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ぷうさん日記写文2006年6月

2012-02-07 13:00:46 | 日記
2012/02/07
ぽかぽか春庭十二単日記>写文ぷうさんの日記(4)2006年6月ぷうさん日記

2006年06月01日
これからは・・・
是から貴方は『○○さんは」生きていられるまで辛い毎日の日々ですが大丈夫ですか
体中『腰、足、股関節、手、」の痛み、痺れ、目眩、嘔吐、貧血、頭痛、痒み、口内炎、ヒリヒリ感、胃、お腹、胸、便秘、味覚が無くなる、耳鳴り、肩こり、硬直、体温調整が出来ない・微熱、まだ沢山の症状が出てきます
そして免疫力がないから風邪などすぐにひきやすい
歩くことが出来ないから車椅子ででかけても
あまり人が多くいる所はいられない
菌をもらう為、お風呂は自宅のお風呂しかは入れません
こんなに沢山のことがおきても耐えられますか
今まで歩けた人が急に歩けなくなるのです
今でも車椅子での移動ですが立ち上がることもできません
誰かに支えてもらわないと腰が曲がってしまいます
座るときも周りに支えをおかないと起きていられません
転がってしまいます
トイレもポータブルトイレでしょう
女の人の大事な髪の毛も全部抜けてしまいます、寒いのに汗がでて

体中が暑くてしょうがないです
あなたの心が壊れてしまうのではないか心配です。
こんなに過酷なこと言わなければならないこと辛いです
貴方の病気治せなくて今でも後悔してます、と先生は言いました
病院にはまめに来てください。
心に溜めないでください
こんなに辛いことなら
いっそ死んだほうがましかもしれない
涙がとまりません・・・
05:22 コメント(13) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-06-01 09:13
痛みがとれますように。つらさが軽減されますように。お試しのものが効果がありますように。



2006年06月02日
怖いです
皆さんからの沢山の言葉をいただいて本当に感謝してます
わたしの前から病気になったとたんに友達は居なくなりました。
初めは顔を見せてもくれました
でもあまりにも苦しんでる姿を見て怖くなったそうです。
だから病院の患者さんが友達になりました。
でもわたしの前から居なくなりました
皆、重い病気の人は亡くなりました
大事な人は皆居なくなるのです。
でも今沢山の人が友達になって励ましてくれます。
涙がでて止まりません
嬉しくて嬉しくて・・・
でもまた同じようにわたしの前から居なくなるような気がして怖いです。
どうしてだろう
先生は確実におきるこれからのこと考えると、
薬で痛み「モルヒネ、麻薬」抑えてあげることしか出来ない
どんなに不自由なことか
生活がいっぺんに変わるからもう歩くことはできません
紙おむつをつけなければならないかも
こんな辛いことがおきることをしらないお姉さん達はどうして助けてあげなかったのだろうとわたしにいいました。
心の中にためてはいけませんよ
悪いほうへ考えてしまうから
今は生きることへの気力がないのです
04:47 コメント(17) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-06-02 07:28
カフェの友達がいなくなることはありません。
突然の心臓発作で去年の10月から入院していた方が、5月末に退院してきました。入院中、パソコンにさわれない間も、カフェ友はずっとbbsに書き込みを続けてきました。
投稿者:haruniwa(2006-06-02 07:28
ぷうさんのカフェ友も、ぷうさんがどこにいても、書き込みは続けるし、ぷうさんに、心をよりそわせているので、いなくなるなんて思わないで安心して愚痴をこぼすのも、涙の日を語るのも、婦胡散の心のままに出していってね。

2006年06月03日
ボロボロです
わたしは今、心も体もボロボロです。
歯もどんどん削れて小さくなりました。
どの歯で食べればいいのでしょう。
痛くて体を支えていることができません。
腰の骨がバラバラに折れてしまいました。
放射線で固めてしまいましたが痛みはとれません。
膝は曲がり伸ばすこともできません。
股関節も痛みが走ります。
この頃は前にもまして突然吐きます。
十二指腸潰瘍になりました。
胃が痛くてきりきりしてます。
相変わらず眠る事はできません。
もう何日徹夜したのでしょう。
一日24時間がどこで終わるのかもわからなくなってます。
髪の毛は抜けたままで今の時期から夏にかけては頭が熱くてタオルをかぶらないと汗が流れ落ちる。
何度この髪のない自分の姿を鏡で見たことだろう。
そのショックなこと、涙が自然にこぼれます。
今まで沢山の物「者」事を無くしてきたのだろう。
そして是からまた何を無くしていくのだろう。
わたしからこれ以上何を取るのだろう
もうわたしにはあと命しかない。
これも取られてしまうのだろうか。
今、無気力状態のわたしは何時になれば
気力をとりもどせるのだろう。
07:53 コメント(13) ページのトップへ

2006年06月04日
憂鬱です・・・
毎日沢山の言葉をありがとう
本当に嬉しいです

元々眠れないのですがここひどいです。
痛み止めは全然効かなくて、量を増やしても駄目です
粉薬のモルヒネと座薬のモルヒネ「麻薬です」
足の痛みにまたべつの座薬
目の視力も落ちました
目に膜ができてよく見えません
朝になるとまぶたがくっいて開けるのに
大変です。
ヒリヒリする痛みもでてきました

自己末梢血幹細胞移植は大変です
時間との戦いです
解凍する先生、運ぶ先生、移植する
先生の3人で時間をあわせてやります
あんなに大変な苦しい思いをしてとったのに1パックしか
ありませんでした。
後はみんな割れてしまいました。
にんにくの臭いがします
でもこの量では何の意味もない
それより危険性のほうが大きいということで出来なくなりました。
少しでも癌の進行を押さえられるようにと考えてくれたのですが失敗でした
もうこれでわたしの出来るわたしのからだでできる治療はありません。
後は薬で痛みを抑えるだけです
癌は着実に進行していきます。
神様はいませんでした。
わたしにはやすらきをあたえてくれませんでした。
本当にわたしは何時まで生きれるのだろう。
免疫力のないわたしは風邪をひいて肺炎でも起こしただけで命とりになるそうです。
正直、疲れました。
04:04 コメント(15) ページのトップへ

2006年06月05日
ほんとうに
毎日、沢山の言葉をいただいて本当に嬉しいです。
わたしの勝手な愚痴ばかりなのに心配してくださり、励ましてくださり本当に申し訳ありません。
わたしは日記を読んでくださり少しでも命の大切なことを感じてほしいのです。
健康な人も病気の人も皆さんそれぞれ悩みや苦しみや悲しみをかかえているのに
わたしは答えてあげることが出来ないことがはがゆくて
そして本来考えれば私の書いてることはわたしの愚痴、弱音ばかりです
本当にごめんなさい
今日は少し調子が悪くて、吐き気が治まらないです。
痛みもひどくて、おきていることができません。でも寝ることもできないのです。
本当に、もうやだ・・・
早く楽になりたいです。
02:01 コメント(21) ページのトップへ

2006年06月06日
命・・・
昨日は沢山の励ましの言葉を頂きまして有り難う御座います。
毎日、頑張れという言葉、祈ってますと言う言葉。
みんなこころに染みます。
本当に感謝してます。
今この世の中は自らの命を絶つ人が増えてます。
心に病を持ちそれに絶えられなくて、でも体は健康なのです
わたしも癌の告知をされて、移植が駄目になった時は自殺を考えました。
でも父、母をおいてはいけませんでした。
父も病気と闘っているのにと思うと、
まさか癌になって寝たきりになるとは思いもよりませんでした。
動けないだけならまだしも、体中に痛みがありそれが常にあるということ
仰向け、うつぶせでは寝れません
横になるしかできないのです。
1時間たりとも痛みはとまりません。
わたしは眠れないため1日24時間がどこでくぎられているかわかりません
1週間も早く感じます。
体中をさすってもらわないと痛くてどうしようもありません。
医者からはそう長くは生きることはできないだろうといわれてます。
いつ死んでもおかしくないと、貴方が今生きているのは気力だけでしょうと
痛みや苦しみ、辛さから逃れられるなら死んでもいいと思いました。
でももう一人のわたしが死ぬのは怖いというのです。
この頃毎日泣いてばかりいます
何でもないことなのに涙がでてきてしまいます。
早くこの苦しい生活から逃げたい。
11:04 コメント(15) ページのトップへ

2006年06月07日
退院・・・
もう科学治療はありません
薬で痛みを抑えることしかできません。
だからもう病院にはいることも出来ないのです。
新しい患者さんがベットが開くのを沢山のひとが順番をまってます
鬱病があるから、癌患者のいるケアー病院にうつるかもしれません
このまま帰っても不安でいたたまれないからこころが落ち着くまで
その病院で鬱病を治すのです
癌患者は必ず精神科に行きます
癌という病名でショックをうけ
これからの辛い治療に耐えられないからです。
色々な話をしながら不安を取り除いていくのです。
相当に強い心をもたなければ癌の治療はできません
想像してるよりもはるかに苦しいからです。
わたしはまたこれから鬱病と戦わなければなりません。
これからおきてくる辛さにこころが壊れてしまわないように
もうわたしは壊れているけれど
05:28 コメント(21) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-06-07 09:31
ぷうさん、今朝の体調はどうでしょうか。少しでも痛みがおさまって、不安がとりのぞけたらいいなあと、毎朝、長野のほうを向いてお願いしています。

2006年06月08日
頑張る
鬱は何でもないことに気持ちがふさがり
悪いほうへと考えてしまう。
わたしは今までこんなに頑張ってきたのに
何をしてもよくなるっことがない。
抗がん剤でさえ癌細胞には勝てない
頑張っても頑張っても・・・
辛い、苦しい治療をしてもよくならない
どうすればいいのだろう
これからどうすればいい?
今はもう歩くことができない。
今までも夜中に何度も具合が悪くなり
母を起こしてきた。
救急車で病院へも行った。
突然具合が悪くなるわたしは先ほどまで
知らない人は元気なのに突然くるのねと
意識にないまま母に着替えをしてもらう
この頃手が震え、字も書けない。
お箸ももてない。
目に膜が張る見えにくい
是から出来なくなることばかり
わたしは何もかも失っていく
どれだけ私から取ればいいのだろう
何故こんなにもいじめるのだろう
後わたしにあるもの命だけ
それも取ってしまうだろう。
わたしに残されたものはこれから
死んでしまうときまでの時間だけ
なんて悲しいのだろう
なんて辛いのだろう
12:08 コメント(17) ページのトップへ

2006年06月09日
昨日
昨日は痛くて調子が悪くて、このカフェもパソコンもできませんでした
今日の昼にやっと体を起こすことができました

毎日沢山の励ましのことば
やさしい言葉
をもらい本当に嬉しく感謝してます
私のこと一生懸命考え励ましてくれてる

こころに滲みます
自分のことが大変なのに疲れた体をおこしてわたしのところにきてくれる
なのにわたしは嘆いてばかり、泣いてばかりです
ごめんなさい

毎日、何時でも痛みがあるわたしは泣いてばかりで
でも今は耐えられない、こうして書いていても痛くてしょうがないのです
ため息ばかりで、外にでれない寂しさ
人と会うことができない寂しさ

皆さんから言葉をもらっているのに
寂しい気持ちでいっぱいです
どうしてでしょう
皆さんの気持ちが嬉しいのに
悲しく、寂しく、辛くそんな時間ばかりで
ひどく落ち込んでしまう
明るくできないでいる
本当に寂しいです。
17:43 コメント(13) ページのトップへ

2006年06月10日
何も
今までどんなに辛くても、悲しくても
がんばってきたのに、何故この頃は頑張る
気力が出なくなったのだろう
もう何もできない、治療のこと
家へかえってからの不安なこと
もう何度も救急車で運ばれている
突然に具合が悪くなること
過呼吸になると怖い
こんなに薬が効かなくてどうすればいいのだろう
ただただ薬の量を増やすだけでなにも変わらない。
薬を増やしても痛みは止まらない
ストレスがたまり1日1回の食事だけなのにストレス太りがでてしまってる。
食べると吐き気がでてお腹が痛くなる
手が震えてる・・・
薬の副作用で皮膚がヒリヒリする
5分もおきていられない
横になってるしかできない
痛いよう・・・痛くて・・・痛くて
どうにかして・・・
息するのさえ苦しい
誰か助けて
誰か痛みがとれるから殺して・・・
もう・・・
生きていたくない・・・
死んでしまいたい・・・

05:10 コメント(20) ページのトップへ

2006年06月11日
ごめんね
みなさんに心配かけて
ごめんなさい
でもこの頃、体がおもうように
いかなくて、自分でどうすることも
できなくて、医者にも何も
できなくて、
そんなことばかり考えて
これから何を楽しみにしていくのだろう
痛みが常にあって
癌も進行してるから、いつどうなるか
わからない
悲しくて、切なくて、寂しくて、
辛くて
自分のこころではもうどうすることも
できない
わたしより苦しんでいる人もいる
でもいまは自分のことも
考えられない
毎日、泣いてばかりで
何故だろう
何故わたしはこんな病気になって
しまったのだろう
こんな人生を与えたのだろう
寂しいよう、悲しいよう・・・
11:21 コメント(15) ページのトップへ

2006年06月12日
頑張らない・・・
私は、病気を告知されて以来
はじめは働きながら治療をしてきました。
でも抗がん剤の副作用があまりにもひどくて、働きながらの治療は
わたしの体力を落としていきました
でもその時父も母も同時に入院してました。
昼は会社へ行き、夜は看病で病院と会社の行き来だけでした
そのとき私も癌をかかえながらでした
本当に過酷なものでした
生活してくには仕事をやめるわけにはいきませんでした。
それから父、母も退院したと入れ替わりにわたしが本格的の治療に入るために入院をしたのです。
入院してからは何かにつけ、頑張って検査して、頑張って薬を飲んでね
なんでも頑張ってという言葉が先につくのです。
癌の告知で後10ヶ月しか寿命はありませんといわれているのに、今更何を頑張るのだ、そんな事よりこのままで残された命を悔いのないようにするか
少しでも長くいきれるように治療をするかそのどちらかしかないことに決断しなくてはいけない。
これから相当頑張らなくてはなりません
今はその時にくらべると、無理して
頑張る必要がもうないのです。
これから起きる事はもう目にみえて
結果がでているからです
わたしはこれから何を頑張ればいいのだろう
15:19 コメント(12) ページのトップへ

2006年06月13日
何故か
わたしは病気を治すためにがんばったの
でも唯一の助かることができる
骨髄移植もできなかった
そして残されたものは、からだが不自由になるということだけ
完治できない、癌は進行してる
残された時間は歩くこともできない
なんてことだろう
移植さえできてればこんなことには
ならずにすんだのに
残りの時間を痛みと戦うだけで
終わってしまう
働きたくても出来ない
遊びにいきたくても行けない
薬もきかない
ないないだらけです
今、17種類の薬を飲んでます
また1つ増えました
モルヒネの貼り薬です
普通、胃癌、肺癌、腸癌、乳癌、肝臓癌
などの痛み止めの10倍以上の量の
薬を飲まなければ痛みは止まらない
わたしのように血液の癌でもまた違う。
わたしはある種、骨の癌でもあるわけだから、普通の量では効かない
そして、ある点滴をすると、痛み止めが吸収しやすいというので、その薬も増やす事になる
薬ノイローゼかもしれない
こんな生活もう嫌です。
本当に辛いです。悲しいです。

2006年06月15日
いままで
今までどのくらいの薬を
飲んだのだろう
どんな点滴をしても効き目がなく
ただ副作用で苦しむだけ
効いたかとおもうとまたすぐもどる
また違う点滴をする
でも同じである
薬を4時間おきに17種類を飲む
いささかいやけがさす
飲むことにさえ恐怖をかんじる
後から入院したひとも
薬がきいて病気が治り退院していく
わたしはいつも見送るばかり
みんな笑顔でかえる
中にはお歳よりの人は家にかえる
のをいやがる
退院したくないと泣く
病気がなおったのだからここには
いられないよ、というと
ここが痛い、あそこが痛いとかいいはじめる
何故帰りたくないのか
知る必要がある
医者は聞く耳もたず退院させる
こんなとき、医者も人間の感情を
だす、冷たい人になる
わたしが変わりに退院するから
痛みをなくしてというと
貴方は病気がなおってないから
駄目です
苛々して医者にもつきあたることが
ある
でもにこにこして聞いてくれる
人に突き当たるのはやめようと
おもった
貴方を治せなくて先生も辛いよという
いまわたしは苛々がとまらない
こころが落ちつかない
17:56 コメント(21) ページのトップへ

2006年06月16日
ごめんね
きょうは体中痛みが強くて
書くことができない
薬が効かなくて
手も振るえと痺れがひどくて
こころが落ち着かない
だから今日は
ごめんね・・・
17:53 コメント(18) ページのトップへ

2006年06月17日
もう
どんなに薬を飲んでも効かない
どんなに医者が考えてためしても
効き目がない
薬ずけで体もボロボロです
でも癌は進行してる
舌も痺れてきてる
目も膜がはりこすってもまたなる
手も震えてしまう
体温調整ができなく突然汗が
流れでてくる
こんなこと毎日少しずつ何かが
おきて
わたしはこれからどうなってしまうのだろう
痛みはもう治まらない
少しうとうとすると
怖い夢をみてうなされる
誰かが追いかけてくる、逃げても逃げても
追いかけてくる
明日は何がおきるのだろう
痛くて寝れない、眠ると何か襲い掛かる
だから寝れない
みんなに逢いたいなあ
逢えたらいいのになあ
18:03 コメント(11) ページのトップへ

2006年06月18日
書けない
調子が悪くて書けないいた
でも気分が少しよかったから
書いた
やっとのおもいで
だけど
なんだ書けるのではないですかと
もう・・・
書くのやめようかな
私の病気の愚痴ばかりだからね
何でだろう
悲しいなあ・・・
04:11 コメント(25) ページのトップへ

2006年06月19日
もういや・・・
腰の痛みはもともとだけど
股関節も痛くなるとは
言われていたけど
今日の朝はすごかった
すこしでも体を動かすと
激痛がはしる
声もでないほど
痛かった
歩けないけど
股関節の骨も
ぼろぼろだった
前よりひどくなっていた
わたしの体の骨はどうなるのだろう
腰の骨もぼろぼろ
膝の骨もぼろぼろ
これからどこの骨が
ぼろぼろになるのだろう
17:57 コメント(14) ページのトップへ

2006年06月20日
きょうも
きょうは暑く蒸している日です
こんな日は特に調子が悪い
だるいし、体の痛みも余計に
感じるからです
目の神経がぴくぴくする
膜がはる
腰も股関節も膝も足首も
痛みが走る
今日は貧血ぎみで目眩が
ひどい
周りがぐるぐるまわる
景色が歪んで見える
髪の毛が産毛が生えてきた
薬をやめたからでしょうか
吐き気がひどくて
胃のなかに水がたまったみたい
きたないけど
何日便秘が続いているだろう
こんなに具合が悪いし
痛くて痛くてしょうがないのに
何故か
かき氷を食べたいなあ
今日も眠れないのだろうか
15:28 コメント(15) ページのトップへ

急に
急に寂しくなって
涙が止まらない
寂しくて
悲しくて
痛くて
みんなと同じように
生活がしたい
もうこんなに苦しく辛い
おもいしたのだから
突然に襲い掛かる
この寂しさ
いつものことだけど
涙がとまらない
こころが落ち着かない
23:04 コメント(17) ページのトップへ

2006年06月21日
時間
この時間はカフェが混んでいて
よく繋がらない
この時間わたしは寂しい
みんな一生懸命働いている
みんな家族の為にご飯の支度してる
みんな一生懸命勉強してる
なのに
わたしは痛みをこらえているだけ
この夕暮れ時は
寂しく、悲しい
でも
今日も生きていられた
いやいまは生きてる
みんなのために何もできないけど
ご苦労さまですしか声をかけること
しかできない
前はみんなと同じように
生きていたけど
時間は過ぎていく
明日も生きていれるだろうか
寂しいなあ・・・
18:15 コメント(13) ページのトップへ

2006年06月22日
きょうは
きょうは曇りです
涼しいです
でもわたしにはこのくらいの陽気がいい
からだの痛みは消えないけど
どんどん痛みが増えてる
いろんなところが痛くて
歩けなくてもいい
寝たきりでもいい
痛みがとれれば・・・
でも痛みはこれからも取れることはない
どんどん、もっと増えます
と言われてしまいました
今の医学では貴方を治すことは
できない
それは患者の数も少ないから
研究ができない
世界を集めても少ない
もう家に帰ろう
不安ばかりだけど
家に帰りたい
残り少ない時間を大事にしよう
痛くて痛くてどうしようもないけど
どうしてこんな病気に
なってしまったのだろう
罰があたったかな
11:02 コメント(18) ページのトップへ

2006年06月23日
まただめ
痛み止めが増えた
モルヒネの貼り薬です
やはりこれも効きません
わたしが立ち上がるには
脊髄の手術をすればいいかもと
言われました
でも癌も進行してるから
あなたの体力では持ちませんと
言われました
すこしの望みがあっても
できないのです
治すことができないのです
なんて辛いことでしょう
なんて悲しいことでしょう
なんて口惜しいことでしょう
もうておくれなのです
きょうも
痛みと戦い続けてます
もう疲れました
15:42 コメント(19) ページのトップへ

2006年06月24日
どうかな
罪でなければ
運命かもしれない
その人それぞれの運命
父も母も病気でわたしの家族は
こうなる
運命なのです
癌になったのも
痛みが止まらないのも
今の医学では治せないのも
そして生きられる時間も
きまってる
運命かもしれない
生まれながらにして
こうなることがわかっていたのです
だからさけることは出来ない
わたしがあとどのくらい生きれるかも
運命できまってるのです
事故、自殺、殺人・・・
何もなく普通に幸せに生きる人
みんな運命です
だからどんなことしても
痛みは取れない
18:17 コメント(16) ページのトップへ

2006年06月25日
きょうは
この嫌な天気で
体がだるい
痛みが強くて
本当に薬が効かない
痺れも止まらない
からだの骨が痛い
暑い日もだめ
寒い日もだめ
どんより日もだめ
どんな日なら気持ちよく
過ごせるのだろう
痛みはどんな日も
消えない
だからどんな日でも同じなのかな
少しでいいから雨がふってほしい
涼しくなるから
痛みの無い日はいつくるのだろう
こないだろうな
くるわけ無い
でも一日でいいから
きてほしい
18:12 コメント(11) ページのトップへ

2006年06月26日
どうして
こんなに毎日皆さんが励ましの言葉を
くださり、嬉しくてしょうがない
ありがたくてしょうがない

なのに
寂しくて・・・
悲しくて・・・
辛くて・・・

ごめんなさい
どうすることも出来なくて
何時も突然くるこの気持ち

みんなも辛いのに
わたしはみんなに言葉をかけて
あげられない

何故か
寂しい・・・
悲しい・・・

もうどうしていいかわからない
わたしはどうなってしまうのだろう

ごめんなさい
01:31 コメント(21) ページのトップへ

2006年06月27日
すこし
毎日励まされて本当に嬉しいのに
ふと現実にもどってしまいました

それを考えてたら鬱になってしまい
悲しく、不安でどうすることも
できなくなったのです

毎日
日に日に
痛みが増し、腰も股関節も膝も
足首も
腕も首も
痛みが増してきて
歯もボロボロです
抜けてしまう

みんなの励ましに頑張ろうと
思うと頑張れなくて
これからどうなってしまうのだろう
この痛みをずーと
感じながら生きるしかないのだろうか

今まで苦しんだし辛かった
だからもう頑張らなくていいよねと

何時まで続くこの苦しみ
自分でもう時間がないこと
しってるのに
03:23 コメント(17) ページのトップへ

2006年06月28日
たくさん
この世の中には
沢山の言葉があります
気持ちを言葉で表現して
書きます
気持ちを伝えます

でも中々言葉は難しいから
よく伝わりません

誤解されて
自分で落ち込んでしまう

自分ではそんなこと
思っていなくても
相手の受け取りかたで
どうにでも解釈されてしまう

言葉は難しく、怖いものです

わたしの言葉はみんなに
伝わっているのでしょうか

人を傷つけてしまうこともある
知らず知らずうちに

わたしの言葉は伝わっている
のでしょうか

みんなを傷つけないで
03:34 コメント(17) ページのトップへ

2006年06月29日
暑い
暑くて暑くて
雨が降らないでしょうか

本当に体温調整ができない
わたしには本当に辛いです

暑さで吐き気や目眩がひどくて
どうしようもないのだけど

これから夏になると
からだがいつも微熱状態になる
頭と体を冷やさないと眠ることは
できない

でもみんなも辛いだろうね

寒いのも大変です

わたしは
わがままですね
18:47 コメント(13) ページのトップへ

2006年06月30日
変形
膝がまがって変形してる
まっすぐに伸ばす事ができない

骨の形がかわってしまってる
骨はボロボロでもろくなっている

痺れは今も取れない
正座をして痺れるとき
と同じ痛みである
痺れと痛みが襲う

目もともこのごろ頻繁に
痙攣をおこす
顔まで顔面神経痛になったら
変形してしまう

髪の毛もない
これで顔まで
なったらもう誰にも逢えない

神様は何時まで苦しめるのだろう
命と引き換えにしかないのだろうか

わたしはそんなに罪深いことを
知らずうちにしたのだろうか

人を傷つけ、人から恨まれている
のだろうか

だとしたら
命と引き換えにしか
罪は消えない

是からの苦しみ、悲しみ
怖い・・・

いつまで続く
これ以上何をわたしから
取るつもりなのだろうか

死ぬ時まで続くのだろうか
14:34 コメント(19) ページのトップへ



<つづく>
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ぷうさん日記写文2006年5月

2012-02-07 12:58:59 | 日記

ぽかぽか春庭「2006年5月ぷうさん日記」
2012/02/05
ぽかぽか春庭十二単日記>写文ぷうさんの日記(3)2006年5月ぷうさん日記

・2006年05月01日
かなしばり
わたしの周りに沢山の人がとりかこっているが静かで、機械の音が聞こえるだけ・・
からだは痺れが究極でかなしばりにあったようで、自分の力で動かすことさえできない。足もあげよとしても、麻酔にかかっているようで体が重たい。
段々意識が薄れていく・・・
先生血圧が下がってます・・
大丈夫ですか
どうしましたか・・・寒いです・・・
体が重くて全然動けません。
わたしはベットにしばられているかのような感覚でした。両手首は一応しばってありますが、寒い・・・と言っていたわたしは今度は熱いというのです。でも血圧は下がる一方でした。
汗をかきながら震えていました。
がんばってね・・・
痺れ、痛み、ヒリヒリ感、口の中は乾き
「でも水は飲めない」
くちびる拭いてあげるね・・・
体の震えは止まりません。
○○さん大丈夫ですかでも
この骨髄液をとっている間は何も出来ないのです。痺れ、痛み、目が開かない・・・
副作用で目が乾きくっついてしまうのです
ごめんね
何もしてあげること出来なくて、こんなに
痛い思いまたさせてしまってと一人の看護師が私の手をにぎりしめたまま言ってくれました。先生血圧がまた下がってます。
人間の体の中にある骨髄液、とれる分は何中mgしか取れません。
正座をして足が痺れて立てないときの症状が体全身に感じてるということは、しゃべることすら出来ないものとは思いもしませんでした。わたしはどんどん眠くなってくるのです。○○さん眠ってはいけないですよおきてください・・・眠らないでください。そうわたしを起こすのです
このまま血液をとってるとき眠ると、ショック死をしてしまうからです。
まだはじめて30分しかたってないのです
でもわたしにはもう何時間もたっているような感覚でした。この苦しみはまだまだ続きます・・・
03:38 コメント(5) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-05-01 07:27
苦しくつらい時間を耐えてきたのですね。命と直接対決のような時間をすごすこと、すごいことですね

・2006年05月02日
辛いよう・・・
人が多くて、苦しい酸素が少ないみたいに過呼吸になってしまった。
息は荒れゼイゼイ言う。
自分の中で意識が遠のいていく。
ふらふらで目がまわる。
見えるものがぐるぐるまわって見える
先生天井が落ちてくる
先生、そこの変なものとってください
胸が重い、痛い。体が痛い。
先生、機械止めて
○○さん目を開けてください
僕はここにいます。
ごめんね、もう少しすると楽になるから
今止めると全部駄目になるから
がんばって・・・
こんなに辛くて、くるしくて、痛いなら、死んでもいいからと叫んでいました。
すると、泣き声が聞こえました。
看護師が泣いてるのでした
可哀相といいながら・・・
私もずーと泣いたままです・・・
もうどうでもいいからこの痛みとめて
血液がからだの中からどんどんなくなっていく、白血球、赤血球などどんどん0になる、怖いです・・・
15:51 コメント(3) ページのトップへ

・2006年05月03日
変な気持ち
血液の中の数値が0になる
どんな気持ちだろう
実際なってみると、意識は遠のく
体が重い、動かそうとしてもびくともしない。骨が痛い。
看護師さんがずーと擦ってくれてたけど、触られるだけで痛くて、激痛が走る。
誰かが歩くだけで、地しびきがおきてるような
建物が揺れてるような感覚に陥る。
動かないで!!動いただけで体に痛みが襲う。
体が焼けだだれたようにひりひりと痛い。
これでなにかあると血液が止まらなくなる
わたしは泣き叫んでいた。
意識がうすれていく。
遠くに、手を叩いてる音がした。
目が覚めたとき、わたしはベットにいた
まだ体中に痛みがあった。
先生が1日目の手術がおわったよ
よくがんばったね・・・
もうゆっくりねてもいいよ・・・
といわれたでも
明日のことが気になって中々
眠りにつく事ができない
明日も同じ恐怖があるのだろうか
04:14 コメント(6) ページのトップへ

・2006年05月04日
生きてる・・・
べットで目が覚めたわたし
生きてる・・・生きてるの
父、母は泣いていた。
病室にかえって来た時は意識がほとんどなかったからね
先生がよくがんばったねといってくれた
ちゃんと取れたからね。
明日も頑張るんだよと言われました
まだ体が痺れたままです。
明日も同じ痛みがおきるのかと思うと憂鬱でした。
この頃骨がもろくなってきたせいか歯がぼろぼろで治しようがないほどに欠けてしまってる。
歯医者はよくこの歯で食べてるねとまで言う。
口内炎も出来てる。歯は痛いししみる
口の中もしみる、食べ物も味がしない
先生に歯もぼろぼろになるよと言われていたけれどここまでなるとはおもわなかった。
この歳で入れ歯になってしまうかも
憂鬱だなあ、
03:08 コメント(4) ページのトップへ

・2006年05月05日
もう1日・・・
今日も昨日と同じことがおきるかなあ
きょうもはじまった
昨日来れない、医者、看護師、検査技師
沢山またあつまった。
もののみごとにわたしは見世物か
わたしが思うほどよりずーと
大変な手術なのかなあ確かにほとんど無い事らしく
めずらしいことでこの手術に立ち会うことは出来ないらしい
本当にまれにわたしみたいな病気で
同じような治療をしないかぎり
今日も、頭から足の先まで痺れは
すごーい、顔も唇も目も・・・
痛い、今日は血液がどのように抜かれて通るかその管を見せてくれた。
ぐるぐるくねっている、血液が流れている様子をみて
すごーいな私の血液が出て行く
流れてこの途中で骨髄液が抜かれていく
その量は何と少ないもの
人間の体の中の血液の中に骨髄液は何と
少ないのだろう
これがうまく取れなければ全部パアになる。
こんな辛いまた死の恐怖を
感じながらしてるのに・・・
その不安もある。
ずーと体をさすってくれている
看護師、手をにぎりしめていてくれる
先生、大丈夫だよ怖くないよといってくれてる検査技師、沢山の人にみまもられながらふるえながら、振るえが止まらず
血圧が下がる。寒いといいながら
それでも、やらなくてはいけない
早く終わればいいのに
もう少しだから・・・
時間がはやく過ぎればいい
もう少しで傷みが薄れていく
静まりかえった部屋
機械の音だけが鮮明に聞こえる
そしてわたしは気をうしなった・・・
16:14 コメント(4) ページのトップへ

・2006年05月06日
心臓・・・
気を失ったわたしは血圧が下がる
心臓のマッサ-ジをうけていたらしい
自分ではわからない
脈が取れない、脈が薄い・・・
心臓の鼓動が弱い
そんなやり取りがあったとも知らず

気が付いたときはやはりベットの上
いた。目を開けた私に、両親はお帰り、よくがんばったね・・・と
声をかけてくれた
涙が止まらなかった。
嬉しくて、切なくて、悲しくて、、寂しくて
何故か色々な思いが頭と心の中を

よぎりああ~終わったんだ
生きている
生きてかえってこれたんだ
父、母の許に・・・
涙が止まらない、ぬぐっても出てくる体は痺れ、傷みは消えていないが
先生来て説明してくれた
お父さん、お母さん、大変でした
心臓の鼓動が弱く、脈がとれない状態でした。
もう駄目かと思いましたが
○○さん呼びかけると、涙流したのです
これで意識はあると思いました。
やっと第一段階が終わりました
これからもっと大変ですよ。
でも今日はゆっくり休んでください
眠剤うってあげますから、疲れたでしょう
これから24時間は絶対安静ですから
静かに休んでね。
今日はお父さん、お母さんも泊まって
下さい何かあるといけないから、いつ
急変してもおかしくない状態ですからね
はじめて、3人で病室で寝ました。
私は究極に疲れているのに何故か涙止まらず
眠れませんでした。
03:49 コメント(2) ページのトップへ

何故か悲しくて・・・
ある人の日記を読んでたら
何故か悲しくなりました。

癌にかかっている人は
人間の意地悪さ
憎しみ
失意
虚栄心
などが心のなかにあるから
癌になるのだと言う

非のうちどころのある生活を
してきたからである

癌にかかって無い人は
心の中が綺麗で
謙虚で
憎しみなどひとかけらもなく
優しい心をもった人

そういう風に書いてあった
何故か悲しかった。

わたしが癌にかかったのは
わたしの心の中が
切ないなあ・・・
07:13 コメント(9) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-05-06 10:21
病気の人を悪くいうような心の持ち主が何を書いても気にしないで。
そういうことを書く傲慢な人をただ、哀れんでやればいいのです。
死は必ず人に与えられること。病は、死をより深くみつめるために人に与えられること。
ぷうさんは、人より深く思考する機会を与えられたのだと思います。

・2006年05月07日
雨が・・・
外は雨が凄いです
雨は好きです
この頃色んなことが
沢山の言葉を皆さんから
いただいて、とても嬉しく
感謝してます。
生きる力になります
でもなかにはわたしが
同情を買うために
書いてると思う人も
いるらしくて
残念でなりません
悲しいです。
11:41 コメント(3) ページのトップへ

生きてる・・・
静かな病室
機械の音が妙に大きく聴こえる
手術から一夜明け
体中の痺れは残っているものの
心臓は動いている
ずーと心配ばかりかけている
わたしに両親は大変だったね
また命が伸びたね
今まで何度も生、死を
さまよったことあるけど
まだ生きていていいよと
いうことだからね
これからまた大変なこと
まってるけどまた頑張ろうねと
副作用ががおきなければいいけどね
でも熱があがってしまいました
いつもは35度しかない低い平熱
38度もあると息が上がる
そして体中が痛い・・・
でもこれがおさまらなければ
移植ができない
移植に耐えられるように体を
つくらねばどんどん先送りになる
荒い息をしながら
わたしは頑張るからねと
いい続けていた。
12:06 コメント(3) ページのトップへ

・2006年05月08日
眠れない・・・
外が明るくなってきた。
昨日も眠れない・・・
体中が痛いとくに腰が痛い
歯が痛くて、口の中も口内炎かな
副作用がでてきてしまった。
あの苦しい、痛い、心臓が締め付けられる
思いして取った骨髄液はジュラルミンの
ような箱のなかに終い鍵をかけ
マイナス何十度という寒い所で
保管される。そこにはいるには
何人者の人の許可がないと
入ることは出来ない。
万が一のことが起きると責任が
取れないからです。
2日もかけ、15時間以上もの間
べっトの上でじっとしてないといけない
動くことは出来ない。
まして喉が渇いても水も飲めない
そして沢山の人がいる中で緊張しながら
採取したものです。
取り返しのつかないことのないように
名前、生年月日、病名、病室、採取日
医師の名前、管理者の名前、採取量など
をかいて保管する。
そして保険にかけることになっている
そんな貴重なもの
わたしにとっては命と同じくらい
大切なもの・・・
でも使えるかどうかは何ヶ月後しか
わからない。
もしかすると駄目で使えないかもしれない
そのことを先生に念を押され言われた。
でも今は早く少しでも痛みがとれればいい
そして眠りたい・・・少しでいいから
05:15 コメント(6) ページのトップへ

・2006年05月09日
ごめんね
きょうは調子わるくて
体温調整できないから
汗ばかりでて
書けない
生あくびがでてだめ
ごめんね
00:25 コメント(7) ページのトップへ

・2006年05月10日
これからが・・・
口内炎ができて食事ができない
ゼリーみたいのしか口に入らない
手の痺れがひどい、もとは手の痺れがあり
検査して病名がわかったからね
なにももてなくて、手袋をして少しでも
刺激がないようにしないとね
歯もボロボロだから「わたしの病気は骨もボロボロになる」
1本抜けてしまいました
歯に力入れて食い縛っていたから・・・
どの歯で食べているのだろう
でも今は食べれない、のくっんでいるだけだから、
ぜりーはウインターぜりーかな
「木村拓哉さん」が宣伝してる、他は味と臭いがだめ。
臭いんも敏感になり病室はお香をたいている、
人の臭いも駄目、看護師のなかにも
香水つけている人いるからね
今の看護師さんはおしゃれしてる
ピアス、透明マ二ュキュア、胸のポヶットにも、
口紅も綺麗になるべく明るくしてるね。

少しずつ副作用も治まりかけてきたから
今度は移植に向けての検査がはじまる
その前に、病室のまえの部屋にでることができた、
2,3分だけど、いくら何でもできるけど病室の中だとやはり孤独だし
息がつまる「無菌室だけど」・・・
悪く言うと警察の中みたい
無菌室は3人部屋位広いのだけど、その広さを1人で使う、
まあ機械が沢山あるからね、キッチンも、トイレ、お風呂もあるし
付き添いの人のベットもあるからね

そしてはじまった検査が最終の血液、
心電図「24時間」、レントゲン、CT、MRI、骨密度、
胃カメラ「気持ち悪い」骨髄「これは痛い」、放射線、口腔外科、目、皮膚科、整形外科、腹電図、
精神科「移植する人は必ず精神的に恐怖感があるから」まだあるけど多すぎて、
とにかく病院の中の全部の科、この検査だけでフラフラです、くたびれます。
みんな1度は経験してると思うけど、検査は疲れるこれだけで病気になりそう。
1週間位かけてするけど、またその結果がでないと前進めない。
そして最後の説明会がありました。
何人いるのだろう、私の為のチームの人が
すごーいです。
04:52 コメント(7) ページのトップへ

・2006年05月11日
大変です・・・
移植にむけての大きな説明会がありました。
医者3人、看護師3人、検査技師3人、父、母、姉、義理の兄とわたしです
病院側は代表できました。
時期、体調、ドナー「姉は検査から退院まで5日の入院が必要」
姉が少しでも体調が悪いと出来ないし、わたしが原因でも出来ない。
わたしの場合は心臓が弱い為1度に移植することが出来ない
ミニ移植といって少しずつ移植する
でないと心臓に負担が多すぎて心肺停止になってしまう可能性があるからだという
姉の腰から骨髄液をとりすぐに移植する。
姉達がわからないこと、不安なことを全部理解してもらわないと出来ない。
だから日にちだけ決めて後は姉達の気持ちの整理がついたらということにした。
説明は3時間もかかった。
わたしは今までずーとことある毎にきていたから理解するのにはさほど時間はかからなかった

ドナーはその人の誠意からなるもの
だから無理じえは出来ない
いくら身内とはいえども・・・
でも奇跡的に5個も血液合った
のだから本当に何十万人に一人
の割合での一致、奇跡としかいいようがない、
「身内だからといえども合う確立の方が少ない」
DNA鑑定の結果である。

でもこの後辛いことが待っているとは考えもしなくて・・・
04:53 コメント(0) ページのトップへ

大変です・・・
移植にむけての大きな説明会がありました。
医者3人、看護師3人、検査技師3人父、母、姉、義理の兄とわたしです
病院側は代表できました。
時期、体調、ドナー「姉は検査から退院まで5日の入院が必要」
姉が少しでも体調が悪いと出来ないし、わたしが原因でも出来ない。
わたしの場合は心臓が弱い為
1度に移植することが出来ない
ミニ移植といって少しずつ移植する
でないと心臓に負担が多すぎて
心肺停止になってしまう可能性があるからだという
姉の腰から骨髄液をとりすぐに移植する。
姉達がわからないこと、不安なことを全部理解してもらわないと出来ない。
だから日にちだけ決めて後は姉達の気持ちの整理がついたらということにした。
説明は3時間もかかった。
わたしは今までずーとことある毎にきていたから理解するのにはさほど時間はかからなかった

ドナーはその人の誠意からなるもの
だから無理じえは出来ない
いくら身内とはいえども・・・
でも奇跡的に5個も血液合ったのだから
本当に何十万人に一人の割合での一致、奇跡としかいいようがない、「身内だからといえども合う確立の方が少ない」
DNA鑑定の結果である。

でもこの後辛いことが待っているとは考えもしなくて・・・
07:34 コメント(6) ページのトップへ

・2006年05月12日
こんなに悲しい・・・
私の心は穏やかだった。
先生達との話し合いや説明が終わり疲れていましたがほっと・・・
してました。
しかし姉が部屋に戻る前に突然泣き出したのです。
わたしには何事があったのかわかりませんでした。
そして姉は泣きながらこういいました。
ごめんね・・・移植出来ないの
突然のことでわたしにも何が駄目なのかわからないまま、泣いていました、。
心臓が、漠々して動悸が激しく過呼吸になっていました。
姉は、お姑さんが許してくれないというのです。家を開ける事を許さないと・・・
今まで、お見舞いも言葉も一度も聞いたことはないのですが事ある事に話はしてました。
実はお姑さんが美容院で聞いた事が許さないと、ある看護師が実家にかえってきて話したというのです
「お宅の嫁さんの妹さんは白血病だって」大変だねえと
偶然その看護師が姉の嫁ぎ先の近くに住んでいてうわさ話をしていたらしい
こんな偶然があるのだろうか
でも口はずみに話したことがこんなことになるとは・・・
でも、まだあるのです
そのお姑さんによると、家、子供の世話「子供は高、中学生」が誰がするのだ
お前は家に嫁にきたのだから、妹に何があろうと関係ないと・・・
わたしは何があったのかわからないまま気を失ってしまったのです。
05:47 コメント(6) ページのトップへ

・2006年05月13日
かなしいなあ・・・
わたしは何を言われたのか理解が出来ずにいました。
涙がとまりません。
今までこの移植のために苦しい辛いこと沢山してきたのに何故
そうまとうのように色々と甦りました
そして口をきくことが出来なくなりました
あまりのショックで誰とも話しができない
何をしてても涙がでてきてしまって
聞くこと、見る事、話す事、傍に
いられる事、見られる事、食べる事
何の気力もなくなってました。
もうこころはうわの空で何を言われても耳に入らないのです。
眠ることもできず、部屋は夜も明かりを付けず過ごしてました。
何を言われても聴こえないのです
もう終わりなんだ
もう後少ししか生きれないんだ
死への不安と恐怖がおそいかかり寒気がしました。
でも次の日にまっていたことがまたわたしへの悲しい出来事でした
04:03 コメント(8) ページのトップへ

・2006年05月14日
どうして・・・
わたしは眠れないままにいた
ショックのあまりに声がでなくなってしまいました。
そしてところどころの記憶がなくなってしまったのです。
何がおきたのか、何してるのか不思議だった
そして父、母が姉の嫁ぎさきに頭を下げに頼みにいってくれた
娘を助けてくれと
でないと死んでしまうと・・・
娘「姉」を5日だけかえしてくれと
でも駄目でした。
姉はもう家の嫁だから家のことなにもしないで家をあけるのは駄目です
おたくで何があろうと家には関係ないです
いくら説明してもお姑さんは理解してくれませんでした。
そしてこのままでは本当にまれに合う血液のドナーを逃しては患者が可哀相と
看護師が先生と相談して、姉と兄に別々に説明して不安を取り除いて
お姑さんに頼んでもらおうとしました
看護師さんは3時間かけて説得してくれました。
でも姉はなにもいえないと
兄は母親に頭があがらないらしくうけられないと言いいました。
姉が病院に来ても私は逢えませんでした
母が姉と話をして、今わたしが声がでなくて話も出来ないし
泣いてばかりいるから
今は会わないほうがいいといってかえってもらいました。
もう何の治療もない最後の手段として移植ができなければなにも無い。
毎日、泣いているばかりでした
02:26 コメント(7) ページのトップへ

・2006年05月15日
何故なの・・・
何故助けてくれないの
どうして今になって言うの
今まで移植をしてくれるからどんなに辛い
治療も耐えて、何度も死に直面してきたのにどうしてなの・・・
忙しいといって貴方達二人は「姉、兄」
病院にもきてくれなかった。
どんなに今日は来て欲しいといっても来てはくれない
それをわたしは1度も文句をいわなかった
わたし助けてくれるといってくれたから
姉は妹のために助けるというのに
兄は何もいってくれない
死んでしまうかもしれないというのに
他人ではないのに・・・
わたしに貴方達を一生、憎めというの
これでもし出来なくて、これからどんどん
寝たきり状態になるの知りながら
それでもたすけてはくれないのね
わたしは病院で土下座をしてたのんだ
でも駄目だった
今は駄目でも時間がたてばという
今でなければわたしが移植に耐えれる体力
がなくなるから、今しかないというのに
どうしてわかってくれないの
わたしが死んでもいいんだ・・・
そしてわたしは先生の前で泣きながら
駄目になってしまった
先生、わたし死んでしまうね・・・
先生は何も言わずにいた。
02:31 コメント(8) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-05-15 07:10)
ぷぅさん、つらかったね。身内に裏切られたような思い、苦しい悲しい涙です。
一度は妹を助けようと決意したはずのお姉さんもつらかったでしょうね。お姑さんが反対したのは、万が一のことを心配しているからと思います。私の知る限り、骨髄移植でドナーが亡くなったのは一例だけですが、そのたった一例のドナー死亡例が、多くの人々に恐怖を与えていることも事実です。ほんとうに残念なこと。
でも、ぷぅさん、生き抜く力は、薬や移植だけでなく、今持っている生きようとする力、生き抜こうとする自己免疫の力にも左右されます。
書くことがぷうさんの生きる力になりますように。

・2006年05月16日
怖いです・・・
毎日、毎日泣いてる。
何をしても涙がでてしまう。
こうゆう時は病院で患者さんに何かあるといけないと、頻繁に看護師は顔をだす
こころにぽっかりと穴が開いたようになってしまう。
今までしてきたことが甦り、心のコントロールができないのです。
わたしにもその症状があらわれました
訳のわからない言動や行動が自然に本人の意識のないままでるのです。
夜中に病院のロビーにいきたい
部屋の狭い空間にいると苦しくなるからとお願いした。
一人の看護師さんがまだ免疫力がないから駄目かなといわれ、憂鬱になっていた。
一人の看護師さんが誰もいない時間で、マスク、帽子「髪がぬけてるから」してあたたかくして、5分ならつれていってくれるというのだ。
わたしははじめて微笑みをうかべた、涙をながしながら・・・
でも相変わらず、声はでない。
これからのことをかんがえると怖くて
どうしようもない。
死への怖さが襲い掛かる。
わたしはこれからどうなるのだろう・・・
いつ死んでしまうのだろう
11:01 コメント(14) ページのトップへ

・2006年05月18日
かなしい・・・
どんなに頼んでも助けてはくれない
これからどんなことがおきるか
わからない
怖くて怖くて
このままだといつまでいきれるのだろう
抗がん剤治療がきかなくて
移植だけがあとできること
目の前にドナーがいてなにもできない
私を見捨てるのです
死んでもいいよ
関係ないから私達には
でも姉は子供を3人おいてわかれることはできない
誰も離婚してくれとはいわないのに
何故何日かをあけてくれないのだろう
ドナーへの危険は何度も説明が
あったのに
人に追いかけられる夢をみて怖くておきる
声がでなくて呼べない
どうすればいいのだろう
15:01 コメント(8) ページのトップへ

・2006年05月19日
どうしてもだめ?
不安があるなら何度でも説明しましょう
先生は妹さんと適合したのは5個です
普通は3個合えば移植できます
5個というのは奇跡としかいいようがありません。
本当に何十万人に一人の割合です。
癌は色々あります。簡単に言うと一万人の中の300人とします
でも妹さんは一万にん3人という癌です
移植で完治します。副作用に勝てば
新しい骨髄ができればですが
正直もったいないです。
ドナー登録してもこんなことほとんどありません。
ですから助けてあげてください
貴方への危険はほとんどありませんから
わたしのために先生までが頭を下げてくれました。
でもどうしてもお姑さんは許してくれません。
姉が心配ではなく家を開ける事に、お舅は助けてあげなさいといってくれましたが、
義理の兄は何が駄目でという訳をいいません、
姉に何かあるとこまるからなのか、わかりません
もしこれでだめなら妹さんは骨がボロボロになり寝たきりになり、
ずーと傷みをかかえながら過ごすのです、
そしていつ死んでもいい状態なのですよ
危険がいつも傍にいるのですよ
貴方達は面倒みれますか、これからおきることに・・・
やはりどんなに頼んでも駄目でした
こころのやりばがなくこの悲しみ苦しみを
どこへやればいいのか
どうやって立ち直れるかわからない
声もいつもどるか
いま一人にはできません
必ずだれか傍にいてください
看護師は30分おきに見にくるか
ナースコールをしてきます
声でなくても・・・
みんな一生懸命にわたしに優しく
してくれます。
わたしの部屋はぬいぐるみでいっぱいです
どんどん寂しくて、怖くてぬいぐるみを抱いて寝ます。
こころがやすらぎます。
どうすれば寂しく、怖くありませんか
教えてください。
どうしたら涙がとまりますか・・・
04:11 コメント(11) ページのトップへ

