンバの上にのっていた半熟卵が原因らしいこと。ついに海鮮は食べずじまいだったと、悔しがっている上司に、海鮮のうまさをたっぷりと土産話にしてやろっと。意地悪な私。

 高い店だから清潔で安全、というわけでもなく、客の目に見える店の中がいくらこぎれいでも、厨房は別。

 繁盛していて客の回転がよく、常に新鮮な食材をおいていること。料理人が生の食材を扱い慣れていて、包丁やまな板まな箸にまで気をつけていること。衛生観念が一般の中国の厨房より高く、下働きの調理人や服務員にまで衛生教育が行き届いていること、、、、、

 鍋や煮物は食べきれないので、残った分はテイクアウト(ダーパオ=打包)。
 気軽に「ダーパオ」と言えるのは、最近の中国のいいところ。昔は「残しておくのが、礼儀」でした。

 全部食べたら「私はまだ満腹していない、あなたのもてなしは不足している」という意味になるから、皿の上に半分は残しておくのがもてなしへの感謝の表し方でした。もてなすほうは、太っ腹を表すために、皿の上をそのままにしてレストランを去る。

 私にはもったいなく思えて、昔はいつも「残った分を持って帰りたい」と思ったもんですが、今は、親しい人同士の会食なら、ダーパオOKです。
 おなかいっぱい食べて、二人で150元ほど。日本円にするとひとり千円ちょっとくらいです。

<大連つづく>
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2007年06月23日


大連家庭料理
2007/06/23 土
ニーハオ春庭中国通信>大連家庭料理

 土曜日の夕食は、まず、海鮮市場へ買い出しに行きました。玉華市場という、生きのよさで知られる市場なのだそうです。
 店先の木箱には、さまざまな魚、貝、海産物がうごめいています。魚はピョンピョン跳ねているし、蟹や海老、貝などもモゾモゾと動いています。

 ばふんウニ(馬糞雲丹)、殻に入っているもの、1斤(500g)20元。アワビ1斤25元。貝(はまぐりの一種だそうだけれど、日本で見る蛤よりずっと大きかった)のむき身1斤20元。
 中国の食材の中では、「ぜいたく」なもののほうですが、生きて動いているアワビが1個100円くらいで食べられるなんて、文字通り有り難いこと。

 夕食はハンさん手作りの水餃子。
 中国では焼き餃子はめったに食べません。ほとんどが水餃子。たくさん作った水餃子が残ったときに焼き餃子にする程度。餃子本来のうまさを味わうには水餃子が一番といいます。

 中国の女性が「餃子を作る」といえば、皆、小麦粉を練るところから始めます。
 小麦粉に塩や水を入れてこね、棒状にします。小さめの団子にちぎって、粉をひいた台の上でころころと転がして球にし、その球を綿棒でくるくるとのして皮を作ります。くるくるの具合が、皆手早く、あっという間に薄い円形になります。

 具は、家庭によって「おふくろの味」がちがいます。どの中国人にとっても「うちのおふくろの餃子が最高」なんだって。
 50年も昔のこと、私の母親が最初に覚えた中華料理が「八宝菜」、次だか次の次だったかが「餃子」だったので、私にとっても、餃子は思い出の「おふくろの味」のひとつです。

 ハンさんは、ナマコと貝と蝦を細かく切ってニラと混ぜ合わせ、海鮮餃子の具を作りました。包むところは私もほんのちょびっと手伝いました。
 こどものころ、母に半分邪魔にされながらも一生懸命皮に具入れて包んだことを思い出しながら。

 ハンさんは、「センセー、お上手ですね」とほめてくれましたが、10個くらい包むと、「先生、居間でゆっくりなさっていてください」と、丁重な「休憩のすすめ」をいただきました。アハッ、半分邪魔というより、全面的におジャマになってしまうお手伝いだったんですね。

 ばふんウニの殻を、はさみでジョキジョキ切ってお皿に並べると、朱色の実(?)が鮮やかです。
 ウニョウニョ動いていたアワビ、茹でただけの超カンタン料理ですが、お醤油をたらしてかぶりついたら最高!
 山国田舎育ちの身には、夢のような海鮮三昧でした。

<大連つづく>
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2007年06月24日


ニーハオ春庭「大連さくらんぼ」
2007/06/24 日
ニーハオ春庭中国通信>大連さくらんぼ

 大連周辺は、遼東半島の中で「果物名産地」のひとつです。
 りんご、梨、桃など、いろんな果物がおいしい。ハンさんの実家も、りんご果樹園をもっている農家でした。

 6月15日土曜日、ハンさんが「大連サクランボ狩り」に連れて行ってくれました。
 ハンさんの同僚たち、ソフトウェア学部(軟件学院)の、英語の先生日本語の先生が家族同伴で郊外のさくらんぼ農園へ行くツアーに、私も「ハンさんの家族」として混ぜてもらったのです。

 行き先は、旅順方面へ50kmくらいのところ。「大学職員バス」貸し切りで1時間ほどで、龍頭鎮という地域にあるさくらんぼ農園につきました。
 
 バスを降りてさくらんぼや桃の木の間を歩き、「どの木からとっても、直接口に入れるのは食べ放題、おみやげに持って帰るのは1斤10元から15元(500g、150~200円くらい)」という注意を受けて、サクランボ狩り開始。

 見慣れたソメイヨシノとは違う種類の木。幹は太いですが余り背が高くありません。どの枝にもびっしりと実がついています。
 緑の葉の間の赤い実が、日の光を受けて、宝石のように輝いています。
 私はこの真っ赤なルビーのようなさくらんぼを取っていましたが、「こちらの黄色い種類のほうがおいしいよ」という人がありました。

 黄色にほんのり紅がさしている種類、こちらは実が堅いけれど、美味しい。赤いほうは実がやわらかく、口に入れた感じはこちらのほうが甘い気がするのだけれど、おみやげなら、実が堅い方がモチがいいのだと、あとでききました。

 私は赤い方ばかり摘んでいて、「混ぜると計量できないから、赤と黄色は別々に袋にいれたほうがいい」というので、摘むのはもっぱら赤いほうにして、黄色い方は、おなかの袋に入れました。

 黄色いさくらんぼを食べるとつい、♪若い娘がウッフン、お色けありそでウッフン♪なんて鼻歌歌いたくなってしまうところが、若くない証拠ですね。

<大連・つづく>


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2007年06月25日


ニーハオ春庭「あんな夢こんな夢いっぱい」
2007/06/25 月
ニーハオ春庭中国通信>あんな夢こんな夢いっぱい

 職員親睦のさくらんぼ狩りに「同行の家族」は、ハンさんと小学校2年生のシンシアちゃん。ほかの先生たちも、お子さんを連れています。

 シンシアは、中国名は「シンシン」ですが、幼稚園のときから習っている英語教室のクラスネームがシンシアなので、そちらが気に入って「シンシア」を呼び名にしています。

 とてもかわいらしいお嬢さんで、歌と踊りがじょうずです。毎週土曜日にダンスのレッスン、日曜日には英語とピアノのレッスンがあり、多忙な小学生。

 日頃は、お母さんは朝早くの通勤、帰宅も遅いので、おばあちゃんと過ごすことが多いので、週末はお母さんにいっぱい甘えたいシンシアちゃん、母娘、仲良くさくらんぼを摘んでいます。

 みな、おなかいっぱいサクランボを食べたあとは、木陰で休憩。
 ハンさんが紹介してくれた同僚のうち、ハンさんの上司にあたるリュウ先生は、私の勤務校に大学時代のクラスメートがいるのだそうです。
 日本の日本語教育業界もそうですが、中国も、この業界けっこう狭い。どこに行っても知りあい同士がいる。

 日本に留学して博士号を得たリュウ先生、出産子育てをしながら仕事を続けてきた人で、ハンさんにとって「大学では先輩であり、大学院では指導教官であり、仕事では上司」そして仕事を持つ女性としてライフスタイルを学ばせてもらった、という大事な人です。
 リュウ先生の息子さんはシンシアの通っている小学校の1年生。

 シンシアちゃんや、同僚の子どもたちが、かわるがわるお得意の歌や踊りを披露してくれました。
 最初は恥ずかしがっていたリュウ先生の坊ちゃんも、大きな声でうたいました。

 シンシアちゃんは、踊りをならっていて発表会などにも出ているので、木陰のにわかステージでも、ものおじもせず、にこにこ笑顔で歌と踊りを見せてくれます
 シンシアのお得意の歌のひとつは、日本語の「ドラエモンの主題歌」。ドラエモンは、こちらのテレビで放映されていて、子どもたちの人気者です。
 テレビから流れてくる主題歌は日本語ですが、中国なまりの発音の中国女性の歌声です。

 ♪「こんなこといいな、できたらいいな、あんな夢こんな夢いっぱいあるけど~♪」シンシアの日本語の歌、とてもじょうずです。

 宝石のようなさくらんぼの実が輝く木の下で、かわいい歌声を聞くことができて、ほんとに「あんな夢こんな夢」を、「みんなみんなみんな、かなえてくれる不思議なぽっけでかなえてくれる~」いう気分でした。

 おみやげは、不思議なポッケいっぱいのさくらんぼ。
 ドラエモンのおなかについている四次元ポケットからは、便利な道具がいろいろ出てきますが、私のおなかの不思議なポケットは、さくらんぼ食べてもビール飲んでも、それを脂肪のかたまりに変えてしまう不思議なポケット。

 さくらんぼをいっぱい詰め込んで、、、、 不思議だなあ、いつのまに、こんな脂肪のかたまりにかわっている、、、、って、毎日食べ過ぎた結果というだけですね。

 <大連つづく>
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2007年06月26日


ニーハオ春庭「石臼と小公主(1)」
2007/06/26 火
ニーハオ春庭中国通信>大連・石臼と小公主(1)

 サクランボ狩りからの帰り道、大連市内へ戻る同僚たちと分かれ、バスを下車。「近頃はやりの東北田舎料理の店」へ行きました。
 駐車場には車がいっぱい。大連やもっと遠くからも、グルメを乗せた自家用車が押し寄せてくる、名物店なのだそうです。

 一種の「食のテーマパーク」になっているレストランで、オンドルを備えた東北の田舎風の家を模して立ち並んでいる客室に、服務員が行き交って厨房から料理を運んできます。
 中庭には、実際に水くみをしている井戸、粉やトウモロコシを挽く回転式の大きな石臼などがおいてあって、田舎の暮らしを再現しています。

 ハンさんの思い出話。
 「母が豆を石臼でつぶして豆腐をつくるとき、あそこにあるのと同じような石臼を、自分たちの力だけで回して豆を呉にしていました。
 本当は大きな石臼をロバに引かせてぐるぐる周らせて動かす方式だったんですが、個人が豆腐を作るためには、ロバを使わせてもらえなかった。
 私が子どもの頃の農村は集団農場方式で、ロバは村の共同財産でしたから、個人利用ができなかったんです。母は、苦労して石臼を挽き、子どもたちもお手伝いしました」

 お母さんが豆腐を作ってお父さんが町に売りに行き、村のなかでも「現金」を得ることのできる一家だったので、ハンさんは農家の出身でも大学まで進学できました。
 ハンさんの頭のよさから、ご両親の才覚あるようすがうかがえます。
 自由に経済活動ができなかった昔の農村を考えると、ハンさんが優秀な人であるとしても、娘を大学に進学させてやるのは、ご両親にとってなかなか大変なことだったのではないかと思います。

 シンシアは、楽しそうに石臼の前で写真を撮っていました。
 シンシアと私の会話は片言英語と片言中国語です。シンシアの英語、週に一回のレッスンだそうですが、日本の大学生より上手に英語の会話ができます。
 お母さんが日本語の先生なのに、シンシアは日本語より英語のレッスンが好きで、日本語は「ドラエモンのうた」だけ覚えたんだって。

 一番大きい棟では、結婚式が行われていて、テーブルの上には次々とごちそうが運ばれてきます。
 白いウェディングドレスを着た花嫁さんは、花婿さんと、腕を廻し合って飲み物を飲むようすを、皆に披露したりして幸せそうです。

 伝統的な中国の花嫁衣装は赤いチャイナドレスでした。
 赤はお祝いの色で、「白はお葬式の服の色」だったので、結婚式には使わなかったのに、最近は白い西洋風のウェディングドレスが主流。
 女性は「プリンセス(小公主)のようなドレスを着たい」と、小さな女の子だったころに夢見たような、すてきなドレスに身を包んで結婚式を迎えるのでしょう。

 スピーチをする花婿の前にシャボン玉が吹き出したりする演出もあり、昔に比べて結婚式も年々派手になってきたようです。
 13年前も、日頃は倹約していても結婚式などのイベントでは、派手に客を招待するのが中国式でしたが、豊かになってきている都市近郊農村の結婚式、どんどん「ド派手度」がアップしてきたのかも。

 結婚式の棟をぬけて、生け簀の棟へ。ここも、食材が水槽や生け簀に並んでいる中から、客が食べたいものを選ぶ方式です。
 さよりの唐揚げ、田舎風の麺、羊肉の焼肉串、寒天料理などが私たちのいるアウトドアテーブルに運ばれてきました。

 日本で私は、寒天を食べるときトコロテンとか牛乳羹などのデザートで食べるくらいでしたが、中華料理では、料理の素材として使われ、煮物や和え物、いろんな調理がなされます。
 ダイエットにもいいので、もっと寒天料理をたべたほうがいいのかも。

 メインディッシュは「東北干しきのこと鶏肉の煮込み」、ここの名物料理とか。
 どれもおいしかったです。

<大連つづく>
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2007年06月27日


ニーハオ春庭「石臼と小公主(2)」
2007/06/27 水
ニーハオ春庭中国通信>大連・石臼と小公主(2)

 土曜日の夕方、シンシアは「ダンスのレッスン」へ。
 レッスン後半を見学させてもらいました。レッスン前半の、柔軟体操や基礎訓練の部分は見学禁止。
 私が日本で練習しているダンスも、前半は柔軟運動や、ルルベプリエ、ジュッテ、ピルエットなど、バレエ基礎運動が中心なので、見学しなくてもたぶん、同じような基礎訓練だろうと、想像がつきます。

 シンシアたちの踊りは、日本の「創作児童舞踊」と同じ雰囲気です。
 5時半から7時までは小学生のクラス。7時からは中学生以上の人のクラスです。
 大学付属幼稚園の中にある「舞踊練習場」で行われているレッスン、三方の壁に鏡とバレエレッスンバーが取り付けてあります。

 月末にダンスの競技会があるそうで、先生の指導は実に厳しいものでした。
 先生が模範の演技をやってみせたあと、先生のようにできない子を、容赦なくしかりとばします。日本だったら、こんな厳しい先生だと生徒が逃げ出してしまうのではないか、と心配になるのに、ハンさんは「厳しければ厳しいほど、生徒の技量があがり、親は先生を評価します。もし、甘い先生だったら、親は先生を信用しないでしょう」と、いいます。

 この話を聞いて、腑に落ちたことがありました。
 学生の作文に日本語授業の感想が書いてあったのですが、「日本人の先生たちは、とても厳しく私たちを指導してくださいます」と書かれていて、「え、私、そんなに学生に厳しくしているつもりはないのに、宿題出し過ぎているかしら」と、ちょっと心配したことがあったのです。まあ、それ以後も、宿題はバンバンだしているんですけど。

 ハンさんにだずねてみると、「厳しい先生」と評価されることは、学生たちが先生の指導を「いいかげんではなく、きちんと指導している」と認めていることになり、日本語で「先生は厳しい」と表現するニュアンスとは異なる、ということでした。
 そうだったのか!

 シンシアはレオタードに長いレッスンスカートをはいて練習していますが、本番のときにはお姫様のようなスカートをはくのでしょう。
 母親が「シンシアには踊りの才能がある」と、いうように、レッスン生の中で、動きが一番よかったです。

 シンシアは、ダンスと英語とピアノを習っています。ピアノレッスン、月謝は月に100元と聞きました。共働きの夫婦であっても、月謝100元はそう安くはない出費になります。シンシアは、大学付属小学校に通い、ピアノや英語のレッスンを受け、恵まれた教育を受けています。

親の服を買う費用を削っても、大事な大事な一人っ子のため、教育費につぎ込むのが現代の中国。一人っ子は、両親、祖父母の愛情を独り占めして小皇帝、小公主(王女さま)のように育てられています。

 石臼を挽くにも苦労の連続だったハンさんのお母さんの時代から、楽しそうにダンスに興じるシンシアちゃんの姿まで、中国の移り変わりの大きさにびっくりします。
 豊かさを満喫するようになったシンシアの世代。でも、おばあちゃんたちがどれほど苦労を重ねてきたのか、新しい世代にも忘れてほしくないと思います。

<大連つづく>
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2007年06月28日


ニーハオ春庭「小公主と、星に願いを(1)」
2007/06/28 木
ニーハオ春庭中国通信>大連・小公主と、星に願いを(1)

 土曜日夜、ハンさんが夕ご飯を作っている間、シンシアちゃんといっしょに過ごしました。家族のアルバムをみせてもらったり、シンシアがピアノをひいているところを写真にとったりしました。

 シンシアは、大好きな絵本「小公主(シャオゴンチュァ)」をみせてくれました。
 ディズニープリンセスが出てくる絵本で、シンシアは「これは愛麗儿(アリエル)、これは愛洛(オーロラ)」と、小公主(プリンセス)の名前を教えてくれます。
 
 ハンさんは、「私が子どもの頃、お姫様にまったく興味がなかったのに、この子はお姫様とかきれいな服やアクセサリーとか、女の子らしいものが大好きで、私とぜんぜん違ってます」と、言います。

 シンシアが日本語ではなく、英語のほうが好きなのは、「大きくなったら、ディズニープリンセスになりたい」からのようです。

 日曜日の朝、シンシアはおばあちゃんに連れられて英語とピアノのレッスンにでかけました。
 自慢の孫がかわいくてならないおばあちゃんと、教育に心を砕く両親に囲まれて、シンシアはすくすくと成長しています。

 一人っ子の娘に十分な教育を与えてやれると思う一方、ハンさんは「シンシアに弟か妹がいたらなあ、と、かなわぬ願いを持ったこともあります」と、言います。

 1979年以後、「漢民族の場合、子どもはひとりだけ」という政策が厳しく指導され、80年代以後の子どもたちは、兄弟がいない。シンシアも、もちろん一人っ子です。
 ハンさんの知りあいは、アメリカ滞在中に二人目を出産したことを隠したまま帰国し、仕事に復帰しました。しかし二人目の子がいることが露見したとたん転勤(という名の左遷)させられ、結局仕事を辞めざるをえなくなったとか。

 また、農村では「二人目の子を役所に届け出られず、戸籍に入っていないため教育も受けられない子」もいると聞きます。
 出生前に男女の区別を知ることができる現代、新生児は男児の出生が多い。男の子が家を継ぐことを願う中国の伝統的な考え方から、胎児が女児だとわかると、出産をやめてしまう夫婦もあるからです。男女比率のアンバランスから、将来は、「嫁不足」という問題も起きてくると考えられます。

 中国13億の人口のうち、55ある少数民族は二人以上の子を持つことが認められています。
 人口のほとんどを占める漢民族の場合、夫も妻も博士号を持っていると、二人目の子が認められる。
 少数民族については、まあ、納得だけれど、「夫婦とも博士号」というほうは、優生思想みたいで気分悪い。

 今、80年代以後に出生した一人っ子が結婚適齢期を迎えています。一人っ子同士が結婚した場合は、二人目の出産が許可されています。

<大連・つづく>
08:08 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2007年06月29日


ニーハオ春庭「小公主と星に願いを(2)」
2007/06/29 金
ニーハオ春庭中国通信>大連・小公主と「星に願いを」(2)

 人口そして食料問題は中国の大きな課題なので、これからも当分人口抑制政策が続くのではないかと思いますが、余裕がでてきた中産階級には、「二人目の子をもてない」ことの不満がくすぶっています。

 60億人の全地球人口のうち、13億人は中国人。つまり地球にいる4人にひとりは中国人です。全体の人口問題を考えるなら、「自由に生んでよくて、どんどん中国人が増えていったら、地球のほとんどは中国人」になるだろうと思うし、食糧問題など深刻になるという政府の政策もわからないではないですが、個人の人生をみると、「子どもに兄弟を与えてやりたかった」「子どもの出産をどうするかは、個人の人生に属する人権問題」というのもわかり、複雑なところです。

 生まれた子にできるかぎりのよい環境を与えてやりたいのは、どの親も同じ。皆、夜には星に願いをかけ、こどもの将来が明るいものになるよう、祈ります。

 ディズニー版ピノキオでは、こおろぎさん(ジムニークリケット)は、♪輝く星に心の夢を、祈ればいつか叶うでしょう♪と、やさしく歌い、ピノキオの「よい心」を表現しています。

 ところが、イタリアのカルロ・コローディーが書き、1883年に発売された初版本では、コオロギがピノキオに「よい心」を持つように話しかけると、ピノキオは「うるさい!」と、コオロギを叩き殺してしまう。
 監督ロベルト・ベニーニ自身がピノキオを演じた実写映画版は、原作に忠実だったので、大甘のディズニー版を見慣れた観客には評判が悪かった。

 「一人っ子政策」が、人口抑制の成功例となるのか、さまざまな問題を引き起こす原因となるのか、まだわかりません。
 一人っ子の未来は、ディズニーの「星に願いを」の甘い歌声になるのか、原作本やベニーニの映画のように「良い子になりなさい」と説教するウットーシイやつをたたき殺してしまう結果になるのか。

 ディズニーのお姫様が大好きなかわいいシンシア。
 大きくなったらディズニーのお姫様になりたいという夢、かなうといいね。

 星に願いを 祈ればいつか あなたの夢が かなうでしょう
   ♪When You Wish Upon A Star Your Dream Comes True. ~♪ 

<大連つづく>

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2007年06月30日


ニーハオ春庭「大連住宅事情」
2007/06/30 土
ニーハオ春庭中国通信>大連住宅事情

 ハンさんのご主人がつとめる日系企業も経済開発区の中にあります。ふたりの通勤時間を考えれば、経済開発区のなかにあるご主人の社宅に住む方が便利です。
 しかし、ふたりにとって一番大切なことは、「一人っ子」の娘シンシアちゃんの教育のこと。

 シンシアが大学本部キャンパス近くにある付属小学校に通っているため、娘の教育を第一に考えて本部キャンパス大学職員住宅のほうで暮らしてきました。経済開発区の職場まで、夫婦とも通勤に1時間以上かかります。
 東京の感覚でいうなら、国立市から東京を抜けて、幕張メッセへ通勤するっていう感じかな。

 ハンさんが出勤中、朝夕のシンシアの世話は、すぐ近くに住む姑さんがしてくれます。 朝6時には家を出なければならない通勤ですが、おばあちゃんが孫の朝ご飯を世話し、学校から帰ったあと預かってくれるおかげで、共働きを続けることができます。
 住宅は、何よりも娘の小学校に近いところ、というのが第一条件です。

 日系企業に勤務するご主人の会社から支給されている住宅は人に貸して、お金を貯め、ようやくローンで家を買う手続きが完了したと、うれしそうでした。
 引っ越す予定の新居は、中古アパートメントハウスの5階。現在の住居から数分のところにありますが、今よりもっと付属小学校に近くなる。

 「88平米で42万元(約630万円)で、半分が頭金、半分がローン。今のふたりの給料でだせるぎりぎりの値段で住宅を探しました。古くてもいいから安い物件という条件で選んだので、内装も全部直さなければ住めないのだけれど、大連は、今どんどん家の値段が上がっているので、これ以上掘り出し物を待ってお金を貯めてからと考えていると、手が届かなくなってしまうから」と、住宅の値段も教えてくれました。

 大連の海辺の高級住宅地。1平米1万元。平均100平米のマンションが100万元(1500万円)くらいで、一般的な共働きの夫婦にはとても手が出ない値段です。
 しかし、日本人にとっては、100平米で1500万円ならお手頃な値段なので、日系企業などが社用にどんどん住宅を買う。で、住宅高騰が続き、住宅ブームといっても、一般の中国人にとっては高値の花になってしまう。

 新居の前まで連れて行ってくれました。まだ、現在の居住者が入居中なので、中は見せてもらえません。
 7月いっぱいで前住者出ていくので、内装リフォームが済みしだい、大学が夏休みの8月中には引っ越しするそうです。

 広さからみたら「お買い得」なアパートメントハウスですが、難点は、「ここの5階に入居しますが、エレベーターがないんです。以前の中国建築基準では、7階くらいの高さまでエレベーターなしのビルが許可されていたので、一般住宅にエレベーターがついている物件はほとんどありません」

 う~、2階へ行くにもエレベーターを使いたくなってしまう、階段大嫌いの私にはつらい仕様かも。ダイエットにはよさそうだけれど、いくら食べても太らないという細いハンさんが、ますます痩せてしまうと困ります。

 今のハンさんの住宅は、居間が日本風にいうと15畳くらい、夫婦の寝室が12畳くらい、子ども室が6畳くらい、ダイニングキッチンが4畳半くらい。トイレシャワー室が2畳弱くらい。
 日本の一般的な団地サイズよりずっとひとつの部屋が広いですが、日本人にはバスタブがないのがつらいかも。お湯にひたって一日の疲れをとる人が多いので。
 たぶん、他の大学職員住宅の部屋も同じようなつくりでしょう。シャワーのみのほうが多く、バスタブを備えている家は、中国のアパートメントハウスでは少ないのかもしれません。
 
 こうして、中国の一般家庭の中を見せてもらえるのも、今回中国に来て始めてのことでしたから、とても興味深く泊めてもらいました。
 
<大連つづく>



2007/7/02 月
ニーハオ春庭中国通信>大連・星海広場の漢白玉華表

 シンシアがピアノの練習に出かけた後、ハンさんと星海公園へ行きました。
 シーズンには海水浴客でにぎわう「海辺の公園」で、大連最大の広場が名所になっています。
 ハンさんと「二人乗り自転車」で、星海広場を散歩しました。

 ロシア租借地の街としてダーリニー・ヴォストークが建設された1899年から百年目にあたるのが、1999年。大連が都市として出発した節目の年でした。

 星海広場は、それを記念して星海公園に作られた新しい広場です。
 節目の年に合わせて、直径が1999メートルの円形の広場。一周すると6km強ほどのちょうど散歩によい距離になっています。

 中央に高さ19、97mのトーテムポールの大型のような記念柱が立っています。こちらは香港返還の年1997年を記念しています。白い柱石が、夏の陽を受けて輝いています。

 この記念柱は、「漢白玉華表」と呼ばれているもので、昔、皇帝が馬を停める際に、馬のひもをつなぐ柱として使用されのだそうです。皇帝が馬を停める、すなわちその地が皇帝に所属し、皇帝の権力のもとにあることを、この漢白玉華表でしめしました。

 皇帝だけが建てることができ、中央への統一、中華民族統合の象徴として建てられたのだといいます。
 星海広場の漢城玉華表にも、皇帝の象徴である龍が彫り込まれています。

 大連市がこの柱を立てたとき、「漢白玉華表は国の代表者の象徴」だから、北京以外の地に建設するのはいかがなものか、という中央からのクレームが市長に届いたのだそうです。

 市長は「大連が都市として建設されてから百年目の1999年を記念する」というと、中央に反対されると思って「香港返還の市民の喜びを表現したものであり、国の統合の象徴である」という大義名分を考え、香港返還の1997年にちなんだ高さにしたという知恵者。
 「市のお祝いではなく、国家全体の慶事を記念している」という名分が認められ、無事「漢白玉華表」が大連の広場に立てられました。

 知恵者はどこにもいるもんですが、このエピソード、東北地方随一の貿易都市、産業都市として発展してきた大連のしたたかさを象徴しているように思いました。

 広場の海辺よりに「大連名士、千人の足跡」が、レリーフとして床に並べられています。海辺へ向かって進んでいく千の足跡の先端には、未来を目指す男の子と女の子の像。大連の未来を象徴している像なのだそうです。

 広場に憩う人々、かわるがわるこの像の前で写真を撮っています。
 海辺の明るく開放的な大連の町、未来へ向かって前進、また前進、という感じでした。

大連・星海広場と漢白玉華表の写真「大連は今日もいい天気」より
http://www012.upp.so-net.ne.jp/kidalian/luyou/xinggu/xinggu.htm

<大連つづく>

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2007年07月03日


ニーハオ春庭「大連マラソン」
2007/07/03 火
ニーハオ春庭中国通信>大連マラソン

 星海広場から市内の洋服屋へ行こうとしたら、道はどこも大渋滞。交通規制がかかっていて、前進また前進どころか、のろのろ運転です。
 6月18日の日曜日は、ANAが主催する「大連国際市民マラソン」の日。2007年は、第21回目、大連市民には毎年おなじみの大イベントです。 

 ANAは、2007年が、中国線就航20周年にあたるので、2007年を「ANA’S CHINA YEAR」と称し、いろいろなイベントを企画しているのですが、この大連マラソンもそのひとつです。日本からもマラソン参加ツアーが来ています。

 金曜日にオーダーしてもらった夏服を受け取るためにタクシーで市の中心部へ向かうおうとしても、どの脇道へ入ってみても大渋滞。
 マラソン、朝8時スタートというから、2時間ちょっとかかるとして、お昼前には交通規制がなくなるだろうと思ったのが大誤算。マラソンを2時間で走るのはトップ選手であり、市民マラソン、7時間8時間かかるのは当たり前。その間ずっと交通規制です。 

 動かないタクシーを乗り捨てて、ハンさんは裏道を歩き出しました。スラムのようにごちゃごちゃしているところ。零細民の零細な商いをする店が道の両側につづいています。ごみなども片づけられていないので、表通りとは雰囲気がちがいます。
 「大連の裏側を見せちゃいましたねぇ」と、ハンさんは言いますが、発展している表通りのすぐ裏手に、このようなごちゃごちゃの街があること、普通の観光ツアーでは見ることができないだろうから、貴重なひとときとなりました。

 ほんとうはもっとゆっくり「裏側」も見たかったのですが、なにしろ飛行機の出発時間がせまっています。どんどん歩くハンさんのうしろを、迷子にならないように必死についていきました。

 夏服をオーダーメードで注文するなんて、日本ではなかったこと。
 イージー縫製ではありますが、金曜午後に生地を買って採寸し、日曜昼には縫い上がっている。ハンさんが「大連のおみやげに」と、自分のなじみの洋服屋に無理を言って、「金曜日に注文、日曜日に仕上げ」という強行注文をしてくれました。

 おなかはたっぷり13号、胸はぺちゃんこ9号、という「洋梨スタイル」の体型。胸のお肉が全部おなかに下がってしまったという具合なので、夏服つるしを、おなかに合わせて買うと、胸や肩幅はぶかぶか。レディメードの宿命ですが、オーダーメードなんてこと、考えもしてきませんでした。
 はじめて、胸のあたりはぶかぶかじゃなくて、おなかはちゃんとおさまる夏上着ができあがりました。

 大連の空港につき、国内便小型機(乗客33人、パーサーひとり)に乗り込んだのは、なんと離陸10分前でした。ぎりぎりセーフ。
 たくさんの楽しかった思い出を、胸に(そしておなかに)いっぱいにして、離陸しました。

 大連の海鮮やさくらんぼがつまったおなか。
 はい、さっき、ちょっと見栄を張りました。おなかは13号じゃなくて、17号。

 号、轟、Go!、小型飛行機、私の重さにも耐えて、無事大連の空を飛んで北へ向かいました。

 大連の市民ランナーが黙々と自分のペースで走り続けている姿を胸に納めて、私も、まだまだ続く中国での仕事をマイぺースで走って行かなくちゃ。

<大連おわり>

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ニーハオ春庭中国日記「偽皇宮&太極拳」

2011-10-03 19:23:00 | 日記
2007/06/02 土
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・『観光コースでない満州』

 13年前に比べると、きちんと整備された偽満皇宮博物館。
 そのかわり、入館料は、80元(1200円)という高さ。たぶん、冬季アジア大会開催時の観光客増加をねらって、倍額値上げされたのでしょう。2006年発行のガイドブックには40元と書いてあったので。

 レストランのウェイトレスの時給が4元から5元。入場料分を稼ぐには、20時間働かなくてはならない。
 上野の東京国立博物館、2007年4月から値上げされ、通常展示の一般・大学生入館料が600円になったことを、「高い!」と思っていますが、それでもウェイトレスが1時間働けば、入場料を払える。

 みやげ屋のおばちゃんには閉口したけれど、会場案内係の服務員さん、皆とても親切でしたし、門の守衛のカッコいいお兄さんは「いっしょに写真撮って」と頼んだら、ならんでカメラにおさまってくれました。

 若くて元気のいい守衛さんたち。彼らが守る「元皇宮正門」は、彼らの若さと同じように、明日の旧満州研究の未来へ開かれているように思いました。
 これから、旧満州時代の歴史評価に関しても、さまざまな観点での歴史研究が広がっていくのではないかと思います。

 溥儀は1906年の生まれ。2006年は溥儀生誕百年の記念の年でしたから、2005、2006年に、さまざまな旧満州関連の書籍が、「この機会に」と、出版されました。 
 その中から、元ジャーナリストで、現・アジア共生学会会長小林慶二の『観光コースでない満州』を持ってきました。

 ほぼ1ページに1枚の写真があり、「観光コースではない」と謳っているけれど、私にとってはよいガイドブック。本を片手に満州時代の建築物をみて回ろうとおもっています。

 旧満州時代の主な建築は、ほとんどそのまま、現在も病院や大学施設、政府施設として利用されています。「保存建築物」に指定され、これらは、今後も利用されていくと思うのですが、今回私が見て歩こうと思っているのは、「一般住宅」としてたてられた家。

 建てられてから、ほぼ70年を経た一般住宅は、老朽化しています。市内のあちこちで古い建物の取り壊しが行われており、つぎつぎに「旧満州時代の住宅」は姿を消し、高層アパートに建て替えられている最中。
 東京も70年前の一般住宅が残っている地域はほとんどなくなり、同潤会アパートのように、惜しまれながらも取り壊されるということが続いています。

 日本の国会議事堂を模して建てられた旧満州国務院(現・吉林大学)、旧ヤマトホテル(現・春誼賓館)などの写真を写して帰る観光客は多いですが、古くてぼろぼろになっている住宅を写す人は少ない。

 私は、そんな住宅地を写しておきたいと思っているのですが、まだ町歩きの余裕もなく仕事仕事の毎日。すでに赴任期間の半分はすぎています。
 これから先、どれだけ時間がとれるかわかりませんが、過去をきちんと見つめる目を養いつつ、町歩きをしたいと思います。

 13年前は、まだ「暗く陰鬱な満州時代」というイメージのみが残っていた偽皇宮。
 今回、展示もわかりやすく、整備がすすんだ博物館を見学して、過去の歴史について、「難しい問題があるから触れないでおく」ではなく、「お互いの理解のために、真実を追究する」ということを、もっと進めて行かなくてはならない、と感じました。

<偽満州皇宮見学おわり>
00:56 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2007年06月03日


ニーハオ春庭「牡丹アカシア君子蘭」
2007/06/03 日
ニーハオ春庭中国通信>牡丹、アカシア、君子蘭(1)

 日本では、地方自治体が、地元を代表する花や木として「県の木」や「我が市の花」を制定しています。
 中国でも、町や市のシンボルとなっている花があります。

 たとえば、『アカシアの大連』で知られるように、大連市のシンボルはアカシア。
 5月中旬から6月はじめにかけて、市内のアカシア並木は白い花房をたわわに下げて、通りは甘い花の香りに包まれます。
 養蜂業者がミツバチをアカシアの中に放ち、集められた蜂蜜があちこちで売られているそうです。

 私が13年前に大連を訪れたとき、まだアカシアの花には早くて、残念だったので、今回こそ「アカシア祭り」が行われている最中に訪れたいと思っていたのに、毎週末学校行事などがあるので、なかなか都合良くいきません。

 大連のアカシア花盛りは見逃しになるかもしれませんが、大学本部キャンパスの並木になっているアカシアをながめることで、大連の並木を想像しています。

 大連のアカシアに対して、この町は「君子蘭」をシンボルにしています。冬季アジア大会の際、市内のあちこちに君子蘭を模した巨大なオーナメントが置かれ、それがそのまま残されています。通りのあちこちに、オレンジの花をつけた大きな君子蘭型の置物が飾られているのです。

 大連のアカシアはわかるけれど、こんな北国のシンボル花がなぜ君子蘭なんだろうと、疑問に思っていました。蘭は南方の花ですから。
 「旧満州」関連本のひとつを読んでいて謎が解けました。

 日本の皇室のシンボル「16弁の菊の花」に対して、満州帝室のシンボルとして制定されたのがオレンジ色の君子蘭でした。
 「えっ、満州国時代のことは、偽満と呼び習わし、否定的にとらえるのに、君子蘭はそのままシンボルとして採用するの?」と、思わないでもないのですが、歴史研究者でもない一般の人は、君子蘭と満州帝室の関係などまったく知らず、気にする人もいません。

 韓国は、旧植民地時代に日本側が建てた建造物を、ほとんど打ち壊しました。
 暗い時代の建築物を徹底的に否定し、名建築と謳われていても、惜しげもなく破壊しました。

 ところが、中国では、旧満州時代の建物を、ほとんどそのままそっくり現代まで利用しています。
 日本国関東軍司令部だった、日本風お城とヨーロッパ近代建築を折衷したような、「和臭ぷんぷん」の建物も、現在は吉林省共産党委員会の本部として利用されています。

 王朝が変わっても、王都は前代のものをそのまま使ってきた中国の歴史。
 北京の故宮(紫禁城)は、元、明、清の三つの王朝が引き続き利用した皇宮です。
 関東軍司令部が、共産党委員会本部に衣替えするくらいは、当然のことなのでしょう。

 まあ、建物は破壊するより利用した方がいいと思うのですが、満州帝室のシンボルとして決められた君子蘭をそのまま「市のシンボル」に制定するおおらかさは、さすが「支配者は交代しても、人民は大地に根付いている」中国だと思われます。

<牡丹アカシア君子蘭つづく>

10:23 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2007年06月04日


ニーハオ春庭「牡丹アカシア君子蘭(2)」
2007/06/04 月
ニーハオ春庭中国通信>牡丹、アカシア、君子蘭(2)

 さて、現在、町の中では牡丹が花盛り。
 牡丹は、中国全体の「国の花」候補のひとつ。中国を代表する花です。
 中国の国花は、清時代に牡丹とされていましたが、清朝が倒れて以来、正式な国花は制定されてきませんでした。

 北京オリンピック前だから、というわけでしょうか、国花を制定しようという運動が起こり、梅、蓮、牡丹などの中国を代表する花が候補に上げられており、どうやら現在は梅と牡丹のどちらにするか、というところまできたようです。
 梅の清楚さ香りのよさも捨てがたいですが、牡丹の豪華さ富貴の象徴という印象のほうが一歩リードというところらしい。

 日曜日の午後。人民広場近くの牡丹園を散歩しました。
 日本の牡丹園なら、ひとつひとつの株に品種名を高々と掲げて置かれていることが多いのですが、こちらでは、「牡丹は牡丹」

 赤、白、ピンク、色混ぜの花、色とりどりの牡丹が、咲いています。
 園内は、デジカメやビデオを構えて記念写真を撮ろうとする市民でにぎわっています。

 園の周囲には、さまざまな食べ物屋台が出ています。アイスキャンディ屋、果物屋、、、、。くだものは、梨もパイナップルも、皮をむいて割り箸にさして売られています。パイナップル四つ割のひとつが1元。

 こどもがうれしそうにほおばっている綿飴、ちょっと懐かしくなったので、機械にざらめをいれて綿飴を作っているおっちゃんに聞くと、1元。
 あいにく細かいお金なし。零細な露天の商いに百元札を出すと、「おつりメイヨウ没有」と断られるかもしれない。
 百元は高額紙幣で、物価感覚からいうと、日本の1万円札に相当。偽札も出回っているので、受け取った人はだれでも、裏表確かめ、すかしを確認し、偽札でないか十分にチェックします。

 1元の半分の5角があったので、「これだけで、小さいのを作って」と頼んでみました。
 おっちゃんは、「よし、わかった」と言って、私が「小さいのでいいよ、小さく小さく」と言っているのに、普通の大きさに作ってくれました。わ~い、おっちゃん、ありがとう。
 ふわふわの綿飴をなめなめ、牡丹を見て歩きます。

 牡丹園内で十数組の「ウェディングドレス&タキシード」のカップルをみかけました。
 中国では、結婚式の前に、貸衣装に身を包み専門の撮影業者に「結婚記念アルバム制作」を頼むことが流行中。
 部屋の中で、また屋外で、さまざまなポーズをとって、まるでスターの写真集のような立派なアルバムが作られるのです。

 富貴の象徴である牡丹を背景にして写真を撮ったら、さぞかしカップルの将来は、豊かで明るいものとなることでしょう。
 幸せいっぱいの顔で、撮影業者の注文にあわせて、顔と顔を寄せ合ったり、二人で牡丹を見つめたり、いろんなポーズをとっていました。
 牡丹のような華やかな幸福にめぐまれますように。
 永久幸福!(いつまでもお幸せにね)。

<牡丹、アカシア、君子蘭おわり>

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2007年06月05日


ニーハオ春庭「揚琴、木琴、腹鼓」
2007/06/05 火
ニーハオ春庭中国通信>揚琴、木琴、腹鼓

 中国に来る前、「次に中国へ行ったら、練習したい」と思っていたことのひとつは楊琴(Yang chin)です。

 楊琴は、ピアノのルーツとも言われる打弦楽器。
 グランドピアノのふたをあけると弦が張ってあります。88の健を指で打つことによって健の先のハンマーが弦をたたき、音がでるのがピアノ。

 170本前後の弦を直接ばちでたたくのが楊琴。木琴とピアノの両方の特徴を持っていると思えばいい。
 170本の弦がありますが、マンドリンのようにひとつの音を数本の弦で出すので、音階は5オクターブ前後です。

 揚琴はこんな楽器。
 http://www.chinamusic.gr.jp/catalog/yokin.html

 私は、ピアノも木琴(マリンバ)も、子どもの頃に練習しただけで、今は楽器の練習から遠ざかってしまいました。
 習字と楽器演奏は、老後のぼけ防止用&老後の生き甲斐として、楽しみにとってあります。
 
 年取ったら練習すると言っても、木琴は、ピアノより高いので、年取ったら買えないかもしれません。
 昨年、東京の滝野川会館で行われた、日本木琴協会による「東京マリンバコンサート」の演奏を聞いた時もらったパンフレットでは、マリンバ(大型木琴)に200万300万円という値段がついていて、びっくりしました。ピアノに比べて需要が少ないから割高なのかもしれません。

 ピアノは、高級グランドピアノは高いけれど、アップライトはそれほどでもないし、なにより、今は電子キーボードがどんどん安くなっている。
 私が幼い娘のために、当時としては「食費を切りつめて買った」程度のキーボード、今ではおもちゃ屋で売っています。

 で、揚琴も、日本で買うと普及品で15~20万、高級品だと30万~50万します。中国で買う10倍です。
 中国で買うなら、高級品5000元(7万5千円)、普及品2000元(3万円)程度。
 仕事を無事おえたら、自分へのご褒美として、買って帰ろうと思っていました。

 ただ、大きいので持って帰るのは難しい。
 それに、調律がとても難しい楽器で、毎回演奏する前には、演奏者自身が30分以上かけて、170本の弦を1本1本調律しなければならないと知り、「わぉ、演奏はしたいけれど、私には30分も調律する几帳面さがない」と思い、あきらめかけています。
 毎回、誰かが調律してくれたあと弾くだけならいいですけれど、それじゃ演奏者仁義に悖るということになるのでしょう。

 今のところ、揚琴も木琴も演奏できず、鼓の演奏ばかり。
 はい、腹鼓。
 中華料理食べすぎて、ぱんぱんになったおなかを叩くと、いい音がします。ポポン、ポ~ン!腹鼓。自前の打楽器。
 少しひっこめ!この腹!ポポンぽんポン。
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2007年06月06日


ニーハオ春庭「二十四式太極拳」
2007/06/06 水
ニーハオ春庭中国通信>二十四式太極拳

 勤務校には、日本へ留学する学生への日本語教育部門の他、「教育部出国留学生培訓」という部門があり、副校長がふたりいます。
 日本語教育担当の副校長と、留学生教育担当の副校長のふたり。

 留学生教育担当の副校長テイ先生、専門は「政治経済学原理」ですが、太極拳の名手でもあり、胡弓を奏でる趣味人でもあります。
 昼休みの副校長室から、胡弓の練習の音が流れてくると、中国情緒いっぱいになります。

 テイ先生は、本部キャンパスの留学生に太極拳を教えています。留学生の正規の授業なのだそうですが、体育の単位になるのか、「中国文化」授業の一環なのかは聞き逃しました。
 胡弓を弾きこなし、太極拳は名人級のすらりとした副校長先生、ファンが多く、留学生にも大人気。

 「中国らしいものを身に付ける」計画、揚琴はまだ練習できませんが、5月中旬からテイ先生に太極拳を教わっています。

 私たちが習うことになったのは、「二十四式」というもっとも代表的な動きの太極拳です。
 野を駆ける馬のたてがみの動き(左右野馬分鬣)、鶴が羽をひろげた動き(白鶴亮翅)など、24の姿勢があり、ポーズとポーズの間は、ゆったりゆっくりとしたつなぎの動作があります。

 「二十四式簡化太極拳」は、太極拳の基本の動きを体系化して定められました。応用がさまざまにある中の、もっとも基本的なものです。
 国家体育委員会が、全中国国民の体力向上をはかって制定したものなので、多くの中国人に親しまれており、各地の公園などでは、朝早くから人々が集まって練習を続けています。

 日頃練習しているジャズダンスの振り付けに比べれば、それほど複雑な動きではありません。しかし、約10分間、ひとつひとつの動作をきちんと筋肉をつかって動かしていくと、ゆっくりとした動きでも、24の動作を終えると、気持ちのいい汗が吹き出します。
 
 先生は各ポーズの手の位置、背骨、足の向きなど細かい注意をしながら、つなぎの動きについては「慢、慢、ゆっくりゆっくり」と、指示します。
 日本舞踊もそうですが、太極拳も、重心を低く、ずっと中腰、ひざを曲げているポーズがつづき、ゆっくり動くのはかえって難しい。
 テイ先生の動きは、なめらかな中に力強さがあります。

 太極拳を紹介しているサイト。
 言うてはなんですが、私の先生は、このインターネットの先生の動きよりはるかに上手で美しいです。
http://chinalife.fc2web.com/texts/24/index.htm

<太極拳つづく>

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2007年06月07日


ニーハオ春庭「太極拳練習」
2007/06/07 木
ニーハオ春庭中国通信>太極拳練習

 太極拳、音楽に合わせて美しく動く、という点では舞踊に通じる要素もありますが、元々は「拳法」のひとつですから、要所要所は、この形を応用すれば、相手を一撃で倒せる、という武術です。
 先生が模範をやってみせると、本当に人を倒せてしまえる、と思えます。
 私が同じ動きをしても、まねっこですから、「拳法」にはほど遠いのですが。

 太極拳は、「気」を利用した武術のひとつです。
 日本の太極拳教室は、少林寺、カンフーなどを合わせて教える「武術」としての太極拳を重視しているように思いますが、中国の公園などで行われているのは、健康法のひとつとして。日本の「ラジオ体操」にあたるような、「健康な身体をつくるために」と、練習するグループが多いです。

 ラジオ体操も、動きのうまさを競うコンクールがあると聞いたことがありますが、太極拳も、各地でコンクールや発表会があります。 

 今回、大学内で、大学教職員による「学部対抗、教職員身体表現発表大会」が行われることになりました。

 学部対抗の大学内発表会に、勤務校も毎年参加しており、去年は「合唱大会」が行われて、私の所属部署は一等賞を獲得したそうです。今年は、「身体表現」がテーマ。
 私が太極拳を習うことになったのは、この「教職員行事」に参加するためなのです。

 私の勤務校は、師範大学の郊外キャンパスの中に設置されています。
 師範大学は国立ですが、日本の国立大学と同じように、現在は独立行政法人になっています。従来のように教師養成の教育学部だけなく、歴史文化学部、商学部、数学統計学部、物理学部、計算機学部、生命研究学部、文学部、体育学部など、さまざまな教育部門があります。

 私の所属部署には、師範大学学部として「留学生教育」を行う部門と、「日本国文部科学省国費留学生」への日本語教育を行う中国教育部直属の部門のふたつがあります。

 外国からの留学生は、本部キャンパスで学んでいるため、日頃は日本語教育を行う先生と、留学生に中国語を教える先生は、あまり交流がありませんでした。
 今回、このふたつのキャンパスの先生がいっしょになって、太極拳の練習を行いました。

 大学内競技会の中国語の名称は、「教工健身操比賽」
 「教工=教職員」「健身操=健康な身体を作る体操」「比賽=競技会」

 「健康な身体」を作るための競技ですから、太極拳だけでなく、エアロビクスを発表する部や新体操あり、日本のラジオ体操のような音楽に合わせての体操あり。
 各学部や「図書館」「国際学術交流センター」など、所属部署ごとにさまざまな出し物を披露します。

 私の所属部署は「太極拳」を、テイ先生プラス教職員代表24人で披露する、ということになりました。

 「留学生教育部」には、中国から日本へ行く留学生に日本語教育を行う先生、英語圏へ留学する中国の学生に英語教育を行う先生、中国にきた留学生へ中国語を教育する先生がいます。
 アメリカ人のマリー先生は、練習には何回かきたけれど、大会には参加しないことになりました。

 所属部署には、日本人教師が8名います。
 3月から7月まで赴任する私たち6人は、日本の大学院博士課程進学の国費留学生たちへの日本語教育担当。
 あとふたり、若い女性教師がいます。このふたりは、日本から派遣されてきた私たちとことなり、学校が独自に契約して採用する、いわゆる「現地採用」の先生です。

 若いふたりの女性教師は、トヨタ合弁一気自動車社員への日本語教育担当なので、授業は社員の勤務が終わってから行われます。
 そのため、なかなか練習に続けて出られず、大会参加はあきらめましたが、大会参加用の中国服は、いっしょに誂えてもらい、「記念になる」と、大喜びです。
 文部科学省派遣組の私たちは、肩を痛めているひとりを除いて5名が、「大会参加選手」になりました。

<太極拳つづく>
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2007年06月08日


ニーハオ春庭「太極拳発表会」
2007/06/08 金
ニーハオ春庭中国通信>太極拳発表会

 日本人先生たち、中国の人は全員太極拳ができるだろうと思っていて、「初めてやって、動きが覚えられるかしら」と心配していたのですが、練習に参加したほとんどの先生たちが「太極拳は初めて」と聞き、「それなら、条件は同じだね」と、おっかなびっくり体を動かしはじめました。

 練習の回を重ねるうちに、「日頃の運動不足も解消されるし、動きがわかるにつれて楽しくなってきた」と、ノリノリになってきました。
 最初は「練習だけは参加するけれど、大会出場はとても無理」と言っていた人も、皆「大会、がんばりましょう」と、言うようになりました。