・2006年05月20日
これから・・・
どんなに頼んでも駄目でした。
お姑は家を開けると家のことを誰がするのだという。
義理の兄は何も言わない
姉は子供を置いて離婚は出来ない、そこまで勇気がないという、
お姑に家には関係ないから、妹さんに何があろうとと言われてもう頼むことも出来ないと言う
もうこれ以上お願いしても無理のようです
先生は少しでも長く生きれる方法を考えましょうといってくれた。
ドナー登録しましょう。
そして先日とった貴方の骨髄を移植しましょう。
でもこの移植には大変なリスクがありました。
また生死にかかわることだというのです。
その前にもう少し体力をつけないとだめですよ・・・
これから姉との関係がどうなるのだろうとわたしは悩んでいます・・・
14:08 コメント(10) ページのトップへ

・2006年05月21日
もういやです・・・
ドナー登録を進めてくれたけど、登録だけで10万、1つの検査に5万から15万まで3段階します
一人の人をしらべるのに50万かかる骨髄があわないと全部無しになりお金はもどらない。また保険もきかない
私の家庭での収入ではおいつかない。いままで、たくさんの借金をかさねてきてるのにこれ以上になれば、生活も出来なくなる。
わたしはドナー登録はあきらめた
先生のいま会う人3人いますがと言われその人だけした。でも検査の結果は駄目でした。
そして言われてた自分の骨髄の移植をするかどうか・・・
これはリスクが大きい、成功か失敗か50パーセントの率です
してる最中に亡くなることもあると、ほんとうに慎重ににしないと危険であることを言われ
また死への恐怖が襲い、こころが決められない。
目の前で娘の心臓が止まるかもしれないことを両親にみせれるか
心臓が漠々して動悸が止まらず、体が震えてお治まらない。
説明を聞いただけで目眩がおきる
わたしの心臓はそこまで弱っていた。
先生も考えこんでしまいました。
手術に耐えられるかどうかそこからが問題になりました。
13:40 コメント(6) ページのトップへ

・2006年05月22日
どうすればいい・・・
わたしの体は移植する為の治療をしてきました。その為に辛い検査もして今、移植が出来なければもう二度と出来ません。
仮に後で姉がドナーになれたとしてもその時はもう体が移植に耐えられないのです。
心臓も持ちません、癌は確実に進行してます。その時に移植をしても骨髄が再生されない。
だから今でなくては駄目なのです。
それを説明してもやはり理解はしてくれません。
ドナーは善意からなるもので強制はできません。
私は実の姉だからこんなにもそして何度も助けを求めています。
もうこれ以上わたしに出来る事はありません。
わたしがお姑さんに土下座をして
頼みました。
助けてください。
命をください。
これからの人生をください。
この歳で死ぬのは怖いです。
わたしは母をおいてはいけません。
わたしに少しの間だけ姉を返してください
絶対に姉を傷つけたりしません。
まだ沢山いいました。お願いしました。
でも、嫁『姉」はもう家に嫁いでいるからいくら実家のことでも、家を開けたりすることは駄目です。
家には関係ありません。貴方の身に何があっても関係ないからね
『姉はなんという家に嫁いだのだろう」
わたしは体が震えて涙が止まりませんでした。
もうふらふらになりながら、病院に帰りました。
一晩中泣きあかしました。
もしかすると死んでしまうかもしれない
治療をする決心をしました。
いつになったら涙が止まるのだろう・・・
16:19 コメント(9) ページのトップへ

・2006年05月23日
ありがとう
沢山の人が心配してドナーになって下さると言う人がいます。
涙がでるほど嬉しいです。
ドナーと患者は基本的には名前も明かさないこと、
後にやはりもめることがあるからです
肉親の姉がドナーになってくれればこんなに泣かなくてもいいのにとつくづく感じます。
でももうあきらめて新しいそしてこれが
最後の治療になるというものをしてみようと思います。
もうこれ以上の治療はありませんと言われました。
でもこの手術で癌は治りません、
ただ少し長くいきれるかもしれないという事です
それもこれがわたしの体に聞き目があればということです。
もう癌の病気を治すことが出来ないのであれば
少しでも一日でも一時間でも一分でも
生きれればいいです。
でも生きて行く上でこれから起きてくる
ことに耐えられるかということです
わたしはそんなに強くはない
心が壊れていくことにてられるだろうか
苦しみからのがれたい、楽になりたい
という気持ちが今は大きいから・・・
12:41 コメント(6) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-05-23 22:30
最後の治療、ぷうさんにあっていて、効き目があるといいですね。祈っています。一分でも一秒でも長く生きて、ご両親といっしょにすごしてね。

・2006年05月24日
最後の治療・・・
先生はこう言いました。
わたしは○○さんにドナーをお姉さんにお願いしてみたらどうですかと

最初に提案して頼んだのはわたしです。
でもやはり力にはなれませんでした。
本当に申し訳ありませんでしたと言いました。
移植は貴方の病気を完治させることができます。{副作用や感染しなければ}
元気になれることを約束しました。
でも駄目でした。
移植の為にどんなにも辛い、痛い治療に耐えてきました。
なんど涙をながしてきたことでしょう。
○○さんはよく頑張りましたね。
あなたの生きる為の頑張りは私達医者看護師、検査技師もそして他の患者さんもよく見てました。
痛いのに何度も何度も我慢して生と死の間で怖い思いも沢山しました。
医者として本当に残念です。
そしてこれが最後の治療になります。
少しでも長く生きれるようにでもこの手術{治療}は本当に危険です。
成功率が20パーセントしかありません
そしてあなたは心臓も肝臓も弱ってきているので普通の人の何十倍も危険なのです。
これからのわたしはどうなってしまうのか
先生に聞きました
でも先生は答えてはくれませんでした。
12:49 コメント(6) ページのトップへ

・2006年05月25日
ごめんね
きょうは調子悪くて
書けないから
また書きます
16:53 コメント(12) ページのトップへ

・2006年05月27日
決意・・・
最後の治療をどれほどの危険があるけれどすることにしました。
少しでも長く生きれるように
また一日、一時間、一分でも長く
この世にいれるようにと
ただこの手術の間に心臓が止まる危険があることを覚悟してほしいと言われました。
突然心肺停止になるというのです
つまりショック状態になるというのです
それを聞いて怖くなりました
でもあんなに辛く苦しい2日間かけて採取したのですからやらないともったいないから・・・
ただいま冷凍してあります
これが壊れてなければいいのですが割れてしまうことがあります
何パックかとりましたが
一パックでしたら何のききめもありません。一応3パック移植できないと何の効果もありません
そしてこれは時間との戦いでもあるのです。
ですから医者が最低3人必要です
主治医しか触れません。
わたしがする最後の治療は
自己末梢血幹細胞移植です。
03:32 コメント(10) ページのトップへ

・2006年05月28日
眠れない
移植の前にまた検査があります
これが最後の治療だけどもうわたしには何の治療もありません
科学治療『抗がん剤」もききめがありませんでした。
移植もできませんでした
この治療で副作用がでなければ少しは長く生きれるでしょう
でもこの治療が終わりわたしに残されたことは何も無い。
これからおきること
先生は苦しくて、辛くて、悲しくてまだいえないそうです。
わたしがどれほどショックをうけるかわからないからと・・・
今まで辛い思いを沢山してきたけどこれからは一時のことではなく
ずーと続くということ
これからの日常の生活にでてきてしまうこと
それに耐えれるか心配だそうです。
貴方の未来があまりにも残酷で貴方の心が壊れてしまうのではないかということが心配で
でもわたしは聞くことにしました
知らないまま突然くるのは
もっと辛いから・・・
03:28 コメント(12) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-05-28 16:10)
自己末梢血幹細胞移植について、あちこちのサイトを読んでみました。
とても難しい治療のようですが、治療が成功した例もお医者さんが書いていました。
ぷうさんの治療が成功するよう、いのりつづけています。希望をもってね

・2006年05月29日
これから・・・
本当は、是からどうなるかわからない事先生に聞こうか悩みました
もしかすると移植の途中で心臓が止まるかもしれないと言われているから
逢いたい人には来てもらってもいいよと言われました
顔を見て紙でしか話せないけどね
本当に厳しいからね
本当に危険だからね
父、母は来るけど姉はまた来れないね
そうまたお姑さんは行くことは
駄目ですと言うでしょう。
もう姉に逢えないかもしれない
と思うと涙が止まりません。
これが最後なのに・・・
気になって聞くことにしました
是からもうこの移植が成功しても
癌は治りません
後は痛みをどれだけ抑えて生活するかです。注射と薬で「モルヒネを飲み続けます」
貴方が生きている間はずーと、毎日4時間おきに8回24時間です
薬は16種類でます
貴方はこれから、骨がボロボロになっていきます、少しのことで骨接します
体中の傷み、痺れ、目眩、味覚もなくなるでしょう。
そして早いうちに歩くことは出来なく
なるでしょう
寝たきりになります。
歯もボロボロになるでしょう
髪の毛も抜けるでしょう
手の痺れ、傷みで字も書けない
お箸ももてなくなるでしょう
座ってもいられなくなります
腰が支えられません
膝も曲がるでしょう、伸ばすことは
できません
まだまだあります
傷みとの戦いです
薬の効き目はわかりません
もう貴方には骨髄移植も科学治療もできません。
もう体に効かないのです
癌が強くて、抗がん剤の治療をしても体を弱めるだけですから・・・
わたしは震えが止まりません。
涙も止まりません。
06:01 コメント(13) ページのトップへ

・2006年05月30日
悲しくて・・・悲しくて・・・
体中の傷みや痺れが治らない
膝はもう曲がってる、伸ばすことが
できない
腰は骨がボロボロだから、体を支える
ことができない。だるまさんのように転んでしまう。
息切れ、痙攣、貧血、目眩、発熱、
便秘もひどくなる、薬に便秘になるものがある
下剤が出てても効かない
自律神経が麻痺して排尿障害も起こる
高熱がでる37度になるのは普通の人が39度ぐらいでたのと同じ熱さである
わたしの場合は難病で特定疾患の病気があるから全身、心臓、肝臓、消化器にあるものが癒着してる
血液の流れが悪く、骨が作られない
これからは自然に骨がポロポロと折れてしまう。
寝返りをしただけでも折れてしまう
それほどまでに癌細胞が骨まで食いちぎる。
もううつぶせに眠ることはできない
歩くことも出来ない
はっても膝があたるからできない
わたしに襲い掛かることは何も出来ない事
手が痺れてるのでいまでもペンをつかって
打つ。箸すら持てない。
今度は出来ないことだらけ・・・
わたしはこれで生きてるのかしら・・・
生きて行くほどの気力はあるだろうか
07:48 コメント(11) ページのトップへ

・2006年05月31日
不安で・・・
怖くて、不安でどうしたら・・・
これからわたしはどうなるのでしょう
何もかも諦めていくのかなあ
寝たきりになる
この世の中にでることができない
仕事もしたい
友達と過ごしたい
でも今でも傷みに耐えているのに
ずーといたくていたくて
何も出来ない
みんな、なにもかも
諦めるしかない
そんなこと耐えられない
そして何時も死ということに
おびえながら時間を過ごす
何もかも諦めなければならない
15:18 コメント(11) ページのトップへ

<つづく>
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ぷうさん日記写文2006年4月

2012-02-05 12:05:14 | 日記
2012/02/05
ぽかぽか春庭「2006年4月ぷうさん日記」
2012/02/04
ぽかぽか春庭十二単日記>写文ぷうさんの日記(2)2006年4月ぷうさん日記

2006年04月01日
腰の骨が・・・
病気でもう骨はボロボロなのですが、家でおしりをついて転んでしまいました。次の日病院にいき注射をしてかえってきましたそして次の日痛くて全然動けません、救急車で病院にいき気がついた時はベットの上に寝てました。息も出来ないくらい痛くて腰を複雑骨接して骨がボロボロでした、せっかく放射線で固めたのに、背中に針をさし24時間痛み止めを流していました、またその針が痛くてでも体を動かすことが出来なく膝を立てて上むきでいるしかできなく起きることもできずにただじーとしてるだけ、おしっこも出来ないのでチュ‐ブをいれてうんちも寝たままです、大変辛かったです。そして体重は35kgになってしまいました。・・・
06:55 コメント(4) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-04-01 09:58
骨折、たいへんでしたね。
私は去年の5月に仕事先で段差につまづいて捻挫をしました。捻挫だってとてもたいへんな思いをしたのに、腰の複雑骨折のつらさ、苦しかったでしょうね。今、腰の具合は大丈夫?

2006年04月02日
辛い入院・・・
新聞屋さんがきました。早い配達です。
今回の入院は本当に辛くて切なくてどうしようもなかったです。腰を骨接して一つも動けない、二人部屋でした、おばあちゃんですでも元気がいいの、看護師をしていて自宅は産婦人科の開業病院です。朝ナースの方がきて挨拶にくる今日の担当ですとでも私のところには毎日はこないでもおばあさんのところには何回もくるナースコールしないときてくれなかった。痛くてどうしてもさすってほしくてもいえなかった。私は痛み止めを腕からもしてもらう時だけ、
ご飯もテーブルに置いたまま、とどかない起きれない、食べられない・・・そしてあら食べないのと下げていく、痛くて食べれないのもあったけど、食べさせてくださいとはいえなかった。辛くて口惜しくて泣いた。どうしてこんなに差別するの・・・となりのおばあさんが先輩のナースだからかな歩けるのに歩けないといっているのに分からないのかな・・・
03:52 コメント(2) ページのトップへ

2006年04月03日
本当に大変・・・
いままで何度も入院生活してたけど、1年近く入院したこともありましたが、全然動けないことは辛いです。動けないだけならまだいいけど痛みがずーとあって、痛み止めが効かなくて、痛み止めをしてもらうのも限度があるからいくらでもできるわけではなく、体に負担が多くなるのです。痛み止めは、べっトを自動で上げるのも自分で出来ない上がると体が下がるから変に曲がってしまい後が大変。それで食べれなくなり今度は食事をうけつけなくなりました。食べると吐いてしまいます、点滴をしてますがどんどん痩せていくのがわかるのです、35kgになりました、骨と皮だけで力の入らない、コップも箸ももてない手が痺れているのもあるけどでも少したってからゼリーを食べれたのです、ほんの少しその切ない時一人の看護師さんが髪の毛をとかしてあげるねといってくれましたむしばってしまっていたから、抗がん剤で全部髪の毛が1日で抜けてしまってから少しずつ伸びた髪でした。私は何故か泣いてましたぽろぽろ出てきて止まりませんその看護師さんは担当でもないのに朝の挨拶にきてくれるのです。寂しかったねといって・・・
03:40 コメント(4) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-04-03 09:31
つらいとき、やさしい人に出会えてよかったですね。
現在、食事はどうですか。食べられていますか?

2006年04月04日
それから・・・
腰の骨接は腕、足、とかと違い固めることは出来ないただ安静にしているだけ、痛みは時間が経つまで治まらない。それからも看護師さんはご飯も食べさせてはくれない起きれなく、動けない事を知りながら。正直憎たらしかった、言わなければ分からないのかと、私の症状がどうゆうものなのか同室のおばあさんは看護師だからへたなこと出来ない。何度も様子を見にくる、同じ部屋だから私も見てでも担当ではないと徹抵して知らんぷりでした。私は少しわがままをいいました、痛くて我慢できない、向きを変えて、起こしてとかすると自分で出来ないのと言われて、我慢できず先生に退院したいと無理にきまってるだろうと、動けないのにと看護師のこと話しました。すると次の日婦長が誤りにきました、貴方の状態知りながら看護師達がそんなことしていたとはご飯も食べられないことしりながら、涙があふれて止まりませんでした。そして病棟を変えてもらいました・・・
05:24 コメント(3) ページのトップへ

2006年04月05日
おかしくなってしまい・・・
今回の入院でもまた鬱になりました。痛い、食べれない、痩せる、看護師さんはなにもしてくれない、歩けない、骨と皮になり手、足、の筋肉がおちてどんどん痩せていく自分を見て食べ物も受付なくてこのまま衰弱していくのではないだろうか抗がん剤を投与してた時も副作用がひどく目眩、吐き気、けだるさ、口内炎、高熱以上な汗、体中の痛み、目がくっついて開けられない、体中の痺れ手が痛くて顔も洗えない、目が見えない、味覚がわからない、点滴の臭い、消毒の臭いで吐き気がでる3日間ずーと吐いている、動悸、腰まであった髪の毛が1日で抜けおちる等・・・あげたらきりがない副作用怖くて、悲しくて、切なくて、辛くて眠れないどうすることも出来ない。もうこのまま歩けなくなるのではという恐怖感が毎日襲う・・・
体中の骨がボロボロになり、血液の流れが悪く(体中にあるものがくっいてる、取り除く事は出来ない)心臓に負担が多く弱い、すい臓の機能が弱く、味覚が分からなくなるまだあるけどそんな病気だから、いつ死んでもおかしくない・・・でも歩けるだけでもとおもっていたけど医師からもう歩いては帰れませんと言われました。貴方の腰は体を支えられません。これからもっと痛みが強くなりますとうんとうなずいたまま泣き続けました
02:59 コメント(5) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-04-05 08:26
つらいことの連続を通過してきたぷぅさん、あなたが通過してきた苦しい道は、とても貴い人の道です。

2006年04月06日
何もない・・・
私が初めてこの病気を聞いたとき、父、母だけが呼ばれた時、すごーく冷静でした。
後もっても10ヶ月です。他人事のように聞いていました。でも父、母、が泣いて出てきたのを見て涙があふれてわんわん泣いてました。ごめんね。ごめんね。といい続けて、今私には何1つ治療法はありません
何をしても効果がないのです。癌が治ると言う骨髄移植も出来ません。あの姉が断った時でなくては、心臓の弱い私には移植しても体がもたないのです。
歩けた時、仕事を続けようと、治療しながらと考えました、働きました毎日17時間以上生活してかなければまた治療費も高いから、その時父も癌で入院してました
仕事場と病院の往復の生活が「泊まり看病しながら」はじまりました。大変でした。体が疲れて、副作用が出て起きていられないくらいでした。でも仕事には行きました
でもある日このままだともっと早く死んでしまうかもしれないと思いちゃんと治療をしようと転医の決意をしました。少しでも長く生きられるようにと・・・
03:52 コメント(5) ページのトップへ

2006年04月07日
今日は
今日は少し調子が悪くてあまり書けない
書きたいこと、沢山あるけど・・・
今日はごめんね
03:54 コメント(5) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-04-07 23:05
気分がすぐれないとき、体調がわるいとき、そばで手をにぎっているだけ、背中をなでているだけでもしたいけれど、、、、
ぷぅさんの手をにぎっているつもりの、ネットの中の友達がいることを思い出してね。

2006年04月08日
ありがとう
沢山の励ましの言葉胸にしみます
でも今日も書けない
くやしいです
何で急にこんなにぐわいわるいのだろう
何もしてないのに
薬が強いからね・・・
00:56 コメント(5) ページのトップへ

2006年04月09日
怖いです・・・
医者は怖いです。父は腰の手術をして失敗しました。横になって眠れないのです
座りとうしで足がむくみ手がつけられませんでした。すると急に、肺がんですと言うのです。今頃なんですか、どのくらいここに入院して検査しているのに何故わからなかったのですかと聞きました。担当医のおちどで内科の先生に相談した時はおそかったそうです。そのことをケロというのです
一言のあやまりもなく、もう何日ももたないと言うのです、癌が体中に転移して、突然です。可哀相で、病院を変えることにしましたこんな病院で亡くなるなんて可哀相過ぎて、そして私が前にいた病院の同じ部屋に入れてくれました。そして何ケ月ぶりに足をのばしてベットに横になれました。
ほッとした父は次の日に亡くなりました。
くるしんだままで可哀相でした。もっと早く医者を変えればと後悔してます。医者の手1つで人生変わるのですから・・・
02:29 コメント(6) ページのトップへ

2006年04月10日
怖いです・・・
私の医者も、私の病気の治療が全然出来ませんでした。私の病気を治療するのが初めてらしく、大学病院では少し勉強したらしいのですが、荷が重く手におえないようでした。そして私も転医しました。
専門に逢いました。でも前の医者が中々診断書を書かないのです。何かプライドがあるらしく、とうとう転医先の医者が手紙でやっともらえたのです。自分の力がないため自分で主治医をやめたのになんてえごなんだと思いました。
また最初から検査のはじまりです。
苦しい検査がまた1からしなくてはと考えると憂鬱でした。でもこれで本格的に治療ができると考えると、少しほっとしました
でもこれからの治療がどれほど過酷なものかとはその時には全然しりませんでした。
そして私の病気との闘いが始まりました。
もう寿命は10ヵ月しかありませんでした
今年いっぱい生きれないんだと・・・
02:29 コメント(2) ページのトップへ

2006年04月11日
これからが怖い
やっとのおもいで、前の診断書を手にいれそれを元に初めから全部の検査が始まりました。MRI、胃カメラ、骨密度、骨髄、の検査は辛いです。終わると脱力感があり本当に疲れます。とにかく検査は疲れます。
24時間機械を付けてする検査も大変、尿を毎日採り続けるのも、体がボロボロです
病名は前と同じでなおかつ、色々増えてました。一度に6個の病名を言われました。
沢山の病気に体がむしばまれていました。
薬はもう効きません、科学治療しましょうと言われその科学治療がどんなに大変なものか・・・
あと・・・10ヵ月しかない。
そのことが頭の中から抜けない。毎日泣いてました。誰とも話をしたくない、人の話を聞く余裕がない。カーテンを閉めたまま
6人部屋にいました。
カーテン越しでも同室の人と話が出来ないのです。でも人はおかまいなしに話しかけ色々病気の事を聞いてくるのです。
それだけでノイローゼになりました。
一人になりたい。一人にして欲しいと・・
02:16 コメント(5) ページのトップへ

2006年04月12日
涙がとまらない・・・
涙が止まりません。泣いても泣いても出てくるのです。・・・
こんなに涙はでるものなのかと思うくらい
声を押し殺して、怖くてこれからどうなるのだろう。
恐怖が襲いかかります。
そんな時に限って他の人が色々聞いてくるのです。
どうしたの
何かあったの
何かあったから泣いているのに、人の心に土足で入り込んでくる「無神経な人」
自分の事だけ考えていればいいのにね。
先生の前で怖いといって泣きました。
10ヵ月もちますか
貴方は心臓が弱いから点滴してるだけでも何があるか分からないから気をつけなくてはいけないよ。
「やっぱりこの髪の毛全部抜ける」うん、だから僕の目にその長い髪の毛焼き付けておくからねと・・・優しい言葉をくれました。
それから毎日眠れない日々が始まりました
05:36 コメント(7) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-04-12 21:36
涙が目からでていくのも、髪がアタマからぬけていくのも、体の中の悪いものをいっしょにもって出ていくのだって思って。髪が全部抜け落ちても、涙枯れ果てるまで泣いても、ぷぅさんはぷぅさんだもの。

2006年04月13日
この部屋だけは・・・
同室は60代、70代、80代の人がいます。何人かの人は抗がん剤治療してますが副作用が出ません。すごい食欲です。お年寄りは元気です。自分の病気の話をしてきます。そして聞きたがります。迷惑なところがあります。日々、少しずつ落ち着いた私を見て先生は1回目の科学治療に入りましょうと言いました。入院してからほとんど眠れていませんでした。
点滴が5個付けられました。24時間通し5日続けます。副作用は次の日からありました。免疫力が下がっていくのです。
言われた通り、腰まであった髪の毛は一晩で抜けました。つるつるの頭を見て涙が零れ落ちました。あまりにも衝撃的な姿に
「テレビで見る時と同じです」
父、母にも見せれませんでした。
吐き気、口内炎、目眩、動悸、高熱、痺れ「もともとありましたが」痛み、目にまくがはる目を開けられない、味覚、聴覚、貧血、横になっても目が回る、膀胱炎、便秘、下痢、体温の調整ができない、「汗をかいたり寒気がでたりの繰り返し」熱さがわからない、まだあるけどあげたらきりがない。それがずーと続き落ち着く頃にまた抗がん剤の治療に入る。1回目の科学治療は効き目がありませんでした。
まだ、ずーと続きます・・・
04:21 コメント(7) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-04-13 07:36
抗ガン剤、きっとぷぅさんの病気に合うものがみつかって、よくなると信じています

2006年04月14日
ごめんなさい
みなさんに誤解させてしまいました。
まえの日記に書いたとおもうのだけど
今のわたしは骨髄移植もできずに病気
を完治させることはできない
あとどのくらい、生きれるかわからない
日々をおくるだけ
わたしが今まで経験したことを書いてる
わたしはいま薬で痛みをおさえながら
生きているだけ、いつ、死んでもいい
状態にいること
もう、私の病気を治せる薬はありません
強い、薬で髪の毛は今も抜けているけど
私の書き方悪くて誤解させてしまいました
ごめんなさい
いま、抗がん剤の治療はしてない。
ききめがないから。
私の癌の治療は移植でしかなおせない。
その唯一の助かる移植も姉と姉の家族が反対して出来ませんでした。何十万人に一人の確立の相手が身内でも相手が納得しないとできません。私も父、母もショックで何も言えませんでした。だからいま寝たきりになってしまったのです。
01:20 コメント(2) ページのトップへ

ほんとうに
毎日、泣いてばかりで外へも出れなくて
口をきくこともしないで
でも毎日沢山の言葉をいただいて
ほんとうに感謝してます
どんなに心が休まることか
そして皆の日記をみて、悲しい事、辛い事
切ない事、楽しい事、羨ましい事など
沢山感じて少しずつ元気になっている
自分がよくわかります。
ほんとうにありがとうです。
明日にでも死んでしまう恐怖は
ありますが、頑張ります
少し前は生きていることが辛くて
次々色々ありすぎているから
いまは少しでも長く生きたい
話がしたいです。
04:15 コメント(5) ページのトップへ

2006年04月15日
辛い日々
抗がん剤の治療は5ヶ月続きました。
でも結果がでません。
癌細胞がへりません。そしてこれからどうしますかと言われました。薬で10ヵ月の寿命と戦うか、違う方法をとるか・・・
先生はあとは骨髄移植しかありません
でもドナーがいなければ、癌はどんどん
進行していくし望みは1パーセントもありません、それでもしますかと言われてしまいました。
もしもの奇跡にかけることにしました。
そして無菌病棟にはいりました。
これからの治療の方がもっと辛いですよ
と言われこれから起きる事がどんなに、
過酷なものか、辛いものか、切ないものか
悲しいのもか知る由もなく先生に命を
預けることにしました。
03:21 コメント(6) ページのトップへ

2006年04月16日
どうしてだろう
この頃、調子が悪くて、情緒不安定で
涙ばかりでてくる。
沢山の人が皆それぞれに苦しんでいるけど
何1つ治す治療もなくて、これからもっと
くるしまなければならなくて、死が側まで
きてるのに、いつかわからない。
それまでもっと苦しみを味わう。
自分から死ぬこともできなく、家のなかにずーといて、医者にいくのも大変で
体が動かない。痛みが激しくて。
81歳の母は足が痛いのに、面倒みてくれてる。私が病気になったばかりに
生活も楽ではない。
我慢ばかりで時間ばかりすぎる。
目の見えない人は本当に可哀相、
どんなに苦しい治療にたえても、治らない
死んだ時に楽になるなんて、どうすればいいのだろう
03:36 コメント(6) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-04-16 20:09
つらいことたくさんあるでしょうね。痛みも死について考えることも。
でもね、ぷぅさんが、こうして「つらい」」「痛い」と、発信できることは素晴しいことだと思うんです。
人は、どのような状況の中にいても、だれかとことばをかわしあっていれば、光り輝く存在となります。
お母さんにとってももちろん、ネットでことばをかわす人にとってもぷぅさんはかけがえのない存在です。
どうか痛みが少なくなりますように。

2006年04月17日
どうすれば・・・
このまえ、書いたことで誤解をされて
しまってから言葉を書きつらねること
怖くなりました。
いままで、そしていまの苦しい事
書こうとしてるのに書けなくなっている
自分がいるの
毎日、眠れず精神安定剤も眠剤もあるけど
いくら悩んでも、時間とともに
癌は進行してる、止めることはできない
涙が何故かとまらない、眠れない
精神が安定してないこともわかっている
社会にでれない寂しさ、痛みの苦しさ
動けないこと、外にもでれない
人と逢えない「ここのネットでは話できるけど」顔を見て話しができない
毎日、毎日ねてるだけで時間がもっとゆっくりと思い早くと思いばらばらな気持ちがでてくる。
今はなんとか生きているけど
どつぼにはまってしまった
抜け出せない。
どうすればいいのだろう。
またわたしを見捨てた、姉と義理の兄
のことが出てきて、ぜったい許せない
気持ちがまた強くなってしまった。
姉達が苦しんでいるかどうかなんてわからないし、優しい言葉何一つ無いから
わたしから全部奪ったことやはり死ぬまでわたしは許さないのだろう・・・
04:47 コメント(3) ページのトップへ

2006年04月18日
すごーい
涙がでてても、泣きながらでも書く。
本格的に骨髄移植のための治療に入りました。無菌室です。
きれいで食事も今までと違う。
お風呂も一人ずつ入ります。病室へは父、母と私が許可した人だけしか入れません。
病院で仲良くなった友達は入れない、病気だから感染すると困るから、免疫力がないからすぐうつってしまうから、だから父、母も風邪とかひいてると入れない、窓越しです、何か言う時は紙に書きます。
面倒です。部屋にいるときは皆マスクかけて菌がうつらないようにね。
お風呂はよかったよ。清潔でお湯をそのつど変えるからね
部屋から出れないから部屋に何でも置いてくれる、ビデオ、パソコン、本全部消毒してね。お水はミネラルウォーターです。
点滴は24時間ずーと限りなく続けている
胸に点滴針をさしておくのです。
手だとすぐに詰まるから。
このときはまだ是からの治療がどんなに過酷なものか知らないからまだ元気だったよ
これからが恐ろしいです。
04:41 コメント(0) ページのトップへ

切ないなあ・・・
また、襲ってくる
涙の嵐
さっきまで日記書いてたのに
今日も眠れない
夜が明けてしまいました
眠りたい、気が高ぶってしまって
母もキヤスターもいびきかいて寝てる
怖いよう
苦しいよう
悲しいよう
切ないよう
痛いよう
もう・・・死にたい
05:20 コメント(5) ページのトップへ

2006年04月20日
このごろ
家のがじゃまして中々かけない
この頃、調子が悪くて、体力が落ちてきてしまって胃の調子も悪いから、あまり食べられないすぐに気持ち悪くなる
こんな状態が続くと起きていることも
できなくなってしまう
体温調整ができないから、暑い、寒いの繰り返しです
みんなと話もできなくなっちゃうよ
どうしよう
せつなくなる
生きていたいよう
死ぬのは怖いよ
眠るのもこわいよ
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2006年04月21日
辛い治療
こんなに沢山の癌患者が移植を待ち続けているとはおもはなかった。
内科は移植のしない癌の患者が沢山いたけどここは自分の身内やドナー登録して
自分にあう人をあてもなく待ち続けている
中にはもう移植に成功して退院する人も
移植して副作用とたたかっている人も
前から同室の22歳の女の子が肝臓癌で
ドナー登録でみつかった人から移植して
副作用と戦い3ヶ月になる子がいた
もう少しで退院できると、その子がお風呂に入る時にみかけて、「よかったねもう少しだね」と声をかけた
次の日の午後彼女は死んでしまった
となりの部屋にいた私は何も知らずに
こんどは自分の番かなと考えていたところ
だった。このことを知らされた時
移植がどんなに大変なことか
紙一重、生か死か
自分にもおそいかかるできごとに
怖くなって何時までもふるえが止まらずにいた、自分はどうなるのだろう
生か死か・・・
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投稿者:haruniwa(2006-04-21 07:49
今日の体調はどうですか。毎日、ぷぅさんの調子が少しでも上向くように祈っています
肝臓移植の女性、退院を前に残念でしたね。せいいっぱい病気と向き合った22年の生涯、貴い命です。

2006年04月22日
怖いです・・・
癌の人は最後の治療として、移植をします
どんなに血液があったとしても、全部成功するとは限りません。相手の骨髄液があわないと副作用を起こして死んでしまいます
昨日の子のように、先ほどまで元気なのに
数時間後には危篤で死んでしまうのです。
だからうまくいく確立はわかりません
してみない事には・・・
だから覚悟がいります。
それでも、何十万人に一人合うか合わないかでやっと見つけた、命の恩人にかけるのです。
一人検査をするには3段階の検査があります。1回何十万もします。保険もききません。だめならその費用はないのです。
だからわたしもドナーの登録はしましたが
登録だけでもお金はかかります
あまりにも大金がかかるので続けられないのです。生活していけなくなります
仮に保険にはいっていたとしても、追いつきません。正直お金があれば皆続けるでしょう、自分の体力のあるうちは、お金がなくて移植出来ない人もいるのです。
わたしも続けられず登録をやめました。
そして1回やめると2度と登録はできません。正直お金があればたすかった人は沢山います
05:08 コメント(4) ページのトップへ

2006年04月23日
覚悟・・・
突然、死んでしまった彼女のことが
心にひめながら、今度は私の番です
私は心臓の機能が弱いため一度に移植はできません。
本当なら東京の大学病院に転医して受けなければできなかったのですが、今の病院で
何千万もする機械を入れてくれました。
私のドナーは姉です
血液が5個も合ったのです。
普通は3個合えば移植ができます
本当に奇跡でした。
先生もびっくりしてました。そして頑張ろうね、厳しいけど・・・
助かるからね、助けてあげるからねといって泣いたのです。
それからまた移植出来る体にするために
また辛い抗がん剤の治療が始まりました
今度は最高に強い抗がん剤です。
これをしている間にもショックで心臓が止まることもあると言われました。
普通はないけど私は心臓が弱かったからです。いつも側に電気ショックの心臓に当てる機械がおいてありました。
鼻から酸素も入れてました。
直ぐに辛い副作用が出てきました。
びっくりする程直後に・・・
05:28 コメント(7) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-04-23 16:56
抗ガン剤の強い副作用と闘ってきたのに、移植ができなくなったこと、ほんとうに残念でしたね。ことばでは表現できないくらいの強いつらさ、悲しさだったことはよくわかりますが、どうぞ、これまでのこと、書き続けてくださいね。私たちにはただ、読むこと、読んでぷうさんのことばを胸に刻み込むことしかできません。でも、ぷうさんが書き続けることはほんとうに大切なこと。ぷうさんの一言一言が「人のこころの宝」なのですから。
2006年04月24日
もうやだ・・・
今までと違う抗がん剤はすごい力があります
やっとはえた髪の毛が一晩で抜けました
さわると手のごそっととれます
ぽろぽろ落ちてくるのです
べットの上、床に新聞をひいておかないと
すごいことになってしまいます
副作用がはじまりました
吐き気、目眩、口内炎、高熱、痺れ「もともとずーとあるけど」・・・
やはりなにも食べられない
水もミネラルのきまったのしか、他のを飲むと臭いがきつくて吐いてしまう
異常に臭いに反応してしまう
べットの周りにビニールをはる
この中は空気がよく酸素を流してる
トイレから出れない
食べれないからと点滴が増えた、24時間ずーと限りなく続く、点滴の臭いも敏感になるでもやめるわけにはいかない
とりあえずこの抗がん剤24時間、5日間が過ぎないと、動悸も激しく心電図もつけたまま、何かあるとナースがすぐくることになってる。
もうやだ・・・
こんな苦しい、辛い治療
こんな辛い思い今までもしたけど、今回のは特別、眠れない日々が続き、うとうとするだけ、吐き気で目がさめる
ああ~気持ち悪い
早くとってほしい
もうどうでもいいから・・・
07:33 コメント(6) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-04-24 08:07
つらい治療に耐えてきたんですね。食べられず眠れず、ほんとうに苦しかったことでしょう。
この日々をすぎて今こうして治療の過程を見つめて書き込むことのできるぷうさんは、すばらしい人です。

2006年04月25日
苦しいよう
また髪の毛がぬけてしまいました。
こんな姿、誰にも見せれない。
必ずこの姿を見たひとは泣いてしまうから
ショックでね、びっくりして。
吐き気で食べれないわたしはふらふらです
いくら点滴をしてもやはり口から何も入れないことは体力が落ちます。
こんなに寝てたら、歩けなくなってしまう
白血球がなくなってるから目眩がひどい
目が回るとはこう言うことか・・・
起きれない、体中いたくて、骨が痛い
痛み止めが効かない。
眠りたい、眠れない。眠剤を注射してもらっても眠れない。
副作用が治まらないと次の治療ができない
こんなに体を虐めないといけないのだろう
分かるはずがない。
助けてよう・・・
何でもするから・・・
02:20 コメント(4) ページのトップへ

2006年04月26日
どうすれば
抗がん剤の治療はしてみないと、効果がわかりません
色々な点滴を組み合わせ、その人に合うものを選びしますがそれはしてみないと
わからない
わたしは今までした抗がん剤の効果がなく
癌はきえません
抗がん剤で治る人もいます
癌が小さくなり、無くなる人もそれはその人にあったのですね
この治療が終わらないと次の段階には進めません、だからどんなに苦しくても途中で止める事はできない
やめたらまたやり直しで同じ苦しみを味合わなければならない
でもこれが終わると、生きられることへ、
ちかずいたことになります
とにかく副作用が治まる事を待つしかないのです
そしてその光がみえてきました
でもまっていたのはもっと苦しい事でした
想像もできないことが・・・
死と生の選択です
10:03 コメント(5) ページのトップへ

2006年04月27日
決断・・・
移植の為の準備です。
一通りの検査は楽です。血液、心電図、CT
MRI、胃カメラ、レントゲン、目、歯、
骨密度、骨髄「これは痛い」他まだ沢山
これを全部する事。
抗がん剤の治療をすると女の人は生理が止まるいや止める強制的に移植のとき血液がでてしまうと困るから・・・
それと大変なのはこの手術は生きていられるのと死んでしまうのが50%ということ
もしかするとその最中に心臓が止まるかもしれないと言う事。これをするかの決断
もう生きてこの部屋には戻れないかもしれないという恐怖感が体を襲う・・・
2日間して1回に6~7時間かかる
ずーとベットに横になり動く事ができない
そしてすることにしたわたしは先生に言われた、来て貰いたい人は呼んでおきなさいと、父、母、姉他にもいたらと
もう2度と逢えないかもしれません。
最後にあっておきたい人を呼んでくださいと、わたしは家族の4人「私もいれて」だけでいいですと言いました。
でも姉は来れないと返事をよこしました
お姑さんがいかせてくれないと事情を説明しても忙しいからと・・・
もう逢えないかもしれないのに、何故そこまで許してくれないのだろうか涙が止まりませんでした。
01:30 コメント(8) ページのトップへ

2006年04月28日
へんな夢
この手術をする前の日、先生がやめるならいつでもいいのだよ、怖くて駄目ならその直前にでもと言われました。
その日はほとんど眠れず、気がたかぶっていました。
そして夢なのかどうかわからないけど
わたしは天井のうえから自分が死んで、見皆、父、母、医者、看護師が私のベットの周りを囲み泣いてる「何故、死んだのもう少しなのに」と泣き崩れてるみんなを上から私はここにいるよ
いきてるよ、なんで泣いてるのと一生懸命話しかけているのです。
そしてわたしは女の人にこちらにきて綺麗なもの沢山見せてあげるから、こっちにおいでよと呼ばれた時、父、母が読んだの
目を開けて死んではいけないよと
でも先ほど自分が死んでるのを自分でみているのです。
そしてふっと感じた時、どうしたのと目がさめたのです。
なんと不思議なこと経験しました。
幽体離脱だそうです。
こんな経験ありますか
夜中2時頃です。
01:22 コメント(8) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-04-29 07:50
科学的心理学的な解釈では、他の感覚器官が働かない状態で、聴覚だけが働いているとき、脳の中に、高所から自分自身を見下ろす映像が結ばれるそうですね。これが幽体離脱なんだと教わりました。
実際に幽体離脱を体験した人は、神秘的で不思議な感覚が心身に与えられるので、その後の生活に変化が起ると。
ぷうさんの幽体離脱感覚、生きることへの意欲をもちなさいという意味で、神様仏様が見せてくれた映像と思います。

2006年04月29日
あれから
あの経験から幽体離脱は頻繁にあるように
なった。いつも死んでる時に自分を見てる
怖くはない、冷静に見てるのです。

その手術は本当に稀でほとんどあるかないかのこと病院でも今までに無い事だから
病院中が大変な事になっている。
本人は、ただ生か死かのどちらかが途中でおきるかも知れない事にどきどきしてそわそわして苛々してるだけ、知らないところでそんな大きな、大変な手術だとは知る由もなかった。
そして当日、父、母二人だけ傍に来てくれていました。しかし姉はやはりきませんでした。
心臓の弱いわたしは何がおきるか医者にも分からないままこれからすくなくとも6~7時間もかかること、そして中に入れないわたしは父、母に何気なく、ありがとう
といい向かいました。病室から二人の泣き声が聞こえてきました。
もしかすると、もう笑顔では帰れないかもしれないと思いながら、今頃になって究極に恐怖が襲いました。やめるなら今、でも
これをやめたら半年いや3ヶ月で死んでしまうそのどちらにも選択ができない。
涙がこぼれてとまりません。
体も震えてとまりません。
先生がやさしく抱きしめてくれました・・
落ち着くまで、何時まででも待つからねと
優しくいってくれました。
15:52 コメント(4) ページのトップへ

2006年04月30日
やはり怖いです・・・
やっと落ち着いたわたしは心を決め涙がやっと止まりました。
傍に心臓が止まるときに使う電気を流す機械を見てまた怖くなりました。
本当に・・・
そしてもっとびっくりすることが待ちうけていました。
手術室に入ると目に飛び込んだ人の多い事
本当にほとんど無い手術ですとは言われてましたが危険なことも沢山あると・・・
医師が10人位、看護師が20人位、検査技師が10人位、数え切れない人でものすごい状態になってました。
絶対に見る事が出来ないとまで言われてるので手の空いてる人は来てくださいと言われたそうです。
右手の血管から血液を流して機械を通して機械で骨髄液を取り除いて、左手の血管から血液を入れるその機械が5メートルぐらいの管がある、途中でもし機械が止まる事があればもうそこで心臓はとまってしまいます。この何十人もの人がわたしを見ている・・・その圧拍感が動悸に変わる
はじめにでた症状は全身の、頭のてっぺんから足のつま先まで痺れでした。
顔もくちびるも、目も、ものすごい痺れでした・・・
そしてまた重ねてでてきた症状もすごいものでした。
08:34 コメント(2) ページのトップ

<つづく>
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ぷうさん日記写文2006年2月3月

2012-02-01 17:53:00 | 日記
2012/02/03
ぽかぽか春庭十二単日記>写文ぷうさんの日記(1)2006年2月3月ぷうさん日記

 カフェが消滅するということで、慌てて自分のカフェ日記をヤフーブログにコピペして、2月中にはgooかOCNブログに引っ越しもするつもりです。
 今カフェ日記を書いている方々の移転先のお知らせも入ってきて、せっせとお気に入りに登録を続けています。

 ふと、気になったのは、カフェ日記を続けていない人たちの記録。自分の意志で、もうブログは続けないと決めたのならいいのですが、自分では移転作業ができない方のカフェ日記もあります。それがそのまま消滅してしまうことになる。
 私はこのカフェ日記を娘息子へ残す墓誌のつもりで書き始めたので、文字通り墓誌ともなった方の記録がそのまま消えてしまうのかと思うと、残念な気がします。
 カフェ日記の書き手であるmitsubaさんが、亡くなった高校生の詩を書き写していたことを思い出し、私も亡くなった方の日記をコピペしておきたいと思います。

 カフェ日記の中では、「ぷうさん」と名乗っていましたが、本名も知らないままでした。ぷうさんが、亡くなるまでの2年間、カフェ日記の中に生きていたことを、私は忘れたくない。著作権の問題はあるでしょうが、たったひとりのお身内であるお母様は高齢でもあり、ぷうさんがカフェに日記を書いていたこともおそらくはご存じなかあったのではないかと思います。

 もうひとりのお身内、ぷうさんのお姉様。ぷうさんに骨髄移植をしてあげられるドナーとして、お医者さんから打診され、ぷうさんも懇願したのですが、さまざまな事情から、お姉様はドナーになることを断りました。ぷうさん側から見れば、ドナーがいれば助かったであろう妹の命を見殺しにした姉に思えます。他のドナーを探すには時間がかかり、万が一ドナーが見つかったとしても、そのころには、ぷうさんの体が移植手術に耐えられない状態になってしまう、というギリギリの選択で、ドナーとなることを断られたぷうさんの絶望は大きく、日記の最初のころは「鬱」の文字が頻出しました。