 太極拳の練習、最初は、毎週月曜と木曜日が練習日だったのですが、発表会が近づくと「連日練習」「土曜日午前中も特訓」になりました。

 男性陣は、テイ先生のほか、日本語教育担当の副校長先生、通勤バス運転手のリョウさん、女性陣は録音室担当のホウさん、経理担当のオウさんほか、教職員みんな熱心に練習に取り組みました。

 6月6日水曜日、師範大学本部キャンパス音楽ホールで、「教工健身操比賽=師大教職員身体表現発表大会」、午後1時、開始!
 20組の演技チームが参加したなかから、金賞(一等賞)が7チームに、銀賞(二等賞)が数組に与えられのだだそうです。

 全員が髪をきれいな編み込みにして、髪飾りをじょうずに編み込んで、おへそを出したキュートなエアロビ衣裳のチームもあるし、スポーツシャツにジャージズボンのシンプルなスタイルもあり、どのチームも、「自分たちこそ金賞だ!」と、意気込んでいます。

 私たち留学生教育学部のいでたちは。太極拳用のそろいのスポーツシューズ、赤と白の巴マークがついています。そろいの白い太極拳衣裳。

 私が誂えてもらったのは、象牙色がかった白の中国服です。ひとりひとり採寸して、体型にあわせて縫ってあるので、私のメタボリックなおなかでも、ちゃんと体にあっています。
 
 テイ先生はきれいな黄色。どうやら、色の入った太極拳服は、柔道の黒帯にあたり、師範格が着用、生徒は白い服になるらしい。

 私たち以外の太極拳チームは三つありましたが、そのひとつのチームの師範格は、下のサイトの先生のような水色の中国服でした。
http://www.chqa.com/taiji24_1.htm
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2007年06月09日


ニーハオ春庭「太極拳金賞」 
2007/06/09 土
ニーハオ春庭中国通信>太極拳金賞

 参加20チームのうち、私たちは9番目に出場。
 二十四式太極拳発表。
 テイ先生のかけ声に合わせて、胸の位置で、右手のこぶしを左手の手のひらに合わせる拳法の挨拶。少林寺やカンフーの映画で見たことがありますが、自分でやってみると、カッコいいです。

 6人ずつ4列24人の動きがぴたりとそろって、手の位置足の向き、動作のスピード、正しく美しくできるよう、練習を積んできました。
 野を駆ける馬の鬣のように、白鶴が羽を広げるように、、、、琵琶を抱えて奏でるように、、、、雲のように両手を動かし、、、足を高く蹴り上げて、、、

 私は、2列目の真ん中。一番前中央にいるテイ先生の動きがよく見える位置なので、先生の動きをまねっこしながらできる恰好の場所。
 で、私はジャズダンスの発表会と同じように、振り付け順番はまったく覚えずに、「じょうずな人の動きをまねする」という日頃の方針でいけたので大助かりでした。

 練習通りにはいかないところもあったけれど、無事演技終了。
 結果は。
 見事、私たちのチームは金賞を受賞しました。

 他の金賞チームは、ダンスや演技を専門に学ぶ学科がある音楽学部チーム、2008年北京オリンピックを表現した演出が光っていた図書館チームなど。
 師範大学付属実験幼稚園の先生たちによる、ボールを持って演じる新体操風エアロビも入賞しました。動きもよかったですが、なにより、全員おへそをだした衣裳がかわいかった。

 金賞銀賞のほか、「特別栄誉賞」という表彰がありました。
 選ばれたのは、、、、。

 「1ヶ月足らずの練習で、中国人にとけこんで、そろって演技ができた太極拳チームの5人の日本人」に与えられると発表されました。
 壇上で、大会役員から立派な賞状をいただきました。

 大学ホームページには、さっそく私たちのチームが演技している写真や、5人の日本人教師が賞を受けたという記事が出ていました。
  
 中国の先生や職員たちといっしょに練習することで、友好も深まり、日頃は交流がなかった中国語の先生たちとお話もできました。
 太極拳の練習と発表、とてもよい「中国的体験」になりました。

<太極拳おわり>

http://www.nenu.edu.cn/nenunews/gonggao/20070607008.jpg

 中央一番前に立つテイ先生の頭の上に手をのばしているのが私です。
 太めの体がちょうど隠れる絶妙のカメラアングル。
 見せ場でシャボン玉が吹き出す演出なので、シャボン玉が飛んでます。 


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2007年06月11日


ニーハオ春庭中国通信「綱引き大会」
2007/06/11 月
ニーハオ春庭中国通信>綱引き大会(抜河比賽)

 私が出場した「太極拳」チームは、教職員の「健康な身体作り」を競う競技会(教工健身操比賽=教職員健康身体表現競技会)に参加してのものでした。

 中国の大学は、日本の大学以上に「身体の健全な育成」という面に力を注いでいます。
 私が教えている日本への国費留学生(若手大学教師たち)のクラスでも、「スポーツは嫌い」「スポーツをあまりしない」という学生はいません。
 みな「勉強のあいまにスポーツに励んでいる」と言うのです。

 大学内の行事でもさまざまなスポーツ競技会があり、教職員、学生こぞって参加しています。
 3月、赴任して早々に私の担任クラスで行われた親睦会も、「バドミントン大会プラス夕食会」でした。

 本日6月11日は、クラス対抗「綱引き大会」が行われました。

 国費留学生博士号取得コースの5つのクラスのほか、他のクラス、学部進学コースや、英語コースなどのクラスが、女性6人男性7人のチームを作り、勝ち抜きトーナメントを行うのです。

 私のクラスは、それほど力じまんが集まっているというのでもなさそうで、「絶対に勝たなくちゃ」というような悲壮な雰囲気はまるでなく、「ま、参加しようや」くらいの雰囲気でした。

 若手教師たち、家庭をもち子育て中の人もいるクラスですから、そんなに本気になって綱を引くとは思っていなかったのに、いざ綱引きがはじまってみると、皆力いっぱい。
 男性たちは足をふんばり、女性も汗びっしょりになってがんばっていました。

 結果は残念ながら2敗。負けてしまいました。
 でも、クラスが一丸となって力をあわせてがんばる姿は、若者らしくてさわやかな汗が光っていました。
 いつもスッピンさんが多い中国の女性たちですが、どんな最新のメイクも、この「がんばっている人の汗」に勝る美しさはないと思えます。
 応援しているほうも声援に力が入りました。

 三島由紀夫が祭りに参加したときの高揚感を「力を合わせて御輿を担ぐことの恍惚」とエッセイに書いたことがあります。
 太古の昔から綱引きは、各地で「村の行事」として続けられてきました。
 すたることなく続いてきたのは、勝敗によって農耕の豊作を占うという民間信仰の一面があったこともさることながら、三島が指摘しているように、「皆で力を合わせること」を、人類文化は必要としているからではないかと思います。

 クラス一同が力を合わせて一本の綱を引く。「イー、アール、イー、アール」のかけ声に合わせて、力を出し切る。
 応援する方は「加油!チャーヨゥ!」と声を張り上げる。

 北国の6月にしては記録的な暑さ34度となった一日でしたが、暑さを上回る熱気で、盛り上がった午後となりました。 

<おわり>
21:03 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2007年06月13日


ニーハオ春庭「般若寺と清真寺」
2007/06/13 水
ニーハオ春庭中国通信>般若寺と清真寺(1) 

 市内の名所として地図やガイドブックに載っている場所のうち、ふたつの寺に出かけてみました。

 般若寺は、人民広場の近くにあり、寺の横の通りはバスターミナルのひとつになっています。
 「どこへ行くのか知らないバス」に乗ってでかけ、終点まで行ってみると、この般若寺の横に到着したことが何度かありました。
 でも、いつも夕方から夜にバスをおりるので、寺の門は閉まっていました。

 3時半に門が閉まるのだ、とわかり、日曜日午前中に出かけました。開門は、朝8時半から午後3時半まで。

 門前には手相見、姓名判断、土産物売り、数珠売りなどがずらりと並んでいます。
 若い人も熱心に改名相談などをしています。
 バスターミナルと反対側の寺の横は、仏具売りの店が連なっていて、窓から仏像などが見えます。

 般若寺の門のそと、バスターミナル側からながめると、境内に立っている大きな観音像の背中が見えます。
 朱塗りの門を通って、境内からお顔を拝観すると、大観音、なかなかの迫力です。

 観音様の前には香やお花が供えられ、熱心な信者が、立て膝に座ってから額を円座につける礼と起立を繰り返して祈っています。この祈り型は韓国で見た作法と似ています。

 チベット仏教の五体投地ほどではないけれど、この立ったり座ったりの祈りの型も、なかなかハードだと思うので、日本で仏教が一般民衆に広まった鎌倉時代、この祈りの方法ではなく、ただ座って手を合わせる方法になったのは、どういう経緯だったのかなあ、なんて思いました。

 私の実家の宗派は曹洞宗で、他の宗派のことを余り知りません。禅宗だからただ座っていればよかったのか、他の宗派でこのような立ったり座ったり、ひたいを地につける祈りの作法があるのでしょうか。
 日本ではどのお寺に参拝しても、信者もお坊さんもただ座っているだけで、立ったり座ったりを繰り返すことはなかったように思うので。

 境内には茶色の僧服を着たお坊さんが行き来し、先祖供養のお札なども取り扱っているようです。
 本堂や、羅漢像が並んでいる仏堂の中には、釈迦三像や四天王像が安置されています。
 日本の仏像に比べるとずいぶん金ぴかで派手。16羅漢も生々しく写実的な気がする。そういえば、テレビの孫悟空の中にでてくる「おしゃか様」の顔もなんだか生々しかったなあ。

 御堂の中には唯摩経と地蔵経の本がおいてありました。「ご自由にどうぞ」の本でしたが、1元を喜捨して地蔵経のほうをもらってきました。唯摩経のほうは漢字だけでしたが、地蔵経は、経文の一字一字にピンイン(発音アルファベット)が書いてあったので、中国語の練習がてら読んでみようと思い立ってのこと。
 地蔵経の本を開いてみると。

 日本のお坊さんたちがワケのわからないことをありがたそうに唱えていることの内容が、要するにサンスクリット語から中国語に訳された仏典を、中国語の発音のまま読んでいたのだ、とよくわかりました。
 教典が輸入された時代の、呉音・漢音だったり、唐宋音だったり、現代中国語とは発音が異なるでしょうが。

 地蔵経の最初の部分、「香讃」は、ルー、シャン、ジャ、ルオ、ファ、ジエ、マン、スン、シュ、フォ、ハイ、フイ、シ、ヤオ、ウエン、、、、
 と、あの独特の抑揚をつけて読めば、何やら悪鬼も成仏しそうに思えてくる。

<つづく>

07:06 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2007年06月14日


ニーハオ春庭「般若寺と清真寺」
2007/06/15 木
ニーハオ春庭中国通信>般若寺と清真寺(2) 

 般若寺拝観を終え、バスを乗り継ごうかと思案したあと、道順が複雑そうなので、タクシーで清真寺へ。
 タクシーの運転手も一度道を間違え、会社に無線で連絡して、やっと清真寺へ着きました。
 あんまり知られていない場所なんだろうか。

 境内に入ってみると、般若寺が善男善女の参拝客でにぎわっていたのとうって変わって、閑散としてます。
 あらま、門の前には「清真寺、保存重要建築」と書いてあるのに、なんだか寂れたお寺だこと、と思いながら、注意書きを読んで入り口で靴を脱ぎ、建物の中に入ってみたら、、、、、

 仏教寺院ではなくて、イスラム教の寺でした。外観は、仏教寺院のようなのに。
 そういえば、市内のイスラム教徒用のレストランには「清真肉」と、書いてあったのですが、清真寺の寺名から、イスラム教を想像できませんでした。日本のお寺の名前にも「清真寺」というのがありそうなので、すっかり仏教寺院だと思いこんでいたのです。
 改めて入り口をよく見れば、漢字でなくてアラビア文字風の看板が軒下に掲げられていました。

 寺の建物自体は中国化していて、外から見たのでは、イスラム寺院とは気づきません。
 イスラム寺院といえば、丸いタマネギのような屋根を持つ建物だという思いこみもありました。中国では、このように中国寺院の建物と同じつくりになっていたんですね。
 明時代に建てられたイスラムモスクなのだそうです。
http://sekitori.web.infoseek.co.jp/Houses/ie_cn_krks_cho2.html

 建物の内部には敷物と説教台のほかにはなにもなし。メッカの方向にくぼみがついた床の間みたいな空間が作られているだけ。
 お祈りには市内の回教徒が大勢集まるのだろうなあと、想像しながら建物から出ました。
 市内には新疆ウィグル族(回族=フイズー)の人々も大勢住んでいます。

 私の勤務校には、新疆ウィグル地区から日本語を学ぶためにこの地にやってきた学生が大勢いて、顔立ちがはっきり漢族と異なっています。イラン、イラクあたりの人々に似た顔立ちです。

 東北地方に何代も住み続けている回族は、漢族と通婚がすすみ、内地回族(漢化したモスレムウィグル族)となっていて、顔立ちは漢族とほとんど同じです。

 通りの軒下に「清真焼肉串」という店が出ていて、焼肉を2本1元で売っています。イスラムの慣習では「知り合いには安く売り、よそ者からは、ぼったくる」のが商売の正道なので、私は最初1元出しても焼肉を1本しかもらえませんでした。今もこちらの発音の悪さがばれると、1本しかよこさないことがあるのですが、「もう1本」と言うと、ちゃんとくれます。

 入ってくるときは誰もいなかったのだけれど、出てくると、ほんとうにメッカに行った人だけが被れる帽子(ハジの白帽子)をかぶった若者がいました。
 彼は回族の顔には見えません。イスラム寺院が中国化した寺院建築となっているように、回族も、漢族と同化しているので、彼がイスラム寺院におらず、よそで見かけたのなら回族と思わないかもしれない。

 新疆吾尔(シンチャンウィグル)自治区では、ウイグル語が話されています。また、青海省のテレビ放送を時々見ますが、中国語のほかにウィグル語の字幕が出ています。
 ウィグル語は、アラビア文字をもとにしたウイグル文字を使います。
 شىنجاڭ ئۇيغۇر ئاپتونوم رايونى, (Shinjang Uyghur aptonom rayoni)

 お寺の入り口に、アラビア文字の額がかかっていたので、入り口の若者に、読めるかきいてみました。
 中央の額が「清真寺」という寺名を書いてあるということは、私にも見当がついたのだけれど、その両脇の額は、分からない。
 聞いてみてわかったのは、彼はアラビア文字は読めない、ということだけ。

 中国政府は新疆吾尔(シンチャンウィグル)自治区独立運動を警戒していて、回族のメッカ巡礼を許可していないと思うのに、若者がハジの帽子をかぶっているので、「メッカに行ったことがあるのか」と、聞いたのだけれど、私の中国語では通じなかった。筆談で質問してもだめ。メッカを中国語でどのように書くか、わからなかったから。

 私が拝観のお礼の気持ちをこめて、入り口で、手を合わせたら、「ここはイスラム寺院だから、部外者が祈るな」と、怒られてしまった。
 仏教徒じゃなくても、だれでも受け入れている日本の仏教寺院のつもりで行動してしまい、すみません。

 イスラム教は戒律も厳しいけれど、祈りの作法も厳しい。一日に5回の礼拝。礼拝の前には沐浴斎戒を欠かさない。
 ここの寺にも、別棟に沐浴室があります。ちゃんと沐浴斎戒してないのに、寺内に入ってしまった私、罰当たるかも。

 般若寺に詣でて祈りを繰り返す人、イスラム寺院で部外者に目を光らせている人、中国の信心模様もさまざまでした。

 一時期は宗教に非寛容だった中国ですが、現在では信仰も、各自の心のままに許されているようです。市内にはキリスト教の教会(天主教会)もあります。
 気功集団として有名になった法輪講などの新興宗教へは、まだ厳しい措置が執られていますが、一般の宗教に関しては、信仰の自由が保障されている印象を受けました。

<おわり>
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ニーハオ春庭中国日記「日本文化祭&ラストエンペラー」

2011-09-26 06:47:00 | 日記
2007/05/19 土
ニーハオ春庭中国通信>日本文化祭

 私の勤務校は、5年前に新しくできた大学新キャンパスの中に校舎があります。市内から大学への交通は、これまでバスや車だけでしたが、冬季アジア大会に合わせてオープンした軽軌高架鉄道の駅が正門の前にでき、通勤通学が便利になりました。

 宿舎からの通勤マイクロバスは北門に着き、校舎の横に車を止めるので、近くにある食堂の建物、学内スーパーや郵便局がある建物のほかに、広大なキャンパスに広がる校舎のひとつひとつを訪問したことはありませんでした。

 5月12日土曜日、正門近くにある芸術学部のホールで、日本文化祭が開かれたので、同僚の先生方と見にいきました。
 宿舎近くにある本部キャンパス内の外国語学部日本語学科と、浄月キャンパスに設置されているビジネス日本語科の共催による、日本語を学ぶ学生たちの学芸会です。
 今年は第27回。日本語学科の学生が日頃の学習成果を披露する、学科の大切な行事です。

 現在では、中国全土に日本語教育を行う高等教育機関がありますが、1972年に田中角栄、周恩来が署名して日中国交回復がなされたのち、中国政府が「日本語教育重点地」として選んだのが、この地でした。
 ここは、中国における日本語教育のメッカともいえる、日本語教育先進地です。
 
 学芸会は学部3年生が司会を担当し、劇、日本語の歌のほか、日本舞踊、合気道デモンストレーションの披露などもありました。朝8時半から延々13時半まで続き、おなかがすきましたけれど、学生たちの熱気ある上演を最後まで見ました。

 学部日本語学科の先生たちは、日本語発音、演技、脚本、演出などを総合して、各クラスを審査し、賞をだします。
 部外者の私たちは、観客として楽しむだけ。
 樋口一葉の「おおつごもり」を学生自身が脚色した劇あり、シンデレラを脚色したものあり。

 「竹取物語」を脚色した劇。学生たちは「ラスト、おじいさんとおばあさんがかわいそう」と作り替えました。
 「富士山の頂上から立ち上る煙をみて、月の神はおじいさんおばあさんのまごころを知り、かぐや姫がおじいさんとおばあさんの家にもどることを許しました。かぐや姫は地上で幸せにくらしましたとさ、めでたしめでたし」と、ハッピーエンドにして上演しました。

 作者不詳、「物語の祖」の竹取物語。
 死後50年という著作権は、もちろん切れています。千年以上も昔の物語、どのように脚色しても、「著作権」について文句言う人はなし。
 ハッピーエンドもよしとしましょう。

<日本文化祭つづく>
02:13 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2007年05月20日


ニーハオ春庭「コピークロサギ(海賊版天国について)」
2007/05/20 日
ニーハオ春庭中国通信>コピークロサギ(海賊版天国について)

 日本語を学ぶ大学生による「日本文化祭」
 「ビジネス日本語科3年生は「クロサギ」を上演しました。経済用語なども学んでいるビジネス日本語学科らしい出し物です。「融資条件」「返済期限」などの難しい単語もでてきました。

 1年前の日本のテレビドラマを「完全コピー」した脚本でした。一話分、詐欺話の部分をそっくりコピーしています。せりふをわかりやすい日本語に置き換える脚色がなく、ドラマそのままのせりふがでてくるので、日本語学習中の初級者には、いったい何が演じられたのか、理解できなかったのではないかしら。

 1年前の「クロサギ」だけでなく、こちらの学生は皆、日本のドラマをよく見ています。
 また、テレビでは繰り返し昔のドラマを放映するので、山口百恵は今でも「中国で、もっともよく知られている日本の女優」です。
 先日は「『赤い疑惑』をテレビで見ました。テレビ放映はすべて中国語吹き替え版。

 新しいドラマも中国で放映されています。4月は「白色巨塔(白い巨塔)」を見たし、5月は米倉涼子主演の「黒皮の手帖」を放映していました。現在は篠原涼子岩下志摩が嫁姑になった「花嫁は厄年!」を放映しています。

 テレビ放映は正規の著作権クリアのものでしょうが、そのほか、日本のドラマDVDは、放送を終えたばかりの最新のドラマも、1枚5~7元(75~100円)という値段で売られています。
 日本でドラマ放映された2日後には、中国語字幕をつけて売り出されるのです。もちろん海賊版。違法コピーです。
 日本のドラマを録画し、無料サイト自動翻訳利用の中国語字幕をつけて、売る。元手要らずの商売。自動翻訳なので、とんでもない訳文がつくこともある。

 海賊版を売るほうは、違法であることを意識しているのかもしれませんが、違法コピー海賊版を買うことに対しては、一般の人は「違法」だなんて、まったく思っていないのです。「赤信号みんなで渡れば怖くない」式。赤信号でも歩行者が車列をくぐり抜けて悠々渡っていく中国の交通事情と変わりません。

 なかには、原作よりもパクリのほうが優先権を得た判決もありました。
 1997年、中国の企業数社がクレヨンしんちゃんの絵柄などの使用権を中国語名「蠟筆小新(ラービィシャオシン)」で商標を登録したため、原作の版権をもつ日本の双葉社は、「クレヨンしんちゃん」に関して、中国での権利が認められないという事態も起こっています。

 さらに言うなら、町中で見かける「蠟筆小新」のキャラクターグッズ、商標登録を認められた中国企業の製品というより、ほとんどは「勝手にコピー」商品でしょう。
 ドラエモン、キティちゃん、など、さまざまなキャラクターが、「勝手に闊歩」しています。

 著作権が財産権人格権のひとつであるという考え方、ほとんど知られていないし、知っている人も気にしていません。パクリやコピーが違法であり、違法コピーを買うことも罪であるという考え方が一般の人にまで浸透するのは、まだまだ時間がかかるでしょうね。

 学生たちは「日本の社会や文化を知るのに、ドラマはいちばんいい教材です」と考えています。
 私も「テレビ放映はいいけれど、海賊版DVDは違法なんですよ」と言うのがせいぜいです。「海賊版を買うな」と、言っても無駄なこと。

 日本で売られている正規DVDは一枚数千円します。中国の物価を考えれば、一枚100円のDVDをやめて、一枚5000円の正規のものを買いなさい、といっても、そうはいきません。
 学生たち、いくら日本語の勉強のためとはいっても、一ヶ月の学生生活費に相当する5000円を支払うことはできないでしょう。

 日本の物価感覚で言い換えるなら、一枚5千円のDVDを買うのはやめて、一枚25万円のほうを買いなさいと言われるようなもの。
 隣の棚に一枚5千円の同じ内容のDVDを売っているのに、「こちらが正規だから」と、25万円の方を買うかというと、う~ん、私なら「25万円出したら、今月の生活費が足りなくなってしまう」って思ってしまう。どうしても見たかったら、5千円のほうを買ってしまうかも。いけませんねぇ。

 学生たち、海賊版「クロサギ」何度もくりかえして見て、せりふを覚えたことでしょう。日本社会を知る勉強にもなったことと思います。
 山下智久が演じた黒崎役の学生、ヤマピーの「語尾を上げる独特のせりふまわし」をそっくりコピーしていました。
 「クロサギってのは、詐欺師をだますサギのことなん、だ↑」

 「中国でDVDってのは、違法コピー海賊版のことなん、だ↑」

<日本文化祭つづく>
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2007年05月21日


ニーハオ春庭「大足シンデレラ(美人の基準について)」
2007/05/21 月
ニーハオ春庭中国通信>大足シンデレラ(美人の基準について)

 学生たちによって日本語で上演された劇。
 せりふが難しくならないように脚色したり、かぐや姫が地上にもどるように設定を変えたり、自分たち流に脚色しています。

 「『灰姑娘(シンデレラ)』上演。日本だったら、ディズニー映画のイメージで上演するかも。
 でも、中国には『掃灰娘』という昔話があります。グリムが採集した『シンデレラ』の原型になった話ともいわれており、比較文学のテーマとしてはおなじみの作品。
 灰にまみれて掃除をしていた娘が王子のお妃に選ばれるお話は、古今東西、好まれてきた民間伝承なのでしょう。

 学生たち、「グリム童話シンデレラ」の設定を変えていました。
 「小さくてほかの人には履けないシンデレラの靴」という部分、学生たちの脚色では「大きすぎて、誰の足にも合わない」というふうになっていたのです。

 おそらく、纏足(てんそく)の習俗への配慮から、「より小さい足の人が王子の愛を獲得する」という内容が変えられたのではないかと思います。
 「小さい足」のほうが王子様のお妃にふさわしい、というシンデレラ、それを今一歩すすめれば纏足の習俗になります。

 富貴な家に育ったあかしとして、女の子が足をきつく縛り上げ、足のサイズ9~10センチに保った「纏足」。
 貴婦人は歩かなくても生きていくことができる。9センチの足でよろよろと、か細く動く女性が美しいとされ、より小さい足に美を感じた、往時の中国。

 「最後の纏足貴婦人」と言われた人が亡くなったというニュースを聞いたのも、もうずいぶん昔のことになりました。

 私の足のサイズは22、5センチで、ときどき子供用コーナーのつっかけサンダルなどで間に合わせたりすることもありますが、大人になっても9センチの足というのは、自然な成長ではありえません。

 9センチの小さな足に魅力を感じますか?感じない?
 じゃ、ウェスト43センチと、80センチ、どちらに魅力を感じますか。
 FカップGカップの大きな胸はどうですか?

 より細い腰、より大きな胸に魅力を感じるのが現代。
 「細いウェスト」を保つために、ダイエットに励む女性も多いし、大きな胸にしたいと、豊胸手術を行う人もいる。

 「風とともに去りぬ」のスカーレット・オハラは43センチの「ご近所で一番細いウェスト」を作り上げるために、コルセットを締め上げていました。
 叶姉妹は、自分たちの胸が「人工」であることを堂々発表しています。
 スカーレットの腰も叶姉妹の胸も、纏足と同じ、自然にはできない不自然な身体です。

 現代の私たちが9センチの小さな纏足に不自然さや違和感を感じるように、あと百年もすれば、シリコンでふくらませた胸の大きさに対して「なんて不自然な」と、感じるようになるのかも。

 時代によって地域によって「女性の魅力」の基準はさまざまです。
 タイ奥地に住むある民族。「より首が長い方が美人」というので、女の子は、こどものころから首に輪をはめ込み、首をどんどん長くしていきます。20センチ以上にも伸びた首を誇る「美人」を私たちから見ると、「奇習」に思えますが、、、、、

 現代日本の美の基準も、「長い首」「纏足」も、実は同じことです。
 現代日本では、より細い体に、より長い足、より細い足首。より大きな胸で、きゅっと上がったヒップラインが魅力的。より大きな目、より長いまつげが魅力的、、、、、

 「まばたきするのに重いだろう」と思うくらい、人工のまつげを目の上にのせた女性を東京の電車のなかで見かけたこともありますが、それが「美しい」と信じている女性に「不自然ですよ」と言ってみても、無駄なこと。

 纏足や首の長い美人を「奇習」と感じて、「重たいくらい長いまつげ」「Gカップの胸」に魅力を感じるのは、「現代の基準」に縛られた自己中心の美の基準でしかありません。

 現代中国の学生たちは、「小さな靴」の持ち主がお妃の座を獲得するシンデレラのお話に対し、違和感を感じたのかもしれません。
 というわけで、「シンデレラは、大足の持ち主」という設定に変えられていました。

 シンデレラ役を演じたのは男子学生でした。彼は最後の各賞発表で、「主演女優賞」を受けました。
 京劇や吉劇などの伝統劇では女形が活躍しますが、彼もなかなかの名女形でした。

<日本文化祭 つづく>

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2007年05月22日


ニーハオ春庭「七夕・天の川の橋」
2007/05/22 火
ニーハオ春庭中国通信>七夕・天の川の鳥
 
 日本文化祭、優勝は、ビジネス日本語学科2年生が上演した「七夕」でした。
 日本のおばあちゃんが、孫たちに七夕祭りの由来を語って聞かせる、という構成で、うまく日本の七夕祭りの文化と中国の織姫牽牛伝説を織り交ぜて、中日の文化交流紹介にもなっていて、役者たちも熱演でした。
 牽牛役の男子学生が、「主演男優賞」を受賞。

 七夕の舞台で日中のちがいを感じたこと。
 牽牛はいとしい織り姫に会いにいきたいけれど、目の前には天の川が横たわっていて、進めない。その時、鳥が現れて橋の代わりになってくれました。
 牽牛は鳥の翼を橋として渡っていきます。
 日本も中国もこの鳥を「鵲(チュェque)=カササギ」と、しています。

 現代日本で天の川の間にあって、織り姫牽牛の逢瀬を助ける鳥を思い浮かべるなら、白い鳥です。日本の学芸会で生徒たちに天の川の絵を描かせたら、白い鳥を描くのではないでしょうか。カササギといっても、「白鷺」のイメージ。
 
 しかし、中国の学生たちが「カササギ」が天の川にいる絵として舞台に出してきたのは、「黒い鳥」でした。
 「七夕のカササギ」のイメージが、日本と中国で違っていたこと、これは「登山」のイメージが異なっていたことにつぐ、「同じ意味だと思っていたひとつの言葉のイメージのちがい」の発見でした。

 動物学や漢詩の中に出てくる「鵲」は、確かに背中が黒くておなかが白い、カラスの仲間の鳥です。織り姫牽牛といっしょに描くなら、黒い鳥のほうが正しい。
 でも、私が子どもの頃から見てきた絵本では、ずっと白い鳥だったように思います。天の川に横たわる白鳥座のイメージです。このすり込み、思いこみの力は大きいです。

 「天の川のカササギ=白い」というイメージを私たちがもっているのは、白鳥座の印象のほか、
 「鵲(かささぎ)の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」
 という百人一首の印象があるからかもしれません。

 「冬の夜空に凍りきらめく星々 七夕の夜にはカササギが翼をうち交わして 天の川に橋をかけるというが おお、ここ地上の橋にも白く霜が下りている それを見れば夜も更けたことが思われる」(田辺聖子の現代語訳)

 冬の橋が霜で白くなっているのを見て、天の川で橋の役をはたしたカササギを連想する。これではカササギは白いという印象を持たざるを得ません。
 中納言家持も、カササギを白いと思いこんでこの一首を詠んだのでしょうか。
 家持は「霜が白い」と表現していて、カササギが白いとは言っていません。しかし、白く霜の降りた橋を見て天の川の鵲」を連想したことは確かでしょう。

 少なくとも、田辺聖子の解釈では、白い霜のおりた橋と、天の川のカササギがどちらも白い印象を受けるのですが。 

 「日本文化祭」の客席、私の隣にすわっていたのは、「七夕」に出演した2年生の男子学生。日本人と話せることがうれしいようで、幕間にさかんに話しかけてきました。四川省の出身といいます。

 彼は「七夕」では牽牛が連れている「牛」の役を演じました。「もう~~」と日本語擬声語で牛の鳴き声を出したあと、牽牛にいろいろアドバイスを授ける重要な役どころです。

 優勝が発表されると、「2ヶ月間毎日練習つづけてきました。うれしい、うれしい」と、感激のおももちでした。
 「七夕」ほんとに熱演で脚本もよくできていました。

<日本文化祭つづく>

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2007年05月23日


ニーハオ春庭「背中に座布団日本舞踊」
2007/05/23 水
ニーハオ春庭中国通信>背中に座布団日本舞踊(イメージの違いについて)

 文化祭をみて、日本と中国、そのほか、イメージのちがい、ということで言うと、「お太鼓帯」について。13年前とまったく変わっていないなあと思ったことがあります。
 日本の着物が中国の人に与えているイメージ。「着物の帯として、日本の女性は、小さな座布団を背中にくっつけている」

 「日本舞踊風の踊り」を披露した女子学生たち、和服風の衣裳を着て登場しましたが、みな背中に小さな座布団のような四角い飾りをくっつけているのです。

 ベルトのバックルを大きくしたイメージなのかもしれません。ベルトのバックルは前につけるけれど「日本女性のバックルは背中にある」という印象なのでしょう。
 日本の「お太鼓帯」は、こんなふうに「座布団のように大きいバックルをくっつけている」ように見えているんだろうなあ、と思います。

 先月テレビドラマ『鑑真東渡』を楽しんだのですが、最終回にはがっかりしました。
 鑑真が5度の難破を乗り越えて日本に到着する大団円。奈良ロケがあるだろうから、ぜひ学生にも見てもらいたい、唐招提寺が画面に出ていたらDVDを購入したいと思っていたのですが、奈良ロケはありませんでした。スタジオセットの奈良。

 玄宗皇帝に仕えた安倍仲麻呂が、完全に中国風の衣裳を着ているのは納得ですが、日本からの遣唐使は、頭にちょんまげを結い、刀をさしています。
 鑑真が接する「奈良の町の人々」も、半ば江戸時代人。

 私たちも、唐時代の衣裳と明時代の衣裳の区別が付かないのですから、中国のテレビドラマが、奈良時代と江戸時代の風俗をごちゃまぜにしていることに文句はつけられないのですが、あまりにも「奈良の町らしくない」ので、がっかりしてしまいました。

 絵巻物などを手がかりにその時代の風俗を再現できるのは平安時代くらいまでであり、奈良時代飛鳥時代になると、壁画などに残された絵などわずかな手がかりしかありません。
 
 古墳壁画などによって、貴人の服装はわかっても、実は私たちも奈良時代の一般庶民がどんな服装であったか、正しく知っているわけではありません。
 それでも奈良時代の町にちょんまげを結って刀をさした武士が歩いていたりすると、違和感が残ります。

 まだまだ、お互いの歴史や文化を詳しく知るには、さまざまな課題があります。
 日本語を学ぶ中国の学生たち、、お互いの姿をもっと知り合うためにこれからも勉強し続けることと思います。

 「背中に座布団」にはちょっと笑いましたが、日本語を学ぶ中国の学生たちの熱心な学習成果発表、8時半から13時半まではちと長かったものの、とてもいい発表だったと思います。

<日本文化祭おわり>
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2007年05月24日


ニーハオ春庭「夏の雪、柳絮」
2007/05/24 木
ニーハオ春庭中国通信>夏の雪、柳絮

 この町に赴任した3月18日から4月になるまでダウンコートを着ていて、4月中旬までウールコートを着ていたのですが、5月になるとぐんぐんと気温が上昇し、5月22日はなんと29度まで上昇。
 さすがにこれは突発的夏日だったようですが、皆、一気に夏姿になりました。 
 必要なのは冬服と夏服だけで、春秋物は要らないというのは、ほんとうです。

 今朝はたたきつけるような大雨。ベランダを打つ雨の音で目が覚めました。

 雪の季節のあとは、黄砂吹き付ける乾燥した毎日。雨は2ヶ月の間にぱらぱらと10分くらい降るだけで、すぐにやんでしまいました。
 先週やっと雨らしい雨が降ったのですが、これがなんと、雨の呼び水にするための人工雨だったのだといいます。
 飛行機で空中に雨の核になる物質を撒いて、水蒸気の中から雨を作り出す。

 ほんとうにこれが呼び水になったのか、今朝5月24日は、予報通り大雨でした。
 しかし、日本の梅雨とちがい、一日中降り続けることはありません。さしもの大雨も一時的で、午後にはやんでいました。

 さて、中国で初夏の名物「夏の雪」といえば、柳の種を運ぶフワフワの綿毛「柳絮(りゅうじょ)」のことです。
 タンポポの綿毛よりもっとふわふわの軟らかい綿毛。タンポポは綿毛の先に枝が伸びて枝の先に種がついていますが、柳絮は、綿毛の中に種が二三粒入って、ほんとうに雪のように大量に柳の木から舞い落ちてきます。

 軽いので、風に乗ってどこまでも飛び、白い「夏の雪」が舞い踊るのです。
 柳の木がたくさんある公園などでは、地面が真っ白になるくらい、綿毛が舞い落ちています。
 日曜日、ちょっと足をのばして朝陽公園に散歩にいくと、あとからあとからこの「夏の雪」が降る光景を見ることができました。

 実は、この柳絮、「口や鼻に入ってきて、息もできない、健康に悪い」と、評判が悪く、柳の木はつぎつぎと無害なポプラ(といっても、日本のポプラとはちょっとちがう種類らしい)に植え代えられているのだそう。

 タンポポの綿毛よりもっとフワフワ淡あわとした柳絮が、空いっぱいに舞い踊るようすを想像してみてください。
 日本のテレビの歌謡ショウ番組で、歌手が歌っている上から白い鳥の羽毛を降らせる演出がありますが、あれよりずっとはかなげで、それでいて健康的。
 「健康的なはかなさ」というのもおかしな言い方ですけれど。

 さんさんとした日の光のなかを白い綿毛が舞う光景、見ているだけなら、夢のようにきれい、息をのむ美しさです。
 でも、息をずっと止めていられないので、息をすると、あっ、鼻の中に綿毛が、、、、。

 旅人や短期間しか中国にいない者にとっては、夢幻的な光景に思える「夏の雪」ですが、地元の人にとっては、迷惑なばかりの、やっかいものなのでしょう。
 こちらがどうこう言える立場ではありませんが、1年中のことならともかく、初夏の一時的な自然現象なのですから、夏の雪をまったくなくしてしまったら、寂しい気がします。よそものの勝手な希望でしょうけれど。 

<夏の雪おわり>
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2007年05月26日


ニーハオ春庭「偽満皇宮」
2007/05/25 金
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮(ウェィマンファンゴン)見学・ラストエンペラー

 13年前、幼かった娘と息子を連れて、「偽満州皇宮」博物館を訪れたとき、中はあまり整備されていなくて、薄暗くて、ラストエンペラーの亡霊でも出てきそうな雰囲気でした。

 博物館の一角に「皇帝皇后の衣裳を着て写真を撮ろう」というコーナーがあり、娘と息子に衣裳を着せて写真を撮ってもらいました。
 娘の衣裳は皇后の衣裳風。4歳だった息子の衣裳は、溥儀が3歳で清朝最後の皇帝として即位したときの大礼服を模したもの。
 撮影料と郵送料を渡したのですが、写真はついに送られてこなかった。
 幻の偽満州国、幻の皇帝衣裳写真。 

 5月13日午後、13年ぶりに偽満皇宮へ行ってみました。今回はひとりで。
 観光地として客を呼ぶことに目覚めた省政府によって、きちんと整備がなされ、展示も充実していました。

 展示を目的とする博物館であると同時に、「偽満州国」時代の歴史研究センターとしても存在しています。
 溥儀の一生を、写真資料やビデオでたどる館、満州時代の陸軍海軍の衣裳を展示している館、満州高官を写真つきでひとりひとり紹介している館、など。

 また、溥儀の寝室、皇后の寝室、溥儀の書斎、仏間、など、蝋人形によって当時のようすが再現されている部屋もあり、溥儀が使用した自動車を展示した館もあります。
 これらは13年前は、なかったと思います。

 溥儀が謁見をおこなった部屋、溥儀の趣味である漢方薬を集めた部屋。溥儀の妻たちの寝室、阿片におぼれた皇后や早世した祥貴人(譚玉齢)の居間や寝室などを見ていくと、往時の満州帝室が具体的に偲ばれます。

 館内展示の若い頃の婉容の写真は、知的で溌剌として、非常に美しい。
 しかし、満州国皇后としての写真、後半生のものはありません。
 皇后婉容の寝室に展示されている蝋人形、ソファに横たわり、宦官(かんがん)の世話を受けながら阿片を吸っている姿です。

 婉容が満州国皇后として公式の場で人前に出たのは、ただ1回のみ。
 あとの10余年は皇帝との不和、宮廷内での確執などによって、軟禁状態となって一室にこもり、阿片を吸う以外なすこともなく生涯をすごした寂しい皇后でした。

 婉容についての解説として、日本語案内パネルには、「皇后は皇帝から遠ざけられ、侍従と通じた」と書かれていました。しかし、これは、婉容を嫌う皇帝側が流したスキャンダルであり、真実かどうかは、もはや歴史の闇のなかに沈んでいること。
 歴史的事実なのかどうか確かめることをしないまま、皇帝側の主張通りの婉容非難が説明パネルに載っているのは、悲運の一生をすごした皇后に対して気の毒な気がしました。

 映画『ラストエンペラー』の原作となった溥儀自伝『我的前半生』、ジョンストンの『紫禁城の黄昏』。皇帝溥儀の弟、溥潔の妃となった嵯峨浩の自伝『流転の王妃』、山口淑子(李香蘭)の自伝など、また、満鉄(南満州鉄道)や、『キメラ 満州国の肖像』など、旧満州関連の書物を、これまでさまざまに読んできました。

 今回、ラストエンプレス、皇后「婉容」を描いた『我が名はエリザベス』をこの地に持ってきました。1988年に出版されたときから読もうと思っていた入江曜子さんの最初の著作です。

 2006年に発行された同じ著者の『溥儀-清朝最後の皇帝』(岩波新書)といっしょに、溥儀婉容が十年あまりをすごしたこの地で読むのは、日本で読む以上に感慨深いものがあります。

<偽満皇宮つづく>

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2007年05月27日


ニーハオ春庭「我が名はエリザベス」
2007/05/27 日
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・我が名はエリザベス

 溥儀自伝『我的前半生』は、溥儀が口述し、ゴーストライター李文達(元人民日報記者)が共産党指導のもとに「改心した元皇帝、共産党からの思想改造を受けて、人民に奉仕する公民となった溥儀」のイメージを作り上げるために書かれた本だということが、近年明らかにされました。(李文達が著作権を主張して、溥儀の弟溥潔と対立したというのは、また別問題として)。

 第一級の近・現代史資料である『我的前半生』も、いわば、中国共産党の広告塔として溥儀を存在させるプロパガンダの役を担う著作で、自伝とはいっても、「真に正直な記述ではない」ということもわかってきました。溥儀の自己弁護と責任転嫁、中国共産党の史観が含まれています。

 『溥儀ー清朝最後の皇帝』は、溥儀死後に明らかにされてきた証言メモや新発掘資料なども駆使して、これまでとは異なる視点で溥儀が描かれています。
 溥儀が繰り返してきた「日本の軍部に強制されて、満州国皇帝の地位にいやいや就かされた」という主張も、これまで表に出されなかった満州国関連の文書などによって、そうではなかったこともわかってきました。
 新書版ですから手軽に読めるのに、内容はとても深いと思います。

 『我が名はエリザベス』は、皇后婉容の半生、廃帝溥儀と結婚してから、敗戦の混乱のなかで死ぬまでを描いています。

 エリザベスとは、婉容が天津租界で育ち、外国人とともに近代的教育を受けたとき、英語教師から与えられた呼び名です。
 婉容は英語を話し、自転車を乗り回す活発な少女でした。

 しかし、17歳のとき、婉容の運命が変わります。
 「幸せな家庭」を夢見ていた、「近代的教育を受けた女学生」だった婉容が、思いも寄らぬうちに「元清朝皇帝溥儀」の婚約者となり、顔を一度も見たことのないまま、結婚。
 結婚式を終えてみたら、自分より先に、側妃として文繍が溥儀のもとに仕えていたことを知る。

 溥儀は3歳で清朝最後の宣統帝として1909(明治42)年に即位、3年後の辛亥革命によって退位。
 12歳のとき、たった12日間だけ皇帝として復活し、その後はまた廃帝として紫禁城から一歩も外にでることのないまま、「もう一度皇帝として復活する」ことだけを使命として成長しました。

 3歳から6歳まで皇帝としてすごした日々のことは強い記憶ではなかったけれど、12歳のときたった12日間であっても、皇帝として絶大な権力者として遇され、臣民が膝下に額ずくのを見たあと、「皇帝復辟」は、溥儀の唯一の「生きる希望」となりました。

 溥儀17歳のとき、婉容を皇后に文繍を側妃に決定し、先に文繍を紫禁城へ入れました。
 婉容とは1922年12月に結婚。清朝歴代の皇帝結婚の儀礼通りに結婚式を行いました。

 結婚式は前例通りでしたが、「結婚生活」は形だけのものでした。
 宦官侍従は、幼い廃帝の癇癪をおさえるために、宦官や少年相手の快楽を教えこみ、17歳の廃帝は、皇后にも側妃にも、興味をしめしませんでした。
 17歳の皇后も13歳の側妃も、別々の宮殿で孤独な日々をおくるのみ。

 17歳までの、家族との団らんも、友達との楽しいおしゃべりも、婉容の生活から消えました。

 皇后の生活とは、「前例」を錦の御旗とする女官と、宦官(かんがん=男性器を切除して後宮に仕える人)だけに取り囲まれて、朝起きてから夜寝るまで、洗面の作法から食事排泄に至るまで、決まり事としきたりによる日々をおくること。

 伝統、前例、しきたり、因習、、、、
婉容には、何一つ自由を与えられず、形式だけが重きをなす生活。
 女官も宦官も、自分を見張り、かごの中に閉じこめようとする獄吏。

 現代においてさえ。
 美智子皇后は、結婚儀式で十二単の髪型(おすべらかし)にするとき、髪をシャンプーで洗うことを「しきたり」によって許されず、女官たちが「洗髪の油」で髪をふき取ったため、油の臭いで気分が悪くなった思い出をもち、紀子妃雅子妃の結婚式のときは、「前例通りに身支度をする必要はない、髪はシャンプーで洗ってかまわない」と、伝えたそうです。

 文繍と仲良くなろうとつとめ、皇帝と共通の話題を持とうと努力する婉容でしたが、皇帝との仲はどこまでも平行線であり、文繍は皇后の接近を迷惑に思うだけ、、、。
 側妃にとり、皇后とは、直接の上司であり、越えられぬ身分の差を持つライバルであり、皇帝の寵愛を競う永遠の敵のようなもの。
 といっても、溥儀の寵愛は皇后側妃どちらも受けられそうもない、、、、。

<偽満皇宮つづく>
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2007年05月28日


ニーハオ春庭「廃后婉容」
2007/05/28 月
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・廃后婉容

 清朝復活を夢見るだけで、自主的には何一つできない溥儀。
 西大妃の指名により3歳で即位。自己中心の局地のように育てられ、しかも清朝末期の混乱で「帝王学」も身につけていない溥儀は、ただわがままで、気位だけが高い廃帝でした。

 溥儀は「皇帝がめがねをかけた前例がない」と、言う侍従や教育係の先生たちに対して、近視用めがねをあつらえて、「はっきり見えるようにしてくれた」ジョンストンを重用し、紫禁城の外へでることを望むようになっていきます。
 「紫禁城の中にとじこもっていては復辟は実現しない」という理由で。
 紫禁城をでた溥儀に、ジョンストンが望んでいたイギリスからの援助は受けられず、溥儀は天津の日本租界に滞在。

 女性に興味をもたず、自分が帝王として復活することだけを望む溥儀に絶望して、側妃文繍は離婚を申し出ます。形式的には、側妃が離婚を申し出たのではなく、溥儀自身が側妃を追放するという形で、離婚が成立。9・18事件(満州事変)の一ヶ月後のことでした。

 しかし、皇后である婉容には離婚を申し出る自由さえありません。側妃を追放した皇帝は例があるけれど、皇后と皇帝の離婚など、前例がないから。

 日本軍国主義に近づき、日本の皇室に身を寄せることで帝王としての誇りを呼び戻していた溥儀は、従順でない皇后、ひとりの人間として生きたいと願う婉容を重荷として、一室に閉じこめます。

 夫が満州帝国皇帝として担ぎだされ、傀儡皇帝となっても、婉容は皇后として人前に出ることを拒否。
 人前に出たのは、日本国天皇の名代として皇弟秩父宮が「帝政祝賀」のためにに満州来訪したとき一度のみでした。
 日本国天皇ヒロヒトからの勲章を、皇后として受けなければ「満州帝国」のメンツが立たない、という説得で人前にでたあと、婉容は一室に引きこもります。
 その後は「帝国の虜囚」としてすごすのみ。敗戦まで外にでることはありませんでした。

 皇后は阿片にのみ、安らぎをみいだすようになっていきました。
 博物館の「皇后の部屋」は、ソファに横たわり阿片を吸っている婉容の姿を展示しています。
 阿片は、中国では広く吸引されており、現代のタバコと同じくらい普及していました。タバコの中毒性と健康被害が声高に宣伝され「諸病の根元」と言われてもタバコをやめない人がいるのと同じように、阿片中毒の害が言われても、阿片をやめることのできない人は中国に数多くいました。

 日本は、当時「阿片追放」キャンペーンを張っていました。しかし、裏で阿片を売りさばき、巨額の秘密利益を上げていたと言われている組織のひとつは日本側です。
 特務機関の謀略グループは、中国での謀略資金を確保するため、極秘に阿片を栽培し売りさばいていた、と言われています。

 敗戦の混乱、逃亡と捕虜の生活のなか、婉容は阿片の禁断症状によって廃人となり、孤独のうちに亡くなります。
 過酷な運命を担った王妃后妃は歴史上数多くいるけれど、婉容の数奇な生涯もまた、人の運命として忘れがたい一生だと思います。

<偽満皇宮つづく>

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2007年05月29日


ニーハオ春庭「帝国の光と闇」
2007/05/29 火
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・帝国の光と闇

 清朝の皇帝として2度、満州国皇帝として1度、生涯に3度皇帝になり、3度その座から引きずりおろされた溥儀。

 3度目に皇帝の座から降りたあとは囚人となり、中国共産党によって思想改造を受けました。
 大赦によって出獄したあとは、毛沢東を賛美してやまない「よき人民」になり、中華人民共和国の公民として、共産党の広告塔として遇されました。

 「改心して人民への奉仕にめざめた元皇帝」を演じた溥儀に対し、皇后婉容は中国の歴史からは忘れ去られ、その生涯をたどろうとする人もいませんでした。

 私が婉容の存在を知ったのは、愛新覚羅浩の『流転の王妃』によってです。
 1959年にハードカバーが出版された頃、たぶん図書館から借りて読んだのであろう母から、嵯峨公爵家から溥儀の弟溥潔に嫁いだ浩の生涯について、聞いた気がするのですが、婉容のことはまったく知りませんでした。

 婉容の名が記憶に残ったのは、入江曜子の『我が名はエリザベス』が新田次郎賞を受賞したとき。しかし、本を読まないまま、月日がすぎました。
 1994年に最初にこの地に赴任する前に「満州関連雑学仕込み」として読んだのが愛新覚羅浩の『流転の王妃の昭和史』
 1992年発行の文庫で、婉容の最後が悲惨なものだったと知りました。

 中国では、闇のかなたに葬られていた婉容。
 その生涯を掘り起こし、小説として上梓した作者入江曜子に対し、婉容の弟・潤麒は感謝し、新たなエピソードも伝えてくれたそうです。
 帝国という名の表舞台に立ち、常に自分にスポットライトがあたるように願っていた溥儀。
 しかし、そのスポットライトは、照明係りである日本軍の意向しだいであったことにいらだちながら皇帝を演じていたのが溥儀であるなら、一方の皇后は、傀儡国家の闇の底に沈んだ女性だったといえるでしょう。

 溥儀を「満州帝国」の表の顔とするなら、もうひとつ別の「裏の顔」として知られた人物がいます。
 「闇の帝王」とおそれられたのは、満州映画協会理事長甘粕正彦。
 映画協会理事長は表向きの肩書きであり、帝国の闇の部分を仕切る謀略機関のトップであったとされています。

 映画『ラストエンペラー』で、溥儀を演じたジョン・ローン以上に、もっとも印象に残った出演者は、甘粕正彦を演じた坂本龍一でした。
 それまで私が抱いていた「大杉栄伊藤野枝虐殺」犯人、殺人者、というイメージとは大いに違い、複雑かつとても魅力的な甘粕像がインプットされました。

 映画『ラストエンペラー』を見た後、私は、旧満州地域、偽満州国の地で仕事をすることになりました。
 満州関連書をさまざまに読んだなかで、満州時代の甘粕を知っている人の証言は、みな甘粕に対して好意的でした。

 中国人の証言も日本人の証言も、そろって「甘粕理事長は、たいした人徳者」「日本人のなかで、あんないい人はほかにいない」「とても魅力のある人物」というような声がほとんどで、直接彼を知っていて彼を悪く言った証言者がいない、ということに大いに興味を引かれました。

 満州映画協会理事長甘粕正彦は、1945年、敗戦ののち「大ばくち、身ぐるみ脱いですってんてん」というひとことを残して自殺。
 この「すってんてん」という俗語を結語とする一句、辞世の句というにはあまりにも自己諧謔がすぎます。
 わざわざ自分の一生をちゃかして、笑いのめして死んだ男、甘粕正彦。

<偽満皇宮つづく>
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2007年05月30日


ニーハオ春庭「帝国の闇、身ぐるみ脱いですってんてん」
2007/05/30 水
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・帝国の闇、身ぐるみ脱いですってんてん

 天津租界から溥儀を連れだすなど、満州国設立の功労者であり、建国時には民政部警務司長、満州国参事だったにもかかわらず、帝政がしかれると、甘粕正彦は満州帝国の政府側には入ることができませんでした。
 甘粕の前歴が問題にされ、「殺人者として刑を受けたことのある人間を帝国の中枢におくことはできない」と、彼が政府幹部になることに反対する者がいたからです。

 満州国建国1932年より9年前の1923年、甘粕憲兵大尉は「無政府主義者・大杉栄伊藤野枝虐殺」の罪を一身に引き受け、裁判で陸軍との関わりを否定し続けました。
 甘粕に下った懲役は10年。

 しかしたった3年後には恩赦を受け、甘粕はフランスへ渡りました。渡航滞在費用を出したのは、陸軍です。
 この異例の扱い、その後、満州での謀略活動の中心者となったことなどを考えても、陸軍との関係、直接手を下した殺害者との関係には、複雑なものがあると思えます。

 裁判のとき、大杉伊藤とともに殺された7歳の甥について裁判長に質されると、さすがに甘粕も「子どもは自分が殺したのではない」と、否定しました。
 しかし、「では、殺した者はだれか」と追求を受けると、たちまち「すべて自分ひとりでやった、だれの指示も受けていない」と、最初の主張に戻り、自分以外の人間の関わりをすべて否定しました。 

 私は、甘粕は大杉伊藤虐殺に、直接手をくだした殺害者ではないかもしれない、と思っています。
 甘粕が直接の犯人ではないことを陸軍側が知っていること、「大杉事件と陸軍上層部との関わり」を隠し通したこと、この「負い目」が「フランス滞在資金提供」となったのだと考えます。

 甘粕が裁判で主張したように、「自分一人で考え、自分が直接手を下して大杉夫妻を殺害した」ということであるなら、なぜたった3年で大赦となったのか、フランス滞在費用を陸軍がだしたのか。

 私が「甘粕は殺人者」と思えないことの心情的な根拠のひとつは、関東大震災前に婚約した服部ミネが、甘粕出獄後に結婚していることです。

 女性の家族からみたら、婚約者が殺人者として刑を受けたとき、婚約解消しないで、出獄を待つ、というには、よほどの覚悟が必要です。
 ミネが甘粕との結婚の意思を変えなかったことを考えると、ミネに「この人となら一生そえる」と決意させる何かが正彦にあったのだと思えるのです。 

 もうひとつ、私が「甘粕は大杉伊藤虐殺真犯人ではない」と感じるのは、まったく私のミーハー心情から。

 私は、見田宗介(真木悠介)の著作が好きで、講演会も聞きにいくミーハーファンでした。社会学者、大学教授としては、毀誉褒貶ある見田先生ですが、私は好き。
 見田宗介の父親は、ヘーゲル哲学マルクス経済学の研究者見田石介です。見田石介、旧名は甘粕石介。石介の弟は甘粕春吉(宇治山田警察署長)。春吉の息子が甘粕正彦。
 見田宗介と甘粕正彦は従兄弟です。

 まったくのミーハー的考えですが、見田宗介の穏やかな静かな風貌と、正彦を直接知る人々の好意的証言とを重ね合わせると、これまでのように甘粕正彦を「大杉伊藤と7歳の甥っ子を無慈悲に虐殺した殺人犯」と、決めつけることができなくなりました。

 むろん、満映関係の人々が「甘粕さんはいい人」と、口をそろえたところで、甘粕が中国でしたことのすべてを肯定できるものではありません。
 内藤機関という謀略の部署を駆使した甘粕の行動、中国での暗躍は、偽満州国の闇の底を深く覆っています。

 『我が名はエリザベス』のなかで、甘粕は溥儀をあやつり、婉容を監視する「冷たい目の男」として登場します。
 満映のスタッフや俳優たちに見せる顔と、帝国の闇を仕切る謀略機関トップの顔の甘粕は、別人のようだったのかもしれません。

 真に「五族(日満漢朝蒙)共和」の理想をを実践しようとする人たちが集まり、新しい国作りをめざした人々も、一部にはいました。建国大学に集まった人々など。しかし、実際の国家運営はどんどん理想とはかけ離れていきました。
 満映で、中国人スタッフと日本人スタッフに平等に接した甘粕も、「満映」での理想と実際の満州社会の現実のずれは、よくわかっていたでしょう。

 甘粕は、自殺の前、中国人スタッフに「これからの中国映画は、君たちにかかっている。そのため映画機材を守り抜くように」と、指示しました。

 満州に設立されたインフラは、発電機材その他、ほとんどのものがソ連軍の手に渡り、ソ連に持ち去られて満州の地に残されませんでした。
 その中、唯一、映画機材は中国人スタッフによって確保され、戦後中国映画の発展につながったのです。

 溥儀と婉容、溥潔と嵯峨浩、甘粕正彦、川島芳子、李香蘭、、、、、
 満州帝国13年の徒花のような国家に登場した人々は、だれをとりあげても、波瀾万丈の映画が一本とれる数奇な人生を歩んだ人たち。

 私の希望のひとつは、赤川次郎によって、甘粕正彦を主人公とする評伝が書かれればいいのに、ということ。
 赤川次郎の父親赤川孝一は、甘粕正彦の自決を看取った人。満映での甘粕の側近で、戦後は東映幹部。

 赤川次郎が直接自分の父親について語った本は少ない。母以外の女性と暮らしていた父親だったから。
 『イマジネーション(今、もっとも必要なもの)』(光文社文庫は2007年2月発行)などで父親について語っているのですが。

 角田房子『甘粕大尉』などのすぐれた評伝がありますが、赤川が書いたら、また別の人物像がでてくるのではないでしょうか。

<偽満皇宮見学つづく>
06:27 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2007年05月31日


ニーハオ春庭「我不是台湾人」
2007/05/31 木
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・我不是台湾人

 偽満皇宮博物館見学。
 私が見学した5月13日、日曜の午後おそくだったためか、韓国人ツアー団体のほかは数えるほどしか入館者を見かけませんでした。

 私が皇帝や后妃の部屋をのぞいていると、係りの人がやってきて、一生懸命覚えたのであろう解説を朗々と始めます。私はそのたびに、「すみません、中国語わかりません」とお断りを言い、日本語の説明パネルを読みます。
 なんだか悪いことをしているような気分。

 私、四声の聴き取りは難しいし、発音は下手だし、話すのも聞くのもだめ。中国語で解説されても、わかりません。
 偽皇宮には、日本語説明が書いてあるのでありがたい。

 日本に来ている欧米人が英語で日本観光を済ませているようすを見ると、「日本観光をしようと思うなら、少しは日本語を覚えて観光したらいいのに」と思っていたのに、中国の観光地で、私は、片言の中国語のみですませており、館内の案内、解説の中国語はとんとわからない。ほんと、ちゃんと中国語を覚えて観光したら、もっといろいろ興味深いことがわかるだろうに。

 13年前、「我是日本人。私は日本人です」と言っても、よく「いや、あんたは日本人じゃないね。あんたの発音は南方出身者のなまりだよ」と言われたものでした。
 今回、偽満皇宮のおみやげ屋で『偽満州国明信片研究(満州時代の絵はがき写真集)』という本を買おうとして、値切っていたら、「あんたは台湾人だね」と言われました。

 13年前は、ほとんど見かけなかった台湾人。今は、東北にも観光にやってくるようになっているらしい。
 私と同じ時間に偽満皇宮を観光していたツアー客は、韓国人団体。この地域は、朝鮮族が多く住んでいるので、ソウルからの直行便も本数が増えています。団体客も増加しているのでしょう。
 市場で買い物をしていたとき「あんたは韓国人だろう」と言われたこともあります。

どうして私が日本人と思われないか。
 日本人観光客は値切ったりしないで、定価で買っていくから。また、この町に在住している日系企業の駐在員夫人などは、私のように服装に無頓着でなく、ちゃんとした服を着ているから。

 定価268元の『偽満州国明信片研究』という本、結局130元で買いました。
 長くこの地で日本語教育を続けてきた他大学の先生から、「80元まで値切った」という話を聞かされていたのですが、5時20分の閉館時間が迫っていたので、130元で手を打ちました。売店のおばちゃん、150元以下にはできない、と主張していたのですが、やはり閉館までにひとつでも多く売りたかったのでしょう。

 ただし、これも、家に帰ってから子細に眺めれば、正式な出版物をそっくりコピーした海賊版っぽい。絵はがき写真がボケボケの印刷です。
 海賊版だったら、定価265元なんて書いてあっても、制作側はコピー代製本代しかかかっていないのですから、元手いらず。制作費は10元20元なのかもしれません。それなら、80元で売っても130元で売っても、丸儲け。

 ほかにも買えと、おばちゃん、あれこれ勧めてきて、ずうずうしいことに、入り口近くの案内所で無料配布している「偽満州皇宮博物館案内」のガイドパンフレットを、1元で売りつけてきました。「これ、免費(無料)だよ」と、タダでもらったパンフレットを見せて退散。

<偽満皇宮つづく>
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ニーハオ春庭中国日記「世界遺産孔子廟&母の日」

2011-09-22 10:40:00 | 日記
2007/05/05 土
ニーハオ春庭中国通信>イミテーションゴールデンウィーク

 日本の黄金週間、子供の日を中心にきらきらゴールド輝かせて楽しい日々をおすごしのことと思います。

 中国も5月1日から7日までは黄金週間。大学、官庁、大手会社などは1週間の休暇となります。
 しかし、学生たちに言わせると、「中国のゴールデンウィークは本物のゴールドじゃありません。にせもののゴールドです」
 これはどういうことかと言うと。

 中国で最大の休暇は旧暦新年の春節です。春節の次に連休となるのが5月1日から3日間のメーデー休暇。労働者のための休日です。
 このメーデー休暇を大型連休にするために、振り替え労働日が制定されています。

 5月4日金曜日を休日にするために、4月28日土曜日は出勤となり、大学も官庁も平日扱い。5月7日を休日にするために、4月29日日曜日も出勤。平日扱い。
 この土日二日間を平日として働くことによって、5月1日から7日まで連休となる、という連休からくりです。

 観光産業振興政策として、近年決められたとのことで、13年前には5月1日から3日までの3日間だけの休暇だったように記憶しています。

 連休前は、4月23日月曜日から4月30日月曜日まで8日間連続で出勤しました。1週間の連休が目の前に待っているとはいえ、8日間休みなく働くのはかなりきつかったです。休日出勤を続けて働き続ける日本の企業戦士の気持ちがわかりました。過労死寸前、くたくたでした。

 こうして、二日間の振り替え労働の結果、やってきた1週間の黄金週間。イミテーションゴールドであるにせよ、連休は連休です。

 中国は旅行ブーム。1週間の休みに、それぞれの計画をたてます。近場で保養の人、遠出をして豪華に旅行して回る人、体力やら懐具合やらを勘案して、さて出発。
 と、いきたいところですが、思い立って気ままに旅行する、というような日本で私がよくやる「気ままに行き当たりばったり旅行」が、中国ではできません。

 日本で私は、どこへ行くとも決めずに家を出て、とりあえず130円の切符を買ってターミナル駅まで行き、電車を乗り継いで行けるところまで行ってみる、という旅行をときどきしていました。

 中国では、それは不可能。電車の切符を手に入れるのはとても難しい。
 同僚の先生は、2度駅に足を運び、それぞれ1時間くらい並んで待ったあげく「ハルビン行き、没有メイヨー。(ありません)」で、買えませんでした。

 確実に切符を買うには、1,旅行社に手数料を支払って買う。2,駅にいるダフ屋と交渉して切符を手に入れる。という方法があります。2は、中国語で交渉できない私たちにはとても無理。

 西安行き夜行寝台車の切符を買った先生は「日本語が話せる係員がいる旅行社」に手配を頼みました。
 31時間電車に乗り続ける西安行き。4人同室コンパートメントの寝台車(軟臥)が片道700元。旅行社に払う手数料は40~50元。

 しかし、ハルビン行きは日本のグリーン車にあたる「軟座」でも40~50元程度ですから、40元の手数料を旅行社に払うのはちょっともったいない気もしてしまう。
 自分で切符を買う経験をしてみたいからと、同僚2人は駅で並んだのですが、結局あきらめて、勤務校の事務所に切符購入の手続きを頼みました。軟座は手に入らず、一般座席の硬座で30元。

 さて、私のイミテーションゴールデンは?
 さすがに中国では「行き当たりばったり旅」「ミステリーツアー」は、できません。
 市内の旅行社が募集している地元の人向けツアー旅行に参加です。往復6人一室寝台車(硬臥)、ホテル2泊。観光3日間の「割安ツアー」に申し込みました。

 では、中国国内ツアーのご報告は次回。


11:07 コメント(11) 編集 ページのトップへ
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2007年05月06日


ニーハオ春庭「世界遺産めぐりツアー、畑も野原も畑も野原も畑も、、、、」
2007/05/06 日
ニーハオ春庭中国通信>世界遺産めぐり国内ツアー、畑も野原も畑も野原も畑も、、、、

 台頭してきた中産階級にとって、家、車、パソコンなどひととおりの家財が手に入ったら、次は家族旅行。中国は旅行ブームがはじまったところ。海外豪華旅行から手近なツアーまで、旅行熱は高まる一方です。

 火車(中国語で、電車は火車。汽車は中国語では自動車のこと)の切符を個人で買うのはたいへんなので、ツアーも盛んです。
 5月メーデー休暇の旅行として、ふたつの世界遺産をたずねるツアーに参加しました。

 中国にはユネスコに認定された世界遺産が30あります。その中の北京の3カ所、万里の長城、故宮(紫禁城)、頤和園には、13年前出かけました。
 今回は、山東省(青島半島とその内側の地域)にある世界遺産の二カ所をめぐるツアーに参加です。

 文化遺産、古代「魯国」の首都にして、孔子のふるさと曲阜(チュイフー)の孔子廟、孔林、孔府訪問。そして自然遺産の泰山(タイシャン)登山。

 地元の人向けの割安ツアーなので、日本人ツアーが利用するような四つ星や五つ星ホテルとか、4人用コンパートメント寝台車、トイレつきの豪華ツアーバスなどはありません。
 6人一室の寝台車(硬臥)、星なしホテル、何の設備もないバス。
 寝台車は、個人で買うと往復550元。星なしホテルは一泊120元。二泊で240元。バス代を考えると確かに割安なのだろうと思います。

 現地、山東省3日間で、昼食1回。夕食2回がツアー代に含まれ、朝食2回はホテル代に含まれている。朝食1回と昼食2回は各自支払い。寝台列車の中での食事も自分持ち。

 それらを割り引いても、5日間の旅行に一人1400元(約2万円)、夫婦と子どもの3人で参加すれば6万円を支払い、そのほか食事などの出費が必要。一家で10万円くらいの支出。
 中国の生活物価感覚を考え、日本の物価感覚でいうと、ゴールデンウィークの旅行に家族3人で百万円くらいを使う感覚。割安ツアーとはいっても、そう簡単な出費ではなく、ツアーに同行した家族連れは、新興中産階級という感じの人々でした。

 私は日本では「電車に乗って窓外の景色を眺めているだけの旅」を楽しんできました。5時間でも6時間でも、窓の外を眺めているのが楽しい。移りゆく景色、山も野原も林も海も、それぞれの時間にそれぞれの表情を見せてくれます。
 しかし、しかし、中国大平原の電車の旅、6時間ながめていても、7時間ながめていても、窓の景色は変わらないのです。

 地平線まで、だだっと広い畑。畝がうねうねと続く。畑の中の道の両側には並木が植えられている。
 電車が南へ進むにつれて、畑が乾燥した茶色の地面から、麦やインゲンの豆が育っている畑に変わったけれど、基本的に景色は同じ。
 だあっと広い。それだけ。

 東北地方、北のほうは木が少ない。南に行くにつれて木が増えてくる。という違いはあるけれど、どこまでいっても「広い畑」が続いていました。たまに低い山のような丘のようなところを通りすぎる。ほとんど木がない裸の山。またすぐダア~ッと広い畑。
 3つの省を通りましたが、ずっと同じ景色でした。

 ♪汽車汽車シュッポシュッポシュッポシュポシュッポッポ。ぼくらを乗せてしゅっぽしゅっぽしゅっぽっぽ。速いな速いなどこまでも。畑も野原もすぎていく。走れはしれはしれっ~、畑も野原もすぎていく、走れ走れ走れ~、畑も野原もすぎていく~、走れ走れ走れ~、畑も、、、、という具合で、エンドレスに畑と野原。

 平原をひたすら突っ走って、16時間後、5月2日朝、山東省の省都、済南に到着しました。移動距離は1360キロ。東京を出発したとすると、九州までくらいの距離になります。

 次回は、世界遺産「孔子廟」について。
00:35 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2007年05月07日


ニーハオ春庭「しのたまわく曲阜三孔」
207/05/07 
ニーハオ春庭中国通信>しのたまわく曲阜三孔

 私が高校生くらいまでは、漢文は必修科目でした。意味がわかってもわからなくても、暗唱したものです。
 子曰わく、学びて時にこれを習う、また説(よろこ)ばしからずや。
 朋あり、遠方より来たる、またたのしからずや。

 漢字を知る前、父や母から論語の一節を聞きかじっていた頃は、耳で聞いただけの「しのたまわく」を、長い間、「師の、玉沸く」だと思っていました。先生の玉が沸くって、どんな玉の沸騰だと思っていたんだか。

 中学高校の教科書で文字を見て、やっと「子 曰わく」を「し、のたまわく」と読むのだとわかりました。
 今は、「宣う(のたまう)」なんて荘重な敬語つかったりしないで、「し、いわく」って、教科書に書いてあるみたい。ただし、大学入試から漢文をはずすところが増えた結果、高校で漢文を習わない高校生が多くなり、「論語」を知らない若者が多数派。

 というわけで、ユネスコによって1994年に世界遺産に認定された、「孔子のふるさと、曲阜(チュイフー)」です。
 ユネスコ認定理由として、「中国悠久の歴史における、もっともすぐれた宗教芸術であり、建築物の代表である」という評価をうけ、文化遺産として世界に誇るべきものとして認められました。

 孔子を祭る「孔廟」、孔子の子孫が封建貴族として曲阜領有を行った行政府である「孔府」、2500年間続いた直系子孫累代の墓地となった「孔林」
 孔廟、孔府、孔林を「曲阜三孔」とまとめて、世界遺産になっています。

 曲阜は、古代「魯国」の首都でした。
 孔子は、紀元前551年ころ魯の国に生まれ、紀元前479年ころなくなった、中国,春秋時代の思想家。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)
 彼の思想は儒教として東アジア圏に広まり、仏教思想とともに大きな影響を残しました。

 孔子は、魯国で政治家として生きようとしたけれど、理想通りにはいかないことに失望し、理想的な政治を行える国を求めて弟子とともに14年間諸国を巡ったすえ、結局は故国の魯に戻りました。
 そののちは、生まれた土地、曲阜にたった3部屋のみの小さな家で質素に暮らしながら、弟子の教育や古典の整理に専念しました。

 孔子は、社会には礼とよぶ秩序が必要であり、それには人を思いやる仁とよぶ心が大事だと説きました。孔子の思想を弟子がまとめた本が『論語』。「しの玉沸く」の本です。

 孔子が亡くなった2年のち、魯国の哀公が孔子旧居を廟としてまつったことから、孔廟が成立し、歴代の皇帝が手厚く子孫を遇しました。
 漢の皇帝、唐の皇帝、宋、明、清、王朝は変わっても、どの王朝にとっても、孔子の思想は広い中国を支配するに最適な思想として尊重され、孔子の子孫は歴代の皇帝から貴族として遇されました。

 孔子がたった3つの部屋で暮らしたのにくらべ、子孫は部屋数450という広大な屋敷をかまえ、広い土地を領有する「封建貴族」の地位を保ち続けました。
 王朝は何度も変わっているのに、孔子の家だけは変わらず、2500年の長きにわたって直系によって維持され続けたのです。

 現在も子孫は続いています。ただし、共産主義中国は、孔子を「封建思想の根元」としたために、77代当主は、蒋介石とともに、台湾へ渡りました。
 孔子の命日に行われる孔子祭りのときは子孫は曲阜に里帰りし、祭祀を執り行います。
 曲阜市、人口70万人のうち20万人は「孔」の氏を名乗り、世界に孔子の子孫は400万人いるそうです。

 孔家は、秦の始皇帝の焚書坑儒の思想によって迫害されました。子孫は、現在「魯壁」と呼ばれている壁の中に孔子の本を塗り込めて焚書に耐え、孔子思想を守りました。

 その次の迫害が「共産思想による孔子思想の否定」だったのですが、1980年代から風向きが変わり、現在では、「孔子学院」の設立が世界中で続くことからもわかるように、孔子の思想の再評価が高まり、「曲阜もうで」も、1994年の世界遺産認定以来、ますます盛んになっています。

http://www.china-cts.com/qufu.html

<曲阜 つづく>
16:57 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2007年05月08日


ニーハオ春庭「孔子の墓で温故知新」
2007/05/08 火
ニーハオ春庭中国通信>孔子の墓で温故知新

 私が山東省曲阜市を訪れた5月2日、孔子を祭る孔廟、門前黒山の人だかり。廟内、押すな押すなの人混みでした。

 みやげ物屋には、『論語』が山積み。
 孔子復権が1980年代からだということを考えると、現代の中国人よりも、高校で漢文暗唱を強いられた私のほうが、ずっと論語を知ってるんじゃないかと思います。「論語読みの論語知らず」までもいかない程度には読んだつもりだけど。

 えっと、「子(し)曰(のたま)わく、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、以(もつ)て師と為(な)るべし」

 お、覚えているぞ。40年前に暗記したことがスラっとでてくる。さすがは「師の玉沸く」だ。

 「子、曰(のたま)わく、学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」

 え~、それから、、、、、
 あ~、試験が終わったらほとんど忘れたんでした。

 孔子と孟子の中間の時代に活躍し、もっとも勢力が大きかったと言われる墨子、墨家の思想が、中国歴史上、長い間忘れ去られていたのに対して、孔子は忘れられるどころか、歴代皇帝によって、「中国を支配するのに一番つごうのいい思想」として手厚く保護されました。
 (5月7日、映画「墨攻」をテレビ放映でみたところなので、今は墨子びいきです。中国語のせりふに英語の字幕と中国語の字幕の両方がでる方式)

 孔子の儒学が儒教として中国思想のバックボーンとなったのは、人間の生き方を支えるにふさわしい思想であったことが中心であるとして、「支配者にとってつごうがいい思想」であったことはまぎれもないことでしょう。
 「親に孝より君に忠」「忠君愛国」など、君主支配への絶対服従を徹底するには、孔子の説く儒学の教えはもっとも適切なものでしたから。

 王朝は変われど、歴代の皇帝は孔子の子孫を「封建貴族」とし、高い地位と領地を与え続けました。

 封建領主としての役所が「孔府」。
 壮麗な中国様式の建築が立ち並んでいます。中国では、黄色い瓦や龍の文様は皇帝にのみ許されていたのですが、孔府には、龍の飾り、黄色い瓦が許可され、皇帝の故宮にも匹敵する建築物であることがわかります。
http://www.arachina.com/heritage/qufu/index.htm

 累代の直系子孫の墓域が「孔林」です。孔林は、紀元前500年から紀元後2007年まで、直系男子が相続し、第78代の直系子孫までが葬られています。
 200ヘクタールがすべてひとつの家族の墓域になっています。世界最大の家族墓、というのが、世界遺産認定のひとつの理由。(千代田の皇居の広さが115ヘクタールですから、その2倍くらいの広さ)

 孔子と彼の息子の孔鯉、孫の孔子思の墓は、円墳です。
 雑草がポショポショと生えている丸い塚の前に石碑が建つ、質素なものです。

 孔府の建物が壮麗なので、お墓ももっと大々的に作り直されているのかと思ったら、案外こじんまりしているので、ああ、お墓だけは、3つの部屋だけで質素に生涯をすごした孔子にふさわしいままに保たれているんだなと、なんだかほっとしました。

 200ヘクタールの広い林の中、木々が静かに立つあいまあいまに、子孫の墓がひとり一つの石碑を建てて点在しています。
 「へぇ~、74代目だってよ。最近の人だな」などと思いながら林の中を散歩したのですが、実は私の歩いたほうと反対側が「明時代の墓」が並んでいる名所でした。

 私はガイドの中国語がわからず、せっかくの名所へいかずにしまったのでした。
 まあ、2500年の歴史のなかでは、明代も現代もたいした違いはないと思うことにしましょう。

 温故知新。ふるきをたずねて新しきを知る。
 現代の墓をたずねて、2500年前をしのぶ。
 うん、たいした違いは、、、、あるかな。
 
http://www.sdta.jp/jp/htdocs/5/b/b.html

<つづく>
06:53 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2007年05月09日


ニーハオ春庭「我、十有五にして学に志し、五十にして惑いっぱなし」
207/05/09 水 
ニーハオ春庭中国通信>我、十有五にして学に志し、五十にして惑いっぱなし

 孔家は、系譜がはっきりわかる家柄としては、2500年つづく、世界最古の家柄だといえます。
 古けりゃエライっていうのなら、この世でいちばんエライのは、ピテカントロプスエレクトス。てなもんですが、2500年の間守り続け、伝え続けてきた学問、思想を研究するのは、価値あることです。

 文化大革命時に、各地の中国封建領主の屋敷などの破壊が続き、失われてしまった貴重な文書も少なくありません。
 歴史的な研究対象として、この孔府に残された文書、建築などを調べていくことは、たいへん重要です。

 早稲田大学は、2007年4月、日本で11番目の「孔子学院」を設立し、孔子思想や孔府文化遺産の研究を、北京大学との共同研究として進めていくことを発表しました。
 これから、ますます「東アジア思想のバックボーン」の研究が盛んになっていくことでしょう。

 孔府の中、たくさんの建物があるので、3回くらい、迷子になりかかりました。
 ツアーの添乗員、陳小梅(チンシャオメイ)さんは、ハンドマイクでチャッチャッと中国語で説明すると、客の反応おかまいなしに、ずんずんと先へ進みます。

 私は、中国語の説明を聞いてもまったくわからないので、パンフレットの漢字をたどって、なんとか、これがどんな建物なのかだけでも知ろうとするのですが、そんなことをしていると、たちまち置いてきぼりです。

 わかってもわからなくても、小梅さんハンドマイクでノタマワク「あとは自由見学。15時にここに集合。遅れると、夕ご飯なしだよー」

 自由時間に篆刻(てんこく)の店へ。
 この人もその人も孔子の子孫のひとりって店で、石のはんこに名前を刻んでもらいました。娘と息子のフルネーム。おみやげです。

 石はんこが彫りあがるまでの時間を利用して、孔林門前一周の馬車に乗ってみました。
 観光客相手の馬車。5分もしないで、ぐるっと一回り。これだけで、15元。
 ちょっと高いんじゃないのぉ!15元あったら、ランチ一食分だよ、と、馬に文句を言ってみても、馬の耳に念仏、あ、馬の耳に論語か。

 「し、のたまわく。我十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知り。六十にして耳従う。七十にして心の欲するところに従えども矩を踰えず(のりをこえず)」

 春庭いわく、五十すぎても惑いっぱなし。また、よろしからずや。
 でも、今回、惑いっぱなしでも迷子にはならず、無事夕ご飯を食べることができました。

<曲阜おわり 次回は泰山>
06:37 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2007年05月11日


ニーハオ春庭「世界遺産、霊峰泰山登山」
2007/05/11 金
ニーハオ春庭中国通信>世界遺産、霊峰泰山登山

 電車で16時間1360キロを移動しても大平原が広がり、見渡す限りの畑の風景が続いた遼寧省、河北省、山東省。

 このような大平原が広がっている土地であるからこそ、高くそびえる山はいっそう神秘的、霊的な存在として屹立します。

 泰山(タイシャン・たいさん)は、山東省泰安市にある標高1545mの山です。
 石と岩でできている山の光景は自然遺産、宗教施設としての建築群は文化遺産として、ユネスコ世界遺産の「複合遺産」に指定されています。

 中国チベット高原からチョモランマ(エベレスト)山の方向を見上げれば7000m8000m級が連なっていますから、それに比べれば標高はそれほどではないように思えます。
 しかし、ほぼ海抜0mの大平原の中に立つ1545mは、平原の人々の尊敬の念を集めるにふさわしい偉容を示しています。

 泰山は、道教の聖地である五つの山(=五岳)のひとつとして、崇敬の対象となってきました。
 南岳の衡山、西岳の華山、北岳の恒山、中岳の嵩山を合わせた「五岳」のなかで、東岳の泰山は、「天下第一の山」と呼ばれ、五岳筆頭の山とされています。

 漢の武帝が泰山を見て、「壮大、崇高、壮観、絶景、圧巻、降参!」と叫んだという伝説があるのもうなずける、五岳独尊、五岳の中でもっとも尊い山とされるのが泰山です。
 泰山の中には、武帝が建てたと伝えられる、無字碑という碑面が無地の碑文や、摩崖碑と呼ばれる玄宗皇帝が彫らせた封禅の碑文をはじめ、各時代の皇帝がたてた碑が数多く残されています。

 中国大平原に覇をもとめて疾駆した覇者たちにとって、覇権を得たのち、自らの権力を実感するために必要だったこと。「高いところから自分の権力の及ぶ土地をながめ、山の神の力を身に帯びること」
 はじめて中国全土統一を成し遂げた秦の始皇帝も、紀元前219年、中国統一を成し遂げると泰山に詣でました。以来、清朝の皇帝まで、皇帝就任の儀礼が泰山で行われたのです。
 「泰山安んずれば、四海皆安泰」といわれ、古来から、歴代皇帝たちは、この泰山で皇帝就任の儀式「封禅の儀」を行ってきました

孔子も泰山に詣でました。
 「登泰山而小天下(高い泰山に登れば世界が小さく見えるの意)」という名句を残し、現在、泰山一天門前には「孔子登臨処」の記念碑があります。

 信仰の山として、泰山は、東嶽大帝(泰山府君)と碧霞元君(泰山娘娘)を祭っています。
 宋代からあと、出産にご利益がある碧霞元君の人気が上がりはじめ、麓の東嶽大帝より、山頂にある碧霞元君への参詣が盛んになりました。
 子孫繁栄を願うのは、現代の中国の人も同じこと。ご利益求めて善男善女、山頂をめざします。

 日本で「一生に一度は富士山に登ってみたい」と、言われるように、中国の人々は「一生に一度は泰山に登りたい」と願っているそうで、登山熱は高まる一方です。

 私が登った5月3日も、ラッシュアワーかと思うほど、ぎっしりと人があふれていました。
 さて、「登山」というと、どんな光景を思い浮かべますか。

 中国語と日本語、単語は同じでも意味が異なることば、たとえば、「手紙」は日本語では「文章を通信のために書いたもの」中国語では、「トイレットペーパー」。「汽車」は、日本語では「蒸気機関車を先頭にした列車」。中国語では「自動車」
 このように、はっきり意味がことなる単語なら、中国語と日本語は同じ漢字を使っていても、違うのだ、と認識できます。

 しかし「登山」は、日本語でも中国語でも「山に登ること」
 まったく同じことばだと思っていました。しかし、実際に中国の山に登ってみて、人々がイメージする「登山」がこれほど違うのだと、はじめてわかりました。 
 
http://www.arachina.com/heritage/taishan/index.htm

<つづく>
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2007年05月12日


ニーハオ春庭「泰山登山は階段登り」
2007/05/12 土
ニーハオ春庭中国通信>泰山登山は階段登り

 5月3日。薄曇りで、直射日光にさらされることもなく、登山には最適な天気。
7時朝食、8時に済南のホテルを出発。9時に泰安市着。
 麓の登山口、一天門から登ってみたかったのですが、山の中腹にある中天門行きのバス乗り場のほうへ連れて行かれました。ツアー客は自由がきかない。

 バスで中天門まで、山道を登っていきます。
 この山道、私には群馬や長野の山で見慣れた光景です。
 でも、6時間走っても7時間走ってもただ平原が続く土地からやってきた客には、「いろは坂」のようなくねくね曲がる山道を登っていくのは、ジェットコースターに乗っているような、非日常の光景に見えるのだろうと思います。

 バスを中天門で降りたあとは、ひたすら石段を登っていくことになります。
 同行のジョウさん(22歳の女子大生)が教えてくれたこと。
 「中国の山は、全部が石でできています。中国で登山というのは、この泰山と同じように、石の階段を登っていくことです」

 別ルートで、山頂までロープウェイが往復しています。
 上りは自分の足で行き、下りは疲れるだろうからロープウェイを利用する。こんな計画で登りはじめました。

 11時、階段登りスタート。山のほうに合わせた階段だから、人間工学を無視していて、急勾配が続いたり、一段一段の高さがちがっていたり、石段の幅が違っていたり、疲れることおびただしい。

 ふもとの登山口一天門から山頂まで、全6293段の階段があります。
 一天門から中天門までで半分終わり、中天門から頂上の南天門まで、残り3000段ほどになっているはずですが、登るにつれ足があがらなくなってきました。

 泰山山頂をめざす善男善女、私より白髪しわしわのおじいさんおばあさんもいるからとがんばって登り続けたのですが、おっと、しまった、この素朴な顔つきのじいちゃんばあちゃんたち、白髪だからと侮ってはいけない。農村のじいちゃんばあちゃんは、「ちょっとそこまで」と出かけて、10キロさき20キロ先まで歩くなんぞ朝飯前の人々だった。

 私、歩くことは嫌いじゃないけれど、階段は大嫌い。2階へ行くにもエスカレーターエレベーターを利用したくなる私には、石段登山はちょっと無謀でした。

 周囲の人たち、もくもくと階段を登っていきます。じゃれながら登る若い二人連れ、にぎやかに食べながら話しながら上っていく家族連れ。

 息子が親孝行として泰山登山に老母を連れてきたとおぼしき二人連れ。息子の指示で老母がポーズを取り、息子は一生懸命シャッターを押している。
 母親は、こうして有名な泰山に登れて土産話ができたこと以上に、息子が電車代やらカメラ代やら払える余裕ができて、親孝行してくれることがうれしいのでしょう。しわしわの顔いっぱいの笑顔。

 天をいただく山頂まで、階段が果てしなく続いています。
 中国の「登山」とは、はてもなくきりもなく、ひたすら階段を登り続けることだった。
 日本の「登山」を思い描いて、山道を登るつもりだった私、「登山」のイメージがまったく異なることを知りました。

http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards332.html

<つづく>
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2007年05月14日


ニーハオ春庭「東京タワーに10回のぼって泰山登山」
2007/05/14 月
ニーハオ春庭中国通信>東京タワーに10回のぼって泰山登山

 休み休み登っていきましたが、山頂まであと1時間という対松亭まできました。
 小休憩のあと、ジョウさんが、「あと山頂まで1時間くらいでつきます。山頂の南天門からロープウェイで降りることができます。
 でも、ロープウェイは、今日はとても混んでいて、1時間くらい待つかもしれない。そうすると集合時間の15時に間に合わなくなります。登るのも1時間。さっきの中天門まで下って戻るのも1時間」と、いいます。

 中天門から1時間半、階段を登り続けて、12時半になっています。
 せっかく来たのだから、山頂をめざしたい。でも、間に合わなくなったら、同行ツアー客に迷惑をかけてしまうことになる。さて、どうしよう。
 足もあがらなくなってきたし、あきらめるか。
 山頂まであと千段の階段。

 私は、若い頃、土日ごとに群馬県長野県の山に登って休日をすごした、「山女」でしたから、1545mの山を登るということにそれほど心配はしていませんでした。
 でも、それは、日本のように土でできている山の、斜面にそってくねくねとつづく山道や、尾根伝いの登山道を登ることを想像してのことでした。

 ほとんどが火山の噴火によって成立し、土が堆積している日本の山と、全山が石でできている中国平原の中の山。山の質が違っていました。

 「中国の登山とは、石の階段をひたすら上っていくこと」だということ、一歩一歩ふみしめながら登っていきました。

http://www.chn-consulate-fukuoka.or.jp/jpn/zgbk/sjwhyc/t64523.htm

 ふもとから山頂までひたすら石の階段、階段、、坂道、また階段、、、、、。6293段の階段。
 6293段を登るのに、およそ6~7時間。
 
 ちなみに、東京タワー(333m)の展望台223mまでを階段で登ると約600段。15分くらいで展望台まで上れるそうです。しかし、東京タワーを10回のぼっても、泰山山頂には届かない。
 また、階段の幅や高さがそろっていて、登りやすく設計されている東京タワーの階段と、高さも幅もばらばらな山の石段を登るのでは、疲れ方がちがいます。

 しかも、登りもくだりもびっしりラッシュアワーなみに人が混みあって登り、だれかがこけたら、ドミノ倒しがおきそうな様相。

 私が登り始めた中天門からだと、2000段くらいは登ったことになるのですが、あと1000段は、とても足が持ちそうにありませんでした。膝がガクガク。

 人が1時間ほどで登るという千段の階段を、2時間くらいかけて、ゆっくり休み休み登っていけば、山頂までいけるでしょう。

 しかし、この人出から予想すると、下りロープウェイに乗るのに、かなり長い列ができていて並ばなければならない。これを考えると、ゆっくりとは登っていられません。無理がきく年齢じゃありませんから、涙をのんであきらめることにしました。

<つづく>
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2007年05月15日


ニーハオ春庭「泰山登山修行中」
2007/05/15 火
ニーハオ春庭中国通信>泰山登山修行中バス待機2時間半も修行のひとつ

 山頂に立つことをあきらめて下っていくと、ツアー同行者の何人かとすれ違いました。予定通りに山頂を目指すというのです。
 「えっ、大丈夫なの?間に合わなくなるよ」
 「下りはロープウェイにするから、だいじょうぶ」

 そのロープウェイに乗るのに、このように混みこみの日は、東京ディズニーランドなみに60分待ち、90分待ちになるのではないかと予想して、集合時間に間に合わないからとあきらめることにしたのに、、、、、、
 彼らは悠々登っていきました。

 集合時間は15時。
 15時15分前、一番先に私とジョウさんが戻りました。他の客もバラバラと戻ってきました。全員がそろうまで、ツアーバスの中で待機。

 それから、、、、、。山頂をめざした人たちが戻るまで、延々2時間半、バスのなかで待たされたのです。
 15時の集合時間から、待つこと2時間半。17時半に、全員が戻りました。

 遅れた人たち、悪びれもせず戻ってきて、待っていた他の客に何のことばもなく、山頂登頂を果たした満足そうな顔で座席におさまりました。

 自分たちがツアーの当初の目的である泰山山頂をめざしたのは、当然のことである。予定通り山頂をめざしただけのことであり、下りのロープウェイが混んでいて待たされたのは、自分たちのせいではない。
 混んでいて待たされたのが自分たちの責任ではない以上、何の落ち度もなく、「すみません」などと言う必要はない、これが中国式の考え方。

 中国語で「対不起トイブチー」というのは、辞書には「Excuse me」「すみません」となっていますが、日本語の「すみません」と意味が異なります。
 「全面的に私が悪いことを認め、弁償もいたします」という意味になるので、やたらに使ってはいけない、と教えられてはいたのですが、、、、

 利害関係が発生していないとき、たとえば肩先がちょっと触れた、というような時は「対不起」と言ってもよいが、利害関係が発生しそうなときは、決して「対不起」と言ってはいけない。
 人混みで隣の人の靴を踏んづけて「対不起」と言ったら、靴磨き代と足の治療代を請求された、とか、、、、

 こんなとき、ひとこと「遅れてすみません」と言える日本式謝罪文化との違いを実感しました。
 添乗員の説明もいっさいなかった。

 バスの中で待っている間、ちょこっと昼寝もしたし、中国日本の「謝罪」意識の違いもわかったし。
 待たされたことに他の客は文句を言っていないのに、ツアー中たったひとりの日本人が文句言ったら角も立つだろうと、立った腹を寝かせました。なんといっても、中国語で文句言えないし、、、、。

 「待たされた他の客は、ほんとに腹を立てていないのか」と聞いたら、ジョウさんは「中国では、1時間2時間待つことは、よくあることだけど、今回のことでは、みんなこっそり文句を言っています」とのことでしたけどね。

 子孫繁栄、子宝安産にご利益があるという山頂の碧霞元君にお参りできなかったのは残念でしたが、一応、「世界遺産の山、泰山に登った」ということにしておきたいと思います。

 ツアーの客たち、集合時間に遅れた人に表だって文句もいわないようにして、皆なごやかに仲良くすごすようしていました。適度な距離を保ちつつ、旅行の間は「つかのまの仲間」として、いっしょにトランプしたり、おやつを分け合ったり。

 ツアー参加者の中で、最年長(おそらく)の私は、最年少の5歳くらいの坊やと仲良しになり、「じゃんけん」をして遊びました。坊やは「勝った!負けた!」と楽しそうでした。

 2時間半の待ち時間には参ったけれど、無念無想で待つのも、禅だか儒教だか道教だかの修行のひとつと思えば、全体としては楽しい旅になった「山東省世界遺産ツアー」でした。

<山東省世界遺産の旅おわり>



2007/05/17 木
ニーハオ春庭中国通信>中国語のセンセイ

 私は「日本の大学院博士課程で研究する中国の大学教師たち」の日本語教育を担当しています。
 このコースは、大学とは別組織で、中国教育部(日本の文部科学省にあたる)直属の組織です。いわば、文部科学省研修所みたいな部署。

 ですから、日頃は、大学の学部で日本語を学んでいる学生との交流はほとんどありません。
 唯一交流があるのは、学部日本語学科の学生のうち、6名を募集して、3月から中国で暮らす私たち日本人教師同僚6名が、ひとりひとり「中国語家庭教師」をお願いしていることです。

 今回は、日本語学専攻の大学院生ひとり、10月から大学院への進学がきまっている4年生ひとり、あと4人は学部3年生が決まりました。

 中国語を教えてもらう、ということで家庭教師代をお支払いしているのですが、実は、日本語学科学生にとっては、貴重な「日本語ネイティブの大人と話をする機会」ができることでもあります。

 私の場合、週1回90分という中国語練習の時間のうち、半分くらいは「日本語のおしゃべり」になっており、日本の古典文学について教えたり、日本の歴史や文化について話したり。

 他の先生方も「日本語文法の問題を解説してあげたら、今日は家庭教師代いりませんって学生が言うのだけど、まあ、そういうわけにもいかず、約束の金額は支払いました」なんて様子で、中国語と日本語の交換教授みたいになっています。

 中国の家庭教師。大学生が中学生や小学生の勉強をみてあげるときは、1時間10~15元(150~200円)程度の謝金です。
 私たちは、その3倍の1時間30元をお支払いすることにしています。

 大学新卒の初任給が1ヶ月1000~2000元(1万5千円~3万円)くらい。一日8時間の労働で月20日働くと、時給換算にすれば6~15元くらいのものですから、大学生のアルバイトとしては、1時間30元は高給になります。

 私は、中国物価に合わせて家庭教師代を支払うべきであり、学生のうちに標準より高い水準のお金を手に入れることは彼らのためにならない、と主張しましたが、日本の物価感覚で生活しようとする他の先生たちの「いやあ、1時間30元(450円)なんて、安いですよねぇ」という意見に押し切られました。
 なんだか私一人が「ケチ」という印象を残しただけで、「統一価格」に応じることになりました。

 日本語学科の学生たち「生の日本語」を話す機会があまりありません。キャンパス内には、中国語を学ぶために留学してきた日本人学生がいるので、若者同士の会話は日本人留学生とできます。しかし「日本の大人」と日常会話をする機会は、少ない。

 大学日本語学科には、日本人の先生もいますが、中国の学生は教師に対して「父母の恩にもまさる師の恩」的な接し方をしつけられているので、自分が教わっている日本人の教師とは、日本語学習の話はするけれど、「どこそこのラーメンがうまい」というような会話をすることはあまりありません。

 私たちにとっては、日本語を話せる人から中国語を個人教授してもらえる。日本語学科学生にとっては、「日本語を教えている日本人と、いろいろな話ができるチャンス」でもあります。

<つづく>

05:14 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2007年05月18日


ニーハオ春庭「母の日の香石竹」
2007/05/18
ニーハオ春庭中国通信>母の日の香石竹

 泰山登山に同行してもらった女子大生ジョウさん。日本語学科の3年生。私の「中国語家庭教師」です。
 中国式の「数え年」で22歳。満年齢では21歳、まだあどけなさが抜けない顔立ちの、かわいいお嬢さんです。

 私の宿舎のすぐ近くに両親の住む自宅があります。
 師範大学付属中学高校と進んできて、師範大学日本語学科に進学しました。
 外国語学部日本語学科は、本部キャンパスにあり、私が通勤する郊外の浄月キャンパスと別のところ。

 両親の家から大学まで歩いても20分くらいなのですから、日本なら自宅通学するところですが、勉学の時間確保のために、あえて大学内の寮に入っています。
「少しでも多く勉強の時間をふやしたい」というジョウさん、がんばりやさんです。

 寮の費用は、1年間で600元(9000円)、大学食堂での食費は一食5元(75円)。
 週末には自宅に帰りますが、親元にいるより、寮で友達と励まし合いながら勉強した方が能率がいいという、中国の学生。一生懸命勉学に励むようすがわかります。
 大学にはいってしまえば、勉強よりバイトや遊びの比重が増える日本の大学生に比べるとずいぶん違います。

 ジョウさんは、「本当は英語学科に進学したかったのだけれど、英語学科は一番人気で、私は成績が足りなかったから、第二希望の日本語学科になったんです」と正直に告白。

 東北地方は中国で一番日本語教育が盛んな地域で、日本語を学ぶ人が大勢いるため、日系企業へ就職するに際しても競争が激しくて、なかなか思い通りの就職はできない。
 日系企業に就職できたとき、日本語能力試験1級をとっている人といない人は、一ヶ月の給与が500元以上差がつくそうです。

 ジョウさんは、すでに去年日本語能力試験1級に合格しています。それで、最初の目標であった英語を学ぶために、土日には大学外のダブルスクールとして、英語学校へも通っている、といいます。

 はじめて会ったのは、市内に春の雪が降ったとき。女子学生というより高校生くらいに見えたので、え、これから中国語教えてもらうの大丈夫かな、と心配になったほどでした。
 1級に合格したといっても、中国の学生が往々にしてそうであるように、文法や語彙はしっかり学んでいるけれど、聴き取りと会話がまだ十分でない。

 私たち日本語教師は、初級中級の学習者と日本語で話すときは、学習レベルに合わせた語彙コントロール文型コントロールをして話します。学習者がまだ習っていないことは、言わないようにするのです。
 1級以上の上級、超上級になると、日本語母語話者と話すときとそれほど変わらない話し方にするのですが、ジョウさんは、最初、私の話し言葉を聞き取れないことがありました。

 これも、学習者がよく言うことですが、「話すときの日本語は、教科書の日本語とまったくちがいます」
 それでも、中国語話者の有利な点。筆談をすればたいていのことは通じる。
 筆談も交えながらの中国語練習がスタートしました。

 一ヶ月たって、お互いに気心もわかってきた今では、中国語練習と日本語おしゃべりが半々になっていますが、まあ、それでもいいのではないかと思っています。
 私の中国語はいっこうに上達しませんが、ジョウさんの日本語会話は、かなりよくなってきました。
 
 明日5月13日は母の日、という前日12日の夜、ジョウさんは香石竹(シャンシーツォー=カーネーション)の花束と、チーズケーキを宿舎にもってきてくれました。

 毎年母の日に作ってもらっていた、私の娘が手作りするチーズケーキ。世界で一番おいしいと思う、大好きな味です。
 けれど、今年は食べることができないので、ちょっと寂しい、と、何かのおしゃべりのついでに話したことを覚えていて、「味道85」というこのへんではちょっと高級なパン屋さんのチーズケーキを選んでくれたのです。

 「いつもいろいろ教えていただいているので、私の感謝の気持ちです」というメッセージもじょうずに言えました。
 お母さんへのプレゼントのついでだったかもしれないけれど、母の日に娘息子と離れて暮らす私を思いやって花束を届けてくれた気遣いを、とてもうれしく思いました。

 う~ん、これではますます、中国語会話練習より日本語会話練習が増えてしまうかも。
 
<おわり>



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ニーハオ春庭中国日記「2007年3月4月」

2011-09-18 11:32:00 | 日記
ニーハオ春庭「半皿餃子」
2007/03/24
ニーハオ春庭中国通信>半皿餃子

 中国、東北地方にやってきて、1週間。

 18日の夕方に着任して、ようやく休日になり、おちついてパソコンにむかえます。

 中国は、日本の60年代から現在までの発展の過程を、この十数年で駆け足で一気に発展したと聞いていましたが、ほんとうにそうです。

 13年前に半年暮らした同じ町ですが、町並みもすっかり変わり、浦島太郎気分です。
町は高層ビルが増え、車が激増しています。

 私が暮らす省都の町は、300万人都市の活気にあふれています。東京の23区にあたる中心の区部の人口は300万人ですが、郊外の区部以外も含めれば、人口600万人もの大都市です。

 地上3階地下1階の大型スーパーマーケットをひとめぐりすれば、たいていのものは手に入ります。
 人々の服装もおしゃれになって、若い娘たちは、「時装」のチェックをおこたりません。

 13年前は、政府幹部やトップビジネスマンだけが使っていた携帯電話を、町歩く人々が手にして、話をしています。

 ネット事情も、日本と変わりなく通信できるのですが、私の居室の通信速度はとても遅いので、ネットサーフィン閲覧だけで、書き込みや足跡つけをする余裕はありません。

 でも、手紙でも電話でも連絡がたいへんだった13年前に比べれば、快適に家族とも連絡がとれ、通信技術の発達のありがたさを実感しています。

 中国通信事情で、事前にきいていたことなのですが、ウィキペディアなど、「自由に情報を書き込んだり閲覧したりするサイトは見ることができない」というのは、ほんとうでした。

 「ガセネタ」まじりを承知のうえで、ちょっとした調べものに、ウィキペディアを重宝に利用していたので、「情報に制限がある」というのは、ちょっとショック。

 仕事は、想像以上にハードで、休日以外に日記書き込みをするのは無理みたい。
(というと、毎日更新していた日本での生活がよほど暇だったみたいですが、ま、気持ちの余裕の問題ということで)

 中華料理はもちろん美味しいですが、大盛りの皿でしか注文できないので、ひとりでふらりと食べ歩きしたい私には不便です。ひとりで行けるマクドナルドもケンタッキーもありますが、何も中国まできてハンバーガー食べなくてもいい、、、

 ひとりで入店し、水餃子を注文したとき「一皿か」と小姐(シャオジェ)が聞いてきたので、ためしに「半皿」と答えました。
 おおぶりの餃子が30個くらいでてきました。一皿にしなくてよかったです。
 日本で焼き餃子30個を15分で完食した記録を持つ私ですが、そんなに毎日30個完食するわけではなく、、、

 太りそうです。
10:59 コメント(16) 編集 ページのトップへ
2007年03月31日


ニーハオ春庭 ドアなしトイレは自由か不自由か
2007/03/31
ニーハオ春庭>ドアなしトイレは自由か不自由か

 日本では桜が満開なんでしょうね。
 こちらは昼は暖かくなってきて、川や池の氷が溶けてきました。しかし、日が落ちると、まだまだ冷えます。

 3月24日には、春の名物、黄砂が吹き荒れ、砂埃で息が苦しかった。
 25日には、春の淡雪。日本では「狐の嫁入り」という「日がさしているのに雨がふる」天気がありますが、この春の淡雪では、「日がさしているのに雪がふる」という現象をはじめてみました。「風花」とも違う雰囲気です。日が明るい中を、大きなぼた雪が降っていました。

 部屋のなかは集中暖房で、半袖シャツ一枚ですごせますが、外との温度差が大きいので、外出時には、まだダウンコートをきています。
 もっとも、私のような厚手ダウンコートはもう町ではみかけなくなっています。
 若い人は厚ぼったいコートなど早々と脱ぎ捨てて、春めいた服装になっているのですが、若くない私は、寒さ対策第一主義です。

 13年前と大きく変わった街のなかをあちこち見物したかったのですが、この1週間は、大学と専家楼(招待所=外国人専門家宿舎)をバスで往復するだけで、街歩きもできませんでした。

 以前と変わったことのひとつ、街の中心地の大通りの名前が、斯大林大街(スターリン大街)から人民大街に変わっていました。(その昔ラストエンペラーがいた頃は大同大街と呼ばれていた通りです)

 大通りは車がぎっしりです。
 トヨタと中国第一汽車集団公司の合弁会社が設立されている市なので、町中で見かける車はトヨタ系列が多いですが、外車も多いです。
 合弁会社では、プリウスとトヨタランドクルーザーを生産しているそうです。

 大きい工場がつぎつぎとできて雇用が増え、近隣の人々の生活がとても豊かになっていることが、スーパーの品揃えでもわかります。
 まだまだ農村全部が豊かになっているのではない中国ですが、町の人々の生活は、飛躍的に向上しています。

 同時に、水や空気の環境が悪くなったことを、皆が指摘します。
 ベンツやトヨタレクサスなどの高級車が我が物顔で往来する大通りのわきの路地で、ロバがひく荷車を見かけました。
 さすがに町中では少なくなっているのでしょうが、農村から野菜や果物を運ぶにはまだ現役で活躍しているロバも残っているようです。無公害のロバくん、がんばって!