 カフェ日記への励ましによって、鬱からは脱出したけれど、2006年2月に始まったぷうさんの日記は、2007年5月を最後に途絶えました。1年4ヶ月のぷうさん日記をコピーします。
 ひとりひとりのコメントも貴重なものと思いますが、コメントにも著作権があるでしょうから、haruniwaからのコメントのみコピーします。
~~~~~~~~~~~
ID f046oj2c
住所 長野
性別 女性
誕生日 02月27日

<2006年2月&3月 ぷうさんの日記>
・2006年02月24日
鬱のようです
今日は眠れません。気が高ぶっています。
家の犬のキヤスターくんは今頃に元気に騒いで寝ません。こんな日は意味もなく涙が出てきて止まりません。鬱のようです。こんな日が何日も続きます。このような時は何か書きつらねます。手紙も好きですかきはじめるととまりません。今私は癌の病気です。私にのこされたこと何か書き留めることしかありません。もしかすると誰かが読んでくれるかもしれない。私という存在がいたことを知ってくれるかも知れないから、本当に辛い痛い日々ですが、まだ生きているから明日死んでしまうかもしれないけれど、、、「やっと寝ましたたくさん遊んで、いびきかいてます」私は眠れません、涙もでています。
やはり気が高ぶっています。やはり薬を飲むしか心が落ち着きません。精神安定剤です。動悸が速いこのままだと過呼吸になります。本当にいやですね。、、、
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・2006年02月27日
雨の日
雨の日は好きです、においが好きです、こんな日はお香をたいて心静かにしていると落ち着きます。今日も私は生きてます。一日雨で寒いです。病院に行かなくてはいけないのに、体中痛くて起きれません。薬を飲んでも効きません。こんなときはさすってもらうのがいいのです。立つこと出来なくて横になっています。早く暖かくならないかな・・・少しは楽になるのに、今日も眠れません。また憂鬱になります。ps
今日も生きれたからいいです。胃がいたくなってきた。
03:42 コメント(0) ページのトップへ

・2006年02月28日
寂しいな・・・
今もう4時だけど27日はお誕生日でした
ここ何年間は病院でしてくれました。何の楽しみもない日々で楽しめるのは、花火、クリスマス、ドクター、ナースのコンサートや仲良くなった患者さんとのメールや会話ぐらいです。色々な病気をかかえてる人達の苦しみをお互いに話すことで少しでも気がはれればいいので、聞いてあげるいうことが一番の薬になるのです。皆孤独ですから・・・心の中は涙でいっぱいですから毎日、不安でたまらないのです。直らない病気としっていたとしても生きるしかないのです

・2006年03月02日
今日は・・・
今日は少し暖かくて少し動けます。寒い日は体温調整の出来ない私には辛い日です。毎日何故こんな病気になってしまったのか考えます、何罰のあたる悪いことしたのだろうかと・・・何故姉と義理の兄は助けてくれなかったのだろうと同じこと繰り返し考えます。医者から寝たきりになりずーと苦しみながら生きて、いつ死んでしまうかと不安を感じながらいることの辛さを二人は私に与えたのだろう、二人に何罪なことしたのだろう、なんの仕返しだろう、こんな辛い仕返しは普通の人間には出来ないだろう・・・と悩む毎日です。強い薬で髪の毛がまた抜けました。薬を飲まないと生きていけないなんて、こんなに苦しくて辛いなら生きていてもしょうがないかもしれない辛さからのがれられるならと・・・思う日々です。
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・2006年03月03日
時間がさかさまに
また眠れない日が続いています、夜更かししてますでも昼間も眠れません。気がたかぶってますだから苛々して心が落ち着きません。こんな時は自然と涙が出てきてしまいますどうすることも出来ません泣くだけ泣くしかないのです。今とても寂しいです病気にならなければ好きな人と一緒になれたのに辛い別れをしなければならない。私の大切なもの全部奪っていってしまう、子供もほしかった、社会にもでれず外の生活ができず家にいるか病院にいるかの生活に疲れました。寂しいです・・・こんな生活を止めてしまいたい
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・2006年03月04日
辛くて・・・
私は何故こんなに毎日苛々してるのだろう
血液の癌と宣告されてからの辛い日々が黄泉がってきて、抗がん剤投与、心臓が止まるかもしれない検査など沢山の治療をしたのに、骨髄移植ができなかったそれしか助かることができないのに、姉、義理の兄、兄の親が許してくれなかったため今私は寝たきりになってしまった。いずれはこうなるとわかっていても助けてはくれなかったいまの私には何も楽しいことなんてない。
苦しいことだけ、辛いことだけしかない
なんと寂しいことだろう・・・
だれか楽しいこと教えてください。
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世の中はどうですか
病気で外に出れない私はもう3月なのに世間は毎日めまぐるしく過ぎているのだろうか友達とも離れて家にとじこもっているだけしかなくて、前はよくでかけた仕事のあと友達と楽しい時間があったのに、なにも話をしない日々がつづく一人でただぼーとしているだけ長い1日がはじまる今は誰かと話がしたい・・・でも出来ない
健康でもなにもしない人、・・・くやしい
病気でもなにかしたいでも社会にはでれない・・・辛い、苦しい、もとの体にもどしてほしい・・・かなわぬ願い・
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・2006年03月05日
無理かもしれない
今夢中になれることしたらと励まされました。でも、あまり動くこと出来ない私には出かけることも、旅行も趣味で何かすることも中々出来ません。寝ながら本、やdydを見ることぐらいしかできません。いつも痛みがあるから横になっているしか・・・出来るならなんでもしたいでも私の体の状態では無理なのです。残りの日々、時間を寝たきりに過ごすしかないのです。歩けたら何でも出来るのに・・・出来ない
このはがゆさが苛々して、鬱状態になってしまう、自分ではどうすることもできない何も望めないのです。あきらめるしか・・車椅子ででかけても少しでも痛みがやわらいでいるときしかだから時間が限られてしまう。なにも望めない・・・
23:37 コメント(0) ページのトップへ

・2006年03月07日
やっぱりね・・・
今日は病院にいきました、やはり思っていたとうり薬が増えました。痛みがとれない薬が効かないのです、いつもなら飲むと効いてくるのですが足、股関節、などの痛みに効き目がなくて強い薬のため髪の毛も全部抜けてしまったこと、せっかく伸びたのに今頃になってまたつらい鬘をかぶらなくてはと思うと憂鬱です。でも13種類の薬をのまなくてはならないことの方が辛いです。体温調整が出来ないので寒くなったり暑くなったりが激しいのです。drも家にずーといるんだね・・・鬱がひどくなっているねとごめんね直せなくてと言われました薬しかだせなくてとこれからどうなるのだろう・・・私の体・・・
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鬱です
難病で特定疾患の病気はなおりません。
どんなにがんばってもむりなのです。
この病気にかかると直す薬は無い。
いつ死んでしまうのかという恐怖に耐えるしかありません。
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・2006年03月09日
苛々して
今日は1日中胃とお腹が痛くて薬を飲んでもおさまらなくて、母に八つ当たりをしてしまいました。一生懸命に私の面倒を自分も骨接して足が痛いのになのに私は母に自分の苛立ちをぶつけた感謝の言葉をかけてあげなければと思うのですが・・・
まだ寒くて外にもでれない苛立ちはピークになってました。1番心配してくれているのに何もできない歯痒さから・・・
いま鬱の状態です。心に落ち着きがないのです
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・2006年03月11日
私の1日
私の日々は毎日ばらばらです、時間が違います、眠れない日が続く日は昼間も起きていますのでほとんどおきてます。体の調子がいいときはご飯をつくります、もちろんすわってですけど、何日も眠り続けるときはご飯もなにも食べずにただ眠ったままで母が心配して起こしますが本人はきずかずにいます。何かするときはすわってしか出来ないからほとんど出来ないけど・・・
寒さに弱いから暖かい日しか動けません
体に痛みがはしって動けないのです
これからは暖かくなるので母と車椅子で散歩にいきます近くの駅まで行きそこで休んでお茶飲んで帰ります。それだけでも楽しいです、人に逢えるからです、外に出たいです・・・少しでも
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・2006年03月13日
また冬に
今日また雪がふりました
昨日は4月の暖かさなのにまた寒い日です
寒くなると私は動けません。体が硬直して痛みが体中に走ります、だから横になっているしかないのです。部屋を暖めてもだめです寒いのに汗をかくのです、体温調整が出来なくてひや汗が出てきてまたすぐ寒くなるのです。こんな日は薬を飲んでもききません・・・あぁ早く暖かくならないでしょうか春が待ちどうしいです。
暖かくなれば散歩にいけるから・・・
車椅子だけど・・・元気でいれるだろうか

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・2006年03月14日
友達に・・・
ある人が私の日記を見て友達にといってくれました、嬉しいです私が病気になり最初はよかったのです心配もしてくれてでもだんだん離れていきました、苦しむ私を見てどうすればいいのか分からないまた自分の生活もあるし私にばかりかかわっていられないのでしょう私は同じように苦しんでいる人達と入院してる人と仲良くなり少しでも楽しい日々を病院で過ごしました。
お互いに慰めあい病気にまけないようにとでもみんな死んでしまいました。でもいまその人達の分まで生きています。これからも少しでも長く生きたいと思います。辛い日々ですが・・・
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・2006年03月15日
寒いけど
今日銀行に出掛けました、atmでするとき車椅子だと画面が見えませんでも低くするわけにも出来ないので杖をついて立ちます、そのときに後ろに寄りかかる手すりがあると楽なのですが寄りかかる所があると少しは立っていられるのです。何か書くにしても座って出来る場所が1つでもあると嬉しいのです、棚が高くて・・・昨日は朝方まで眠れず薬を飲んでから寝ました、いつもの通り目が覚めたのが夜の22時でした。
私の病気は眠れないと何日も徹夜して眠れません、でも突然眠りに入ると何日も眠り続けます、トイレもいかずご飯も食べず水さえ飲みません、ずーと眠り続けるのです母が心配して死んでいるのでは??と見に来ます、何日眠るのだろうと・・・このまま目が覚めないのではとハラハラしているそうです。でも私の意識が無く返事をしているらしいとの事・・・そして本人は少ししか寝てないと思っている・・・馬鹿だ??
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やらなくては
遣り残したこと沢山あるのです、父が亡くなりお墓がありません、父、母、私と三人しか入らないのですが後見てくれる人もいないし、それにお墓建てるお金もありません・・・宝くじ当たらないかなあ深刻です
話変わるけど私みたいに骨髄移植で治せるひとも治療費が高くて出来ない人沢山いる
皆さんの募金で助けてもらえる人は羨ましいです私も出来るなら助けてほしいです。
本当に沢山のお金がかかるから、ドナーの人の分も患者がもつのですから、沢山の人が宝くじが当たってもとりにこない分のお金骨髄移植の人に回してほしいです。出来ることなら・・・病気が治せるのにお金がなくて死んで逝く人も沢山いますから、無念です。
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・2006年03月17日
何故私が
私の父は沢山の病気で亡くなった、でも腰の手術をしたら再発色々に転移してた聞いたのは亡くなる1週間前だった、医者はそのとき逃げた急に転移したがだめだった、もうておくれ、父が病気のとき私の癌も分かった、母も病気になった、私は父、母の付き添いをしながら病院から仕事に行き会社と病院のいききの生活になった。苦しく疲れた心の中はぐじゃぐじゃになっていた私も抗がん剤で苦しく目が開けていられる状態ではなくボロボロ、体が動けなく時間があると横になっていた、働なかなくては生活も、支払いも出来ない生きていけないでもそのとき私は医者に余命10カ月と言われていたあとこの短い時間で何が出来るのか副作用で動けない、薬は利かない、科学療法しかないでも入院しなくてならないそして父、母が少し元気になり退院した時今度私が辛い治療に入った。そこから少しでも長く生きられるようにと戦いが始まった、今度は父と母が毎日来てくれた
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・2006年03月19日
辛い日々・・・
今日は家のもう一人(犬)の家族が可愛くなりかえってきた。犬には心が癒される
私の病気は骨髄移植しか助かることはないこれからつらい治療が始まる、抗がん剤でのおきた症状は吐き気、めまい、熱、かゆみ、口内炎、等また1日で抜けてしまう髪の毛頭はつるつるになる。生理も止まる、食べることも出来ない、目も開けられない免疫力がなくなる、血液からの体の数値は全部ゼロにする。無菌室からは治るまで出られない、部屋の中だけで生活をするしかない、外の物は何も見えない、点滴をずーとしながら何かをする。眠れない日々が続く眠剤を飲んでも効かない、何日ここですごすのだろうか、医者にも分からない。
何日泣いたことだろう。
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・2006年03月20日
今日は
調子が悪くて、パソコンも打てない、これだけやっとうてた・・・だからまたね
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2006年03月21日
今日は・・・
昨日は調子が悪くて辛い日でした。今日は少し楽になりました、暑い日と寒い日が毎日変わるとだめですね、私は移植するドナーは姉でした、何十万人に一人という確立で血液が合いました、それからの私は移植出来る体になるように検査を続け、治療をしつづけました、何ヶ月もそしていい時期がきました、これで第1段階の奇跡がおきると信じました、でも神様はいなかったのです。苦しいこと、辛い事に耐えてきたのにこれからだというのに・・・
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・2006年03月22日
辛くて・・・
私は移植の為に、辛い検査も、治療も頑張りました。そして最後の医師の説明と移植の日を決めるため、父、母、姉、義理の兄とそろって聞きました。日取りもこの日を過ぎたらもう移植は出来ませんとまで言われました。話が終わり喜びもつかの間に、次の瞬間に姉はことわったのです。義理の兄とその両親が反対したのです。子供がいるのに1週間も家を開けることを許さないと、私の体はもう科学治療ではなおせないこと、移植しか助からないこと、このままだといつでも死んでしまうこと生きていても寝たきりになること、薬づけになることそれを知りながらことわったのです、父、母は頭を下げて頼みにいっても聞き入れてはくれませんでした。そこからまた私の戦いが始まりました。
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・2006年03月23日
私の戦い
姉に移植を断られてから、何十万人に一人の割合しかないドナーは患者にも医師にも神様のようなものです、ナースが説得をしてくれたのですが気持ちは伝わらない様でした、姉の姑、舅は私に頭を下げに来いと言われましたが無菌室にいる私は部屋から出ることは出来ませんそれを知りながら、無理なことを言われました、いけるものなら何度でも頭を下げます。でも一言、嫁にもらったのだからもう家のものですのでお宅の都合で家を開けることは許しませんと言われてしまいました。もうそれ以上何も言うことは出来ませんでした。姉が電話の向こうで泣いていても私にはまだ理解できる気持ちの状態ではありませんでした。そして鬱病になり声がでなくなり、記憶もと
ころどころ抜けてしまいました。
PS・・・今日、介護保険の認定の面接のひとがきました、今の状態、生活の仕方、を聞かれましたでもまた一から病気の説明をしなくてはいけないこと色々と甦り涙がとまりません。でも認定をする人は書類の書いてあることだけで判断します、外見からではわかりませんまた見にくるわけでもありません、体の痛みは本人しか分からないのです・・・と言葉を残して帰りました。本当に疲れました。
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・2006年03月24日
眠れないのです
また眠れない日々が続いています。眠剤を飲んでも効きません。決まった量しか飲めないので少し多く飲んでいるのですが駄目です。姉から移植を断られてから誰とも話しが出来なく逢うことも、薄暗い部屋の中で毎日、毎日泣き続けました涙が止まらないのです。何を言われても涙があふれて自分ではどうすることも出来ません。
医師、ナースさん達はカァーテン越しに声をかけてから顔を出します、必ずこういう患者は何かするから何度も見にきます。
何も手がつかずただぼーとしているだけ食べると吐いてしまうから24時間点滴をして、食べ物をうけつけない体になりました
痩せ細りもう立つことさえ出来ない起き上がることも一人では出来ません。面会は父母だけで友人がきても逢えないのです。
記憶が飛んでしまい誰だかわからない、声がでない、そんな私を父、母は側で見ているだけそしていつのまにか集まったぬいぐるみ達沢山一人部屋いっぱいになり、皆私をなぐさめてくれているようでした・・・
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投稿者:haruniwa(2006-03-24 23:18
つらいですね。
妹のための移植を許してくれないような家に嫁いでしまったお姉さん、悲しいでしょう。人の命を救うという崇高な目的よりも、「嫁はうちのものだ」というような考えを持つ家のなかで暮らすのはお姉さんにとっても居心地が悪いでしょうね。
移植の適合は奇蹟のようだといいますが、どうぞ奇蹟がおきますように。提供者がみつかりますように。お祈りしています

・2006年03月25日
大切な人達・・・
私は入院している時沢山の人に助けられました。自分も苦しくて、切ないのに沢山の言葉を頂きました。病院で色々の科の患者さん達と話をするようになりました。時間があるときは皆で集まりナースさんに了解してもらい消灯をすぎても約束時間を守れば許される時間がある限りづーと一緒にいました。メールで何時に集まるよと声をかけ色んな話をしました。自分の事、病気、検査、手術、同室の人、医師、ナース等
歳も職業も住むところも皆ばらばらで、
高校生、先生、社長、お坊さん、保険外交員、大学生そしてやくざ!?まで待合室で朝から夜中まで、お正月、バレンタイン、ひな祭り、七夕、お盆、クリスマス、年越し
あらゆる行事をつくって楽しんだ。点滴を5個もつけてひきずって、中味を聞かれると、お酒、ワイン、ビール、焼酎を点滴してると冗談をいいながらお互いに体のことを心配しながら・・・なかには好きになって付き合う人もいた。学生には勉強を教えたり、楽しかった・・・
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つづき・・・大切な人達
自分の事でなく相手のことを心配して、先に退院するとお見舞いに来てくれる、外泊するとお土産をもってきて、手術があると心配してお見舞いに来る。車椅子で。
皆本当に優しかった。自分のことでせいいっぱいなのに、自分であとどの位生きていられるか知りながら、頑張って生きようとしてた。でも癌の病気の人は皆亡くなってしまった・・・
私は皆に感謝してる生きる勇気をもらいました。此の人達は大切な宝物・者です

PS・・・このとき私は体も心もボロボロで生きていることさえ辛かったからどうせ死んでしまうのだから今でもいいよねと思って生きる気力もなかったから・・・
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投稿者:haruniwa(2006-03-25 21:33
たくさんの人々との出会いほんとうに人生の宝物ですね。その人々の心を大切にして生き抜いてくださいね。

・2006年03月26日
大切な
私が移植が駄目になってから、精神的におかしくなり、こう鬱状態になりました。気力がなくなり何も出来ない、生きようとすること、食べること、話すこと、見ること眠ること他にも沢山の色々なことをするということに気力がない、時間をかけるしかない。私がもうこの癌という病気を治す方法が何1つないこともうなんの治療もきかないこと、これからおきることに向き合わなければならないことを医師から告げられた時、身がふるえたのを覚えてます。
私はこれからどうなるのだろう
いつまで生きれるのだろう
いつ喋れるようになるのだろう
考えれば考えるほど頭の中がおかしくなって怖くてどうしようもありませんでした。ただ父、母の前では冷静で笑顔がでてました。これからおきることを親子で戦うしかないことをどんな苦しみがあるかわからないまま・・・
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投稿者:haruniwa(2006-03-26 22:56)
たった今、テレビで知った仏僧「くまらじゅう鳩摩羅什」のことば。
煩悩是道場」思い悩むことこそ、悟りへの修行である。
病とともに悩んですごすことも、人生の大事な修行なのですね。悩みながら生き抜きましょう。

・2006年03月27日
まえよりは
もう治療する方法がないと言われてこれからどうすればいいのか、これからおきる
さまざまなことにどう立ち向かえれば良いのか思い、無菌室をでてもいいことになりわたしは病院を変えることにした、なにをするにも鬱病を治さなくてはとケアー病院に入院しました。そこはなにをしてもいいところでナースは1度に5人で様子を見に来る1日中ひっきりなしに、10時、15時にお茶を出してくれる、ボランティアの人がお見舞いにきてる人の分も、本、ビデオも借りられるし2時間位の外室もいつでも許してくれる、ナースの方とお茶もできる、いつでも泊まりでつきそいもさせてくれる、何をしても自由なのです、そこで少しずつ心がやわらかくなっていきました。
PS・・・夜眠れません、朝方から眠りに入りますでもずーとおきているときもありますが・・・
くまのぷうさんが好きなのでプゥとよんでください
01:39 コメント(5) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-03-27 12:39
ぷぅさん、ケアー病院での生活、自由にすごせることはいいですね。
心が少しずつ柔らかくなっていって、ふうわりとやわらかにはずむ心が取り戻せる日まで、応援します。

・2006年03月29日
少しずつ
家の犬のキャスター君は何か心配でまだねません。今日私が調子が悪くて1日中寝てたので、私はケアー病院に入院してから前の病院で仲良くなった友達が毎日来てくれました。早く元気になって遊びに行こうよと励ましてくれました。その病院には牧師さんがいて毎日お祈りをしてくれるのです
はじめはうけつけられずにいました。でも何も言わずただ顔をだしていくのです、それから少しずつ話すようになりました。
ここへ移ってもはじめは全然話もできなく誰もうけつけることが出来なかったのですが皆何も言わずただ顔をだすだけ、牧師さんと同じように、ナースも医師もボランティアも私も何も話すことが出来なかった
雨とお香がこころを優しくさせてくれた落ち着かせてくれました
02:22 コメント(4) ページのトップへ

・2006年03月30日
雨の日
雨の日が好きです、病室にお香をたいていると心が落ち着きます。雨の日はとくにそうです、私がいた病棟はもう末期癌の人が入院している人ばかりです。ここから生きて帰れる人はいません、皆呼吸器をつけて眠ってます、ご飯も流動食です。ナースがご飯ですよと運んでいただきますといって入れてきますそして終わるとご馳走様と言うのです本人には分かりませんが、それでも生きているのです、おしっこもうんちもでるのですから・・・
私はビーズ作りをはじめました、ジグゾーパズルもはまりました、パソコンをもってなくて、本も沢山読みましたでもつかれてしまって、何故か毎日お洗濯をしました。私は少しずつ父、母がくるのを楽しみにし
てました。
PS病棟のご飯はナースの方が作るのです、だからいつも暖かいご飯でした。
05:04 コメント(3) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-03-30 09:36
私も雨の日は、じっと雨を見ているのがすきですよ。雨が静かに空から地上へと流れるようすをみていると、万物の生々流転を感じます。
私が住んでいるのは団地の9階なので、9階から下へ落ちていく雨をながめることもできます。
すべては流れさっていく。時間も命も。でも、いまのこのひととき、雨は雨として存在する。私は私として存在する。そんな思いもこめながら、雨をながめています。

・2006年03月31日
寒いです
もう4月なのに雪が降り寒いです。毎日眠れず夜中にパソコンにむかってます。
自然に眠りにつくまで・・・
前の病院で1人のナースはいつも八つ当たりしてくる、自分が妊娠して悪阻がひどくて、私が頼みごとしても全然してくれない
わざと辛くなることを言う、もう貴方の癌は治らないのよこれからはもっと辛くなるよとそんなことわかってるなのに毎日何かいってくる。頑張っているのに自分が苛々して・・・我慢出来なくて婦長にいった私の部屋にははいらないでほしいと腰を複雑骨接して1ヵ月入院した時は本当に大変で辛い入院でした。
04:22 コメント(3) ページのトップへ

投稿者:haruniwa(2006-03-31 15:08
眠れないときはつらいですが、無理に寝ようとしなくても、自然にまかせたほうがいいのかも。
パソコンで、ウェブ友を訪問するのは、いい過ごし方ですね。
看護師さんへの思いも、口に出して言ってしまったほうがすっきりすると思うよ。
ナースは患者にとって天使にも思える人がいるけれど、ときには自分の感情優先の人もいますから、そんなときには、カフェで愚痴をこぼしてね。
今の環境はどうですか?
~~~~~~~~~~
 以下、2007年5月までの写文を続けます。

<つづく>
05:59 コメント(3) 編集 ページのトップへ
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目次 2012/02/01

2012-02-01 17:52:00 | 日記


2012年2月目次

02/03 ぽかぽか春庭十二単日記>写文ぷうさんの日記(1)2006年2月3月ぷうさん日記
02/04 写文ぷうさんの日記(2)2006年4月ぷうさん日記
02/05 写文ぷうさんの日記(3)2006年5月ぷうさん日記
02/07 写文ぷうさんの日記(4)2006年6月ぷうさん日記
02/08 写文ぷうさんの日記(7)2006年7月ぷうさん日記
02/10 写文ぷうさんの日記(6)2006年8月ぷうさん日記
02/11 写文ぷうさんの日記(7)2006年9月ぷうさん日記
02/12 写文ぷうさんの日記(8)2006年10月ぷうさん日記
02/14 写文ぷうさんの日記(9)2006年11月ぷうさん日記
02/15 写文ぷうさんの日記(10)2006年12月ぷうさん日記
02/17 写文ぷうさんの日記(11)2007年1月ぷうさん日記
02/18 写文ぷうさんの日記(12)2006年2月~5月春庭bbsへのぷうさん投稿1
02/19 写文ぷうさんの日記(13)2006年6月~2007年1月春庭bbsへのぷうさん投稿2
02/21 写文ぷうさんの日記(14)2007年1月~5月ぷうさん日記
02/22 写文ぷうさんの日記(15)ぷうさんbbsへの春庭コメント

02/24 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>『八月の鯨』ノベライズ(1)八月の朝
02/25 『八月の鯨』ノベライズ(2)モーニングティ
02/26 『八月の鯨』ノベライズ(3)月の光

02/26 ぽかぽか春庭十二単日記>引っ越し(1)ブログ人 & goo
02/28 引っ越し(2)春庭の実
02/29 引っ越し(3)今日でおわかれ
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春庭十二単日記2012年1月前半

2012-01-29 22:03:00 | 日記
2012年1月目次

2012/01/01
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(1)しあわせ信じて
01/03 たつ年(2)カフェからの移転先
01/04 たつ年(4)記憶の地層
01/05 たつ年(3)日記to be or not to be
01/06 たつ年(5)姑のこぶto be or not to be
01/07 たつ年(6)ただの人の人生
01/08 たつ年(7)スキヤキ
01/10 たつ年(8)上を向いて歩こう

01/11 遊びをせんとや生れけむ(1)大河ドラマを見る
01/13 遊びをせんとや生れけむ(2)歴史をファンタジーとして楽しむ
01/14 遊びをせんとや生れけむ(3)イケメンを追っかける
01/15 遊びをせんとや生れけむ(4)ブレーク中の役者を応援する
01/17 遊びをせんとや生れけむ(5)テレビに浸かる 
01/18 遊びをせんとや生れけむ(6)世界の文化を知る
01/20 遊びをせんとや生れけむ(7)写真美術館散歩
01/21 遊びをせんとや生れけむ(8)博物館で待ち続ける
01/22 遊びをせんとや生れけむ(9)博物館で列に並ぶ
01/24 遊びをせんとや生れけむ(10)無限ループ話を聞く
01/25 遊びをせんとや生れけむ(11)清明上河図を見る
01/27 遊びをせんとや生れけむ(12)しむことばを知る
01/28 遊びをせんとや生れけむ(13)ことばを楽む
01/29 遊びをせんとや生れけむ(14)絵はがきをセッチョウする
01/31 遊びをせんとや生れけむ(15)絵はがきを出す

~~~~~~~
2012/01/01
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(1)しあわせ信じて

た:たち上がれ
つ:強くやさしく
ど:どんな時も
し:しあわせ信じて

みな皆さまにとって、2012年がよい年になりますように!!

2012年「春庭日々雑記いろいろあらーなカルスタクラブ」コンテンツ:

「2012十二単日記」=春庭の日常茶飯事典

「ことばのYa!ちまた」=街で拾ったことばたち
「いろは字類抄待夢」=春庭ことば辞典
「言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて」=春庭文学文化雑記&言語文化学雑記
ことばの知恵の輪=ことば雑記

「ニッポニアニッポン語講座」=文法や音声、社会言語学など
「ニッポニアニッポン語教師日誌」=日本語教室だより

「インターナショナル食べ放題」=B級グルメ食べある記
春庭@アート散歩=美術館博物館古建築をたずねて

「今日のいろいろ」=その他もろもろ

 久しぶりに春庭テーマ曲「インターナショナル食べ放題」を歌います。
 辰年に「立て!飢えたる者たちよ!!」
http://www.youtube.com/watch?v=NbOLTFRVsek

♪起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し
食えよ我が腹へと 暁(あかつき)は来ぬ
忘却の鎖 断つ日 肌は血に燃えて
海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
♪いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの♪(繰り返し)

聞け我等が雄たけび 天地轟きて
脂肪越ゆる我が腹 行く手を守る
満腹の壁破りて 固き我が腕(かいな)
今ぞ高く掲げん 我が勝利の旗
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
♪いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの♪(繰り返し)

初音ミク四重唱バージョンで。
http://d.hatena.ne.jp/video/niconico/sm1418316

ついでに、初音ミク歌唱による「國鐵廣島の歌」こういう替え歌が作られる日本に、未来への希望を感じます。パロディとおちょくりは健全なる社会文化の基礎です。
http://www.youtube.com/watch?v=9eOS1szlD7o

<つづく>
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2012年01月03日


ぽかぽか春庭「カフェからの移転先」
2012/01/03
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(2)カフェからの移転先

 一通の通達で、あっけなく「カフェ終了」です。無料のブログサイトですから、いつかはこういうこともあろうかと思っていましたが、なんだか寂しい。
 カフェで知り合った方々、顔をあわせたことなくても、よいおつきあいが続いたと思っています。2003年から、ほぼ毎日のように更新してきて、おなじみさんの日記を読み続けてきました。

 現在私がコメントをかわしている方々は、30人くらいと思います。足跡記録30人分は、一度でもコメントをくださった方のみ残し、あとは削除しています。
 日記へのコメントをいただいたことのない足跡は消すことにしてきましたが、私も、読むだけ読んでも日記や足跡欄にコメントを書き込まず、定型コメントのみの日もあるので、もしかしたら、読んで下さった方の足跡を削除したことがあるかもしれません。失礼しました。

 私、カフェに書いた分、2003年から2007年2月までは自分のホームページに再UPすることにしていました。テーマ事にまとめてUPしたのです。
 http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/index.htm

 でも、2007年2月に中国へ赴任したときデスクトップが壊れて、パソコンを変えて以後、カフェに書いたものはそのままにしてきました。デスクトップに入っていたホームページビルダーをどのように移転させたらいいのかわからなかったからです。
 「カフェ終了」で、過去にカフェに書いたデータが消えてなくなるのでかどうかわからずに、あわてました。とりあえず2007年以降の分はコピー保存しようとは思っていますが。

 他人が読んだらろくでもない内容のつまらない駄文でも、私にとっては、生きてきた足跡のひとつなのです。
 小学生のころからの日記、死ぬ前に自分で燃やす人もいるし、遺書に「日記は全部お棺の中に入れて、いっしょに灰にして」と遺言する人もいて、それはそれぞれの人の身の始末なのですが。私は、何にもこの世に残す遺産とてないけれど、ネットの中に駄文を残すだけなら、場所もとらずお金もかからず、もしかしたら何ぞのキーワードにひっかかって、読まれることがないとは言えないし、残して置いて誰にも迷惑がかかるものでもないので、墓銘碑がわりによかろうと思っていたのです。
 それが全部消えてしまう?
 え?OCNカフェの過去ログはそのままgooかブログ人に保存されるの?わけわからんちんのパソコンオンチ春庭です。

 とにかく、書くことしかできず、パソコンのあれこれについては何年経ってもさっぱりわからない春庭、とりあえず、別サイトへコピーすることにしました。
 一日分ずつコピーペーストを繰り返して写していきます。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/haruniwa55hal

 これまで放置していたサイトですけれど、まあ、ないよりマシ。あと、アメーバブログも持っているのですけれど、アメーバは使い勝手が良くないという評判なので、こちらの活用はこの先考えましょう。

 何気ない日常が書かれているサイトや、本や映画の話題が好きで、お気に入りの方の日記を読みに行くのが楽しみでした。
 カフェ仲間との交流もあと2ヶ月。gooやブログ人に移行する人、他の媒体を選ぶ人、いろいろでしょうが、カフェのコメント欄に記入するのとはまたひと味違う違うおつきあいになるのでしょうね。
 別サイトがある方のブログは、お気に入りにいれましたけれど、OCNカフェのみの方、移行する場合、どこにするのか、ぜひ日記にお知らせを載せて下さいね。登録しますから。

<つづく>
01:02 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2012年01月04日


ぽかぽか春庭「記憶の地層」
2012/01/04
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(4)記憶の地層

 私のごひいきの書店、池袋のジュンク堂。なぜごひいきかというと、各フロアに椅子が何脚かあって、「すわり読み」ができるから。10000円まとめて買うと、400円の喫茶店利用券をくれるから。書店販促用の「書標」という小冊子の編集がなかなかいい。無料だからいつも貰う。2011年8月の特集は「武士の日記を読んでみた」でした。

 江戸時代の武士たち、お家の出来事を子孫に伝えるのを義務のひとつと心得ていたから、上級から下級武士まで、せっせと日記を書き残しました。
 元禄時代、尾張名古屋藩の朝日文左衛門の『鸚鵡籠中記』。これは「御畳奉行の日記」としてベストセラーになりました。18世紀末、新潟新発田藩の藩士、溝口半左衛門の「世臣譜」。幕末の御家人、山本政恒の「武士を失業して小間物屋になる」日記。おなじく幕末の加賀藩下級藩士で御算用者(会計処理の役人)を務めた猪山家に残された、約37年間の入払帳や書簡をもとにした磯田道史の『武士の家計簿 加賀藩御算用者』は、映画の原作にもなりました。

 また、大商人の大福帳とか、名主階層の年貢の記録、江戸時代の紀行文も、貴重な記録です。しかし、一般の社会にごく普通に生きた市井の、大工とか畳屋、飾り職人、ぼてふりの魚屋、芝居小屋下足番、人口の8割以上を占めていた農民、山岳民、漁民など、ごく普通の人々の日々の記録というのは、なかなか読めないのです。いつかどこからか発掘されて、翻刻されるといいのですが。

 冬休みの読書の一冊、たいへん興味深く読んだ『記憶の地層を掘る』(2010お茶の水書房)。東京外国語大学外国事情研究所が主催したシンポジウム、「ハリウッド映画ではないベトナム戦争」と、「日本占領下のインドネシア」をもとにして、海外からの論客や新進気鋭の歴史学者などによる論文が編集されています。
 この本の基本的な編集方針は、権力者側の公式発表でも新聞テレビなどジャーナリズム報道でもなく、一般の人が記憶していることを語ってもらい、その重層のなかから歴史を発掘しようとしていることです。

 この手法によって発掘された歴史のひとこま。たとえば、グアム島の住民達による、2年間の日本占領時代の記憶。日本からやってきた開墾隊によって、多くの島民が処刑されたという事実。この事実が、島民によってどのように記憶されどのように語りつがれてきたのかをインタビューによって記録し、日本側の兵士(開墾隊)の記憶やグアム史の公的な記録、アメリカの記録などと重ね合わされ、歴史の深層が掘り起こされています。
 「日本の元兵士の記憶からは、開墾隊がグアム島民に行った虐殺はきれいに抜け落ちている。自分たちの補給線が途絶えて、飢えつつアメリカ軍の砲弾の下を逃げたことは記憶しているのに、島民虐殺について、ほとんど語られることはなかった」という若い論者の言に、さもありなんと思いつつ読みました。

 たとえば、3・11についての記録。現地へボランティアに行って来た方や、実家が被災した方などの記録を、カフェ日記で読ませていただきました。直接の記録、ほんとうに貴重だと思います。そういう直接の記録のほか、テレビや新聞の報道を見てどう感じたのか、その日その日の記録が、将来の歴史研究者が「3・11を一般の人はどう受け止めたのか」と「記憶の地層」を発掘するとき、役に立つでしょう。

 Googleが、「未来へのキオク」として、東日本震災の前と後の、映像記録を収集しています。Yahoo JAPAN! が主催する、「東日本大震災 写真保存プロジェクト」との連携も行い、多くの人が撮影したデータを、パソコンを通して共有できる。
 写真も、文字記録も「人類共有財産」として、残していけるとしたら、21世紀以後の「未来の歴史への記憶」は、世界中みなの財産となると思います。

 山本作兵衛(1892-1984)が記録した炭鉱の絵と文の記録は、2011年5月にユネスコの世界記憶遺産に登録されました。各地の炭鉱が閉山した今、貴重な記録と思います。山本作兵衛の絵をユネスコに推薦したのは、地元の田川市。
 世界的に貴重な記録とまではいかなくても、今、書き継がれているブログのひとりひとりの記録も、残して置いていいんじゃないかと思います。

 炭鉱の炭住に暮らすカーチャンたちが、取材に訪れた森崎和江(1927~)をもてなそうと出してくれた「ごちそう」は、豆腐一丁であったことを、森崎のエッセイで読んだことを思い出す。そういう鮮烈な記録と共に、アフリカの高原の小さな村の雑貨屋で、今日採れた芋をどのように料理して食べたか、そんなつぶやきも大切だと思います。小さな雑貨屋を営んでいたママ・アンボイはもうこの世にいないけれど、私が記録したケニア日記の中に生きているのです。

 多くの人が発信できるようになった今、代議員制民主主義というのも変化していく時期だと思います。だれでも自分の意志を直接表現できる今、「現代社会においては、直接民主制は機能しない」という論も踏まえた上で、もっと自分たちの意見を直接反映していける仕組みを考えてもよい時です。

<つづく>
07:57 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2012年01月05日


ぽかぽか春庭「日記to be or not to be」
2012/01/05
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(3)日記to be or not to be

 2011年、年末の新聞に70歳の女性の投書が載っていました。小学校から書き続けてきた日記のうち、最初の一冊と最後の一冊を残して捨てた、と。
 「結婚もせず子も持たなかった人生、自分も読み返すこともしないのに、残したとて他の人が読むはずもない」からと、捨てる決意をしたのだとか。そうやって思い切って近年のはやり「断捨離」を実行出来る決断力のある方なら、これからの人生も有意義にすごしていかれることでしょう。

 でも、ほんとうにもったいない。私は「無名の人の日記収集センター」があれば、そこに様々な人の日記を集めてほしいと思っています。歴史をひもとこうとしたとき、たとえば、戦前の社会について調べようとするとき、新聞記事に載るほどの政治や経済の動きは資料を読めばわかりますが、その記事について、庶民はどのように感じ、どんなことを話していたのか、などのことは、なかなか適切な資料がありません。評論家や作家などではなく、ごく普通の生活をしている庶民の感想や、電車の中で何を喋っていたか、などの口語資料はめったに残りません。

 例をあげるなら、「阿部貞事件」が起きたとき、世間の反応はどうだったのか、裁判記録や新聞報道だけでは、実際のところがわかりません。たまたま向田邦子のエッセイで「大人達は眉をひそめつつ語りながらも、うれしそうに新聞記事を読んでいた」と書いてあり、「戦争へと向かう暗い昭和の世に、ひとすじの”人間らしさ”を感じとろうとする如く、世の人々は貞を話題にしていた」という向田邦子の書きぶりに、納得したのでした。

 日記を捨てたという投書の女性は、「結婚もしなかった70年の棒のような人生」と書いています。でも、70歳といえば、1940年か1941年くらいのお生まれの方と思います。10歳から60年間書き続けたというその意志の強さだけでも、学ぶべきところがあるのではないかと思います。ましてや、庶民の戦後史そのままを歩んでこられた方の、10歳からの記録、ほんとうに貴重なものと思うのに、捨ててほしくなかったと思います。

 「棒のような人生」は、貴重な生命の木の骨太の枝のひとつです。
 そのときそのときの呟きが、戦後社会を知りたい人にとっては貴重な記録なのに。給食が美味しかったとかまずかったとか、友達と喧嘩したときの気持ちとか、一人暮らしの愚痴とか、そういうことのひとつひとつの感情が、歴史を形成するのではないかと思うのです。

 近代社会についてのひとつの見方として、「感情共同体」という用語も使われ、そのとき、皆はどのように感じていたのか、ということを知るのも、重要な歴史把握の方法だということが、声高に言われるようになってきました。日記に記されたひとつひとつの「今日の気持ち」は、後世に残すべき記録なのです。

 もし、カフェに書かれた日記を保存する方法があるなら、どうぞ、皆様、それぞれの方法で保存しておいて下さい。私も、なんとか残していこうと思っています。くだらないことばかり書いてきたとか、文章が下手だとか、そんなことはまったく気にしません。毎日毎日書き続けた、それだけでいいのだと思っています。
To be or not to be, that is the question.
When you worry about whether you leave your diary, you have to keep it.
I hope you hold it . It has value.

 パソコンでブログ日記を読み出した頃、ごく普通の漁師さん、建築請負業、電気工事の方など、それぞれの仕事を、「当たり前の日常」として記録しているのを、新鮮な気持ちで読みました。家のなかにコンセントや電灯線を敷設する仕事、どのように工事をすすめるのか、なんて、今まで知らなかったことをたくさん知ることができました。
 テレビドラマや映画の「お仕事もの」で、畳屋さんが舞台になったり、銭湯経営の一家が描かれても、それはやはり脚本家、小説家の目を通して描かれたもの。実際に仕事をしている人の記録は、私にとって、とても興味深いものでした。

 日常の細々とした感想、読んだ本見た映画の記録、山の写真、建物の写真、脳内家族の絵日記。いろんな方のいろんな記録、いろんな方のカフェ日記を読ませていただきました。
 みなさま、どうぞ、これからも書き続けて下さい。
 私も続けます。

<つづく>
08:45 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2012年01月06日


ぽかぽか春庭「姑のこぶto be or not to be」
2012/01/06
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(5)姑のこぶto be or not to be

 姑宅への御年始。4日に姑の希望で「家族そろってすき焼きパーティ」となりました。
 姑は、年末に義姉を亡くして、気落ちしていたところです。

 姑の兄は、何年も前に亡くなっていますが、その連れ合いの文子さんは、姑の女学校時代の同級生です。同級生が姑の義姉になって、私の夫にとっては義伯母。87歳の一期まで、とても頭脳明晰な人で、「以前もらった葉書も、80代とは思えない達筆でしっかりした文章だった」と、夫も言っていました。
 しかし、心臓を患い、最後は寝たきりになってしまった。
 姑の実姉は90歳を超えて元気でいるのですが、やはり同年齢の身近な人が、なくなると、こたえるものでしょう。

 2011年の姑、夏以後は、「手術を受けるか受けないか」という重大問題に心わずらわせてきました。手術というは、病気のためではなく、「ひたいの上のこぶ」を取るといういわば美容整形手術的なものです。外に出るときはたいてい帽子をかぶって隠すようにしているし、髪の毛で覆っているので、見た目にそんなに気になるとは思っていませんでした。しかし、姑にとっては、子どもの時からコンプレックスの原因になっていたこぶだったのです。年をとって、髪が薄くなったので、ますますこぶを厭う気持ちが強くなったようです。

 私は、姑が見た目を気にする人ではないと思っていたので、姑の気持ちをついぞ思いやることができないで30年もすごしてしまいました。
 姑の兄も姉も、戦前の師範学校を出て教師になりました。姑が女学校を出たあと、師範学校へすすまなかったのは、戦中戦後の混乱期にあたっていたせいだと思っていました。しかし、姑が師範学校へ進まなかったのは、その理由だけではありませんでした。「このこぶを人前にさらしたくない。子ども達の前に立つ教師にはなれないのだから、師範学校へ行くことはできない」と、姑は悩んだのだそうです。

 戦後、教師が不足した時代に、「女学校出なのだから、代用教員になってほしい」という依頼を、教師をしている兄や姉を通して何度も受けのだそうです。でも、それを全部断ったのは、「このこぶのまま、人前に出るのはいやだ」という気持ちがあったからなのだということを、姑は去年はじめて、孫娘に語りました。私は娘からこの話を聞いて、「え?そんなにおばあちゃんが気にしていたとは知らなかった」と言いました。

 額の上のこぶをとるには、頭蓋骨にも処置が必要になるため、若い頃は手術方法がなく、手術が可能になった頃には、「頭蓋骨を開く大手術になるので、年寄りはこの手術には耐えられないだろう」と言われて、諦めていたのです。

 それが、去年「昔よりは頭蓋骨を開く手術が技術的に向上したので、ずっと短時間で手術できるようになった。ただし、年齢が年齢なので、手術に耐えられるかどうか、もう一度検査をしてみましょう」と医者に言われ、姑は、手術する気になりました。しかし、検査をしてみると、やはり医者が思った以上に頭蓋骨への手術時間がかかることがわかり、取り去った頭蓋骨の変わりとして、人工頭蓋骨を取り付けなければならないという医者の説明でした。

 姑の「手術を受けたい」という気持ちより、医者たちの「この年齢で手術に耐えられなかったら、自分たちの落ち度になる」という失敗を怖がる気持ちのほうが強く、手術はとりやめになりました。

<つづく>
06:04 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2012年01月07日


ぽかぽか春庭「ただの人の人生」
2012/01/07
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(6)ただの人の人生

 夫は最初から、「見た目の問題なのだから、今さら何時間もかかる手術をして見た目をよくすることもない」という「手術反対」派でした。
 私と娘は、おばあちゃんの「自分の見た目がコンプレックスとなり、代用教員になって人前に立つこともできなかった」という気持ちに驚き、「おばあちゃんが望むなら、手術を受けてみてもいいのではないか」という賛成派。

 姑が娘に語った「一度でいいから、ほかの人のように、見た目を気にしないで生きてみたかった。」ということばに胸を突かれました。生まれてから87歳まで、物心ついて自分の見た目が他の人と違うということを意識するようになってからでも80年もの間、姑がそんな気持ちを持って生きてきたこと、私は少しもそれをわかってあげたことがなかったのです。
 私は障害者ボランティアなども通して、身体などに障害があるとしても、ごく普通に生活していくべきだという考えでしたが、一番身近な姑が身体に劣等感を感じて生きているということにすら気づいてあげたことがなかったのです。
 「一生の最後だけでも、フツーの人になって生きてみたかった」という願いを、姑が87歳になってかなえようとしたこと、ほんとうに胸がいっぱいになりました。

 もちろん、他人からみたら、女学校を出て数年で銀行員と結婚し、東京に所帯を持って娘息子を育て上げ、孫に恵まれて生きてきた87年間は、幸福な人生と見えます。実の娘が50歳で癌で先立ったことなど、不幸もありましたが、舅と協力して東京に建てた一軒家を、2007年に後家のふんばりで全改築したエネルギーのある、趣味豊かな姑で、私は「幸福なおばあちゃん」と信じてつきあってきました。

 夫は単純に「87にもなって、見た目がよくなってそれがドーシタ」と言います。でも、私は、姑の「一生に一度でいいから、見た目がフツーの人として暮らしたかった」という気持ちも、とても胸に響くのです。こぶがあってもなくても、私たち家族にとっては、大事なおばあちゃんであり、大切な母親ですが、姑のせつない希望も叶えてあげたかった。
 おない年の義姉の死去で、姑の気持ちが「失敗するかも知れない手術を受けるより、今のままでいいから、少しでも長生きしたい」という気持ちに変わるかとも思いましたが、娘との会話では、まだ手術をあきらめきったわけではないようです。さて、来年の米寿まで、この問題は持ち越しそうです。

 姑にとって、息子と孫息子、私にとって夫と息子は、ともに年男、辰年生まれです。還暦を迎える夫。24歳になる息子。
 息子は、2012年は、修士課程2年生になります。そろそろ、修士論文のことも気に掛けなければなりません。指導教官が文学部長であるため忙しくて、なかなか論文指導の時間がとれないとかで、本人はのんびり構えています。しかし、私は、子育て&日本語教師をしながらの修士論文執筆で、修士2年目には見事に失敗し、修士課程修了まで4年間費やすという経験をしたので、「母の失敗を繰り返すな」と、気が気ではありません。

 還暦夫は、「いっしょにタイ語を学んでいる仲間と、バンコクで行われるマラソン大会に出る」という、「似合わない夢」を持つようになりました。「スタンダードシャーターバンコクマラソン」という、国際大会に一般参加するためのさまざまなツアーが出ているのだそうです。2011年の開催はバンコク洪水のために、2012年2月12日に延期になりました。夫が参加をもくろんでいるのは、来年だか再来年だかの「還暦記念マラソン」。このごろ、飯田橋の事務所から九段下経由で歩いて、皇居の周囲を走っているというのですが、さて、どうなることやら。

 ほんとうに出場することになったら、応援ツアーに出かけたいと思いますが、夫は「来るな」と言うでしょう。今年は、1982年に結婚してから30年目です。「夫唱婦不随」「婦唱夫不随」が30年も続いたのですから、今さらバンコクまで随行しなくてもよいということでしょうが、なに、私は私で一人旅。ひとりバンコク観光でもしていますって。
 私が観光してひとりで歩いている脇を夫が走っていたら、拍手して応援するくらいのことはしてやりましょう。私は夫から何も応援してもらったことないけれど。

 姑の家に着くまでの地下鉄の中では、関川夏央『「だだの人」の人生』文春文庫を読んですごしました。姑のことを、ごく普通の「ただの人」と思って30年つきあってきて、姑の心も想像できない、至らないヨメだったなあと思います。

<つづく>
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2012年01月08日


ぽかぽか春庭「スキヤキ」
2012/01/08
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(7)スキヤキ

 元日午後1時半。いきなりの震度3。東京、かなり揺れてびっくりしました。
 2011年大震災のあと、揺れた心を落ち着かせ、みんなを元気づける歌のNo.1になったのが、「上を向いて歩こう」でした。

 坂本九の歌、アメリカでヒットしたときのタイトルは「スキヤキ」。ベルギーやオランダでは「忘れ得ぬ芸者ベイビー」というタイトルになったそうで、わけわからないけれど、ゲーシャ、フジヤマなどと共に、スキヤキやスシが日本を想起させる名詞であることはわかります。

 私は、映画『上を向いて歩こう』が1962年に公開されたときは、映画館で見ていません。(親が映画館で見るのを許したのは、ディズニーのアニメ映画程度)。テレビでも見たことがなく、2011年12月31日大晦日にテレビ放映されたときにようやく見ました。(2011年にDVD化)
 ちょうど50年前の映画、坂本九、高橋英樹、吉永小百合、みな若くて生き生きしていました。

 50年前の日本、スキヤキは庶民にとってごちそうでした。
 姑宅での「家族deスキヤキ」。1925年生まれの姑にとって、スキヤキは今でも「ごちそう」です。「餅もスキヤキも、今では日常の献立になってしまって、松坂牛A4級、100g3000円とかいうくらいの、よほど上等の牛肉でないと、誰も正月のごちそうとは思わない」なんてことは思いません。とにもかくにも、家族そろってスキヤキの食卓が囲めればそれでいいのです。

 御年始の日をいつにするかは、夫と娘でちょっと揉めました。「4日からはどの会社も新年始業だから、4日には時間がない。食べたらすぐに事務所に戻らなければならないから、3日にしよう」と夫が言うのに、娘は「箱根駅伝、2日は往路、東洋の柏原竜二の山登り新記録がかかっているし、3日は明治の鎧坂が出場するかどうかを見届けなければならない。3日にスキヤキするとしても、その前に買い出しにつきあってくれってお祖母ちゃんが言っているのだから、箱根ゴールしてからお祖母ちゃんの家に行って、それから買い物に出かけるのでは、遅くなるでしょ。だから4日じゃなければ、いやだ。父は、4日に仕事があるなら、いっしょに食べなくてもいい」と、夫に冷たく宣言。

 そこで、夫は、3日に駅伝が終わってから姑宅へ行き、4日には買い物をしなくてもよいように買い出しにつきあうことにしました。買い物を手伝ってからすぐ事務所に戻り、仕事。4日は、1時から3時まで昼ご飯にすき焼きを食べて、すぐ事務所に戻って仕事。家族団らんなんてものより、赤字会社の経営が大事な夫です。

 私と娘息子は、4日のおひる頃に着いて、夫が来る前にすき焼きを作り始め、夫が来たらすぐに食べられるようにしておきました。夫が3日に姑といっしょに買った牛肉は、特に高級品でもなく、夫は「正月は市場が開いていないからか、たいした商品は置いてない。高級肉は売り切れだった」と言うのですが、ま、いいか。赤字会社一家には、正月といえども高級肉を食べるなんてぜいたくなことですから。

 スキヤキ食べながら、娘と夫とわいわいと箱根駅伝論評。「Nさんから年始の電話が留守録に入っていたんだけど、あれは絶対に年賀を述べるっていうより、東洋の自慢したかったんだな」と、くやしそうなのも、夫の母校は三強と言われながらも復活優勝できなかったから。私も連覇ならずですが、娘は、母校宿願の3位で大喜び、松坂高級肉でなくとも、「今年はさい先いいから、お肉もこれで十分おいしい」と、娘はごきげん。おめでたい一家である。

<つづく>
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2012年01月10日


ぽかぽか春庭「上を向いて歩こう」
2012/01/10
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(8)上を向いて歩こう

 姑宅での「家族deスキヤキ」。デザートは、娘が作ったチーズケーキ。血糖値を気にする姑のために、パルスイートという甘味料を使って作ったので、「おばあちゃん、これなら食べられるから」と、娘がすすめています。私からの御年賀は、いつもの金一封。芸のないヨメです。

 夫が事務所へ戻ったあとも、姑が次々とテーブルに並べる煮物や数の子などつまみながら、昔話を聞いたり、老人仲間の話を聞いたりしました。
 姑は、公園での早朝ラジオ体操、詩吟の稽古、書道や童謡を歌う会など、老人仲間と今年も「毎日忙しい」と言いながら過ごしていくことでしょう。しかし、やはり姑の話題も「寄る年波」に関わることが多くなってきました。

 「もう、親戚にお歳暮を贈るのはやめにしたいのに、どのような口実でやめたらいいのかわからない。どう言えば角を立てずにお歳暮を打ち切りにできるかしら」という相談もありました。「今年の暮れにお歳暮を送るとき、手紙を添えたらどうでしょうか」と、ヨメは提案してみました。

 私が考えた文面は、「今年もお世話になりました。例年通りの粗品ではございますが、お使い下さいませ。さて、私も2013年には米寿となりますので、いろいろ身仕舞いをしております。年末のご挨拶は本年にて打ち上げとさせていただきたく存じますが、今後とも老体をお見守りくださいますよう、お願い申し上げます」というものだったのだけれど、あれっ?「身仕舞い」っていうのは、こういう場合に使える言葉だったかしらと、確信がもてなくなりました。

 結局、「あとでいい文を考えておきますね」で、お茶を濁してしまいました。まったく、何を相談されても、たいして役にたたない嫁です。
 私たちから見ると87歳は、いろいろなことを打ち切りにする口実に足る老齢だと思うのですが、舅の長姉は100歳を超えているという長寿一族なので、姑も自分はまだ若い方と思っています。

 去年、嫁が相談されたことのなかで、やはり嫁には何の手助けもできなかったことがあります。ひとつは、ゴミ出し問題について。毎日の食事作りは手を抜くことが多くなったけれど、家の掃除は絶対に手を抜かない姑にとって、ゴミ出しは重要問題です。部屋をきれいに掃き、庭の落ち葉などを集めても、それを捨てに行くには、指定のゴミバケツに入れて、指定のゴミ集積所まで運ばなければなりません。
 「ゴミ出しがたいへんになってきた」と姑が愚痴を言ったとき、「じゃ、ゴミの日には、ヨメが来てゴミ出しをいたしましょう」なんて殊勝なことは言えずに、「どうしたらいいでしょうねぇ」なんて、相づちうっただけで終わってしまった。

 姑は、町会長さんに手紙を出して、「年寄りなので、遠くの収集場所までゴミバケツを運ぶのがたいへんです。隣のタイラさんとうちの二軒で出せる専用のゴミ収集所をうちの前に設定してください」と手紙を出したら、要望が通ったのだそうです。
 家の前の収集所は長年仲良くしているお隣さんと二軒だけの使用ということにしてもらったので、ゴミバケツを片付けたり後始末の掃除もそれほど負担ではないと言います。姑はちゃんと自分の力で問題を解決したのでした。エライ!

 ひとり暮らしを続けて10年になる姑、ひとりぼっちの夜も、にじんだ星を数えて、ちゃんと上を見上げて歩いています。
 私は私で日々の食い扶持稼ぎに忙しく、世の嫁さんのように小まめに姑孝行をしてやれていないのですが、夫が「悪妻は百年の不作」と言っても、姑は「よいお嫁さん」と立ててくれます。
 菊池寛の言葉だそうですが、「悪妻は百年の不作であるというが、悪夫は百年の飢饉である」というのがあるのですって。

 結婚以来、飢饉続きで、喰うや食わずの生活でしたが、まあ、正月くらい、家族そろってスキヤキ食べるのも、年の初めのためしとて。
 わが家、今年も飢饉が続くでしょうけど、正月のすき焼きで気を取り直し、なんとか上を向いて歩こう!

 映画『上を向いて歩こう』より、4番「冬の日」篇(映画オリジナルバージョン)。

♪上を向いて歩こう にじんだ星を数えて
思い出す 冬の日 ひとりぼっちの夜
幸せは 星の上に 幸せは 月の上に
♪上を向いて歩こう涙がこぼれないように
手をつなぎ 歌おう 若い僕らの歌

<おわり>
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2012年01月11日


ぽかぽか春庭「大河ドラマを見る」
2012/01/11
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(1)大河ドラマを見る

 2011年の春庭、震災後無気力症により、4月はぼけ~とすごし、5月からはやたらにあちこち歩きまわる、という日々を過ごしました。授業はこなすものの、「言語文化論」「社会文化論という春庭の研究分野に論文を残すようなことは何もせず、ただただ、ことばを楽しみ、文化を享受する毎日。
 まあ、いいか、こんな年もあっていい、と自分に言い訳しながら、♪遊びをせんとや生まれけむ、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ♪、という平安末期に後白河上皇が採録した「今様」の通りに遊び暮らしました。

 梁塵秘抄口伝集には、今様の歌い方が書かれていますが、五線譜のようにメロディが記されていたわけではないので、歌い手がいなくなるとともに、どのような曲調で歌われたのかは、もはや復元の方法はありません。雅楽のように宮中儀礼になったものは、演奏者が残って伝えたのですが。今様は、あくまで後白河天皇の個人的趣味であり、宮中には伝わりませんでしたので。

 歌い方の途絶えてしまった古曲を、さまざまな伝承から復元してきた桃山晴衣(1939-2008)が、梁塵秘抄にも曲をつけてを発表していますが、作曲者によっていろいろな歌い方が考えられるでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=vzyIwdZBOnQ&feature=related

 NHK大河ドラマで、平清盛の実母が子守歌がわりに我が子に歌っていたメロディは、音楽担当の吉松隆が作曲したものと思います。テレビの画面では吹石一恵が歌っていましたが、曲が仕上がるまでの作曲の過程では、初音ミクに歌わせていたのだそうです。
 このあとは、松田聖子扮する祇園女御と乙前が歌うらしい。歌うのはかまわないけれど、白河上皇の愛妾だった祇園女御と後白河天皇の歌の師匠である乙前が同一人物だという設定には、いくらフィクションでも納得できないところ。

 祇園女御は、「宮中の正式な身分である女御」ではなく、単に「上皇の寵愛があついので、女御という名で呼ばれている」ということにすぎず、親が誰かもわかっていない女性だし、乙前は、地方から上京してきた芸人。両方とも素性はわかっていないのですから、作家が想像力によって同一人物としてテレビに出しても、「史実に反する」と歴史家が言うことはできません。けど、単に松田聖子の出番を増やすための人物設定の気がします。

 脚本の藤本有紀には、時代考証家がついてアドバイスをしているので、ちゃんとつじつまが合うようにはすると思いますし、もともと大河ドラマというのは歴史ファンタジーなんだから、そう思って見ればいいのですが。でも、ドラマ第一回目を見た感想として書かれているあちこちのブログなどを読んでみると、「清盛が白河上皇のご落胤とは知らなかった」などと、ドラマストーリーを歴史そのままと受け取っている人も多い。

 時代考証を担当している本郷和人(東京大学史料編纂所准教授)は、「私は清盛落胤説には反対」とどこかで語っていたのを読んだけど。豊臣秀吉が自分でばらまいたご落胤説はさすがに「そな、アホな」と、同時代の人も考えたけれど、900年前のこととなると、もはや人の噂話も歴史のうちなので、脚本家がそれをどのように物語にしようと「作者の勝手でしょ」ということになる。

 NHKキャラクターデザインのスタッフは、「時代考証の先生にお話をうかがったところ、平安貴族の烏帽子は、寝るときもかぶっていたそうです」と書いていた。しかし、これとてもわからないことです。絵巻物などに残る貴族は寝所の寝床シーンでも烏帽子をつけて描かれている。しかし、当時、貴顕を絵に描くには、正装である烏帽子を着けた姿にすることが礼儀として求められていたので、烏帽子を着けて寝ていたように描いた、ということです。実際にあんな堅苦しい烏帽子を着けて寝たのかどうか、本当のところはわかりません。

 問題は、時代考証の先生だって、ほんとうにはわからないことを、絵巻物の絵からだけ推察して「寝るときもかぶっていた」と判断していることです。その道の権威とされている人の語ることがすべて正しいとは限らない、ということ。
 私の想像では、寝るときはナイトキャップのような「髪を乱さないための頭巾」をかぶっていたのを、絵に描くときは烏帽子にした、と思うのですが、これも単なる想像。要は、歴史とは、後世の人が紡ぐ物語である、ということです。

 初回の視聴率は17%台で、大河ドラマの中では低い方、兵庫県知事は「観光を盛り上げるためには、画面が汚い」という意見だそうですが、私は、画面の作り方としては、平安時代の武士や街の中の雰囲気がよく伝えられていると思いました。

<つづく>
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2012年01月13日


ぽかぽか春庭「歴史をファンタジーとして楽しむ」
2012/01/13
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(2)歴史をファンタジーとして楽しむ

 1972年のNHK大河ドラマで「平清盛」は、吉川英治『新平家物語』が原作。私は見ませんでした。このころ東京のアパートで姉といっしょに暮らしていたので、チャンネル権は姉にあったのでしょう。
 このときは、すべてスタジオ収録で「舞台劇のように」制作されたのだそうです。今回は、原作無しのオリジナル脚本で、海上ロケや野原を馬が駆けるシーンなど、ロケ多用の画面になるそう。

 ドラマのストーリーのすべてが歴史的事実ではないと承知の上なら、ドラマはドラマと楽しんでよかろうかと思います。歴史とドラマは別物、と思いつつ、今回のストーリーでの注目しているのは、この30年間の平安後期史や中世武家政権史研究の進展がどのくらいドラマに反映するのだろうか、という点。近年の院政研究、中世武家政権研究などに従来とは異なる、新たな視点から清盛が描かれてきました。

 たとえば、嵐山光三郎の小説『西行と清盛』や、中世史研究者五味文彦の『西行と清盛』などが反映したストーリーになるのではないかと想像しています。西行役に藤木直人が起用されていることから考えると、西行(23歳で出家する前は、北面の武士佐藤則清)がかなりストーリーに絡んでくるだろうと思うからです。

 今年も、わが家は大河ドラマを見ます。戦国史中世武士政権論専攻の息子、武士の発生から幕末まで、武士政権について幅広く勉強しているので、歴史研究最前線の話を聞きながらドラマを見るのが楽しみです。
 去年の「江」は、ずいぶんと「歴史離れ」の超ストーリーがあったけれど、「これは、歴史ファンタジー」と割り切って見れば、それなりに面白い。江が家康といっしょに伊賀越えしたときなんぞも「ドひゃー、いっしょに行っちゃったよ」といいながら見ていました。
 『平清盛』も、平安末乱世の歴史ファンタジーとして楽しもうと思います。
 
 娘は「みんなでストーリーや役者についてワイワイしゃべりながら見るのが好き」というタイプなので、ワイワイしながら見ています。でも、歴史モノで、歴史的に知られていることだからといって、ストーリーに関わりそうなことを先走って話すのは御法度。「先の楽しみがなくなるじゃないの」と、娘に叱られます。

 『江』のときは、主人公の江が二度目の夫秀勝との間にもうけた「完子(さだこ)」が九条家に嫁ぎ、生まれた子孫は九条節子(くじょうさだこ)(貞明皇后・昭和天皇の母)まで続いている、ということを話したら、不評でした。私としては、徳川に嫁いだあとのことは、ストーリーに絡むだろうから、江の末娘和子が後水尾天皇の后になることはしゃべっちゃならないけれど、完子のことまでドラマでは扱わないだろうと思ってしゃべったのですが、「おサダの将来はどうなるんだろう、と心配しながら見たかったのに」と、おこられた。
 「清盛」でも、ストーリー展開がわかるようなことはしゃべってはいけない、と釘を刺されています。

 娘は、日本史に関して、「中学2年生の社会科で、縄文時代から奈良の大仏が出来上がるところまでは学校で勉強したけれど、そのあとは不登校になったので、ぜんぜん知らない。あとのことでわかるのは、高校の『現代社会』でやったことだけ。私の日本史は、大仏さんができたら、ぽんとタイムスリップして、次は明治維新」と言っています。
 
 ドラマの一番よい楽しみ方は。
 歴史モノも最初からストーリーを楽しみ、「那須与一が、扇の的、ほんとうに射落とせるかしらとか、ドキドキしながら見る」というのが、幸福な見方なのかもしれません。まあ、たいていは射落とせるだろうと思いますし、壇ノ浦で平家が滅亡しないことはない、と思いますけど。

<つづく>
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2012年01月14日


ぽかぽか春庭「イケメンを追っかける」
2012/01/14
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(3)イケメンを追っかける

 『源義経』のタッキーやら、今年の『平清盛』源頼朝役の岡田将生やら、アイドルイケメンの成長を楽しむのも、ドラマの見方のひとつ。見ているだけで「私が育てた」感を楽しめます。岡田将生、私が初めて見たのは、『天然コケッコー』の転校生役かな。これからどんなふうに伸びていくのか、楽しみです。

 祇園女御役では浮いていた松田聖子、アイドルとして初めてテレビで見たときは、とてもかわいかった。でも、これほど長く芸能界でやっていける才能とは思いませんでした。「ぶりっこ」で通る年齢を過ぎたら、しぼんでいくだろうかと思っていたのです。私の芸能界予想はいつもはずれます。

 「先見の明」がある人、映画でもドラマでも小説でも、見巧者はブレーク前に才能を見つけていて、ブレークしたあとには自分がその才能を見いだしてやったような喜びを感じるのだそうですが、私ときたら、まったくそういう「ブレーク前」のぴかぴかの才能を見つける能がありません。

 2005年2006年に、AKB48について秋元康が語るのを聞いたときも、「あらら、モー娘。二番煎じにしか見えないなあ。これは売れない。さすがの秋元康も今度は早期撤退か」と思っているうち、あれよあれよとブレーク。2011年末には、レコード大賞まで取るなんて、5年前にはまったく予想もできませんでした。

 これから大きくなるタレントを見いだす能はない春庭、藤本隆宏も、『坂の上の雲』の広瀬中佐役でブレークしてから「あら、この人、水泳キャリア、すごいね」と、気づきました。バルセロナ五輪競泳個人メドレー400m8位入賞。日本記録保持者です。
 コアファンは、2000年の帝劇『エリザベート』初演時の革命家シュテファン役から注目し、追っかけているのに、私、めったに舞台は見ないから(美術館と違って、劇場の招待券はほとんど手に入らないので)、藤本隆宏、『坂の上の雲』に出るまで知りませんでした。
 1月8日の放送では、『平清盛』に、まだ藤本は登場していませんでした。藤本隆宏は、清盛の侍大将伊藤忠清を演じます。

 藤本隆宏が役者を志したのは、25歳。遅いスタートでした。
 それ以前、6歳から25歳までは、水泳一筋でした。高校、早稲田大学在学中は一日に20km以上も泳ぐ、プール漬けの毎日。1988年ソウルオリンピック、競泳個人メドレーに出場。1992年バルセロナオリンピックでは、200m個人メドレー 8位入賞。400m個人メドレーの4分20秒07という日本記録は、1989年から11年間も破られなかった大記録でした。

 競泳選手をやめた藤本は、劇団四季の入団オーディションに合格しました。チョイ役からはじめて着実に実力をつけ、ミュージカル俳優として舞台で経験を重ねてきました。連続テレビドラマは、広瀬武夫役がはじめての出演でした。

 藤本隆宏、2009年の年末放映の『坂の上の雲』に広瀬武夫役で出演し、ロシア美人とのダンスシーンもすてきでした。藤本はこの広瀬役でブレークし、40歳をすぎて全国区になりました。舞台役者、ミュージカル役者としては知られていたのでしょうけれど、ミュージカルの舞台など見るお金がない私、『坂の上の雲』に出るまで、ぜんぜん知りませんでした。

 「Jin -仁」、完結編(2011年4~6月放送)も毎回見ていました。藤本隆宏は、西郷吉之助役で出演。西郷役ではあまり台詞はありませんでした。でも、これまで西郷隆盛を演じてきた役者のなかで、黙って座っていても絵になり、西郷の持つ人間的な豊かさと大きさを表現できていたと思います。西郷の雰囲気を出すために、20kg体重を増やしたのだとか。次回も藤本おっかけについて。

<つづく>
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春庭十二単日記2012年1月後半

2012-01-20 08:05:00 | 日記
2012/01/17
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(5)テレビに浸かる

 いろんな楽しみを見いだしている若い世代に比べ、私は、テレビが娯楽の王様だった時代に育った者であり「一億総白痴化」と揶揄された世代で、いまだに「家族そろっての娯楽はテレビ」という「三丁目の夕日」型の習慣を守っているわが家です。一家四人、昭和生まれですし、全員、時代の波には乗れない方。
 正月は箱根駅でのテレビ応援で盛り上がりました。うちのテレビスポーツ観戦は、冬はフィギュアスケートと駅伝、マラソン。夏は競泳を見るのがメインです。

 家族みな、チームプレイは苦手なので、サッカーや野球などは、ワールドカップとかオリンピック決勝など以外はあまり見ませんが、今年はロンドンオリンピックもあるので、夏休みはテレビ漬けかも。私は、フィギュア男子フリーも水泳も、応援ポイントは「イケメンかどうか!」です。

 イケメンの定義はそれぞれで、好みは異なるけど、「腐女子」方面には疎い私も、ボーイズラブ系美少年は好きです。ジャニーズ系もフィギュアスケート美少年もイイワァ。
 フィギュアスケートのジョニー・ウイアー。世界中にファンクラブがあり、世界各地のスケート大会中継で「ジョニ~、こっち向いてぇ~」という日本語の叫び声が聞こえるのも、さもありなんと思っていたけれど、この子はほんとにボーイズラブ系だよな、と思っていた。

 ロシア好きで知られるジョニー、2012年1月、同性婚が法的に認められているニューヨークで、ロシア系の男性と結婚したと報道されました。ジョニー、おめでとう!!
 (NYでは、2011年7月に同性婚承認の法案成立)
 子どもの頃からのロシア好きという好みが、こういう形で人生に結びつくってのも、人生いろいろです。相手の男性は、1歳年上の28歳。法律関係の人というヴィクター・ボロノフ。ジョニーにとって「ずっと探していた理想の男性」なんだそうで、めでたしめでたし。私だって理想の男性を探したけれど、結果は、、、、人それぞれですね。

 日本は、スポーツ選手や芸能人に多いというセクシャルマイノリティも、なかなかカミングアウトできない環境です。人気が仕事に直結してしまう芸能人だとそうもいかない場合があるのでしょうが、スポーツ選手はどんな成績を残すかがすべてなのですから、偽装結婚なんぞしないで、ジョニーのように堂々と人生を開いてほしいです。
 藤本隆宏も、水泳選手から芸能界への転身という選択を貫いたように、これからも自分自身を貫いてほしいです。

 競泳の解説者かキャスターとして藤本隆宏が出たら、いっそう観戦に熱が入るのにな。競泳の中継をとった局、お願いします。藤本は「BS朝日テレビ2007、2009世界水泳」で「解説者」として、出演したことがあります。ロンドン競泳ではメインキャスターになってほしい。 

 NHK大河ドラマのほか、毎期、わが家は週に4、5本の連続ドラマを見ます。ドラマを選ぶのは、チャンネル権を手放さない娘。去年は、『それでも生きている』『家政婦のミタ』などを見ました。録画し、CMは飛ばしながら見る、という視聴習慣が続いています。今期、見ると決めたイケメンは、月曜日松本潤&瑛太。木曜日山ピーと岡田将生、金曜日松岡昌宏、土曜日山田涼介、日曜日松山ケンイチと本木雅弘。
 NHKBSなどで日本映画史の傑作がまだまだ続けて放映されるのも楽しみ。

 「西欧知識人家庭では、テレビ好きは知性が低いっていう評価をするらしいから、留学生の前であんまりテレビが好きって言わないほうがいいよ」とは言われているのだけど、日本のテレビドラマとアニメは、日本の文化です。西欧知識人にどう思われようと、今年もテレビドラマを見てイケメンにうっとりしますし、Qサマなんぞのクイズ番組見て、へぇと思った解答をすぐに忘れて、「ナイナイごち」とか「帰れま10」とか料理食べる系バラエティ見て美味そうだの高いだの言って、「運動神経ない芸人」なんぞを見て笑って、「ザ・マンザイ」見て「シンスケいなくても、日本のお笑い界なんとかなりそう」と思ったり、テレビウォッチングも忙しい。ほんと知性低いって評価されそうなラインナップだけど、いいさ、遊びをせんとや生まれたんだから。

<つづく>
08:08 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2012年01月18日


ぽかぽか春庭「世界の文化を楽しむ」
2012/01/18
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(6)世界の文化を楽しむ

 「遊びをせんとや生まれけむ」の春庭ながら、仕事はまじめにこなしております。といっても、仕事でも楽しむことは忘れておりません。
 1月6日に、留学生初級日本語クラス、新年最初の授業で、春庭クラス恒例の「Show & Tell」をしました。それぞれの国の文化について、ものを示しながら、日本語で説明をする、という授業です。

 トルコの学生は、世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」の写真を見せていっしょうけんめい説明しました。ヒエラポリスは、古代の都市名。2世紀頃のローマ帝国の遺跡があります。パムッカレとはトルコ語で「綿」という意味だそうです。綿のような白い岩が不思議な景観を作り上げています。石灰華段丘からなる丘陵地。
http://labaq.com/archives/51296331.html

 しかし、「その白いのは、ほんとうの綿ですか」という他の学生からの質問に、トルコのネブさんは、「いいえ、綿じゃありません」「saltですか」「いいえ、塩ではありません」と言ったものの、日本語の「石灰岩」という単語を知らず、「Caveにも同じのがあります」と言ってあとが続かなかった。彼の言うCaveとは、鍾乳洞のことを言っているのだという見当はついたのだけれど、私は、鍾乳洞Stalactite caveという単語も、「炭酸カルシウム」「石灰」というのを英語でなんていうのかも忘れてしまい、説明できませんでした。

 タイの学生は、ドリアンについて説明し、フライドドリアンチップスをクラスの皆に配って試食。インドネシアのダーさんは、アンクルンを借りてきて、どのような楽器か、音を出しながら説明しました。私も久しぶりにアンクルンのひとつを鳴らしてみました。
 アンクルンの演奏で「上を向いて歩こう」
http://www.youtube.com/watch?v=KCm23TZhiFQ

 インドネシア男子学生は、バティック染めのシャツを見せながら伝統のろうけつ染めを紹介しました。きちんと発表原稿を作ってきたワンさんは、メモを見ながら「バティック(ジャワ更紗)というのは、インドネシア語で、"点"を意味する、tik,titikと、"沢山"を意味するbayaから合成されたてbatikということばになりました」と教えてくれました。ろうけつ染めの蝋を垂らす点。それがたくさんつらなって、模様を描き出す。へぇ、バティックはいろいろ見てきたけれど、語源は知らなかった。早速メモ、メモ。
 手書き手染め、型プリント機械染めなど、いろいろな「バティック」があります。ジャワ島、カリマンタン島など、島ごとに異なる独自の模様があることも説明してくれました。

 中国のリーさんは、中国大晦日の飾り文字「福」の字をなぜ逆さまにして飾るのか説明。
「福がやってくる」という意味の中国語「福到来」と「福が倒れた」という意味の「福倒了」は、似た発音になるため、福を倒して逆さまにしておけば、福がやってくる、と中国人は考える、という発表でした。
 このことは、私も中国に行ったときに聞いていたので、他の国の留学生に補足説明。ようは、発音が同じということによる掛詞、シャレのわけで、日本にも同じような言葉遊びや修辞法があることを教えました。

 最後に私からのShow & Tell。祝い袋とお年玉袋を見せて、日本人がお金をプレゼントするときの習慣について説明。次に、日本語も「福到来」と同じように、シャレが好きです、と話し、御縁と五円は同じ発音だと、説明しました。そして、お年玉袋にリボンを結んだ五円玉を入れて、「これで、私とみなさんのゴエンがつながりました」と、全員にプレゼント。日本語でじょうずに話せたことのご褒美をあげてShow & Tellの授業をおひらきにしました。

 今年もたくさんの留学生といろいろなゴエンが結ばれ、いろいろな言葉を得ることができるだろうと楽しみです。
 あなたとのゴエンも続きますように。あ、私にプレゼントしてくださるなら、五円玉でなく、五万ドルほど用立てていただけると、ありがたい。アハッ、インドネシアの五万ルピアなら、貸してくださると。でも、五万ルピアだと500円玉一個分。これではバティックのシャツも買えませぬ。

 とにもかくにも、福が到来しますように。2012年は、1月23日が旧暦の元日です。

<つづく>
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2012年01月20日


ぽかぽか春庭「写真美術館散歩」
2012/01/20
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(7)写真美術館散歩

 私の散歩、長い距離動き回るときは自転車散歩です。去年は、水元公園まで2時間かけて自転車で走り、菖蒲を見てきました。電車で出かけて、公園や庭園を散歩するのも好き。今年もバラやツツジ、紫陽花、菖蒲、あちこちの花を見て歩くつもりです。美術館散歩、博物館散歩は、招待券が手に入り次第なので、いつどこに行くとも決まっていません。

 1月2日、東京写真美術館へ。箱根駅伝を往路ゴールを見てから出かけ、6時の閉館まで、楽しく歩きました。正月2日の写真美術館は、どのフロアも無料公開です。無料、大好き。

 3F「ストリート・ライフ ヨーロッパを見つめた7人の写真家たち」。イギリス、ドイツ、フランスで19世紀後半から20世紀前半に展開した社会記録写真(ソーシャル・ドキュメンタリー)を展示。写真家たちは、町に出て、産業革命後の急激なヨーロッパの変化を写し取りました。写真そのものが過渡期の技術であり、さまざまな技法が試みられた中、トーマス・アナン、ジョン・トムソン、ビル・ブラント、ブラッサイ、ウジェーヌ・アジェ、アウグスト・ザンダー、ハインリッヒ・ツィレらが、消えゆく街角、貧民街の生活風景など、失われていく歴史の一コマを記録しました。
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1448.html

 ヨーロッパの街の表情、そして人々のようす。なにげない街角の記録が、激動の時代の歴史をしっかりと表現していることに心惹かれました。

 2F「日本の新進作家展vol.10写真の飛躍」