 昔と変わっていないのが残っているんだなあと、感慨にふけったことのひとつが、ドアなしトイレ。
 スーパーのトイレ。入り口にはドアがありますが、個室のドアがありませんでした。
 掃除人兼用と思いますが、監視人がトイレのなかへの商品持ち込みに目をひからせています。

 スーパーでも、大型書店でも、入り口に手荷物預かり所があって、大型バッグは、ここに預けなければなりません。中型バッグは、大袋をわたされて中にしまわなければなりません。袋はパッチ止めされて、レジの精算がすむまであけられないようになっています。

 買い物のたびにバッグをいちいち袋にいれること、私たちには不自由にも思えますが、いつでもどこでも監視カメラにさらされている私たちのほうが、ほんとうは不自由な社会に生きているのでしょうね。

 パソコンやケータイの通信記録、クレジットでの買い物記録、健康保険利用記録など、すべての記録を一括管理されるなら、私たちは、生まれてから死ぬまでの一生をすべて記録され管理されるかもしれないのですから。

 私の住む招待所は、人民大街と自由大路の交差点近くです。(地図の縦方向に走るのが大街、横方向の通りは大路)
 自由大路を自由に闊歩できる社会がいいです。
 さて、週末の自由な街歩きに出かけくるとしましょうか。


2007/4/6
鉄鍋うどん高いか安いか

 4月4日、朝から一日中、雪が降ったりやんだりでした。
 あたり一面の雪景色。溶けかかった川の上に雪がかぶさり、白い帯が流れていくようでした。でも、さすがに4月、つもることはなく、翌朝には全部融けていました。
 つづいて東京でも雪になったというので、やっぱり天気は西から東へ移っていくんだなあと思いました。

 久しぶりの中国、変わったこと変わらないことたくさんある中、変わらないのは中華料理のおいしさです。
 変わったのは、街のなかにレストランが増えたこと、外食を楽しむ人が増えたこと。おいしいものを食べて食を楽しもうとする人が多くなりました。
 日本では中華料理というと、四川料理北京料理が代表的ですが、広い中国、各地の名物料理の店がいろいろあります。

 招待所の近所にもレストラン街ができ、さまざまな料理店があります。このあたりにたくさん住んでいる朝鮮族の名物、狗肉料理の店、ウィグル族(回族)のイスラム料理の店。
 そのほか、中国各地の料理、庶民の気軽な店あり、四つ星の喜来登大飯店(シェラトンホテル)レストランあり。(シェラトンにはまだ入ってみていませんが)

 4日の夜は、雪の中を歩いて、鍋うどんを食べに行って来ました。中国の南方、チベットやベトナム・カンボジアに近い雲南地方の名物だという鉄鍋うどん。
 うどんといっても、米の粉でつくるミィェンシン(米繊)という緬です。ビーフンより太くて、見た目はうどんです。

 客はまず、具を選んで注文します。雲南地方独特の野菜という酸菜(サンツァイ)という菜っぱや、うずらの卵、豆腐、もやしなど、うどんとセットの具のほかに、エビ、鶏肉、牛肉、海鮮団子などからお好みの具を選べます。一人前10元(約150円)だと1種類、15元だと2種類の具が選べます。

 汁は「清湯」「微辛」など、お好みの味を選びます。私は辛いのがだめだから、「清湯」で。よくだしがきいたスープです。
 日本の鍋焼きうどん一人前の大きさを想像していると、でてくる鉄鍋の大きさにびっくりします。

 待つことしばし。服務員(フームユェン)が、セットの具の皿と熱した鍋に熱々の汁をいれて運んできます。お好みの具は小皿に入っています。
 服務員が鍋に具をチャッチャと放り込み、さいごにミィェンシンをドボンと入れて、料理はできあがり。あとは客が自分でうどんと具をかきまぜます。かき混ぜているうちに、具が煮えてきます。テーブルではまったく火をつかわないのに、鍋の熱だけで、ほどよく具に火が通ります。

 ふたりで食べるなら、ひとつの鍋で、緬を二人前にすることもできます。40元(約600円)なら、緬二人前に7種類の具が入ります。友達同士、恋人同士でひとつの鍋からうどんをすくいあって食べられます。
 ふたりで食べて40元、さて、このうどんの値段は、高いか安いか。

 中国の物価、高いとも言えるし安いともいえます。
 ものの値段、衣服、靴、電化製品などは、日本の値段とそう変わりません。日本で3000円くらいのジーンズを買おうとすれば、こちらでも200元くらいの値段です。
 15万円のパソコンなら、1万元。

 安いのは、人件費と農産畜産物海産物などの食材。したがって、レストランでの外食は日本よりずっと安い。
 
 日本の社員食堂にあたるような、招待所食堂のランチ。日替わり6種類の中華おかずの中から3種類を選び、ご飯とスープ突き出し野菜がついて5元(75円)です。(大学学生食堂のランチは形式は同じで3元(45円))
 食生活だけを考えるなら、一ヶ月1万円あれば、外食だけでも十分においしいものが食べていける。

 人件費は、大学新卒初任月給が1000元(1万5千円)から2000元(3万円)ほど。
 したがって、大学新卒者が1万元のパソコンを買おうと思ったら、数ヶ月分は給料を貯めなければなりません。

 考え方にもよりますが、ふたりで食べて40元のうどんは、普段の食生活からみると、「プチ贅沢」なのかもしれません。
 雪の日にちょっと奮発して、ふたりであったかいもの食べるっていうには、ちょうどいいのかな。店はけっこう混んでいました。

 私も、また食べにいくつもりです。残念なのは、二人でいっしょにうどんをすすってあたたまりたい相手がいないってことですけど、ま、ひとりで熱々をすすります
08:06 コメント(8) 編集 ページのトップへ
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2007年04月08日


ニーハオ春庭「鑑真東渡」
2007/04/08 
中国テレビ事情>鑑真東渡

 東京都知事選、現職続投ですね。
 私の1票が無駄になったせいでもないだろうけれど、私としては東京を変えてほしかった。

 ネットやBSのおかげで、日本のニュースもリアルタイムで手に入ります。
 仕事場のテレビにはBSが入っているのですが、宿舎のテレビにはBSがなく、中国のテレビを見ています。
 ケーブルテレビと思いますが、1チャンネルから50チャンネルまであり、広い中国各地の放映を見ることができて、おもしろいです。

 「歌と踊り晩会」「中国語を話す外国人による芸能大会」の気軽なものから、ニュース、スポーツ中継、クイズ番組、料理、健康相談、映画、ドラマ、、、、

 チベット自治区に近い青海(チンハイ)省制作の歴史ドラマなど、字幕がなければ、他の地方の人にはことばがわからないと思います。青海地方の踊りの番組、女性たちは美しい民族衣装のスカートをはき、頭には座布団のような大きな頭巾をつけています。

 重慶テレビや四川省のテレビでは、繰り返し「西遊記」を放送しています。三蔵法師はふくよかな風貌の男性。孫悟空は猿そのものの顔、猪八戒は豚顔の特殊メークをしています。

 テレビ番組の発音を聞き取ることなんてまだまだ無理ですが、中国のドラマ放映や地方放送の場合、方言の差が大きいこともあり、中国語標準語の字幕が画面に出ます。中国語がわからなくても、字幕の文字を追っていけば、インタビューやドラマのせりふ内容がおおよそわかってきます。

 漢字文化圏とひとくくりにすることに批判もありますが、テレビを見ている限りでは漢字が表意文字であることのありがたさを実感しています。
 
 中国共産党中央宣伝部が、11日からの温家宝首相の日本訪問に合わせ、日本について積極的に報道するよう促す通達を国内報道機関に出した、ということで、日本関連の放映報道が多くなっています。

 今夜、4月8日夜の中央電視台は、1時間にわたって、安倍首相特集を放映。
 中国トップキャスターによるインタビューのほか、明治維新期からつづく山口県長州閥の歴史、安倍首相の祖父叔父、父親などの家系につながる山口県出身政治家紹介と安倍晋三生い立ちの紹介と、念入りでした。
 小泉前首相の靖国神社参拝の映像も流し、中国への配慮をまったくしなかった小泉氏に比べて、安倍首相が対中国関係を重視している姿勢を見せていることに、好意的な報道内容でした。 

 この「日本への理解を深めるための放映」の一環なのか、中央電視台TV1は、中日友好30周年記念ドラマ「鑑真東渡」を連続放映しています。

 中国で高僧としてあがめられていた鑑真が、日本からの要請を受け、あらゆる妨害や困難を乗り越えて日本の仏教発展のために一身を投げ出すようすを描いています。

 今夜の第十集は、中国の大事な宝である鑑真が、遠い日本へ出国してしまわないように、唐の国策として妨害するようすの続き。日本へいくのを思いとどまらせるために、軟禁状態になっている鑑真の周辺におこる出来事のいくつか。

 日本から遣唐使とともに渡唐し、在唐14年の留学僧も鑑真をとりまく人物のひとりです。唐から鑑真を連れ出そうとした罪により、迫害を受け瀕死の目にあうなど、苦難に耐えています。
 このあと、何度も難破の苦難に遭い、失明の悲劇に遭いながら日本へ到着するまでが放映されるでしょう。

 今のところ、出てくる人がお坊さんばかりで、派手な活劇や美人が画面にあまり出てこないので、中国では視聴率はあがらないのではないかと思いますが、鑑真を演じる俳優が慈愛深そうな風貌で、鑑真びいきの私としては、日本でも放映してほしいと思います。

 大唐国から荒波を乗り越えて日本渡海を果たした鑑真。

 昨今の日本と中国の間には、鑑真が渡った時以上の荒波が起こっていましたが、11日の温首相訪日が両国の間によい方向を開くことを願っています。


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2007年04月14日


ニーハオ春庭「中国テレビ事情続き」
2007/04/14
中国テレビ事情続き

 今日14日、午前中はテレビの「中日友好大型歌会・同一首歌 走迸日本」という歌番組を見てました。久しぶりに日本語の歌を聴きました。

 渋谷のNHKホールで開催されたということですが、日本での放映はあったのでしょうか。 こちらでは、温首相訪日にあわせての放映と思います。

 「千の風になって」を、作曲者である新井満が歌ったり、中国人歌手が中国語で「襟裳岬」や日本語で「さくらさくら」を歌ったり。日本の子供たちと中国4人組の若手共演の「そーらん節」などもありました。
 トリはジュディ・オング(翁倩玉)の「エーゲ海に捧ぐ」と、中国語の詞を書いてくれたというジュディの父親紹介のあと、中国語の「竹田の子守歌」。

 番組のあと、浜崎歩(あゆみを漢字で意味をとって表記している)、谷村新司、栗原小巻のコメントがありました。
 谷村新司は、04年3月に上海音楽学院 教授に就任、05年9月より常任教授となって中国で音楽教育に貢献しているので、日中友好というと、何かと名前がでてきます。

 「昴」は、「北国の春」と並んで、こちらのカラオケの定番で、「中国のオリジナルの歌」と思っている人も多い。日本語の歌詞があると聞いて、「中国語から日本語に翻訳されたのか」と、思っています。

 「日本のアニメとは知らずに、ずっと子供のころドラえもんやドラゴンボールを見ていた」という中国からの留学生が大勢いたので、中国のアニメチャンネルも、ときどき見ています。
 15チャンネルはアニメが中心の子供番組専門。
 15チャンネルで放映中の「ドラゴンボール」を見てちょっとびっくり。

 登場人物の名前が変えられているのは納得。ブルマとかピッコロってのも漢字で表記する。
 ブルマ、亀仙人、餃子、ピッコロなど、でてくるキャラクターは「ドラゴンボール」そのものだけれど、あれれ、微妙に顔や背景の絵柄が日本のアニメと違う。
 これって、日本のドラゴンボールを放映しているんじゃないなあ。中国制作の「そっくりパクリ版」なんじゃないの。
 キャラ設定やストーリーを使う権利を得て中国でアニメ制作しているのか、それとも「勝手にパクリ」なのかわからないのだけれど。
 鳥山明は、こういう形で「微妙にちがうドラゴンボール」が放映されていること、知っているのかなあ。

 現在、アニメ制作では世界有数の制作数を誇っている日本。でも、中国アニメは人件費の安さを武器に猛追してきています。中国アニメおそるべしです。
 中国アニメ制作の中心は上海だと聞いたけれど、マーケットとしても、アニメ制作産業の人材提供地としても、中国はこれから大きくなっていくことでしょう。

 ドラゴンボールの孫悟空ではなくて、西遊記の孫悟空。
 各地の放送局で繰り返し放映されている『西遊記』は、中国中央電視台が80年代に制作したもの。
 孫悟空を演じるのは、六小齢童。孫悟空役者として有名な人なんだそう。これ以上の孫悟空役者はありえない、という評価が高く、20年前の特撮が少々古めかしく感じられるようになっても、リメイクなどはされずに「原作に忠実に映像化され、中国文化の神髄を伝える」と評判の六小齢童子の悟空が繰り返し放送されています。

 日本では、1978年から80年にかけて制作された堺正章孫悟空と、昨年香取慎吾孫悟空の両方とも、三蔵法師は女優さんが演じました。これは、中国の人にとっては「原作を無視している。三蔵法師を女優が演じるなどあり得ない」と、評判が悪いのだって。
 だから、特殊効果などは最新の技術を投入した香取慎吾悟空の映画版「西遊記」も、この夏に完成したとしても、中国では上映放映されることはないみたい。

 テレビ番組、日本に比べて新旧東西の映画がやたらに多くて、週末のテレビ、ザッピングしていると50あるチャンネルのうち半分以上、映画の放映をしています。文革時代に作られたのかと思う「中国の独立万歳」みたいなのもあるし、派手なアクションものも恋愛ドラマ、涙を誘う「母もの」も。

 比較的新しい欧米映画の放映もあります。「悪しき西欧文化」を排除した上で、いろいろな制約をクリアして放映できる欧米映画、どんな内容なら放映が許可になるのか。
 輸入映画、音声は全部中国語吹き替えになって、その上に字幕が出ます。
 先週は、「グリム兄弟」をやっていました。字幕がなかったのですが、日本で見た映画なので、内容はわかるかと見ていましたが、やっぱり字幕がないと、グリム兄弟が話す中国語、よくわからなくて、おもしろくありませんでした。

 14日午後、「白色巨塔(白い巨塔)」を見ました。日本では評判だったのに放送時に見なかった私ですが、中国語吹き替えに字幕つきなので、ちょうど裁判をやっているシーンの回を見ました。石坂浩二演じる東貞蔵が頭を下げていました。
 次回の放送がいつなのかわかりません。連続ドラマ、日本のように「毎週火曜日」「毎日」というような1週間単位でプログラムが組まれる放送の仕方と異なっています。
 夜、一回55分のドラマを3話分続けて放送したり、同じドラマが各地の放送局で日にちをかえて繰り返して放映されたり。
 
 こんなふうに、週末もでかけずにテレビをかけっぱなしにしながら授業案作りをしています。
 こちらの乾燥したほこりっぽい空気にやられたのか、この1週間のどが赤くはれて痛いから、週末も外出もひかえてこもっているんです。
 ものを飲み込むのに、難儀していますが、ま、痛みをこらえながらもしっかり食べていますから、やせることはないでしょう。私の辞書に「痩せる」の文字はない。

 中国語でコカコーラは「可口可楽」と書きます。ダイエットコカコーラは「可口可痩(コカコーショウ)」楽しく口にして痩せるっていう意味になる。

 苦しくとも痛くても口にする私。
 「苦痛口不痩。
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2007年04月18日


ニーハオ春庭「未来へ」
2007/04/18
中国学芸会「未来へ」
 
 4月13日夜、勤務校で「学生主催の歓迎会」がありました。
 私が教えている人たちは「日本国文部科学省招聘留学生(日本国費留学生)」に選ばれた、中国各地の大学の若手教師たちです。
 大学院修士課程を修了し、大学で教師として働いている人の中から、優秀な人を厳選して文部科学省が奨学金を出します。
 留学後、日本の大学で博士号を取得することを目的としています。13億人の中から、最高頭脳の持ち主百人が選ばれて、すでに半年間の日本語学習を終えています。
 
 私は、文部科学省派遣講師として、彼らが日本で順調に研究生活をおくるための、基礎日本語を教えます。
 基礎教育終了後に、東大や東工大の先生たちが「専門日本語」を教えます。医学研究、情報処理研究、メディア研究など主として理科系を専攻する学生たちが、専門的な日本語を理解できるようになるまでを、11ヶ月(毎年10月から翌年の8月まで)で行うのです。

 たいへんなハードスケジュールです。
 英語を習う場合に置き換えて考えてみるとわかりやすいかも。ABCの書き方から習いはじめて、1年足らずの間に、英検2級に合格する、という集中プログラムに相当します。

 私がフランス語とかロシア語など、新しいことばを習い始めると考えてみると、11ヶ月で専門的な内容がわかるまでに上達しなさいと言われたら、たちまち挫折してしまいそうです。

 連日の過酷な学習を優秀な頭脳でこなしている学習者たち。書き取り、作文、会話の暗記など、宿題も毎日たっぷりでるし、毎晩遅くまで復習予習をしていると言います。

 そんな過酷な学習生活のなか、一晩のお楽しみ会が開催されました。
 5つのクラスがそれぞれに歌や踊りのだしものを披露しあって楽しむ歓迎学芸会、私たち日本人教師団の歓迎会をかねての、学生主催の会です。

 学生といっても、地元ではそれぞれが大学の教師なのですから、1週間の準備期間ですごい集中力を発揮して、それぞれのクラスがすばらしいだしものを用意しました。

 私が中国人先生とペアで担任になっている2組のだしものは、男性4人の日本語での「昴」合唱と、クラス全員18人に日中の先生を加えた20人での「花(中国では花心)」(喜納昌吉作詞作曲)の合唱。これは一番を中国語で、二番を日本語で歌いました。

 2組学生は、全員「♪花は流れてどこどこいくの~」と日本語の歌詞を暗記して歌詞の紙を見ずに歌ったのに比べて、私は中国語の歌詞をカンニングペーパーにカタカナで書いて歌いました。女性は手に一輪のバラを持って歌う演出だったので、カンペはバラに隠して持つことができ、助かりました。

 また、2組の有志によって、太極拳演武も披露されました。連日の練習成果をみせて、ゆるやかな中に力強い動きを見せる太極拳を上手に演じていました。
 学生たちに太極拳を教えてくださった鄭先生は、教職員にも教える機会を作ってくださるとのことだったので、私もこれから太極拳の練習をはじめたいと思っています。

 日本人教師団6名は、中国語の歌詞がつけられてカラオケ曲の定番になっている歌「未来へ」(女性デュオきろろのヒット曲)を歌いました。

 「未来へ」は中国語では「ホウライ后来」というタイトル。后来は、未来という意味ですが、日本語の歌詞でも「ほうら」と始まるので、音と意味を両方とも表しているいい訳と思います。

 私は歌詞カードに「♪ホウライ ウォツォンサンシュエ~」と、カタカナでふりがなをして、どう聞いても中国語には思われないだろうという発音でしたが、まあ、ご愛嬌。

 未来へ、そして后来へ向かって、日本へ学びに行こうとしている学生たちを励ます歌声になっていたらうれしいのですが。
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2007年04月21日


ニーハオ春庭「四つ足のものは机以外なんでも」
2007/04/21 土
「四つの足のものは机以外なんでも」 

 イスラム文化圏では豚肉を食べない、日本は馬は食べるのに犬は食べない、など、それぞれの文化園にさまざまな食に関する伝統があります。

 私は馬刺が好きなので、日本の教室で「日本では、馬肉を生で食べる」というと「ウェー、気持ち悪い」という反応を受けたりします。
 気持ち悪いと言った学生の国では、蟻や蜂の子、芋虫などの昆虫は貴重なタンパク源だったりしますが、自分の慣れた食材は「ごくふつうの食べ物」であり、食べ慣れていないものは「えっ、そんなもの食べるの?」ということになる。

 そんな世界の食材事情のなかで、中国は別格。
 「空飛ぶものは飛行機以外なんでも、四つの足のものは机以外なんでも食べる」というのが、中華料理です。
 スーパーの食材コーナーでも、広いスペースにあらゆるものが並べられているので、圧倒されます。
 地元のスーパーチェーン店「恒客隆超市」でも、繁華街にアメリカから進出してきた「沃尓王馬(ウォルマート)」でも、大勢のひとがワンサカと多様な食材を買い込んでいます。 町一番の繁華街重慶路にデンとかまえたウォルマート、13年前はありませんでしたが、にぎわっています。

 中国は広いですから、果物も豊富。東北で多く産するリンゴや梨、さんざし。、南方のマンゴー、バナナ、ドリアン、パイナップル。西方で多産されるスイカ。冬でも果物コーナーには大きなスイカが山積みになります。
 内陸地方の町ですが、冷凍空輸が発達した今では、エビも魚も貝もさまざまなものが売られています。

 豚肉コーナーでは、豚足コーナー、豚頭コーナー、豚耳コーナー、豚鼻コーナー。丸い穴がふたつあいた鼻が並んでいるコーナー、見ていると思わずひとつ買ってみたくなりますが、まだ食べたことありません。たいていイージン(一斤=500グラム)単位での売買で、そんなに豚の鼻ばかり山盛りに買う気になれないので。
 かりっと料理された鼻、おいしいという話ですが。
 お総菜コーナー、ほかにも、家鴨の頭がくちばしをこちらにむけて行儀よく並べられているし、鶏の足のお総菜も並んでいます。

 ウォルマートでペキンダックを買ってみました。味見程度で十分なのですが、一羽分か、半分での売買になります。アヒル一羽分だと30元。半分で18元(300円)くらい。
 日本の中華屋さんで食べるときは、ぱりっとした外側の皮を薄餅に包んで食べるだけですが、半羽分のまるごと、骨も頭も入っています。

 皮も肉もおいしかった。頭や骨の部分もきっとおいしく食べる方法があるのだろうけれど、私は半羽分を買ったものの、皮と肉の部分だけ食べて、骨とか頭はどうやって食べたらいいのかわかりませんでした。

 そのほか、これまで食べた食材のなかで、日本では食べないものをご紹介。

 1,狗肉
 犬肉は食用として特別に育てたものだそうです。
 でも、町を歩いている犬を見て、人々は「あいつはウマそう」って、考えたりすることないのかなあ。だって、私が水族館へ行ったとき、鰺や鰯の群が回遊している水槽前で一番に思うことは「おいしそう」ですから。

 朝鮮料理の店で、「狗肉湯」犬肉スープを頼みました。からいスープのほうに気をとられて食べたせいか、肉はくせもなく、おいしくいただきました。

 市場では、しっぽつき犬の下半身がまな板に横たわっていました。じっと見ていたら、包丁もったおばちゃんが「どの部分を買いたいのか」というようなことを聞いてきたのだけれど、「ブーヤオ不要」と、おことわり。さすがに自分で料理する気にはなれない。

 2,鶏のトサカ
 大学食堂のランチにあったので、食べてみました。柔らかく煮込んである。鶏は、トサカも足も大事な食材。一羽の鶏で、足は2本しかないし、トサカはひとつしかないのだから、肉よりも貴重。

 3,蛹
 スーパーの「おそうざいコーナー」に山盛りになっている天蚕のさなぎ。4~5センチくらいで、ひとつずつがたて半分に切ってある。
 名前は、「ジァン(草冠の下に虫)ヨン(蛹)jian yong」という。
 
 一度はどんなものか食べてみようと思っていたんだけど、1斤(500g)が標準の量り売りで、最小売買単位の2両(アーリャン100g)と言って買っても、食べられないと無駄になるかもと思っていたら、宴会の皿にあったので、ひとつつまんで食べてみました。
 唐揚げにしてあって、カリカリして美味しかった。
 
 それで、ゆうべ20日夜は、スーパーおそうざいコーナーで「1両(イーリャン=50グラム)でもいいか」と頼んでみました。一斤(500グラム)40元のさなぎ唐揚げ、他の豚肉や鶏肉のお総菜に比べて高級な食べ物です。
 50グラムといっても、軽い唐揚げなので、どんぶりいっぱい分くらい袋につめられました。4元(60円)。

 家に帰って袋をひらくと、さすがに、蛹のにおいがしました。私が子供のころ、農家だった母の実家が、まだ養蚕をしていたころに嗅いだ蚕のさなぎのにおいです。

 温めて食べたら、蛹っぽい匂いもなくなり、宴会で食べたのと同じで、かりっとしていて、中身は別段、虫っぽくもなく、酒のつまみによさそうでした。

 次は何を食べてみようかな。
 仕事しごとのハードスケジュールの毎日で、スーパーでの買い物のほか、土日も家にこもって翌週の準備。こんなはずじゃなかった、と、ぼやきながら、楽しみは食べることくらい。

 寒い日があったと思うと、春ももうすぐかと思う日差しの日もあります。街路の並木がようやくうっすらと芽吹きの薄緑を帯びてきました。
 こちらでは花も緑も5月から。あと少しで、いっせいに緑と花が見られると思います。 5月半ばには、もう半袖の夏支度。冬服と夏服だけで、春服はほどんど着る時期がない、という気候です。
 あまりに春が短いので、「もっと長い春を望む」という人々の気持ちから町の名前がつけられたのだとか。

 では、私も冬ごもりの蛹から、蝶になれる日を楽しみに。蛹を食べて羽化のパワーをもらった思うことにします。
11:05 コメント(12) 編集 ページのトップへ
2007年04月24日


ニーハオ春庭「一元バス」
2007/04/24 火
市内交通事情>一元バス
 
 赴日留学生に選ばれた学生たち、中国全土から集まってきています。去年の10月までは地元の大学で先生をしていた人たちですから、自分の大学や住んでいる町に強い愛着をもっていて、郷土自慢もなみなみならぬものがあります。

 先週の2分間スピーチで発表したリュウさんは、中国地質大学武漢校の先生。
 「我がキャンパスの桜は、中国で一番美しい」と自慢し、「我が校の有名な卒業生」として、日本訪問の成果をあげた温家宝首相をあげました。
 温首相の次に将来有名になるのは、学長になった未来のリュウさんだ、と言ってクラスメートを笑わせていましたが、本当に学長になるかもね。専攻は「高等教育運営学・大学財政学」どのようにして大学の財政を切り回し、大学を効率的に運営していくのか、日本で研究するそうです。

 2分間日本語で話す、という練習なのですが、パソコンであれこれ大学の写真をみせながら、10分くらい説明していました。
 日本語はまだまだ十分ではない学生でも、聞き手を前に説明を始めると、そこは日頃の仕事で慣れていることなので、止まらなくなってしまうみたい。

 暖かい地方から来ている学生にとって、はじめて体験した東北地方の寒さはなかなか厳しく、こたえたようですが、「ここに来て、はじめてたくさんの雪を見ました」と、北国での体験を積極的に楽しんでいるようすも語ってくれました。

 そんな学生たちが、一様にこの町のいいところとして認めているのが、乗り物料金の安さ。他のどの町と比べても、大幅に安いみたい。
 
 タクシーは初乗り5元(75円)。
 郊外にある勤務地と招待所の往復は、招待所専用の送迎ワゴンバスを利用しますが、仕事で遅くなったりして乗り遅れたときは、タクシーで30分、25元(375円)。

 30分も乗って400円足らずですむのだったら、毎日タクシーでもよさそう、なんて、最初は思いましたが、一食10元~20元あれば食べていける生活に慣れてきたら、タクシー25元はもったいないと感じるようになりました。送迎バスに乗り遅れないようにしています。

 市内公共バスの料金は、一律で一元(15円)。郊外まで行くバスは二元(30円)です。
 市内路線バス、370路線があり、乗り換えをすれば、市内どこでもバスで行けます。
 日本のこぎれいな真新しいバスに比べると、「これで目的地まで壊れずに動くのか」と思うくらい古いものもありますが、座席シートの汚れとかに目をつむるなら、1元で移動できることはありがたい。

 市内での買い物に、バスを利用して感心したことがあります。それは、車内にすわっている若者が、自分より年上の人や小さな子供連れの人が乗ってきたとき、さっと席を立って譲ってくれること。
 日本では、シルバーシートにさえ若者が足を投げ出して座り、席を譲る気などさらさらなさそうなのを見てきたので、ああ、こういうのも、社会習慣と教育によるんだなあと思います。
 昨今の中国では「悪しき拝金主義が横行してきた」と、よく聞かされてきたことですが、年上の人を敬い大事にするという習慣は、まだまだしっかり根付いているように思いました。

 そのほか、旧市街を一周する「軽軌電車」があります。
 スキーやスケート競技で盛り上がった今年2月の第6回アジア冬季競技大会の開催に備えて、昨年の12月に完成したばかりという新らしい鉄道。市内の競技場をつなぐ路線として開通しました。

 高架線路の上を、かわいらしいデザインの2両連結の電車が走っています。勤務しているキャンパスのすぐ近くにも、駅があります。
 今年8月までは、「開業記念、一律2元」の料金ですが、8月以後は距離に応じた料金体系になるそうです。2元のうちに乗ってみることにしましょう。
07:07 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2007年04月30日


ニーハオ春庭「一元旅行」
2007/04/30
ミステリーツアー・1元旅行

 宿舎のインターネットがまたまた不通になって1週間。
 毎日毎日「あした(明天ミンティェン)は直る」と言われ続けたのですが、ついに直らず、今日は職場のパソコンからの更新です。

 4月下旬、ようやく市内の花木が咲き出しました。ピンクや白の「花桃」。実はならず花を観賞する種類の桃だそうです。
 ああ、やっと春らしくなってきた、と思う間にも寒い日もあったりしながら、4月末日になると、昨日までは寒々とした裸木だった街路樹、ポプラや柳が、いっせいに萌え出しました。
 今朝の通勤ワゴンバスから見る街路樹は、初々しい若葉が枝を飾っています。

 北国もようやく春です。
 日本はゴールデンウィーク真っ最中、皆さん、おでかけを楽しんでいるところでしょうね。

 週末に遠出もできない「かごの鳥」状態で仕事をつづけてきましたが、買い物に出るついでに、バス停から「とにかく最初に来たバスにのって、終点までいってみる」という「プチおでかけ」をしています。
 新しい町で、どこに行くのかも知らないでバスに乗るのはけっこうドキドキで、ちょっとした「ミステリーツアー」の気分です。

 買い物に出たあと、いつもと違う道筋のバス停から、「どこへ行くのか知らないいバス」に乗り込みました。
 左側通行の中国、運転手席は左側、バス乗車口は車体の右側です。乗車ドアの前に料金投入箱があり、一元を入れます。バスカードを持っている人は、カードリーダーにタッチします。
 若者に譲ってもらった座席の窓から外を眺めながら、ドキドキしながらミステリーツアーの開始。

 紅旗街というこの町第二の繁華街を通りました。買い物帰りの大袋を下げた人々が乗ってきて、バスは満杯になりました。
 「紅旗」というのは、中国の要人が専用車にしていた「高級国産車」の名前です。かっては毛沢東や周恩来が、車の前部に五星紅旗をはためかせて「紅旗」に乗車していたものでした。

 紅旗を生産していたのは、「中国第一汽車製造廠」。
 最大規模の国営企業でしたが、解放改革後はかっての勢いをなくし、一時期は「旧弊な老朽会社」の代名詞のようになっていました。

 ところが、「国営企業」から脱却して、各国との合弁会社を設立すると、見事に息を吹き返しました。フォルクスワーゲンとの合弁会社、トヨタとの合弁会社などに分かれ、昔を上回る大企業に成長しています。略称「イーチー(一汽)」
中国語では、「汽車」は自動車という意味。「火車」が日本語の「汽車」にあたります。

 私だけのミステリーツアーバスは、この地方の医療拠点のひとつ「省人民医院」前を通過。
 大病院だけでなく、町のあちこちにやたらに病院が多い都市です。

 「電影城」前を通過。
 電影城は、映画の撮影所。13年前に一度見物したことがあります。
 戦前には、李香蘭たちが映画を撮影したところです。
 内部は、戦前とはもちろん、13年前とも変わってしまって、昔の面影はないでしょうが、もう一度見物してみようと思っています。 

 外国語学院前を通過すると、あとは10階建てくらいのアパートが続く住宅街になりました。停留所ごとに、乗客はぼつぼつと降りますが、ほとんどの客は下車しません。
 どこへ行くのかわからないけれど、こうして人が大勢いるってことは、それほど郊外まで遠出するバスでもないのでしょう。まあ、とにかく、皆が降りるところまでいってみましょう。

 寛平大路から東風大路へ進むと、あたりのようすが変わりました。このあたりは、第一汽車集団公司の拠点地、経済開発区のひとつです。
 大路の両側は、「第一汽車」設立の小中学校や医院、文化宮(文化センター)。
 会社がひとつの町を形成し、「企業城下町」になっている地帯です。
 愛知県の豊田市が「トヨタ企業城下町」となっているみたいな感じ。

 本社にあたるのか、立派な建物の門前には、毛沢東の筆で「ここに、第一汽車製造工場を設立する。毛沢東」と記された由来記念の石碑がありました。

 終点地は、この第一汽車集団公司の社宅地の中でした。
 毎月の月給で安定した現金収入がある社員たちは、週末になるとバスで繁華街まで出かけていって、デパートや大型スーパーでの買い物、映画やレストランでの外食を楽しんで帰るのでしょう。

 そのおかげで、町のレストランも繁盛し、レストランでの雇用も生まれます。
 先日、出かけたちょっと高級な海鮮レストランに「従業員募集」の掲示がでていました。「服務員、一ヶ月800元(1万2千円)」とあります。レストランの服務員で800元の月給は、高いほうです。そういった雇用も、大会社が地元にあることから生じてくるのでしょうね。

 朝陽区、南関区などの区部(東京の23区にあたる区域)で300万人、郊外の市域(東京の市部にあたる)を含めると700万人にもなるという大都市に発展したこの町の、経済原動力のひとつが、この「第一汽車」合弁会社。

 私の勤務校では、トヨタとの合弁会社で働く「優秀社員」の日本語教育も請け負っています。
 第一汽車の勤務が終わったあと、火・金の夜と土日に日本語の授業を受けている優秀社員に選ばれた人たち。将来会社を背負っていく社員として期待されての選抜なのでしょう。

 来年のオリンピックが中国発展のひとつの目安となっているように、第6回アジア冬季競技大会の開催を成功裏に終わらせた自信が、この町をさらに活気づけていくようです。
 経済発展がよい方向に向くだけではなく、環境問題、農村との格差問題など、さまざまな問題をはらんでいることは確かですが、経済発展と同時に公害問題などに苦しんだ日本ほかの先例を知り、解決策をさぐりながら最大多数の最大幸福をめざしてほしいです。

 ドキドキのミステリーバスツアー、次の路線では、どこへ向かうでしょうか。
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ニーハオ春庭中国日記「目次&出発」

2011-09-12 05:11:00 | 日記
目次

03/17 遠くへいきたい(1)出発(たびだち)は何度あってもいい
03/18 遠くへいきたい(2)行って来ます

03/24 半皿餃子
03/31 ドアなしトイレは自由か不自由か

04/06 鉄鍋うどん高いか安いか
04/08 鑑真東渡
04/14 中国テレビ事情続き
04/18 中国学芸会「未来へ」
04/21 四つの足のものは机以外なんでも
04/24 市内交通事情・1元バス
04/30 ミステリーツアー・1元旅行

05/05 イミテーションゴールデンウィーク
05/06 世界遺産めぐり国内ツアー、畑も野原も畑も野原も畑も、、、、
05/07 しのたまわく曲阜三孔
05/08 孔子の墓で温故知新
05/09 我、十有五にして学に志し、五十にして惑いっぱなし
05/11 世界遺産、霊峰泰山登山
05/12 泰山登山は階段登り
05/14 東京タワーに10回のぼって泰山登山
05/15 泰山登山修行中バス待機2時間半も修行のひとつ

05/17 中国語のセンセイ
05/18 母の日の香石竹

05/19 日本文化祭
05/20 コピークロサギ(海賊版天国について)
05/21 大足シンデレラ(美人の基準について)
05/22 七夕・天の川の鳥
05/23 背中に座布団日本舞踊(イメージの違いについて)

05/24 夏の雪、柳絮

05/25 偽満皇宮(ウェィマンファンゴン)見学・ラストエンペラー
05/27 我が名はエリザベス
05/28 廃后婉容
05/29 帝国の光と闇
05/30 帝国の闇、身ぐるみ脱いですってんてん
05/31 我不是台湾人

06/02 観光コースでない満州

06/03 牡丹アカシア君子蘭(1)
06/04 牡丹アカシア君子蘭(2)

06/05 揚琴、木琴、腹鼓

06/06 二十四式太極拳
06/07 太極拳練習
06/08 太極拳発表会
06/09 太極拳金賞

06/11 綱引き大会

06/13 般若寺と清真寺(1)
06/14 般若寺と清真寺(2)

06/18 朋あり遠方より大連へ
06/19 大連の大学キャンパス見学
06/20 大連で授業
06/21 大連の山と海
06/22 大連海鮮三昧
06/23 大連家庭料理
06/24 大連さくらんぼ
06/25 あんな夢こんな夢いっぱい
06/26 石臼と小公主(1)
06/27 石臼と小公主(2)
06/28 小公主と星に願いを(1)
06/29 小公主と星に願いを(2)
06/30 大連住宅事情

07/02 大連・星海広場の漢白玉華表
07/03 大連マラソン

07/04 1元バスツアー・見知らぬ村へ
07/05 1元バスツアー・村の広場
07/06 1元バスツアー・風呂屋に泊まる
07/09 1元バスツアー・あか抜けた宿泊

07/11 中国的村めぐり
07/12 鍋嶺村
07/13 村の食堂

07/14 伊通河の新立城水庫
07/15 満族の町の床屋
07/16 伊通のオート三輪タクシー

07/17 北朝鮮へ1メートル
07/18 朝鮮族の町、延吉市
07/19 延吉の夜、歌と踊り
07/20 延吉市の民俗園
07/21 延吉の民俗冷麺
07/24 延辺の村と延辺大学

07/26 中国的OFF会

07/27 お仕事完了 
07/28 植物園風レストランで合格祝賀会

07/29 動植物公園・東北虎とニセ縞馬
07/30 農安県合隆鎮
07/31 合隆鎮の旅店

08/01 合隆鎮の串焼き店「魏味佳」
08/03 合隆鎮の串焼き肉と饂飩
08/06 合隆鎮の中学生
08/07 麻辣麺と兎おいしかの山
08/08 中国的家族パーティ、シャンユェの一族
08/09 動物園で性転換して南湖公園
08/11 南湖公園
08/12 長影世紀城3Dムービー
08/13 長影世紀城ヒーローショウ
08/14 夏休みの思い出

08/15 ただいま!

08/16 こつこつ
08/16 帰国報告

08/17 大連でスリに遭遇(1)
08/18 大連でスリに遭遇(2)
08/19 大連でスリに遭遇(3)
08/20 善悪功罪勝敗陰陽、なんでもアリが「地球歩くコツ」

08/21 でこぼこ珍道中in西安
08/22 西安・鐘楼
08/23 西安・城壁
08/24 西安・書院門通り
08/25 西安・道教の寺
08/26 西安・道教寺院門前の青石
08/27 西安・華清池
08/28 西安・秦始皇帝陵
08/29 西安・司馬遷と始皇帝
08/31 西安・兵馬俑博物館

09/02 西安・公共トイレと足浴マッサージ
09/03 西安・おみやげいっぱい
09/04 大連賓館スィート宿泊&ひとり75円の夕食
09/05 大連老虎極地海洋動物館の座席
09/06 大連老虎極地海洋動物館の白鯨ショウ

09/14 北京南苑空港
09/15 北京の鼓楼
09/16 鼓楼近辺・浦安ラーメン
09/17 北京故同めぐり
09/18 北京故同・共同井戸と共同厠所
09/19 北京故同めぐり・四合院
09/20 北京故同めぐり・千竿五号
09/21 「千竿五号 明清老宅」日本語解説(1)
09/22 「千竿五号 明清老宅」日本語解説(2)
09/23 「千竿五号 明清老宅」日本語解説(3)
09/24 四合院・宋慶齢故居
09/25 宋慶齢の和服
09/26 宋家の三姉妹
09/27 青い葡萄・ふたりのファーストレディ
09/28 夜の故同
09/29 再見中国、打ち上げ花火横から見るか裏から見るか

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2007/03/17 土
やちまた日記>遠くへ行きたい(1)出発(たびだち)は何度あってもいい

 人生という旅、細い曲がりくねった道を、迷いながら行きつ戻りつしながら、とぼとぼと歩き続けています。
 ときどき、「ああ、毎日の生活をぜんぶほうり出して、どこか遠くへ行きたいなあ」という気になります。

 そんなとき、JRの旅番組の主題歌『遠くへいきたい』がふと口をついてでてきます。
 ♪知らない町を歩いてみたい ど~こか遠くへい~きいたあい♪

 映画『旅の贈り物0:00発』の感想文を、「春庭映画いろいろあらーな2007」にUPしました。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/eiga0701a.htm

 週末やゴールデンウィーク夏休みに、人々はつかの間の「遠くへいきたい」願望を満たしに旅に出ます。
 二泊三日の温泉旅行もいいし、1週間の休暇がとれるなら海外へも行ってみたい。
 私も、人並みに「この細々とした日常生活を全部振り落として、ちがう場所で生活してみたい」と、思います。

 思っているけれど、子供のご飯を作り、茶碗をあらい、洗濯物ほして、あっという間に一日はおわり、一週間はすぎ、一年がたってしまう。
 どこへも出かけられないまま、「どこか出かけてみたなあ」と、地図帳を広げます。

 今、私のお気に入りは、昭文社発行の『なるほど知図帳・日本2007』です。大判の地図なので、片手にもって旅行に持って行くには不向きな地図ですが、家でながめているだけで、日本中を知った気分になれるテーマページが充実しています。

 「なるほど知図帳」の奥付に夫の会社の名があります。
 「知図帳2007」をめくれば、息子が校正の仕事を手伝ったページがあります。「テーマ特集」の大半、息子が校正を手伝いました。

 息子は、地理歴史に関して親よりも知識を持っているので、校正にかり出されたのです。
 去年の夏休み、夫の事務所に通って、校正を続けました。アルバイト代はすずめの涙だったようですが。

 「このページ、まちがいだらけで、校正するの、ほんとたいへんだったんだ」と、息子が示すテーマページを開くのは、母にとって、旅行したのと同じくらいワクワクする気分です。

 たとえば、「日本のローカル線」を特集したページや「温泉100選」のページ、「地野菜」「地酒」の特集、「各地の特徴ある動物園・水族館」「絶滅危惧動物」、「鍾乳洞」「日本各地で発掘された恐竜化石」などのページをみていくと、そんなテーマに沿った旅もいいなあ、と思えます。

<つづく>
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2007年03月18日


ぽかぽか春庭「行ってきます」
2007/03/18 日
やちまた日記>遠くへ行きたい(2)行ってきます

 気分だけでなく、ほんとにどこかへ出かけたいと思っても、「えいやっ」と踏ん切りをつけない限り、仕事を持つ母親が「今とは違う場所で生活する」なんていう機会には、めぐり会えません。

 私も、仕事して、家に帰れば、あけてもくれてもメシをつくり、茶碗を洗い、洗濯して、、、、
 で、「えいやっ」と、踏ん切りをつけてしまいました。
 3月から8月まで、中国で生活します。二度目の海外単身赴任です。

 前回の海外単身赴任では、4歳の息子と9歳の娘を妹一家に託して、背水の陣で家計負担のために出稼ぎをしました。
 今回は息子18歳娘24歳になっているのですから、それぞれが自分の身の振り方はなんとでもするだろうとは思うのですが、、、、。

 13年前と変わらないのは、出稼ぎの理由です。年中「父さんは倒産しそう」の会社経営を続ける夫はあてにせず、家計を支えなければならないってこと。
 夫は「趣味の会社経営」で、妻は「食いブチ稼ぎの出稼ぎ」です。

 後顧のうれいなく単身赴任を選んだわけではありません。
 我が家、娘も息子も、まだ一人前になっていない状態です。
 またまた「きちんと自立するまで子供を育て上げない失格母親」「未成年の子供の世話もしないで、なんていう母親だろう」という非難を受けるかもしれません。

 息子も4月からは大学生。まだ未成年。とはいえ、18歳で親元を離れて暮らす人は大勢いるのですから、母親が毎日ごはん作ってやらなくても、自分でなんとか命つなぐくらいはするだろうとは思ういます。
 でも、うちの場合、起こされて、ごはんを作ってもらい、「ほれほれ」と尻をたたかれない限り、相変わらずのゲーム三昧歴史オタクをつづけるのでしょう。

 「甘やかすな」という非難囂々ふりかかろうとも、仕方ありません。私の育て方がわるうございます。
 私は、「きちんと自立へ向かうように育てなかった母親」ということになるのでしょうね。

 人はそれぞれ。とはいっても、「母親」のありかたをめぐって、厳しい意見を持つ人もいます。成人した子供が何か問題を起こしたのでさえ、母親の育て方に目をむけられます。ちょっとでも人と違う面があれば、ワイドショウコメンテーターはマナジリけっして母親を糾弾する。
 ましてや未成年の子供、きちんと生活できるように育てあげずに、単身赴任していいのか、一人で仕事にでかけても大丈夫か、ずいぶん悩みました。

 結論として。
 私は、とにかく遠くへいきます。家を離れて働いてきます。

 子供が自立して出ていくのを、笑顔で見送るのでなく、まだまだ自立できないでいる娘と息子を家に残して、母親が出稼ぎに行ってしまう家庭、きっといろんな非難がまっているのだろうなあ、と思いつつ、でも、決めました。

 本日、中国へ出発です。
 中国での単身赴任半年の間、更新不定期となります。

 更新できない期間が長くなることもあると思いますが、ご容赦ください。
 では、中国からの更新がうまくいくよう祈りつつ。
 みなさま、お元気で楽しいネットライフをお続け下さい。

<遠くへいきたい おわり>
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2011/08/27

2011-08-27 11:37:00 | 日記
2011/08/27
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2011/08/17

2011-08-17 08:36:00 | 日記
2011/08/07
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ニーハオ春庭中国日記「大連再々」

2011-07-29 08:16:00 | 日記
2009/08/31
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>大連再び (1)チェンジ!したい

 8月26日大連空港から帰国。
 大連空港の手荷物検査で、今度は電池とお粥缶がひっかかりました。水などのペットボトルは持ち込み禁止と知っていたのですが、お粥も?電池は六個入りのを2パックもっていたら、没収されました。なんで?係り官は「あなたの安全のために」とか日本語で言っていました。大連空港は日本人客が多いので、日本語を話せる人が受け付けにも安全検査のところにもいます。それにしても、毎回毎回、何かしら没収される。ちょっとは学びなさい、というところ。トホホ。

 帰りのフライト、大連空港は雨でしたが、日本海上空では晴れてきたので、窓側の席に移動。日本列島上空の飛行で、はじめて、空から富士山を見ました。これまで何度飛行機に乗っても、天気が悪かったり位置が富士山側の窓ではなかったりして、雲の上に頭を出す富士山を見たことがなかったのです。雲海の上に富士の姿が出ています。
 ♪頭を雲の上に出し~
 初めて見る雲上の富士、これは帰国したら何かいいことあるかな?と、思ったのですが、そう甘い富士山じゃない。

 前回7月に帰宅したあと、夫は「おかえり」でも「おつかれさん」でもなく、顔みるなり「会社の運転資金が不足。10万、ちょっとだけ貸しておいて」と、言いました。出稼ぎして家族の食い扶持をやっと稼いできたのに、それすらもはぎ取ろうとする。娘は「貸してって言っても、返してこないのだから、父にお金渡すのやめたら」と言うし、妹からは「夫を甘やかしすぎた」と、毎度非難囂々だけど、、、、。夫の「会社経営道楽」のために、私、今までどれだけ苦労してきたか、、、、、、。ギャンブル狂いやら女道楽よりマシと思ってきたのだけれど。

 いつも「忙しい」しか言わない夫。私が8月26日に帰国した夜、珍しく家族4人で外食することになりました。どこが珍しいかというと、「夫・娘・息子」の3人の外食と、「夫・姑・私・娘・息子」の5人の外食はあるのに、「夫・私・娘・息子」という4人での外出はめったにないので。

 近所の和食店で夕食をとり、さて、妻が出稼ぎした「10万、ちょっとだけ借りた」分を返すのかと思いきや「お金がないから、夕食代はそっちが支払って」という。帰国お疲れさん会の夕食は、働いて帰ってきた私のおごりになりました。
 こういう夫だっていうこと、1979年にケニアで出会って以来、わかっていたはずなのですが、、、、、トホホ。お粥の没収以上に、一生の不覚。ナイロビの町で出会ってから今年は30周年。娘は「こんな父といっしょになった母が不憫だ」と言うのです。

 まあ、無事に帰宅できたのですから、文句は言うまい。4回目、二週間の中国滞在、シンポジウムでの発表も大成功、長白山ツアーもシャンユエと遊んだのも楽しかったし。
 ショーモナイ夫がひっついている人生であっても、楽しく生きていられるのだから、よしとしましょう。、、、、。
 
 不憫な私、帰国してさっそく仕事。前期に中国へ行っていた間の授業を穴埋めしなければなりません。9月1日から、集中講義の第1陣。日本人学部生への日本語学の授業を2単位分、一日4コマ4日間続け、9月15日からは一日4コマ6日間、日本語教育学の講義4単位分を続けます。
 働き者やねぇ。そしてお金は残らない、、、、、、不憫です。
 政権担当の党は国民の意思で「チェンジ!」できるけれど、チェンジしようにもヒョータン社長のほか、私の夫に立候補する人がいなかったので、、、、チェンジしたいですが、、、、トホホ。不憫です。

<つづく>


2009/09/01
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>大連再び(2)大連観光塔

 帰国は、大連発成田行きの飛行機でした。8月25日、同僚のリグン先生に車で宿舎から空港へ送ってもらい、中国国内便で大連へ。

 手荷物検査でひっかかり、ハサミが没収されました。ああ、いつもの失敗。大連に着いたとき、すぐ使えるように、ハサミと栓抜きを手荷物のほうに入れておいた。ハサミは開けにくい中国の袋入りの食べ物を開封するために必要。日本のように、袋に切り口がついていないので、ハサミがないととても開けにくい。歯で切って開けるはめになる。栓抜きは、まあ、栓を抜くために必要です。結局、栓を抜く必要のある飲み物は飲まなかったのですが。

 大連では、友人ハンさんの教え子が迎えてくれました。ハン先生は、一人娘のシンシンちゃんのダンス・コンテストが一泊二日で行われるため、見送りができないからと、教え子を紹介してくれたのです。教え子の田くんは、1988年生まれで、私の息子と同い年。ハンさんが教鞭をとる軟件学院(ソフトウエア学部)学生で、9月から三年生です。

 ソフトウエア学部では、一年生は日本語、二年生は英語を学びます。彼は一年生のときハン先生から日本語を習いました。今は英語学習をしているので、一年間ならった日本語を忘れかけているから、日本人と日本語を話すチャンスは自分にとってとてもありがたいと、ボランティアを引き受けてくれたのでした。

 彼の所属するソフトウエア学部は、全国の大学の中でも難関学部のひとつで、中国各地から優秀な学生が入学してきています。大連出身者で「大連にある重点大学の難関学部」に入学している人は数少ないので、田くんに「日本人ご案内」の役があたりました。
 「私は、情報の授業やプログラミングの成績はよかったですが、日本語の成績は悪かった」と、言いながらも忘れた言葉をいっしょうけんめい辞書をひきひき案内してくれました。

 ホテルに荷物を置いたあと、市内の高台にある観光塔へ登りました。高いところから市街を眺めるのが好きだと私が話していたので、ハンさんが、田さんにガイドを申しつけていたのです。田さんは「大連で生まれて大連で育って、今も大連に家があるのですが、観光塔に登ったことはありませんでした」と話していました。「観光客は登るけれど、東京人はあまり登らない東京タワー」みたいなもんでしょう。入場券はひとり50元。

 大連市の中心部にある労働公園の南側の小高い山の頂上に塔が建っています。元はテレビ塔だったのですが、今は新しいテレビ塔が建ったので、こちらは観光用になっています。登って、ぐるりと一周して市街を眺め、1元コインを入れて望遠鏡を眺めるともうすることもないので、30分もしないで、「さあ、降りましょう」となる。観光塔は、塔のてっぺんは東京タワーより高いですが、展望室は288m。
 展望室の土産物やでシルク製品を売っていたので、ネクタイをひとつ買いました。ハンさんから「学生は日本語の勉強のために案内するのだから、ボランティア」と言われていたので、お礼を現金であげる代わりに、ネクタイを買い、「お父さんへのおみやげ」ということにしました。

 塔の前から、労働公園へ降りるリフトに乗りました。一人40元。リフトで降りるほか、ロング滑り台もありました。
 タワーの写真を紹介している「看看大連」
http://www.kankandl.net/dwkanm-tv.htm
 
 労働公園をぶらぶら散歩。田さんは、子供の頃、この労働公園内の遊園地で遊ぶのが楽しみだったと話していました。
 中山広場の近くにある中山園沌品店というレストランで中華料理の夕ご飯。アワビのスープがおいしかった。二人で3菜1湯(おかず3品とスープ1品)を注文しました。

 中華料理の問題点は、どれも大皿で料理が出てくること。二人だとあまりたくさんの種類が食べられません。ちょっと量が多かったのでケチな私は高い料理を残すのにしのびず、残った分は打包(ダーパオ・テイクアウト)しました。田さんに「失礼でなかったら、家に持って帰って」と、頼むと、田さんもいやがらずにプラスチックボックスを持ってかえってくれました。

<つづく>
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2009年09月02日


ニーハオ春庭「田さんのお宅」
2009/09/02
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>大連再訪 (3)田さんのお宅
 
 大連中山広場での夕食後、ネットカフェを探してメールチェックをしようと思いましたが、ふと気づいた。中国のネットカフェでは、日本語ソフトを備えていないかもしれない。「日本語が使えるネットカフェがありますか」と、田さんにたずねると、「さあ、私はいつも自分のパソコンを使うので、ネットカフェの事情を知りません。パソコンが必要なら、私の家へ行って、うちのパソコンでメールしたらどうですか。私のは日本語が使えます」というので、お言葉に甘えることにしました。

 大連を案内してくれた田さんの家は、大連空港の北方住宅街にあり、両親と一人っ子の家族です。市内といっても、彼の在学するソフトウエア学部は、郊外の開発区にあるので、家から通学しているのではなく、授業のある平日は寮生活。週末や夏休みには実家に戻っているということです。
 両親共働きのお宅にいきなり押し掛けたら迷惑をかけるだろうと思ったのですが、彼はお父さんに電話をして、許可をもらってくれました。

 雨が降り出したため、中山広場をぶらぶらする、という夕食後の予定はキャンセルして田さんの家へ。途中で果物を買っておみやげにしました。
 田さんの家は団地の3階。お父さんの書斎、田さんの部屋、両親の寝室のほか、DKは日本式に言うと20畳くらい。急におじゃましたのに、すっきり片づいています。ご両親は飲み物や果物で歓迎してくれました。

 パソコンで「予定通り帰国」というメールをしたあと、田さんの通訳でしばらくお話をしました。お父さんのお仕事は、ドイツとの合弁会社での電車車両開発で、最新の車両を作っているのだということでした。
 中国では、同僚のリグン先生のお宅と旧友のハン先生のお宅を訪問したことがありますが、なかなか中国のふつうの人の暮らしをかいま見ることはないので、田さんのお宅を訪問できて、よかったです。

 ふつうの人と言っても、「中国新興中産階級の暮らし」という点ではリグン先生やハン先生と同じ条件です。中国13億人の暮らしの中では上層部に属する人々でしょうから、これだけで「中国のふつうの人の暮らし」といえません。
 6月に訪問した集安市郊外朝鮮族自治区の村の金希紅さんのおうちは、6畳くらいの広さの一間だけでした。でも温かい歓待の気持ちは同じ。都市の中産階級も、地方の農村の暮らしも、私には貴重な中国を知る機会となりました。
 個人のお宅を訪問できたということが、観光旅行ではできない中国を知る旅になって、私にとってはどんな名所旧跡を巡るより印象深い思い出です。

 田さんは、2008年6月にプログラミングのコンテストに初出場したのをはじめ、2009年11月にもプログラミングコンテストに参加すると言っていました。大学卒業後は大学院にすすむ希望を持っており、できれば日本へも留学してみたい、というので、日本に来たら今度は私が東京を案内します、留学中にご両親が来日したら、ご両親も案内しますよ、と約束して田さんの家から空港二階にあるホテルへ行きました。

 ホテルの部屋はちょっと古かったけれど、空港二階というのが、翌朝8:40のフライトのためには便利。
 朝、ふたたび田さんが来てくれて、チェックアウトなどの世話をしてくれました。保証金としてホテルに預けていた60元が戻されたので、タクシー代として彼に渡し、旅客ゲートへ。またまた機内持ち込み荷物検査ですったもんだやってから帰途の空へ。
 日本上空、変化はあるのか、チェンジチェンジのまっただ中に着陸しました。

 帰国して最初にしたことは、住まい(公団団地9階)の風呂場チェンジ。古くなった浴室の床の隙間から階下に水漏れしたというので、改修工事が行われました。経年変化のための改修なので、費用は公団の負担です。公団の同じ部屋に25年も住んでいるのですから、あちこちが痛み、ダメになっています。工事が終わり、床と壁が新しくチェンジ!これで水漏れも気にせずさっぱりと汚れを落とすことができます。

 浴室改修の次にした衆議院選挙では、歴史的大チェンジがありました。1955年からの体制はあちこちが痛み、ぼろぼろでしたから、ちょっとの改修工事では繕えないでしょうが、みんなで工事に参加すれば、なんとか修理もできてたまった汚れも落とすことができるでしょう。
 これから私たちの生活はどのようにチェンジしていくのでしょうか。よりよい未来に向かって歩きだし、よりよい未来が遠い頂上に思えても登り続けていきたいです。
 次回は「長白山」に登ったお話。

<おわり>
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2009年09月03日


ニーハオ春庭「」中国十大山岳・長白山」
2009/09/03
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>長白山ツアー (1)中国十大山岳・長白山

 中国と北朝鮮との国境にそびえる長白山(チャンバイシャン)、標高2,744mの火山で、北朝鮮側の呼称では白頭山です。褶曲山岳が多い中国では珍しい火山で、巨大な玄武岩質の山です。頂上には大きなカルデラ湖「天池」が満々と水をたたえています。周囲を一周すると14km、一番深いところは384mという天池を14の峰が取り囲んでいます。いつも湖には霧が降りていて、3回天池にきたけれど、3回とも天池がみられなかったという運のない人もいます。

 火山であるため、温泉もあり、国をあげて観光開発中ですが、天池のまん中が国境となっているため、入山にはいろいろな制限があります。中国と北朝鮮の国境となっている鴨緑江や豆満江は、長白山を水源としています。
 1994年の赴任のときも2007年のときも、この長白山へ行くチャンスに恵まれなかったし、2009年7月に同僚の20代の先生が参加した学生向けのツアーは、一泊二日の強行軍だったので、年寄りの体力ではついていけないだろうと判断して参加しなかった。今回こそは是非と思って、国際日本語シンポジウム参加者のために企画されていた長白山ツアーに申し込みました。二泊三日のゆっくりコースで、行きに一日、帰りに一日を要し、山歩きは中の一日です。  

 8月17日、宿泊していた5つ星ホテルを7時半に出発。(学校側が用意し、シンポジウム発表者は無料で宿泊できたので、貧乏な私、中国で初めて5つ星に宿泊した)
 行きの一日は、500km以上の道のりを延々とバスに乗り続けました。東京からの感覚でいうと、区内のホテルを出発してバスで八甲田山に着いた、というところでしょうか。夕方5時半に長白山の山中にある虎林山荘に到着。ここは3つ星ホテルです。

 翌日7時半出発。あいにくと土砂降り。山の天気は変わりやすいから、山頂では晴れる信じてバスで登山口入り口までいきました。レインコートを用意していったのですが、持っていった登山用レインコートは、リュックサックをしょって着た場合、私のおなかだと、ボタンがはまらないことが判明。息子が中学校の登山で買ったけど一度も使うチャンスがなかったというレインコートを試着して「うん、着られるから、借りるね」と言ったときは、そうだ、リュックサックは背負っていなかった。しかたがないから、20元だしてビニールレインコートとビニールのレインパンツを買いました。これって、市内のスーパーだとセットで10元なんだけどね。

 登山口で、政府観光局が経営している登山バスに乗り換えます。この登山バスと天地の見える頂上へ向かうジープの乗車券は入山券をかねていて、180元です。北朝鮮との国境問題があるので、自由に山中を歩くことは禁止されていて、決められたコースを歩くことになっています。2009年7月に長白山に植物採集のために入り、決められたコースをはずれてしまった大学生は、行方不明となったままです。国境を踏み越えてしまい、山中で拉致されたのではないか、という噂です。

 最初の目的地は長白瀑布見学。天池の北側から発する川が落差70mの滝となって流れ落ちています。ただし、滝壺へは危険防止のため近づくことができず、下流から記念写真を撮って終わり。雨の中、レインコートとフードで、誰がだれだかよくわからない写真を撮りましたが、滝が写っていたのでよしとしましょう。

<つづく>
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2009年09月04日


ニーハオ春庭「長白山はジープで」
2009/09/04
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>長白山ツアー (2)長白山登山はジープで

 滝見物の次は、火山である長白山の周囲に点在するカルデラ湖めぐり。滑りやすい山道をゆっくり進みました。山道と言っても、中国の山道はすべて階段。階段登山は2007年に泰山に登ったときに経験済みでしたが、階段の上り下りはきつい。平地や坂道を歩くのは長時間でもがんばれる私ですが、苦手の階段はかなり疲れました。

 階段の途中できれいな景色があると写真を撮りたくなります。引率の先生からは「歩いている途中で立ち止まったり写真を撮ることはできません。危険ですから」と、再三注意を受けたのですが、ときどきこっそりシャッターを押しました。
 深い緑が重なる中に、神秘的な水色をたたえた湖が見えると、つい写真を撮りたくなってしまう。

 昼食は山中の朝鮮レストランへ。平壌館のように、北朝鮮のウエイトレスが食事の間に歌を歌うショウがついていました。アリランは朝鮮語「北国の春」「津軽海峡冬景色」などは日本語で歌ってくれました。日本人が半分中国人が半分の一行だったので、日本人向けサービスだったのでしょう。

 昼食後はお目当ての天池見物。果たして天池は見えるのか。雨はだいぶ小降りになり、ときどき日が差して、天気雨状態になります。
 山頂へは、ものすごいスピードでキキキキーッと車輪をきしらせてカーブを曲がって上っていくジープに乗ります。途中の下界を眺める景色はとても美しかったのですが、カーブで必死に車にしがみついていなければならず、写真どころではありませんでした。

 一番高い将軍峰は標高2744mですが、天池を眺める山頂は2700mくらい。そのうちのほとんどをジープで上ってしまうのです。登山客は残りの標高差数十mくらいを30分もかからずに上ってします。登山客というのに、サンダル履きの人もいて、最初は「中国人は登山をなめとんのか」と思っていましたが、なるほど、これなら日本の白山をサンダルで登る観光客と同じです。

 ちなみに、今回、私は新宿のスポーツ用品屋で、「自分へのご褒美」と思ってハイキングシューズを1万8千円で購入。これまで私の足に履いた一番高い靴で長白山へやってきた。うん、でもこれなら、サンダルでもよかったか。
 ジープで上る人のほか、歩いて上る人のための登山道を見かけましたが、ずっと階段。私は徒歩はご遠慮します。

 ジープが用意されているのは180元の入山料を確保する意味もあるでしょうが、観光客が勝手に山道を登らないための方策でしょう。13億人ジンミンどもをしっかりと管理してやるのが政府の方針ですから。自分たちで地図と磁石を広げて登山計画を練る、なんて自由はありません。

 昼ご飯を食べたレストランの北朝鮮ウエイトレスを見て、ツアー一行の中国人エライさんは、気の毒そうに「彼女たちには行動の自由がないのです。集団生活をして、常に監視されています」と説明していました。私から見ると、山に登るのもきっちり管理されているってのも、自由がないことのひとつだろうと思うのですが、岡目八目。きっと日本人の生活を外から見ている人は、「世間の思惑に常に気をつかって生活している日本人の人生は、自由がなくて気の毒」と、見えるのではないかと思います。世間の思惑など気にしないという人、ためしに、ご近所知り合いのお葬式に赤いパジャマを着て参列してください。他人の目にどう映るか、他人にどう評価されるかを常に気にしてい生きているのが日本人の人生です。

 「人生は重き荷を背負って山道を登るごとし」って徳川家康が言ったことばですが、長白山のところどころには「不登長白山終生遺憾。(長白山に登らないでいたら、一生残念に思い続けるだろう)」という小平の言が石碑になって建てられていました。彼は1983年に長白山に登り、それ以来、長白山は中国十大山岳に数えられ、観光開発が盛んになったのです。

<つづく>
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2009年09月05日


ニーハオ春庭「長白山天地」
2009/09/05
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>長白山ツアー (3)長白山天池

 天池が見えるはずの頂上に着くと、ものすごい風。尾根から吹き飛ばされそうになり、危険を感じた引率の若いテイロ先生は「すぐ下山しましょう」というのです。引率の先生には「一行を安全に誘導する」という責任がかかっているので、天池なんぞどうでもいいから安全に下山してほしいという気持ちだったのでしょうが、皆「一瞬でもいいから天池を見たい」と、強風のなか、霧の晴れ間を待っています。

 しばらく風に耐えていましたが、30分ほど粘ったのちあきらめて降りかかったら、ワーッという歓声が聞こえました。一瞬霧が途切れ、天池の湖面が見えたのです。私もあわてて尾根に戻り、また霧の切れ間があるかと待ちました。
 二度ほど霧が途切れて、ほんの5秒ずつほどですが、きらきらと波が輝く湖面が見えました。写真を撮ろうとして、レインコートの中からカメラを出している間に、すぐ霧が閉じてしまう。たった5秒でも、見えたのと「天池が全然見えなかった」のでは、せっかく登ってきた気持ちに大きな違いがあります。皆で「見えたねぇ」「よかったあ」と声かけあってジープ乗り場の山小屋まで下山しました。

 山小屋の前で、引率責任者の副校長の国愛先生が太極拳をして体をほぐしていました。私も24式太極拳を2年前に国愛先生に教えていただいたのを思い出して、先生のまねっこをして、いっしょに動きました。
 国愛先生は下山して市内のホテルにもどってから、留守役のもう一人のチョウ副校長に「二人して長白山の山頂で太極拳をしたんだ」と、おもしろそうに話していました。

 天地見物のあとは、「地底森林」「谷底森林」の見学。深い谷底まで原生森林が広がっています。きっちりと木道がしつらえてある森の中を、木の階段、石の階段を上ったり降りたりしながら、「谷底森林」をながめ、「白河(バイフゥァ)」を見たりしました。白河は、私にはどうということもない、ふつうの山中の急流です。日本の河はたいていこのような白い川波をたてて流れ落ちていく。しかし、大陸をゆったりと流れていく大河が川だと思っている中国の人にとって、このような白い川波を沸き立たせながら流れる急流は珍しく思うのか、皆、さかんに写真を撮っていました。
  
 ツアー同行者は、日本の大学を定年退職した老名誉教授とか、昨年まで東京にある在日本中国大使館の一等書記官だった女性がお孫さんを連れて来ているとか、老人子供を含む一行なので、ゆったりペースで行動できました。一日で歩いたのは合計しても6時間ほどで、それほど疲れはありませんでしたが、夜、ひまなので、足裏マッサージを部屋に呼んで揉んでもらいました。どうやら見よう見まねの素人のおばさんだったようで、足裏の壺はぜんぜん理解してなかった。マッサージおたくの妹なら怒り出すところですが、私は「肩揉みもサービスでしてくれたし、ま、いいか」と45分で60元という「観光地値段」を払いました。

 帰りは一日かけて、朝7時半に虎林山荘を出て500キロを走り、午後3時半にホテル着。ツアーの一行は続けて5つ星ホテルに宿泊しますが、私は4ヶ月半住んでいた大学外国人宿舎に移動。今までとは別の部屋ですが、台所と、六畳間くらいの広さのバスルーム、15畳くらいの書斎、12畳くらいの寝室です。5つ星もいいけれど、古い宿舎のほうが広くて居心地がよい。こちらに一週間宿泊しました。
 宿舎の近くの盲人按摩は60分20元(300円)で足ツボマッサージができますので、帰宅した後、按摩屋に出かけてまた揉んでもらいました。こちらはツボをぐいぐいで、かなり効いた。

 天地も見えて、楽しかった長白山ツアー。小平の言う「不登長白山終生遺憾。長白山に登らないでいたら、一生残念に思い続けるだろう。」にはならず、一生の満足になって、よかったよかった。

 本日還暦記念日なり。暦が一巡してかえり見れば、「一生の満足」と言えるかどうか。まあまあ、可もなし不可もなし。たいした人生ではなかったものの、不幸といえば人生後半にショーモナイ夫がひっついてしまったことくらいで、、、、天池を5秒間眺めることができたってところが、人生の成果なのでしょう。

<ニーハオ春庭 おわり>
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ニーハオ春庭中国日記「再会朋友2009夏」

2011-07-25 07:34:00 | 日記
2009/08/23
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(1)謝謝3班の仲間たち

 4回目の中国滞在の1番の目的は、勤務校の創立30周年記念の国際日本語教育シンポジウムでの発表です。
 3月から7月まで勤務した学校は、1974年に田中角栄訪中で国交回復したあと、日本中国の国家共同の日本語教育施設として1979年に開校して以来、中国有数の日本語教育の場となっています。今年は、学校をあげて30周年記念イベントの準備が続けられてきました。盛大な記念行事の場で発表できることになって、ラッキーでした。
 担任した博士コース3班の学生たちには、メールで「発表を聞きに来てください」と連絡しておきました。

 16日の発表の前日、8月15日、元の担任クラスの教室で学生たちと再会。日本に帰国中、8月1日から12日まで連日、授業資料を作る以上の熱心さで取り組んだ「3班思い出のアルバム」を披露しました。
 クラスの集合写真や、生け花、浴衣姿、縄跳び大会、カラオケなどのクラスイベントでの写真、また「3班の仲間たち」と題したひとりひとりの写真にコメントをつけて編集したアルバムです。

 写真につけたコメント、たとえば、出席番号1番のレイトウさんの写真には「加油!世界中には30億人の女性がいる、がんばって!」と、コメント。まだ恋人いないレイトウさんへのエールです。
 在学中に恋人を得た出席番号2番のコウキさんへのコメントは、いっしょに動物園へ行ったときの写真に「コウキは、縞馬よりキリンより、リンリンが好きです」というコメントをつけました。リンリンはコウキさんのガールフレンドの名前です。
 アルバムをコンピュータ・プロジェクターで見た後、大学食堂の宴会室でランチ会。

 16日、学生たちは、私の発表のとき、盛大な拍手をしてくれました。日本や中国各地からのシンポジウム出席者のすぐれた発表が相次いだなか、拍手の音量だけなら、私が1番でした。サクラのみなさん、ありがとう。
 いえいえ、拍手だけでなく、私の発表は、各方面か好評を得ることができ、3月から7月まで、食事する時間も惜しんで授業資料を作り続けたことの甲斐があったといえます。ドストエフスキーの新訳で名高いロシア文学者の学長先生からも「よい発表でした。このような授業をしてもらえるなら、学生たちは毎日楽しいでしょうね」と、言っていただき、面目をほどこすことができました。

 サクラ役をしてくれた博士コース3班の学生は、最初17名でしたが、4月に一人、7月に一人、途中からクラスに加わって、基礎日本語課程終了時には19名でした。
 19人、いつも仲がよく、助け合って学習しており、グループラーニング、ペアラーニングの実践にとって、この上ない環境でした。
 そして学生たちは「先生、センセー」と慕ってくれるので、教材作りにも熱が入り、授業もよい実践ができました。
 
 21日には、私の宿舎の宴会室で専門日本語教育担当の先生方との夕食会を行いました。
 学生は、「センセーとなら緊張しないで日本語で話せるけれど、専門日本語の先生とは緊張してしまう」と言っていたのですが、夕食会がはじまると、それぞれいっしょうけんめい日本語で話していました。

<つづく>
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2009年08月24日


ニーハオ春庭「教授方との夕食会」
2009/08/24
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(2)教授方との夕食会

 私が夕食会にお招きした専門の先生方、東大、東工大などの教授たちです。非常勤講師にすぎない私、普段ならご一緒することもないエライ先生方なのですが、私のシンポジウム発表のときお世話になったので、夕食にご招待することになりました。

 「シンポジウム発表のレジュメは各自でプリントして配布する」ということを私は理解していなくて、レジュメは主催者側で作成するものとばかり思っていたのです。そのためにシンポジウムが始まってから慌ててプリントを作るはめになりました。
 ところが、こんなときに限って基礎日本語講師室のコピー機が紙詰まりを起こして使えなくなり、専門日本語講師室のコピー機を借りることになりました。講師室にいた先生方、皆さんで窮地に陥った私を助けてくださり、教授たち皆で「印刷係」として手伝ってくださったのです。日頃は秘書を使っているような先生方を印刷係にしてしまって申し訳ないことだったので、「夕食ご招待」で勘弁してもらうことにしました。

 学生と教授、教授夫人2人。合計16人で夕食をいただきました。実をいうと、中国でお金を使った一番の高額消費が、このときの宴会費用です。アワビ、伊勢エビ、刺身、上海蟹など、日頃は食べないような豪華メニューがつぎつぎにテーブルに並びました。

 テーブルについた学生たちも「教授のお話をうかがう接待」に、緊張しながらもがんばってくれました。専門日本語課程の先生の日本語は、日本人大学院生に話すのと同じ日本語なので、彼らにはちょっと難しい。日本語2級レベル試験に合格したというものの、今までは基礎日本語教師が語彙コントロール文型コントロールをして、彼らに理解できないことは話さないようして会話が成立してきたのですから、いきなり「ふつうの大学院レベルの会話」をしても、理解できないことが多い。

 エンテイさんは、彼の日本語ブログに正直に「隣の席になった教授のお話は、ぜんぜん理解できなかった」と書いていました。このとき、エンテイさんの隣に座った教授は、ご母堂の学友が森鴎外の娘や夏目漱石の娘さんだったというお話しをなさっていました。明治の文豪たちを「鴎外さん、漱石さん」と親しげに呼ぶお母さんの影響で文学を志したのですが、お父様に「文学では将来食っていけない」と諭されて理系になったのが、生涯の心残りで、本来は文系にすすみたかったのだ、と語っていたのでした。「森茉莉(まり)さん、杏奴(あんぬ)さん」と、なつかしげに文豪の娘たちの名を呼び、明治文学を語る教授の話、たしかにエンテイさんには難しかったと思います。

 昨年10月から今年3月までが基礎日本語教育前半で、中国人日本語教師が担当します。そのあとを引き継いで、日本人日本語教師団が基礎教育後半を受け持ちます。私はこの担当でした。

 専門日本語教育は、留学先である日本各地の大学の教授たちがチームを編成して文科省派遣教師団として、8月1ヶ月を担当します。
 8月の1ヶ月間で、医学や工学などの専門分野についての講義をして、日本の大学院での研究生活ができる日本語力を養成します。

 学生たちの専門は多岐にわたっているので、自分の専門の教授が派遣されている学生はいいですが、違う専門にあたる学生もいます。エンテイさんの専門は薬学ですが、薬学専門家は今回派遣されていないので、「材料化学」の教授に教わることになりました。

 その材料化学の教授から「明治文学」の話しをあれこれ伺うことになったのです。私は基礎日本語の授業のとき「お札になった日本人」紹介として夏目漱石について教えたことがあるのですが、森鴎外については、「日本人の住まい」という読解の授業のときに明治村の森鴎外旧居を紹介したくらいで、文学上の紹介をしていなかったので、エンテイさんにとって、鴎外文学の話は「ぜんぜんわからなかった」のもしかたがありません。
 
 日本語教師たちは、学生の日本語力にあわせて語彙や文型をコントロールしながらゆっくり話すように訓練されているのですが、教授たちは大学の学部生や院生に教えるのと同じ日本語で授業をします。学生たちは8月になるといきなり難しくなる日本語に苦労します。
 今年も「専門日本語は難しい」と、メールがきていました。

 英語教育に置き換えてみると、英語を習っている日本の高校生が、夏休みにいきなりオックスフォードやケンブリッジ大学の教授の授業を英語で受講し、その場で英文で感想レポートを書かされる、と思ってください。

 しかし、教授たちは「午前中に専門のレクチャーをして、午後内容要約と感想を発表させているのだけれど、なかなかしっかりと発表しているので、最終プレゼンテーションもこのぶんなら全員合格するだろう」と、お話ししてくだったので、一安心です。

<つづく>
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2009年08月25日


ニーハオ春庭「シャンユエに会いたい」
2009/08/25
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(3)シャンユエに会いたい

 専門の先生たちとの夕食会がおひらきになったあと、「私の宿舎に泊まってください。2室にシングルベッドとダブルベッドがあるから、みなで泊まれますよ」と言ったのですが、「まだ、発表の準備が完成していません」と、大学の寮に帰って行きました。
 今週末には、学生たちは日本語で自分の専門分野についてのプレゼンテーションをします。その発表成果が最終試験となっていますから、みな発表原稿やパワーポイントファイルの制作に余念がありません。
 ひとりルールーだけ「私はもう準備が終わりました」と、宿泊することになり、週末いっしょに遊ぶことになりました。ルールーの専門は遺伝子学です。クラススピーチのとき、額の形が富士額になる場合や耳の形について、遺伝子の要素の説明をして、クラスでおでこや耳を見せ合って、みな楽しく遺伝について学びました。

 ルールーに泊まってもらったのは「日本語が話せない私の友達を招いているので、通訳をしてください」とお願いするためでした。中国語を話せない私に、日本語も英語も話せない友達がいるって、不思議なようですが、、、、

 前回2007年の中国赴任の思い出の中、もっとも印象深かったことのひとつが、13歳のシャンユエと友達になったことでした。
 シャンユエは、バスで1時間ほど行った先にある郊外の小さな田舎町、合隆鎮に住んでいます。2007年の7月には中学1年生でした。8月には2年生に進級するという「少年」シャンユエと友達になって、動植物公園や「長影世紀城」というテーマパークでいっしょに遊びました。動物園でシャンユエの「祥[王月]」という字は女性の名によく使われる文字なので、「男の子なのに、親御さんはどうして祥[王月]という文字を選んだのか」と質問したら「我是女児」と、言ったのでびっくりしたのです。シャンユエは男の子にしか見えない女の子でした。

 2007年6月7月に私が楽しんでいたことのひとつに、「どこへ行くのか知らないバスにひとりで乗り込んで終点で降り、そこにある食堂で夕食を食べて帰る」という「プチ冒険」がありました。ときには、店も何もない畑の真ん中が終点、ということもあったのですが、「1元バスツアー」と称して、どこへ着くのかドキドキしながらバスに揺られて夕食を食べに行ったのです。

 シャンユエの家は、合隆鎮のバス停終点の前で「魏味佳」という食堂を営んでいました。バスを降りて夕食をとった食堂がシャンユエの家だったのです。
 シャンユエの写真を撮ってプリントしたものをこの食堂あてに送付したのですが、写真が届いたという返事はこないまま2年が過ぎ、はたしてシャンユエは写真を受け取れたのかどうか、わからないままになっていました。

 2009年の赴任で、毎週「今週こそはシャンユエに会いに行こう」と思いながら、毎週末、ひたすらパソコンに向かって、食事はワープロをたたきながら食べるという暮らしを続けたため、ついに一度も会いに行くことができないまま終わってしまいました。4回目に中国に来た目的のひとつは「シャンユエに会いたい」ということでした。
 今回の中国滞在目的の1番目は国際日本語教育シンポジウムでの発表、2番目は長白山ツアー、3番目がシャンユエに会いに行く、ということ。

 2007年8月の「合隆鎮の魏味佳」は、以下に。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200708A

<つづく>
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2009年08月26日


ニーハオ春庭「高校生シャンユエ」
2009/08/26
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(4)高校生シャンユエ

 2年たって、はたして「魏味佳」が同じ場所にあるのかどうかもわかりません。私の宿舎の周囲では2年間に多くの店が入れ替わりました。私が洗濯物を出していた「天使干洗店」はペットショップに変わっていたし、宿舎の隣のさえない食堂は「時尚旅館」になっていました。

 合隆鎮行きのバス、駅前の185番に乗って小一時間。終点の前には。あらまあ、「魏味佳」の店は、はやりのケータイ電話屋になっていました。やっぱりね、、、、、、

 魏味佳のとなりのとなりにあった「旅店」のおばさんに「となりのとなりの串焼き店は、どこへ行った?」と、聞いてみましたが、私の発音ではさっぱり通じなくて、おばさんは「一泊は30元だよ、ビタ一文まけないよ」と、繰り返すばかり。2年前は一泊20元だったのに、ま、それはいいや。

 しかたがないから、ぶらぶらと通りを歩いていきました。5分ほど歩いてみて、ま、仕方がない。2年の歳月がたっていたのですから、合隆鎮も変わったのだ、と納得して、さて、帰るまえに念のためにケータイ電話屋に聞いてみることにしました。

 私の四声はどうにも通じないので、筆談で「2年前には、ここにあった串焼き店に、シャンユエという子がいて、今は15歳になっているのだが、知らないか」と聞いてみました。ケータイ屋は、私が話が通じないことが分かると、英語がわかる若者を呼んできました。私が人捜しをしていることがわかると、シャンユエを知っている人を探してきてくれました。「このケータイ屋の場所は、前は串焼き店だった」「シャンユエ」この二つのキーワードだけで、なんとか通じたのです。

 男の人が先に立って、案内してくれました。私がさきほどぶらぶら5分歩いた道をどんどん進んで行きます。5分歩いてあきらめて引き返した、そのちょっと先に、「魏味佳」は移転していたのでした。

 あとで聞いたら、移転したのは、今年4月だったということです。合隆鎮のバスターミナルは2か所あって、移転先は、長距離ターミナルの前です。(といってもマイクロバスが数台停まっている、というだけのところですが)
 シャッターが閉まっていましたが、男の人は人を呼んで来て、シャッターを開けさせてくれました。店の中で待っているように言われ、しばらく待っていました。

 シャンユエが、店にとびこんで来ました。背が伸び、ちょっと大人びていましたが、相変わらずショートカットの「少年」です。
 筆談で「中学3年生になったんだっけ」と訪ねると、「8月25日から高級中学(高校)の1年生だ」というのです。大きくなっているなあ。
 高校に入学したけれど、勉強はきらいで、スポーツが好きと言います。英語も好きじゃなくて話せない、というのですが、「I like sports.」これは英語で言えました。
 
 店にいた親戚の女の子といっしょに、前に店があった場所の近くにある市場へ行き、入学祝いを買いました。最初、服の売り場をブラブラして、「puma」とか「adidas」のスポーツシャツはどうか、ときいたのですが、シャンユエは「いらない」と言います。親戚の女の子がフラフープがほしいというので、おもちゃ屋へ行きました。

<つづく>
15:51 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2009年08月27日


ニーハオ春庭「シャンユエとルールー」
2009/08/27
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(5)シャンユエとルールー

 フラフープにはいろいろな大きさのがあったので、どれがちょうどいいか、いろいろ見ているうち、女の子はお人形セットに目うつりして、「これがほしい」と、言います。15元の「ナース人形セット」で、おもちゃの注射器や聴診器、ナース服の人形がセットになっています。彼女はナース人形に大喜びでした。

 おもちゃ屋にスケートボードがおいてありました。シャンユエは「スポーツが好き」というので、「乗ってみて」と勧めました。シャンユエがボードに乗って試してみると、できそうなので、「これにしよう」と、買うことにしました。スケートボードは100元。高校勉強に必要なものは両親が買ってくれるでしょうけれど、遊び道具はどうかわからない。スケートボードは、「親にはおねだりしにくいけれど、自分のこずかいで買うにはちょっと高い品物」ですから、旧友の日本人のプレゼントとして高校入学のお祝いにちょうどよかったかと思います。

 シャンユエの「合隆高級中学」へ行って見ました。魏味佳から200メートルほど先にあり、走っていけば1分で高校に着く。始業ベルが鳴ってから走っていける場所にあります。
 煉瓦作り1階建ての校舎が6棟あり、その先は雑草の生えているグラウンド。入り口に近いところが「3年級」真ん中が「2年級」。そうするとグラウンドに近いほうが1年級なのでしょう。

 「化学」の教科書を抱えた眼鏡をかけた女の人が通りかかったので、「この高校の化学の先生ですか」と訪ねてみたら、その通りでした。「この子は、8月にこの学校に入学するんです。私はこの子の友達です」と、聞かれもしないのに自己紹介。勝手に校庭に入り込んだので、あやしいものではないことを言っておかないと。

 「魏味佳」の店に戻ると、シャンユエの」お父さんとお母さんが店に来ていました。今日の開店は夕方からのようです。両親に筆談で、8月26日に日本へ帰ること、22日23日の土日にシャンユエと遊びたいと話し、許可を得ました。

 21日に私の部屋に泊まっていっしょに遊ぶことになったルールーには、「シャンユエは日本語がぜんぜんわからないし、私は中国語が話せないので、通訳になってください」とお願いしました。
 2年前にシャンユエといっしょに遊んだときは、私の中国語家庭教師役だったジョウさんがいっしょに動物園や南湖公園で遊んだのでした。

 22日に、合隆までシャンユエを迎えに行きました。ルールーは、その間桂林路の美容院で髪の手入れ。
 シャンユエには、10時に迎えに行くからと行って、日本人らしく10時ぴったりに魏味佳の店につきましたが、シャンユエは中国人らしく、10時半に店にやってきました。
 12時にマクドナルドの店の前でルールーと会う約束でした。日本人は必ず約束時間を守るということを「日本事情」として教えてあったルールーは、12時半になっても私とシャンユエが現れないので、「中国語わからない先生がひとりでバスに乗っていったので、迷子になったかと心配した」と言うので、申し訳なかったです。

 「古本吉田」という牛丼店で「日式どんぶり飯」を食べたあと、かっては市内で一番高い建物であったテレビ塔へ登りました。現在はテレビ塔より高いビルもどんどんできているのですが、まず、シャンユエに「高いところから市内を見渡す」という経験をしてもらいたかったのです。
 シャンユエは望遠鏡を覗いて、南湖や市内のビル群を見ていました。

 2年前は、私が中国語を理解していないことに遠慮なしにどんどん中国語で話しかけてきたのに、高校生になったシャンユエは、とても寡黙になっていて、ルールーが通訳するから大丈夫と言っても、あまり話さない。
 ルールーはお姉さんらしくシャンユエに気をつかってくれて、よく世話をしてくれました。

<つづく>
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2009年08月28日


ニーハオ春庭「シャンユエ大熊猫を見る」
2009/08/28
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(6)シャンユエ大熊猫を見る

 テレビ塔を降りて、次は動植物公園へ行きました。前回担任クラスの学生たちと動植物公園へ行ったとき、ルールーは来られなかったし、シャンユエもパンダを見たことがないので、まずはパンダ(大熊猫ダーシューマオ)見物です。
 動物園では動物ショウで熊、山羊や猿が芸を見せていました。白虎(アルビノ遺伝子による白い虎)は、馬に乗って登場。

 前回、昼間にパンダ館を見たのでずっと寝ていましたが、今回は夕方だったので、パンダは室内で笹の葉を食べていました。おしりを床につけておすわりをして、ムシャムシャ笹を食べ続けています。
 パンダ部屋の中に、サツマイモのような大きな茄子のようなものが、ころんと転がっています。パンダの糞でした。上野動物園では、このようなパンダの糞を見たことがなかったので、写真にとったら、シャンユエは笑っていました。

 22日、動物園見物のあと、動物園の向かい側にある大学本部キャンパスへ行きました。
 シャンユエに将来何になりたいかたずねたのですが、「わからない」と言います。「大学に入りたいか」とたずねても「スポーツは好きだけれど、勉強はあまり好きじゃない。大学に行くかどうかわからない」
 両親の意見は?と、聞くと、「弁護士になれと言っている」と言います。まあ、だいたいの親は日本も中国も、文系なら「法律を学んで弁護士になれ」理系なら「医者になれ」というのです。
 エンテイさんも「医者になれ」と親に言われて、医学の隣接科目である「薬学」を選んだのだそうですし、ルールーは医学部に入学して遺伝子治療に興味を持ち、現在の専門は遺伝子学です。

 合隆鎮に住むシャンユエは、「大学」というのがどういう場所なのか具体的なイメージを持ったこともない。日本のように、大学が「オープンキャンパス」なんてイベントはしないし、中学生が大学見物するという機会もない。
 私はぜひ、シャンユエに大学見物をしてほしかった。

 新しくできた郊外キャンパスの中で過ごしてきたルールーも、本部キャンパスの中を見たことがなかったので、まずはキャンパスのなかを歩いて見ました。立派な(というか、ばかでかい)図書館(どの大学も図書館を大学象徴の建物として建てるので、大学図書館の建物はやたらにでかい)、物理学部、生命科学部などの校舎。正門近くの外国語学部校舎は、私にとっては、なつかしい建物です。
 「1994年に私がはじめて中国で教えたときは、この外国語学部の校舎だったのよ」と、ルールーに言い、ルールーは中国語でシャンユエに説明しました。

 22日の夕食は平壌館へ。
 朝鮮料理はシャンユエの住む合隆鎮にも朝鮮族の店があるから珍しくないですが、北朝鮮のウエイトレスの歌唱ショウは、シャンユエも楽しんでくれるだろうと企画した夕食です。昨年10月から市内に住んでいるルールーも、郊外にあるキャンパスから外に出て、繁華街である桂林路に来ることは少なかったし、平壌館に入るのは初めてと言っていました。

 ジャガイモ餅や鶏手羽フライを食べながら待っていると、7時半にショウが始まりました。朝鮮や韓国、中国の歌が美人ウエイトレスたちによって歌われました。テレサテンの「時の流れに身をまかせ」の中国語バージョンもありました。
 料理と歌を楽しんで、22日は宿舎にルールーとシャンユエが泊まりました。 

<つづく>
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2009年08月29日


ニーハオ春庭「シャンユエ大学を見る」
2009/08/29
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(7)シャンユエ大学を見る

 23日は、友達と桂林路で会う約束ができたルールーと分かれて、シャンユエと郊外キャンパスへ行きました。大学が設置している博物館を見せようと思ったのです。ルールーはエンテイさんに電話をして、エンテイさんが通訳として博物館をガイドしてくれました。
 1階は恐竜の骨格標本や動く恐竜レプリカ。2階は馬の進化のようすを模型で展示してある。3階は世界の蝶の標本。4階は中国東北の自然を再現した剥製標本の展示。エンテイさんは、いっしょうけんめいシャンユエに説明をしてくれました。

 大学の中にある食堂で昼ご飯を食べました。元3班の学習係だったチョウカショさんと北京からカショをたずねてきた恋人と食堂であったので、いっしょに食べることになりました。カショさんのルームメートのイヨウさんとカショウマンさんもいっしょです。
 カショさんは、「元3班のヨウショウさんとエイケイさんに、招待所で専門の教授たちとの夕食会で食べたごちそうの話をしたら、うらやましがっていました」と言います。ほんと、私だって日頃食べたことのないごちそうでしたよ。

 カショさんは最初は機械工学を専攻し、農機具開発を研究するはずでしたが、中国農業の将来を考えるようになり、大学院に入るときに専攻を替え、農業史や農業経済を研究することになりました。日本では東大の経済学部で博士号をめざします。

 ランチのあと、イヨウさんとエンテイさんがシャンユエにキャンパスの中を案内してくれる間、私は元の担任していた教室で、学生たちの最終プレゼンテーションのパワーポイントファイルのチェックをしました。専門の工学や化学の部分は私には理解できない難しい化学式や数式がありますが、日本語の部分で、やはり手直しした方がいいことが見つかるのです。教室に来ていた学生のpptをチェックしていると、シャンユエが教室にやってきました。

 私が勤務していた校舎は、語学教室としては中国でも最先端の設備を誇っている学校なので、教室設置の大型コンピュータセットとプロジェクターは、シャンユエには珍しいものだろうと思います。シャンユエが大学について具体的なイメージを持てるようになるといいと思いました。
 シャンユエに「本部キャンパスとこの郊外キャンパスのどちらが気に入ったか」とたずねると、新しい郊外キャンパスのほうが気に入ったということでした。

 中国では、高校3年生は卒業前に略称「高考」を受けます。この「普通高等学校招生全国統一考試」の点数によってどの大学に入学できるか決まります。なかでも重点大学と呼ばれる一流大学への入試の点数は高い基準があるので、金持ちの親はあの手この手で我が子の入学を画策し、毎年不正事件が新聞に載ります。

 替え玉受験なんてのは序の口です。
 同級生のなかに、頭はいいけれど大学へ出してやる金のない親を持つ子がいると、金持ちの親はその子の親に不正をもちかけます。自分の子と前後の席になるように受験番号を獲得して、「大学に入るお金をだしてやるから」という条件で、入試のとき、そっくり答案を写させる、なんてのも序二段くらい。

 幕内クラスになると、お金が無くて大学進学をあきらめた子の戸籍を不正手段で入手して、その子になりすまして、優秀な成績の子が受けるべき「推薦入試」をそっくりもらってしまい、大学入学後もその子になりすましている。戸籍を盗まれた子が、一念発起して通信教育で教員資格を取得しようとしたら「あなたはすでに大学を卒業しているし、教員資格を取得しているではないか」と指摘され、はじめて自分の戸籍が他人に使われていたことを知る、他人が自分になりすましていたことに気づく、なんてことも起こっています。
 中国は日本以上に学歴がものを言う社会だから、不正手段もこれからあの手この手の秘術がつかわれることでしょう。

<つづく>
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2009年08月30日


ニーハオ春庭「シャンユエの未来」
2009/08/30
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(8)シャンユエの未来

 日本の大学受験者は現在では70万人前後。日本の大学・短大の数は1200校あり、どの大学でもいいという条件なら、全員が入学できる定員数があります。一方、中国の「高考」の受験者数は2009年には1020万人。中国の大学・短大はこの10年で急激に増加し、現在は2000校にのぼっており、入学定員はこの5年間で倍増したのですが、それでも大学及び短大に入学できるのは600万人ほどですし、重点大学(プロジェクト211大学)ともなれば、将来のエリートコースが約束されているのですから、親の大学進学熱は、一人っ子に対していやがおうにもヒートアップしています。

 プロジェクト211の大学の中でも特に重要とされた38大学に入学できるのは、大学入学定員の6%にすぎません。まさに現代の「科挙」です。6%と言っても、人数からいけば、日本の全受験者数に匹敵しており、数学オリンピック、科学オリンピックなどで、中国の高校生が上位をしめているのもわかります。

 08年の当局からの発表によれば、大学での生徒募集人数は599万人、大学院では44万9000人と、07年比でそれぞれ5%、6%増加しています。在学中の大学生総数は1738万8000人、大学院生数は110万5000人に達しており、高等教育機関の在校生数は世界第1位となっています。大学・大学院への総入学率は22%に達し、「中国の大学経営」は、中国で有数の「成長産業」です。

 シャンユエの親が「弁護士になれ」というのも、親がイメージする「高学歴のエライ人」というのが「弁護士」か「医者」だからです。
 日本では村上龍が編集した「13歳のハローワーク」のような本があり、中学生高校生が具体的に将来のビジョンを持つことができますが、シャンユエのような環境で、さまざまな仕事や進学のイメージはテレビなどで見る以外に持ちにくく、自分自身の目で実際に大学を知る機会がない。

 今回の「シャンユエの大学見物」は、高校入学祝いのスケートボードよりももっと意義ある私からのプレゼントでした。
 シャンユエが将来大学に入るかどうかはわかりません。「もし大学生になったら、夏休みに必ず日本へ招待する、日本への航空券を郵送し、私の家に滞在できるようにするから、勉強に励みなさい」とエンテイさんに通訳してもらいました。

 シャンユエの将来はシャンユエのものだから、彼女は自分自身でなりたいことを見つけるのがよい。しかし、田舎町の環境で大学へのイメージを持ちにくい彼女に、できるかぎり広い世界の入り口を見せてやりたくて、大学案内をエンテイさんたちに頼んだのでした。

 シャンユエの両親は串焼きの食堂を営んでいるのだから、シャンユエは特に努力しなくても、両親の店を受け継いで、田舎町の中では裕福な層として暮らしていくことができるでしょう。でも、高校在学中に将来への夢が芽生えたとき、その入り口にさまざまな可能性があったほうがいい。大学進学もその可能性へのひとつのドアです。

 大学見物のあと、近くにある浄月潭公園を散歩しました。浄月潭は、市内の水源とするために開発された大きな貯水公園です。1994年に初めて学生たちと遠足に来たころは、ただ広い森林と湖が広がる静かな場所でしたが、現在は開発されて公園として整備され、周辺は住宅エリアになってたくさんの家が建ち並んでいます。
 公園の中には日曜日とあって、結婚前撮り写真をとるカップルが大勢いました。専門の業者が、まもなく結婚式を挙げるカップルにさまざまなポーズを撮らせて写真集を作るのです。

 シャンユエと頭上を飛び交うとんぼや花のまわりをひらひらするチョウチョを指さしたり、広々と広がる湖水や湖に影を映す森林をながめ、青空と白い雲を眺めてすごしました。帰りは160番のバスに乗ったのですが、疲れて眠ってしまい、下車する予定のバス停からだいぶすぎてしまいました。慌てて降りて、結局タクシーで宿舎まで戻りました。写真屋で昨日動物園で撮ってプリントした分を受け取り、写真とクッキーなどのおみやげを持たせ、ちょっとおそくなったのだけれど、駅前まで送って185番のバスにシャンユエを乗せました。