 私にはわからない様々な撮影技術現像技術を駆使して、写真の新しい表現をしている若い写真作家たち。多重露光、露出、コラージュなどの技法。ロビーのテレビモニターでは、出品作家のうち一番若い1982年生まれの西野壮平が、写真によるコラージュ作品を完成させるまでを録画し、流していました。都市をうつした写真を大きな画面に並べていき、ひとつの都市のイメージコラージュを作り上げるという作品です。モノクロで写した都市の写真。それを並べて「Diorama Map」を作り上げる。
 今回の展示作品とは違うものだけれど、こんな作品
http://web.canon.jp/scsa/newcosmos/gallery/2005/sohei_nishino/index.html
 
 B1F「映像をめぐる冒険vol.4見えない世界のみつめ方」
 出品作家の鳴川肇さんが会場にいて、自作の「地球儀と同じ縮尺で正確な面積のまま標示される平面地図」の作成方法について、説明していました。「AuthaGraph World Map」という投影技法で、球体から多面体へ、多面体から正四角錐へと地図を投影していき、正四角錐を展開すると、縮尺がゆがまない地図ができあがる、という方法です。一般の地図のメルカトル図法などだと、極地に近づくほど面積が大きくなってしまう欠点がありますが、それを是正する画期的な平面地図です。

 私たちが住む地球の姿への意識のありよう。天動説であったころから、地動説へ。20世紀後半から、衛星写真、月から捉えた地球の写真などで、地球が青い星だというイメージは、完全に人々の脳裏に埋め込まれたのだけれど、それまでの人類のイメージの形成で、どのように地球が捉えられてきたか、天動説の本などが展示されていました。

 1969年に、アポロ11号によって撮影された「地球の出」の写真。私たちがほんとうに丸いひとつの星の上に住んでいることを強烈に印象づけた1枚の写真でした。
 「見ること」は、写真を撮ることや絵を描くことに比べ受動的に感じられるかも知れません。でも、「見る」という行為の能動性は、人間の心理をそっくり変えてしまうくらい強いものでもあります。

 今年は上野の東京都美術館がリニューアルオープンするし、美術館歩き、いろいろ楽しめそうです。次回から東京国立博物館「清明上河図」にたどり着くまでの4時間待ちについて。
 
<つづく>
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2012年01月21日


ぽかぽか春庭「博物館で列に並ぶ」
2012/01/21
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(8)博物館で列に並ぶ

 たいていの場合、美術館を歩くのは招待券をもらったときに限る。自分でお金を出して入館料払うのは、よほどのとき。で、正月2日から公開の「清明上河図」を見ようかどうか迷っていたのも、招待券が手に入れられそうにないので、さて、1500円という私にしてみれば高いチケットを買うかどうか迷った10日間。えい、清水の舞台、、、、、というほどは高くないが、2階の屋根くらいから飛び降りて、チケット購入。買ったからには朝早くから夕方までたっぷり時間をとって見ようと、13日金曜日の朝、9時半には家を出ました。この日は、センター試験準備日休講で、平日に休みがとれ、平日だから空いているかも、と思って出かけたのです。

 ところが、10時開館と思った東京国立博物館は9時半にオープンしていて、10時ちょいすぎに正門に着いたときには、すでに長い列が平成館から本館前まで伸びていました。
 平日の10時だというのに、世の中、こんなにも閑そうなじいさんばあさんがいるんだ!と感心する。

 若い人はほとんど見かけない。そりゃそうね。働いているか学校へ行っているか。ヒマなのは爺さん婆さん。たまに白いダウンやら煉瓦色のコートがいるけれど、爺さん婆さん達は、黒っぽいコートやらダークグレイ、焦げ茶などが多いので、全体的に黒々とした列で、冬の寒さがいっそう増す気がする。そういう私も、ユニクロの黒いウルトラライトダウンの上に焦げ茶のコートを重ね着するという完全防備の冬支度バーサンです。このユニクロウルトラライトダウン、電車の一車両に5人は見かける。私は去年買えなくて、元日の特売で買いました。くすん、また柳井正を儲けさせてしまった。

 「平成館の入り口に達するまで50分待ち。入館したあと、「清明上河図」の前にたどり着くまでには、さらに180分待ち」と、列をさばく係の看板に書いてあります。どうしようかと迷いました。いつもなら「こんなに混んでいるんなら、別の日にまた来よう」とか思うところですが、なにせ、1500円払ってしまったので、「これをムダにしてなるものか」と、貧乏性が言う。はい、おとなしく並びました。3時間。

 平成館に入るまで40分。このときはバッグに入っていた山田風太郎の『あと千回の晩飯』を読んでいました。面白い。でも、もう後半ですから、2時間もたたないうちに読み終わりそう。読み終わっちゃったら、あとの時間、どうやってヒマ潰そうか。夫婦連れは仲よさそうに語り合っているし、友達と二人連れのおばちゃん組は賑やかにおしゃべりしている。こういうとき、おひとり様は本がないと困ってしまう。列に並んでいる人のウォッチングも3時間も続けたら飽きてしまう。
 列が動いたので、読み終わりそうな文庫をバッグにしまって入館し、「清明上河図」観覧の列に加わりました。

 北京の故宮博物院に行ったことあるけれど、「清明上河図」は、中国の人だってめったに見ることが出来ない秘宝中の秘宝。これを逃したら、一生のうちに見ることができないだろうと思うから、おとなしく並びました。
 1階ラウンジに2人ずつ並ぶという列、私はひとりだから、もう一人70代くらいの白髪の女性と組になりました。
 私が文庫本を読んでいると、彼女は小さなスケッチブックに、スケッチをしている。列の移動のとき、ちらっと覗くと、ささっと書いているけれどなかなかうまい。「お上手ですね、絵をやっていらっしゃるんですか」と声をかけてみたところ、それから怒濤の彼女のおしゃべりが続き、3時間飽きることなく列に並んでいられました。

<つづく>
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2012年01月22日


ぽかぽか春庭「博物館で待ち続ける」
2012/01/22
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(9)博物館で待ち続ける

 清明上河図を見るための、3時間待ちの列。
 いっしょに並ぶ70代とお見受けした女性、見学待ち行列に並んで、おしゃべりが続きました。「あのね、私、八王子市の絵画教室に入って水墨画習ってるの。初級中級ときて、上級はもう2回くりかえしたんだけれど、毎回教室の人気が高くて抽選だから、もう、応募しても、初めての人が優勢みたいで、はずれちゃったの。中国から来たとてもすばらしい先生で、リー先生、ムサビでも教えているの。こうやってこんなふうに身体使って筆動かすので、そりゃもうすばらしい絵なんです」と、先生自慢をする。

 「そうですか。私も中国に行っていたころずいぶん水墨画も見ましたけれど、故宮博物院でも清明上河図は展示していなかったので、今回はとても期待して見にきました。ご自身で水墨画習っていらっしゃるなら、私のような素人とは違って、深い見方がおできになるでしょうから、いろいろ教えていただきたいです」と、話を向ける。
 彼女が名前と電話番号のメモをくれたので、私も名刺を渡しました。Oさんというお名前。

 Oさんは「ほら、これは、私の絵に5歳の孫が色をつけたんですけれど、とても色づかいがいいでしょう」と、別のスケッチブックを開いた。「あら、お上手ですね、お孫さん、絵がお好きなら、先が楽しみですね」と、見せてもらう。
 純真なこどものころは伸びやかな線を描き、こだわりのない色づかいができるのに、大人になると自由な絵心が消えてしまう、など、彼女の話が続きます。彼女の娘さんは西日暮里に住んでいて、上野に来るときなどは娘の家で一泊し、それから美術館巡りをするのだそうです。

 「もう、私、認知症が始まったみたいなので、、、、」とOさんが言うので、「そんなことないでしょう、しっかりお話なさっているし、こうして元気に絵を見たり描いたりなさっているのですもの。私のほうこそ、物忘れが多くて、今日も東博は9時半オープンっていうのを忘れちゃって、ほかの美術館のように10時オープンだと思って来たら、この行列だもの、ちゃんと開館時間を覚えていなかったこっちが悪いんですけど」
 長い待ち時間でしたが、彼女はしゃべりっぱなし。

 Oさんは、1937(昭和12)年生まれというので、今は75歳。小柄な身体ですが、元気いっぱいに見えます。
 「すっと仕事を持っていたんですけど、娘がね、年をとったらいつまでも仕事していないで、好きなことだけしたほうがいいって勧めてくれたので、こうして美術館に来たりしているんです」
 「いいですねぇ、私はまだまだ仕事を続けなければ食べていけないので。今日はたまたま休みになってので、平日に来られたけれど、平日で3時間待ちなら、土日はもっとすごいでしょうね」

 彼女は若い頃、絵を志していたけれど、結婚後は絵はあきらめて、家事育児のほか、時間にしばられずに仕事ができるフリーの速記者として雑誌のインタビュー速記をしていたのだそうです。「速記1級なんて、すごいじゃないですか。私の夫、新聞記者の仕事に必要だろうからって速記を習ったって言っていましたけれど、2級とるのがせいいっぱいで、1級はよほどすごい人じゃないと合格しないって言っていましたよ」

 速記1級がむずかしい専門職なのだ、ということを知っている人間に出会えて気分よくしたとみえ、速記者時代の話を続けてしてくれました。
 
<つづく>
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2012年01月24日


ぽかぽか春庭「無限ループ話を聞く」
2012/01/24
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(10)無限ループ話を聞く

 Oさんが尋ねるので、私が読んでいた文庫は山田風太郎のエッセイだと言うと、「あら、その作家は知らないけれど、私、作家に会ったことあるわ。ほら、日本沈没とかの、あら、誰だったかしら」「日本沈没は小松左京だと思いますけど。昨年亡くなりましたよね」「そうそう、その人。私会ったことあるのよ。雑誌の仕事でインタビューに行ったの。話の内容は全部忘れたけれど、つりズボンのベルトのところをこうやって伸ばして話していたの覚えているわ」と、「私が会った有名人」シリーズがはじまりました。

 「あと、あの人、だれだっけ、芸術は爆発だ、の人」「岡本太郎ですか」「そうそう、あの人の講演会にも行ったわ。若い女の人といっしょにいたっけ」「その人はたぶん、岡本敏子さんでしょうね」「そうそう、思い出した。お母さんたち相手の講演会で、岡本太郎さんは、子どもは子どもの気持ちのままに自由に絵を描けばいいって言ってた」
 そのほか、大江健三郎や松下幸之助のインタビューも速記記録したとのこと。

 「松下さんはね、四畳半で奥さんと明日食べる米がないって泣いていたこともあるってお話してました」というので、「ええ、私も『神様の女房』ってドラマ見ましたよ。常盤貴子が松下むめのやってましたね」
 「そうそう、女優さんにもいろいろ会った。女優の三田佳子は芸能人には珍しく、時間をきちんと守る人だったわ。高千穂ひずるはプロ野球関係の人がおとうさんだったわね、色の白い人でした。山本富士子はね、一番ツンとした人でした」

 速記者としてインタビューに立ち会ってきたけれど、速記録を文字に起こして、雑誌社に送ればそれで仕事は終わりなので、記録も何もとっていないといいます。「あら、もったいない。会った方達の印象を一行の記録でもいいから、お孫さんに残しておあげになったらよろしいじゃありませんか」と話す。

 「清明上河図」の展示室が見えてきて、180分待ちの列もようやく終わりになると思った頃、「やっと清明上河図に対面できますね」と私が言うと、彼女の話は「あのね、私、八王子市の絵画教室に入って水墨画習っているの。初級中級ときて、上級はもう2回くりかえしたんだけれど、毎回教室の人気が高くてね。抽選だから、初めての人が優先みたいで、私は、はずれちゃったの。中国から来たとてもすばらしい先生で、ムサビでも教えているんだけど、リー先生、こうやってこんなふうに子どもみたいに自由に身体使って筆動かして、、そりゃもうすばらしい絵なんです」と、列に並び始めたころの話題にループしました。
 それまでたびたび「私、認知症もはじまっていて」というのを、「元気なお年寄りジョーク」だと思っていたのですが、まさか、話が最初に戻るとは。

 「うちの5歳になる孫、私のスケッチに色を塗ってくれるんですけど、この色づかいは、大人にはとても出せないもので、、、、」と、孫の自慢話もループ。
 おお、これがお年寄りの無限ループ話か。

 どこかの老人ホームへ行って傾聴ボランティアしようかしら、なんて、気軽に考えたことを反省しました。同じ話が2度繰り返されただけでびっくりしているんだもの。4度でも5度でもにこやかに相づちをうって同じ話を聞くというボランティアは、とてもできそうにない。年寄りの無限ループ話を傾聴するのは、姑の昔話だけにしておいたほうがよさそうです。

<つづく>
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2012年01月25日


ぽかぽか春庭「清明上河図を見る」
2012/01/25
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(11)清明上河図を見る

 東博平成館2階の第2展示室。中に入ると、まだまだ列はぎっしり続く。拡大された清明上河図が貼ってある壁に沿ってのろのろ進む。係員はひっきりなしに「立ち止まらないでください。一歩ずつ前へ進んで下さい」と声を張り上げています。

 拡大図を見ながら、いっしょに列に並んだOさんと「すごい筆使いですね」と、そろそろと進みました。清明上河図の拡大絵が見えるようになったら、Oさんの話は「上河図」のことになったので、無限ループかと思った思い出話が終わって、ちょっとほっとしました。
 
 本物を見る前に、拡大図で細かいところまでよくわかって面白かったです。図版ではあまりよくわからないところも、細々と見て取れました。
 いよいよガラスケースに入った清明上河図の本物。
 私は館内係員が「前の方に続いて、一歩ずつおすすみください」とガナるので、前の人に続いてすすみましたが、私の後ろにいるはずのOさんは、すすもうとせず、私とOさんの間に隙間ができました。振り返ってOさんを見ると、涙ぐんでいます。

 ずっと見たいと願っていた絵を見ることができて、もうこの絵を見るのはこれで最後かもしれない、そんな感慨いっぱいの目でした。間がどんどん開いても、Oさんは前にすすもうとしないので、私はOさんから離れて、一足先に展示会場を出ました。Oさん、係員に追い立てられるまで、見入っていたことでしょう。
 会場を一歩出てしまうと逆行はできず、もう一度見たい人は、1階ロビーの待ち列最後尾に行ってくださいとのこと。さすがに、もう一度3時間も待つ気にはなれない。

 Oさん、もう会うことはないのでしょうね。「昔のことは思い出すけれど、きのう今日のことはすぐ忘れちゃうのよ」と言っていたとおりに、私と会っておしゃべりしたことも、明日には忘れてしまうのでしょう。明日は明日で、Oさんは出会った人に無限ループで孫の話をしているのかも。

 ケースの中の絵をじっくり見ることもできずに、追い立てられるように会場を出てしまい、3時間待って、絵を見ていられた時間は10分ほどです。
 「清明上河図」本物を見た、という感慨だけ残して、絵の細かいところは、図版でもう一度見ようと、図録購入。2500円。入場料の1500円とあわせて4000円。一日の行楽費としては、私としては大盤振る舞いです。まあ、まだ正月気分ということで、自分にお年玉。

 第2展示室の書をざっと見て出ると、2時になっていました。朝ご飯食べずに来たので、さすがにおなかがすきました。休館中の東洋館にある精養軒のレストランで「広島牡蠣フライ定食」1300円を食べてから、ふたたび平成館へ。
 朝方は180分待ちの看板が出ていましたが、午後は210分待ちの標示。みんなそんなに清明上河図が見たいのか、と、思ったら、1月8日の朝、日曜美術館で特集が組まれ紹介されたところだったのだそうです。善男善女は、テレビで紹介されれば、押すな押すなで列に並ぶ。まあ、私も並んだ「ヒマそーなバーサン」のひとりです。これなら、1500円のチケットに躊躇せず、1月5日見ればよかった。5日は、世間では仕事が始まっていて、私はまだ冬休みだったから。平日に見ることができて、ジーサンバーサンたちは、テレビを見て押しかける前で、13日ほどは混んでいなかったろう。

 第2展示室の「故宮博物院の至宝」を見ました。清王朝第6代皇帝乾隆帝(けんりゅうてい、1711-1799)の遺物などを中心に、皇帝衣装や宝物が並んでいます。『蒼穹の昴』を去年見たところだし、興味深く見てまわりました。

 「清明上河図」一生に一度かも知れず、見ることができてよかったです。お話をきかせてくださった元速記者、八王子のOさんにも、出会えて良かったです。
 これからも美術館博物館散歩、絵との出会い、人との出会いを楽しみにして歩きまわります。

<つづく>
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2012年01月27日


ぽかぽか春庭「ことばを知る」
2012/01/27
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(12)ことばを知る

 春庭の言語文化トリビア知識。あれこれ気づいてそのときは「おもしろ~い」と思うのですが、知ったそばから忘れてしまうので、また同じこと知るとまた「おもしろ~い」と何度でも楽しめます。今年最初のことばの新知識。忘れないうちにメモしておきます。

 日本語の音読み、訓読みについて。
 日本には「yama」という言葉があり、同じ意味を表す中国の文字「山」が伝えられたとき、「san」という古代中国(南方地方の呉)の発音とともに、日本語の意味を表す「yama」とも発音することにした。これが訓読み。「花」は、Kaという古代中国発音と同じ意味の日本語、hanaとも発音する。(現代中国語では山はshan、花はfaと発音)。

 「紙」という文字の音読みは「シ」。訓読みは「カミ」と教わったので、留学生の漢字教育でもそのように説明してきました。しかし、中西進『日本文学と漢詩』を読んだら、中西は違う説明をしていました。
 カミKamiは、中国語「Kam」が、日本的な発音に変化したもの、というのが中西説。すなわち、訓読みのように見える「かみ」も、もとは中国語由来の発音だ、というのです。
 「紙」は、音読みはシ。中国では、文字を書く媒体を「簡kam」と表記した。同じ文字を書く媒体として輸入された紙も、日本では同様にkamと認識された。

 以下、春庭の補足。
 紙が発明される前は、インドではバイタラヨウの葉の表面をとがったもので傷をつけて文字を表し、中国でも最初は骨、継いで竹を薄く切ったものや木の皮などに文字を書き付けていました。
 kamとは、漢字で書けば「簡」であり、文字を書くために、竹を薄く切って並べたもの。竹と竹を繋いで、間に隙間がある。それが「竹プラス間=簡」

 古代の日本には文字がなく、それを書き付けるための木の皮も竹の薄片も必要なかった。大陸または半島から、日本に文字が直接入ってきたのは、金印を受けた九州の「倭の奴国王」や卑弥呼のころ。古墳時代になると、呪符としての文字が太刀や道鏡、土器などに刻まれるようになった、つまり土器の表面をひっかいて(かいて)文字の形を刻んだ。けれど、日本語として刻まれたのではなく、あくまでも呪力を持つ記号として。

 日本で初めて文字が刻まれたとき、それは土器に棒か何かのとがったもので、土器の表面をひっかいたものであったろう。だから、「かく」という語は、もともと「ひっかく、とがったもので傷をつけて印づける」ことであったろう。

 文字を書く媒体として「簡」が大陸からもたらされたとき、日本には文字を書くための媒体はなく、それを表すことばもなかったから、そのまま取り入れ「kam」という発音が伝わりました。しかし、日本語は開音節(必ず母音で終わる発音)であるため、kaは発音できるが、古代の人はmを単独の音として発音できず、iを付け加えてKamiとなった。

 以上が、Kamiと言う語の由来、中西進説。
 まとめると、「もともと日本には、簡も紙もなかった。簡が輸入されたとき、kamがkamiになって日本語に定着した。紙が輸入されたとき、書記媒体という意味から、同じようにkamiと発音した」。

 モノが外国から入ってきたとき、外来の語がそのまま日本語になるのは、今も同じ。テレビジョンは、電波映像受像器という翻訳漢語ではなく、日本人に発音しやすいように「テレビ」として受け入れ、パーソナル・コンピュータは、「個人用電気高速演算機」と漢語翻訳せず発音しやすい「パソコン」となる。(中国語は「个人电脑gèrén diànnǎo 」と翻訳した)。

 「紙カミ」は、もともと中国語、という中西の説、腑に落ちました。

<つづく>
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2012年01月28日


ぽかぽか春庭「ことばを楽しむ」
2012/01/28
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(13)ことばを楽しむ

 中西進は、日本には文字がなかったのだから、書かれた文章もなかったと考えました。中国語「文」が文字を連ねてまとまった事柄を表すものとして日本に輸入されたとき、文bumが日本語的発音になったものが文fumiだというのが中西説。

 以下、春庭補足。中国語の「文bum」が輸入されたとき、古代日本語の発音でpumとして取り入れ、mは単独発音できないので母音を付け加えpumiとなった。pの発音は奈良時代以後、fの発音に変化したのでfumi。
 m、b、pは、発音が移動し合う音です。(いずれも口唇音。samuiサムイとsabuiサブイはどちらも「寒い」を表す)。日本語では同じ「文」が古代中国語発音のままbumとも発音し、また、その変化形の「fumi」も使われているのです。(現代中国語で「文」はwenと発音します。韓国朝鮮語ではmun)。

 漢字の音読み、訓読み、このような基礎的なことでも、新しいことを知ると、とても面白く感じます。

 さて、「文fumi」には強いつもりの春庭、数字に弱い。
 漢字クイズをしていて、最後まで解けなかった熟語が「二一天作五」でした。「二一」と「作五」の間に「天」を入れるのができなかったのです。
 和語にも漢字熟語にも強いと自負していたのに、やはり、まだまだ修行が足りません。

 「二一天作の五」とは、算盤用語。
 小学校の算数授業で算盤を習ったとき、足し算引き算はなんとか覚えたのだけれど、かけ算割り算はさっぱり指も頭も動かなかった。
 だから、割り算のことばである「二一天作の五」も思い出せなかった。

 珠算での割算九九。10を2で割るとき、十の位の一の珠をはらい、桁の上の珠を一つおろして五とおく運算をしながら「二一天作の五」と唱えるのでした。
 この用語から、「物を半分ずつに分けること」や単純に「計算、勘定」のことを「じゃ、今日の飲み代は二一天作の五でいきましょうや」などと、言ったものらしい。

 今年も、忘れていたことば、新しいことば、どんなことばに出会えるでしょうか。テレビのクイズバラエティ番組をよく見ていて、そのとき知らない言葉があると、へぇ、知らなかった、と感心するのだけれど、すぐに忘れてしまう。メモをしておけばいいのに、このテレビを見終わったらメモしようと思っているうちに忘れてしまう。まあ、その程度の新知識だけれど、自分では「数字には弱いけれどことばには強い」つもりでいるので、せっせと知らない言葉をコレクションしていきたいと思います。

<つづく>
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2012年01月29日


ぽかぽか春庭「絵はがきをセッチョウする」
2012/01/29
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(15)絵はがきをセッチョウする

 子どものころ、本を読んでいたりすると夢中になってしまい、家の手伝いを忘れてしまうこともありました。私の分担は薪割りと風呂焚き。家の手伝いが疎かになったりするとよく父が「自分のことばっかりセッチョウしてないで、うちのことちゃんとやれ」と怒ったものでした。自分ではあまりこの「セッチョウする」という語を使ったことがないまま大人になり、東京ではさっぱり聞かない語になったので、群馬方言だろうと思っていましたが、確認することもないままになっていました。先日ふと気になって調べてみました。

 群馬弁と共通語彙が多い埼玉県秩父地方の方言にも「せっちょうする=世話する」という意味の語があり、関東甲信地方で使われていることがわかりました。
・千葉銚子せっちょー:いたずら。『支度』の意味もある。
・群馬・長野せっちょー:面倒、おせっかい、世話。
など。

 大辞泉、大辞林などに、古語の「せっしょうする」の語が変化したもの、折檻打擲(せっかんちょうちゃく)という語が略されたもの、という説がありました。
 「殺生せっしょう」から「せっちょう」になった、と言う説は、発音変化としてはわかるのですが、意味から言うと、ちょっと違う気もします。「こき使う→世話をする」という意味変化が起きたのかどうか。

小学館デジタル大辞泉「せっちょう(する)」:
 「せっしょう(殺生)」の音変化か。「折檻打擲(せっかんちょうちゃく)」の略とも》責め苛(さいな)むこと。こき使うこと。「ねぢ上げ、ねぢ上げ―す」〈浄・天神記〉
三省堂大辞林「せっちょう」:
 「せっしょう(殺生)」の転か〕いじめさいなむこと。また、こき使うこと。(用例)余の女郎どもを―せい/浄瑠璃・傾城酒呑童子」

 柳田国男は、方言周圏論で「方言は、古語をゆかりとするいにしえのことばの地方残存だ」と述べました。方言周圏論からいうと、「セッチョウ」も現在は方言だけれど、古語から由来している、ということになります。

 父に「自分のことばっかりセッチョウしてないで、家の手伝いを先にしろ」と叱られても、なかなか腰があがらなかったように、今、春庭は「期末の成績をつける」ことをやらなければならないのに、そちらにはなかなか取りかかれず、自分のことばっかりセッチョウしています。
 今しているのは「絵はがきセッチョウ」です。

 2011年4月から始めた、春庭アートプロジェクト「Also I'm still alive. To:青い鳥」。
 九州福岡で暮らす青い鳥ちるちるさんあてに、葉書を送り続けるシリーズです。ちるちるさんは、2008年に体調改善のための手術後、突然首から下が動かなくなるというアクシデントがあり、それ以来不自由な生活を続けています。ヘルパーさんや妹さんの介護を受けてリハビリを続け、「足の指が動いた」「左手が動いた」と、努力の毎日です。

 私には、ちるちるさんの体調がよくなるよう祈ることしかできません。祈りのひとつの形として、葉書を三日に一枚、一ヶ月に10枚送ることを始めました。
 美術館へ行っても、観光地へ行っても、「ちるちるさんに送る葉書、どれにしよう」と選ぶのが楽しみのひとつ。雑誌のグラビアや美術館のチラシなどからきれいな写真や絵を切り抜いて、手作り絵はがきをこしらえるのも、いろいろな切り取り方で楽しめます。

 絵を切り抜いて、白い紙と貼り合わせて葉書を作る時間、文を考えて、下手な字ですが、一字一字祈りを込めて書く時間、そのとき流れる時間が私とちるちるさんとの絆を綯うひとときなのだと思っています。

 はがきの文は、そのときそのときに心に浮かんだことをちゃらっと書いて、何を書いたかすぐに忘れてしまうので、もしかしたら、同じようなことを繰り返して書いている場合があるかも。
 でも、同じことを書いたとしても、それはおばあちゃんが繰り返す昔話と同じ。同じことを何度でも語りたいから何度でも書くのです。

<つづく>
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2012年01月31日


ぽかぽか春庭「絵はがきを出す」
2012/01/31
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(15)絵はがきを出す

 1月30日付けで、青い鳥ちるちるさんに送った絵はがきが100枚になりました。
 もともと「チルチルさんのリハビリがうまく進むよう、お百度踏んで、お祈りしたい」と思ったお百度踏みの代わりの絵はがきだったので、100枚で最初のお百度の目的は達成されました。これからも私なりのお百度踏みは続けて行きます。

 昨年は、毎月のテーマを決めて、たとえば、4月「花」、7月「山」8月「海」10月「紅葉」12月「クリスマス」など、時節にあった絵柄を選ぶようにしていました。今年からは、年ごとのカラーを決めて、1年の色合いを統一させた上で各月の時節にあわせた絵柄を選ぶようにして、ちょっと凝ってきました。

 今年は辰年なので、「青龍」。2012年のテーマカラーは青です。すでに、12月の分まで120枚、青を基調にした絵はがきが選んであります。来年2013巳年は「黄色」が基調。2012午年「茶とオレンジ」2015ひつじ年「緑」2016申年「赤」2017酉年「紫とピンク」2018戌年再び「青」。約800枚の絵はがきが、年ごと月ごとに10枚ずつセットになって段ボール箱に入っています。

「もう、絵はがきが2018年の分まで用意できている」と年末の葉書に書いたら、ちるちるさんは「あはは、そんなに長生きしてないよ」とメールをくれました。返信をくださって、申し訳ないです。昨日30日には、コメントもいただきました。
~~~~~~~~
投稿者:chiruchiru77 2012-01-30 19:55
はるさん、いつも、手紙ありがとう!あったか~い文章は、すごくいいです。
ほんとうに、励まされます。
手が動くようになったら、一番に何がしたい?と聞かれ、「鼻くそいじり~」と言ってたのを、妹が書き残していました。その念願が、叶いましたよ~~!!
みなさん、励ましてくださって、どうも、ありがとう!
もとに戻るまではと、必死でリハビリ がんばっています。
~~~~~~~
 ちるちるさん、手が動かせてほんとによかった。

 正月休みの間も、テレビ見ながらせっせと絵はがき作りをして、葉書はどんどん増えています。三日に1枚出しても、毎日葉書が増えますから、品切れになることはないでしょう。
 「8年間出し続ける絵はがきがある」と思うだけで、年と共に萎えがちな生きる気力が奮い立ち「これからも一生懸命生きて、ちるちるさんに毎日の報告をしなくちゃ」と思えるのです。

 2011年12月に広島大学ペスタロッチー教育省を受賞なさった高谷清さん。74歳の今日まで、重症心身障害児の治療と教育のために尽くしてこられた方です。前びわこ学園医療福祉センター草津園長。著書の『重い障害を生きるということ』(岩波新書)に書かれている言葉が新聞に紹介されていました。
 「体を自由に動かせない彼らは、人類の障害を引き受けて戦う戦士」
 尊いことばだと思います。

 体を自由に動かせない環境で一生懸命に生き、詩を作り続けるちるちるさんは、私にとって、「生きていく戦士」です。
 ちるちるさん、長生きしてね。私はせっせと駄文の葉書を送ります。ちるちるさんとの絆は、私にとっては生きる希望のひとつです。
 長生きしてくれないと困ります。10枚セットの絵葉書が、出番を待っています。

 さて、もう一人については、格別長生きを願っていたわけでもないのですが、「太く短く生きる」なんて、本人が若い頃宣言していたのとは違って、どうやらまた腐れ縁が続きそう。本日、我が不肖の連れ合い、還暦を迎えます。う~、おめでたい。

<おわり>
02:07 コメント(4) 編集 ページのトップへ
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春庭十二単日記2012年1月 目次

2012-01-15 09:31:00 | 日記
2012年1月目次

2012/01/01
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(1)しあわせ信じて
01/03 たつ年(2)カフェからの移転先
01/04 たつ年(4)記憶の地層
01/05 たつ年(3)日記to be or not to be
01/06 たつ年(5)姑のこぶto be or not to be
01/07 たつ年(6)ただの人の人生
01/08 たつ年(7)スキヤキ
01/10 たつ年(8)上を向いて歩こう

01/11 遊びをせんとや生れけむ(1)大河ドラマを見る
01/13 遊びをせんとや生れけむ(2)歴史をファンタジーとして楽しむ
01/14 遊びをせんとや生れけむ(3)イケメンを追っかける
01/15 遊びをせんとや生れけむ(4)ブレーク中の役者を応援する
01/17 遊びをせんとや生れけむ(5)テレビに浸かる 
01/18 遊びをせんとや生れけむ(6)世界の文化を知る
01/20 遊びをせんとや生れけむ(7)写真美術館散歩
01/21 遊びをせんとや生れけむ(8)博物館で待ち続ける
01/22 遊びをせんとや生れけむ(9)博物館で列に並ぶ
01/24 遊びをせんとや生れけむ(10)無限ループ話を聞く
01/25 遊びをせんとや生れけむ(11)清明上河図を見る
01/27 遊びをせんとや生れけむ(12)しむことばを知る
01/28 遊びをせんとや生れけむ(13)ことばを楽む
01/29 遊びをせんとや生れけむ(14)絵はがきをセッチョウする
01/31 遊びをせんとや生れけむ(15)絵はがきを出す

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2012/01/07

2012-01-07 15:21:00 | 日記
2012/01/07
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2012/01/03

2012-01-03 16:58:00 | 日記
1/03
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ニーハオ春庭北京故同めぐり

2011-12-10 11:37:00 | 日記
ニーハオ春庭「北京故同めぐり」
2007/09/17 月
ニーハオ春庭中国通信>北京故同めぐり

 日ごとに様子を変える中国の首都北京。
 町中で建設ラッシュです。

 故同(フートン)とは、北京の「路地」をさし、路地に集合している一般市民住宅地ひっくるめて故同と呼ばれています。
 江戸の下町のように、小さな民家がぎっしりと軒を並べる地域です。
 伝統的な「四合院」と呼ばれる邸宅を中心に、四合院と四合院をつなぐ路地が故同です。

 13年前、中国に滞在したとき、2月に北京民族飯店に宿泊し、近所を散歩しました。故同のなか、古い住宅地が続いていました。
 ところが、半年後、9月にもう一度民族飯店に宿泊したとき、民族飯店周辺の故同はそっくり取り壊されて更地になっていました。

 2008年北京オリンピックを前に、政府は「保存」をきめた場所以外の、ごみごみした故同をどんどんとりこわし、「高層住宅地」や「公共施設ビル」に立て替えています。
 政府からの召し上げとなると、一般の居住者は、いやおうもなく立ち退かされ、古い住宅はたちまち壊されるのです。
 今回も、とり壊された故同のがれきの山をたくさん見ました。

 今回私が歩き回ったのは。
 1日目は、市の中心部の天安門、故宮の東側、王府井の周辺の故同。
 2日目は、地下鉄が取り囲む区域の北半分にあたる、鼓楼と北海の周辺故同の中です。

 最近は、北京見物に上京する中国の人にも、故同巡りが人気で、観光用の輪タク(自転車タクシー)が、赤い幌の座席を自転車につないで、故同の中を走り回っています。
 一日はこの輪タクにも乗ってみようと思いますが、まず、私は自分の足で歩いてみました。バックパッカーですから。

 観光用の故同ではなく、地元の人が実際に生活している路地を、人々のおじゃまにならないように、静かに歩きたい。路地に住む友人を訪ねてきた、という雰囲気で。

 人がいない路地は写真をとりましたが、人の生活しているところを歩く場合、人が写り込むところでは、カメラはしまっておきました。
 路地で将棋をしているおやじさんたち、井戸端会議に余念のないおばさんたち。故同の普通の暮らしを、自分の目にやきつけるだけ。

 観光用の故同、おみやげ屋が店を連ねる通りも行きましたが、やはり観光用故同と普通の人々が暮らしている故同は雰囲気が違いました。

 故同の一角に人々の暮らしがあり、一角は取り壊しが始まっています。
 人が住んでいない場所だからいいだろうと思って、取り壊しが終わりがれきの山になっている故同の一角にカメラを向けたら、測量をしていたおじさんに叱られました。

 立ち退きを余儀なくされた人々のなかには、「強制的な立ち退き反対」や「立ち退き料が少なすぎる」といって、運動をしている人々もいるので、当局も「がれきの山の故同」であっても、撮影に敏感になっているのかもしれません。

故同の写真 旅行会社HPより
 http://www.chinatrip.jp/beijing/bj-midokoro/zglouhutong.htm
 
<つづく> 
00:42 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2007年09月18日


ニーハオ春庭「北京故同・共同厠所でおシリあい」
2007/09/18 火
ニーハオ春庭中国通信>北京故同・共同厠所でおシリあい

 中国四千年の歴史上、北京は、3000年前の周王朝の時代に早くも歴史の表舞台にでてきます。
 紀元前11世紀、周の封建王国のひとつ、燕の都として登場しているのです。3000年前から千年続いた都市名は「薊城(ケイジョウ)」。
 燕は、43代目の王が統治していたとき、秦の始皇帝の全国統一によって、紀元前220年に、滅ぼされました。

 その後、10世紀初めには契丹族の遼王朝の都となりました。
 12世紀には、女真族の金王朝の都、名前は中都。
 13世紀に元が中国全土を統一したときには、都市名を「大都」とし、世界的な大都市となりました。ヨーロッパからマルコポーロがやってきて住み着いたのも、この大都です。

 「故同フートン」は、元の時代、「路地で井戸を共同利用する場所」という意味を表したといい、モンゴル語で井戸を意味する“xuttuk”の音に漢字をあてはめた、という説が有力です。
 ほかにも諸説がありますが、「井戸=フートン」が「路地裏の共同住宅地」を表すという説、納得できます。

 故同には、金魚故同、炒豆故同、豆腐池故同など、個性的な名前がつけられています。
 故同の地名や四合院に興味のある方は、以下の本を参照ください。
 自分が読んでない本を紹介するのは、いつもはしないんだけど、故同に興味があって中国語読める人には参考になるだろうと思って。

『北京街巷胡同分類図志』  白宝泉 白鶴群 著 金城 2006.1 大A5平/342頁 2,340円 ( 北京城概況/北京的街道/内城和外城街道胡同命名的特点/街道胡/同的道路和四合院/北京城内街道胡同的数目和名称変革/北京城内/街道胡同名称的分類 )
http://www.cbshop.net/img2/m10720.jpg

 北京の故同、井戸は各戸にひかれた水道に変わったところもありますが、トイレが共同利用であるのは、今も変わりありません。故同の家屋では、一軒一軒の家にはトイレがなく、20mおきくらいに「公共厠所」があります。

 市内のトイレは、2008年オリンピックを前に改装が急ピッチで、13年前と比べれば、きれいなところが多くなりました。
 北京故同の町歩きをなさる方々、無料公共トイレは旅行者が使ってもいいのですが、あくまでも地域住民のためのトイレだということは念頭におくべきです。日本の公共トイレとは設置の趣旨が違うのです。

 よく、旅行者のブログなどで、「北京の共同トイレが汚かった」と書いてあるのをみることもありますが、汚いと思うなら、地域のトイレをお借りしたお礼として掃除をしてくるくらいしてもいい。「人が生活しているところを歩く」というのは、単純に観光地を見物するのとは違うのですから。

 公共厠所、男女別のドアはあるほうが多いけれど、無いところもあるし、あっても、開けっ放しのほうが多い。
 女子トイレ男子トイレとも、基本的に個室のドアはありません。これは、改修された新しいトイレも同じ。個室ドアなしが標準仕様。
 次の人が待っているときは、待っている人と顔を見合わせながら用を足す。

 ご近所同士であるならば、四方山話を続けながら、前の人が終わるのを待っています。日本の銭湯に「はだかコミュニケーション」があるなら、故同ではなんといっても「おシリあい」コミュニケーションです。

 しゃがみこみ式トイレで、のんびり世間話など交わせるようになったら、本物の北京っこといえるでしょう。私?北京っこじゃないもんで、そこまでは。
 おばあちゃんががんばって座り込んでいるなかで、ごいっしょさせてもらったけれど、「ニーハオ」しか言えなかった。トイレでは筆談というのもナンですしね。

 私が歩いていると、とある家の入り口からおっちゃんが手に新聞を持ってひとりで出てきた。あ、これは、トイレ行きだな。それも大のほうだね。
 おっちゃん、期待通りに公共厠所に入っていきました。ゆっくり新聞を読んでねっ。

<つづく>
06:01 コメント(6) 編集 ページのトップへ
2007年09月19日


ニーハオ春庭「北京故同めぐり・四合院」
2007/09/19 水
ニーハオ春庭中国通信>北京故同めぐり・四合院

 さて、故同のもともとの意味が井戸であるとして、現在の故同は「路地」を意味します。
 元朝の都・大都の道路は、幅二十四歩(約37.2m)を大街、十二歩(約18.6m)を小街、六歩(約9.3m)を胡同と区別して建設され、故同とは、幅が9.3m以下の路地をさしました。

 元朝につづく、明朝、清朝も、北京を首都とし、北京そして故同はますます発展しました。
 明時代、すでに故同に関する研究書が出版されています。
 1560年(嘉靖39年)に出版された『京师五城坊巷蘙集』は、故同に関する文献のうち、初期のものです。

 清朝の統計で故同の数は2076、中華人民共和国が成立した1949年の統計では6,000以上の故同が北京に存在していました。

 しかし、北京の発展とともに故同の取り壊しがはじまり、特に、北京オリンピックを目前にした現在では、取り壊しに急ピッチがかかっています。
 保存状態がよい伝統住宅があるため、政府によって「保存地区」と、お墨付きが得られた故同もありますが、住民の意向に関わりなく、都市計画にしたがって、どんどん取り壊しが進んでいます。

 何年か前に見た『北京バイオリン』にも、この故同の風景がありましたし、名優朱旭(「大地の子」の養父役として有名)が主演した『こころの湯』では、故同の取り壊しが大きな山場になっています。
 『故同のひまわり』は、まっき~さんご推奨ですから、皆さんもぜひ見てね。

故同写真 個人旅行ブログより
http://www.ne.jp/asahi/suzuki/yutaro/beijing99/bj990505.htm

 故同に建つ家のなかで、四合院と呼ばれる屋敷は、10世紀初めの遼王朝の時代にその基本的な建築様式が形成され、元時代には現在の様式が確立していました。
 中庭を中央に、東西南北四方に建つ家を回廊でつないだ、陰陽五行・風水にもとづいた形式のお屋敷です。

 清時代には、北京市内に四合院住宅が6000戸あるといわれていましたが、古い住宅の取り壊しが進んだ現在では、1000戸程度しか残されておらず、保存状態のよい一般住宅は数が少なくなっています。

 四合院住宅のなかで、有名人が住んでいた家は、魯迅記念館、茅盾故居、宋慶齢故居、梅蘭芳記念館、老舍記念館、郭沫若記念館など、現在は記念館・博物館として公開されています。

 13年前は梅蘭芳記念館を見ましたが、今回の故同巡りでは、宋慶齢故居、郭沫若記念館を訪問することができました。
 特に宋慶齢故居では、のんびりゆったりすごしました。気に入ったところでゆっくりすごせるのが、ひとり旅の気楽なところです。

 今回実現できなかった残念なことのひとつ。四合院に泊まりたかった。
 四合院住宅のうち、大きなものは、改装されてホテルになっているところも多い。
 この次に北京に滞在する機会があったら、ぜったいに四合院にとまりたいと思います。

 四合院ホテルの例。
 かって国民党将軍・廖耀香の旧居だったという四合院を改装したホテル
http://news.before-and-afterimages.jp/C1884801429/E20070406125631/index.html

 四合賓館HP http://www.sihehotel.com/

<つづく>
06:09 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2007年09月20日


ニーハオ春庭「北京故同めぐり・千竿五号」
2007/09/20 木
ニーハオ春庭中国通信>北京故同めぐり・千竿五号

 故同のたたずまいが画面の要になっている映画、昨日あげた『故同のひまわり』などのほかに、『故同愛歌(看車人的七月)』があります。
 モントリオール国際映画祭で審査員大賞を受賞していたそうですが、私は全然この作品の情報を知らず、単館(ポレポレ東中野)で4月に一般上映されたときはすでに中国へ行ったあとだったので見ることができませんでした。
 今はまだDVDも出ていないという間の悪さ。DVDになるのを待つしかなさそうです。

 輪タク(自転車タクシー)による北海周辺の故同めぐりで、輪タク運転手が必ず立ち寄る四合院のコースポイントのひとつが郭沫若記念館。
 郭沫若は、文学者としても政治家としても活躍した有名人です。

 郭沫若記念館の南側に、千竿故同があり、千竿故同五号の地番に、ひとつの四合院住宅が建っています。

 「明清老宅」という私邸で、地味な学者の家でした。
 明の時代に建てられ、清時代には「清朝高官、斎家」の居宅として文革時代まで、代々受け継がれてきたお屋敷です。入場料20元。

 文革時代、この四合院は紅衛兵から激しい攻撃を受けました。この家の持ち主は、かって清時代の政府高官であり、妻は愛新覚羅家の出身、皇帝の一族であったという理由で迫害されたのです。

 一家は迫害を逃れ、世界各地に四散。邸内は荒れたまま放置されていました。
 ようやく父祖の家の相続を認められた相続人によって、2年前から四合院の復旧修理が行われ、現在は「典型的な四合院邸宅」として、一般公開されています。

 千竿五号の四合院屋敷の相続者、女主人の父上は、戦前の東京帝国大学へ留学した学者で、女主人とその兄弟達は、父上から教えられた日本語を読み書きできます。女主人は、流ちょうな日本語で四合院の解説をしてくれました。

 「私の母親は、愛新覚羅家の出身です。一族の娘達は皇帝の花嫁に選ばれる資格をもっていました。私の伯母のひとりは、皇帝の花嫁候補に選ばれたことを誇りとし、皇帝以外の誰にも嫁がぬという気概をもって、一生独身ですごしました。
 私の母は、父の学識に好意をもち、結婚しました。父は日本で学び、学者として大成しました。」

 一族の集合写真の前で、誇らしげに親戚一同について解説する女主人。
 文革という嵐の時代をすぎ、ようやく自分の一族を誇りをもって紹介できるようになったこの女主人の心持ちが、私には共感できましたが、なかには、「自分の一族がこんなに立派だっていう自慢ばかりしているので、聞いているのがいやになった」という感想をブログに書いている方もいます。
 「一起感動」という北京駐在員の方のブログより。ページの下の方に、千竿故同についての感想がありました。
===========
(北京駐在員の日記)
 その後、入り口の階段が7段もある、千竿五号という四合院へ。
 もともと四合院の階段は、そのくらいの高さを表しているので、この四合院の住人は非常に位の高い人物であることを示してます。だからここに今住んでいる人はその子孫ということで、非常に良いお宅の人だと言うことができます。

  実際、ここは確かにすごいところで中もきれいだったのですが、案内のおばちゃん=この四合院の持ち主が、いかに自分の先祖が素晴らしかったか、そして今の親戚一同がいかに優秀かと言うことをいやと言うほど説明してくれたので、最後のほうはちょっと嫌な感じになりました。
  人間、謙虚が一番です。
http://kimtake-umigame.cocolog-nifty.com/sango/2007/01/index.html
============

 以上は、北京で仕事をはじめて5年になるという30歳の方の感想です。
 いろいろな感想があってよいのですが、一族の歴史を語ると自慢話に受け取られるのなら、語り部としては、つらいところですね。

 千竿五号の地図 http://www.qiangan5.com/html/lxwm.htm

<つづく>
04:54 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2007年09月21日


ニーハオ春庭中国通信>「千竿五号 明清老宅」日本語解説(1)
2007/09/21 金
ニーハオ春庭中国通信>「千竿五号 明清老宅」日本語解説(1)

 私にとっては、まだ北京の観光ガイドブックにも載っていない、インターネットに日本語サイトも持っていない、この「千竿五号」の四合院を訪問できたことは、とても印象深い、よい思い出になりました。

 「千竿五号明清老宅」は、中国語サイトのみで、日本語サイトがありません。
 そこで、女主人が解説してくれた話と、中国語サイトの翻訳を総合して、次のような日本語解説版を「勝手に」作りました。
 以下、「千竿五号明清老宅 日本語版解説(1)~(3)」において、この四合院の説明を書きます。

 千竿五号四合院のご主人、この日本語版をもとにして、日本語サイトを作ってくれたら、うれしいです。

 「千竿五号」HPからの翻訳は、逐語訳ではありません。女主人の解説を思い出しながらの春庭の拙い意訳ですので、HP中国語をみて、いろいろご教授ねがえれば幸いです。

 「千竿五号明清老宅」HP http://www.qiangan5.com/

<ごあいさつ>
 みなさま、「四合院 千竿五号・明清老宅」へようこそ。
 四合院とは、中国の、古くからの民家の建築様式です。
 中庭を中央におき、母屋である北屋のほか、東、西、南に4つの建物を配しているので、四合院と呼ばれています。

 私どもの、「千竿五号 四合院」は、現存する四合院形式の民家のなかでも、典型的な清朝満州族高官の邸宅の様式を残しています。
 北京に残されている四合院の中でも、高い格式を誇る伝統的な建物と庭をごらんいただけます。
 伝統的四合院住宅のなか、選りすぐりの様式を誇る我が家を、どうぞ、ゆっくりごらんください。

<わが四合院の歴史>
 四合院邸宅は、元の時代から明朝、清朝、中華民国時代、そして現代の中華人民共和国、さらに文化大革命の混乱を経て、今に至るまで、八百年以上もの間、北京の中心部に伝統的な民家として設立され保存されてきました。

 我が家は、父方は、満州族清朝高官の家柄、「斎他拉」氏。
 父は東京帝国大学で学位を取得した学者でした。
 母方は、愛親覚羅家の出身で、一族の娘達は、皇帝の花嫁候補になるべき階層として、大切に養育されておりました。

 清朝時代には、天井の高さ、入り口の階段の段数まで、細かく身分による家の構造の規定があったなか、入り口の段数は七段、四品の官位をもつことを示しています。
 屋根や天井の高さも、高い家格を許されており、北京に残る四合院住宅のなかでも、有数の建築であるといえます。

<つづく>

07:18 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2007年09月22日


ニーハオ春庭「千竿五号 明清老宅」日本語解説(2)]
2007/09/22 土
ニーハオ春庭中国通信>「千竿五号 明清老宅」日本語解説(2)

 我が四合院の歴史は、明時代にまでさかのぼります。
 数百年前に建てられた我が四合院住宅。数百年前からの光を宿した家ではありますが、文化大革命時代に、ほとんどの家具調度は破戒され、家も接収されておりました。
 玄関へ至る階段も、本来は七段あったのに、文革時代は下の二段が取り除かれており、内部は荒廃のままにされていました。

 文革時代、かって清朝の高官であったこと、母方が皇帝の親族であったことなどから、紅衛兵から激しい攻撃を受け、一族は世界各地にちりぢりになっていました。
 現在、中国はかっての文化を見直す動きがあり、私たちは、先祖から受け継いだこの家を、ようやく我が手に取り戻すことができました。
 返還が許されてのち、修復につとめ、古い家具なども買い戻す努力をつづけてまいりました。
 また、昔日の家主の官位の高さを示す様式を復元することができました。

 現在、このような形で私どもの四合院を公開し、多くの方々に伝統的な住宅を見ていただけることは、この家を建て、守ってきた多くの人々とともに、私どもの喜びとするところであります。

<千竿五号四合院・中庭>
 まず、中庭。
 内庭は、余分な装飾を廃し、質実をむねとしています。
 内庭を囲む4つの建物をつなぐ求心的な役割を、中空の中庭がはたしているのは、四合院が陰陽五行思想によって建築されていることによります。
 庭から周囲をみわたせば、四合院の構造を体得できることでしょう。

 内庭と建物をつなぐ回廊。方形のテーブル、大きな肘掛け椅子。庭の木陰で休息すれば、古い北京のおもむきを経験でき、古い北京の情緒をゆったりと感じられます。

<四合院建築の様式>
 清朝高官であった「斉他拉」家の私邸は、明時代に建てられた四合院がもとになっています。
 北京の一般私邸としては、もっとも完備している四合院であり、現存する建築様式として、数百年にわたる北京故同四合院の発展史を、我が家の歴史として見ることができます。

 まず、入り口で目にするのは、七段の階段を有する表門です。
 石段の段数、屋根の高低は、封建社会で厳重な階級を表しています。
 この四合院が七段の石段を持っているということは、主人の地位が清朝四品以上の官吏であったことを示しています。

千竿五号明清老宅の室内内部の写真を載せている中国語のブログ
http://blog.xinhuanet.com/blogIndex.do?bid=2514&aid=4470521&page=detail

<つづく>
09:54 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2007年09月23日


ニーハオ春庭「千竿五号 明清老宅」日本語解説(3)」
2007/09/23  日
ニーハオ春庭中国通信>「千竿五号 明清老宅」日本語解説(3)

 四合院建物の構造は、すべて陰陽五行思想によって配置されています。
 正門は南東(辰巳=巽)におかれます。巽の「風」によって、すべての出入りが順調に家の中を行き来できます。

 四合院の東、西、南、北に位置する4つの家屋各々は独立しています。
 棟と棟は別々に建てられ、それぞれの建物は四隅を渡り廊下でつなぎ、また、中庭の回廊によって行き来を行います。

 母屋は北側に配置されます。
 坎(カン=北方)は、水を支配するため、火災を免れる位置なので、もっとも大切な母屋が北側に位置します。
 屋敷の北側にあるということは、中庭に向かって南側に戸口や窓を開くことができるということであり、もっとも明るくよい部屋を作ることができます。

 もっともよい棟である北側の母屋には、主人夫妻が居住します。
 母屋には3つの部屋があり、真ん中の部屋のみ中庭への出入り口を有し、両側の二間は、中央の部屋からのみ出入りできます。

 中型以上の大きさの四合院では、北側の母屋のさらに奥に、あと一棟の建物があります。ここには、長男次男以外の息子達、また、未婚の娘が居住しました。
 結婚前の娘達は、この棟の中で厳格に両親の監視下に置かれ、両親の許可なく外出することはできませんでした。
 良家の子女は、けっして勝手に出歩いたりはしなかったものでした。

 東側の棟と西側の棟には、長男とそれに次ぐ次男が居住します。
 南側の棟は、中庭に向かう出入り口が北側になります。台所、食堂、客間が配置されました。

リンクは国立民族学博物館(大阪)の四合院紹介
http://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/china/04.html

<千竿故同の由来について>
 「千竿故同」の元々の呼び名は「箭杆胡同」
 「箭杆」とは、「矢」の意味です。「細長い矢」のような、細く長い路地を意味しています。

 この名には、明の時代から伝わる伝説があります。
 明の朱棣(永楽帝・明の成祖)は、15世紀はじめに皇位を奪い、大都を北京と改称して首都としました。
 このとき、永楽帝は、部下の徐達に「良い土地を選んで都を建てることにする。それには、10本の矢を北へ射て、それぞれの矢が落ちた地に門を設けよ」と命じました。

 徐達が射た矢は、現在の前門、昌平門、徳勝門、崇文門、広安門などに落ち、永楽帝は、首都を固め、矢のようにまっすぐ伸びる路地を作り上げました。そのひとつが「箭杆故同」です。

 元時代からある宝鈔胡同の近くに落ちた矢によって、この地は「箭杆故同」として修復され、現在の「千竿故同」となったのです。

<おもてなし>
 我が「千竿五号」では、伝統的四合院の客間に、お客様をお迎えして、清朝伝統料理の宴を催しております。
 ホテルやレストランの大規模な宴会とはまたひと味ちがう、一般家庭の中でのおもてなし料理を味わっていただけますので、どうぞ、ご予約のうえ、ご来訪ください。
 心をこめて、おもてなしさせていただきます。

 では、皆々様のご来訪をお待ち申し上げております。

<千竿五号日本語解説おわり>
00:08 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2007年09月24日


ニーハオ春庭「四合院・宋慶齢故居」
2007/09/24 月
ニーハオ春庭中国通信>四合院・宋慶齢故居

 私の故同巡りの中心点は、鼓楼。
 鼓楼のふたつくらい手前でバスを降り、宋慶齢故居をめざしました。

 今回の中国滞在中、私は「ふたりのファーストレディ」に興味をもち、資料を読んできました。
 ひとりは、ラストエンプレス。清朝最後の皇帝、宣統帝溥儀の皇后であった婉容。
 もうひとりは、その清朝を辛亥革命によって倒した革命家、孫文の妻、宋慶齢。

 婉容は、夫・溥儀との冷えた関係に絶望して閉じこもり、阿片だけをよりどころにして、崩壊していく人生から抜け出そうとはしませんでした。
 なぜ、朽ち果てていく人生に閉じこもるのか。婉容の生き方を歯がゆく思いながらも、その哀切な一生は、心に深く残ります。

 個人のブログより 中ほどに婉容の写真
 http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/7bfff4cf9c06d8c198383e6d01f117f0
 同上より 溥儀と婉容
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/c/93325c1daa24e7403a25343d80cf3d91
 「満州帝国」についてのHPより
http://www.vivonet.co.jp/History/j20_Manchuria/Manchuria.html

婉容については春庭中国通信2007年5月26日~6月1日に書きましたので、ご覧いただければ幸いです。

 一方の宋慶齢は、22歳のとき、26歳も年上、48歳の、父の親友孫文(号は中山)と結婚します。
 革命をめざす孫文の秘書として縁の下の力持ちになり、11年間の結婚生活を支え続けました。
 享年59歳という孫文の早い死去によって結婚生活がおわってのち、それまで以上に、政治の表舞台で生き生きと活動を始めます。

 この宋慶齢故居は、もともとは、ラストエンペラー溥儀の父親、醇親王の邸宅でした。
 醇親王・愛新覚羅載灃(あいしんかくら さいほう)。清朝摂政王。

 皇帝位を取り戻すことに固執し、満州国皇帝の地位についた息子溥儀とは一線をかくし、満州へ赴くことはしなかった。
 1951年に醇親王がなくなると、邸宅は戦争犯罪人(漢奸)たる息子の溥儀には渡されず、国家が接収。10年間放置されていました。

 1961年に周恩来の提議で、国家副主席であり孫文未亡人である宋慶齢の邸宅となりました。
后海のほとりに建つ、広い四合院邸宅。広い、見事な建築の四合院です。
http://members.at.infoseek.co.jp/Mr_muu/oneshot1/meisyo/sen/souk.htm

 清朝の摂政・醇親王のお屋敷であった四合院から、国家副主席の邸宅へ。
 宋慶齢の公邸となったのちも、后海のほとりで、政治の舞台になっていました。
 中華人民共和国建国後は、宋慶齢は、国家副主席、名誉国家主席。
 「国母」的な存在として、外交に、婦女子の教育と福祉のために一生をささげました。

 客間。
 若い頃、妹の美齢とともにアメリカに留学して身につけた流ちょうな英語で、外国からのゲストを迎え、人民中国外交の一助をにないました。
 執務室。
 宋慶齢は、晩年に至るまで、中国の女性と子供達の教育と生活の向上のために働き続けました。

 国家主席毛沢東が贅沢三昧の暮らしを続けたのに対して、国家副主席宋慶齢は最後まで質素な暮らしを守ったそうです。
 ガラス越しにながめる寝室も居間も、大金持ちの令嬢に生まれた宋慶齢なのに、質素質実な生活がうかがえました。

 映画『宋家の三姉妹』のキャッチコピー。
 「長女は財力を愛し、三女は権力を愛し、次女は国を愛した」だったかな。

 長女は財閥の御曹司に嫁ぎ、次女は辛亥革命に命をかけた男に嫁ぎ、三女は国民党総統に嫁ぎ台湾中華民国ファーストレディになった。
 マギー・チャン扮する次女宋慶齢は、凛とした生き方を演じていました。

<つづく>

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2007年09月25日


ニーハオ春庭「宋慶齢の和服」
2007/09/24 火
ニーハオ春庭中国通信>宋慶齢の和服

 宋慶齢記念館の入場券には、孫文と宋慶齢が寄り添って立つ記念写真が印刷されています。入場料20元。
 展示室には、毛沢東や周恩来にあてた手紙などが展示されています。

 孫文は、宋慶齢の父親(宋耀如/宋嘉樹)の友人。宋耀如は、アメリカ留学ののち、実業家として成功し、孫文の活動を援助し続けた同志でした。
 最初は長姉の宋靄齢のが孫文の秘書をつとめました。宋靄齢が財閥の子息で孔子の子孫であるという孔祥煕と結婚するため、秘書の仕事は慶齢が引き継ぎました。
 孫文と宋慶齢のふたりが結婚したのは、孫文が日本亡命中の1913年~1916年の間のこととされています。

宋慶齢基金会HPより http://www.sokeirei.org/song.html 

 日本では、中山樵、高野長雄などの変名によって亡命生活を送っていた孫文。東京での二人の結婚はひっそりと始められたのですが、亡命生活という制約もふたりの間の愛情を妨げるものにはなりません。

 宋慶齢の数々の遺品が展示されている記念館で、私にとってもっとも印象深かったのは、一着の和服でした。絞り染め、青と茶色の着物が目に入りました。

 畳まれて展示されていたので、袖の長さはわからなかったのですが、清楚な中に華やぎのある色合いに思えました。
 和服のことは、とんと不案内なので、どのような品なのか、まったくわかりません。
 もしかしたら、日本の支援者などが功なり名遂げた晩年の宋慶齢にプレゼントした一枚ということもあり得ます。

 が、私の想像では、結婚前後に宋慶齢が着ていた思い出深い一着なのではないかという感じがしました。
 ふたりの結婚生活が日本で始まったこと、孫文の支援者には、日本人も多く関わっており、和服をあつらえる機会もあっただろうということなどが想像したことの根拠ですが、このときは単なる想像でした。

 亡命生活をおくる孫文が、この和服を着た若い妻の姿を、息をのんで見つめていたことがあったのではないか。
 若く美しい和服姿の妻がそばにいることが、孫文を励ました、、、、。
 鬱屈した亡命生活をおくる孫文の前に、あでやかな和服姿で登場する宋慶齢の姿が思い浮かびました。

 この和服には、日本での新婚生活をなつかしむ宋慶齢の、「孫文との愛の日々」の思い出がつまっている、そんな想像をしながらガラスケースの中の展示品を眺めました。

 大切に保存され、こうして展示されている和服。波乱に満ちた宋慶齢の一生のなか、この一着への宋慶齢の思いが伝わってくるような気がしたのです。

 北京からの帰国後、この和服について、2007年2月3日付けの時事通信社にニュースが出ていたことを知りました。
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 <時事通信社の記事>
宋慶齢の愛した和服発見=孫文が日本で贈る-晩年まで大切に((時事通信社- 02月03日 15:10)
【北京3日時事】20世紀中国の革命指導者で「国父」と称される孫文(1866~1925年)が1915年、亡命先の東京で宋慶齢(1893~1981年、後の国家名誉主席)と結婚した際、日本の仕立て職人に依頼して作り、新妻に贈った和服がこのほど北京で見つかった。宋慶齢はこれを気に入り、晩年まで大切にした。結婚生活の短かった革命家夫婦にとって、この和服は愛の象徴だったと言えそうだ。

 中国宋慶齢基金会の何大章研究センター副主任は「宋慶齢は(孫文と過ごした)日本での生活を恋しく思っていた。この和服は宋の日本への感情を体現したものでもある」と話した。和服は長さ134センチ、幅125センチで、宋慶齢はモーニングガウンとして使用。晩年の76年、太り気味できつくなったガウンを養女の隋永清さんに「形見」として託した。
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 2007年2月3日なら、まだ日本にいたのに、まったくこの記事に気づくこともなく中国へ出発しました。
 でも、なんとなくのカンで、「この和服は、宋慶齢と孫文の新婚の思い出の品ではないか」と感じたことがぴったりあたっていたので、ちょっとうれしい。

 孫文が、新婚の愛妻に贈った和服。結婚したのは1915年ごろ。それから90年以上を経ても、ふたりの間のこまやかな愛情が感じられる一枚でした。

 宋慶齢の着物の写真(北京短期留学生のブログより)
http://ameblo.jp/gaoyecn/entry-10036282297.html

<つづく>
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2007年09月26日


ニーハオ春庭「宋家の三姉妹」
2007/09/26 水
ニーハオ春庭中国通信>宋家の三姉妹

 だれにも優しく、努力家で、自分自身の生活は清貧をつらぬいた宋慶齢。
 数少ない楽しみといえるのは、仕事の合間にたのしむミニビリヤードと、自邸の庭で鳩をかうこと。庭の手入れをすること。

 自分で衣服を手作りしたミシンも、展示室にありました。
 慶齢が来ていた中国服。外国からの訪問客をもてなしたときのチャイナドレス(チーパオ旗袍)や、中国各地を行脚し、子供達とふれあったときの服。
 ひとつひとつの遺品が、いまも宋慶齢の鮮烈な一生を物語っています。

 宋慶齢の妹、宋美齢は、台湾中華民国のファーストレディとして、ファッションリーダーでもありました。
 宋美齢は、晩年ニューヨークで生活し、華麗な衣装を愛用し続けました。

 一方、中華人民共和国の「国母」として国民に愛された宋慶齢の衣装、展示してある品は、センスのいいものですが、決して豪華ではありません。

 宋家の三姉妹。
 長女の靄齢は、財閥の御曹司孔祥煕と結婚。実家の財産以上に莫大な富を切り回す事業家となって活躍しました。
 次女の慶齢は、孫文と結婚し国家建設のために献身しました。

 三女の美齢は、宋家との縁組みを望んでいた蒋介石と結婚。
 蒋介石は、宋家とのつながりを求めて、最初は未亡人となった慶齢に接近して結婚を望みましたが、慶齢によせつけられなかったという説もあります。

 国民党と共産党が決別すると、国民党蒋介石の妻として宋美齢は台湾へ渡り、中華民国のファーストレディとなりました。
 美齢は、蒋介石の死後、かって慶齢とともに留学した米国に居住し、悠々自適の生活をおくりました。

 宋美齢、1997年生まれ、2003年死去。享年103歳。世界の「ファーストレディ」という経歴をもつ人の中で最高齢。これはこれで、見事な一生。

 妹の宋美齢と決別し、宋慶齢は、中華人民共和国の建国に尽力しました。孫文の遺志を守り抜くことが、彼への愛を貫くことだと信じて。

孫文は「革命未だならず、同士よ、すべからく努力せよ(革命尚未成功、同志仍須努力)」という遺訓を残しました。慶齢は、この遺訓を忠実に守ることが孫文への愛の成就と考えたのではないでしょうか。

 写真も多数展示されていました。
 国母となって、全国の女性やこどもたちと共に写っている温かいまなざしの写真。
 若い頃のポートレート。
 若い頃の宋慶齢は、たいへん美しい。宋家の靄齢、慶齢、美齢、三姉妹のうち、一番美しいと思います。

 宋慶齢の写真集(中国服店のサイトより) http://touekiki.web5.jp/rekishi7.htm

 中学生と小学生くらいの女の子がふたり、私と前後して邸内を回っていました。
 宋慶齢は、女性と子供達をなにより大切にしていました。女性たちも宋慶齢を母のように慕っていました。

 1981年に宋慶齢はなくなっており、見学の少女たちがもの心ついた頃には、すでに伝説の「国母」であったでしょうね。
 「偉大な女性」の一生を、遺品や写真を見て、身近に感じられたでしょうか?

<つづく>
========
もんじゃ(文蛇)の足跡:
宋美齢の生年は1996年1997年2001年の3説があり、享年103最は最短の場合、1997年説をとれば106歳。ま、どっちにしても長生きだったってことはかわらないけど。

宋慶齢年譜 宋慶齢基金のHPより
http://www.sokeirei.org/song.html
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2007年09月27日


ニーハオ春庭「青い葡萄・ふたりのファーストレディ」
2007/09/27 木
ニーハオ春庭中国通信>青い葡萄・ふたりのファーストレディ

 宋慶齢Sòng Qìnglíngスン・チンリン。

 腐敗し疲弊しきった清朝を倒し新しい中国を建国しようとする夫、孫文を助け、人民中国成立後は、国家を代表する女性として、新国家の女性や子供達のために奔走しました。

 宋慶齢が愛した葡萄の棚。慶齢は、毎年この葡萄の収穫を楽しみにしていたそうです。
 主を失ってからも、葡萄棚はよく手入れをされ、入り口から玄関へ向かうアプローチにっここちよい日陰を作っています。

 今も大きな房が、緑の粒を夏の日差しに輝かせています。
 青い房をたわわに実らせた葡萄棚の下で、私は宋慶齢に聞いてみる。

 あなたと夫孫文が語り合い理想とした国家は、今、実現していますか?理想に近づいていますか。

 宦官に牛耳られ汚職にまみれた清朝を倒した孫文。
 新しい中国を建設しようと、上海で、また日本の東京で、孫文の手足となって働いたあなたの目には、今の中国はどのように映っていますか。
 孫文と、「すべての人民が等しく幸福に暮らせる国をつくらねば」と語りあった日の理想は、実現していますか。

 あなたの家の入場料、20元(約300円)。
 この入場料にも満たない額の1日分の賃金で生き抜いている「人民」もいれば、20元はペットの一回分のエサ代にも足りないという「富裕層」もいます。
 北京下層の一日の生活費は10元であるという社会科学院の発表があります。

 中国13億人のうち、半数以上を占めている農民の年収は1万元(15万円)以下ですが、6億に達した都市部就業者は、平均年収4万元(60万円)。
中国社会科学院によると、富裕層の年収1万~5万米ドル(約100万~600万円)を得ているのは1300万世帯。2005年末で年収5万ドル(600万円)以上の超富裕層も5万世帯。
 (中国物価を考えると、所得600万ということは、日本で2~5000万円以上の年収を得ているのと同等のリッチ生活ができる)

 そして最富裕層の千人は、資産10億元(150億円)超えているという。
 党の改正が行われ、「資本家も共産党員になれる」ことになりました。最富裕層の何割かは共産党員だそうです。大金持ちの共産党員。

 13億人の全中国人民のうち、共産党員になれるのは人口の8%の7000万人ほど。党員に選ばれるのはとても名誉なことで、私が居住していた「専家宿舎」にも、「新しく党員に推挙された職員」の名が大々的に表示されていました。

 逆にいうと、党員に選ばれないと、職場の組織の中で出世することは難しい。
 中国で私たちに太極拳を教えてくれた副校長先生は、「省の党書記」という要職にあり、「副校長」とは呼ばれずに「書記」「書記」と皆から呼ばれていました。
 「太極拳を教えてくれるやさしい副校長」とは世をしのぶ仮の姿で、党書記としては辣腕ふるう切れ者だったみたい。

 宋慶齢さん、あなたの家のほとり、后海の水は、今も静かに水をたたえ、蓮の花が満開です。
 でも、あなたの家の周囲の「故同」は、取り壊しが進んでいます。
 「オリンピックを見に来る外国人の目に、貧しくみっともない住居は見せられない」と、為政者は考えています。

 宋慶齢が、手ずから摘み取っていたという葡萄の棚。緑の大きな葉と大粒の葡萄の間を夏の風が吹きすぎました。
 葡萄の房は、ベルのように風にこたえます。チンリン、チンリ~ン。
 呼んでいるのは、孫文先生かな。
 あ、ちがった、ふたりの少女が笑いあいながら、宋慶齢故居の出口へ向かっている声なんだわ。

 革命家孫文(孫中山)夫人・宋慶齢は、立派なそしてすてきな女性でした。あこがれの女性です。あこがれるけれど、目標にするには遠すぎる。

 ふたりのファーストレディ、婉容と宋慶齢。
 阿片におぼれた婉容。満州帝国崩壊後、阿片の禁断症状が激しく、最後は自分の糞便の中にのたうち回って死んだと伝えられる婉容と、名誉国家主席の称号に輝き、死してなお国中の尊敬を集める宋慶齢。

 弱くて悲しくて、最後は悲惨な生涯をすごした婉容に心ひかれるのは、「敗者」びいき「判官贔屓」の心情からでしょうか。

 ってなわけで、かっては革命家チェ・ゲバラの奥さんになりたかった私、もう革命はできそうもない年なので、このままぐうたら生活を続けます。
 阿片中毒にはならないけれど、「上网依存症インターネットアディクション」ではあるしね。
 最後は自分の糞便にまみれて野垂れ死ぬか。いや、せめて故同の「ドアなしトイレ」くらいは使って死にたい。

 ♪ああ、インタネットナショナアルわれらがもの~。たて飢えたるもの~よ、今ぞ日は近し~♪ 
 宋慶齢さん、日は近いよね。

 何の日が近いって?そりゃ、北京オリンピックまであと1年。

<つづく>
==============
もんじゃ(文蛇)の足跡:
 上記♪~のところ、思わず「ああ、インタ~ナショナアル、われらがもの~♪と声に出して歌ってしまった方、お友達になりましょうね。
 インタネットナショナルって書いたんですけどね。
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2007年09月28日


ニーハオ春庭「夜の胡同」
2007/09/28 金
ニーハオ春庭中国通信>北京故同めぐり・夜の故同

 8月8日の夜、北京天安門広場は、一大イベントにわいていました。
 北京オリンピックまであと365日、という国をあげてのカウントダウンが、天安門広場でおこなわれており、その様子は中国のテレビでは延々3時間にわたって生中継されましたし、日本のテレビニュースでも取り上げられました。

 8日の夕方、そんなイベントがあるとはまったく知らなかった私、天安門広場に行こうとしていたのですが、例によって方向音痴、王府井ちかくの故同の中をぐるぐる歩いていましたが、いっこうに天安門には近づけませんでした。

 さすが、天安門近くだけあって、やたらにお巡りさんが街の角かどに立っているなあとは思ったのですが、ほかの日のことを知らないから、北京はお巡りさんが多い街なんだろうと思っていたんです。
 実は、北京オリンピックカウントダウンに政府要人やオリンピック関連の国際的要人が天安門に集まっているための、特別警備でした。

 夕暮れまで、王府井と天安門広場の間にある故同のなか、歩き回りました。
 あちこちに取り壊しの瓦礫の山。
 暗くなり、疲れたので、小休憩。
 あ、あの店、入り口に生ビールの樽が置いてある。

 生ビールにひかれて、店に入りました。とにかく腰を下ろして、歩き続けた足を休めようと。
 生ビールを注文。つまみには「地三鮮」。じゃがいもとピーマンと茄子の炒め物。
 地三鮮は、東北地方の代表的な田舎料理ですが、東北でも店ごとに味が違うので、北京の地三鮮はどんなものかと思って注文しました。

 テーブルを囲んでいるのは西欧人のグループも多い。欧米かよ!(と、ギャグも半年おくれ)
 店の中のテレビでは、「北京オリンピックまであと1年」の大イベント生中継がはじまりました。

 私がいつも見ていたダンスコンテスト番組の女性司会者が、中国普通話(標準語)でメイン司会。ほか、英語と広東語のサブ司会者。広東語と思ったのは、ビンナン語(台湾語)だったのかもしれません。私には、普通話と方言の区別はわかるけれど、どの地方の方言なのかは区別がつかないので。
 北京市長やオリンピック関係者の挨拶、有名歌手の歌、そして、あと365日の数字がでるまでのカウントダウン。ウー、スー、サン、アル、イー!

<つづく>
00:04 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2007年09月29日


ニーハオ春庭「再見中国、打ち上げ花火横から見るか裏から見るか」
2007/09/29 土
ニーハオ春庭中国通信>再見中国、打ち上げ花火横から見るか裏から見るか
 
 「オリンピックまであと1年イベント」、カウントダウンがおわると、花火が打ち上げられました。
 
 テレビの中に花火が写ると、店の外でドド~ンと大きな音。お客さんは、みな店の外に出て行きます。
 花火が見えるのかと、私も外へ。南の方角が明るく光るのですが、木立がじゃまになる角度で、花火は見えません。でも、音は臨場感たっぷりに聞こえます。

 店のお客さん達、ことに西欧人観光客は、大喜びです。
 花火は見えないけれど、音をきいて、いま、中国で行われている大イベントに自分たちも直接加わった、そんな気分で、欧米かよ!たちのビール乾杯もますます盛り上がっています。

 私もビールを飲み、足の疲れもだいぶ収まってきたので、帰ろうとしました。
 ところが。交通規制のため、すでにこのあたりは、交通止め。
 タクシーは、お客を乗せて、目的地へ向かう車がたまに通りすぎるだけで、流しのタクシーはまったく入ってきません。

 しまった。バスはもうないし、ホテルまで帰れるかな。
 とにかく、タクシーを拾える大通りまで歩かなきゃ。
 夜の北京、イベントのある日だからなのか、暑いのでいつまでも外に出ている人がいるのか、並木道の通りを、たくさんの人が行き交っています。
 
 たったひとりで、夜の北京を歩く。ちょっと緊張して、でも楽しんで。
 歴史的な建物や政府関係の建物が多い地域だからか、電灯も多く、こわい気はまったくしませんでした。
 地安門東大街に出るまで30分くらい歩き続けました。

 大通りでやっとタクシーを拾えました。
 「ムーダンビングヮン」と、行き先をつげる。発音悪いので、運転手、首をかしげる。もう一度、言う。運転手、やっと理解してくれて「ムーダンビングヮン?ああ、牡丹賓館ね」
 だから、牡丹賓館って、言ってるつもりなんだったら。最後のさいごまで、私の四声発音はめちゃくちゃでした。

 タクシーのラジオも、このカウントダウンイベントを放送しています。
 来年の北京、きっと、もっともっと大騒ぎなんだろうなあ。

 故同の住民たち、入手困難と聞くオリンピックの入場券は手に入らないかも知れないけれど、いろんな方法でオリンピックに参加気分を味わい、楽しむことでしょう。
 いろんな問題も山積みだろうけれど、オリンピック、大成功となることをお祈りしています。

 再見。中国。
 半年間、お世話になりました。
 すべての人に謝謝。

<ニーハオ春庭中国通信おわり>
06:19 コメント(15) 編集 ページのトップへ



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ニーハオ春庭中国日記「西安始皇帝陵・大連」

2011-11-20 15:00:00 | 日記
ニーハオ春庭「西安・秦始皇帝陵」
2007/08/28  火
ニーハオ春庭中国通信>西安・秦始皇帝陵

 秦始皇陵墓内で見つかった500箇所の墓に葬られている人は、殉死者というより、おそらく、陵墓の建設に従事した人々のものだろうと推測されています。陵墓内部の秘密を守るために、陵墓建設に関わった人は、建設終了と同時に墓域内に閉じこめられたのではないか。

 志願して皇帝に殉じた人もいたことでしょう。
 陪葬墓から出土した人骨のひとつは、ペルシャ系のDNAと同じ特徴を持つ男性の骨と分かったのだそうです。はたして、この人は、皇帝に恩義を感じて殉死した人だったのか、陵墓を設計する技術者で、秘密を守るために無理矢理、陪葬者とされたのか。

 足が弱い妹は、陵墓を見に階段を上るのはやめておくというので、待っていてもらい、姪とふたりで階段上って陵墓を見にいきました。

 汗をかきかき階段を上りきると、ボランティアの人が「ぬれおしぼり」を用意し、無料で貸し出していました。ありがたく汗をぬぐいました。
 中国観光地で、このような「無料サービス」を受けたのは初めてだったので、さすが始皇帝!と思いました。伊達に2300年も眠っちゃいないってとこかな。

 広い陵墓の区域を見渡したのですが、どこに始皇帝が埋められている場所なのかはよくわかりません。
 案内板はありますが、あまりに広くて、見比べても、どれがどこにあたるのやら。

 副葬抗の兵馬俑発掘は、この30年間に体系的に研究と発掘が進められ、大きな成果を上げました。しかし、始皇帝の墓そのものについて、政府は、保存の方法がきちんと確立するまで、急な発掘はしない、と決めています。

 日本の明日香村で、保存方法をきちんとこうじないまま発掘したため古墳内部にカビが生えてしまい、キトラ古墳などの貴重な壁画が失われてしまったのを考えると、発見されたからただちに掘り出すばかりがよいとは言えないことがわかります。

 中国4千年の歴史を考えれば、10年20年早く発掘したって、いいことありません。あせらず悠久の構えでやるのがいいんじゃないでしょうか。

ALA中国より始皇帝陵
http://china.alaworld.com/modules.php?name=My_eGallery&do=showpic&pid=2000&orderby=hitsD

 始皇帝陵の広場では、この時代の戦闘と踊りを再現したイベントが行われていました。
 兵士の服装や武器などは兵馬俑から再現できます。芸人の俑から、美女たちの衣装が再現されているのもしれません。

 私には秦時代の衣装と唐時代の衣装の区別などつかないのですが、美しい服装の女性達がゆったりと踊り、兵士たちは行軍と擬闘を演じました。

 イベントをゆっくり見ていたせいで、タクシーの運転手は「午後3時までの拘束時間だから、もう、戻らないと3時までに市内に帰れない」と言い出しました。

 最初は3時までなんてことは言わず、ただ、主な観光地を回って200元」と言っていたのに、話が変わってきました。
 たぶん、運転手は「時間延長するから、割増金をだしてほしい」と、言いたかったのでしょう。

 兵馬俑博物館の見学がまだ残っています。
 兵馬俑を見ないで戻ったのでは、西安に来た甲斐がありませんから、「あとは、バスでもどるから、兵馬俑博物館前で私たちをおろして帰っていいよ」ということにしました。

 運転手にとっては、3時前に市内に戻って200元もらうよりも、時間延長して割増金を稼いだほうがよかったのかもしれません。
 愛想のよい運転手でしたから、最後までおつきあい願ったほうがいいか、ちょっと迷いましたが、私は、最初に「3時まで」と言わずに途中から「3時までの拘束時間」と言い出したことが気に入らず、もうタクシーはいいや、と感じました。

 兵馬俑は、時間をかけてゆっくり見たい。
 ツアー客の兵馬俑博物館の滞在時間は1時間くらいと聞きますが、一日たっぷり見ていてもいいくらいです。数千体にのぼる兵士俑の顔、ひとつとして同じ顔はないのだそうですから。

<つづく>
00:22 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2007年08月29日


ニーハオ春庭[西安・司馬遷と始皇帝]
2007/08/29  水
ニーハオ春庭中国通信>西安・司馬遷と始皇帝

 歴史書に書かれている始皇帝陵は。
 漢時代の『漢書』にも、北魏時代の『水経注』にも、始皇帝墓はもはや残されていないと記されています。
 三国志で知られる項羽が秦二世皇帝を攻め滅ぼしたときに始皇帝陵を破壊したと。

 これらの歴史書は、始皇帝が死んだのち、600年くらいしてからの記述です。

 始皇帝の時代に一番近い記述は、司馬遷の『史記』です。
 司馬遷が生まれた紀元前145年は、始皇帝が薨去した紀元前210年から55年たったとき。

 第二次大戦後62年たった今も、戦争の記憶を語り継ぐ人がいるのですから、今より短命だった紀元前とはいっても、きっと司馬遷の周囲に始皇帝時代のことを語り伝えることのできる人がいたのではないかと思います。
 司馬家は、歴史を司る家柄でしたから、きっとそのへんの資料をあつめていたのではないかと想像されます。
 
 陵墓建設は、始皇帝没後も続けられており、項羽が秦の二世皇帝子嬰を滅ぼしたことを「現代史」として記憶する人が、司馬遷の周囲に残っていたと思われます。

 司馬遷は『秦本紀』と『秦始皇本紀』の二本立てで詳しく記述しています。
 始皇帝の風貌については、「鋭く高い鼻、目はつりあがって切れ長、鷹のように突き出た胸、やま犬のような声」と描写しています。始皇帝その人を見た者が、司馬遷の周囲にいたのではないか、と思えるような描き方です。

 始皇帝陵について、司馬遷は、「始皇帝は地下に生前の暮らしをそっくり再現する地下宮殿をつくり、町を守る城壁も、近衛師団も、山や川までもが、地下に作られていた」と記述しています。
 この近衛師団が、8000体の兵馬俑でしょう。
 では、川は?この川には水銀が流れ、盗掘にやってくる者は、この水銀の川に阻まれ、さらには、自動的に発射される装置によって射抜かれ、誰一人皇帝の墓には近づけない、、、、と。

 その記述が正確であったことが実証されたのは、実に『史記』が書かれてから2000年後のこと。2003年のリモートセンシングによる科学的調査によります。
 あたり一帯の水銀の濃度が異常に高いこともわかりました。地下宮殿の広さは東西170M、南北50M、高さ15Mの大宮殿であったこともわかりました。

 広大だったと伝えられた陵墓が完全に地下に隠れたものになっていたため、『漢書』などで、項羽が全部破壊し、盗掘してしまったので、現存していない、と書かれたのです。
 しかし、始皇帝墓は実在していました。

 盗掘しようとしたものは確かにいました。盗掘のための穴が掘られていた。けれど、陵墓まで到達できた盗掘穴はなかった。みな、地下軍団に阻まれたか、何一つ盗み出すことはできませんでした。
 エジプトのピラミッドがほとんど盗掘されていることを考えると、「絶対に盗掘させないぞ」という始皇帝の執念が感じられます。

 司馬遷の記述が正確なものであったことはわかりましたが、陵墓の発掘は、保存方法の確立まで延期されたため、それ以上のことはまだわかっていません。

 始皇帝陵墓リモートセンシング探査に先立つ30年前。1974年、井戸を掘ろうとした農民たちが偶然に発見した兵馬俑。
 秦の始皇帝陵墓の副葬坑の発掘は、世界中の人を驚かせました。

 兵馬俑博物館は、第一号、二号、三号の兵馬俑坑を、体育館のような広い建物のなかに納め、そっくり保存してあります。
 最も有名な馬車俑を展示する館を入れて4つの博物館から構成されています。

 入場料90元。入場するときは「高っ」とおもったけれど、見終わったら90元という中国物価にすれば割高な入場料も納得できる規模でした。

<つづく>


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2007年08月31日


ニーハオ春庭「西安・兵馬俑博物館」
2007/08/31  金
ニーハオ春庭中国通信>西安・兵馬俑博物館

 第一号兵馬俑坑の面積は134260㎡あり、その中には、武士陶俑500体、木造戦車18台、陶馬百匹余が出土。
 兵士陶俑の高さは実物と同じくらいで、平均高さ1.8m。同じ顔をしたものが一体もないというのがすごい!

 発掘現場をそのまま残してあり、発掘途中のようす、出土した兵馬俑を並べているところなどを見ることができます。
 兵馬俑は、1987年に世界遺産に指定されています。

 妹は、群馬県立歴史博物館で兵馬俑展が開催されたとき、歴史好きな父が行きたがったので、いっしょに見にいっています。
 ちょうど20年前1987年の特別展「中国陜西省文物展」です。世界遺産に指定されたときだったので、歴史大好きの父にとっては、何をおいても見にいきたかったのでしょう。

 妹は、「あのときは、兵馬俑っていっても何も興味がなくって、ただおじいちゃんが見たいっていうから連れて行ってあげただけだったけれど、本物の兵馬俑坑はこんなすごいもんだったんだねぇ」と、しみじみ。

 私の歴史好きは父親ゆずり。文学好きは母の血を受け継ぎ、演劇好きは母方の祖父に繋がっています。
 ほんとに、亡父に見せてやったら、どんなにか大興奮だったでしょう。連れてきてやりたかったなあ。

 第二号坑の面積は約6000㎡。
 陶俑と陶馬は合計1300体余、戦車が89両あり、歩兵、騎兵、戦車もある。
 第三号坑の面積は約376㎡で、他のふたつに比べて小規模ですが、ここには、地下の大軍を統師する指揮部が埋められていました。
 武士俑68体、戦車1両陶馬4匹。
 三号坑の軍陣配列は全体として秦の軍隊の編成の縮図であるといいます。

 馬車の展示館。1980年に発掘された、馬車を特別に展示しています。
 彩色あざやかな四頭立て馬車は、最も有名で、兵馬俑といえばこの写真が使われる。

 現在も兵馬俑坑は、引き続き研究と発掘が行われています。
 全体で8000体と言われている兵馬俑も、さらに発掘すればするほど、新しい発見物がでてくる。
 21世紀中に全体像があきらかになるかどうか。

 みんなに配るおみやげとして「兵馬俑キーホルダー」を買いました。2000年も始皇帝を守ってきたので、守りの力がとても強いんだよ、というみやげ屋のおばちゃんの売り言葉を信じて、まとめ買い。

 「自分のためのおみやげ」として、『秦の始皇帝の地下軍団ー世界の八番目の奇跡』という写真集を買いました。日本語版も韓国語版も売っていました。
 『偽満州絵はがき集成写真集』なども買いましたが、翻訳の日本語の文章がへんなところが多かった。でも、『秦の始皇帝の地下軍団』の中国語版の翻訳、なかなかしっかりしたよい日本語になっていました。兵馬俑の記念として楽しめそうです。

 リンクは人民日報の兵馬俑のスライドショウ 
http://j.people.com.cn/cehua/20050525/home.files/frame.htm

<つづく>


2007/09/02  日
ニーハオ春庭中国通信>西安・公共トイレと足浴マッサージ

 タクシーを帰してしまい、バスで市内に戻ることに。
 バス停、わかるかなあ、と心配しながら兵馬俑博物館を出てきましたが、駐車場の前、306路線のバス停留所、すぐにわかりました。

 路線バスなので西安鉄道駅前まで90分もかかりましたが、ひとり7元(安っ!)
 やっぱり、私は行き帰りともバスにしたかった。

 タクシーで、目的地まで一目さん、というより、いろんな人といっしょに乗り合わせて、次はどんな停留所なのかなと思いながら進んでいくのが好き。
 バスのなかで、中国語が聞き取れなくても、乗客同士のおしゃべりを聞いているのが楽しい。

 西安駅前の公共トイレで、私の聞き取りが悪いために、またまた一悶着。
 トイレ代の5角を払い、おばさんの前においてあるティッシュをひとつもらおうとしました。おばさん「ごちゃごちゃ、、、、」と、怒る。

 私は「トイレのお金を払え」と言われたのだと思い、「今、3人分払ったじゃないの」と、言い返しました。おばちゃん、さらに「ごちゃごちゃ、、、」と、怒る。私も怒って、「いいよ、もうこのトイレ使わない」と、駅前の別の公共トイレへ。

 お金を払い、ティッシュをもらおうとすると、今度は係りのおっちゃんが「ごちゃごちゃ、、、、」と、怒る。
 「えっえっ、お金払ったのに」と、私。
 妹が、「ねぇ、そのティッシュ、別料金なんじゃないの?」と、言い出しました。
 えっ、済南の観光地では、5角を払うとちり紙をつけてくれたのに。きたないトイレで水も流れなかったけれど、5角は紙代かと思って払ってきた。

 西安では、トイレ代5角と紙代は別料金なのでした。な~んだ、「払え」って怒られたのは、ティッシュペーパー代金だったのね。
 妹、私の聞き取り能力にすっかり不信の念。スンマヘン、中国語わかんなくて。
 てんやわんやで、なんとかトイレをすませました。

 ホテルに戻ると、妹はまたまた「足が疲れたから、マッサージ頼みたいけれど、今度は足だけにしておく」と、2階へ降りて足マッサージを受けることにしました。

 私と姪もついていったので、マネジャーは、ちょっと困った。マッサージ技術を持っている人は、その時店内にふたりしかいなかったから。

 そう言ってくれれば、私は別段マッサージしてもしなくてもいいのだから、妹にゆずって、客室に戻っていたのに、下手な筆談でも、まったく日本語が通じないよりマシだからと、私もいっしょにいることにしたため、ひとりマッサージ担当者が不足してしまった。

 私と姪には、地味な若い女性と30代後半の女性が担当になりました。
 妹の足を担当することになった子は、ミニスカートから赤いパンティをチラチラさせ、胸の谷間を大胆にえぐっている衣装の、厚化粧ギャル。

 あれ、この子、ちゃんとマッサージできるのかしら、と思っていたら、途中でやたらにケータイが鳴り、マッサージしている時間より、ケータイに出て中断している時間のほうが長い。

 20分くらいすると、妹はカンカンになってしまい、「いいかげんにして!もう、あんたやんなくっていいよ。そんなふうにただなでていたって、ちっともマッサージ効果なんかないから。男性ならそういうおさすりでも喜ぶ人いるだろうけれど、あたしはそんな胸の谷間見せられたって、お金払わないから!」と、日本語で怒り出した。

 結局、姪の足を担当していた若い女性が、姪の分が終わってから、妹の足をやり直すことになりました。
 「前の人が20分やったから、あなた残りの40分やって」と、お願いし、今度は「この子は、ちゃんとツボを心得ているし、リンパ液の流れも理解している。ちゃんとマッサージの研修を受けている子だ」と、妹も納得。

<つづく>
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2007年09月03日


ニーハオ春庭「西安・おみやげいっぱい」
2007/09/03  月
ニーハオ春庭中国通信>西安・おみやげいっぱい

 足浴マッサージ、ひとり60分40元。3人分の支払いのほか、姪と妹の両方をやってくれた子にチップをはずんでやりました。
 支払いが終わっても、妹は「男性専門しかやったことない子を、ほんとうに足が痛い人のマッサージに差し向けるマネージャーが悪い!」と、怒りがおさまりません。

 妹は、小さいときから身体が弱く、今もしょっちゅうマッサージや整体のお世話になっています。妹にではなく、私のところに赤パンティの小姐が来たのなら、私はマッサージしてもしなくてもたいしてちがわないのだから、きっと「マッサージしている時間よりケータイでおしゃべりしている時間のほうが長いなあ」と思っただけで、マッサージの技術を持っていないことを気にせずにおわったかもしれません。

 マッサージについてよく勉強していて、ツボだとか、リンパの流れだとか知っている妹の担当になったことが、彼女の不運でした。
 最後にお会計をするとき、フロントのソファに寝そべって化粧直しに余念ない彼女、そっぽ向いて「あたしの胸の谷間に感激しない客なんて客じゃないわ!」って雰囲気でした。

 「日本だったら、これだけ客を怒らせたら、マネージャーがあの子にとにかく頭をさげさせて、マネジャーもおわびのヒトコトをいうところだけれど、ここは日本じゃないから、みんな平気な顔してるわね。日本だったら、インターネットで書き込みしてやれるのに」と、妹がいうので、書いておきます。
 
 中国でマッサージを受けるとき、ほんとうにマッサージできるのか、胸の谷間をちらちらさせながら、さするだけの子なのか、よく確かめてから依頼しませう。
 アハッ、もちろん赤パンティの彼女のほうを指名したいって方もいますよね。

 8月6日午前中、デパート文商大厦で買い物。妹は西安特産のお茶やお菓子を買い込みました。中国食品バッシングが起きている最中だからと、食料品の買い込みは少なくしたというのですが、それでもNPO法人の仲間といっしょにお茶を飲むときのお茶菓子とか、いろいろ買い込みます。

 午後3時半の便で大連に戻る予定だったのですが、飛行機が遅れました。
 中国語わからない3人だからと、国内便なのに、国際線と同じように2時間前には飛行場につく用心をしていたので、飛行機に乗り込むまで3時間以上も西安咸陽国際空港で「何もできない時間」をとられました。

 おまけに、なぜ飛行機が遅れているのか、これからどうなるのか、という説明が中国語だけなので、英語ができるという係員に「Please explain it to me. What's happen」と、聞いても、「O.K. O.K.」というだけで、何がOKなのか、さっぱり要領を得ません。

 中国語の聞き取りがさっぱりできない私に、妹は「半年も中国にいて、よくそんだけ中国語できないまま暮らせたわね」というのですが、はい、暮らしてきてしまいました。

 ま、こんなことで、私が買った「ニセ青石」、妹が受けた「おさすりマッサージ」「どうして飛行機がおくれているのか、さっぱりわからんちん」と、珍道中は続きましたが、無事、大連行きの飛行機に乗り込み、ドタバタ西安旅行も、「楽しかったあ」と、終わりになりました。

 三千年の歴史を胸につめ、西安料理を腹につめて、飛行機は大連へ。
 華清宮のけだるそうだったコスプレ楊貴妃さんも、青石売りのおばちゃんも、マッサージの赤パンティ小姐も、みんな元気でネー。

<西安おわり大連へ> 


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2007/09/04 火
ニーハオ春庭中国通信>大連賓館スィート宿泊&ひとり75円の夕食

 8月3日夜に大連賓館に泊まったとき、「次は、中山広場が見下ろせる部屋にしてください」と、注文しておきました。
 それで、8月6日夜と7日夜は、広場側のスィートルームに宿泊できました。

 ツインベッドの寝室と、ソファセットや飾り棚などあるゆったりした居間の二部屋。東京2DK団地の我が家より広い。
 
 貧乏性のわたくし、中国に来て、スィートに泊まるのは、はじめてでございます。
 居間のほうにエキストラベッドをいれてトリプルルームにしてしまうところが、やっぱりちょっと貧乏性。「こんなに広い部屋なのに、これと別にシングルルームをとるなんて、もったいない」と、考えるところが庶民です。

 8月6日の晩。西安からの飛行機が大幅に遅れて大連に到着しました。
 私たちを「大連星海広場ビール祭」に案内しようと待っていてくれたハンさんも、あきらめて家に戻ったところ。

 晩ご飯を食べに大連賓館の海鮮レストランへ行ったのですが、遅い時間で、もうレストランは閉まっていました。
 大連賓館の海鮮レストランでは3人で600元(9000円)くらいの予算でした。これでも、日本の中華海鮮料理店の値段からすれば、「安い!」と、妹は言っていたのです。

 どこでもいいから、近場で食べようと、町をぶらぶら歩いて、目の前に並んだ料理の中から好きなのを指定して皿に盛りつけてもらう式の大衆食堂へ入りました。
 私はいつもこの方式の「指さし中国語」で、不自由なく食べてきました。

 料理3皿、スープ、饅頭などをとって会計をしたら、3人分で15元でした。ひとり分日本円にすると75円。姪が「安っ!」と、びっくり。
 なんのなんの、私はいつもこんな程度で食べてきた。

 私の教え子たちの職業は大学教師ですから、中国社会階層では上層に属しています。食の安全や栄養に関心が深い。それで、よく忠告してくれました。
 「先生は、安い食堂で食べないほうがいいです。安い油をつかった料理を食べると、おなかをこわします」

 でも、私のおなかが調子悪かったのは、中国に着いてすぐの3月だけ。
 あとは、どんな安食堂だろうと、田舎のこぎたない食堂だろうと、鉄の胃袋で消化してきました。

 大衆食堂3人で15元の料理だって、特別まずいわけでもなく、おいしい中華料理です。たぶん、最高級の食用油とかは使っていないだろうけれど。

 料理油の品質の話は日本でも報道されていて、妹も知ってはいましたが、まあ、1回くらいの食事で身体を悪くすることもないでしょう。
 それに、もし中国の安食堂で食事し続けている人々が、品質の悪い食用油によって健康被害を受けるようなことが事実としてあるのなら、それは、国の機関がきちんと対処すべきこと。
 (段ボール入り肉饅はねつ造ということで決着がつきましたが)


 自分たちだけは安全な食料品を「私たちはお金があるから高くても安全なものを食べますワ、オホホ」と食べればすむことなのでしょうか。
 「どんな安い食べ物をとっている貧乏人でも健康によい安全なものを食べる」のは、人として当然の権利と思うのですが。

 「ひとり5元75円で夕食を食べたって、自慢しようっと。友達へのみやげ話ができた」と、妹も大喜び。
 宿泊はスイートルームに泊まって、夕食は一人前5元ってところが、とってもアンバランスで、話としてはおもしろい。

 大連の夜、スィートルームの寝心地は?
 私は、村の一泊10元のフロ屋でもぐっすり眠れる「3分間目をつむっていれば寝つく」人なので、スイートだからって、寝心地が特に変わるってこともなく、、、、。ばたんキュー。

 昔は、スイートルームっていうのは、新婚さんが泊まる「あま~いお部屋」と思いこんでいました。sweetじゃなくて、「ひと続き」の意味の suite のことだって知ったのは、甘い新婚時代なんぞとうに過ぎ去った頃。
 新婚時代にはスイートなんぞ泊まったことがありませんでしたが、せめて、甘いもん食べてる夢でも見ましょう。

リンクは大連賓館HP日本語ページ http://www.dl-hotel.com/jp/index.htm

<つづく>
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2007年09月05日


ニーハオ春庭「大連老虎極地海洋動物館の座席」
2007/09/05  水
ニーハオ春庭中国通信>大連老虎極地海洋動物館の座席

 7日は、友人のハンさんの案内で、午前中は東海公園から星海公園への海岸通りドライブ。
 緑ゆたかな海辺、そして海際の山の中の道をタクシーで走りました。

 大連老虎灘海洋公園では、中国でここしかいないという「白い鯨」のショウへ案内してもらいました。

 2002年4月に開園した「老虎灘極地海洋動物館」の目玉、アシカと白鯨のショウです。鯨といってもそんなに大きい種類ではありません。かわいい感じ。
http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/www.ln.xinhuanet.com/xwzx/2006-10/20/content_8302716.htm

http://www.tbs.co.jp/chainavi/oa20060722.html
 
 開園以来、4回ここで遊んだというハンさんが「こんなに混んでいるのは初めて」という混みようでした。
 立ち見覚悟で最後尾に立っていたら、すぐ前のベンチにすわっていた外人ふたりが、予定の集合時間になってしまったらしく、立ち去りました。

 外人がふたり去ったあきスペースに、中国人女性といっしょにすわったら、右側に座っていたロシア語でしゃべっているおばさんに「あっちいけ」のジェスチャーをされました。

 自分の座っている隣が空いたのだから、自分に権利があると言いたいらしい。おばさんは、私を押しのけて自分の息子(中学生くらい)を呼んで座らせようとしました。

 一瞬腰を上げそうになりましたが、「ここは中国、自己主張しなくちゃ」と思い直して、「私は目の前に空いたスペースに座ったんです。あなたの隣の席だからといってあなたに所有権があるわけないので、私はこのまま座っていますよ」と、「日本語で」主張し、どきませんでした。

 息子もむりやりロシアママの隣に座ったから、ふたり分のスペースに三人で座ることになりました。きつっ!
 中国人女性は、「きつくなった」と中国語で文句をいう。そんなこと私に言われても、、、、。

 私も、日本にいれば、ずうずうしさにかけてかなりなもんのオバハンですが、どうも中国語やロシア語のまくし立てに、日本語オバハンの主張は、分が悪いみたい。

 ショウを見ながらも、この「異文化体験」について考察。日本語教師だからネ。
 日本の「場所取り」文化の比較考察。

 満員の電車の中で、座席にすわっていた人が立って下車した場合、そのすぐ目の前に立っていた人に座る権利が回ってきたと、皆が思っている。だから、目の前に立っていた人は、下車する人がドアへと向かう頃合いをみはからい、下車する人のじゃまにならないタイミングで座席に腰を下ろす。

 ところが、このタイミングをみはからっている間に、私の隣に立っていた人がちゃっかりすわってしまう場合がある。

 「違うわよ、私は、満員の中、下車する人のじゃまにならないように、脇に寄っていたのであって、座りたくないという意味じゃなかったんです」と、私は心の中で思うのに、斜め隣に立っていたオバハン(オッサン)は、知らん顔で座ってしまったあと。
 「あんた、目の前の席に座らないようだから、私、すわったのよ」と、いう顔で、デンと座ってしまったら、もう、私は立ち続けるしかない。

 「ああ、下車する人が出やすいように、脇によけるんじゃなかった、自分の目の前の座席を確保するように身体を動かせばよかった」なんて、毎度の後悔。
 「ほんま、脇から私の座席とるなんて、ずうずうしいオバハン(オッサン)やなあ」と、通勤の間中腹を立てている。

 でも、この「目の前に空いた座席は私のもの、という暗黙の了解」は、どうして皆の「暗黙の了解になっているんだろうなあ」と思います。

 また、プールサイドやディズニーランドのパレードコース、花火見物の河川敷、などで、「ビニールシートしいてある敷地は自分たち家族のもの」という「暗黙の了解」も、面白いなあと思います。

 何も敷いていないで、立っているだけでは、いくら「ここ、あとから私の家族が来る分のスペースです」と、言っても、どんどん人が入ってきて侵略されてしまう。
 ところが、ビニールシート一枚ひろげてあれば、その一枚の領地には人がはいってこない。

 映画館で、座席を立ってトイレにいく場合、座席の上にハンカチ一枚でも文庫本一冊でもおいてからトイレに立つ。
 このハンカチ一枚は「この座席は私のものですよ」という印。あとから来た人は、たとえ百円ショップで買った安物ハンカチであっても、それをどけてその席に座ることはしない。

 これなども、「物がおいてある座席を横取りしない」という暗黙の了解事項が全員になされているから成り立つ社会常識になる。
「持ち主を知らなくても、物があったら、他人の物に手をつけてはならない」という社会の了解事項が守られているからです。

 でも、「ハンカチがおいてあろうと、そんなものはどけてしまってよい」という社会常識の国もあるだろうし、ビニールシートなんぞ、「領有宣言にはなりえない」という地域もあるに違いない。

 この、ビニールシートやハンカチ一枚が「領有宣言」になるというのは、たとえ百円のものでも、それをどけたりしたら、「他人のものに手をつけた」という盗人になるという社会常識があるからでしょう。
 これとはちがう常識の社会もあると思います。

 道に落ちているものは、「不必要なもの」ではなく、「誰かが落としたもの」だから、交番に届けなければならない、ということを、親からいやというほどしつけられているから、子供でも「道におちているものは、警察に届ける」という社会常識となる。

 ある地域では「置き引き」と見なされている行為が、「放棄された物をいただくだけ」という意識で持ち去られる地域もあるでしょう。
 「持ち主の手を離れて、そこに置かれている荷物は、持ち主不明=不必要な品物となる」と考える人もいるんじゃないかな。

 ちょっとでも手を離したら、そのカバンは「放棄された落とし物、不必要なもの」と、みなされてしまう。

 「砂漠や野原の真ん中に落ちているものは、だれかが放棄したものだから、見つけた人が再利用してやったほうがいい」という地域の常識が拡大解釈されて、「手が放れている品物は放棄された物」と考えれば、置き引きは犯罪ではなくなるってこともあるだろうなあ。

 ハンカチ一枚くらいじゃ、「その座席は私のもの」にはならない地域もあるということを知ってはいたけれど、大連の白鯨ショウで、「隣の席があいたら、私のもの」と「目の前の座席が空いたら私の席」の、権利のぶつかりあいでは、まあ、私のほうが「ちょっと押され気味」ながら、引き分けにおわりました。

<つづく>
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2007年09月06日


ニーハオ春庭「大連老虎極地海洋動物館の白鯨ショウ」
2007/09/06  木
ニーハオ春庭中国通信>大連老虎極地海洋動物館の白鯨ショウ

 きちきち座席でみた白い鯨。
 リズムに合わせて身体をゆすったり、観客の中から選ばれた女性の顔にキスしたり、飼育員のイケメンおにいさん(山本耕一似)が白鯨の背の上に立ち、プールを一周したり、なかなか愛嬌がありました。

 次はイルカショウ。男の子がフラフープするのと競争で鼻先で輪を回したり、鼻でボールをついたり輪くぐりをしたり。

 数字の足し算引き算、ほんとうに計算ができるみたいに、「5+2は?」「4-1は?」などの飼育員の合図でイルカがボードを鼻先で押す。
 子供達は、本当にイルカが計算できると思って、「イー、アール、サン、スー、ウー、リュー、チー」と、大声でイルカがボードを押すのに合わせて声を張り上げて数を数えています。

 「10ー1」の計算で、イルカが11回ボードを押してしまったときには、「あ~あ、まちがえちゃった」と残念がる声。「ちがうよ、足し算じゃないよ、引き算だよ」と、あちこちからイルカに教えてあげようとするかわいい声があがります。みんな、算数とくいなんだね。

 飼育員が「ほら、これは引き算だろ、もう一度ちゃんと計算して」と、言うと、イルカは、次は9回ボードを押しました。なかなか芸が細かい。

 サンシャイン、品川、油壺水族館などで、イルカやアシカのショウを見てきましたが、こんなに観客が大喜びでノリノリになるのを見るのはなかなかないことなので、きつきつ座席でも楽しかったです。

 昼ご飯は、星海広場わきの上海料理の店。
 食べたことのないもの、というコンセプトで「鶏の足料理」などを注文。妹と姪、興味しんしんでこわごわ鶏の足にかじりついてみましたが、、、、、、、コラーゲンたっぷりといわれても、はあ、やっぱり見た目でいまひとつ食欲わかない、という感想でした。

 四川料理や上海料理は、日ごろ食べ慣れた東北料理とはまた違う食材や味付けがあり、中華料理、北から南まで、幅広い。
 大連でも、海鮮料理、東北料理、上海料理、いろんな味を楽しめて、「中国食べ歩き旅行」の私と妹には、またまた「ダイエットは来年から」の日々です。

<大連おわり 北京へ(北京篇は9月中旬より掲載します。次回から「へいわのうた」シリーズ)>


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2007/09/14 金
ニーハオ春庭中国通信>北京南苑空港

 春庭の中国滞在報告、最後の滞在地は北京でした。
 8月8日、妹と姪を大連空港で見送りました。ふたりは成田へ。

 6日間の旅で軽装のふたりに、私のスーツケースを持ち帰ってもらいました。
 一番大きな荷物が減って、北京でのひとり歩きも、少しは身軽な気持ち。

 公用旅券での旅、最初に文部科学省に届け出た「北京から帰国」が、変更不可と言われました。しかたなく大連から妹といっしょに帰国するのをあきらめ、私は北京へ。
 妹と姪が国際線ロビーに入った1時間あと、私は国内線で北京へ。

 スーツケースが減っても、私の荷物は、キャリーカートバッグ、ボストンバック。パソコンバック。
 衣類や本などは、7月中に段ボール箱3箱に詰め、船便で日本へ送ったのですが、手で運びたいものだけでも、半年分の荷物となると、ずいぶんな量です。

 大連発北京行き飛行機は、北京首都国際空港ではなく、北京南苑空港という小さな空港につきました。
 長年、軍が使用してきた空港で、2005年に民間利用が許可になったので、旅客用の設備などはありません。
 妹たちの成田行きが出たあとの一番早い北京行きということで、選んだ便でしたが、なんでも人と違うことをしてみたい私には、よい経験でした。っていうかちょっと痛い経験になりましたが。

 南苑空港の写真 個人ブログより http://4travel.jp/traveler/nh155/album/10170810/

 私が買った北京地図には、「軍関連」の施設が掲載されておらず、この南苑空港が北京市のどのあたりにあるのか、まったくわからずに空港に到着しました。
 荷物受け取りはプレハブの中で。

 プレハブの外に、リムジンバスとタクシーが客待ちしています。
 リムジンバスに乗り込もうとしたら、あんちゃんが話しかけてきました。
「どこまで」
「牡丹賓館」
「このバスは西単が終点だから、牡丹賓館までいかないよ。タクシーにしなよ」

 「タクシーは、高いからヤダ」
「150元でいくよ」
「ウェー、高っ。リムジンバスは20元でしょ」

 西単からもう一度タクシーに乗り換えるのも、荷物が多いのでたいへんと思ったので、あんちゃんのタクシーに乗車。乗り込んでみたら、メーターもついていなくて正規のタクシーじゃなかった。しまった、とおもったけれど、もうおそい。

 北京首都国際空港から市内天安門までは31km、タクシー70~90元程度なのに対して、南苑空港から天安門まではたったの13km。距離は二分の一。
 でも、このあんちゃんは、どこをどう回ったのか、1時間もぐるぐる運転していて、高速道路にも入り、牡丹賓館の前で「高速代は別だから」と、130元要求しました。

 南苑空港から牡丹賓館まで、たかだか20kmほどの距離を、渋滞もないのにどう走りまわったら60分の運転時間になったのやら。北京の町を見物ドライブしたと思えばいいのでしょうが、あいにく、タクシーに乗り込んだら眠くなってうとうとしていたのでした。

 うとうとしている間、ぐるぐるとどこやらを走り回っていた、、、、。