 13歳のシャンユエに偶然出会い、今回は15歳のシャンユエとまたまた運良く出会えた。
 シャンユエは私を他の人に紹介するとき「我的朋友。わたしの友だち」と、言います。言葉が通じない、そして年齢差が大きいふたりですが、二人の間に友情成立。これから20歳のシャンユエ、30歳のシャンユエに出会うことを楽しみに、「再見」を言いました。

<つづく>
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ニーハオ春庭中国日記「大連再訪」

2011-07-22 07:46:00 | 日記
2009/08/05
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(1)旧友と再会

 中国滞在最後のイベントは、帰国の前の大連旅行でした。
 大連には友人のハンさんが住んでいます。ハンさんは、若いながら大学で準教授に昇進して半年たったところです。たいへん優秀な人ですが、「学部によっては、私の年齢ではなかなか昇進のチャンスがなく、上の世代の人が大勢チャンスを待っているところも多いのに、私の所属する学部では、ちょうど世代の穴があったので、昇進できたのは、運がよかったからです」と謙虚に語っていました。
 
 昇進のためには、英語試験や論文審査のほか、学長ほかお歴々の前での口頭発表や口頭試問を繰り返し、研究学会での発表の評価など、たくさんの関門があったということです。 ご主人の理解もあり、お姑さんが、11歳の娘シンシンちゃんの世話をしてくれる、という恵まれた環境もさることながら、彼女自身が努力家であることが、若い準教授の誕生となったのだろうと思います。
  
 2007年に大連に滞在したときは、ハンさんの受け持ちクラスで飛び入り日本語授業をしたこともありました。今回はすでに期末試験を終えて、あとは期末の教員会議のみというところにおじゃましました。

 今回、私のパソコンもケータイも壊れてしまったという状況のなかで、連絡が行き届かなかったのですが、私が夜行寝台の列車を降りて出口に向かうと、ちゃんとハンさんが「センセー!」と、待っていてくれました。
 今では準教授の彼女のほうこそ「センセー」なのに、15年前と同じように、「センセー」「ランリン」と呼び合う二人です。

 15年前、彼女は私が勤務した中国の大学の日本語学科学生でした。私が働いた学部とは別の学部でしたが、私の中国語家庭教師を務めてくれたり、幼かった娘と息子のシッターとして世話をしてくれました。その後、彼女が日本に来て働いていたときは、東京の我が家にも遊びに来てくれました。2007年には、久しぶりに旧交温めることができました。
 
 7月23日の朝、大連駅からまずは、大学本部キャンパスの近くにある彼女の住まいに向かいました。ご主人の会社から支給されている社宅と、彼女の勤務先大学から支給されている職員住宅は人に貸し、現在は娘のシンシンちゃんが通っている大学附属小学校に徒歩3分という地に家を買って住んでいます。大学の元教授たちが住んでいる古いマンションで、若い世代はハンさん一家くらいということですが、おばあちゃんおじいちゃんが孫の世話をすることが多い中国なので、小学生くらいの子どもの姿もたくさん見かけます。シンシンの世話をしているのも、すぐ近所に住んでいるハンさんのご主人のお母さん。
 5階にある住まいは、リビングルーム、夫妻の部屋、シンシンの部屋と台所、バスルームです。

 大連など大都市では、「有名進学校に近いこと」が、親の家探しの第一条件なのだそうです。進学校の区域に住民票があることが進学に有利とされているので、進学校の周囲の住宅の値段は金融危機があろうと不況だろうと、どんどん高くなっているのだといいます。
 自身が準教授への昇進を果たした今、彼女の一番の関心事は一人娘の進学。現在勤務している大学の付属小学校の生徒なので、大学附属中学校への進学は難しくないけれど、歩いて数分のところにある超有名進学校への入学を狙っているので、受験はたいへんだと話していました。

<つづく>
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2009年08月06日


ニーハオ春庭「鉛筆の歌」
2009/08/06
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(2)鉛筆の歌

 シンシンちゃんやハンさんのお姑さんといっしょに、朝市へでかける途中、シンシンちゃんを入学させたいという有名進学校の前を通りました。北京大学、清華大学など、中国のトップクラスの大学への進学率がたいへん高いという学校で、門の横の掲示板に、生徒の写真付きで今年の進学者たちが張り出されていました。

 進学希望者の全国統一試験(中国の大学入学統一試験「普通高等学校招生全国統一考試験(高考 gāo kǎo)」)は、6月8日9日に実施され、試験点数によって進学できる大学が決まります。各大学ごとの入試というのはなく、一回限りの試験で一生の進路が決まってしまう。日本より過酷な入試制度です。

 掲示板に張り出された大学名を見ていると、ウァア、スンゴイ!と目を見張らされます。
 日本の週刊誌に高校別の大学進学者が発表されることがありますが、個人の顔写真までは出すことはない。日本でこのように顔写真付きで出したら個人情報うんぬんの問題になるでしょうけれど、校門脇に並べられた顔写真はどれも誇らしげです。

 中国ではかっての「国家重点大学」という国の重要大学の呼び方が、1995年以後は「211工程」(Project 211)と変わりましたが、今でも一般の人は「重点大学とそうでない大学」というふうに分けて呼んでいます。中国でも大学の数は増えているけれど、重点大学であるかどうかによって、就職にも差がでます。
 私のクラスに集まってきていた国費留学生候補者の所属大学もこの「プロジェクト221」の大学でした。日本以上に学歴社会である中国では、「211工程」の大学に進学できるかどうかは、人生を左右します。

 シンシンちゃんの教育のため、ハンさんは一ヶ月2400元をつぎ込んでいると語っていました。一般の大学卒業生の月給にあたる金額です。一週間のうち、ピアノ、一回110元、英語家庭教師一回100元、卓球教室一回60元、ダンス30元。一週間に4回のお稽古事で、300元、一ヶ月ではトータル2400元になるのだということです。

 中国上層社会での教育熱について聞いてはいましたが、実際目の前に「大切に育てられている一人っ子小公主(リトルプリンセス)」がいると、中国で進学するのもたいへんだなあという気持ちになります。教育にお金をかけるかわりに、衣服はお下がりですませるのが、ハンさんの子育て方針だと言っていました。

 シンシンちゃんは、2年前に会ったときに比べるとだいぶ背が伸び、眼鏡をかけたことで、ちょっと大人っぽい印象に変わりました。
 本が好きでよく読んでいたせいか、目が悪くなってしまったと、ハンさんの嘆き。今いちばんのお気に入りの本は『窓辺的小豆豆(窓際のトットちゃん)』だそうです。2年前はディズニーの絵本がお気に入りでしたから、読書の面でも成長ぶりが分かります。

 マーマにならって、私を「センセー」と呼び甘えてきます。今回は「ジャンケンポン、あっちむいてホイ」が気に入って、何度も「センセー、アッチムイテ」と、遊びたがりました。

 ダンスや英語のレッスンは大好きだけれど、ピアノと卓球はあまり好きではないというのですが、「弾いてみて」とリクエストすると、今練習中のスカルラッティのソナタを弾いてくれました。ときどきミスタッチがありましたが、いやいやでもちゃんと練習しているのだとわかりました。
 シンシンに「Can you play piano?」と聞かれて、「両手で弾けるのは、今やバイエルだけだから、片手で弾く」と言って、「これなら、聞いたことがあるかな」と『里の秋』を右手だけで弾きました。

 ピアノはリビングルームにおいてあり、リビングの向かい側はシンシンの部屋。部屋には、ベッドと勉強机。机の上には、マーマやナイナイ(奶奶=父方のおばあちゃん)に買ってもらった鉛筆がならんでいます。
 広い中国には、1本の鉛筆を買うにさえ不自由している子どももいるという現実をシンシンが知るのは、まだもう少し先のことになるでしょうか。

 鉛筆1本買うにも、何の不自由もしていないシンシンがもう少し大きくなったら、ひとつの歌を教えようと思います。

 両手で伴奏を弾くのは私にはまだできないけれど、いつかシンシンに聞いてほしい歌。
 一本の鉛筆の歌。

♪一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く
  一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く

  一枚のザラ紙があれば 私は子どもが欲しいと書く
  一枚のザラ紙があれば あなたを返してと 私は書く

  一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く
  一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く

<つづく>
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2009年08月07日


ニーハオ春庭「大連自然博物館」
2009/08/07
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(3)大連自然博物館

 大連に着いた日の午前中、雨模様でしたが、星海広場という海岸を散歩しました。大連はさまざまな地層が露出していることで有名な都市で、海岸にも、黒石礁などの貴重な地層があちこちにあり、観光名所になっています。
黒石礁風景区の写真のサイトをリンク
http://people.icubetec.jp/special/mapchina/liaoning/pm/a778f01952ef4051a5ac6aa72889d426

 これらの地層を見ているうち、雨がぱらついたので、星海広場に建っている自然博物館で雨宿り。私が「中を見たい」というと、ハンさんは、博物館に勤務している知り合いに電話をかけて、入館許可をもらってくれました。

 この博物館は3日前以前に予約しておかなければ、すぐには入れない場所だったのですが、特別に許可されて中に入れることになりました。貴重な展示品の保護の意味もあり、3日以上前に予約をして身元確認ができてからやっと見学が許可されるということでしたが、博物館研究者の知り合いで身元は確かなハンさんですから、すぐに見学できることになり、ラッキーでした。

 知り合いという人は、ハンさんとは「登山の会」の仲間です。大連付近の山を歩いて植物採集を続け、つい最近、新種を発見したという女性植物研究者でした。
 中国でコネを利用して得をしたのは、はじめてのことです。何のコネもない春庭だったので。

 自然博物館の内部は、東京上野の科学博物館と似たような展示でした。階ごとに岩石と地層、植物、哺乳動物、鳥類、海の生き物などのコーナーがあり、さまざまな標本が展示してあります。中国の子どもたちが自然科学の一端に触れられるようになっていますが、上野の科博に比べると、まだまだ展示に工夫の余地がありそうです。

 最近の日本の博物館は、研究の機能のほか、教育の機能も充実してきていますが、中国では博物館の普及、教育の機能はこれからだろうと感じました。ただ、予約は必要なものの、博物館の入館は無料。これは日本も見習うべきでしょう。日本の国立の博物館は独立法人になって経営が苦しいのはわかりますが、一般の人の入館料は国民の財産として無料にすべきと思います。

 岩石や地層を展示している1階、2階以上の植物、動物、海洋生物など、テーマごとにしっかりした展示でしたが、現在の上野の科博などの展示方法からみると、専門的な知識を持っている人でないとわかりにくい展示が多いように思えました。
 専門的知識のない者にもおもしろく興味をもてるように見せる、という点では、上野の科博は展示方法も洗練されていて、小さな子どもでも、科学への興味が持てる館内構成になっています。大学メンバーズシップという制度があって、大学の職員証を見せると無料で入れるので、折りにふれて科博を見ているのですが、改装のたびに展示が充実してきたと感じています。

 中国の博物館から日本へ研究留学する学者は少なくないだろうけれど、専門の学芸員、キュレーターの養成にも、科博や国立博物館への留学生を送り出せたらいいのになあと、思いました。展示方法ひとつで、ひとつの科学的な展示品が「へぇ」と眺めるだけのものから、無限の科学への興味をひきおこす魔法の品に変わるからです。

 科博にも鯨の骨格標本やプラスチックモデルはありますが、大連自然博物館には、日本にはない展示として、海岸に打ち上げられた鯨をそのまま剥製にして展示してある階が、迫力ありました。ミンククジラ、ナガスクジラ、マッコウクジラなどが、巨大な体躯が展示されていたので、鯨といっしょに写真をとりました。剥製の制作に薬品処理を行っているせいか、においがきつかったけれど、鯨の大きさを実感できました。。

<つづく>
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2009年08月08日


ニーハオ春庭「少女と子犬」
2009/08/08
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(4)少女と子犬

 博物館から歩いて、ブランチをとりに人気の火鍋店へ。昼時にはちょっと早い時間だったので、待たずに入れましたが、昼時夕食時はいつも列を作って人々が待っている店なんだって。それでウエイトレスたちは何を勘違いしたのか、非常にいばっていて、このごろではサービスが最低だと、ハンさんは嘆いていました。
 それでも、デパートもレストランも店員が「国家公務員」でみんな威張っていた時代に比べると、まだましなんじゃないかと思う。サービス悪くても、中国ではサービスの質はどこも悪いから、結局おいしい店が繁盛する。それでますますサービス悪くなる。でも、繁盛している店の食材は回転が早くて深浅だから、おいしい火鍋(シャブシャブ)でした。

 私は、夜行寝台車を降りる前にちょこっとパンケーキやナッツを食べて朝ご飯代わりにしたので、早めのお昼がちょうどよく、おなかいっぱい食べました。薬味のおかわりやお水を頼んでもすぐには持ってきてくれなかったりしたけれど、肉も野菜もおいしくいただきました。

 シンシンちゃんは、小学校の正式科目でも英語授業を受けていますが、ほかに、アメリカ人教師から、毎週英語のレッスンを受けています。英会話がとても上達していて、私とはもっぱら英語で会話しました。読むのは複文OKだけれど、会話では複文が出てこずに単文だけで話す私の英語力とちょうどいいくらいのシンシンちゃんの英語会話力なので、2年前にはジェスチャーでコミュニケーションをとっていたのに比べると、いろいろなおしゃべりができました。

 かわいいシンシンちゃんに、「センセー、Do you like dog?」と質問されて「Of course, but do you mean dog as a pet or dog as a meat? In my childhood, I had a cute dog. I like dog very much. But, in the Korean restaurant I like dog meat 」と、答えたら、おばあちゃんが飼っている子犬を私に見せたいのだと言います。あはは、犬肉が好きかどうかではなく、ペットのことだったのね。シンシンは学校から帰ってくると、近所に住んでいる父方のおばあちゃんといっしょにすごしていますが、おばあちゃんは、最近犬を飼い始め、今シンシンは子犬に夢中で、「リリヤ」と呼び、かわいがっています。
 
 火鍋の昼食後、午後、奶奶(ナイナイ=父方のおばあちゃん)が夕食準備をし、マーマが大学の会議に出かけました。「センセー接待係」はシンシンです。いっしょにシンシンの小学校まで散歩に行きました。住まいは5階ですが、エレベーターがないので、ちょっと上り下りがきついですが、道路を隔てて、空き地を越えていくと、目の前が小学校です。

 空き地には、近所の人が思い思いの野菜を植えています。トウモロコシ、ピーマン、トマト、南瓜などが育っていました。ここもやがては整備されて何らかの建物が建つのかもしれませんが、ちょっとした空き地があれば、たいていそこは畑となるのが、東京などの空き地と違うところかも。東京だと、空き地は駐車場になる。

 空き地でリリヤを放しましたが、まだよちよち歩きの子犬はあまり歩きたがらず、歩かせると行き先とは反対の方向に行きたがる。シンシンは手提げ袋の中に子犬を入れて抱えて散歩しました。
 小学校はすでに夏休みになっているので、校門から中へは許可された人しか入れないというので、門の前で何枚か写真をとりました。小学校前でリリヤを袋から出して歩かせようとしたら、リリヤはよその知らないおばさんにくっついてトコトコ歩き出し、シンシンはまた、袋に入れてしまいました。「子犬の散歩」として出てきたのですが、リリヤはほとんど歩かなかった。

 「少女と子犬」の写真は、とてもかわいらしくて、よい「大連記念」になりました。

<つづく>
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2009年08月09日


ニーハオ春庭「大連海鮮料理」
2009/08/09
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(5)大連海鮮料理

 家に戻って、シンシンが習っているダンスの発表のビデオを何本か見ているうち眠くなったので、お昼寝。夜行寝台車でも十分に眠れたと思っていましたが、朝5時起きだったので、少し睡眠不足だったのか、2時間ほど眠りました。
 昼寝から起きて、シンシンと「あっちむいてホイ」をして遊んでいると、家庭教師のエリスがやってきました。エリスは大連の外国語大学のひとつで英語教師をしています。
 名前は、アリスかと思ったらエリスだというので、ドイツ系のアメリカ人なのかと思いました。

 私の勤務校で、アメリカ人英語教師のトムは日本語教師の2倍の給料を得ており、その金額の差を知ったとき、私たちは「うぁあ、どうしてアメリカ人教師は2倍ももらえるのよっ」と思ったものですが、中国で働きたいという英語ネイティブの教師はまだまだ少ないので、希少価値分が給与に反映されているということです。

 日本語教師のほうはというと、中国で仕事をしていた日本人ビジネスマンが、退職後に中国で日本語教師になったりする例も多く、日本語教師はいくらでも補充がきくと思われている。日本語基礎は中国人教師が教え、ネイティブには「ビジネスで役立つ会話」などを担当させる学校が多いので、日本語文法や音声学など日本語学を学んだ者より、「ビジネス日本語」を知っている者のほうが重宝だ、というわけです。
 日本語教師、日本国内だけでなく大陸でも待遇は悪い。

 と、愚痴はともかく、シンシンが英語レッスンを受けている間にハンさんが大学の会議をすませて帰宅し、ハンさんのご主人も帰宅しました。
 ハンさんのご主人は、大連開発区に本社がある化学会社に勤務しています。お姑さんを大事にするハンさんなので、家族はとても仲良く暮らしている様子でした。

 11歳の孫を持ち、髪が白いので、私よりずっと年上に思えたお姑さん、実は私より一歳年下でした。ハンさんが大学の会議に出ている間、台所で朝市で選んだ海鮮類を下ごしらえして、水餃子も皮から作って夕食の準備を整えてくれました。

 ご主人が帰宅したので、シンシンが英語レッスンを終える前に食事を始めました。ハンさん、ご主人のリューさん、ご主人のお母さん、私。ビールで乾杯し、テーブルには、朝市でハンさんとお姑さんが品定めした大連特産品の海鮮のごちそうが並んでいます。蒸しあわびがメインディッシュ。山葵醤油でおいしくいただきました。

 あわびやなまこ、わかめは、大連の海岸での養殖が盛んで、大連の漁業は近海の漁以上に養殖産業が発達しています。日本で鮑をおなかいっぱい食べるなんてできないことなので、「どうぞ、どうぞ」の声に甘えて、どんどん食べました。蝦の炒め物、魚の蒸し煮もおいしい料理でしたが、なんといっても鮑がごちそうです。
 主食の水餃子は、セロリと牛挽肉。これもおいしかった。

 夜は、大学本部キャンパスの中にあるホテルに泊まりました。大連観光シーズンのため満員で、「一泊ならあいている部屋があるけれど、二泊はできない」と言われて、一泊だけ宿がとれました。

<つづく>
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2009年08月10日


ニーハオ春庭「金石縁の巨石」
2009/08/10
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(6)金石園の巨石

 大連2日目は、海浜リゾートへのピクニックに出かけました。ご主人が会社に行ったあと、お姑さん、ハンさん、シンシンちゃん、私、4人で新交通路線で大連郊外の金石灘リゾート地区(金石灘(滩)国家風(风)景名勝(胜)区)へ。快軌3号線に乗って、金石灘駅まで50分ほど。

 いつもは星海広場の海岸がすぐ近くにあるので、遼東半島の郊外地域に位置する金石灘へは出かける機会が少なく、今回はシンシンちゃんにとっても、初めての海岸リゾート遊覧になるということでした。東京でいうと、お台場の海は近いのでいつも来ているけれど、たまには三浦海岸に遊びに行く、ってところです。

 金石灘駅で、ハンさんは「リゾート半日遊覧」のチケットを購入。一枚60元です。このチケットに、遊覧バスのほか、蝋人形館、地層公園、中国武術館などの入場券が含まれています。

 最初は蝋人形館。ほんとうは、私としては蝋人形はパスしてもいいかなという気分でしたが、シンシンちゃんやお姑さんにとっては、中国の有名人や世界の有名なお話しの主人公を見るのは楽しみなことだろうと思っていっしょに入館しました。

 最初のコーナーは、北京オリンピックのメダリストたち。また、NBAバスケットチーム、ヒューストンロケッツのスター選手、姚明(ヤオミン)の人形と写真を撮るコーナーなどがありました。姚明、身長228cmということは新聞などで見ていたし、写真も見たことあったのですが、蝋人形の前に立ったら、あまりのデカさに、圧倒されました。蝋人形館をちょっと馬鹿にしていましたが、姚明のデカさを実感しただけでも、入ってよかった。

 メダリストコーナーのあとは、毛沢東、周恩来ら偉人コーナー、歴史上の人物コーナーには、始皇帝や康煕帝など中国史の人物のほか、世界史コーナーにはヒットラーやらビルゲイツやら。中国人はお金持ちが大好きなので、ビルゲイツはどこに行っても人気者です。
 世界の有名なお話コーナーでは、ロミオとジュリエットとか、白雪姫とかの蝋人形。ここらへんは、さっさと通り過ぎました。シンシンにとっては、蝋人形で見たお話に興味を持って、これから読書レパートリーになっていけばいいと思います。
 正式名称「金石世界名人蝋像館」の前で写真を撮って、次の観光ポイントに向かう遊覧バスに乗りました。

 次は、私には興味津々の金石園(金石縁公園)へ。大連にはさまざまな地質の標本が露出しているのですが、この金石園は、5~7億年前の海底の地質が海岸に隆起して、さまざまな形の石のオブジェになっています。
 「岩の上に上ること禁止」と書いてありますが、見物客はどしどし登っていって、写真を撮りあっている。石が層になっているようすがよくわかります。こんなに大勢の人が登っていったら、層の部分が削れてしまうではないか、と心配になったのですが、3万㎡という園内の、研究用には保存された場所があって、こちらは観光客用に公開されている場所なのだ、と思うことにしました。

 北京オリンピック前には、政府はやっきとなって観光地のマナー向上キャンペーンを繰り広げましたが、どこにでもゴミを捨てる、ちょっとした暗がりでは誰かしらが立ち小便をしているという中国マナーは、オリンピック終了後は元の黙阿弥で、どうも改善の見込みはないらしい。

金石園の写真を載せているブログをリンク
http://japanese.dda.gov.cn/2009/06/14/1080.shtml

<つづく>
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2009年08月11日


ニーハオ春庭「海の恋」
2009/08/11
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(7)海の恋

 大連には海水浴ができる海岸がたくさんありますが、シンシンちゃんといっしょの海浜ピクニックは、「海の恋海岸」へ。ここは、大連で結婚式を挙げるカップルが、結婚前に婚礼前撮り写真を撮影するときの名所です。私たちが海辺で一休みしている間にも、プロによる写真撮影をしている若いカップルがいました。
 私のクラスの班長さんキンセイさんも5月の休暇の際に大連で結婚写真を撮影したということでした。撮影は何カ所かを移動して行うのでとても疲れたと言っていましたが、この海の恋海岸でも撮影したかどうか、8月に再会したら聞いてみましょう。

 海の恋海岸で、海辺にシートを広げて、大の字になって私とハンさんが寝ている間、シンシンちゃんはおばあちゃんといっしょに膝まで海に入って大喜びです。波と戯れている少女の姿、ほんとうにほほえましく、ほのぼのとしてきました。

 海に入って泳いでいる人も何人かいましたが、ほとんどの人は、波打ち際で波と戯れている。中国13億人の大部分は泳げない。
 私のクラスでアンケートをとったら、大学院修士修了生20名のうち、泳げる人は半分に届かなかった。エンテイさんは、今年初めて友人に泳ぎ方を教えてもらったそうで、彼を含めても10人未満。

 中国内陸部の海や川から遠い学区で育った人は、ほとんど泳げない。学校にプールはないし、水泳教育は中国の学校体育の項目に含まれていない。スイミングスクールに通える上層部の子弟であるか、少年宮などで特別な英才教育を受けたという人でないと、泳ぎ方を習うチャンスがないのです。飛び込みやシンクロナイズドスイミング、競泳での記録台頭著しい中国ですが、一部の英才教育を受けて選手となる人のほかは、水に縁のない人のほうが圧倒的。

 戦後日本で、あっという間にどんな山間僻地の小学校でもプールを設置した、あれはいったいどういう教育施策によったのだろうと、今更ながら不思議に思いました。日本は川が多く、水遊びできる川もあって、プールがなくても泳げる子どもはたくさんいたのに、学校プールの普及はめざましかった。

 幼稚園や小学校1年2年のころ、私は、家から歩いて3分のところに流れる吾妻川で浮き輪でぱちゃぱちゃやっていました。私の小学校にプールができたのは、私が3年生のとき。姉が毎月とっていた小学生雑誌の付録の「ひとりで泳げるようになる本」というのを読んで、その通りにやってみて、浮き輪なしで一人で泳げるようになりました。

 娘が小学1年生のとき、担任教師から「学校は水に慣れさせる場であって、泳げるように教育するところではない」と断言するのを聞いて、娘と息子はスイミングスクールに通わせました。極貧の我が家が教育にお金をかけたのは、このスイミングスクールだけ。娘と息子は、この夏のローマ世界水泳大会をライブで全中継見るほどの水泳好きに育ちました。(ライブを見るために昼夜逆転生活をしていた。予選が始まる午後6時前におき、ライブで午前2時から4時までの決勝を見てから寝る、という生活を10日間)

 娘は高校の、息子は中学校の水泳部に入って選手になりましたが、今は全然泳がず、もっぱらフェルプスや入江、古賀のタイムに一喜一憂してさわぐだけです。たまには海辺へでもでかけて、「海の恋」とやらに遭遇してほしいのに、昼夜逆転生活をぐうたらと続けています。そりゃあ、背泳ぎの入江も古賀も、解説していた平泳ぎの北島もイケメンですけれど、テレビの中の水しぶきでは、足にも手にも水はひっかからない。

 中国では、ミドルクラスの教育熱で、スイミングスクールに子どもを通わせる親も増えてきたそうですが、まだまだ北京上海などの大都市に限られており、全国の子どもたちが泳げるようになるのは先のこと。

 そうね、海で泳ぐのもいいけれど、海岸で恋を語り合うのはもっといいかも、ここは「海之恋」海岸だし。
 なんていうことを思いめぐらしながら、海岸の砂に上に横たわって大連の空を見ていました。

 私もちょっとだけ海に足を浸して、波の満ち引きを味わいましたが、すぐに貝と石を拾い集めるほうに回りました。日本の地質学の先生たちへのおみやげの石。
 葫蘆島市の海辺に行ったときも渤海湾の石を拾いました。大連市も渤海湾のはしっこの半島ですから、基本的にそれほど変わった石の構成ではないとは思うものの、専門家が見たら、葫蘆島の浜辺の砂と大連の浜の砂を比較したら興味深いものであるかと思います。日曜地学ハイキングでお世話になった先生方にいつかお渡ししたいと思って、石や砂を持ち帰ることにしました。

 お姑さんがゆでてくれたトウモロコシやソーセージを食べ、桃をむいてお昼ご飯を潮風と共に味わいました。「海之恋」海岸、やっぱり私は「海の恋」より「海の食欲」でした。潮風ランチも満腹です。

<つづく>

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2009年08月12日


ニーハオ春庭「カンフーショウと満族レストラン」
2009/08/12
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(8)カンフーショウと満族レストラン

 金石灘は、海岸線が20キロも続く天然の地質博物館です。金石縁公園は、5~7億年前につくられた太古の地質地層を見ることが出来ましたが、このあたりの海岸全部が、地質公園。大連の海岸に、さまざまな地質の岩があります。岩礁や岸壁の形やさまざまな色の奇岩があり、海触暗礁林と呼ばれています。
 数億年という年月と風雨に晒された岩は、珍獣奇獣を連想させる形や、小豆色や黄金色など鮮やかな色を見せており、岩というより天然の芸術品です。

 地質学の専門家でない一般の観光客に人気なのは、見立ての岩。日本でも「烏帽子岩」とか「夫婦岩」とか、海岸の岩がいろいろな形に見える場所が観光名所になっていますが、大連でも同じ。「ベートーベン(貝多芬)の頭」という名の岩あり、「恐竜が海を飲み込む」という岩あり。恐竜が首を伸ばして海に口をつけているように見える岩、ほんとうに海水を飲み込もうとしているように見えます。

 金石灘最後の観光スポットは、中華武館という場所での武術ショウ。昔の武術館を模した大きな建物。舞台にスモークがたかれ、武術ショウが始まりました。少林寺、カンフーなどの中国伝統武術が見た目も鮮やかに、次々に繰り広げられます。
 山東省の武術大会でチャンピオンになったという若い女性武術家は、鎖鎌や棒術で華麗な技を披露していました。そのほか、剣山の上に横たわって、腹の上にまた人が乗って剣山を重ねたり、ガラスを粉々に割ってその上で武術を行ったり、これでもかってぐあいに「すんごい!」技が披露され、日々鍛錬を怠らない中国武術の伝統を見せつけました。

 この武術館の隣は、「大連模得芸術学園」です。この、「大連モデルアートスクール」というのは、中国で有数のファッションモデル養成学校。校長は中国出身者で世界的に活躍したモデル出身の方で、ハンさんは、大連のタウン情報誌記者として働いていた頃にインタビューをしたことがあると話していました。とても華やかで美しい人だったそうです。
 1993年創立の大連モデル芸術学校は、中国初の国家公認のモデル養成校として、この校長の薫陶のもと、中国全土、そして世界的に活躍するモデルを輩出し、中国人モデルのの多くがこの学校の卒業生なのだそうです。

 ハンさんと、武術もいいけれど、このモデル学校も観光コースに入れて、ファッションショウを見せてくれればいいのにね、と話し合いました。

 海辺リゾートの夕暮れを身ながら、大連中心街に戻り、夕食は近頃評判という満族料理の店へ。満州八旗の貴族だった祖先を持つ人が、最近の少数民族ブームにのって、満州族の貴族料理の店を開き、大評判なのだとか。久光という日系企業のデパート9階にある「多雨褒王府」という店です。

 入り口には満州貴族の衣装をつけたウエイトレスが迎えてくれて、席につきました。ハンさんは、「ここも人気店になるにつれ、サービスが悪くなった」と言います。電話予約をし、少し遅れるという連絡をしてあったにもかかわらず、「時間に客が来なかったから」と言う理由で予約席がなくなっており、別の席が用意されるまでちょっと待たされました。
 料理は、一般の中華料理とはひと味変わったメニューもあり、おいしかったです。

「多雨褒王府」を紹介しているブログをリンク
料理の写真など
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuaki930jp/18373706.html
店の内装とウエイトレスの衣装
http://www.dalian2.cn/1/viewspace-323#xspace-tracks

 おいしい満族料理を堪能し、7月24日夜10時発の夜行寝台車に乗車しました。ハンさんには、8月の再会を約束し、今回の中国滞在最後の楽しい旅を締めくくりました。

<つづく>
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2009年08月13日


ニーハオ春庭「絵馬にこめた願い」
2009/08/13
ニーハオ春庭・九年母日記0908>再見中国(1)絵馬に込めた願い

 7月25日には、4ヶ月半を過ごした宿舎の荷物整理。8月に再訪したときのために夏服や日用品を残しておくことにして、段ボール一箱とキャリーカート二つを残しました。一番重い本と書類は段ボールにつめて、郵便局へ。SAL便(7kg380元)で送り出しました。あとは、適当にスーツケースにつめて、25kgの飛行機荷物制限内になるように調整。
 残りは手荷物。手荷物はパソコン2台。おみやげのうち壊れ物と、石と砂も手荷物。重たいものは、スーツケースに入れると超過料金を取られるから、手荷物のカートに入れます。

 7月25日夜は、同僚と最後の晩餐。桂林路のちょっとこじゃれたレストランバーで、4ヶ月半の思い出を語りながら中国赴任最後の夕食をいただきました。
 雪も降った3月から、過ぎてしまえばあっという間の4ヶ月半でした。それぞれクラスや町のなかで、いろいろな思い出があったのをふりかえり、しみじみビールやカクテルを飲みました。

 一番楽しかった思い出は?一番たいへんだったことは?など、お互いに披露し合い、それぞれ別々に出かけた旅行の写真を見せ合いました。
 一番若いバンブー先生は、私がしたかった「内モンゴル出身の学生といっしょに、学生が帰省するする村へついていく」という旅行を実施しました。私の部屋に遊びに来た蒙古族のボタンさんに出した私の希望は、「伝統的なゲル(包・パオ)」に住んでいる人がいたら、そこにホームステイしたい」というものでした。内モンゴル出身のボタンさんは、「モンゴル共和国(外モンゴル)にはまだ包で暮らしている人もいるけれど、内モンゴルでは中国政府の定住政策があるので、遊牧生活している人はほとんどおらず、皆、定住の住宅に住んでいる。包(パオ)は、ホテルしかない」ということでした。

 パオに泊まれないなら、無理して今回内モンゴルに行かずに、大連の友人を訪問するということにした私でしたが、バンブー先生はボタンさんとともに内モンゴルへ行き、彼女の家や、羊牧場を経営しているおじさんの家にホームステイをしたと、写真を見せてくれました。モンゴル族伝統の衣装を着て白馬に乗って写真をとっているバンブー先生、カッコいい。ハンサムな先生が文字通りの白馬の王子になっていました。

 一家は羊を一頭解体して、ごちそうしてくださったということです。
 「やはり、日本人だから、羊をしめるのを逐一見ているのはつらかったけれど、せっかくの好意で羊をごちそうしてくれるのだから、見ているのが礼儀かと思って、最初から最後まで見ていた。血も腸につめてソーセージにするところも、これは日本では絶対に作らない料理だから、貴重なシーンと思って見ていた」と話していました。ううっうらやましい。私もいっしょに行きたかったけれど、ボタンさんはバンブー先生のクラスの学生だから、ちょっと遠慮したんです。

 若くて優秀なバンブー先生、4ヶ月半の授業でもさまざまなアイディアを出して工夫しており、パワーポイントファイルの作成でもがんばっていました。
 「~できるように」という文型の練習のときに、私も彼のアイディアの「絵馬に願い事を書き入れてみよう」という教室活動をまねっこでやらせてもらいました。

 パワーポイントで絵馬の写真を見せ、それから神社に絵馬の願い事を奉納しているようすの写真、絵馬に合格祈願や安産祈願などの願い事が書かれている写真を見せました。絵馬の形をA5サイズに印刷したものに「学生の日本語が上手になりますように」「家族が健康に暮らせるように」と書いた私の絵馬の見本を見せ、学生それぞれに、絵馬に願い事を書かせたのです。「日本に留学できるように」「博士号がとれるように」「一家が平安でありますように」など、それぞれの願い。「3班の学生と先生がみな健康でありますように」という気遣いの絵馬もありました。

 書き上げた絵馬は、教室に張り出し、最後は学生に「願い事が叶えられたら、お焚きあげといって、燃やすんですよ」と、解説して持ち帰らせました。
 「健康で中国の任務を遂行できますように」「クラス全員、2級レベル試験に合格できますように」という私の願いも満願となり、絵馬授業は大成功でした。

<つづく>
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2009年08月14日


ニーハオ春庭「再見中国」
2009/08/14
ニーハオ春庭・九年母日記0908>再見中国(2)再びの大陸

 いっしょに4ヶ月半を過ごした日本人教師たち、それぞれに思い出を胸につめ、お土産もスーツケースに詰めて、帰国の朝を迎えました。

 7月26日早朝の便で成田へ。
 空港の手荷物検査でひっかかったのは、ペットボトルに入れた大連海辺の砂でした。X線でのスキャン画面を見ると、爆発物が入ったボトルのように見えたのか、キャリーカートを開けるよう係官に言われました。「これ、大連の思い出の砂ですよぅ。怪しいもんじゃありません」と(日本語で)主張し、中国語上手な同僚が説明してくれました。引き留められるかと覚悟したのですが、公用旅券のおかげか、係官は「sorry」と言って通してくれました。イェンチュヮン先生、援護をありがとう。

 充実していた4ヶ月半の思い出をアルバムに整理しきれないうちに、再び中国へ向かいます。旅行や宿舎での生活部分はまだまとめていないのですが、学生たちとすごした学校での思い出は、pptファイルにまとめました。「3班思い出のアルバム」「3班の仲間たち」という」写真集をパワーポイントファイルにしたので、学生たちにコピーして渡すつもりです。

 クラスの学生がときどきメールを送ってくれるので、1ヶ月離れていた気持ちはぜんぜんしていなくて、ずっと学生たちといっしょにいる気分でしたが、いよいよ再会できます。
 学生のひとりは、みんなで楽しく笑った話をメールに書いてくれました。

 「今、私たちは専門によって、新しいクラスを再編しましたが、原3班の皆さんはいつも一緒に話したり、遊んだりします。みんな一緒にご飯を食べている時、よく先生と一緒に暮らした時期を懐かしみます。3班で勉強する時間が一番短い私はいつもそばでみんなの話を聞きます。みんなの話や笑顔から、先生と一緒に暮らした時の楽しさがよく分かりました。
 ある日、ヨウさんは「老師悄悄的走了,帯走了教我的所有語法」(先生はそっと日本へ帰りました。教えてくださった日本語も全部連れていきました)と言う冗談を言いました。彼は中国の詩人、徐志摩の書いた『再別康橋(さようなら ケンブリッヂ)』という有名な詩を模倣して言いましたから、みんなよく笑いました」

 「再別康橋」という詩は、中国の国語教科書にも載っている有名な詩です。それをパロディにして、専門日本語が難しくて四苦八苦して学習しているようすを「先生は教えた日本語を全部日本へ連れて行った」と冗談を言って笑っている仲間たち、ほんとに愉快でなごやかな、いいクラスでした。

 医学用語、経済用語などの難しい専門日本語に苦労しているようすはメールでもよくわかりましたが、日本語が一段と上達しているようすを知るのが、楽しみです。
 絵馬に願いを書き込んだ通り、「日本語が上達するように」「博士号がとれるように」という希望に向かって、日本語学習を続けていることでしょう。

 広大な中国、行きたかったけれど行けなかったところがたくさんあります。3回目の中国滞在を終えたと思ったら、早くも4回目の中国訪問へ。
 半年ずつ滞在した前の3回と異なり、4回目は、2週間の滞在で短いですが、4回目の目玉は、中国と北朝鮮国境にそびえる長白山(北朝鮮側の呼び名は白頭山)登山です。標高2744m、頂上の「天池」というカルデラ湖を見るのが目的です。

 この山の名前、このあたりを支配していた満州族のことば満州語で「ゴルミン・サンギヤン・アリン(Golmin Šanggiyan Alin、=どこまでも白い山」という意味です。満州族が漢族の文化と同化して、漢字翻訳の「長白山」という名になりました。
 ゆっくり時間をかけて、安全登山を心がけます。
 
 では、4回目の中国行き。行ってまいります。本日出発、帰国は月末。

<おわり>

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ニーハオ春庭中国日記「美人新入生&ベリーダンス」

2011-07-17 08:00:00 | 日記

ニーハオ春庭「美人新入生」
2009/07/23
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(21)美人新入生

 美人揃い、ハンサム揃いの我がクラスの、「美人平均値」が一段と上がったのは、7月6日に、新入生が加わったから。他のクラスの男性陣も「美人新入生」に注目。
 修士課程修了後、大学のアシスタント教師をしていた女性で、自己紹介スピーチとして、生まれ故郷の無錫の紹介をしてくれました。大学の仕事を辞めてこちらに来る前の、自分の教え子学生たちとの記念撮影では、学生に囲まれた写真のようすから、皆に慕われた先生だったことがよくわかりました。修士の専門は日本経済。同志社大学の博士過程では経済学を専攻する予定です。

 彼女は学部では日本語日本文学を専攻し、日本語能力試験1級に合格していますから、本来は、日本語教育の受講は免除されています。しかし、彼女は「日本語の復習をしたいから、クラスに参加したい」と自分から希望して授業に出席することになりました。

 中級の2級レベルを学習しているクラスですから、彼女にとっては、すでに習ったことばかりのはず。でも、彼女は熱心に授業に参加し、クラスメートたちにはよい刺激になりました。

 自己紹介のスピーチでも、1級レベルになると、このようになめらかに豊富な語彙を使って表現できる、と言うことがクラスの学生たちにわかって、よい刺激になりました。
 他のクラスの「まだ恋人いない軍」の男子学生たちも、美人新入生が3班に入ったことをうらやましがっています。

 2007年のときのクラスは、大学若手教師がほとんどを占めていて、21名の学生のうち、独身は5人だけでした。(そのうちの2人は日本に行ってから恋人同士になったようです)

 2009年の今年のクラスは、2008年6月に修士課程修了する前に「国費留学生試験」にパスして、就職経験を持たずに日本語教育を受講している学生がほとんどなので、班長のキンセイさんと、学芸委員のソケツさんが結婚しているだけで、あとは独身。

 といっても、美女美男の我がクラスですから、ほとんどの学生は、学部時代、院生時代にすでに恋人を得ています。クラスの中には、院生時代から恋人同士になったカップルがいて、ふたりが仲良く並んでいるようすは、恋人同士というより、むしろ「長年連れ添った夫婦」のような互いの信頼感と落ち着いた愛情が感じられます。

 男性の「恋人いない3人組」のうち、ショウケンさんは最近「学食デート」して女性といっしょに食事している姿を見かけたのですが、交際申し込みが受け入れられたという噂はないので、まだ恋人成立には至っていないらしい。彼は84年生まれで、一番若いので、これからいくらでも恋人を得るチャンスはあるでしょう。

 男子学生で一番年上のレイトウさんは、学部を卒業した後、数年会社で働いてから修士課程に進学した人です。とてもよい性格で落ち着いた優しい人柄なのに、なぜか今まで恋人はいなかった。
 レイトウさんは、宿題の「習った文型を使って短い文を書いてください」という課題に、クラスメートの学習委員について、話題にすることが多かった。

 レイトウさんは、女性の中で一番若くて日本語が上手な学習係が、気になってならないようすでした。たとえば、「~ばかりでなく」というフレーズをつかって文を書いてください、という宿題を出すと、「私のクラスの学習委員は、頭がいいばかりでなく、美人だ」と、書いてくる。「~はずがない」というフレーズの作文では、「カショさんは、頭がよくてきれいなので、男性は彼女が嫌いであるはずがない」と書きました。

<つづく>

08:21 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2009年07月25日


ニーハオ春庭「シングルたち」
2009/07/25
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(22)シングルたち

 ある日の作文、「~べき」「~か、どうか」というフレーズを使って作文を書きなさい、という宿題ではレイトウさんは、「もうすぐ、中級の授業が終わりになり、クラス替えがある。残念なことにならないよう、自分の気持ちを言うべきだろうか。告白をするべきかどうか、、、、」と、書いてきました。私は、「勇気をだして告白したほうがいいですよ」と、コメントを書き込んで宿題を返しました。さて、どう進展したか。

 学習委員のカショさん、クラスで一番若い(84年生まれ)学生。修士号取得を最短で終了してきた優等生です。彼女は、とても活発で親切。歌と踊りが上手で、日本語も上手です。彼女が、文法問題や日本語類義語の微妙なニュアンスの違いなどを質問してきたときなど、私が日本語で説明し、彼女が理解した後、それを中国語でクラスの人に解説してもらう、という場面もよくあり、学習係としてクラスの日本語学習の向上に役立ってきました。

 彼女には北京に恋人がいて、今は遠距離恋愛中です。中国でも最近の学生遠距離恋愛は、スカイプ利用でパソコンで会話ができ、互いの気持ちを伝えあうのでも、すれ違いはないようです。彼女に恋人がいることは皆知っていました。

 コメントに触発されたのかどうか、レイトウさんは思い切って学習係に告白したみたい。結果は、、、、、、残念。「今、恋人がいるから、ごめんなさい」でした。仕方がないですね、今のカショさんの恋人もとてもすてきな人のようです。
 レイトウさんは、「結果は残念だったけれど、告白しないで心残りになるより、思い切って言ってよかった」と前向きにとらえて、クラスの中では「ふられてスッキリ」とふるまっています。クラスメートたちも皆それを知っていて、温かく見守っています。頭がよく、背が高くハンサムなレイトウさん、いつか必ずすてきな恋人と巡り会うことでしょう。

 もうひとりの「恋人いない歴26年」のエンテイさん、彼とは、毎日学校で顔をあわせているほか、「運命の出会い」がありました。7月4日に宿舎のすぐそばのスーパー近くで、偶然会ったことがあります。エンテイさんは先輩と近くの繁華街桂林路で食事を済ませたところでした。

 エンテイさんは、動物園散歩をしたおりに、私の宿舎へきたことがあるので、「宿舎はすぐそこだから、いっしょにお茶でも飲みましょう」と、部屋でおしゃべりすることにしました。先輩の四喜さんは、日本語は全くわかりませんが、エンテイさんが通訳してくれました。英語が少しはわかるというので、英語で話しかけてみても、エンテイさんが中国語に通訳するので、しばらく、英語日本語中国語のチャンポン会話を続けました。

 エンテイさんの先輩、四喜さんは、近くの大学病院で働いています。二人は薬学を専攻し、先輩の四喜さんは大学病院に職を得て働くようになり、エンテイさんは、大学院へ進学しました。

 エンテイさんは先輩をたて、とても優秀な人だと紹介してくれましたが、四喜さんは、東京大学に国費留学することが決まっているエンテイさんの境遇のほうが、大学病院で働くよりいいと考えているらしく、「大学病院の仕事はあまりおもしろくない」と、こぼしていました。
 確かに、博士過程に進学する国費留学生は、博士号をとって帰国して中国の大学で働くとしたら、薬学部教師のポストが与えられるでしょうから、四喜さんからみると、エンテイさんはエリートコースに乗ったと見えるのでしょう。四喜さんも「まだ恋人いない」でした。
 
 恋人いない歴○○年のレイトウさんもエンテイさんも四喜さんも、きっといつかすてきな出会いがあるだろうと思います。それまではシングル男の自由さを楽しんでください。

 自分の気持ちをきちんと告白したレイトウさんを見習って、私も「運命の出会い」をしたエンテイさんにプロポーズしておきました。「あなたを私の息子にしたいです。日本にいったら、私の娘と付き合ってね」
 回答は、「お友達から始めましょう」でした。

<つづく>
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2009年07月26日


ニーハオ春庭「民族楽器音楽会」
2009/07/26
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(23)民族楽器音楽会

 6月末の学内縄跳び大会で学内イベントは最後かと思っていたら、7月10日に校舎1階の多目的ホールで「民族楽器音楽会」という盛大なイベントがありました。大学教職員芸術団楽団の演奏による、民族楽器の紹介と演奏。6時から8時までありました。
 勤務校のテイ先生の肝いりで、教職員芸術団楽団のメンバーが、学生と教職員のために、演奏会を開いてくれたのです。
  
 テイ副校長は、皆から「書記」と呼ばれている大学の重鎮です。日本の小中学校生徒会とかPTAでは、役員の中に会長副会長の次くらいに「書記」という係があって、会議の記録などを書いていくのが書記ですが、中国で書記といったら、政治局のエリートであり、とてもエライ人。トップは総書記と呼ばれ、現在の総書記は胡錦涛(ホゥー・ジンタオ)です。

 我が校の「書記」テイ先生は、政治のエリートというより、芸術家の雰囲気がする人で、中国語や中国文化を学ぶために中国に留学している外国人学生に、中国文化を教えるなどしています。私も2007年に、太極拳を教えてもらいました。テイ先生は二胡の演奏にも秀でており、大学教職員芸術団楽団のメンバーでもあります。

 演奏会は、「紅楼夢選曲」から始まり、次にテイ先生による民族楽器紹介がありました。私は二胡は知っていましたが、二胡の同類の楽器に、高胡、板胡、京胡、中胡と、何種類もあることをまったく知りませんでした。これらは拉線楽器の種類。
| 吹奏楽器には、竹笛、笙などがあります。日本の篳篥(ひちりき)に似た管楽器、また、巴烏(バーウー)という雲南省の少数民族の楽器も紹介されました。巴烏は、竹の管に銅のリードをつけ、低音の含みのある音が出ます。
 あとは、さまざまな種類の打楽器。京劇でなじみの打楽器が多い。

 弾撥楽器の種類には、日本と同じ琵琶(中国の琵琶が日本へ伝えられたのだから、同じというのは当然だが)のほか、中阮、大阮というバンジョーに似た楽器が紹介されました。
 楊琴と古箏は、以前紹介したことがある私の好きな弾撥楽器です。楊琴はピアノのように鋼線を張った上を、木琴のように棒で叩いて音を出す。私が習ってみたい楽器のひとつです。
 古箏は21弦で、私はクラスの学生の持ち物である古箏を弾かせてもらい、「里の秋」が上手に弾けるようになりました。

 日本にある中国伝統楽器専門店のサイトをリンク。日本では、どの伝統楽器も20万円ほどしますが、中国で買っても、よい品は5千元くらいして、中国物価からすればとても高い。初級者用は千元くらいから。

二胡の類 http://www.13do.com/product-list/11
中阮  http://www.13do.com/product-list/22
竹笛  http://www.13do.com/product-list/15
巴烏 http://www.catalog-shopping.co.jp/shop/shop14/china/bawu/

 テイ先生の板胡独奏では、「東北風吹月児明」という曲の見事な演奏に聞き惚れました。司会をしていたチャンリー先生は、初級コースのときに博士コースの担任だった先生で、男子学生あこがれの美人教師。ダンスも上手だし歌もうまい。チャンリー先生は「好日子」という曲を独唱して拍手喝采を受けていました。

<つづく>
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2009年07月27日


ニーハオ春庭「里の秋」
2009/07/27
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(24)里の秋

 中国人学生にとって、エレキギターなどの現代風の曲を聞く機会はよくあるけれども、民族楽器オーケストラを聞く機会はそれほど多くなく、中国民族楽器音楽会は、中国の伝統文化を知る貴重な機会となりました。
 二胡の演奏では日本の「荒城の月」の演奏もあり、歌や演奏はよく知られた中国の伝統曲ということで、学生たち、2時間の民族楽器演奏会をおおいに楽しんでいました。
 
 演奏会が終わってから、日本人教師は、中国伝統楽器の試演奏をさせていただき、私はあこがれの楊琴を弾いてみました。調律がたいへん難しい楽器だというので、買って帰ることはあきらめましたが、いつか習ってみたい楽器のひとつです。
 古箏、近所の楽器店で2千元という格安ものが展示されていました。日本円に換算すれば3万円くらい。でも、古箏は、大きくて持って帰るのが大変そうだし、狭い家では、いったいどこに楽器を広げて弾いたらいいのかわからないから、これまた買ってかえるのはあきらめることに。

 古箏は、クラス一の芸術家、エイケツさんの楽器を借りて練習しました。エイケツさんに、古箏はドレミソラの五音階であることを教わり、基本的な弾き方、糸の押さえ方をならいました。日本の十三弦の琴と同じです。あとは、さぐり弾きで「里の秋」を練習しました。「里の秋」は典型的な「ヨナ抜き」つまり、ファとシの音が出てこない曲で、しかも音が順番につながって出てくるので、たいへん弾きやすい。
 クラスのカラオケパーティでも、私は「里の秋」を歌いました。スクリーンには中国語の歌詞が出るので、学生は中国語で、私は日本語で「♪し~ずかな静かな、里の秋、お背戸に木の実の落ちる夜は~」と、歌いました。

 「里の秋」は、敗戦直後のラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」や「復員だより」のテーマソングであり、外地から帰る人々を待つ思いが込められている歌です。遼寧省葫蘆島市の「中国及び満州からの引き揚げ者帰国記念碑」の前で歌おうとおもっていたのですが、行くことができずかないませんでした。

 「里の秋」は、中国ではテレサ・テン(麗君デン・リージュン)の持ち歌「又見炊烟」として知られ、女性が恋人のことを思う歌となっています。
 以下、「又見炊烟」春庭拙訳。(簡体字を日本漢字に変換)

想問陣陣炊烟 你要去那里  あなたがこの里を去ってから、私は夕ごはんを炊くかまどの煙にさえ、あなたを思っています
夕陽有詩情 黄昏有画意   夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你  絵のように美しい景色を見ても、私の心の中には、ただ、あなただけがいる
又見炊烟升起 勾起我回憶  かまどの煙を見てはあなたを思い、あなたの追憶にひたる
願你変作彩霞 飛到我夢里  朝焼けの中に、あなたが飛んで私の元へ来ることをどれほど願い夢みたことだろう
夕陽有詩情 黄昏有画意  夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你  詩歌や絵画に美しい境地はあれど、私の心の中には、ただ、あなたへの思いだけがある。
詩情画意雖然美麗 我心中只有你

 テレサテンの歌声はこのサイトで。
http://www.haoting.com/htmusic/21022ht.htm

 私も「里の秋」を歌いながら「引き揚げ」完了です。
 というわけで、「日本の博士課程に留学する日本文科省国費留学生への日本語教育」の全任務を終了し、無事帰国いたしました。
 「だだいま!」


<つづく>
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2009年07月28日


ニーハオ春庭「おみやげは肚皮舞衣装」
2009/07/28
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(25)おみやげは肚皮舞衣装

 おみやげ、妹や職場の同僚への物をいくつか買いましたが、自分のためのおみやげもあれこれあります。
 自分のおみやげに楽器を買うことはやめましたが、「よくお仕事がんばりました」の記念品を買い込みました。そのひとつは、ベリーダンス衣装です。コインをつなぎ合わせた腰巻き(ヒップスカーフ)と、スカート、胸を覆うコインをつなぎ合わせた胸当て。
 
 3度目の中国滞在の今回、東方肚皮舞(ベリーダンス)を3ヶ月間習って、けっこううまく踊れるようになりました。(あくまでも主観的な意見ですが)
 あ、ダンスの老師も、「このリーベンレン(日本人)は、私の説明は听不懂(聞いてもわからない)のに、うまくまねをして踊っている」と、誉めてくれたんですよ。
 私、これまでクラシックバレエ、モダンバレエ、ジャズダンスと、ダンス歴は30年、ベリーダンスもレパートリーに入れることができて、大満足です。

 所属しているジャズダンスサークルへのおみやげにも、ベリーダンスの衣装として10人分ヒップスカーフを買い込みました。来年の発表会のとき、皆で「ベリーダンス風」の踊りを発表するのもいいかなって思って。

 私は、練習のときも臍だしはしませんでした。もっとも私が臍を見せても、だれもドキッリともしやしません。自慢じゃないが、まったく色気を感じさせることのない腹です。インストラクターの劉先生が踊ると、同性でもドキドキするくらいセクシーなのに、同じ動き(をしているつもり)でも、私が踊ると、オバハンの健康体操。

 衣装はこんなイメージ。
http://www.tolcore.com/shopdetail/025000000022/

 いっしょに肚皮舞を練習してきたリグン先生からも腰巻き(ヒップスカーフ)をプレゼントしてもらいました。私が買ったのとは違う種類のコインがじゃらじゃらついているヒップスカーフです。リグン先生はちゃんと臍出し衣装で踊っていましたが、こう言っちゃなんですが、お人柄そのままの非常にまじめな踊りで、少しもセクシーではない。中学生の母親と大学生の母親ふたりが、並んでベリーダンス。リグン先生ともこれで2007年2008年2009年と、3年のおつきあいになりましたが、学校で日本語教育の話だけしているときより、ベリーダンスレッスンでいっそう親しくなれた気がします。

 本場のベリーダンスダンサーは、丸くてふくよかであるほどよし、とされており、やせていて細ければ細いほど美しく見えるクラシックバレエやジャズダンスとは違います。私がベリーダンスを気に入った一番の点は、この「ふくよかであるほうが色っぽい」とされる点にあります。セクシーさにかけてはちと疑問もありますが、「ふくよかさ」にかけては自信あり。

 5ヶ月間の中国滞在、成果はベリーダンスだけではなく、もちろん、日本語教育も大成功だったんです。
 我がクラスは、7月17日に実施された「中級終了最終試験」において、全員合格点で「専門日本語」への進級が決まりました。昨年10月にアイウエオから始まったクラス。私たち日本人教師が中国人の先生とペアになって日本語を教えるようになった3月には、4級レベルだった学生たちが、4ヶ月の間に急速に進歩して、2級レベルの試験に合格したのです。

<つづく>
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2009年07月29日


ニーハオ春庭「最終試験」
2009/07/29
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(26)最終試験

 7月に入るとまもなく、学生たちはカリカリピリピリしてきました。それもそのはず、2週間後に迫った中級日本語最終試験に合格しなければ、8月の専門日本語の授業が受けられず、専門日本語授業の最終日本語プレゼンテーションに合格しなければ、1年間日本語を学び続けた努力は泡と消えてしまうのです。

 日本への国費留学ができるかどうか、この試験にかかっています。いわば、一生の問題が試験一つにかかっているのです。試験に合格すれば、日本で博士号をとり、中国に帰国後は「エリート」としての将来が開ける。不合格ならせっかくのチャンスをふいにして、どこかに就職口を探すことになる。中国でも修士修了者が増えている現在、おいそれと望み通りのポストはないし、一般会社の就職口もよい条件のところは限られています。

 動物園散歩をしたあと、私のクラスから6人の学生が私の部屋に遊びに来たのですが、その後、私が日本語教師勉強会で発表しなければならなかったり、論文を提出しなければならなかったりで、時間がなかなかとれなくて、学生を部屋に招待することができませんでした。

 「先生の部屋に行って、おしゃべりできなくて残念だった」という学生がいたので、「試験前ではありますが、もし来られるなら、週末に遊びに来てください」と、クラスの人たちに言っては見たものの、「先生の部屋に行きたいです。でも、試験はもっと大切です」と、ソッコー断られました。もっともなことです。

 学生たちは放課後も週末も、ぴりぴりしながら猛勉強を続けました。私は、学生たちの不安を少しでも取り除きたいと、連日「必ず合格するから大丈夫」と言い続け、「ダンチョー先生が去年の修了生の試験平均点との比較をしたところ、3月の4級レベル試験の平均点でも5月の3級レベル試験の平均点でも、今年のほうがずっと点数が高い。そして去年、最終試験に不合格だった学生はいないのだから、今年も絶対に全員合格します」と、合格できるという暗示をかけ続けました。

 むろん、心配な人もいました。私に古箏の弾き方を教えてくれた芸術家のエイケツさんは、これまでの試験すべて合格点に達したことがなく、百点満点で90点80点とるのが当たり前というクラスの中で、一人だけ日本語がなかなか上達しませんでした。さぼっているわけでもなく、授業にはまじめに出席するし、教科書にはびっしり書き込みをして、一生懸命勉強しているようすが伺えました。でも、私が中国語を覚えられないのと同じように、相性の悪い言語はあるもので、英語ドイツ語フランス語ができるのに、エイケツさんは日本語が覚えられない。

 コミュニケーションをとることが語学上達の要なのに、彼女はクラスの中で孤高を保ち、クラスメートともルームメートとも交流しないでいました。友達と教えあうことは、教える側にとっても理解を深めることになるので、ペア学習、グループ学習は語学学習を成功させる重要な方法ですが、彼女だけは誰とも話さずいっしょに勉強せず、ひとりでいました。誰彼と無く面倒を見てきた学習係のカショさんも彼女だけはお手上げ。

 エイケツさん、芸術家風で変わり者ではありますが、純粋な心根を持つ、いい子です。中国語で執筆されている彼女の「昆曲のリズムと造園法」という修士論文も、その道の専門家に高い評価を受けています。私の願いは、なんとか彼女が合格点をとること。いっしょうけんめい励まして、17日を迎えました。

<つづく>
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2009年07月30日


ニーハオ春庭「合格」
2009/07/30
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(27)合格

 クラスの中で一人で過ごしているエイケツさんのことが、いつも心にありました。仲間と付き合うのが苦手からといって、決して悪い子ではなく、ただ人とうち解けることが難しいだけで、本来はとても純粋なよいひとです。音楽や芸術を愛する女性です。
 エイケツさんが仲間と円満にすごして最終試験を迎えられるよう願ってきましたが、エイケツさんは日本語学習がうまくいかないというイライラが昂じたのか、あと授業は残すところ1週間という時点でクラスメートとトラブルを起こしてしまいました。
 担任のシャ先生や日本語教育主任のマー先生が学生との面談を繰り返して、なんとかエイケツさんとクラスの対立を宥和しようとしてくださったのですが、なかなかうまくいきませんでした。

 エイケツさんが変わり者でクラスになじもうとしないとしても、それは彼女が芸術家であるからなのであって、縄跳びやカラオケに参加しようとしなくても、クラスは彼女の個性を認め、決して排除しようとしたりしなかった。この対立事件のあとも、クラスメートは彼女を仲間はずれにしたりせず、班長(クラス委員長)の結婚祝いのミニビデオ制作のときも、クラスの仲間たちとお祝いのメッセージを吹き込んでいました。

 エイケツさんも、きっと私の祈りが通じて合格するに違いないと信じて、17日の試験当日となりました。私の試験監督担当は、皆が苦手だと言っていた聴解の時間。エイケツさんは、文法苦手ですが、音楽得意なだけあって耳がいいので、聴解の点数はいいのです。自信をもって聴解試験を受けてほしい、そう思ってLL教室を見回しました。

 学生たちには、再試験もあるし、絶対に不合格にはならないから、不安なく試験を受けるように言ったのですが、小学生のときから常にトップの成績を取り続けてきた学生たち、万が一、最初の試験で合格点に達せずに再試験にでもなったら、恥ずかしくて仕方がない、と考えているのです。

 恥ずかしくないよ、語学試験なんて、その時の運、不運によってうまく自分の勉強したところが出ればよくできるし、運悪く勉強していないところがでる場合だってあるんだから、それでその人の全能力が判断されるわけでもない。百メートルを10秒以内で走れる人ばかりではないし、42kmを2時間で走れる人ばかりではないのと同じく、語学が不得意だからとしても、皆、それぞれの専門に関しては優れた業績を残してきた人ばかりなのだから、落ちたら堂々と再試験を受ければいいのさ、と、学生には言いましたが、実は私のクラスで再試験を受ける可能性があるのは、エイケツさん一人。

 結果。
 全員一発合格でした。17日の合格発表の時間、日本人教師たちは帰国の荷物を送り出すために郵便局へ出かけていました。携帯電話の連絡で全員合格を知り、航空便の段ボール箱に名前を書きながら、ボロボロ涙がこぼれました。2007年に全クラス全員合格の報を知ったときもうれしかったですが、それ以上に泣けてきたのは、エイケツさんの結果を心配する気持ちがあったからでしょう。
 エイケツさんは、「ぎりぎり合格」でもいいと思っていたのに、とてもよい成績をとっており、ラストスパートでどれほど彼女が努力したのかよくわかりました。

<つづく>
06:52 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2009年07月31日


ニーハオ春庭「合格祝いカレンダー」
2009/07/31
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(28)合格祝いカレンダー

 試験結果を見て、ソッコー故郷へ帰宅したのは、班長のキンセイさん。2週間の夏休みの間に、故郷で結婚式をあげるそうです。新婦は大学院の同窓生で、秋には二人そろって日本へ留学する予定。キンセイさんは国費留学ですが、奥さんは夫にあわせた私費留学。ふたりとも留学後は同じ指導教官のもとで研究を続けます。

 他にも、即刻帰省する学生が多く、金曜日の試験が終わってみると、残っているのは、電車の切符が試験の翌日翌々日にしか手に入らなかった学生たち。みんな一刻でも早く故郷の家族に会いたいのです。夏休みは2週間しかないので、故郷が遠い人の中には、今回は帰省しないという学生もいるので、「今回、帰省しない人は、先生の部屋に来てください。ビールで合格祝いの乾杯をしましょう」と言いました。

 土曜日と月曜日の2回、担任クラス3班の学生やそのルームメート、恋人もいっしょに集まりました。土曜日は、「先生の部屋に午前中しかいられません。午後の電車で家に帰ります」という人たち。ビールで乾杯!みな、試験が終わってほっとした顔で楽しくおしゃべりをして、故郷へ帰っていきました。

 月曜日は、「今回は帰らないで勉強をつづけ、専門日本語の最終プレゼンテーションに合格して留学が正式決定になってから帰省する」という学生が集まって、ビールとおしゃべりのあとは、宿舎の宴会ルームで昼ご飯とカラオケ。パラパラを踊ったりお得意の歌を歌ったり。

 私が「合格祝いにお昼をごちそうする」と言ったら、最初、学生たちは困っていました。中国では、学生と先生がいっしょに食事するとき、必ず学生が教師を招待するという習慣なので、教師からおごられるということにとまどうのです。「でも、今回だけは合格祝いですから、先生におごらせて」と言い、学生たちがまごまごしているうち、足止めの激しい雷雨となりました。学生も納得してゆっくり食べ、外の雷雨がやむまでたっぷり時間をとって歌い踊りました。

 帰省する故郷の家族へのお土産の一つは、私が手渡した「ひとりひとりへのメッセージ入り、日本の2010年のカレンダー」です。表にはパソコンからダウンロードした暦と「加油!(がんばれ)」の文字、裏には、クラス集合写真に、私が学生名をワープロ打ち込みをしたものを2つ作りました。1枚目には、私からひとりひとりへのメッセージを手書きで加えました。2枚目には、学生から家族へのメッセージを書かせて、ラミネート加工して学生本人用と家族用の2枚のカレンダーを作りました。

 他のクラスは写真屋さんに発注して写真とカレンダーをあわせてラミネートしたので、仕上がりは我がクラスより立派ですが、私のクラスは、学生の名前を入れたり、教師からのメッセージを入れたりという「手作り感」がポイント。ラミネート加工はA5サイズが1元(15円)、A4サイズは2元。値段は安上がりに仕上げたけれど、心がこもっているってところがミソ。お金はかけずに手間暇かけた。そして、ひとりに2枚ずつカレンダーを配ったってとこが「2倍お得」

 「このカレンダーは、先生からご家族へのプレゼントです。家族と電話やスカイプで話すとき、日本ではいつが休みの日なのか、これを見ればご家族にもよくわかるから、おうちの壁に貼っておいてね。」と、配りました。お手製合格祝いを皆よろこんでくれました。

<つづく>



2009/08/01
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(30)帰国&帰省

 カレンダーに書き入れた、私から学生へのメッセージ。キンセイさんへは「結婚おめでとう。二人で力を合わせて研究してください」、エイケツさんへは「古箏の弾き方を教えてくださって、ありがとう。いつかまたいっしょに合奏しましょうね」と、ひとりひとりへの思いを込めたことばを書きいれました。

 学生から家族へのメッセージには「必ず博士号をとって日本から帰るから、体に気をつけて待っていてください」とか「一家が平安でありますように」などの思いを込めたことばが中国語で書かれています。それぞれが「世界にひとつだけの手作りカレンダー」になって、よい記念品になったと思います。

 学生から私への記念品は、ひとりひとりの手書きメッセージに写真を添えた記念アルバムです。授業最終日の7月16日に、班長さんが代表になってプレゼントしてくれました。

 全任務を終了し、基礎日本語終了を祝うカレンダーを配りながら、来し方を振り返る。3月中旬から7月下旬まで4ヶ月半の短い赴任期間でしたが、成果はいろいろありました。

1)本務。担任クラス19名の2級レベル試験合格(受験した5クラス全員が合格し、国費留学生の資格を保持しました。さすが、中国全土から選抜された修士修了者たちです)

2)4ヶ月半の間に、文科省視察団の授業参観、日本語教師団団長の授業参観、中国人教師の個人的授業参観2回、勤務校中国人日本語教師総見の授業参観、他校の教師による参観、都合6回、参観授業を実施した。

3)本務に付随する仕事。教師としての実践報告。「文型教育及び読解教育のなかで行うパワーポイント利用の日本事情教育」という日本語教育実践報告論文を1本仕上げ、勤務校の「創立30周年記念論集」に応募。査読にパスして、国際日本語教育シンポジウムでの発表者に選ばれました。8月16日発表日に併せて再び中国へ行くことに決定。

4)大学院博士課程学生として。日本語言語文化に関する紀要論文を1本仕上げ、大学院のジャーナルに掲載。

5)「村上春樹研究」で博士論文を提出する中国人日本文学研究者の論文添削をはじめ、3人の中国人日本語教師の日本語日本文化研究論文の添削をした。学部4年生日本語科学生(日本人講師室アシスタントを務めてくれたかわいい女子学生ふたり)の卒論を添削。都合、論文4本卒論2本の添削。皆、私のところに添削希望を持ち込んできます。気安く頼みやすいからだと思います。

6)勤務地の日本語教師勉強会で、「日本語教育実践報告-パワーポイントファイルの読解教育利用-その利点と欠点」について発表。

7)東北地方の三か所の世界遺産見学。集安市、好太王石碑と将軍墳ほかの遺跡。遼寧省葫蘆島市の九門口長城。瀋陽市のヌルハチ陵や盛京故宮。

8)ベリーダンス習得

 私としては8番目のベリーダンス習得をおおいに誇るところです。おお、すばらしい活動成果!と、自分で誉めておく。娘&息子からは「ああ、あ、暑苦しいハハオヤが帰ってきちゃったよ」というふうに迎えられているのですから、せめて自分で自分に「よくがんばりましたで賞」くらい贈ってあげないと。

<つづく>
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2009年08月02日


ニーハオ春庭「健康第一」
2009/08/02
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(31)健康第一

 7月31日午後は、健康診断。区の無料診断の締め切りが7月31日でした。朝から食べてはいけないというので、ダイエットになるからがんばれと、自分を励まして午前7時に目覚めてから午後5時の検診開始まで空腹に耐えました。えらいなあ、私。って、みんな検査のときはこれくらいやっているよね。普段空腹に耐えることないので、えらい大仕事した気になっています。

 血液検査は、外部検査に出して結果が戻るまで5週間かかるということですが、あとの結果は、X線レントゲン、血圧、心電図、尿検査すべての数値が理想的な範囲に収まっていて、何の問題もない健康体であると、内診の若いお医者さんが保証してくれました。母と妹が患っていた糖尿病について心配していたので、今回の数値ではその心配もなかったことがわかり、ほっとしました。血糖値の心配は残っていますが。

 無事、中国での任務を全うすることができ、元気に帰国できたのも健康であったればこそ。同僚の先生方、みな一度はおなかの調子が悪くなり「脂っこい中国料理はこれ以上食べられない」という状態になったのに、一番年寄りの私ひとり、最後まで中国料理を食べ続けました。

 レストランで日本料理を食べたのは5ヶ月で6回。「古本吉田」というチェーン店の牛丼屋に1回、「888ラーメン」という北海道ラーメンのチェーン店に3回(安いから)、「プチ北国」という和食レストランで刺身定食1回。長白山ホテルの中にある「紅葉」という和食レストランで「200元で和食食べ放題」というのに1回行きました。

 自炊で和風料理を作ったのも、みそ汁を何度か作り、菜っぱのお浸しを作ったのやカレーライスを一度作っただけで、あとは大学職員食堂のセルフサービス中華ランチと宿舎食堂のテイクアウト中華おかずで暮らしました。中国の野菜料理、油炒めが多いので、たまには野菜をゆでただけの物に醤油だけでさっぱりと食べたくなりましたが、あとは特に、刺身が食べたいとか肉じゃがが食べたいとか思うこと無かった。東北地方料理も、湖南料理も北京料理も、何でもおいしくいただきました。健康で過ごせたのも、鉄の胃袋を持っているおかげと思います。

 また、今回特に人間関係のトラブルがなく過ごせたのも、快適に過ごすために大いに役立ちました。2009チームの先生方のお人柄のよさに助けられての5ヶ月間でした。
 最初に中国で仕事をした1994年のときは、いっしょに赴任した男性助教授と女性助教授の折り合いが悪く、毎日のように机をたたき合って口論していたことを思うと、今回の派遣では6人のチームワークがたいへんうまくいき、机を叩くことも意地を張り合うこともなく過ごすことができたこと、ひとえに私の人徳のおかげ、、、、ってことはまったくなくて、、、。私は、最年長なのを掲げて、いつも「私は年寄りだから」と言い訳しつつできるだけ楽をしようと考え、皆に助けてもらうばかり。

 特にパソコン関係ではわからないことだらけなので、何かというと若い先生にパソコンの設定やらをお尋ねしながら仕事をしました。親切な同僚のおかげでなんとか任務全うできたのです。

 私が何か役にたったとしたら、ダメだめぶりを皆に見せ続けて、あんながさつな人間でも何とかやっていけるのだ、ってことを示せたことくらいかな。年中ばたばたとあわてていて、何かと忘れ物が多く、1回の授業で教室から2度3度忘れ物を取りに講師室に戻ってくる。毎日のドタバタぶりをみせて、年取ってもあんな程度でやっていけるのだ、という安心感を与えることができたかもしれません。

 また、誰一人中国語が話せなかった2007年の派遣チームと異なり、今回は中国滞在歴2年の先生や、以前中国で仕事をしたことがあり、中国語韓国語両方話せる先生もいらっしゃった、ということも、ストレスが少なかった理由だろうと思います。日本語を教える学校の中にいる限りでは、中国語を一言も話すことができなくても仕事はやっていけます。でも、町にでると、片言でも中国語が必要になる。そんな時でも、中国語ができる先生は、一人で着々と暮らしていて日常生活がスムーズにいくので、私も安心できました。

<つづく>
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2009年08月03日


ニーハオ春庭「みなさんありがとう」
2009/08/03
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(32)みなさんありがとう

 今回の中国滞在中、宿舎の生活でのトラブルは、道路工事のため3日間水が出なかったことと、水は復旧したと思ったら、そのあと3日間お湯がでなかったことがあった、ということくらいです。同僚はスポーツジムのサウナに出かけたりしていましたが、私はヤカンでお湯を沸かして体を拭いてしのぎました。不自由だったことはこれくらいで、あとは日本と比べてこれがなくてたいへんという物質的なことはなく、おおむね生活は快適でした。

 不自由だったのは、ユーチューブが制限されていて、ネットから遮断されていたことかな。投稿サイトは、政府にとって都合が悪いことも映し出してしまうので、情報の元そのものが遮断されたままでした。チベット問題も新疆ウイグル自治区の暴動も、テレビが伝えるニュースは、政府側の発表に基づく情報だけでした。

 あと、不自由と言えるのは、私の中国語がまったく進歩しなかったこと。片言でなんとか生活できてしまうので、それ以上の中国語を学ぶことがなく、4ヶ月半すぎてしまいました。今回の赴任では仕事仕事の毎日で、ちょっとの間があればパソコンに向かっていたので、中国語を学ぶ時間もなかったし。

 たとえば、私の部屋では風呂場のシャワータンクから漏水したこともありましたが、漏水のときは、受付へ行って、シャワータンクの絵を描き、水がぽたぽた垂れるようすを描いて、ただ「水、シュイ」と言いました。「明白了、ローシュイ、明天修理」と、受付の人に言われて、あれ、漏水は中国語でローシュイっていうんだ、と気づく程度の中国語力の私が何とか暮らせたのも、複雑な話になったら、同僚の中国語に助けてもらったおかげ。

 前回、前々回の滞在中は、中国語の家庭教師を頼んで、少しでも中国語を覚えようとしたのですが、今回は「もう年寄りだから、これ以上中国語覚えられない」と、完全に投げていました。そんな私でも、任務完了できたのは、同僚の先生たちに恵まれたからと感謝しています。
 おなかの調子をくずした人はいましたが、病院に行くほどの病気になった人がいなかったというのも、今回のチームがなごやかにすごせたひとつの理由。
 私もベリーダンスで踊ってストレス発散できたし、みなが体調よくすごせたことが、一番よかったことでしょう。中国人の同僚先生にもいろいろ助けてもらいました。

 担任クラスの学生たちにも恵まれました。前回前々回の学生たちももちろん非常に優秀な人たちで、よいクラスでしたが、今回も優秀で人柄のよい学生のクラスであって、たいへん助けられました。
 班長(バンチャン=クラス委員長)のキンセイさんは、皆から「シーバンチャン」と慕われ、リーダーシップを発揮しても決して強権的ではなく、なごやかにクラスをまとめていました。

 学習委員のカショさんは、日本語の聞き取りも上手で、クラスの皆の学習に役立ってくれました。体育委員のヨーショーさんは、明るく元気に縄跳び大会やバドミントンのとき活躍していたし、学芸委員のソケツさんは、人妻らしい落ち着きを見せながら、教師歓迎の学芸会をとりまとめていました。生活委員のエンテイさんは、クラスメートの寮生活やみなでお金を集めてパーティをするときなど、きちんと配慮して対処していました。その他の学生たちも、皆なかよく、楽しくクラスの中でお互いを認め合って、互いの個性とそれぞれの専門分野では優秀な人であることを尊重しあっていました。

 8月の専門日本語は、今までの基礎日本語のクラスがバラバラになり、専門ごとに10クラスに分かれる編成になります。医学専攻のクラス、化学専攻のクラスなどになるので、また違う雰囲気のクラス作りとなるでしょうが、基礎日本語クラスの3班は、8月に私が再び中国に行ったときは、もう一度元の仲間が集まってクラス会ができるかもと、期待しています。
 
 みなさん、本当にありがとうございました。

<つづく>
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2009年08月04日


ニーハオ春庭「論文発表会」
2009/08/04
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(33)論文発表会

 帰国してものんびりはしていられません。
 8月中旬には、中国での勤務校が主催する国際日本語教育シンポジウムで発表するために、再び中国へいくことになったし、9月には前期お休みした分の授業の集中講義があります。学部日本人学生向けに1週間は日本語学概論、2単位分。2週間は日本語教授法4単位分。朝から夕方まで、一日に90分4コマの授業を集中して行います。声が枯れそう。
 さらに、学生としては、大学院の単位にする英文学との比較文学論のレポート執筆が2本。9月末日にはもう一度博士論文中間発表を行う。

 6月にパソコン故障のため失敗した「博士論文中間発表会」の再実施が7月30日に実施され、拙い発表でしたが、なんとかこなすことができました。事例研究として発表した論に対し「実証研究としてのデータがきちんと出されていない」という叱責も受けましたが、定型文の「今後の課題としていきたいと存じます」で切り抜けました。官僚や政治家の発する「前向きに検討していきたい」みたいなもんです。昨年9月の第一回目の中間発表に続き、第二関門突破。

 6月4日に予定されていた私の「中国からサイバー方式で博士論文中間発表を行う」というイベントが、その6月4日当日の朝にパソコンハードディスク損傷というアクシデントで、すべておじゃんになりました。
 指導教官は私のために何度も大学院教官の会議を要請し、前例のないことはしたくないという他の教官を説得して「中国からの発表を認める」ということにしてくださったのに、パソコンが壊れたという情けない事情で、先生の努力も無駄にしてしまったのでした。

 指導教官は、なおかつ「7月30日に再度、発表の機会を与える」という結論を教官会議で決議してくださり、チャンスを残してくださった。ですから、30日の発表はぜひとも成功させなければなりません。

 30日の発表、今度こそうまくいきますように、と祈りつつ迎えました。それでも、学生たちが試験を前に緊張していたほどではありません。学生たちは試験に落ちたら日本への留学ができなくなり、人生が変わってしまう。彼らと異なり、私は博士号とったからといって、残り少ない人生がよくなるわけでもありません。

 私が博士号を取ろうと志したのは、ただ、還暦記念として自分の学業に記念のメダルが欲しかっただけ。還暦記念にエルメスケリーの60万円のバッグを買うのも、1カラット60万円のダイヤの指輪を買うのも、博士号を取るのも、同じことです。私にはブランドバックよりもダイヤモンドよりも博士号が欲しかったというだけです。

 実は、ハカセゴーというのは、けっこう高い買い物です。私立大学の博士課程在学には3年間に結構な額の学費をつぎ込むことになる。息子の私立大学費も払わねばならぬ女の細腕にとって、いくら「服も化粧品もいらぬ」と節約してもスネが細るばかりの教育費。しかも、ダイヤはお金を出せばかえるけれど、博士号はお金を払っただけでは買えない。

 どうして修士課程出身校の国立でなく、学費の高い私立に進学したのか、と中国で学生に質問されたことがあります。出身校の博士課程の入試には、語学試験で「2つの言語に堪能なこと」というシバリがあった。英語と中国語とか、ロシア語とスペイン語とか、ふたつの語学ができることを求められた。私ができるのは英語とスワヒリ語ですが、入試科目にスワヒリ語はない。私立では英語だけでよかったので、語学苦手な私は「筆記試験は英語と論文」でよい私立を受験したのです。

 お金で買える博士号もあります。ディグリーミルと呼ばれるインチキ博士号にだまされて大枚はたいてしまった人もいる。ご注意あれ。海外からの迷惑メールの何割かはこの「博士号を手に入れませんか」というディグリーミルからの宣伝です。

 博士課程在学の学費をつぎ込まないで、論文執筆のみで博士論文審査に提出することも可能でしたが、怠け者の私は、コツコツ論文を仕上げるより、レポートや発表、紀要論文などで尻をあおられるほうが、確実に課題をこなしていけると考えたのです。今のところ、とりこぼしは、6月の中間発表、サイバー発表の失敗だけ。単位は取れてます。

 中国で、アラカン(アラウンド還暦)の記念品に、還暦祝い赤いちゃんちゃんこがわりの赤いポロシャツを25元(約400円)で買いました。これを着て近くのスーパーに買い物に行ったら、スーパーの店員がみな似たような赤いポロシャツを着ていた。スーパーのお仕着せとそっくりのシャツで、偽スーパー店員になってしまって「○○売り場はどこか」とか質問されて困りました。「○○」が聞き取れなかった。
 いつものように「听不懂チンブートン聞いても理解できない」と答えたのではまずかろうと思い、偽店員の返事は「不知道ブーチーダォ知りません」。

 本物の店員に聞いても、持ち場以外の売り場に関してはつっけんどんな返事しか帰ってこないので、まあ、スーパーのサービスに関して苦情が出るようなことはなかったろうけれど。同僚たちは赤いポロシャツを目にするたびに笑って「あ、今日はスーパーに出勤ですか」とからかうのでした。
 店員としては偽物でしたが、博士としては本物を目指したい。

 7月30日には、なんとか「博士論文中間発表」を終え、第二関門のクリアです。研究の不備を指摘され指導されたのは当然のこととして、次の発表9月末までにもっとよい論になるよう、まとめていかなければなりません。ファイナルステージまで、元気に持ちこたえていきたいものです。
 4ヶ月半の中国での任務、日本での博士論文中間発表、この半年間、厳しいけれど充実した日々をすごすことができ、老骨むち打った甲斐がありました。偽スーパー店員になったり、学生たちとカラオケで歌ったり踊ったりした日々をなつかしく思い起こしています。

<おわり>
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ニーハオ春庭中国日記「楽しいクラス」

2011-07-14 06:03:00 | 日記
2009/07/11
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(10)跳縄比賽(縄跳び大会)

 先月末、6月29日月曜日、校内縄跳び大会が開催されました。2007年の綱引き大会では、私のクラスは0勝2敗で敗退しました。(負けたけれど、「残念賞パーティ」は盛大にやりました)
 2009年の縄跳び大会では、ぜひ我がクラスが優勝してほしいと、学生たちの練習を見たり、教職員チーム対抗戦に出場すべく、自分でも縄跳びの練習をしました。

 大縄の部は、チームは男女混合10人。二人が大縄を回し、8人が順々に縄に入って跳び、3分間に何回飛べたかを競います。短縄の部は、各クラス代表5名が、3分間に何回飛べたかを競います。
 短縄跳びは、中国の「びっくり特技披露」の番組でも、ときどき出場者があるので、中国ではこの競技が盛んなのでしょう。

 3分間に何回飛べるかが、大学入試の体力テストに出題されたこともあったそうです。せっかく学力試験に合格しても縄跳びの回数不足で入試に落ちたらしょうがないので、中国の高校生は縄跳びもしっかり練習しているとか。とにかく縄を回すスピードがものすごく、テレビのチャンピオンは3分間に300回近く跳んでいました。

 我がクラスは「絶対に優勝したい」と、意気込み、縄跳び試合当日の10日くらい前から、連日猛練習が続けられました。日本の大縄跳びは、10人が同時に縄に入って何回飛べたかを競うのが多いですが、今回の縄跳び大会は、順々に縄に入るほう。
 1位のクラスには300元、2位には200元、3位には100元の賞金が出るというので、どのクラスも昼休みや放課後に熱心に練習しました。

 我がクラス「博士3班」の代表10人は、ものすごいスピードで回る大縄につぎつぎと入って行き、練習以上に順調に跳び続けました。しかし、3分間の後半では体力が落ち、何度か縄にひっかかりました。結果、3分間に268回跳んだ。しかし、我がクラスよりスピードがゆっくりだったために縄に引っかからずに順調に跳び続けた隣のクラス「博士2班」の280回に及ばず、3位でした。(2位は他コースのクラス)。

 教職員の部では、日本人教師団、皆、日頃の運動不足にもかかわらずがんばって跳び、3分間に165回跳んで2位。1位は例年そうですが、事務職員チームでした。中国語先生チームや中国人日本語教師チームに勝ったので、2位でも大満足です。教職員の部2位の商品はシャンプーリンスセットでした。

 個人の部、学生の部の優勝記録は、3分間に220回。私のクラスの学生は、170回台の記録で賞には入りませんでした。よく練習していてすごいスピードで縄を跳んでいたのですが、やはり「ひっかからないこと」が大事なようです。

 私は個人短縄の部にエントリーしていなかったのですが、同僚の日本人教師が跳ぶというので、エントリー外の飛び入り参加。3分間に86回の記録。トホホ。3分のうち、後半の1分間は疲れて、何度も縄に引っかかったので、記録が伸びませんでした。同僚の20代男性バンブー先生は175回。若さには勝てません。

 3分間縄を跳び続けるというのは、ものすごく疲れる運動だということがよくわかりました。縄跳びの縄がお手元にある方、ちょっと跳んでみて。3分間続けて跳んでみると、ボクサーがいかにも軽そうに縄跳びを練習に取り入れているのが、たいへんなことなのだとよくわかります。
 ただ、言わせてもらえば。翌日、他の先生方はみな筋肉痛で、「足が痛い」と嘆いていたけれど、日頃ベリーダンスで足腰鍛えている私だけが、足が痛くならなかった。エヘン。

<つづく>
07:35 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年07月12日


ニーハオ春庭「縄跳び練習」
2009/07/12
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(11)作文「縄跳びの練習」

 学生が、縄跳びについて書いた作文を紹介しましょう。「学習した文型を使って、文章を書いてみましょう」という宿題です。300字程度の短い作文の中に、既習の文型を折り込む。テーマは自由で、習った文型を使ってみることが目的です。長く書く学生もいるし、数行で終わる学生もいる。「中級日本語16課・練習と人生」という読解の課を学習したときの宿題だったので、「練習」をテーマにした学生が二人いました。
 縄跳びは学生にとっても印象的なイベントだったようで、「~に限られる」「~できるだけ」「~というのは」「むしろ」「その上で」「べきだ」などの16課の既習文型や語句を上手に折り込んで文章をまとめていました。

 日本語をアイウエオから習い始めて、まだ1年たっていないのですから、誤用はありますが、中国語では修士論文も書き上げてきた学生たちです。皆、既習文型や語句をうまく折り込んであると、感心しています。( )の中は添削前の誤用です。
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キョウレイリ「縄跳びの練習」
 来週の月曜日は、大縄の試合がある。広報(広告)によると、団体試合のチームは10人に限られているそうだ。毎日の午後、私たちは練習している(する)。というのは、優秀賞を取りたいからだ(た)。訓練の中、ちょっとミスをしたくらいで、全員に(を)影響される。それから、スピードを上げると言うより、むしろミスを減らした方がいい。その上で(に)、相手の情報を集められれば(集められば)よい。学生は団体活動に(を)参加すべきだ(参加べきだ。)それは、貴重な体験になるだろう(珍しい体験だろう)。

 ショウケン「縄跳び」
 縄跳びはおもしろく、たいへんな(の)スポーツである。ちょっとしても疲れてしまう。わたしたちはクラスのために長い間練習した。きのう、晩ご飯が食べられなかった。というのは、疲れたからだ。しかし3クラスが勝つのを目標にもっと練習すべき(練習が要るべき)だ。(チームの参加者は)10人だけに限られているが(ために)、ほかの学生も(は)同様に練習したらいい。試合と言うより、むしろ、終了後のクラスパーティーのほうが楽しみに思われる。
=========== 
 疲れすぎて、ご飯も食べられないほど練習した学生たち。本番では「鬼気迫る」というくらいのド迫力スピードで縄を回し、学生たちは必死に跳んでいました。あまりの真剣さに見ている方が涙が出てしまうくらい。
 結果は、残念ながら優勝ではありませんでしたが、3位賞金の100元を元手に、大学近くのカラオケ店へクラス皆で繰り出しました。優勝300元を期待して予約したので、ちょっと予算不足。私が100元、ペアを組んでいる中国人日本語教師シャ先生が100元「3班はよくがんばったで賞」を拠出しました。

 カラオケ店、最初は日本語の歌の出し方がわからず、とにかく日本語の歌なら何でもいいやと、出てきた『浪曲子守歌』とか『人生いろいろ』とか、日本では絶対にカラオケで選ばないという歌を歌ったあと、日本語曲の選び方がわかりました。『翼をください』とか『知床旅情』『北国の春』などの定番を数曲歌いました。使用してきた日本語教科書『実力日本語』に歌詞が紹介されている歌なので。

 学生たちやシャ先生もノリノリでかわるがわるマイクを握りました。皆楽しそうに歌い、かつビールを飲み、6時からたちまち3時間たちました。私はシャ先生の車で宿舎まで送ってもらいましたが、学生たちは10時まで歌っていたそうです。
 いつも私のクラスは、宿題をたっぷり出すので学生たちは毎晩フゥフゥいいながら宿題を仕上げるのですが、綱引き大会の日は、なぜか宿題がひとつもない日でしたから、夜遅くまで、学生たちは心ゆくまで熱唱したのでした。
 ほんと、楽しい、縄跳び大会とカラオケパーティでした。

<つづく>
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2009年07月13日


ニーハオ春庭「総見授業参観」
2009/07/13
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(12)総見授業参観

 縄跳び大会、優勝はできませんでしたが、私は、クラスの熱心な練習に対して、賞状を贈りました。賞状テンプレートを利用して、特別栄誉賞という賞状を作成し、クラスに掲示しました。
 特別栄誉賞「あなた方は2009年縄跳び大会において日頃の成果を発揮され優秀な成績を収められました よってここにその栄誉をたたえこれを賞します 」 
 手作り賞状ですが、クラスの学生たちは喜んでくれました。

 そして、「練習と人生」という読解教材の「シメのことば」として、学生たちに語りかけました。
 「夕食が食べられなくなるほどの激しい練習を続けて、優勝できなかったら、その練習は無駄になったと言えますか。いいえ、これほどの激しい練習を、クラスが心をひとつにしてまとまって行えたということを、私は一生忘れないだろうと思います。このように集中して練習できる人たちは、これから先、博士論文を書くときも必ず集中できます。皆で練習した過程の思い出は、これからずっと心の中に宝物として残っていくでしょう。練習の成果は人生のなかに輝き続けると思います」

 クラスの学生に話しかけながら、「おお、なんて教師っぽい人生訓を語っているんだろう、ワタシ」と、思ったのですが、ここで照れちゃいけません。たまには、このような教師っぽいことを語ってみるのもいいもんです。
 しかも、この「学生への教師らしい語りかけ」は、クラスの学生のほか、校内の日本語教育教官室の中国人教師、総見の授業参観の場で行ったのでした。

 以前に文科省の役人たちが授業参観を行った際、私のクラスも覗いていったのですが、そのとき、参観者たちが私の授業を絶賛したというので、副校長から「校内若手日本語教師たちの勉強のために模範授業をやってほしい」と、頼まれました。

 最初は、「模範となることなどしていないので、いやだ」と思ったのですが、下手な授業であっても自分と違うクラスの授業を見ることは教師にとってよい経験になるし、反面教師としても、役立つのです。そして何よりも私自身の授業向上のために、よい機会です。そこで、「ただ見て終わりにするのでなく、必ず批判点を見つけ出して、参観した教師からレポートを提出してもらう」ということを条件に引き受けることにしました。

 授業参観をしたら、「とてもよい授業でした」「すばらしい授業実践でした」というようなほめ言葉を受けることが多い。この模範授業の前に、日本語教師団ダンチョー先生に参観していただいがことがあるし、クラスの担任ペアのシャ先生、2007年のときペアを組んだリグン先生、それから、隣のクラスの中国人先生であるベテランのトウ先生が「ぜひ、授業を見たい」とのご希望だったので、それぞれに見ていただきました。個人参観でしたし、「よい授業でした」という感想をいただいて終わってしまったのですが、「中国人日本語教師総見」となると、特別なイベントですから、やるからには、こちらも得をしないと。

 ころんでもタダでは起きない春庭ですから、「総見授業参観」という特別なイベントをやるなら、「私の授業をもっとよくするために、批判してくれるのでなければ、参観して欲しくない」くらいのことは言いたい。
 参観の感想文を必ず書いてもらうこと、授業へのほめ言葉を一言書いたら、必ず二つ以上は批判点を記すという約束で、引き受けました。
 
<つづく>
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2009年07月14日


ニーハオ春庭「授業参観つかみ」
2009/07/14
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(13)授業参観つかみ

 7月2日、学生たちは、午後の参観なのに朝から緊張して総見授業参観の日を迎えました。私は「失敗するところだめなところを見てもらうことも必要」と思っているのであまり緊張しませんでしたが、普段の「だめすぎる」授業よりはマシにしたいとは思っていました。何より、普段、学生たちが授業を楽しんでいる雰囲気を感じ取ってもらいたいと、教案を準備をしました。

 私立大学で私が講じている「日本語教授法」を受講している日本人大学生には、「最初のうちは、教師の説明や発問、予想される学生の発言をすべてシナリオ形式で書きなさい。3年、同じ教材でこのシナリオを作ったら、あとは、メモ程度の教案でも授業ができる。もちろん、新しい教材を扱うときには、また新しい教案を書くんですよ」と、教えています。

 私は1988年から日本語教育に携わってきましたが、いまだに「今日の授業は十分な展開ができた」と、満足できた日は少ない。特に今年は、教室のコンピュータ利用で、パワーポイント表示を中心に授業を進めているため、パワーポイント作成に追われ、肝心の読解や文型応用が十分にできていません。

 文科省授業参観の時は絶賛だった、という私の授業に、もし見るべきところがあるとしたら、それは全部、優秀な2009年の学生たちのおかげです。
 日本語教授法受講の日本人学生たちに、一番先に強調して講じることのひとつが、「学生と教師の間に、信頼関係を結び、かつ親密な感情を育てること」、教育心理学でいう「ラポール作り」です。
 これがなければ、どんな高度な授業技術を行使したところで、学生の頭に教えたことが入っていきません。先生の話を聞こう、先生がいっしょうけんめい教えてくれることを、いっしょうけんめい覚えよう、このような学生の気持ちがあってこそ、授業が生き生きとしてきます。

 1994年も、2007年も、「日本の大学で博士号を取るために留学する学生たち」は、とてもよい学生たちでしたが、2009年、今回の「博士3班」(クラスニックネームは「謝謝3班」)も、全員よい人柄で、クラスメンバー同士の仲がいい。いつもドジばかりの私の授業ですが、学生たちの協力のおかげで、順調に進んできました。
 ドジの一番は、忘れ物が多いことです。いつも講師室でぎりぎりまでパワーポイントスライドを作っていて、「あ、授業が始まっちゃう」と、あわててパソコンをオフにするので、きちんと確認すればいいものを、毎回「あ、漢字テスト持ってくるのを忘れた」とか「聴解のCDがない」と、慌てることになるのです。

 「練習と人生」は、「中級日本語」の後半にあたり、若者が努力や練習を好まなくなった風潮に対して、練習を軽くみることを戒める小泉信三のエッセイです。
 90分授業を、「文型復習」「読解」「会話練習」3つの学習項目で構成しました。

 授業参観、最初は、ウォーミングアップ。教師が短いトークをしたり、学習者に質問したりして、前回習ったことを確認します。総見授業参観は特別なイベントですから、トークも特別なものを用意しました。
 まず、学生に質問をして、今日、昨日、明日の日付の確認。学生は「今日は、しちがつふつかです」「明日は、しちがつみっかです」上手に答えられました。
 初級のころは、日付をいうのも「よんがつさんにち」になったり「ここのか」を言うのに、「しがつ、じうにち」「違いますよ、ジゥは中国語の9でしょう」、「あ、きゅうにち?くにち?」「ここのか、です」となったりしていたのですが、皆、日付や、他の数字を言うのも上手になっています。

<つづく>
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2009年07月15日


ニーハオ春庭「授業参観Q&A」
2009/07/15
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(14)授業参観・Q&A

 授業参観、最初の教師トーク。
 ふつか、みっか、よっか、みな「日」の意味の「カ」ということばがつきますね。でも、ついたちだけ、「か」がつきません。なぜでしょうか。と、質問を振りました。この質問は、実は学生向けではなく、中国人日本語教師向けなのです。一般の日本人より日本語について、文法や語彙をよく知っている中国人教師たちなので、ここはひとつ、「さすが日本人日本語教師は、日本語ネイティブスピーカーだけある」というところを見せてから授業を始めようという作戦です。
 「参観の先生方、いかがですか、学生に教えてやっていただけませんか」という私の挑発に、声がないことを確認して、おもむろに、旧暦の月の満ち欠けから「ついたち」とは、新月が立つこと、「月立ち」である、というトリビアを紹介。学生たちは「へぇ!」と、おもしろがってくれました。
 
 本当は、語源を知っている先生もいたのに遠慮して声をあげなかっただけなのでしょうが、一応、授業の「つかみ」はこれでOK。「つかみ」というのは、芸能界用語で、漫才やコントの最初の部分で行われるギャグなどのこと。客の気持ちをまず演者の発話に引き込むことを言います。学生たちは「へぇ、ついたちって、そういう意味だったのか」と、納得のようす。教師はいいよね。毎年同じネタで、学生の「へぇ!」を見ることができる。

 つかみの次は、Q&Aの活動。教師の質問に学生が答えて、聞き取りができるかどうか、既習文型項目が定着しているかどうか、の確認をするのですが、参観用にちょっとアレンジしました。学生は後ろの参観者の方を向いて、プロジェクタースクリーンに映っている質問が見えないようにする。参観者の先生に、学生なまえカードを1枚ずつ引いてもらって、スクリーンの質問を読み上げたあと、学生の名前を呼んで答えさせる。

 参観の先生が「毎日の授業が終わったあと、暇なときどんなことをしていますか」と質問。初っぱな、名前カードは、班長(クラス委員長)のキンセイさんにあたりました。キンセイさは、「スポーツをしたり、専門の勉強をしています」と、答えました。
 お、うまく、「~たり~たり」の文型が使えたぞ。と安心していたら、参観者から「あなたの専門は何ですか」と、予想外の質問。キンセイさん「私の専門は、どもくこうがくです」。どもく、じゃない、どぼくこうがく、って、何度も発音を直してきたのに、緊張しているせいか、土木工学が、どもくこうがくになっちゃった。私が、「キンセイさんの修士の専門は土木工学で、博士の研究テーマはナノテクノロジーでしたよね。どぼくこうがく、キンセイさん、もう一度言ってください」「ドボクコウガク」「はい、よく言えました」と、フォローしてカバー。

 「仮に宝くじがあたって、1千万あったら、何をしますか」の質問、「仮に~たら」の文型が聞き取れて理解できているかチェックするための質問です。文科省視察団の授業参観のとき、「日本はアジアのニシにあります」と答えてクラスの爆笑をとったゴタンさんにあたりました。「りょこうします」とか「家を建てたいです」って答えればいいんだよ、とゴタンさんに念力を送りましたが、通じなかった。

 ゴタンさんの答え「いちまん、いちまん、、、えぇ、私の専門は医学です。医学の専門書は高いから、専門の本を買いたいです」と答えました。私が「うん、1千万円あったら、一冊1万円の専門書でも千冊買えるね」と、フォロー。参観者には、ゴタンさんが「1千万円」の聞き取りを間違えて、「1万円」と思って答えたことには気づかれなかったでしょうか。それともみえみえでバレてた?