 ひとり旅、油断禁物、うたた寝厳禁です。

 大連ですられたお金は、完全な犯罪なのに、「私がうすぼんやりしていたから」と、あきらめがつくのに、北京のタクシーのほうは、「ぼられた」という感じが強い。南苑空港から市内までの料金を知らずに乗り込んだ自分が悪いのであって、ちゃんと調べておかなかったことが悔しいのです。

 正直なタクシー運転手も多いのでしょうが、このようなボッタクリを取り締まらないと、来年の北京オリンピックで、観光客から中国への不信感が強まるのかも。
 各空港のタクシー乗り場には、大きく、「市内まで約80元」「天安門まで30元」というような掲示をしておくといいのではないかしら。

 オリンピック見物の方、首都国際航空から市内までは、高速代いれても80~100元ですからね。300元とか、要求するタクシーには乗り込まないようにね。
 旅行客にいやな気分を与えたら、オリンピックで国威発揚をはかる政府の意気込みも諸国からのお客さんに伝わらないのではないかと思います。

 市民マナーの向上が叫ばれ、意識改革が呼びかけられているさなか、「ごみを路上に捨てないようにしようキャンペーン」とか、「行列をきちんと作って、割り込みしないようにしよう」とか、いろいろ言われていますが、「ぼったくりタクシー追放」というのも、北京ですすめてほしいです。

<つづく>
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2007年09月15日


ニーハオ春庭「北京の鼓楼」
2007/09/15 土
ニーハオ春庭中国通信>北京の鼓楼

 かって、鼓楼の太鼓、鐘楼の鐘によって市中に時刻を知らせていたのは、北京も西安も同じ。
 今回の北京の街あるき、私の「ランドマーク」は鼓楼でした。
 2007年の北京、見ておきたいところは、天安門でも万里の長城でもありません。
 「取り壊される前の故同(フートン)」が、今回の北京旅行の目的地域。故同は、北京の「下町路地」です。

 北京の鼓楼の東側には鼓楼東大街、西側には鼓楼西大街。シンプルです。
 池袋西口にあるのが東武、東口にあるのが西武デパートというよりずっとわかりやすく、迷わずにすむネーミング。

 北京故同あるきの途中、鼓楼(入場料20元)に上って、市中を眺めました。高いところに上るのは、大好きです。高さは46,7メートル。

 鼓楼の入場口から73段の急な階段があります。
 エレベーターをつけてほしいなあ、なんて思いながら、ふうふうと休み休み登りました。

 いや、だから、ほら、バリアフリーの時代だし。足腰弱い人も身体の不自由な人も、お年寄りも、歴史的建造物を鑑賞できたほうがいいでしょ。
 エレベーター、私のためじゃなくて、お年寄りのためですから。って、私も年寄りでしたね、、、、、、。眉毛にも白髪を1本見つけました、ぐすん。

 上りきったところに、24個の大太鼓が展示されています。
 太鼓の打ち手は、水時計によって正確な時刻を知り、太鼓の音によって、市内に住む人々に時刻を知らせていました。
 (現在の鼓楼に展示されている水時計は複製品です)

 鼓楼では、30分ごとに太鼓の演奏が行われます。
 私は12時半の演奏を聴きました。
 昔は、24人の打ち手が108回太鼓をうち鳴らしたということですが、私が見たときは、7人か8人くらいだったように思います。

 108回うち鳴らすのは、1年12ヶ月、24節季、72候の「12+24+72」の合計数が108だからですって。

 日本の除夜の鐘を鳴らして煩悩を打ち散らす108回という数の由来には、諸説あるのだけれど、六根清浄の六(目耳口鼻身意)×2(浄・染=きれいと汚い)×3(良・悪・平)×3(前世・現世・来世)6×2×3×3=108なんだって。
 なんかこじつけっぽい気がする。

 だんぜん12+24+72というほうが、いい。なぜならば。
 私、かけ算は苦手。計算よわいです。足し算なら、12+24+72くらいは指折り数えればなんとか計算でできる。だから、足し算の方に賛成。

 リズムにのって、勇壮にうち鳴らされる太鼓、なかなか見事な演奏でした。
 打楽器演奏、大好きです。和太鼓もパンソリの太鼓もアフリカントーキングドラムも。

 鼓楼のテラスから地上を見下ろす。
 鼓楼の北側には鐘楼があります。鼓楼と鐘楼の間は広い駐車場になっており、たくさんの観光バスが出入りし、また、故同めぐりを勧誘する輪タクが駐車しています。

 その広場にピンクのひらひら扇を持ったおばさんたちが並び、東北のヤンガーのような歌と踊りの披露がはじまりました。
 観光客がいっしょに扇をもって踊りに加わっています。ブラックアメリカンらしい数人、楽しそうに扇をふっているのが、鼓楼北側の展望所から眺められます。

 鼓楼の周囲は、古い故同が集中しており、上から眺めると、故同の家々、四合院の屋根が見渡せます。あちこちに壊された故同のがれき山も見えます。

リンクは中国国際放送局HP  http://japanese.cri.cn/304/2006/08/20/1@71356.htm

<つづく>

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2007年09月16日


ニーハオ春庭「鼓楼近辺・浦安ラーメン」
2007/09/16 日
ニーハオ春庭中国通信>鼓楼近辺・浦安ラーメン

 8月9日、鼓楼の周囲の故同めぐり、鼓楼を中心にしたおかげで、方向音痴の私でも迷わずにすみました。
 でも、帰りのバス停は見つけにくかった。
 バス路線がたくさんあるので、バス停は路線ごとに違う場所にあります。同じ「鼓楼前」というバス停でも、路線によってバス停は離れています。

 鼓楼東大街を、バス停を探して歩いていたときのこと。
 「浦安」と書かれた看板が目に入りました。漢字には「うらやす」とふりがながあります。入り口にはカタカナで「ラーメン」と書いた暖簾が下がっています。
 思わず入ってしまいました。

 もうすぐ日本にかえるのだから、今更「日式ラーメン」を食べなくてもいいと、思ったのですが、食べたいと言うより、どんな店なのか見たくて。

 崇文門大路の「あじせんラーメン」でも食べてみたけれど、特別感激の味でもなかったので、もう日式ラーメンはいいや、と思ったところだったのに。
 「あじせん」は、熊本に本拠地があるチェーン店。北京に何店ものチェーン店があります。

 「浦安ラーメン」は、北京ガイド雑誌のラーメン特集号に掲載されたといい、若いご主人胡さんがその雑誌をみせてくれました。
 私が入ったのは、平日の午後4時前という中途半端な時間だったので、先客はひとり。私のあとに二組のカップル、という程度の客数だったけれど、夕食時は、雑誌効果もあって、北京駐在の日本人などにはなかなか人気の店らしい。

 雑誌記事によると。
 ご主人は、千葉県浦安で留学生活をおくり、その間ずっとラーメン屋でアルバイトをつづけた。大学卒業後、中国に帰国後、「本格的な日式ラーメン屋の普及」をめざして、老北京と呼ばれる一帯、すなわち鼓楼近辺に店をかまえた。

 本当は、日本人駐在員が多い地域に店を出したかったけれど、昨今の地価や店の賃貸料高騰で、とても借りられない。そこで、発想を逆転して、昔ながらの北京の下町故同が多いこの鼓楼周辺に店を借りたら、かえってそれがよかったといいます。

 2時過ぎにおそい昼ご飯を食べたので、浦安ラーメンに入ったときはおなかはいっぱい。杏仁豆腐だけを注文しました。
 でも、ご主人の話をきいて、雑誌を見せてもらっているうちに、やっぱりラーメン食べておこうという気になり、チャーシューメンを注文。
 おなかいっぱいで食べたわりには、おいしく食べられました。

北京在住、貿易関係の仕事をしている方のブログにある浦安ラーメンのチャーシューメン
http://plaza.rakuten.co.jp/motobeijing/diary/20070709/

 ラーメン一杯で20元(約300円)。中国ではちょい高級なたべもの。
 蘭州ラーメンや朝鮮冷麺、北京で食べても5元10元の店はいくらでもあるから、20元の日式ラーメンを食べる層は限られてしまうかもしれないけれど、ご主人「日式ラーメン普及」がんばってね。
  
 日本でアルバイトしながら留学していたときくと、それだけで応援したくなります。
 北京駐在員さん、北京の大学で中国語や中国文化などを学んでいる日本人留学生さん、輪タクで故同見物をしている観光客のみなさん、おなかがすいたら、ぜひ浦安ラーメンをどうぞ。

北京で学ぶ日本人留学生のブログより
http://blog.goo.ne.jp/zuoteng-_-qie/e/d214d3f8699497a126268abc8c400f97

<つづく>


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ニーハオ春庭中国日記「大連&西安」

2011-11-08 06:23:00 | 日記
2007/08/17 金
ニーハオ春庭中国通信>大連でスリに遭遇(1)

 8月3日に、妹&姪と大連で合流し、大連賓館に一泊。
 大連賓館は旧名ヤマトホテル。古いけれど、満州時代は市内随一のホテルでした。天井が高くて、部屋も広々しています。

妹がホテルについてすぐにしたことは。
 私が「3月からの海外旅行保険は90日間の保障だけなので、今は保険の期限が切れている」という話をすると、すぐに日本の友達に電話をかけ、私の保険を申し込みました。

 もうすぐ日本に帰るのだし、保険、手続きするの面倒だなあ、と思っていたのですが、8月3日から帰国までの保険を申し込みました。

 8月3日の夕ご飯は、友人のハンさんと娘さんのシンシンちゃんを招待して海鮮料理レストランへ。
 妹はトゲトゲ大きなウニのカラを割ってもらい、山育ちの身には最高の贅沢とご満悦です。

 姪とシンシンちゃんはすぐに仲良しになりました。
 童顔の姪のことを「私よりちょっと年上のお姉ちゃん」と思いこんで仲良くなっている9歳のシンシンちゃんに、「このおねえちゃん、来年は三十路だ~」とはバラさないでおきました。

 8月7日、妹と姪が日本へ帰る前の晩、夕ご飯は、友人のハンさんが自宅でごちそうしてくれることになりました。

 ハンさんが買い物をすませるまで、私たちはいったん大連賓館へもどり、買い物場所で待ち合わせ。

 待ち合わせ時間までの時間つぶし、妹のリクエストは、マッサージの店。
 ハンさんは、日本人の友人達がよく利用していたという日本語が通じる店へと案内してくれました。「手足情」という店です。

 わたしは「マッサージはいいや」と思って、妹を姪にまかせて大連賓館に戻り、近所の古い建物の写真をとったりしていました。

 大連中山広場の周囲は、旧満州時代の建物がたくさん残されています。
 70~80年前の建設途上の大連で、建築家たちが競い合い、思い思いの近代建築を並べたのではないか、と思える、さまざまな近代建築見本帳のような広場です。
 http://www.uraken.net/world/dalian/dalian03.html

 写真をとっているうちに、ぼつぼつと雨が降ってきたので部屋にもどり、妹たちの帰りを待ちました。
 ハンさんが店の人に「終わったらタクシーを呼んで、大連賓館までと、タクシーの運転手に言ってね」と指示してくれたので、妹と姪だけで無事ホテルに帰ってこられました。
 母と娘、ふたりだけで行動する時間というのもあってよかったんじゃないかしら。

 ぽつぽつ降り出していた雨が、小雨になってきたので、急いでまたタクシーを拾いました。
 ハンさんと待ち合わせの場所でタクシーをおりたときには、どしゃぶり。

 妹は傘をもってこなかったから、傘を買いたいと、いいます。
 大型スーパーに入り、私も大連の蝦飴などおみやげを買って、レジで支払いをすませました。妹は出口近くで傘を選んでいます。私の意識は妹の方へ向いていました。

 雨のなか、タクシーを拾いやすいところまで歩いている途中のこと。
 妹が急にキャーと叫びました。どうしたどうした、また転びそうにでもなったか。
 わけがわからないうちに、大量の紙がばらまかれました。えっ、えっ、何がおこった?どうしたこれは。

 「ど、どろぼう!、どろぼうに髪ひっぱられた。頭なぐられた」と、妹。

<つづく>
00:16 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2007年08月18日


ニーハオ春庭「大連でスリに遭遇(2)」
2007/08/18 土
ニーハオ春庭中国通信>大連でスリに遭遇(2)

 道にばらまかれたのは、姪の鞄の中味。
 領収書や小銭の1元札などがばらまかれています。
 とにかく、なんだかわからないまま、私は大急ぎで道にまかれた小銭入れや紙を集めました。

 妹は、前を歩いている姪の鞄に手をつっこむ男の腕が傘の下に見えたので、「ギャー」と、さけんだのでした。

 気づかれずに仕事をすませるはずのスリは、気づかれてしまったので、あわてて、鞄のなかからつかみだしたものを道路にばらまいた。仕事のじゃまをした妹の頭をなぐって逃げた。

 姪は、雨に濡れた道路に気を取られていて、鞄に手を突っ込まれたことにまったく気づかず、妹が叫ばなければ、大金が入ったほうの財布まで手が入り込んだのかも知れません。が、さいわい、道路にばらまかれたほうは、小銭入れでした。

 ハンさんの家では、ハンさんのお姑さんが料理を作って待っていてくれました。
 シンシンちゃん、ハンさんのご主人のリュウさんといっしょに、心づくしのごちそうをいただきました。
 ゆであわび、ほたて、生ウニ、木耳の炒め物、きゅうりのあえもの。肉饅頭。どれもお姑さん自慢の家庭料理です。ほんとうにおいしかった。

 スリにすられそうになったという話も、姪の財布は助かったので、リュウさんやお姑さん達に何が起こった伝えるのも「武勇伝」めいています。

 おいしい海鮮家庭料理をいただきながら、私は、姪に説教します。
 おしゃれな服を着て、小粋な帽子をかぶっていた姪に対し「そんなガイジンっぽいおしゃれな格好をしているから、スリに狙われちゃうんだよ。私みたいに、10元のTシャツきて、よれよれのジーンズはいて、50元のスニーカーはいて歩いていれば、スリも近づいて来ない」と。

 ところが、ところが。
 ホテルに帰って、買ったものを整理しようと、私が持っていたバッグの中味を全部だしてみたら、、、、
 財布がなかった!

 スリが姪の鞄を狙ったのには、前段階があって、スーパーで買い物をしたあと、傘を選んでいる妹に気をとられていたとき、すでに私の財布はすられていたのでしょう。

 いつそんな目にあったのか、まったく気づきませんでした。自分の財布でなければ、「さすが、技術をみがいているだけありますなあ、いや、見事な仕事っぷり」と、言いたいくらい。

 こんなマヌケな一行だから、ついていけば、もう一度うまい汁が吸えると、スリに目をつけられ、後を付けられていたのだと思います。
 しかし、姪の鞄を狙ったことは、妹に発見されて失敗。

<つづく>
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2007年08月19日


ニーハオ春庭「大連でスリに遭遇(3)」
2007/08/19 日
ニーハオ春庭中国通信>大連でスリに遭遇(3)

けっきょく、一番のマヌケは私、ということになりました。

 ぐやじい!!!
 妹や姪といっしょだし、中国人の友人がいっしょなのだからと、油断をしていたってこともありました。
 
 しかし、考えてみると、今回は財布ごとすられたので、無くなったことに気づいたのです。いつもは、お金がなくなったことにすら気づかない。
 いつも、500元くらいまでのお金は財布にいれずにそのまま服のポケットにつっこんでおき、適当にお札をだして支払う方式の私、これまでも、きっとすられていたんじゃないかと思います。

 財布を持っていると狙われるから、レジで財布からお金を出し入れするな、中国人のように、ポケットに小銭を小分けしてつっこんでおけと、忠告されていたのですが。
 持って出たお金と買い物したお金の収支が合わないのは、私の計算力がないせいだと思っていました。

 「また、今日も買った値段と支払った値段が合わない、計算弱いからなあ」と、思ってすごしてきましたが、きっと何度もすられていたのかもしれません。今回もすられたことにまったく気づかなかったということを考えると、これまでもまったく気づかれずにすられてきたのだろうと思います。
 マヌケです。

 すりにしてみれば、こんなウスぼんやりしたおばはんのポケットを狙うくらい、朝飯前のことだったでしょう。日本にいたって、私は毎日注意力散漫で、物をなくす、置き忘れる、どこにしまったかわからなくなる、なんて、日常茶飯事なのだから。

 そんなこんなの「大連でスリに遭遇」の一幕でした。
 
 8月3日に保険にはいっておいたおかげで、そう被害甚大でもなくすみました。
 本当は私たちが警察に出向いて被害届を書いてもらわなければならないところ、翌日は私は北京に、妹と姪は成田へと出発しなければならず、飛行機の時間を変えるのはまたたいへんなので、ハンさんが書類関係のことは全部処理してくれました。

 出会っておくべきは、よき友人。出会わずにすませたいのは、スリひったくり。

 え~、別段海外旅行保険会社に頼まれたわけでもありませんが、宣伝をひとつ。みなさん、旅行に出るさいは、保険に加入しておきましょう。何がおこるかわかりません。

<大連のスリおわり>
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2007年08月20日


ニーハオ春庭「善悪功罪勝敗陰陽、なんでもアリが「地球歩くコツ」
2007/08/20 月
ニーハオ春庭中国通信>善悪功罪勝敗陰陽、なんでもアリが「地球歩くコツ」

 妹と姪が中国ですごした最後の夜。
 スリに頭をなぐられ、ショックを受けた妹でしたが、友人ハンさんご一家の歓待を受け、中国に対して嫌な思いをひきずらずに帰国できたことは幸いでした。

 悪い人は、日本にもどこの国にもいます。
 たまたま大連で人様の財布を盗ろうとする者に出くわしたのは災難でしたが、中国13億人全員が悪いということはありません。私も半年の中国滞在で、たくさんのよい人に出会えました。

 ただ、どの国を旅する場合でも、「他の国に比べれば安全な日本に住んでいると、自分自身で守らなければなければならない携行物や自分の身への注意力が不足してしまいがちだ」ということは意識すべきでしょう。

 個人旅行者よりもツアー旅行者に「パスポートをすられた」というような事件が多いのも、ツアーだと「自己管理」という気になりにくいからかも。
 私がスリに財布をすられたのも、「中国人の友人といっしょ」という気のゆるみがあったからだと思います。

 保険加入のおすすめと共に、「中国にスリがいたからって、中国全体が危険な国というわけではありません」ということと、
「でも、来年の北京オリンピックには、たぶん、中国中のスリが北京に集まってくるよ~」というご注意を。
 当局が取り締まりに目を光らせる度合いも強まるでしょうが、そこは、スリたちだって、「腕の見せ所」と、待ちかまえているにちがいありません。

 広い中国、「なんでもアリ」です。
 以前、「四つ足のものは机以外のものすべて、空飛ぶものは飛行機以外のすべてを食べるのが中国料理」ということを書きました。
 「食」以外の分野だって同じこと。どろぼうの技術も4千年の歴史のなかで磨かれているに違いない。

 妹と姪は、「スリにあった」という経験も「旅のみやげ話」として、西安や大連で買い込んだ土産物と共に、成田行きの飛行機で帰国しました。

 最初にスリ話をしてしまいましたが、では、これからゆっくりと西安大連でこぼこ道中のおはなしを。
 ツアーで効率よく名所を見て歩くのとはまたひと味ちがう、「地球の迷い方」満載の道中になりました。

<つづく>
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2007年08月21日


ニーハオ春庭「でこぼこ珍道中in西安」
2007/08/21 火
ニーハオ春庭中国通信>でこぼこ珍道中in西安

 8月4日朝、大連から西安へ。飛行機で2時間。
 
 西安の宿は、五一飯店という大衆中華でにぎわうホテル。西安繁華街の中にあり(東大街351号tel-87681098)、1階が大衆レストラン、2階がフロントと西安・淮揚料理のレストラン、足浴マッサージの店。3階以上が客室。
 格安ツアーの「キャンペーンクラス」に利用されるホテルです。

 五一飯店、「西安グルメガイド、安くてウマイ店」と、ガイドブックには出ています。淮揚料理の有名店だとか。
 名所旧跡より何より、美味しい料理を食べられることが旅行の第一目的という食いしんぼ姉妹の旅なので、まずは腹ごしらえ優先で。

 客室は、安いけどまあまあ。トリプル室を予約したのだけれど、ツイン部屋にエキストラベッドを無理矢理押し込んで、きちきちってかんじ。
 でも、ま、いいか。ホテル見にきたんじゃなくて、兵馬俑を見るんだし、おいしいご飯食べればいいんだし。

 添乗員も現地ガイドもいない旅にとって、ことばができないのはやはり不自由でした。
 筆談とブロークンイングリッシュで、コップの数が足りない、とか、フロアスタンドがつかない、とか、交渉。

 五一飯店HP(中国語と英語のみ。日本語HPなし) http://www.may-first.com/

 西安は、紀元前11世紀から歴史の表舞台に登場し、近代史の西安事件(*)に至るまで、長い歴史の中に時を刻んできました。
(*1936年12月12日に西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件)

 紀元前11世紀の西周から、前漢、新、晋、前趙、前秦、後秦、西魏、北周、隋、紀元9世紀の唐まで、諸王朝の都として栄えたまちです。
ことに、唐時代の「長安」は、「世界史上の大都市」で、日本からも空海、最澄、吉備真備はじめ、たくさんの留学生留学僧が滞在した関わり深い歴史の街です。

現在の西安は中国陝西省の省都。周囲13kimの城壁に囲まれた城内とその周囲に広がる城外を含む、市街地の人口300万人、郊外地を含めると680万人都市です。

 西安の主な観光地は。
 紀元前3世紀に、最初に中国を全国統一した秦の時代、始皇帝の陵墓と兵馬俑。
 9世紀、唐時代の楊貴妃の墓や華清池。
 三蔵法師玄奘がインドから持ち帰った経を納めた大雁塔。
 14世紀、明時代に建てられた鐘楼と鼓楼、などなど。
 まさに、中国3千年の歴史を俯瞰できる都市です。

 最初は、大手ホテルの中にある旅行社へ行き、妹の希望で日本語ガイドつきのツアーに申し込もうと思ったのですが、ふたつ旅行社を回っても、「今日は日本語ガイドツアーをやっていない」といいます。
 西安に着いたのが土曜日だったので、土日の予約はもういっぱいだったのだろうと思います。

 日本語ガイドに案内してもらったり、ツアーで次から次へと効率よく回るのもひとつの旅の方法ですが、私は、できることなら、少々デコボコでも穴が空いても、自分たちの手と足で自由に歩きたい、という気持ちが強く、それ以上、旅行社めぐりをして日本語ガイドをさがすよりも、自分たちで行けるところに行けばよい、と思いました。

 妹は、日本語ガイドがいないと不安なようでした。子どもの頃からずっこけ続きの姉ですから、そのあやしげな筆談をあてにしていいものかどうかと。
 「まっかせなさ~い!中国語はあやしいが、コミュニケーション能力は高いのだ!」と、姉。
 「まかせるたんびに、ずっこけたんだけど」と、妹。
 ま、なんとかなるでしょ。
 
 タクシー代と各地の入場料を合わせるとツアーよりも割高になるのですが、自分たちの好きに回るところを設定して好きなときに休めるのは気楽です。
 各観光地の説明は、あとでネットの日本語説明を読めばよい、ということにしました。

西安市観光局HP http://jp.xian-tourism.com/

<つづく>
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2007年08月22日


ニーハオ春庭「西安・鐘楼」
2007/08/22  水
ニーハオ春庭中国通信>西安・鐘楼

 8月4日午後、五一飯店から徒歩で西安の鐘楼へ。鐘楼の入場料金一人27元。

 鼓楼と対になっており、朝の鐘と夕方の太鼓で、住民に時を知らせる役目を担っていました。
 高さ36mの鐘楼の上から、四方へのびる道路が見渡せます。

 昔、朝、鐘を鳴らして城門を開け、夜、太鼓を鳴らして城門を閉めたのだそうです。
 鼓楼は1380年に建てられ、鐘楼は1384年、西大街の広済街口に建てられたました。そののち、鐘楼は1582年現在の場所に移築されました。夕方はライトアップされます。

個人のHP旅行記から
 http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2003xian/photo/xian1074l.jpg

 鐘楼のテラスをぐるりと回り、四方の景色をながめます。並木の美しい立派な道路が東西南北へ伸び、それぞれ西安城壁の東門西門北門南門へ続きます。

 鐘楼の中には、陝西省独特の文化財である「影絵劇」の、「皮革切り絵人形」が壁一面に展示されています。
 皮を細かい切り絵作業によって切り抜いた人形。手足の先に棒をつけ、人形を操って、さまざまな物語りを上演します。

 伝統的なステージがあり、古楽器が並んでいます。時間によって楽器の演奏があったのですが、私たちが入場したときには、もう楽器演奏は終了していました。
 30分くらいあとに影絵劇の上演があるというので、鐘楼のなかを見回りながら、上演を待っていました。こんなふうに見学時間を変更できるのも、個人旅行のいいところ。

 楽しみに影絵上演を待っていたのに、ステージに登場したのは、スクリーン。影絵上演は、パソコンからスクリーンに投影して行われたのでした。
 な~んだ。パソコンの投影なら、テレビやDVDで見ても同じこと。実際に人が上演すると思ったので待っていたのに、がっかりです。
 上演についての中国語説明がわからなかったために、こんな「がっかり」もでてきます。これは、ことばがわからないままの個人旅行のわるいところ。
 
 鐘楼を出ると、回りにぐるりと地上の道があり、最初、それを一周したのですが、反対側に出る横断歩道がないので、次に鐘楼の地下周囲にある地下道を一周しました。
 「なんだかぐるぐる同じところを回っているんじゃない?」
と、珍道中。

 出口がわからずぐるぐる回るのも、ツアーやガイドがいたらできないこと、と、逆転の発想でデコボコ道中を楽しむことにしました。

<つづく>

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2007年08月23日


ニーハオ春庭「西安・城壁」
2007/08/23  木
ニーハオ春庭中国通信>西安・城壁

 地上の道には横断歩道がなかったので、鐘楼の地下周囲をドーナツ状にぐるりと取り巻いている地下道を一周。地上との上下にはエスカレーターがそれぞれの出口についています。これはありがたい。

 それから城壁の南門へタクシーで行きました。タクシー初乗り8元。着いてみたら、歩いてもそんなにかからない距離でしたけれど。
 南門から城壁の入場料金ひとり40元。

 一般のツアーでは、東門から城壁に上って、東門の近くから周囲を見て次のコースへ行くのが多い。

 現在残されている城壁は、唐・隋の時代の土塁をもとに、明代に建てられたものです。建設は1370~78年、ほぼ十年がかりで、土塁から石積みの堅固な城壁になりました。
 かっては北京など他の都市も、西安と同じように城壁に囲まれていたのですが、市の発展とともに城壁をこわし街を拡張していきました。

 西安市でも、一時は「街の拡張にあわせて取り壊した方がいい」という意見もありました。建てられてから600年以上たつ城壁は痛みも目立ち、補修すべき箇所も多かったからです。

 しかし、市は、崩壊してきた城壁を修理しながら保存することを選択しました。
 現在中国で「完全に四方を取り囲んで残された城壁」は、ここ、西安市の城壁のみとなっていて、貴重な観光資源となっています。
 古いものをやみくもに壊して新しくすることより、大切に保存することがよい結果を生むという見本です。

 東西南北に城門が設けられ、かっては、夜、太鼓とともに門が閉められたあと、朝、鐘の音によって開門するまでは、人も車も出入りできませんでした。
 城壁は、城内の平和と安全を保障するものだったのです。

 城壁は、高さ12m、幅12~14m。
 城壁の上では、ジョギングしている人、サイクリングしている人。散歩している人。 欧米人は、ジョギングや自転車で走る人が多い。

 貸し自転車は、門から門への往復でもいいし、90分かけて城壁1周でもよい。
 1人乗りは90分15元、2人乗りは20元。
 一周14kmをノンストップで走れば、90分で戻ってくることが可能だけれど、途中で見学したり休憩を入れて90分以上かかったときは、帰ってきたときに30分ごとに追加料金を支払う。

 いや~、元気な人には絶好のサイクリングロード。「3000年の歴史の風をきって走る」って感じでしょうか。

 ヤワな我ら3人は、「このカンカン照りの中、何が悲しくてこんな高い場所で走らにゃならんのよ」と、自転車をすすめてくるおっちゃんにはノーサンキュー。
 城壁を一周する電動観光車に乗車しました。ひとり50元。

 観光用ですが、西安市の「公共バス」のひとつです。といっても、市内バスは1元なので、50元もするバス、一般の市民はたぶん乗らない。
 1周14kmの城壁をのんびり走る観光車。切符には「西安城墻遊覧観光車乗車票」とあります。

 途中段差があると「はい、おりてください。向こう側でまた拾うから」と、おろされ、日盛りの中歩いた部分もあり、けっこう時間がかかりました。でも、集合時間とか気にする必要がないのは、自由旅行のいいところ。
 観光車は、一周切符を持っていればどこでおりてどこで乗ってもよく、どの車に乗り換えても良い。

西安の城壁 中国国際放送局HPより  http://japanese.cri.cn/119/2006/05/30/1@64496.htm

<つづく>


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2007年08月24日


ニーハオ春庭「西安・書院門通り」
2007/08/24  金
ニーハオ春庭中国通信>西安・書院門通り

 城壁から見渡す西安の町、ところどころに古いお寺の伽藍が見下ろせたりしましたが、全体としては、アパートなどが立ち並ぶごく普通の町並みです。

 シルクロードの出発点。
 黄砂が多い地方だからかもしれませんが、城壁から見下ろす町並みは、ちょっと埃っぽい灰色の感じがします。
 他の都市と同じく、西安も環境問題が大きくとりあげられており、工業化によって空気もいっそう埃っぽくなっているようです。

西安市 西側の城壁 http://members8.tsukaeru.net/skytrekker//chinasiro/seian.html

 さて、中国語と日本語の「同じ漢字なのに意味が異なることば」の例として「手紙」と「汽車」をよく例につかいます。
 「手紙」、中国語ではトイレットペーパー。
 「汽車」、日本語では鉄道の上を走りますが、中国語では道路を走る「自動車」

 もうひとつ、私がよく例に出すのが「城」です。
 日本語で城は、天守閣を備えたり、周囲に堀をめぐらせたりする「君主の館」。
 中国語では、「城(ジャン)」は日本語の「城壁」を意味します。

 日本人が「お城を案内してあげる」と、中国人に言ったとき、中国人は西安の城壁のような「町をとりかこむ壁」を見せられるのだと考えます。
 中国で「ここは城跡です。壊されてしまい、今はありません」と案内されると、日本人は、かってそこに高々と聳える天守閣があったのかと想像します。

 東門の上には秦の始皇帝が全土統一を行った当時の戦車や大石発射台などの「最新鋭軍備」が展示してあります。
 城壁を上ろうとする敵兵に、大石をごろごろ落として町を守る、そんな時代もあったのだろうなあ、と、映画『墨攻』を思い出しながら、真夏の城壁上をひとまわりしました。

 8月4日夕方、西安市南門東側につづく書院門通りをぶらぶらしました。
 書院門通りは、西安市観光局の肝いりで整備された「古文化街」のひとつ。
 碑林まで約570m、伝統的な建築の家並みが続き、土産物、書画骨董、書道具などの店が集まっています。

西安市観光局HPより  http://jp1.xian-tourism.com/LIST1.ASP?listid=341&Classid=13
 
 街路の脇は常設の骨董屋や貴石、書道具などの店、中央には土産物の屋台。
 妹は屋台のみやげ屋で伝統切り絵を買いました。
 あれこれ交渉して、ちょっとでも安くしてもらうのが楽しい。売る方は、それを見越して最初は2倍以上の値を言うのです。

 ミニチュア中国服のワインボトルカバー、どこにでも売っているようなおみやげですが、まあ、西安で買ったということがいいんでしょ、と,、妹も私も買うことにしました。

 1枚25元というのをたくさん買うからと20元に負けさせて得した気になったけれど、隣の店では、同じ物を最初から一枚15元で売っていました。あ、損したかも。
 でも、値引き交渉のやりとりが楽しい、ということもあるんです。ま、いいか。
 う~、でもやっぱり損した気分。まだまだ買い物修行が足りません。

<つづく>

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2007年08月25日


ニーハオ春庭「西安・道教の寺」
2007/08/25  土
ニーハオ春庭中国通信>西安・道教の寺

 8月4日夜、私は夜店がでるという通りへいくつもりだったけれど、身体が丈夫でない妹が「疲れたからマッサージしたい」というので、全身保健マッサージを3人で受けました。

 ホテルの外にでれば、90分40元くらいのマッサージ屋さんがいくらでもあると言ったのだけれど、妹は、「もう歩いて外に出たくない」というので、ホテル内のマッサージ店の人に部屋まで出張してもらい、ひとり60分80元。

 妹は「きいた」というのだけれど、私はマッサージをしても、特にからだがほぐれた気がしない、損な体質。「きいた気がしない」マッサージなら、しなくてもいいように思うんだけれど、トリプルベッドに並んで揉まれました。

 5日朝、鉄道駅前のバスターミナルから兵馬俑行きの路線バスに乗ろうということになりました。
 306路のバスが、秦の始皇帝陵墓や楊貴妃が湯浴みした華清池、兵馬俑博物館などめぼしい観光地への往復をしています。

 駅までは、タクシーで。ホテルの前に停まっていたタクシーに乗り込み、「火車站」と言い、地図の駅を指し示しました。

 地図もっている時点でヨソモノなことはバレバレなので、運転手はパンフレットを出して、売り込みをはじめました。市内東側の観光地を回って、このホテルまで送迎して一日200元だと。

 私ひとりならバスを乗り継ぐほうを選びますが、妹と姪もいっしょなので、タクシーを頼むことにしました。
 股関節を悪くしてから歩くとすぐに疲れてしまう妹、去年もタイでころんで捻挫をしたので、あまり歩き回らせることはできません。

 最初に道教のお寺へ行きました。驪山(リーシャン)の上のほうまでタクシーで上っていきます。驪山は標高1256m。山道の両側は、柘榴の果樹園。

 入山料ひとり45元。「高っ」と、思うのに、けっこう観光客が入山していました。
 チケットは、馬の絵がある80角の切手(約10円、国内ハガキ料金)つきの絵はがきになっており、「中国驪山・国家森林公園、国家AAAA級旅游、国家重点文物保護単位、国家第一批重点風景名勝区」と書かれています。

 この道教のお寺を含む、一帯の入場券なのだろうと思います。
 山門から寺院境内へ。石段を登っていきます。

 道教のお寺は、仏教寺院と同じような雰囲気です。日本の仏教寺院より色彩が派手ですが。
 タイ仏教寺院は小乗仏教で、日本仏教とは異なる感じがします。それに比べ、中国道教寺院は仏教寺院とかわるところがありません。別の宗教なのに、「仏教の宗派がちがう」程度の感じ。

 飛鳥時代、皇極(斉明)天皇が、道教に執心したということを思い出します。
 宮中で行われる「四方拝」という儀式も、もともとは道教の儀礼。

 福永光司著『道教と古代日本』などによると、聖徳太子が書いたとされる『三経義疏』は教科書などには「仏教書」と紹介されていますが、この中にも、道教の教典が含まれるのだそうです。

 インド仏教が中国に伝わったとき、その初期から中国道教と習合しました。サンスクリット語から中国語に翻訳された仏典は、道教の教典の用語をとりいれて訳され、また、中国民間宗教の儀礼などをとりいれながら、中国社会に入り込んだのです。

 日本に伝わった仏教とは、「道教+仏教」であったのだ、ということが、道教寺院参拝で、実感として納得できました。

<つづく>
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2007年08月26日


ニーハオ春庭「西安・道教寺院門前の青石」
2007/08/26  日
ニーハオ春庭中国通信>西安・道教寺院門前の青石

 驪山にくる日本人観光客、ツアーでは華清宮へ直行してしまい、この山中の道教寺院を参拝する人はほとんどいないらしいので、自由旅行で、ここにこられたこと、よかったと思います。

 お堂を参拝して参道を降りてくると、おみやげを売っているおばちゃん達に呼び止められました。たらいの中に水を張り、様々な色の石を入れて売っています。
 茶色や白の石を卵の形に磨いてあります。

 青い石を丸く磨いた石の卵、水に沈んだ青色が美しい。
 天青石(セレスタイト)とは違うようだけれど、パワーストーンに詳しい姪によると、青石(チンシー)、日本ではけっこうな値段がするらしい。

 おばちゃんは、最初一つ5元と言っていました。
 きれいな青色の石を手に持って「おみやげに持って帰るには、石だとバッグが重くなるなあ」と、買うかどうか決めかねていたら、おばちゃん、値段が気に入らないと思ったのか、ふたつで8元でいいよ、となり、3つで9元と下がってきました。

 ええっ、青石がそんなに安くていいの?ここらが産地なのかしら。
 「4つで10元なら買うけど」と言ったら、「いいよ」ということになったので、買いました。

 タクシーの運転手に、「こういう土産屋では買うもんじゃない」とたしなめられました。
 4つ10元(150円)なんだから、青石の品質が悪くても、仕方がないと思ったんですが、、、、。

 帰国後、青い石の卵を水に沈めてみると、、、、水がだんだん青くなっていきます。
 あらま、ただの白い石を青く染めただけの偽の青石でした。そりゃね、4つ10元だもの。こうしてだまされるのも、「自由旅行おみやげやの経験」です。

 もっとも、「だまされた」というのは、こっちの勝手な思いこみ。「おばちゃんは「青い石」として売っていたのであって、こちらが勝手に「青石チンシー」と思っただけなんですよね。

 おばちゃんが「青石」と言ったのか「青的石」と言ったのか、覚えていないけれど、染めてあったのだとしても、見た目青ければ「青い色の石」として売るおばちゃんは、当然の商売をしただけのこと。
 私の髪なんぞ、半分以上は「ごま塩」になっているはずですが、染めたら「見た目は黒髪、若いつもり」で歩いてますから。

 今、青い石は、日本の台所の片隅、水のなかで、しだいに青色を薄めつつあります。

<つづく>
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2007年08月27日


ニーハオ春庭[西安・華清池]
2007/08/27  月
ニーハオ春庭中国通信>西安・華清池

 9世紀の唐の都、長安。
 鑑真が経を読み、阿倍仲麻呂が玄宗皇帝に仕え、井真成が病を得て早世し、楊貴妃がレイシをほおばりながら湯浴みした。

 楊貴妃と玄宗皇帝のロマンスは、唐代第一の詩人白居易(白楽天)の長恨歌に謳われ、千年の恋となって今に伝わっています。
 貴妃・楊玉環の数奇な運命は、現代もさまざまな小説や劇の源泉となっており、西安の町のあちこちにも、「音楽劇・楊貴妃」のポスターが貼ってありました。

 747年。玄宗は驪山(リーシャン)のふもとに華清宮を建てました。
 驪山一帯は、火山による温泉が豊富な土地で、三千年前の西周時代から温泉保養地として有名な場所でした。
 発掘したところ、玄宗専用の温泉浴槽も楊貴妃専用の浴槽もみつかりました。

 華清宮、入場料70元。中をまわる観光車ひとり6元
 建物のなか、観光用に唐時代の衣装をつけた女性がだるそうに寝そべっています。
 「う~ん、楊貴妃に扮しているつもりなら、もうちょっとなんとか雰囲気をだしてほしいなあ」と、思ったのですが、この暑さでは、楊貴妃衣装を着ているだけで汗だく、大仕事なんでしょう。
 本物の楊貴妃は、夏の暑さをしのぐために、冬の間に切り出した氷を山の洞窟にためておき、離宮まで運ばせて涼をとったということですが、、、、

華清池の写真、リンクフリーとある個人HPより
 http://www.joyphoto.com/japanese/abroad/2003xian/kaseichi.html

 華清宮から秦始皇帝陵へ。
 秦の始皇帝。紀元前259~210年、皇帝在位、前221~210。
 中国を初めて統一国家としてまとめ上げた専制君主。

 始皇帝は、自分以外の誰をも真に信頼することなく、自分の死後、皇后とその一族が権力を得ることをおそれて、正式な皇后を冊立することがなかった。

 不老不死の仙薬を求めて各地に人を派遣したが、徐福も他のだれも皇帝の望みをかなえることなく、自分が統一した国を巡視中に50歳でなくなった。
 死後の守りを万全にするため、帝位についてすぐに工事を開始し、巨大な陵墓を建設した。

 その陵墓と、副葬の兵馬俑坑は、世界を驚かせた発掘のあと、世界遺産として見学者を集めています。 

 始皇帝陵は、面積が56平方キロ。入場料40元。
 陵墓の土台の部分は四角形に近い形をし、南北の長さは350m、東西の幅は345m、高さは76m。

リンクは、中国百科より始皇帝陵
http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter14/chapter140406.htm

 内部は複雑な構造になっていて、盗掘者は容易に副葬品や被葬者に近づけないようになっています。万全の守りをかためたため、兵馬俑がそっくりそのまま2千年の間、地中に潜んでいたのです。

<つづく>

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ニーハオ春庭中国日記「合隆鎮のシャンユエ」

2011-11-03 13:18:00 | 日記

ニーハオ春庭「合隆鎮の旅店」
2007/07/31 火
ニーハオ春庭中国通信>合隆鎮の旅店

 中国の宿泊施設、名前のあとに「大酒店・酒店」や「大飯店・飯店」とあるのは高級ホテルが多い。上階は宿泊施設で、1階や2階はレストランになっている。

 北京東方君悦大酒店(グランド・ハイアット・ペキン)、北京飯店(ペキンホテル)、上海四季酒店、(シャンハイフォーシーズンホテル)、香格里拉大飯店(シャングリラ・ホテル)、など。
 一泊300~500usドル。日本円で一泊5万円以上となると、とても私にはおそれおおくて利用できません。

 ホテルや百貨店、会社や官庁などの建物など、大きな建物は、「大厦(ターシャ=ビルディング)」と名乗っていて、ホテルの名前でも、大厦がある。哈爾浜竜門大厦(ハルピン・ロンメン・ホテル)、延吉白山大厦(イェンジン・ベイシャン・ホテル)など。

 名前の後ろに「賓館」とあるのは、星つきも星なしもある。
 8月に大連で宿泊する予定の大連賓館(ダーリェンビングヮン)は、三つ星。旧満州時代に設立された旧ヤマトホテル。名建築の誉れ高い老舗です。

名前だけは「賓客の館」でも、賓客を迎え入れるのはとてもできそうもないっていう雰囲気のところもありますが、名乗るのは勝手。

 次は「招待所」クラス。大学の職員や公官庁の招待所には、ホテル並の設備が整っている所もあります。
 町のなかに「招待所」と看板が出ている所は、だいたい安宿。30~70元(450~1000円)くらいで泊まれる。

 町にも村にもある「旅店」となると、部屋は、ほぼベッドの幅。ベッドのわきに人が通れるだけの隙間があり、トイレは共同。安全面を考えると、バックパッカーをのぞき、一般の観光客は利用しないだろうと思います。
  
 前に来たとき、合隆鎮には旅店があると、バスから見ていました。
 泊まるところがあることはわかっていましたが、そこがどれくらい安全か、については、最終的に自分の判断に頼るしかありません。ほとんどの所は安全ですが、万が一の場合は、自分自身の責任です。

  中国は、安宿でも安全なほうといえますが、人様にはすすめません。衛生面で、たとえば、シーツを換えてなくても平気な人でないと、旅店はちょっと、、、。

 この、「清潔感へのこだわり」も人それぞれ。大学外国人専門家公寓は、毎週水曜日がシーツ交換日で、服務員が取り替えてくれました。
 しかし、洗濯の仕方が気に入らないと言って、自分でシーツを買ってきて、自分で清潔にしたシーツでないと安心して眠れないという人もいました。
 他の居住者が使ったことのあるバスタブはいやと言ってシャワーだけで半年すごした人もいます。

 私のこだわりは、「大勢の人が直箸で大皿から料理をとる中国式の食べ方では、他の人が箸をつけた食べ物が食べられない」という点。
 私の前に新しい皿がきたとき、一番先に私がとりわけ、あとは食べないので、宴会料理、私はあまり食べられない。

 宴会では十皿二十皿の大皿がテーブルに並ぶのですが、新しく来た料理は、一番目上の人の前に置かれます。
 勤務部署の宴会では、「日本では、料理を取り分けるとき、別の箸を使う」ということを知っていて、取り箸を用意してくれるのでいいのですが。
 
 合隆鎮の旅店。バス発着所からぐるりと見渡し、一番近くに目に入ったところへ行きました。
 フロントのおねえさんは、まあよさそうな人だし、部屋を見せに二階へ案内してくれたおばちゃんも気がよさそう。それだけで信用してはいけないこともあるけれど、ま、今夜はここでいいでしょう。

 フロントのお姉さんは、「一泊20元」と言います。田舎の旅店なのに、ちょい割高と思いましたが、「听不懂 チンブートン=耳で聞いても理解できない、わからない」で、筆談だけの日本人、しかたないなと、宿泊決定。

 部屋は、日本の言い方なら4畳半くらいの広さ。セミダブルベッドとテレビと帽子かけがある。あんどん部屋で窓がありません。窓がある部屋がいいと希望したのですが、「没有メイヨー」
 実は窓側の部屋があいていたのですが、その部屋はよくない、というのです。

 中からドアノブ押しボタン式の鍵はかけられるけれど、外からかける鍵は渡されないので、共同トイレに行くために部屋をでるのでも、いちいち財布カメラケータイなどの貴重品は持ってでなければならない。

<つづく>



2007/08/01 水
ニーハオ春庭中国通信>合隆鎮の串焼き店「魏味佳」

 旅店の共同トイレは、しゃがみスタイルの中国式。一応水洗。紙の備えはなし。各自で持ち込み。
 中国式トイレは、和式のように金かくしがついていない。デパートや公官庁も、西洋式腰掛けトイレはほとんどなくて、あるのは、星つきホテルくらい。
 たぶん、ペキンオリンピックめあてに改装しているところでは、西洋スタイルが増えていくのでしょう。

 紙は横のごみ箱に捨てる。うっかり水に流すと詰まるおそれがある。水流が弱いのと、紙が水に溶けないことが多いので。
 私が住んでいる専家公寓は腰掛け西洋式ですが、一度に紙を流すと詰まるのは同じ。3月に到着したばかりのころ、同僚が二人、トイレをつまらせて大騒ぎしたことがありました。

 中国流儀、たとえば、乾杯でコップを合わせるとき、目下の者は、必ず目上の人より、コップを低くして合わせなければいけない、などの作法は同僚に教えてあげたのだけれど、どうもトイレの話などはしにくいので、教えてやらなかった結果、詰まらせてしまったのです。つまらない話と思っても、話しておくべきでした。

 旅店の洗面室にはトイレと洗面シンクだけで、シャワーなし。手洗い流し台に、プラスチック洗面器がおいてあり、体を拭きたい人は、これを利用する。
 まあ、旅店の設備はこんなものです。

 宿が決まったので、夕食を食べに。
 旅店の隣の隣の店。赤い看板に「紅火一方・魏味佳・焼[火考]美食店」と書かれています。
 もう9時をすぎているので、「食事できるか」と尋ねてみると、串焼肉ならできるが、他の料理は、もう料理人が帰ってしまったので、できないといいます。

 9時すぎは、夕食を終えてからのビール&白酒タイムなので、しかたがありません。
 私も、ビール&串焼肉にしよう。

 「魏味佳」の店。注文をとったりビールを運んだりしているのは、40代と30代、20代くらいの人、3人。肉を焼く人は、おじさん。
 お手伝いをしている小学生くらいにみえる子は、この店の子どもなのでしょう。
 会話が不自由でへんな発音のお客さんのようすを興味津々で眺めています。
 頭の横と後ろを短く刈り上げたヘアスタイル、胸にウルトラマン(もどき)のキャラクターがついたTシャツを着て、ハーフパンツをはいています。

 おばさんが、蒸餃子はあるというので、焼き串と餃子を注文しました。海老焼き、烏賊焼き、肉焼き。土豆片(薄切りジャガイモ)など。茄子(チエズ)は、没有(メイヨー=ない)でした。

 ほかのテーブルの人たちがジョッキでビールを飲んでいるので、私も指さし会話で「あれと同じの」と、注文。
 お手伝いをしていた子が、ビヤ樽からコップにビールをつぎましたが、コップ4分の1くらいしかでてきませんでした。
 「没有メイヨー」と、申し訳なさそうな顔をするので、「没関心メイクヮンシー=だいじょぶ、気にすんな」

 おばさんが、瓶ビールならあるというので、「冷たいのがあればもらう」と、注文。
 瓶ビール、冷たいのがない店が多い。ビール、夏でも常温のビールを好む人が多い。
 でも、「魏味佳」では、冷蔵庫から冷たいのをだしてくれました。

<つづく>
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2007年08月03日


ニーハオ春庭「合隆鎮の串焼き肉と饂飩」
2007/08/03 金
ニーハオ春庭中国通信>合隆鎮の串焼き肉と饂飩
 
 「魏味佳」の焼き串、烏賊や海老が焼き上がってきました。
 ビールを注ぎ損ねた子が、話したそうにしています。
 「你是小学生嗎?(ニーシー シャオシュエシャン マ)」と尋ねると「我是、中学生」と言います。
 私が「中国語を話せる」と思ったらしく「?????」と話しかけてきたので、あわてて私の愛用語「听不懂 チンブートン=聞いてもわからない。理解できない」と言い、筆談開始。

 名前は「魏祥ユエ」ウェイ・シャンユェ。ユェは扁が王で、旁が月。[王月]
 店の外の炭火焼きのコンロで串焼きを焼いているお父さんの名は「魏喜[イ書]」。
 ああ、名字が魏だから、店の名が「魏味佳」なのね。明白了(ミンパイラ=わかった)。

 少しでも自分を大きく見せたい年頃なのに、小学生か?って聞いてしまってごめんね。でも、胸のウルトラマン(もどき)のキャラクターがかわいいので、つい「小学生?」なんて聞いちゃったんだよ。
 借り上げヘア、カッコいいよ。中学1年生。9月からは2年生になるんだよね。

 「いつ中国に来たの?」
「今年の3月」
 「毎日ここに来ているの?」
「毎日じゃない。前に一度合隆に来たことがあって、今日は二度め。だけど、もう一回こられるかどうかはわからない。もうすぐ日本に帰るから」
 「明日は何時に合隆を離れるの?」
「明日、夕方までに家に帰る」
 夕方は、学生のクラスパーティによばれています。5時に専家公寓のロビーで待ち合わせ。

 あれこれ、筆談しているうち、中国の学校はもう夏休みになったはずだ、と思い出しました。
 夏休み中で時間があるなら、近所を案内してくれるよう、頼みました。
 8時半から10時半くらいまで、ガイドの契約成立。ガイドといっても、シャンユェが知っている場所は学校くらい。「小学校と中学校」を案内してもらうことになりました。

 「シャンユェの学校はここから遠いの」
「150mくらい離れたところ」
 それなら、私でも歩いていける。

 私が担当している博士課程留学クラスの級長さんは、子どものころの思い出話をして、「田舎で育ち、学校までは毎日2kmくらい歩いて通った」と、話していました。
 田舎出身の学生は、皆勉強熱心で努力家、青雲の志に燃えています。

 合隆の旅店泊まりの朝は、6時起床。あんどん部屋では気分が悪いので、勝手に窓のある部屋に移りました。窓のある部屋はよくない、とおばさんが言ったのは、窓の外は大通り(長隆大街)で、車の音がウルサイかららしい。
 私は音が大きくても明るくても寝られるのだから、こちらの部屋にしてもらえばよかった。

 7時半に魏味佳が開店するというので、朝食を食べることにしました。
 朝食は「麺条=うどん」を注文。
 
 日本で「うどん」というと小麦粉をこねて薄くのし、細長く切った麺を「汁」に入れて食べるのがほとんどですが、中国にはさまざまな種類の麺類があります。
 粉も、トウモロコシの粉も米の粉も、そば粉もあり、切り方も、こねて団子状の固まりにしたのを、包丁で削って釜に放り込んで茹でる刀削麺もあるし、両手で引っ張りながら細く細くのばしていくのもあります。
 日本のような汁に入れるうどんより、具といっしょにたれで和える方式のほうがいろんな種類がある。

 日本の汁うどんに一番近いのは「蘭州ラーメン」
 こちらでラーメンと注文して出てくるのは、日本人の感覚でいうと「うどん」。
 日本でいうラーメンは、こちらでは「日式リーシー=日本式」で、日系や香港系の資本の店のメニューにはありますが、中国の人は日式ラーメンを美味しいとは思わないみたい。

 魏味佳の「麺条」は、たれで和える方式でした。香菜と肉味噌をまぜる。
 麺の量は、日本の感覚でいうと3人前くらいある。

<つづく>
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2007年08月06日


ニーハオ春庭「合隆の中学生」
2007/08/06 月
ニーハオ春庭中国通信>合隆鎮の中学生

 8時半からガイドをしてくれる約束のシャンユェが魏味佳にはいないので「シャンユエはどこ?」と聞くと「她去上学了(あの子は学校へ行ってる)」

 「あれ?、もう学校は夏休みになったんじゃなかった?学校があるなら学校優先だよね。ま、いいか。」

 うどんを食べているうちに、8時半になり、シャンユェが帰ってきました。
 おばさんに、何か説明しています。どうやら、私と約束したからと早引けして帰ってきたみたい。夏休み中の塾へ行って来たみたいです。

 シャンユェは、中学生1年生。英語を習い始めて1年になるけれど、私の中国語と一緒で、文字を書けば意味はわかるが、聴き取りや会話はあまりできません。
 9月から中学2年生になるのに備えて、夏休み中も村の英語塾へ行くことになっていたのに、勉強をさぼらせたのなら、悪いことしちゃった。

 しかし、塾は毎日あるけれど、この田舎に日本人などめったにやってこないのですから、「中国語が話せない人」といっしょに過ごすことも、中学生にとっていい夏休みの思い出になるんじゃないかと、いっしょに出かけることにしました。

 シャンユエ、今日はハーフパンツではなく、アディダスのスエットパンツ。
 中国のアディダスは、adidosだったりすることが多いのですが、adidasでもadidosでも、ナイキと並んで男の子には人気のブランドです。

 最初は、シャンユェが卒業した小学校。煉瓦を積んだ壁の校舎に古い木製の学童机と椅子。黒板には色チョークできれいに、「夏休みを元気にすごそう」とか書いてある。
 教室の窓や校庭に出るドアは「7月12日封印」と書かれた紙が貼ってあり、夏休み中の教室には子どもが出入りできないようにされています。
 教室によっては、業者が入り、床や壁の改修工事を始めているところも。
 
 教室は、日本のと比べればもちろん、都市の設備が整った小学校に比較しても、校舎も古いし、設備も悪いことは見て取れますが、壁には児童のペン字や図画が貼ってあり、どの国の小学生も、一生懸命に勉強してきて夏休みを迎えたのだなあ、と思いました。

 その次にシャンユェが案内してくれたのは、村役場にあたる、合隆鎮人民委員会。たぶん、この地域で一番立派な建物なのでしょう。

 役場の裏庭は、果樹園になっており、シャンユェは、実をひとつひとつもぎながら、「これは梨子、リーズ」「リーズ」「ちがう、リーズ」と、何度でも四声の発音矯正。「杏子、シンズ」「シンズ」「ちがうよ、シンズ」
 なかなか厳しい中国語の先生です。
 シャンユェにとっては「こんなにやさしい中国語なのに、どうしてできないのか」と思うので、容赦がありません。

 アンズやユスラウメをもいで、「食べてみて」とこちらによこします。「ピングヮ=青りんご」は、まだ実が堅くて、食べ頃にはなっていませんでしたが、アンズはまあまあ。
 ユスラウメは、「桜桃」と呼ばれているもののひとつだそうです。日本では「桜桃」といえばサクランボのことだけなので、桜桃の指し示す範囲が日本語と中国語では違うことがわかりました。

 次は合隆商場。日差しが強くなってきました。
 「很熱(ヘンルゥァ)暑いね」と、言うと、シャンユェは市場の前に露天を出しているジュース屋からイチゴジュースを買っておごってくれました。氷の入った飲み物で、少しは涼しくなるかという心遣いです。
 氷と色つき果汁の素とシロップ、甘く煮た豆などを入れてシェーク。太いストローで豆を吸い上げて食べます。

 市場のなかは、なかなかの広さ。私は衣料品コーナーで10元の膝丈夏ズボンを、夏のパジャマにちょうどいいと思って買いました。

 市場の次は、中学校。校庭には草が生えてしまっていたり、乾燥のあまり、土がひび割れていたり、教室もさきほどの小学校と同じように、煉瓦作りの簡素なものです。
 市中の大学付属中学校などからみたら、貧弱な中学校ですが、夏休みが終わり新学期が始まれば、シャンユェたちの元気な声が校舎にも校庭にも満ちることでしょう。