<つづく>
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2009年07月16日


ニーハオ春庭「授業参観・読解」
2009/07/16
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(15)授業参観・読解

 参観の先生からの質問のつづき。
 「今、一番大切なこと、大切なものは何ですか」の質問は、コウキさんに当たりました。私が「コウキさんにとって一番大切ことは、もちろん、隣のクラスにいる恋人でしょう」と、チャチャを入れても、コウキさんはまじめに「今、一番大切なことは日本語の勉強です。日本に留学するために、一生懸命日本語を勉強しています」と、答えました。まじめに答えた、というより、緊張のあまり私のチャチャなどまったく耳に入っていなかったのかもしれません。

 Q&Aのあとは、ロールプレイ、会話役割練習です。
 「日本で、国際交流パーティに参加し、初めてあった人と円滑に会話して交流を深める」という課題で、自己紹介や趣味、出身地など、互いに情報を交換して会話を盛り上げる、という状況を設定しての自由会話です。

 参観の先生の役割は「国際交流に興味を持ってパーティに参加した日本人」、学生の役割は「初めて日本の国際交流パーティに参加した留学生」
 参観の先生が名前カードをよび、その学生と会話してもらいます。先生10人ほどに協力してもらって、5分ほど教室は「国際交流パーティ会場」になりました。
 最後に2ペアにロールプレイを発表してもらって、会話役割練習はおわり。

 会話役割練習の次は、メインの読解授業です。先生方は、私がどのように授業スライドを作っているのか、ということが知りたくて参観しているので、まずはスライド紹介として、「練習と人生」のパワーポイントスライドを使って、音読の復習。スライドに1枚に本文を一文ずつ書き入れ、読解を助ける写真を入れてあります。

 小泉信三のエッセイ『練習と人生』の最初の部分に、空を飛ぶことへのあこがれが、飛行機の発明に至ったこと、飛行機ができても、操縦の訓練を受けて練習を積まなければ空を一人では飛べないことや宇宙飛行士の訓練について書かれています。

 教科書付属スライド教材として既存のレオナルド・ダ・ビンチの「空飛ぶ機械の設計図」やライト兄弟の飛行機の写真に加えて、私は、備前屋・浮田幸吉を紹介しました。幸吉は、江戸時代に大凧をつけて空を飛んだ人物です。1849年のジョージ・ケイリーのグライダーによる有人滑空実験よりも60年以上早かったけれど、ほめられるどころか、「世間を騒がせた罪」で岡山藩主から罰を受けてしまった。

 新しいことをしたり、発明したりするためには、世間から理解されずに非難を受けたりすることもあるけれど、人間のあくなき探求心が科学を進展させてきたのだ、と、教師らしい解説を加え、飯嶋和一の著作『始祖鳥記』を紹介して、前回の授業を終えています。
 「文型や読解の授業のみで、日本の歴史や文化紹介の時間が設定されていないときでも、できる限り文型授業の合間に日本の文化を紹介する時間を数分でもよいからとる」というのが、私の現在の授業テーマです。

 学生たちが、「備前屋幸吉」の名前を覚えることが目的ではなく、飛行機を発明したのはライト兄弟だとされているけれど、大昔から空を飛びたいと願った人はおり、夢の実現のために努力した人は大勢いること、幸吉のように罰を受けてさえ、空を飛ぶ夢を追いかけた人もいた、ということを理解してほしかった。

<つづく>
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2009年07月17日


ニーハオ春庭「授業参観・スライド画像利用の読解授業」
2009/07/17
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(16)授業参観・スライド画像利用の読解授業

 小泉信三のエッセイ、練習によって恐怖を克服する例として、「10メートルの台からの高飛び込み」をあげています。
 私は中国高飛び込みで最も有名な郭晶晶(グオ・チンチン)の飛び込み写真を数枚紹介したあと、数年前の深夜番組「Qさま」のチキンレースの写真を見せました。10メートルの台にいきなり連れてこられた芸人が、最後に意を決してプールに飛び込むまで、何分間怖がったか、その過程を撮影しておもしろがる、という番組でした。我が家はこのチキンレースが大好きで、娘と息子が見ていました。何度かゴールデンアワーで特集を組んだときに私も見ていました。

 こんなところで、お笑いテレビ番組が役立つとは思ってもみませんでしたが、教師の袋は何でも袋。何でも知って何でも放り込んでおく袋、授業で大いに役立ちます。
 本当は、ユーチューブで録画投稿されている「怖がる過程」を見せたかったのですが、中国では3月にユーチューブがネットで閲覧禁止措置になって以来、未だに回復していません。グーグルが閲覧禁止になったときは、すぐに問題のページを削除したらしく、ほどなく閲覧できるようになったのですが、ユーチューブは回復しません。

 でも、ネットから数枚の「10メートルの高飛び込み台の上に立って怖がっている」写真を拾うことができました。3階か4階くらいの高さの台と下のプールが写っている写真だけでも、学生には高飛び込み台の高さが視覚的に理解でき、「飛び込みは高さ10メートルの所から行うものである。初めてこの台に立った者はだれでも、恐れずにはいられないだろう。」と書いてある小泉信三の文を実感することができました。

 読解について、考え方がふたつあります。文字で書かれた文章をできる限り文字のままに読み込ませ、想像によって理解させていく、と言う方法。もう一つは、画像やグラフなどを補助手段として、学生の理解を助けていくものを提出する、と言う方法。画像映像ですべて示してしまったら、想像の余地がなくなる、という意見もあります。

 しかし、現在の私は、「日本の歴史や文化」などの紹介を兼ねて、画像で示したほうが理解が早いというものについては、できる限り画像で紹介する、という方針をとっています。日本人の衣服を紹介する読解では、「十二単」を紹介しました。結婚式のっとき着用される十二単の写真を見せたり、『源氏物語絵巻』『紫式部日記絵巻』などの写真を見せて、日本の文化を紹介するのです。

 「十二単って、どんな衣装だと思いますか」と質問して想像させたあと、文字や言葉であれこれ説明するより、画像で理解させる、というやり方なので、「文字によって想像させて理解させる」という教育方針の方には反対されるかもしれません。もちろん文によって理解する、ということをおろそかにしてはいませんが、私の方針は、画像によって理解できることは絵柄で示してよい、というものです。

 「いろり」「ランプ」「日本家屋」「和室」「和食」などは、どんどん映像を使って紹介してきました。また、「明治時代の高等教育の普及率は低かった」ということを理解させるためには、あれこれ数字で説明するより、進学率のグラフを示す、日本の食品自給率を理解させるために、食品の輸入率をグラフで示す。写真やグラフを効果的に利用することは、「文字による理解」を確実にするために、決して無駄にはならないと思っています。

<つづく>
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2009年07月18日


ニーハオ春庭「授業参観・短文作り」
2009/07/18
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(16)授業参観・短文作り

 学生たちも、私のパワーポイントスライド紹介を楽しみにしていたし、授業参観の先生たちにも、どのような観点でスライドを準備していくか、ということの参考にはなったと思います。
 小泉信三が「恐れにひるまないということは、立派な人間の美徳である」と書いている文を理解させるのにあたって、「恐れにひるむ」とはどんなことか、百万言費やしても言葉だけで理解させるのは難しい。

 10メートルの飛び込み台の高さを実感できる写真を見せて、「台から飛び降りなさいと言われたら、恐ろしいですね。あなたは恐れにひるみますか、ひるまないですか」と発問して考えさせる。郭晶晶の美しい飛び込みフォームの写真を見せて、「彼女は10メートルの高さでも、恐れにひるまない。練習を続けてきた人は、どんな困難にあっても、恐れにひるまない。最終試験は難しそうですね。心配ですか。恐れにひるんでいますか」と質問し、「日本語の練習をつづけていけば、どんな難しい試験でも、恐れにひるむことはないですよ」と、言えば、学生は「おそれにひるむ」ことがどんなことか理解する。

 「怯む」という日本語の訳語として「害怕」があてられることがあるけれど、「怯む」のニュアンスは、「害怕」とは異なる。中国語の「害怕」は、「恐れる」の訳語としては適切ですが、「恐れにひるむ」というニュアンスとは違っています。中国語でぴったりの訳語がなく、言い表すことが難しい。日本語で「こわいと感じ、何かをしようという気持ちが弱くなること」と、直接法で説明しても、その怖さを学生に実感させることは難しい。「LL教室は4階にありますね。そこから下に飛び降りると想像してください。下にはプールがあって、水がありますから、飛び降りても死ぬことはありません。はい、飛び込みましょう。どうですか、やはり、恐いですね。恐さにひるんでしまいます」

 小泉信三は、練習こそが人間の肉体的精神的能力を高めるものであり、忍耐と努力を要する「練習」は、民族の将来のために必要だと結論しています。
 自分の将来のため、ひいては祖国の将来のために今必死で日本語学習の練習を続け、忍耐と努力を忘れていない学生たちにとって、この小泉信三の「練習と努力」も、心に残る文章であったと思います。

 前半の12課までの読解学習を終えた時点でのアンケート調査で、「一番印象に残った文章」をたずねたところ、学生たちの一番人気は「野口英世」の伝記でした。
 私は、野口シカの英世にあてた手紙が大好きなので、教科書には載っていないシカの手紙を紹介し、「皆さんのお母さんも、きっとシカと同じように、我が子がいっしょうけんめい研究を続けることを願い、博士号をとることを願っていることでしょう」と言うと、深くうなずいていました。だから、野口英世の伝記、身にしみて心に残ったのだと思います。

 参観授業は、読解Q&A、文章内容についての質疑応答をしたあと、文型復習。学生が既習文型をつかって、文を創出できるかどうか、文を作らせました。
 「~のみならず」「~傾向がある」「~というものは、~ものだ」「~せずにはいられない「~はずがない」「~と同時に」などのフレーズを使って、短い文を作らせてみる。
 口頭で耳で理解させるべきだという批判がでるのを承知で、私は学生が口頭発表した文をワープロでパワーポイントスライドに書きこんでいきました。

 学生がクラスメートの言った文を耳で聞いて理解することも大事ですが、文字で再確認することも決して無駄ではないと、私は思っているので、板書のかわりにワープロ筆記しています。字を書くのが嫌いな私、授業でワープロが使えるようになって、ほんとに助かります。

<つづく>
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2009年07月19日


ニーハオ春庭「授業参観・誉める教授法」
2009/07/19
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(17)授業参観・誉める教授法

 授業参観後半終わり近くでは、「練習した人たちと練習しなかった人たち」というテーマで、縄跳び大会のビデオを2~3分見ました。
 練習を重ねたチームとは、我がクラス3班。すごいスピードで縄を回し、上手に跳んでいます。練習をしていなかった人たちとは、日本人教師チーム。ダンチョー先生は何度か縄にひっかかりました。
 予想外のビデオ視聴に学生も喜んで見ていました。

 参観後の「授業を批判する」というミーティングでは、「先生は、会話授業や短文発表のとき、学生がアクセントや発音を間違えても訂正しなかった」という批判点がでました。「学生発言の発音などをその場で訂正させる」という意見に対して、私の考えも述べました。

 実際の会話では、意味が通じれば、「雨」と「飴」のアクセントの違いは問題にならない。「飴が降ってきた」と言っても、だれも空からキャンディが降ってきたとは思わないからです。「病院に行く」「美容院に行く」は、聞き取りを間違えると会話が通じなくなるので、注意するけれど、実際の会話では、京都大学や大阪大学に留学する人たちに標準語の「春」「秋」「夏」「冬」のアクセントを厳しく修正させたところで、関西では標準語とまったく逆のアクセントになっているのです。標準語のアクセントをきちんと覚える必要があるのは、日本語教育能力試験にアクセント問題が出題される日本語教師志望者であって、留学生ではない。

 だから、初級の時代に「日本語には高低アクセントで意味を区別する語もある」ということさえ理解していれば、よい。たとえば食卓で「すみません、橋をとってください」と発言したとき、誤解を受けることはない。聞いた人は「橋」ではなく、「箸」をとって渡してくれるだろう。日本で実際に生活していく中で、「箸」と「橋」の意味が異なり、文脈によっては意味が通じなくなることを実感すれば自然と矯正されます。『中級日本語』は語彙項目と文型項目が膨大であり、短時間に詰め込まなければ2級試験に合格できないので、発音矯正を今の時点で細かくやる余裕はない、という「その場で発音修正しない理由」を述べました。

 中級会話授業では、こまかい発音訂正は、メモをしておいて、会話が終わったあとすればよいと思う。その場その場でいちいち訂正していては、会話の流れが滞り、学生の「発言したい」という意欲をそぐことになりかねない、と私は考えています。
 参観者には私と違う方針の方もいらっしゃるとは思いますが、私は私の方針を述べました。
 発音指導観の違いは、リピート練習が主体で、初級日本語指導において発音指導を徹底している中国人の先生と、後半の応用練習が中心で「とにかく積極的に自分から話させること」を目標にしている日本人教師の違いであるかもしれません。

 普段の授業でも、学生は漢字書きとりで全問正解だったり、ディクテーションで全問正解のとき、「よくできました」と私が書き込むと、とてもうれしがるのです。書き入れを忘れると「先生、わたしのテストに、よくできました、がありません。わたしは、悪くできました、ですか」と、冗談を言ったりします。私は「教育の要」は「ほめること」であると思っています。間違ったところを厳しく指導するより、良かった点をほめていけば、そのうち自然と間違ったところも矯正される場合が多い。
 「教師の仕事とは、よい点を誉めること。前にはできなかったことができるようになったことを共に喜ぶこと」これが私の「日本語教授法」のコツ。

<つづく>
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2009年07月20日


ニーハオ春庭「授業参観のごほうび」
2009/07/20
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(18)授業参観のごほうび

 授業参観は、学生たちにとってやはり緊張するものです。私としては、できる限り学生が何らかの発言したらほめてやり、発言の訂正などは、参観の場で行うのではなく、のちほど自分たちの授業の中で行えばいい、と考えました。参観者の前で「間違っている」と、なおされるより、「よい、文が作れました」とほめられたほうが、ただでさえ緊張している学生にとって、負担が少ないからです。

 他のクラスでは、1度も誰からも授業参観がなかったクラスが2クラス。文科省が10分ほど覗いていったクラスが2クラス。私のクラスだけが、文科省視察団の参観のほか、日本人教師団ダンチョー先生の参観、中国人日本語教師の授業参観が2度、中国人日本語教師の総見参観1度、他の大学の先生たち4人の参観、都合6回も授業参観を行いました。

 授業参観のまえに、うまく答えられるよう「予行練習」をさせる先生もいますが、私は普段のままで、間違ったら間違ってでいいや、と言う考え。縄跳びの「特別栄誉賞」の授与を参観の場で行うというのもサプライズ企画で、学生たちは知らされていなかったので、手作り賞状をもらって、とても喜んでいました。

 だだし、「賞状の受け取り方」というのは、前に「卒業式」の話題でふれたことがありました。「練習と人生」読解のなかで、日本では卒業式の練習を何度も繰り返し、予行練習を行って式が滞りなく進むようにお辞儀の練習や賞状受け取り方の練習をする、と話し、日本と中国の違いについての話題が出ました。学生たち、中国ではそのような賞状受け取りの練習はしない、と言うので、賞状はこういう具合にもらうのだよ、と、実演して見せたのです。
 私からの賞状授与では、班長のキンセイさんが上手に受け取りをして、拍手喝采でした。

 総見授業参観が、なごやかに終了できたのも、学生たちが緊張しながらもいっしょうけんめい答えていたおかげ。私から学生にごほうびをあげることにしました。

 ごほうびは「浴衣姿の写真」のプレゼント。
 学内の他コースの先生が保有している浴衣を借りて、クラスの学生たちに着付けをしてやり、浴衣姿の写真撮影大会をやる、というクラスイベントを開催したのです。

 私は、娘の浴衣着付けをしたとき文庫帯の結び方を練習したのですが、忘れているので、もういちどネットの「帯結び」のサイトを開いて復習。だいたい思い出しました。
 着物は、女物の単衣の着物が3枚、黄八丈や花柄です。浴衣は女物が4枚、男物が1枚だけ。これは、和服を着たがるのは、女子学生が多いので、女物のほうが多く集められてきたからでしょう。

 実は、「浴衣で写真撮影」は、生け花教室の次の「日本文化体験教室」として、5クラス共通のイベントとして予定されていたのですが、諸般の都合により、5クラス全体ではしないことになってしまいました。

 だから、私のクラスだけ浴衣を着て写真をとったら、他のクラスから不平が出るところでした。
 でも、「参観授業を何度もしたごほうび」ということにすれば、他のクラスは参観授業を実施していませんから、あきらめてもらえます。
 クラスの学生には、「他のクラスが、3班だけ浴衣着付けをしてもらって、ずるい」と言い出したら、「3班は授業参観をしたから、そのごほうびなのだ、と説明しておきなさい」と、言い含めておきました。

<つづく>
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2009年07月21日


ニーハオ春庭「浴衣姿の撮影大会」
2009/07/21
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(19)浴衣姿の撮影大会

 我がクラスは、女性が9人、男性8人。男性は、女物を流用したり、男物浴衣を交代で着ることにして、浴衣着付け教室を行いました。浴衣の枚数が足りないので、3回に分けて実施。
 第1回目は、男性3人、女性5人が参加。私が文庫帯をふたりの女性に結び、あとは、付け帯です。一番人気は付け帯のお太鼓帯でしたが、じゃんけんで勝った人から好きな着物を選び、負けた人から帯と下駄草履を好きな順に選ぶと言う方法で、まずそれぞれの着物と帯を選びました。

 第1回目のときは、私がひとりで文庫帯を結んだので男性にまで手が回らず、男物浴衣は自分で帯を締めさせたところ、心配したとおりに胸高に締めて、「ツンツルテンに胸高帯」で、見事に「天才バカボン」になっていました。
 2回目3回目は、「帯はズボンのベルトの下に締めること」を徹底して、なんとか見られる姿になりました。

 1回目、ひとりで着付けをしたら、大変でした。それで、他学校の先生から授業参観希望を伝えられたとき、授業参観の一環として「学生と会話しながら、浴衣の着付けを手伝う」ことを条件に参観希望に応じることにしました。2回目は、短時間に着付けが終了し、たっぷり写真をとることができました。参観の先生方ともいっしょに写真をとり、よい記念になりました。

 浴衣は、本当は裸の上に直接着るのだ、湯上がりの衣装だった、という解説は事前にしてありましたが、1回ごとにクリーニングに出す予算がないので、Tシャツの上に羽織ることにしました。
 浴衣はまだしも、ウール黄八丈などは、Tシャツの上に着ると、7月の気温で、かなり暑い。しかも、日頃なれない帯をぎゅっと締めた女子学生は「毎日着るならたいへんだ」と言いましたが、互いに写真を取り合って、「きれいね」「日本女性みたい」とほめ合って、大喜びでした。

 男性組も、腕組みをしてポーズとるやら、恋人同士が並んでラブラブ写真を撮るやら、楽しそう。
 他のクラスからのぞきに着た学生もいっしょに撮影していました。他クラスの女性陣はちょっとうらやましそうです。

 3回目は、「女物でも写真にとってしまえば、男物の浴衣とたいした違いはない」ということで、残った男性たちの和服撮影大会。実際、男物の浴衣も、平均身長180センチの我がクラスの男性陣にはツンツルテンです。女物でも、着流しにすれば、膝の少し下くらいの長さには達する。ゆきが短いので、袖は肘が出るけれど、写真は、膝から上だけを撮影すれば、ツンツルテンはごまかせる。

<つづく>
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2009年07月22日


ニーハオ「浴衣姿の感想」
2009/07/22
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(20)浴衣姿の感想

 ブログのニックネームを「白ちゃん」にして、3月から日本語ブログ」を書いてきた我がクラスの男子学生の日記を紹介します。
 彼はとても穏やかなやさしい性格で、他の女子学生のスピーチコメントにも「いつもやさしいエンテイさん、大好きです」と書かれていました。

 女性にもてそうですが、親友レイトウさんの短作文によると「エンテイさんはチャイなので、女性と話そうとすると、すぐ真っ赤になってしまう」そうです。うん?チャイナので?中国人はすぐ真っ赤になるのか、と思いきや、「彼はシャイなので」と表現したかったのです。「~ようとすると」「~そうとすると」という文型の練習文としてレイトウさんが作った文でした。
 レイトウさんとエンテイさんは、クラスのなかで、「まだ恋人がいない男性3人」のうちのふたりです。

 ブログのなかでは、私のことを本名で呼ばず、春庭かHAL先生と書いておいてね、と話したので、彼のブログで、私は「春庭先生」で登場しています。
 エンテイさんの日本語ブログ、誤用はありますが、私は「書き続けるうち必ず上手になるから、初期の間違った文を直さない方がいいですよ。そのうち、だんだん上手になったとき、最初はこのように間違えていた、ということがわかったほうがいいから」とアドバイスしました。 
=============
7月8日
昨日、授業が終わった(あと)、春庭先生は六つの着物を持って来ました。着物の中で、五つのが女の着物、一つしか男の着物ではない。
 着物は日本の伝統の服だ。現在、正月や成人式、結婚式など特別な時に着物を着る。私たちは初め(て)この着物を着る。
男の着物を(の)着方が簡単(だ)が、女のが複雑だ。春庭先生は優しいので、私たちを助けた。着物を着終わったとき、私たちのイメージが完全(に)変わった。また、私たちは先生と一緒に写真を撮った。この写真を見るのを楽しみにしている。
===========
 着物を着たあとでは、鏡に映る自分のイメージが完全に変わって「日本人のよう」になったことを、かわるがわる写真を取り合って楽しんでいました。
 私のブログコメント
 「白ちゃんは背が高いので、着物のサイズが少し小さかったことはちょっと残念でしたが、白ちゃんの着物姿は、とてもカッコよく、男前でした。教室のコンピュータに着物の写真が入っています。USBを持ってきて、コピーしてください。」

<つづく>
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ニーハオ春庭中国日記「世界遺産瀋陽の旅」

2011-07-11 06:10:00 | 日記
2009/07/02
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(1)瀋陽市

 遼寧省の省都、瀋陽。
 都市名は、中国風水思想により山の南側と川の北側は「陽」という考え方から命名されています。市内の南部を流れる渾河の古名「瀋水」の北に位置することから「瀋水ノ陽」という意味で、「瀋陽」という名になりました。これは、瀋陽市出身のゴタンさんとレイショウさんふたりのレポートによる知識です。
 中国東北部最大の都市であり、清王朝の古都としても知られています。女真族(清朝成立後は満州族と改称)の建てた「後金」の首都としての都市名は「盛京」です。

 現在の瀋陽市は、市区の人口500万人、周辺地区を入れると700万人という大都市ですが、歴史は古く、7200年前には定住集落(新楽遺跡)があったことが知られています。遼寧省博物館でこのあたりの歴史はたっぷり勉強してきました。
 瀋陽博物館は、たいへん内容が充実しており、中国磁器や絵画、歴史や考古学の好きな人にとって、丸一日使ってゆっくり見ても時間が足りないくらい。私は半日しかいられなかったのが残念でした。しかも無料!2008年から始まったという「無料開放」の恩恵を受けました。

 原始時代の展示室には、新楽遺跡のドルメン(石造の建築物)のレプリカや人々が洞窟で暮らしたようすの再現ブースなどがあり、7200年前という太古から、この地に人々が営々と日々の暮らしを営んだようすが展示されていました。
 そのほか、中国東北地方の歴史が時代ごとに展示室を設けてあり、社会科見学の小学生中学生がおもしろそうに見ていました。

 考古学的発掘品のほか、古銭の収集でも際だったコレクションが収蔵されていて、「中級日本語」の読解教材「銀貨や銅貨はなぜ丸いか」というページに出てくる「刀の形の貨幣」「鍬の形の貨幣」「貝がら貨幣」などがびっしりと並べられています。
 美術品の収集も充実していて、元、明、清それぞれの時代の陶磁器が展示してありました。中国美術に興味がある人にとっては、一日中見ていたい国宝級の美術品がありましたが、私は時間がなくて、どの展示室も駆け足でまわりました。

 満州族古都時代は、盛京と呼ばれた瀋陽。清朝3代目の順治帝が北京に遷都したあとも、初代と二代目の陵墓がある故地として大切にされ、副都として重きをなしてきました。

 日本近代史にとっては、。1905年の日露戦争で、当時史上最大規模の野戦である「奉天会戦」の戦場となり、日本近代史のターニングポイントとなった地でもあります。
 清朝滅亡後、瀋陽は張作霖張学良父子を代表とする奉天軍閥の拠点となりました。馬賊から身を起こし、卓抜な軍事力で「事実上の満州王」としてこの地に君臨した張父子の拠点となった家が張氏師府。
  
 瀋陽観光は、宿のすぐそばにある張氏師府の見学から。宿から歩いても5分くらいの場所にあるのですが、自転車タクシーに乗りました。タクシーの中に駅前で買ったばかりの瀋陽地図を置き忘れてしまった。
 張氏師府の入場料50元は、隣にある「瀋陽金融博物館」の入場料も兼ねています。う~ん、こっちも無料にしてくれればいいのに。
 張氏の邸宅は、東北軍閥政府の政務庁を兼ねていた大きな屋敷です。伝統的な「三進四合院」という建築様式の私邸部分と、近代建築の西洋風の公務用邸宅があり、張父子はここで日本の関東軍要人や外国人貿易商らとの面会、政務を行っていました。

 入り口を入るとすぐのところに、張作霖の娘たちが学校に通うために使用した馬車が展示されていて、中国人観光客はわいわい騒ぎながら、馬車の前で写真を取り合っていました。

<つづく>
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2009年07月03日


ニーハオ「張氏師府」
2009/07/03
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(2)張氏師府

 張氏師府には、日本語の案内パネルがあって、ガイドなしでも説明がわかってよかったのですが、この日本語の説明が実に笑える「日本語でどづぞ」式だったので、「う~、添削してぇ!」と、叫びながら読みました。添削した紙を係官に渡したらどうか。そんな紙はひねりつぶしてゴミ箱へ。すでに設置されているパネルの書き換えなど提案しても、だれの得にもならない。得にならないことを役人がするはずない。

 いつか中国人のエライさんに出会って、「中国人の日本語力はこの程度かと思われたら、中国の恥になりますよ」くらいのことを言えば、国際的観光地の日本語パネル表示が訂正されるかも。それまでは「日本語でどづぞ」を読んで楽しみましょう。

 張氏師府内の写真豊富なブログをリンク
 http://kangeki.blog.so-net.ne.jp/2008-03-22-2

 日本語が聞こえてきたので耳をすますと、50~60代くらいの日本人男性ふたりを、若い女性ガイドが案内しています。しかし、彼女の日本語は少々おそまつで、たとえば、展示品の火鉢の前では、「冬、寒いね。手、します」と、手を摺り合わせるジェスチャー。まあ、意味が伝わったからいいのだけれど、集安市で出会った日本語ガイドの金さんが、完璧な日本語を話していたのと比べると、「ああ、この程度でもガイドとして通用しているんだなあ」と思ってしまいます。

 朝鮮族であり、文法が日本語と同じである母語を持っているため日本語が達者だった金さん。彼のガイド料は、1日300元(約4500円)と言っていました。高句麗や好太王の歴史についてもきちんと説明してくれるにちがいありません。貧乏旅行の私は金さんにガイドを依頼できませんでしたが、この「手、こう」のガイドさんは、もっと高いガイド料とっているのかもしれません。瀋陽は大都市ですから。

 ガイドされている日本人二人は、「張作霖?知らないなあ」と、日本近代史には何の興味も持っていないようでしたから、「手、します」くらいでちょうどいいガイドだった。
 もし、近代史に興味をもっていたり、「偽満州」史や日中関係史などに関わる人のためだったら、もう少し歴史的な説明ができるガイドがつくのでしょう。

 中国では、事件現場の地名をとって「皇姑屯事件」と呼ばれている事件。日本では、事件当時は「満洲某重大事件」と呼ばれ、現在の歴史教科書には「奉天事件」あるいは「張作霖爆殺事件」と記載されている事件。近代史のなかでは大きな事件なのですが、興味のない人にとっては、張作霖も張学良も歴史のかなたの「昔の人」に過ぎないでしょう。

 日本では、近代史や近代日中関係史を中学高校ではほとんど扱わないので、張作霖と張学良親子について知らない若い人は大勢います。でも、せっかく「張氏師府」という張親子の居宅兼政庁に観光に来たのだったら、もうちょっと中国に関する興味を持ってほしいなあと、思いつつ、歴史的な写真パネルや張学良の遺品などを見て歩きました。

 張学良は、数奇な一生をすごした人です。何よりも100歳まで生きた「歴史の証人」でありました。
 「事実上の満州王」として中国東北地域を支配した張作霖の長男として生まれ、プリンスとして、幼少時から英才教育を受けて育ちました。父張作霖が日本軍によって列車ごと爆殺されたあとは、軍人としての才能を発揮して父の後を次ぎ、東北軍閥を掌握しました。
 以下、張学良と後妻の趙一荻の物語。

<つづく>
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2009年07月04日


ニーハオ春庭「張学良」
2009/07/04
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(3)張学良

 張学良は、西安事件など、中国近代史に重要な役割を果たしました。現代中国では「周恩来との秘密会談によって、抗日に協力した英雄」という評価を受けています。蒋介石を「国家の敵」とするために、張学良を持ち上げている、という評もあり、歴史上の評価は、中国、台湾、その他の国でも評価が定まっていません。

 張学良自身は、1991年にNHKのインタビューに答えた際も、西安事件については詳細を語りませんでした。しかし、1994年に、陸鏗(香港の著名ジャーナリスト)のインタビュー(香港『百姓』1994年)に対して、彼は、「(西安事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」と述べ、自身が果たした歴史上の行為について、結果的に西安事件が国共内戦においては共産党に有利に働いたことを「後悔していない」と語っています。このようなことも中国側の評価を高くしている理由でしょう。

 1937年、蒋介石は張学良を軟禁状態とし、以後50年間、彼は行動の自由を奪われて生き続けました。1949年に共産党が人民共和国を樹立したあと、国民党蒋介石によって台湾へ拉致され、軟禁が続きました。1975年の蒋介石の死後、1991年に正式に軟禁が解かれるまで、50年に及ぶ日々を幽閉状態で暮らし続けました。

 軍閥として国際的に名を知られた張学良が、37歳から50年間もの間、軟禁状態に耐えたには、強い精神的支柱が必要だと思いますが、この支柱になったのは、キリスト教入信と、後妻の趙一荻です。軟禁から解放された後、夫妻はハワイで晩年をすごしました。

 台湾に移送されて以後の張学良と添い遂げた趙一荻は、ハワイ移住後はエディス・チャン(Edith Chang)名乗っていました。
 趙一荻夫人は、2000年6月に88歳で亡くなり、最愛の妻を失った張学良はその翌年11月に妻の後を追って亡くなりました。張学良は100歳と4ヶ月という長寿をまっとうしました。 

 張氏師府の隣の地に、趙一荻が若いころ住んだ瀟洒な家が残されています。これは、張学良と趙一荻が出会った当時、張学良にはすでに妻子があったため、張氏師府の中に住まいを与えることができず、別棟を建てていたときの家です。
 先妻于鳳至は1916年春、張学良と結婚、二男一女をもうけていました。
 趙一荻は、16歳で27歳の張学良とダンスホールで出会い恋に落ちました。(その後、ダンスはふたりの共通の趣味として、生涯ともにダンスすることを楽しみにしていたそうです)。
 趙一荻は、美しく聡明な女性で、張学良が海外へ出かけるときは、男装して従いました。これは、表向き「秘書」として彼のそばにいるための方策でした。趙一荻旧居には、男装写真が階段の壁に掛けられていました。

<つづく>
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2009年07月05日


ニーハオ春庭「張学良と趙一荻」
2009/07/05
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(5)張学良と趙一荻

 張学良の先妻于鳳至は、夫が蒋介石によって軟禁されたあと、1940年 2月に米国へ脱出しています。(一説に病気治療のため)
 趙一荻は88年の生涯のうち、73年を張学良に連れ添いましたが、正妻の于鳳至をはばかって30年以上を日陰の身として「秘書」の名目で張学良に従いました。于鳳至と張学良の法的な離婚が成立したのち、1964年7月に晴れて結婚しました。出会ってから38年目、台湾での軟禁状態にある張学良をささえ続けて15年の末に得た正妻の座、趙一荻は52歳になっていました。

 1989年、張学良は、李登輝政権の下でようやく自由を回復しました。1991年に正式に釈放され、趙一荻は夫と共に1994年ハワイに移り住み、二人してハワイで暮らし、生涯を終えています。

 張学良の99歳(数え年で百歳)の誕生日祝いが盛大に行われたとき、趙一荻はどのような思いで来し方を振り返ったでしょうか。この誕生祝いののち、趙一荻はホノルルの病院に入院、そのまま帰らぬ人となりました。

 台湾での軟禁生活のうち12年をすごした台湾北部、新竹県五峰郷の清泉温泉の「張学良軟禁の家」は、2008年に改修整備されて一般公開されているそうです。
http://sankei.jp.msn.com/photos/world/china/081024/chn0810242238005-p2.htm

 2008年12月の開所式のテープカットは、馬英九総統が行うなど、台湾でも張学良の再評価が進んでいることがわかります。

 先妻の于鳳至は、『我与漢卿的一生:張学良結発夫人張于鳳至回憶録』という、口述筆記の自叙伝を残しています。出版は2007年5月(ISBN:7802142237 ISBN13:9787802142237 )
 張学良と趙一荻も、世界史的な事件に関わった人物として歴史の証人となるべく自叙伝を口述筆記でもよいから残すべき人だと思うのですが、今のところ、ふたりの回想録や口述筆記の伝記は見あたりません。

 張学良は自由の身となって以来、中国にも揮毫をさまざまに残しており達筆の人でした。たとえば、私が1994年に瀋陽市の東北大学を見学した際、正門の「東北大学」という文字は張学良の書によるものでした。50年にわたる幽閉生活では、旅行や外部マスコミとの接触などの自由はなかったものの、衣食住は保証されて労働の必要もなく時間はたっぷりあったと思うのですが、著作を残していないところを見ると、文章を書くのはあまり好きではなかったのかもしれません。

 国共内戦を戦った人々のうち、毛沢東や周恩来は読書家として知られ、多くの著書を書き残したのに対し、台湾へ去った蒋介石と張学良には著作がない。文字によって己の思想を書き残せる人のほうが、歴史的評価の点では有利。張学良の評価が歴史的に固まるのは、この先、さまざまな資料の解読がすすみ、研究が進展してからのことになるでしょう。

<つづく>
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2009年07月06日


ニーハオ春庭「東陵公園」
2009/07/06
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(6)東陵公園

 張氏師府見学のあと、若い友人リンリンといっしょに、中街の餃子店へ。おなかいっぱい餃子を食べました。
 大東門前のバス乗り場から218番の路線バス(1元=15円)に乗って、東陵へ行きました。近代史の舞台から一気に清朝の初代へ。東陵は清朝初代ヌルハチの陵墓があるところです。瀋陽市の東北11㎞の緑濃い丘陵地帯にあり、路線バスで30分でつきました。

 東陵の正式名称は福陵ですが、瀋陽市の東部に位置するので東陵と呼ばれ、現在は「東陵公園」として一般公開されています。入場料は30元。2004年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に指定されています。

 ヌルハチの死については、興城の攻防について記したとき述べました。明の領土への侵入をはかったヌルハチ13万の軍勢に抗して、明の知将袁崇煥が興城を守り抜いたというお話。ヌルハチは袁崇煥の撃った紅夷砲(ポルトガル製大砲)によって傷を受け、そのため死にいたりました。ヌルハチの息子のホンタイジも同じように明の領土への侵入をはたせず、袁崇煥に屈しています。

 ヌルハチの陵墓は、1629年に建てられ、ヌルハチと共に皇后イエホラナが眠っています。後金時代の1629年(天聡3年)に着工し、完成したのは、1651年。清の3代目順治帝のときでした。
 その後も歴代の皇帝が墓参に訪れ、康熙帝によって、整備拡張が続けられました。1672年(康煕10年)から1829年(道光9年)年まで、康熙・乾隆・嘉慶・道光の4皇帝が10回東巡し,福陵を訪れています。日本の歴代将軍が日光東照宮を訪れているのと同じ。

 山に囲まれていて、参道には108段の石段があります。リンリンといっしょにイーアルサンスーと数えながら登ったのですが、なぜか107段。最初の一段を上ったところから数え始めたのですが、登る前を一段目にすべきだったのでしょうね。仏教では108は煩悩の数とされ、除夜の鐘は大晦日には108回鳴らされますが、陵墓を完成させた順治帝が仏教に深く帰依した人だったので、ひいじいさんの墓も仏教思想を取り入れて完成したのだろうと思います。

 あたり一帯には松が植えられており、松林の中にこんもりと小山が築かれています。私はこの古墳の中にヌルハチ夫妻が眠っているのだろうと思ったのですが、リンリンが説明板を読んだところによれば、古墳っぽい丘の前に立つ立派な建物の地下が墓室だというのです。発掘したかどうかわかりませんでしたが、私がヌルハチなら、建物の地下より「古墳の山の中がいい。私がいいって言ってもどうにもならんが。

 この福陵にも、清時代の衣装を着て写真を撮る貸衣装屋がいて、若いカップルが皇帝皇后の衣装っぽいのを着て写真を取り合っていました。いっしょに写真をとってもらいました。
 福陵前の龍湖でしばし休憩。再び218番の路線バスで中街へもどりました。

<つづく>
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2009年07月07日


ニーハオ春庭「」盛京故宮」
2009/07/07
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(7)盛京故宮

 夕食は友人リンリンの故里である湖南省料理の店へ。ホテルの前から10メートルくらい歩いたところにあるので、土曜日の夕食と日曜日の昼食の2度食べました。その名も「毛家の店」店内には、共産党王朝の初代、湖北省出身の英雄、毛沢東の写真が掲げられています。毛王朝は、「皇后」江青の失脚によって二代目三代目とつづくことはありませんでしたが、隣の国では金王朝がどうやら三代目の跡目相続でもめているようす。

 さて、毛沢東が最も好んだと言われる紅焼肉や、竹の筒の中に餅米と豚肉が入っている竹筒蒸排骨、とてもおいしかった。湖南料理は四川料理と並んで辛いことで有名ですが、私が辛い物が苦手と言っていたので、リンリンは上手にメニューを選んで、辛くないものを並べてくれました。「これはお母さんの得意料理」という鶏肉のスープも辛くはなく、おいしかった。リンリンは、7月5日にお母さんや妹ヤータンの待つ故里へ帰りました。8月からはOLです。

 盛京(瀋陽)故宮は、後金(のちの清朝)の初代皇帝ヌルハチと2代皇帝ホンタイジの皇居で、規模は北京の故宮の12分の1です。
 盛京故宮は、北京故宮ほど壮大ではなく、こじんまりした印象なので、リンリンは「想像していたより小さい」と感想をもらしていました。

 1625年に着工、1636年に完成しました。初代ヌルハチと2代目ホンタイジはこの皇居に住んで全中国の統一をめざしました。
 3代目の順治帝が明を滅ぼして北京へ首都を移し、元時代から受け継がれている北京故宮(紫禁城)を住まいとしたのちも、歴代皇帝は故地を大切にし、盛京故宮は引き続き離宮として用いらました。

 入場料50元。敷地内は、主に東院、中院、西院に分けられています。
案内図のリンク
http://www.chinaviki.com/china-maps/Liaoning/sygg.html
世界遺産に指定された頃の写真をリンク
http://www.wakhok.ac.jp/~sumi/album/2004/10/07/album20041007b.html

故宮内の説明があるブログリンクはこちら
http://e-miai.biz/pipipiga/pipipiga.php?q_dir=.%2Fimg%2Fdir03

 満州族(女真族)は、もともとはツングース系の遊牧の民でした。そのせいかどうか、同じく遊牧民であった元朝が建てた北京故宮と同じく、建物にはあまり凝らなかったように思うのです。
 同じ17世紀18世紀に建設されたベルサイユやエルミタージュなどがやたらに華麗主義で飾り立て、また、日本の桂離宮などは素朴っぽい木造に見えて、建築材料はとても凝ったお金のかけようをしていて、柱一本天井板一枚に気を配って建てたようすがよくわかる。

 それに対して、北京故宮も瀋陽故宮も、壁や床が、見た目粗末っぽいのです。現在までアラビア半島などのテントによって生活していた部族の女性は、家は移動式でいつでもたためる「動産」であり、一番お金をかけるのは、ネックレスやイヤリングなどの装身具、体中にアクセサリーをじゃらじゃらさせているという印象があります。
 蒙古族も満州族も、建物にお金をかけるのは好きじゃなかったのか、という印象を受けます。もちろん、3階建ての鳳凰楼など、壮大な建物はあるのですが、内に入ると、建物の内部自体はそう華麗という印象ではない。

 金ぴかの茶室を建てた豊臣秀吉とか、華麗な障壁画を巡らせてあったという安土城、今も美しい姿を見せる二条城など、同時期の日本の権力者が建てた建造物に比べると、瀋陽故宮も福陵の建物も、それほど見た目はぱっとしていない。
 遊牧民の伝統というか、壁や床にはあまり気を配ったようすがありませんでした。

<つづく>
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2009年07月08日


ニーハオ春庭「ヌルハチ御殿」
2009/07/08
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(8)ヌルハチ御殿

 清朝滅亡後の混乱の中、めぼしい宝物は散逸してしまったといいますから、北京故宮や瀋陽故宮の床や壁を覆っていたタベストリーや絨毯なども無くなってしまったのかもしれません。
 江戸城明け渡しに際して、城内の宝物を「公共のもの」と見なして持ち出しを禁止し、そっくり西郷隆盛に引き継いだ天璋院篤姫のような人がいなかったのでしょう。

 清朝滅亡後は、中華民国成立後も混乱が続き、馬賊出身の軍閥が闊歩して略奪し放題だったのではないでしょうか。その点、八路軍はたいへん軍律が厳しく、略奪はしなかった、と言われています。(これは現在の政権から見た歴史的ストーリーですから、実際にひとつもなかったかどうかわかりませんが、少なくとも八路軍は農民からの略奪は絶対にしなかった)

 北京故宮の宝物はそのほとんどを蒋介石が台湾に持ち運んだとされています。西太后の陵墓には、「蒋介石が墓室内の宝物を全部盗んで持ち去った」という内容の説明板が立てられているそうですが、全部が全部蒋介石の仕業ではないにしても、王朝交代の混乱時に、前代の貴重品が散逸してきたというのが、大陸の歴史的事実。
 王朝が交代し、支配民族が入れ替わる大陸と、1300年前の正倉院の宝物が、そっくりそのまま大切に受け継がれてきた島国の違いなのかもしれません。

 江戸時代に、大陸では明から清へと王朝が変わったさい、明代の貴重な書籍絵画は散逸し、唯一日本に多くの書籍や絵画がまとまって残された。江戸幕府が長崎を通して明国の書籍絵画を輸入していたからです。2007年のときの教え子留学生の一人は、宋時代明時代の美術史研究にとって、日本での明代絵画研究が大切だと言って留学を決めたのでした。

 瀋陽(盛京)故宮は、瀋陽市のほぼ中央にあります。故宮見物をメインにするつもりだったので、中街という瀋陽で一番にぎやかな町の中に宿をとりました。張氏師府もヌルハチ故宮も歩いて5分くらいのところにあります。

 故宮は、東院、中院、西院の三部分に分かれています。
 東院は、ヌルハチが建てた最も古い部分で、政事(まつりごと)の中心であった大政殿の前に、「八旗」という満州族の軍事行政の基本となった武人組織の殿舎が一旗にひとつずつ建てられて両側に並んでいます。大政殿は八角形をしており、これは遊牧民の移動式住居であるゲル(包パオ)を模した建築様式なのだそうです。中央には玉座があります。

 ツングース系遊牧民であった女真族のことばでは、自分たちの部族を「ジュシェン」(または「ジュルチンと呼んでいました。その民族名に漢字をあてたのが「女真」です。女真族は初代ヌルハチが「後金」王朝を建て、のちに部族名を「満州族」と改称しました。北京入城後は王朝名を「清」と改め、満州族は漢族や蒙古族との通婚により、文化はほとんど漢族のものに同化しました。

 満州語やヌルハチが整備した満州文字もしだいにすたれ、皇帝の「教養」のひとつであった満州語満州文字の習得も、ラストエンペラー愛新覚羅溥儀などはほとんど学習せず、溥儀は満州語を書くことも話すこともできなかったと伝えられています。

 少数民族優遇策がとられている現在、自分自身を満州族であるとして戸籍登録している人は約1000万人おり、チワン族の1600万人に次いで、少数民族の中では2番目に大きい民族になっていますが、他の少数民族が独自の言語や生活様式を保有しているのと比べると、満州族の生活は言語や文化がほとんど漢族に同化しています。

<つづく>
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2009年07月09日


ニーハオ春庭「八旗と纏足」
2009/07/09
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(9)八旗と纏足(てんそく)
 
 満州族組織の基本である「八旗」はヌルハチが組織した軍事行政組織です。これをもとに、すべての満州人は八旗のいずれかに編入されて軍備行政の任を担当しました。後の時代には漢族八旗や蒙古八旗など、満州族支配に入った民族もそれぞれ八旗が組織され、清王朝の中国全土支配の要となりました。

 ヌルハチの軍は、当初は4軍でした。大政殿の前に立ち並ぶ八旗の駐屯殿舎は、1601年にヌルハチがこの制度を創始した当初の黄・白・紅・藍の4色の旗を持つ軍事組織であったものを、1615年にそれぞれの色を「正」「鑲(金+襄)じょう」に分け、八旗としたものです。

 組織に入っている満州族は「旗人」と呼ばれて領地を与えられており、江戸時代の武士と同じように、武人であると同時に官僚として行政を担当しました。

 中院は、二代目ホンタイジの建てた皇居です。瀋陽(盛京)故宮の中の最も高い建物である鳳凰楼は3階建てで、3階からは皇帝が盛京の街を見下ろしたそうです。ホンタイジの執務室(正殿)は、崇政殿と呼ばれています。

 記録に残された限りでは、ヌルハチとホンタイジにはそれぞれ12人の正后と側后があり子を残しています。子をなさなかった側室はさらにいたでしょう。皇后以下、宸妃、貴妃、淑妃、側妃、庶妃などの位があり、後の時代には、それぞれの后の持つ衣装の数や食器の数まで厳密に決められ儀礼儀式の中でがんじがらめの生活をすごしたようです。
 瀋陽博物館のなかに、后妃の持つ食器の数を一覧表にして展示してありました。後宮一番の権力者は皇帝の母、皇太后です。

 皇帝とその家族の生活空間であった清寧宮には、皇后の寝室と側室の寝室4棟があり、寝室のようすなどが復元展示してあったのですが、皇子誕生のときのゆりかごなども、本物は失われてしまったのか、ごく普通のハンモック型のゆりかごが展示されていて、豪華な雰囲気はなく、皇室の家具調度としたらちょっとお粗末なものです。
 もとは遊牧民なので、家具調度にお金をかけない主義であったのか、豪華な家具は盗まれてしまって、現代の復元にはお金をかけられなかったのか、知りたいところです。

 西院は、順治帝が北京入場を果たして以後の増築で、『四庫全書』が収められていた図書室、文溯閣などがあります。
 
 瀋陽故宮の売店で、中国四大美女を描いた扇子、十二代の皇帝の肖像を並べて描いた扇子など、お土産になりそうなものを買いました。

 お土産で買い損ねて残念に思ったもの。故宮に行く前に、中街の蚤の市の続くストリートを冷やかして歩きました。売り物の中に10センチサイズの「纏足の靴」があったのです。見た目、ただの「古い子供靴」にしか見えませんが、売り子は「古い時代の女性の靴」と言っていました。

 ほんとうに纏足の靴なのか、ただの古い子供靴なのか、私には見分けがつかないので、心ときめいたものの、買いませんでした。300元という言い値、日本円で5000円くらいですから、思い切って買っておけばよかったと後悔しています。これから先、纏足の靴などは手に入りにくいものでしょうから。もし、ただの子供靴だったら、、、、私の眼力のなさをあきらめればよかっただけですから、買っておくべきでした。

 纏足は、清の貴族女性や金持ち女性の習俗で、幼児の頃から、足を強く包帯で締め付けて、足の大きさを10センチから15センチ以上に大きくさせないようにした習慣です。体は大きくなっても、足だけは子供のまま。当然よちよち歩きしかできず、纏足は「労働をせず、男性の庇護のもとに一生をすごす」ことの象徴でもありました。

 清時代の男性は、この小さな足に魅力を感じ、より小さな足の女性が「美人」でした。「よちよち歩きしかできない小さな足」に魅力を感じる男性のために、足を成長させない習俗ができたのです。
 現代の男性が大きな乳房に魅力を感じ、女性は豊胸手術をしてまでも大きな胸になりたいと思うのとまったく同じことです。

<つづく>
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2009年07月10日


ニーハオ春庭「再見、瀋陽」
2009/07/10
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(9)再見、瀋陽

 ヌルハチを始祖とする清王朝の残した遺産のうち、八旗制度や纏足習俗などは失われましたが、故宮などの文物は中国の歴史を彩る文化遺産として残り、世界遺産にも指定されています。古い時代の建物も町の中に数多く残っていますが、現代中国女性たちは、はつらつと町を歩き回っています。男性たちも、よちよち歩きで男に頼って生きるしかない清朝時代の美人ではなく、生き生きと自分自身の人生を追求する女性に魅力を感じているのではないでしょうか。

 纏足靴は買い損ねたけれど、蚤の市ストリートでは、ほかにお土産をいくつか買いました。孫文夫妻の結婚記念写真や魯迅一家の写真のコピー、1枚1元。
 のみの市ストリート出店のテントの中で扇子に牡丹の絵を描いている女性がいました。しばらく見事な牡丹の花が描かれるようすを見ていましたが、見ているうちに欲しくなり、娘へのお土産用に牡丹の花を描いてもらうことにしました。

 画家は王暁敏さん。骨董市場の建物の中に店を持っています。以前は北京で画家として活躍していたのだけれど、瀋陽に移ってきてまだ日が浅いので、現在は宣伝中のため、格安の値段で描いている、という話です。
 表に牡丹の花、裏に娘の名前を書き入れてもらいました。

 午前中注文して、午後電車に乗る前に受け取りにくることを約束したため、瀋陽で見物したかったことが二つできなくなりました。
 ひとつは瀋陽駅前で写真をとること。この瀋陽駅は、旧時代の建物で、1910年(宣統2年)満鉄五大停車場の一つとして建設されたものです。

 瀋陽駅周辺には、近代建築史上の建物が残されており、現役で使用されています。
 駅近くの中山広場周辺には、旧ヤマトホテル(現・遼寧賓館)はじめ、旧満鉄共同事務所(現・瀋鉄大旅社)、満鉄貸事務所(現・瀋陽飯店)、満州医科大学付属病院(現・中国医科大学)、東洋拓殖奉天支店(現・瀋陽商業銀行・写真右)などがあります。

 私が往復に利用した中国新幹線の和諧(わかい)号は、新しい瀋陽北駅の発着なので、在来線の瀋陽駅を利用しません。瀋陽駅を写真を撮るための時間を予定に入れていたのですが、牡丹絵の扇を受け取りに行くことと瀋陽駅に行くことのどちらかをあきらめないと、午後4時半の和諧号に間に合わなくなります。

 古い時代の建物や、近代建築を見て歩くのが好きな私としては、ぜひ写真を撮りたかったのですが、今回は見物することができませんでした。
 1994年に瀋陽に来たときは瀋陽郊外にある平頂山博物館(日本軍がゲリラ掃討のために平頂山の村民全員を虐殺した遺体をそのまま保存し博物館にしている所)の見物に時間がかかって、やはり旧瀋陽ヤマトホテルなどの建物群を見物できなかった。

 写真で見る瀋陽駅は東京駅によく似ています。東京駅を設計した建築家の辰野金吾氏の様式(辰野式)を取り入れているので、東京駅と外観が似ているのです。設計の施行者は、満鉄技師の太田毅。2007年に大連で妹と宿泊した大連賓館(旧大連ヤマトホテル)の設計者も太田毅と言われています。(敗戦時の満鉄関連資料散逸のため、確実な記録は失われているそうですが)
瀋陽の近代建築紹介サイトをリンク
http://media.excite.co.jp/ism/extra/shenyang/00.html

 そのほか、瀋陽市出身の学生がスピーチで紹介し、「瀋陽に来たらぜひ見物してください」と勧めていた「瀋陽植物園」も見る時間がありませんでした。この植物園は、2006年に「世界園芸博覧会」の会場となり、現在はそのときの「世界中の植物を地域ごとに集めた植物園」「中国各地の植物を地域ごとに集めた植物園」が残されています。「雲南省の植物」とか「南アメリカの植物」など、テーマごとに植物を見ることができ、瀋陽市民自慢の植物園です。

 これら、見に行けなかった場所は、この次瀋陽に来たときのお楽しみといたしましょう。次に見たいと思っている場所があれば、いつか必ず再訪することができるでしょう。

 「もう一日あったらなあ」と心残りではありましたが、月曜日は仕事ですからしかたありません。午後4時半の中国新幹線、和諧(わかい)号に乗車して瀋陽をあとにしました。再見、瀋陽

<おわり>
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