 7月14日に出会ったシャンユェ。いっしょに撮影した写真をコピーして、届けることにしました。せっかく仲良くなったのだし、バスで1時間はそう遠くもないので、気軽に出かけられます。
 1週間後の7月21日土曜日の夕方、合隆鎮へ再び出かけました。

 「你好ニーハオ」と、魏味佳の店に入ると、店の人たち、にこにこして、「ニーハオ、你来了!」
 写真のコピーを見せると、店の人たちは大喜びでした。しかし、シャンユエの姿がみえないので、たずねると、「シャンユエは長春の親類宅に行っている。あなたに会おうと思って宿舎に電話をしたのに、通じなかったと言っている」

 ええっ、私はシャンユエに会いに村へ来たのに、シャンユエは私に会いに町へ行ってしまった。すれ違いの恋人同士みたいじゃないの。

 宿舎の電話が通じなかったのは、あとでわかったことだけれど、宿舎の電話線切断があったからです。
 夏の間に暖房の修理をしておくということで工事があり、工事人が何を間違えたのか、電話線を切ってしまうというミスがあったのです。
 電話が通じなかったり、インターネットが不通になったりはしょっちゅうでしたが、よりによって、シャンユエが電話してくれた日に電話線をちょん切らなくても、、、、。

 店のおばさんはシャンユエとケータイで話をしていましたが、シャンユエは明日の午後戻ってくるが、あなたはそれまで合隆にいられるかと聞かれました。シャンユエに会いにきたのですから、もちろん、シャンユエが戻るまでいるつもりです。

 日曜日、午前中ヒマなので、浴池(銭湯)へ。
 シャワー室3元。アカスリ用手袋を3元で購入して、アカスリを頼みました。
 韓国旅行をしたときは、旅行会社のコミッションを含んだ値段なので、岩盤浴とセットで5千円したのに、合隆のアカスリ代は5元(75円)

 シャワーで汗を流してからアカスリ台へ。使い捨ての薄いビニールシートを敷いたベッドにタオルもかけずに横になり、おばさんが、てねいにこすってくれるにまかせます。
 仰向けになり横になりうつぶせになり、おわってお湯で流してもらうと、すべすべになっていて、手で足や背をこするとツルツルしました。

 脱衣室の片隅にベッドがあり、「抜灌ボークァン」をやっていました。
 ガラス製のお椀をツボの上に載せて空気をぬき、中を真空状態にする、お灸と同じ効果の民間療法です。
 私はお灸というのをやったことがないのですが、せっかくのチャンスですから、抜灌を体験することにしました。

 パンティだけはいてうつぶせになると、アカスリのおばさんが、背中にガラス椀を載せていきます。空気を抜いて真空にするとき、痛かったです。やめようかと思ったけれど、がまん。
 全部で20個のガラス灌が背中に。
 比較的短い時間で「これでよし」になりました。鏡に映してみると、7センチくらいの赤黒い丸い痕が背中一面についています。

 夏の町を歩く男の人たち、上半身裸の人も多く、この抜灌の赤い丸が背中にある人を見かけたことがあります。入れ墨にしちゃあ、あまり芸術的な模様とはいえないと思ったものでしたが、これで、あの赤黒い丸の正体がわかりました。
 私の背中にも、いれずみのような丸模様。いったいどれくらいまで、赤黒い痕が残るのやら。シャンユエはいつ合隆にもどるのやら。

<つづく>

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2007年08月07日


ニーハオ春庭「麻辣緬と兎おいしかの山」
2007/08/07 火
ニーハオ春庭中国通信>麻辣麺と兎おいしかの山

 抜灌を終えて、魏味佳に戻ると、おばさんは「蒸し餃子を食べて」と、出してくれました。食べ終わってすることもないので、シャンユエに上げるつもりで持ってきた腕時計やセーターを出して、「これをシャンユエにあげてね」と、託しました。

 さて、帰ろうかとしたら、シャンユエが親類のおばさんや従姉妹(堂姐妹)といっしょに帰ってきました。

 いとこの女の子を、シャンユエは「我的妹妹(メイメイ)」と紹介しました。一人っ子の中国には「妹」も「弟」もいないのですが、こうして「いとこ」を兄、弟、姉、妹として育つのかもしれません。
 シャンユエの従妹、馬可心は、小学校5年生、9月からは6年生です。シャンユエとはとても仲良しのようす。

 シャンユエは、可心といっしょに「麻辣麺」を食べに行こうといいます。この間行った合隆市場の近くの店。
 私はたった今、魏味佳で蒸し餃子12個を食べたばかり。でも、せっかくシャンユエがいっしょに食べようと言ってくれたので、麻辣麺の店に行き、半分くらいはなんとか食べました。

 私が頼んだのは、涼皮(リャンピ)というジャガイモでんぷんでつくったトコロテンのような麺です。半透明でツルツルの食感。日本では、「片栗粉」として売られているジャガイモ澱粉。

 日本で料理するとき、片栗粉といえば、鳥から揚げを作るとき小麦粉と混ぜたりするくらいで、このように、片栗粉で麺を作るというのはしたことがありません。
 中国には、小麦粉だけでなく、トウモロコシ粉、米粉などさまざまな麺があります。

 カウンターの前に並べられた籠のなかに、青菜やジャガイモ薄切り、ニンジンなど、具が入っています。好きな具をどんぶりに好きなだけ放り込み、麺の種類を告げて渡します。
 具と麺をさっと茹でて、どんぶりに戻します。次は、好きな調味料を指定して、あえてもらいます。

 私は例によって「不辣」と言って、唐辛子を入れないようにしてもらいましたが、それでもほかの調味料にも辣いものが入っているので、汗をかきかき、水を飲みのみ、麺を食べました。麺はシャンユエのおごり。

 可心とシャンユエは、楽しそうにおしゃべりしながら食べています。
 食べ終わって、市場で飲み物を買い、飲みながら帰りました。飲み物は私のおごり。

 帰り道、白ウサギの耳を持ったおじさんに遭遇。道ばたでウサギ肉を作り始めました。
 う~、うちのペットは黒ウサギ。

 日本では、肉は薄切りや角切りにしてから店先に並びます。丸ごとの食材として並ぶのは、魚はあるけれど、豚の姿のまま、牛の姿のまま店先に並ぶことはありません。クリスマス時期に七面鳥や鶏の丸焼きが売られる程度でしょう。

 命ある動物を殺し、自分の口に入る肉ができあがるのだという現実を見ないようにして食べているのですが、これは「食育教育」としては間違っている。
 魚が切り身で泳いでいたわけじゃないのと同じく、肉は薄切り肉として野原を駆けていたのではない。

 命ある生き物を殺し、他者の命を自分にもらうのだという感謝の心を持たない子供、一度失われた命はもとに戻らないという感覚を持たない子供が増えているのも、自分の命と他者の命を見つめることなく育つからなのかも。

 私も、町育ちの可心も、うさぎから血を抜くシーンを見て、「ワァ」と言って、目を逸らしてしまいましたが、本当は、ちゃんと見ておくべきだったのかもしれません。

 今回の中国滞在では、狗肉、鹿肉は食べましたが、兎肉は食べませんでした。兎肉、食べればおいしい。鶏肉と同じ淡泊な味です。
 ♪兎追いしかの山~と、兎を追いかけたのは、鬼ごっこをして遊んでいたわけではなく、追った次には「兎美味し」にするためですが、どうも、私たちは肉を食べるとき、生きていたときの姿を思い浮かべることなく、毎日食べています。

 中国料理店、店の前や中に食材をそのまま客に見せる形式のところがあり、店の中が動物園のように見える。
 鳩、兎、蛙、亀(スッポン?)、なんでもアリの食材動物園。

 客はしっかり生きのよさを確かめて、こっちのウズラより、そっちの鳩のほうがうまそうだ、なんて品定めをして注文します。
 町の子どもは、「この生きている動物を食べるのだ」と、見ているし、田舎の子は、自分の家で鶏でも兎でもまるごと自分たちで料理するのです。
 私たちは、命を分け与えられて生きています。

 人と人も、お互いに分け与え合って生きています。シャンユエが麻辣麺を私に買ってくれて、私はジュースを買ってあげて、ささやかな分かち合い。
 全部は理解できなくても、なんとなく通じてしまう筆談と、笑顔で通じる心と心、これも人と人の交流のひとつ。

<つづく>
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2007年08月08日


ニーハオ春庭「中国的家族パーティ、シャンユェの一族」
2007/08/08 水
ニーハオ春庭中国通信>中国的家族パーティ、シャンユェの一族

 魏味佳にもどると、店に集まっていた人々が「これから皆で食事しにいくから、いっしょに行こう」といいます。
 蒸し餃子食べたばかりで、麻辣麺も食べて、この上食事とは。

 でも、せっかくのお誘いなので、何が何やらわからないまま、ついて行きました。
 自分の家が食堂なのに、わざわざよそに食事に行くのも、何か特別なお祝い事でもあるのでしょう。この前来た日は、シャンユエのお父さんの誕生日でしたが、1週間後に一族そろってまたお祝い?

 シャンユエがテーブルについた人々について紙に名前を書いて説明してくれました。
 お父さんの魏喜[イ書]には、4人の姉妹がいる。
 大姉が魏淑華(ウェイ・シューファ)その息子、蘭中華((ラン・チュンファ)。
 二姉が魏淑芳(ウェイシューファン)その娘[厂兼]魏[女行]。このシャンユエの従姉妹は学校の教師をしているそうで、英語で簡単な会話ができ、通訳をしてくれました。
 三姉が魏淑霞(ウェイ・シューシャ)その息子、鄭福発(ジョン・フーファ)。5歳くらいのかわいい男の子です。
 四姉が魏淑ロン(栄のツをとった上に草冠)(ウェイ・シューロン)、その子馬可心(マ・クァーシン)。小学生のきりっとした利口そうな女の子。
 そしてシャンユェの父が魏喜イ書。それぞれ、父親の名字を次ぐので、いとこたちの中で、魏を名乗っているのは、シャンユエだけ。

 私も、私の家族の名前を紙に書いてシャンユエに教えました。シャンユエは、私と夫が同じ名字だと知って驚いていましたが、「日本では結婚すると、夫婦は同じ名字になるのだ」と、説明。

 「夫婦別姓では、家族の一体感が保たれない」と説明する別姓論反対者がいるけれど、それなら中国や韓国の夫婦別姓方式では、全部の家族が崩壊していることになるよね。
 「別姓だと家族が一体感が保てないという論は間違っている」ということや、過去の日本は、名字を持っていた人たちも、夫婦同姓ではなかったこと(北条政子は源頼朝と結婚しても源政子と名乗ったりしなかった)などは、説明がむずかしいので、私の「いいかげんな中文」では、伝えられませんでした。

 結婚の届けを出すとき、夫はさも男女平等論者風に「結婚は嫁に行くのでも嫁をもらうのでもなく、男女は平等。法律では、男性女性、どちらの姓を名乗ってもいいことになっている。どちらの姓を役所に届けるか、じゃんけんで決めよう」と、言いました。
 賛成、賛成。男女平等。じゃんけんぽん。夫はチョキ。私はパァ。あ、負けてしまった。

 負けたので仕方なく、私は夫の姓を名乗ることになったのですが、息子が生まれたころ、種明かしをされました。
 じゃんけんをするとき、私はいつもさいしょにパアをだすのだって。私のじゃんけんの出し方を、夫は知っていたのです。
 私は、自分では全く気づいていなくて、「じゃんけんで負けたのだから、しかたがない」と、あきらめていたのです。ああ、だまされた。
 というような裏話も、日本語で話すとうけるのですが、私の中文では説明できません。

 大人との筆談では、日本の漢字は読めないことがあっても、繁体字を書くとなんとか理解してくれるのですが、シャンユエは簡体字以外の文字を書くと、「間違い」と思って簡体字に訂正してくれます。シャンユエの知らない繁体字で書いても、理解してくれないので、筆談でも通じないことがあります。

シャンユエに聞いたら、この日のように5人がそれぞれの配偶者や子どもを連れて一同に集まるのは、1年に1度か2年に1度のことなのだって。
 今回は、二姉の娘が結婚相手を皆に披露するための集まりだったみたい。この娘さんは、師範大学を出て教師をしており、近々軍人と結婚するので、親戚にこの軍人さんを会わせるために集まったのだということでした。
 中国では、結婚しても女性は姓が変わりません。

 しばらくは、ビールで乾杯したりしておつきあいしていましたが、一家の宴会に加えていただいたお礼を述べ、途中で失礼して、帰りのバスにのりました。

 久しぶりの一族大集合の宴会なのに、へんな外人が紛れ込んで申し訳なかったけれど、もうすぐ結婚する娘さんが「Welcome our family party.」と、言ってくれたし、まあ、一族邂逅の「だしもの」になったと思えばいいかな。

 家族パーティに参加させてもらったお礼というわけでもありませんが、シャンユエを私の宿舎に招待し、町を案内しようと思い立ちました。
 
<つづく>
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2007年08月09日


ニーハオ春庭「動物園で性転換して南湖公園へ」
2007/08/09 木
ニーハオ春庭中国通信>動物園で性転換して南湖公園へ

 ジョウさん、シャンユェを招待して、いっしょに市内で遊んだ2日間。
 7月28日土曜日は動植物公園と南湖で、29日日曜日は、郊外のテーマパークですごしました。

 7月28日土曜日に動物園ですごしたことは、7月29日に書きました。

 この動物園で、ジョウさん、シャンユェとダチョウを見ていたときのこと。
 「ダチョウの羽がふさふさしている方が雄。茶色の地味な方が雌」などと話していたら、ジョウさんが、「彼女はダチョウをはじめて見たそうです」と、言う。

 え?シャンユエのこと彼女だって?ジョウさんは、ときどき日本語を間違えるので、私がいつもheとsheを言い間違えるように、間違えたのかな。

 「シャンユエは彼女じゃなくて、彼、でしょう」と、ジョウさんに言うと「でも、シャンユェは、私は女の子ですと、自分で言いました。私も最初男の子かと思ったのですが、名前の文字が祥[王月]というので、確かめたんです。ユエの[王月]という文字は、女の子の名前によく使われる文字ですから。そしたら、女の子だから女の名前の文字なんだと言っていました」

 私は何度もシャンユェと会っていっしょに過ごしてきたのに、動物園でダチョウの前に来るまで、ずっと少年とばかり思っていたのです。
 日本でも、高校ソフトボールチームとかに、このような「超ボーイッシュ」な少女がいますが、中国で出会ったのは初めて。

 中国の女の子、ひらひら飾りのついたスカートやリボンが大好きで、過剰に「フェミニン」スタイルをしている子が多い。
 中国だって、シャンユエのようにひらひらスカートを好まない子がいることに思い至らなかった。
 日頃は、ジェンダーフリーを標榜しているのに、すっかり「男の子は青、女の子はピンク」式のジェンダー記号に染まっていたことになります。

 シャンユェ、髪を刈り上げスタイルにしていても、ハーフパンツにウルトラマン柄のTシャツを着ていても、女の子。

 少年を女性ひとり住まいの部屋に泊めることに考慮して、シャンユエのお父さんには、いろいろ説明しておきました。
 我が家は2室あり、シャンユエは寝室のセミダブルベッドに泊まってもらう。私は居間のシングルベッドのほうで寝る。部屋は各室とも鍵がかかるから、などと、部屋の図面まで書いて、少年が安心して泊まれることを強調しておいたのですが、、、、。

 お父さんは何をくどくど説明しているのだろうと思ったことでしょう。
 アハハ、たとえ部屋に鍵がないとしても、オバハンは少年を襲ったりしませんってことを伝えたかったんですけどね。
 でもまあ、少年じゃないことがわかり、気兼ねなく泊まってもらえます。

 シャンユエがボーイッシュガールだったことがわかってみれば、私がシャンユエを一目見て気に入った理由も納得できます。私は、ボーイッシュな女の子が好きなのです。
 それにしても、、、、、どう見ても少年です。

 よくよく思い出して、筆談用紙を見てみると、シャンユエのおばさんに「シャンユエはどこ?」と、私が尋ねたとき、紙に「他去上学了」と書いたあと、「他」の「イ」の字を修正して「女」に変え、「她」の字になおしたあとがありました。
 おばさんは、単純に「彼=他」と「彼女=她」の字を間違えたのでしょうけれど、私はそのとき「他」と「她」の字の意味の違いにまったく気づきませんでした。

 動植物公園で1時から3時ごろまですごしたあと、次は南湖公園へ。

<つづく>
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2007年08月11日


ニーハオ春庭[南湖公園
2007/08/11 土
ニーハオ春庭中国通信>南湖公園

 南湖は、人工湖で、昔は市の水をまかなう浄水湖でした。今は、郊外に浄月潭や新立城水庫などの浄水用の人工湖ができ、南湖は市民の遊楽公園になっています。
 白樺や落葉松の林が広がる中、広さ93ヘクタールという湖。
 冬はスケート、夏はボートや釣り、水泳など、市民の憩いの公園です。

 地図でみれば横の幅が広いところ1km、縦は細長いところもありますが、2kmくらいの広さがある湖です。
 北側の広い湖と南側の細長い湖の間には、南湖大橋がかかっています。

 山中の川をせき止めたダム湖などではなく、都市の中心部を人工的に掘った湖としては、北京の頤和園の中に掘られた昆明湖に匹敵すると言われています。頤和園は、西大后の避暑地としての歴史的な価値もあり、1998年に世界遺産になっていますが、こちらの南湖は、庶民の憩いの場。

 以前、ひとりで南湖公園を散歩したときには、湖の中に水草が生い茂っていました。
 2007年の夏は、過去20年間でもっとも水草が繁茂したということで、湖の水質も悪化したため、市は500人の水草清掃人を投入。6月に10日間をかけて、水草除去を徹底しました。
 今年は暖冬で、湖面の凍結が短かったことが水草繁茂と関係しているのかもしれません。

 「昔は冬になるとスケート場になったのに、近頃は氷が薄くなって危険だから、スケートはできない」と、ジョウさんは言っていましたが、実際には少しは滑れたみたい。例年は、厳冬期3ヶ月はスケートが可能なのに、今年の冬は暖冬で滑れたのは1ヶ月くらいで、あとは氷が溶けてきてスケートには危険になってきたということのようです。

 南湖でボートを借りました。
 湖に出る全員、救命ジャケットを着ることを義務づけられています。

 ジョウさんもシャンユェも「ボートをこいだことがある」というので、足踏み式やモーターボートでなく、手こぎボートを借りたのですが、まず、湖のなかほどまでは、私がひとりでこぎました。
 私は、故郷の榛名湖や赤城大沼でよくボートこぎを楽しんだので、「昔取った杵柄」ならぬ「昔漕いだ櫂」です。

 ジョウさんが「これは、日本語でなんといいますか」と聞くので「昔は櫂といったけれど、今は外来語でオールと言っています」と説明。

 合隆の小学校中学校にはプールがなく、大きな川や池もないので、シャンユェは「泳げない」というのですが、まあ、大丈夫と、湖の中心までいきました。
 年寄りの私を気遣って、ジョウさんが「交代します」と言うので、漕ぎ手交代。しかし、ジョウさんひとりでは漕ぐのがむずかしそうなので、シャンユェとふたりで漕ぐことにしました。

 ふたりで並んですわり、片方ずつオールを持って漕いだのですが、なんだか同じ所をぐるぐる回っているばかりで、いっこうに前進しません。ふたりが漕いでいるところを写真に撮ったあとは、また私が漕ぎ手になりました。

 南湖大橋のあたりまで行って、橋の向こうに広がる湖を見ようと思っていたんだけれど、疲れたので、橋で二分されている湖の半分だけ見て、元のボート発着所まで戻りました。

<つづく>
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2007年08月12日


ニーハオ春庭「長影世紀城3Dムービー」
2007/08/12 日
ニーハオ春庭中国通信>長影世紀城3Dムービー

 南湖から宿舎に戻ったあと、ジョウさんは、大学の友達と食事する約束があるというので、夕食前に分かれ、宿舎で休んでからシャンユエと夕ご飯を食べに出ました。

 私はカレーライスとかハンバーグステーキとか、合隆では売っていない食べ物をシャンユエに食べてみてほしかったのですが、シャンユエは「慣れた食べ物のほうがいい。冷麺を食べよう」というのです。

 シャンユエの家は食堂なのだから、普段家では食べないようなものを食べる方がいい経験になるだろうと思ったのですが、ケンタッキーのハンバーガーは、あまりシャンユエの口にあわなかったようで、慣れた料理のほうが美味しいということなのでしょう。

 シャンユエは、冷麺と家常菜を注文し、支払いをすばやくしてしまいました。
 私がシャンユエを招待したのだから、私が払うと言っても、ずっとおごられているばかりではかえって気兼ねなようで、「今度はおごる」と言ってききません。
 冷麺はシャンユエにごちそうになることにしました。

 シャンユエは、夜10時には寝るというので、「晩安ワンアンお休みなさい」と、寝室で休んでもらいました。

  7月29日日曜日、ジョウさんとシャンユエと、「長影世紀城」へ行きました。市の郊外南方にあるテーマパークです。
 朝9時半に家を出て、タクシー40分弱でつきました。思ったよりも遠かった。

 車に乗り慣れないシャンユエは、カーブの多い道にちょっと酔ってしまったので、帰りは軽軌鉄道で帰るということにしました。

 「軽軌鉄道」は、市の南側から西側をまわり、北側の鉄道駅まで市の中心部半周している、高架鉄道。
 2007年冬季アジア大会の前に、昨年12月に開通したばかりです。

 私が通勤するキャンパスの前に「大学前」という駅があるので、何度かこの軽軌鉄道んに乗ったことがあります。
 市の中心部にある宿舎近くには最寄り駅がなく、バスかタクシーの乗り継ぎが必要になります。それで、面倒なので行きはタクシー一本にしてしまったのですが。

 「長影世紀城」は、ふたりとも、まだ一度も入ったことがないというアミューズメントテーマパーク。
 映画の制作会社が運営している、「映画テーマパーク」です。2005年5月29日に鳴り物入りでオープンした娯楽施設です。

 「最新鋭の映画技術を投入した3Dムービー、4Dムービー」の上映が主なアトラクションです。
 と、言っても、日本でさまざまな種類の3Dムービーを見てきた者にとっては、特別「最新」とびっくりする映像はない。
 ジョウさんとシャンユエにとっては、初めての3Dだったので、大喜びでした。

 はじめて3Dをみる中国の人にとっては楽しめると思うけれど、地元の人にとって入場料240元は高すぎる。レストランのウェイトレスの月収は500~800元。

 日本で30万円の月給を得ている人に、ディズニーランドパスポート券15万円といったら、彼女をデートに誘うには勇気がいるでしょう。二人分のチケットを買ったら、月給がおわってしまう。
 上海北京などの「高収入地域の人」が、「この町にきたから観光していこう」という場合に一番ちょうどいいのではないかと思います。

 動感球幕影院「魔方星城」。
 椅子ががたがたゆれたりカーブしたりするのを体感しながら、目の前に宇宙旅行の映像が展開し、宇宙怪獣の体に飲み込まれたかと思うと、また宇宙空間に放り出される、という3Dムービー。

 私は、ジョイポリスだったかディズニーランドだったかで、同じコンセプトのムービーを見たことがありましたが、映像については詳しくないので、これが「最新3D技術」なのかどうかについてはわかりません。

 シャンユエはとても気に入ったようすで、「1時間も待ったのに、見ているのは15分くらいで、短い。もっと見ていたい」と言いました。でも、ジョウさんは「ここと、宇宙森林は一人一回しか乗れません」と説明。

 「宇宙森林」はディズニーランドの「スペースマウンテン」と同じ。ジェットコースターとしては、それほどの急降下や急カーブはないけれど、真っ暗な中を走るので、体感速度が倍増する仕組み。

 一回しか乗れない「3D魔方星城」と、「宇宙森林」のほかのアトラクション、水で煙幕を作った上に映像を映し出すムービーや、レーザー光線によるムービーなど。

 シャンユエは、4Dムービー「世紀明珠」で、ネズミが出てくるシーンで椅子の下がゴニョゴニョ動いたり、大蛇がすぐ目の前にいるように見えたりすると喜んで、終わって外に出てくると、いつもはクールなボーイッシュガールなのに、大興奮でジョウさんに話しかけていました。

<つづく>
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2007年08月13日


ニーハオ春庭「ヒーローショウ」
2007/08/13 月
ニーハオ春庭中国通信>長影世紀城ヒーローショウ

 入場者数は、夏休みの日曜日といってもそれほどの人数が入っているようには見えないのに、1時間待ちのアトラクションもあったのは、アトラクションの実演時間が短いため。
 一日の上映時間が決められていて、人気の高いアトラクションは、すぐに満員になる。それで、並ぶ必要があるのだけれど、終日上映にすれば、全部のアトラクション利用時間を合わせても、3~4時間あれば、ひとまわりできるはず。
 並んでいる時間のほうが長かった。

 私が「園内のレストランでお昼ご飯をたべよう」と言っても、シャンユエはお昼を食べて時間を取られるよりも、ひとつでも多くのアトラクションを利用した方がいい、という熱中ぶりでした。
 お昼ご飯は、園内の売店で串に刺したソーセージをかじっておわり。
 家が食堂なので昼ご飯は毎日食べられるけれど、この遊園地には、そうそうは来ることができないでしょうから、私もソーセージかじってランチ。

 「英雄秀場ヒーローショウ」は、昔、後楽園遊園地で娘や息子と見た「なんとかレンジャー」タイプの、ヒーローが怪獣と戦うショウなのかと想像していましたが、映画製作所のアトラクションなので、コンセプトは「戦争物映画の撮影風景」

 太った「リーベングイズ」の軍人がジープに乗って登場。
 愛国抗日の英雄ゲリラたちが、派手な銃撃戦やゲリラ活動によって勝利をおさめ、高々と紅旗を掲げるまでを、映画撮影風景として見せるのです。
 防火服をきて背中に火をつけて転げ回ったり、2階の屋根の上から飛び降りたり、ワイヤーアクションで空中銃撃戦を演じたり。

 派手に銃を撃ち合うのは、子どももいっしょに入場するアトラクションとしては、日本ではできないでしょう。
 アクションは楽しめましたが、やっぱりこの地では、「日本鬼子リーベングイズ」は悪役をふられるなあと思うと複雑。

 「悪いのは軍国主義者、一般日本人民は軍国主義者の被害者である点で、中国人民と同じ」という史観や、日中戦争時代を「許せ、しかし忘れるな」と教えているので、一般の旅行者や居住者がいやな思いをさせられることはないですが、必ず悪役をふられる側に存在する人間であることは事実ですから。

 シャンユエがこの次この遊園地に来られるのはいつになるかわからないから、全部のアトラクションを利用して帰ろうと思ったのですが、4時半の「英雄秀場Hero Show」を見終わったら、もうどのアトラクションも終了しており、5時半閉場といっても、実際にはアトラクションは5時で全部おわり。13のアトラクションのうち、3つは結局入れませんでした。

 全部のアトラクションを見ることはできなかったけれど、ジョウさんもシャンユエも、とても楽しんでくれたので、私としては、大満足の一日になりました。

 5月に山東省世界遺産をみるツアーに参加したとき、私とジョウさんのバス座席のすぐ前に若いカップルがすわっていました。150cmくらいの彼女と180cmくらいの彼の身長差カップルだったので、印象に残ったのですが、このカップルに偶然また会いました。
 2人連れは仲良くアトラクションを楽しんでいましたが、人口600万人の町で、5月旅行と7月テーマパーク、2度も会ったのはよくよくご縁があったのでしょう。いっしょに写真を撮りました。

<つづく>
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2007年08月14日


ニーハオ春庭「夏休みの思い出」
2007/08/14 火
ニーハオ春庭中国通信>夏休みの思い出

 長影世紀城の入場料金がひとり240元(3600円)。
 これは、中国の物価水準から考えると、とても高い値段です。
 昨年の都市地域外の一般勤務者の平均年収が1万元(約15万円)を超えた、と新聞に出ていました。都市部では、もっと高い年収になるでしょうが、大学新卒月給でも、1000~3000元くらいです。

 一家3人で遊んでお昼ご飯を食べれば1000元くらいかかりますから、月収1000~3000元の生活をしている人にとって、そう簡単には遊べない。
 1元のバスにのって、10元20元で夕食を食べている私にとっても、240元は「高い!」と感じる値段です。

 それでも長影世紀城へ行ってみようと、ジョウさんとシャンユエを誘ったのは、ジョウさんに対しては、今まで中国語の家庭教師として世話になったことへのお礼の気持ち。シャンユエに対しては、「特別な夏休み」をプレゼントしたい、という一種のサンタクロース的楽しみからです。

 日本人と知り合っていっしょに過ごしたということだけでも、シャンユエにとっては今までにない夏休みになったことと思いますが、これから先、長影世紀城という文字を見るたびに、私を思いだしてくれるのではないか。
 シャンユエは、中学時代の夏休みの一日、日本人のおばさんといっしょに遊園地へいったこと、忘れないでいてくれると思います。

 私にとっても、どんな美しい風景の観光地より、歴史的遺産の文化施設を見学するより、ひとりの中学生と友達になり、お互いに言葉は十分には通じないまま、おぼつかない筆談で会話し、心通じ合ったというひとときは、忘れがたいものになりました。
 シャンユエはお父さんに電話して、もう一泊してよいという許可を得ました。

 夜、シャンユエと折り紙をして過ごしました。シャンユエは「中国折り紙」で蛙や舟を作ることができます。
 私がつるの折り方を教えると、すぐに覚えて、2羽3羽と折っていました。
 
 鶴の羽や蛙のおなかに、「工作順利(仕事が順調にいきますように)」「一家幸福(一家が幸せでありますように)」などの、さまざまな寿言を書き込み、寿言を送る相手として、私の夫の名前も書き込んでいます。

 「あれ?どうして、夫の名前を知ってるの?あ、そうだった、私が書いて教えたんだったね」
 魏一族の家族パーティで、お互いの家族の名を教え合ったとき、私の夫の名前も、レストランの伝票の裏に書いて教えたのですが、シャンユエはしっかり覚えていたのです。

 私も、シャンユエの名前を忘れないよ。
 シャンは祥、ユエは王扁に月。
 [王月]は、「淑」や「麗」の字のように、女の子の名前に使われる文字だということも覚えました。

 シャンユエは、刈り上げヘアスタイルとウルトラマンのキャラクターTシャツが好きな女の子。きりっとりりしい女の子です。

 再見!シャンユエ。きっといつかまた会える。

<おわり>

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ニーハオ春庭中国日記「北朝鮮への旅&中国村めぐり」

2011-10-31 06:02:00 | 日記

ニーハオ春庭「北朝鮮へ1メートル 」
2007/07/17 火
ニーハオ春庭中国通信>北朝鮮へ1メートル
 
 ついに、北朝鮮に足を踏み入れました!
 年に一度の逢瀬を果たすのが七夕ですが、2007年の七夕は、私にとって「国境侵犯記念日」となりました。
 
 北朝鮮へ。と、言っても、将軍様と年に一度の逢瀬を果たしたわけではありません。
 国境の町へ旅行し、二つの国を分ける川にかかる橋の真ん中、国境の線が引かれているところまで行ってきた、というだけにすぎませんが。

 国境の線を越えてどこまで入ったら警備兵にしかられるかと思って、実験してみたところ、、、、。
 国境線をまたいで、一足、もう一歩、う~逮捕されたらどうしよう、もう一歩。

 1メートル、国境の外側、北朝鮮側に入ったら、しかられました。
 若い中国の兵士が厳しい顔つきで、アホな国境線侵犯者を制止。きゃっ、こわかった。
 でもこれで、北朝鮮に足を踏み入れたことになった!

 中国側の町は図們市、北朝鮮側の町は南陽市。
 二つの町の間には図們江(朝鮮語では豆満江)が流れています。それほど大きな川ではなく、泳いでも簡単に対岸に着く距離だし、冬に川が凍れば歩いて渡れる。

 南陽市と図們市の間には鉄道も通っているし、私が渡った図們大橋も、車が行き来しています。中国と北朝鮮は国交があるのですから、中国側からパスポートとビザがあれば、入っていけます。
 しかし、脱北者にとっては、図們市は「すぐ目の前の遠い町」。川を渡るのも命がけです。中国側から北朝鮮側へ入るのは、警備兵にどやされるくらいで済みますが、北側から中国側へ1メートルでも入ろうとするのが見つかったら、確実に逮捕。監獄行き。

 私のように、「1メートルだけ、北朝鮮に入った」なんてはしゃぐのは、顰蹙モノでしょう。でも、単純に、知らないところへ足を踏み入れるのは、興味津々で楽しかった。
 橋の上には展望所があり、急な階段を登っていくと、望遠鏡が備えられているテラスに出ます。展望所の入場料は、橋の入場と込みで20元。

 北朝鮮南陽市、望遠鏡からのぞいてみると。
 並んでいる建物は、国境警備にあたる人々の宿舎でしょう。2階建て3階建ての建物。人が外に出ているようすがありません。道は見えますが、人の姿は見えません。車は行き来しているのですが。
 たぶん、中国側の望遠鏡から見られる範囲には、一般の北朝鮮の人は立ち入り禁止になっているのだろうと思うし、警備担当者も、決められた部署以外に道をうろうろしたりできないのでしょう。

 20元は高いから、地元の人は展望所に入ったりしないでしょうが、観光客はけっこうバスでやってきて、皆うれしそうに橋の国境線をまたいで写真を取りあっていました。
 「国境をマタにかけた」と、はしゃぐのは、私だけじゃありません。

 「いっしょに写真撮って」と頼んだら、私をしかった若い警備兵は、「ダメ」と言いました。当然だよね。ほんとずうずうしい日本のおばちゃん、厳格な警備の仕事をなんとこころえているのやら。
 でも、「北朝鮮をバックにして私を写して」と、カメラを渡すと、ちゃんとシャッターを押してくれました。
 「将軍様マンセー!はい、チエズ(茄子)」パチリ。

 橋のたもとにずらりと並んだおみやげ屋。金日成バッチや金正日肖像画も売っています。北朝鮮記念切手アルバムを買いました。15元。

<つづく>
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2007年07月18日


ニーハオ春庭「朝鮮族の町延吉市」
2007/07/18 水
ニーハオ春庭中国通信>朝鮮族の町、延吉市

 図們市内の移動は、自転車の後ろに座席をくっつけた「自転車タクシー」に乗りました。アジアに多いリキシャタクシーです。
 愛知万博でも自転車タクシーが活躍し、「エコロジカルタクシー」として紹介されていたなあ。

 おっちゃんが足ふんばって自転車をこぐ。後ろの座席で風に吹かれながら、ガソリン代いらずの自転車タクシー、体力使う分、食費もかかるだろうから、普通車のタクシーと同一料金なのも、ま、しかたないかと、納得。

 自転車タクシーのおっちゃんに「乗っているところ、いっしょに撮ろう」というと、にこにことOK。いっしょに記念写真を撮りました。

 図們市で北朝鮮国境侵犯をしたあとは、延吉市へバスで移動。72km離れている隣町、高速バスで40分ほど。
 延吉は、延辺朝鮮族自治州の首府です。

 中国には最大民族の漢族約12億人のほか、1億人の少数民族がいます。その中で、朝鮮族は、中国全体で約200万人いますが、そのうち延辺朝鮮族自治州に62万人が集中して住んでいます。延辺だけでみると、朝鮮族が人口の59%、漢族は40%、残りの1%はモンゴル族、満族など。つまり延辺だけでいうと、朝鮮族が最大民族です。

 そのため、町中の看板はほとんど漢字とハングル文字が平行表記されており、私にとってはとても便利です。漢字で意味がわかり、ハングルで発音がわかるから。ハングルは、表音文字なので、原則として、書かれているとおりに読めば、通じる。

 「延辺朝鮮族自治州」の発音は、「エンペンチョウセンゾクジチシュウ」と、日本語漢字読み方では全然通じないし、中国語の読み方で「イェンビンチャォシャンズーヂチューチョウと読んでも、私の四声発音はいつも間違うので、通じない。けれど、ハングルをたどれば「ヨンビョン・ジョソンジョク・チャチジュ」と読めて、会話でも通じる。

 四半世紀も前に「対照言語学」という授業で習ったハングル。韓国語はほとんどわすれてしまったけれど、ハングルの読み方だけ覚えていたのが、やっと役に立ちました。(韓国語と中国朝鮮語は、少し発音が違います)

 今回の延辺旅行、往復はちょっと贅沢をしました。
 片道500kmの移動。夜行10時間に、一等寝台車(軟臥)片道200元(176元プラス切符購入手数料20元)、往復で約6000円を支払い、私にしてみれば、これは、贅沢旅行です。

 でもって、ホテルはケチりました。星なし。一泊120元(1800円)
 四つ星級ホテル「国際飯店(インターナショナルホテル)」と「白山大厦(ベイシャンホテル)」が並び立つ向かい側に、私が泊まった全州賓館があります。ロケーションは、町の中心地でいいところなのですが、ホテルそのものは、外観も内装も星つきに比べれば、もちろん貧弱。

 しかし、国際飯店にご飯を食べにいったところ、フロントに日本語ができるスタッフはいないし、サービスは最低だったし、ほんとにこれで星ついてる?と、感じました。まあ、ほかの人へのサービスはよかったのかもしれませんが、Tシャツジーンズの、私にはよくなかった。

 国際飯店は、去年開店したばかりの新しいホテルで、施設は新しいけれど、ホテリエ育成はまだまだ、という感じ。延吉市ではじめて5つ星ホテル誕生か、といううわさもあったけれど、実際には三つ星もどうかってとこ。設備はいいけれど、ホテルは、サービス命!のはず。チマチョゴリの服務員がロビーを行き交っているだけじゃ、サービスとはいえません。

 トイレはまあまあきれいだった。わたしにとって、星つきホテルって、ロビーで休憩するのと、トイレを使うところで十分。

 一方、全州賓館は、フロントの男性も、厨房担当の女性も日本語ができるので、助かりました。
 延辺には、日本語会話堪能な人が多い。

シングルの部屋は、バスタブ無しシャワートイレと、セミダブルベッド、鏡台、洋服ダンス、テレビ、エアコンつき。広くはないけれど、一人で寝るには十分です。

<つづく>
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2007年07月19日


ニーハオ春庭「延吉の夜、歌と踊り」
2007/07/19 木
ニーハオ春庭中国通信>延吉の夜、歌と踊り

 延辺の朝鮮族の人が、中学や高校で外国語科目を選択する場合、これまでは、英語ではなく日本語を選択する人が多かった。
 日本語と朝鮮語は語順が同じで、学習にそれほどの苦労がなく、英語選択者より高得点を得られて、かっては、進学に有利でしたから、日本語学習者が多かったのです。
 現在は、中国全体が英語優先になっているので、朝鮮族の中でも、日本語学習者は減っています。

 70代、80代の人で日本語を話せる人は、かって日本語教育を強制された世代なので、自分からすすんで日本語を話そうとはしませんが、日本語を外国語科目として学んだ、20代、30代の世代の人は、積極的に日本語を話そうとします。

 町を歩いて、たどたどしい中国語で道をたずねると、きれいな発音で「日本人ですか?私、日本語少し話せます。あ、ここに行くのはですね~」と、教えてもらえます。

 英語だけで世界観光をしているアメリカ人の「何の不自由もない旅行」を批判して「その国に行ったら、その国のことばを少しは覚えんかい!」と、思ったものでしたが、外国の町で不自由なく日本語が通じる便利さを実感しました。

 観光ガイドブックには、「朝鮮族の町、延吉市には、このようにチマチョゴリで歩いている女性も多い」なんていう写真が出ていたのですが、日本で、普通に町を歩いていて振り袖姿の女性にそうそうは出会えないのと同じ。

 ここらの女性も、結婚式や特別なイベントではきれいな民族衣装を着るけれど、普段はごく普通の洋装です。
 結婚式にでも招かれない限り、チマチョゴリの写真はとれそうにないなあと思っていました。

 私が延吉の夜、ぜひ行ってみたいと思っていた延辺芸術劇場、延辺歌舞団。
 全州賓館のスタッフに聞いたところ、現在は、改装閉鎖中でした。

 な~んだ、と、がっかりしながら夜、朝鮮料理を食べに出ました。
 行きはタクシーで店まで行ったけれど、近いので帰りは地図をたよりにぶらぶら町見物がてら歩いて帰ろうとしたら、、、にぎやかな音楽が聞こえてきました。

 大型スーパーの前の広場に野外ステージがあり、大勢の人が取り巻いています。なんのイベントか分からなかったのですが、地域の人々が出演する歌や踊りのステージでした。

 あでやかな赤と緑のチマチョゴリを着ている司会の女性と、何人かの歌手はプロの歌い手。朝鮮や中国の踊りを披露したのは、地元の舞踊学校の生徒たちのようでした。

 プロなのか素人の趣味グループなのかわからなかったけれど、朝鮮打楽器、太鼓と鉦のパーカッショングループが出演し、その音は圧巻でした。4人の打ち鳴らす大太鼓、小太鼓、鉦が見事なリズムを刻み、ほんとうにすばらしかったです。

 韓国では、韓国伝統音楽のサムルノリのリズムを取り入れた「ナンタ」というパーカッショングループが人気をよんでいます。延辺打楽器チームの音もとてもよかった。
 朝鮮民族の魂がうち鳴らすリズムは力強く、心の底が震え上がるような響きでした。

 ダンスも、小さな水瓶を頭の上に載せ、くるくる回る朝鮮族の踊り、大きな扇を使いこなしながら舞う中国の踊り、どれもとてもきれいで、上手でした。

 延辺朝鮮族自治州の夏の夜。
 「無料観覧イベント」を見ている人々は、ビールや焼肉の串を片手に、おおいに楽しんでいます。

 ステージの前は椅子を並べた観覧席、その周りを立ち見の人々が取り巻いています。私はステージ脇から見ていました。ライトが目に入るので、まぶしいですが、近くで見られたので、よかったです。

 司会の女性歌手も歌い終わり、アンニョンイガセヨ!と、挨拶してステージは終わりました。
 思いがけなく、市民の踊りや太鼓演奏が楽しめて、いい延吉の夜になりました。

<つづく>
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2007年07月20日


ニーハオ春庭「延吉市の民俗園」
2007/07/20 金
ニーハオ春庭中国通信>延吉市の民俗園

 日曜日の朝、5時半。
 大連の公園で、「太極拳」をいっしょにやらせてもらったので、延吉でも公園でやっているかとでかけてみました。
 ホテル脇の、青年湖公園。音楽がなっている方へ行ってみたら。
 太極拳でなく、社交ダンスのグループが二カ所で踊ったりステップ講習会を行ったりしていました。
 
 下手なカップルも上手な組も、楽しそうにステップを踏んでいます。
 社交ダンスデビュー?も、考えたのですが、ステップが複雑そうなので、わきにすわって見ているだけにしておきました。
 新しいステップを皆に教えていた師範格の女性が、私の隣にすわって話しはじめました。

 彼女は朝鮮族で、彼女の子どもは、現在日本の「ゴンダオ」に留学している、など、話してくれました。最初「ゴンダオ」と聞いてもどこだか分からなかったのですが、紙に字を書いてもらったら「広島」。

 私が日本で受け持っていた私立大学日本事情のクラスにも、中国東北地方出身の朝鮮族の人がいて、ある年度など、クラスの四分の一が中国朝鮮族、ということもありました。
 朝鮮族の人は、中学高校の外国語選択で日本語を選択する割合が高く、日本へ留学することを多くの人が望んでいます。

 日曜朝の青空ダンス講習会の先生、日本へ留学しているお子さんを誇りにしていました。

 7月8日、日曜日。
 午前中は、ガイドブックにでていた「延辺国貿延吉民俗園」へ、バスで行ってみました。
 帽児山という延吉市にある山を、バスで30分くらい登っていったところにある、「テーマパーク」と、ガイドブックにはあります。

 テーマパークというところがちょっとあやしいなあ、と思いましたが、私が持っていた「地球の歩き方」の延吉扁には、この民俗園と人民公園のほかに紹介されている場所はありません。人民公園は、まあ、どこの人民公園とも同じようなものだろうと思って、民俗園に行ってみたのですが、、、、、

 森林公園入り口で5元。朝鮮民家を復元している民俗園の入場料が20元。合計25元払ってわざわざここまで来る人は、地元の人はそうはこないだろうし、観光客といっても、どんどん人が押し寄せてくるような場所ではなありません。

 森林公園の中の道を歩いていたときは、日曜日なのに、全然人もおらず、最初は、「日本のガリバー王国とか、田舎のテーマパークのように、さびれてつぶれてしまったのではないか」と思いました。

 でも、「朝鮮民家」が復元され立ち並んでいるあたりには、ちらほらと観光客もみえ、まあ、つぶれてしまったのではないということはわかってきました。
 復元農家には、農家の暮らしを再現する人形が置かれていて、臼と杵で粉を作っていたり、牛を引いて畑を耕すようすが表現されています。

 うん、テーマパークっちゃ、テーマパークなんだけれど。なんだろこの「安い」感。
 明治村などのように、実際にあった記念的な建築を移築したのなら、それなりの重厚感があるのだけれど。

 一軒の復元農家の縁側で、朝鮮族のおばあさんと話をしました。話したといっても、おばあさんは、ハングル文字は書けるけれど、漢字は書けないので、筆談はできません。筆談もできず、互いに相手のことばを聞き取ることもできず、でも、手真似と笑顔でなかよくなり、いっしょに写真をとってもらいました。

 私が、唯一これだけはできる「ハングル文字で自分の名前をかく」をしてみせると、おばあさんはものすごく喜んで、「私の娘のようだ」と、抱きしめてくれました。私からみても、30年前に亡くなった母が生きていたら、このくらいの年齢かなあ、と思える年頃の方です。

 「カムサハムニダ。オモニ。アンニョンイゲセヨ(ありがとう、お母さん、さようなら)」
 「アンニョンイガセヨ!イルボニチング(さよなら日本のともだち)」

<つづく>

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2007年07月21日


ニーハオ春庭「延吉の民族冷麺」
2007/07/21 土
ニーハオ春庭中国通信>延吉の民族冷麺

 民俗園の近くにあるレストランは、朝鮮料理の店として知られているらしく、門前には高級車が何台も駐車していました。チャングムの朝鮮宮廷料理?
 ここで食べようか?
 いや、やっぱり、お昼ご飯は「冷麺」!
 延辺へきたら、何はともあれ、冷麺!です。

 一旦市内に戻り、海蘭路の「金達莱飯店」へ。
 数々の料理コンテストで、ここの冷麺が入賞しているという冷麺専門店です。有名店だけあって、お昼時をすぎているのに、つぎつぎに客が入ってきて、テーブルの席は満杯。
 有名店といっても、気取ったところはまったくない、ごく普通の店内。冷麺は庶民の食べ物ですから。

 私は、メニュー表の一番上にある「民族冷麺」を注文。これが一番高い。先に食券を買います。30元(450円)。
 私が普段食べる冷麺は、3元ですから、冷麺は庶民の食べ物といっても、その中でも30元はちょい高級。

 麺の上に海老や肉、卵など、いろんな具がのっていて、ほかに小皿に10種類くらの具がついてくる、豪華版でした。
 具が多いだけでなく、たしかに、スープがうまい!

 ナッツ好きの私にとっては、一段と冷麺の味を引き立てたように思えた小皿の品は、松の実です。とても冷麺と合っているように思えたので、こんど3元の冷麺を食べるときに、自分で松の実を持っていって、振りかけてみようっと。

 なぜ「民族冷麺」というメニュー名なのかというと、1950年代にこの店が創建されたときには、「延吉市第一民族飯店」という店名だったから。
 店名も重々しい国有企業でした。従業員は「公務員」ですから、たぶん、この時代の国有デパートやレストランがそうであったように、店員さんも、エラソーだったのではないかと、往時が思われます。

 経済開放後、1989年からは一企業となりました。企業努力が実って、現在は韓国やアメリカに支店をもつまでに発展しています。
 服務員は、忙しそうにチャッチャッと冷麺を運んでいます。
 朝鮮民族の誇りをかけた「民族冷麺」ほんとにおいしかった。

 金達莱飯店のある海蘭路は、延吉市の繁華街のひとつ。どの店も、看板は漢字とハングルの両方の表記があることが、中国の町とも韓国の町ともちがっていて、通りの雰囲気も「バイリンガル」(?)な感じ。

 町の人々は、中国語と朝鮮語の両方をつかいこなし、さらに日本語ができる人も多い。
 もともとふたつの言葉を併用する町であるから、別の言語を使っている人を抵抗なく受け入れてくれるのか、町の人々がだれも、とても親身に思えました。
 道を尋ねても、ひとりひとりが気持ちのよい応対をしてくれます。

 延吉賓館のドアマンは、泊まり客でもない私が地図を広げて尋ねたのにこたえて、金達莱飯店への行き方を教えてくれました。その上、道順が飲み込めないようすを見て、通りを走るタクシーをとめて、「この客を金達莱飯店まで乗せていって」と、指示してくれました。

 白山ホテル前に待機していたタクシーは、ぼったくろうとしたし、全部がいい人というわけではないでしょうが、延吉の人々、あたたかいよい人たちでした。 
 
<つづく>

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2007年07月24日


ニーハオ春庭 延吉のおばあさん
2007/07/22  日
ニーハオ春庭中国通信>延辺の村と延辺大学

 私がいつもしている「市内から郊外へ向かうバスに乗って終点まで行く」を、延吉でもしてみました。

 着いたところは、「依蘭鎮利民村」という小さな村。延吉からミニバスで30分くらい走ったところにある 面積 52平方km、人口1800人ほどの村です。
 村役場とおぼしき建物の看板に、漢字とハングル併記で「利民村人民委員会」と書かれています。 

 バスがとまったところから十字に道があり、両側にパラパラと家がある。「民俗園の復元農家よりよっぽどこっちのほうが古い家」と思える家が並んでいます。

 大学専家公寓の自室に戻ってからインターネット検索で中国サイトを調べると、利民村は、今年から新しく住宅団地の建設が始まることが出ていました。

 延吉市からバスで30分ほどのところにある地の利が生かされ、これからベッドタウンとして発展していくのではないかと思います。
 10年後にきたら、今のこののんびりした田舎の光景も激変しているのかもしれません。

 道を行ったりきたりして、草葺きの家の写真をとったり、道のわきにつながれている牛を眺めたりすれば、それで村内観光おわり。

 道の脇に五人のおばあさんたちが座り込み、おしゃべりしています。
 いっしょに写真をとってほしいと頼むと、こころよく並んでカメラにおさまってくれました。

 素朴な笑顔のおばあさんたち、村が住宅団地へと変わることがあっても、おばあさんたちの笑顔とにぎやかな道ばた会議のおしゃべりは変わらないでほしいなあと思います。

 どこへ行ってもいい人に会えて、ラッキーな私ですが、事件事故にあわないよう、十分気をつけて歩いているつもりです。
 気をつけていても、どこでどんなことに出会うかはわかりませんが、私が延辺の村を歩くにも、安心して歩けたのには、わけがあります。
 
 現在私が受け持っているクラスに、朝鮮族出身者の女医さんがいます。
 家庭では母語の朝鮮語で話します。小学校から中国語の授業を受け、学校や社会では中国語で生活します。
 中学からは外国語科目として日本語を学び、日本の大学医学部博士課程進学のために必要なので、現在は日本語と平行して英語も学んでいます。朝鮮語中国語日本語英語、4カ国語ができるお医者さん、生理学の専門家です。

 今回、私が安心して延辺旅行に出てこられたのは、彼女が「何か困ったことがあったら、私の主人に電話してください」と、ご主人のケータイ番号と延吉市内の自宅電話番号を書いた手紙を言付けてくれていたからです。

 なにかわからないことがあったとき、電話をすれば、どうしたらよいか日本語ができる人に教えてもらえる、という安心感があったので、村歩きものんびりとできました。

 彼女は、平日は大学の寮で暮らし、留学に備えて日本語学習を続けています。週末はお子さんとご主人が暮らす延吉市に帰宅することもあり、今回も「私が延吉市内をご案内します」という申し出をしてくれました。

 しかし、学生が在学中、私が成績をつける教師という立場である間は、クラス全員といっしょに過ごすのならいいけれど、特定の学生との個人的なおつきあいをしないことを信条にしているので、お礼を言い、「できるだけ自分の足と目で歩いてみます。万が一、困ったことが起きたら、連絡しますから、そのときは助けてください」と、話しました。

 彼女は、日本留学にあたって、最初の半年はお子さんをご主人に託し、半年して日本に慣れたら、お子さんを日本に呼び寄せるつもりだと言います。しかし、ご主人、彼女と同じ大学の医学部のお医者さんなので、仕事を離れられない、と話していました。

 彼女とご主人が医学部教師として働いているのは延吉市の延辺大学。
 延辺大学は、中国の大学がみなそうであるように、正門から見ると実に堂々とした立派な建物が建っていて、地域のランドマークになっています。

 延辺大学の本部キャンパスに入ってみました。本部キャンパスの中には、理工学部、教育学部などはあったけれど、医学部キャンパスは別の地域にあるらしく、地図をみても、どこにあるのかわかりませんでした。

 私の受け持ちクラス、この女医さんのほか、男性1名がこの延辺大学の教師です。日本ではそれぞれ、医学と情報処理の博士号を目指します。
 ふたりとも歌がとてもじょうずで、クラスパーティではいっしょに朝鮮族の歌を披露して場を盛り上げてくれました。

 四カ国語を駆使して医学研究にあたる女医さん、小さな村の素朴なおばあさんたち、延吉市内の道を教えてくれた方、美しい民族衣装で踊った若い娘たち、社交ダンスを指導していた奥さん、、、、
 延辺の女性、みな笑顔が美しい、すてきな女性たちでした。

 今回の延辺旅行、北朝鮮にも行けたし、すてきな笑顔に囲まれた楽しい旅ができました。

<おわり>
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2007年07月26日


ニーハオ春庭「中国的OFF会」
2007/07/26 木
ニーハオ春庭中国通信>中国的OFF会

 Off会でウェブ友と顔をあわせたことは数回しかない、というOn Line専門の私なのに、中国に来て、Off会をすることになりました。

 この地に赴任する前に、市の名前で検索をかけたら出てきたサイト。その後、市の中の地名や出来事で検索するたびに行き当たったサイトがあります。

 2006年8月から中国に留学している女性のサイト。留学日記を読み続けているうちに、留学生といっても、企業か公官庁から派遣されて「公費留学」している人らしいこと、既婚者で、ご主人が中国に会いにきたりすることもある、など、わかってきました。

 私と同じく、固有名詞は極力文章に載せないよう気を遣って書いていることがわかったのですが、それでも、長くひとりの人の文章を読んでいれば、あちこちの記述から、思い当たることが次々と出てきて、この留学生は、私が教えている大学の本部キャンパスで学んでいることに気づきました。

 とても簡潔明瞭な文体で、的確に町のようす、人々のようすを知らせてくれます。
 赴任後も、ちょくちょくサイトにおじゃまし、いろんな市内情報を参考にさせてもらいました。中国クマ、というハンドルネームです。

 中国クマさんも太極拳を練習していることが書いてあったのですが、私の推理で、どうやら、同じ先生の相弟子ではないか、と気づきました。

 私の太極拳の先生は、本部キャンパスの留学生にも太極拳を教えています。毎週金曜日午後のクラスで、正式に単位をもらえる授業だということを聞いていたので、そのようなクラスが何種類もあるとは思えないので、たぶん、同じ先生に習っているのだろう、とわかったのです。

 何度かコメントを書き込むうち、ついに「同じ先生に太極拳を習っています」ということを書き込みました。
 彼女が中国語を習っている先生たち、何人かの先生といっしょに太極拳の練習を続けてきたので、彼女がブログにのせた「我的老師的太極拳」の写真に、私も写っていることをコメントしたのです。

 発表会のとき、私のうしろに並んでいた年配の先生は、彼女の「口話(会話)」の先生。そのほか、漢文読解の先生とか、共通に知っている先生が何人もいました。

 彼女の留学派遣期間は1年間。7月いっぱいで帰国するというので、帰国前にぜひ会いたいと、メールしました。

 大学正門の前で待ち合わせの約束。「黒いリュックサックを背負っている」という目印を教わっただけでしたが、図書館前から正門に向かって歩いてくる女性、すぐに中国クマさんだとわかりました。

 さわやかな笑顔で、文章から想像していたとおりのすてきな女性でした。でも、、、、思っていたより若い。

 公官庁から派遣されて来ている、既婚者の女性ということで、もうちょっと年配なのかな、と思っていたのですが、知性のなかにも若さが光っている、という感じで、私のようなオバハンと話が合うかな、と、ちょっと心配。
 でも、話し始めてみると、初めて会う人でも、10年来の友のようです。

 これは、Off会というものが、そうであるのかもしれません。会う前に、サイトやブログで、相手のものの見方や考え方を十分に知っていて、また、ある程度のプライベートな背景も知っていて会うのですから、毎日顔を合わせていても、挨拶程度しか話さない近所の人より、よほど相手のことをよく知っているわけです。

 私の宿舎近くにある韓国料理店で食事をしながら話すことにしました。
 このあたりには、朝鮮族が多く住んでいて、朝鮮料理の店がたくさんありますが、中韓国交回復後は韓国資本が急激に中国に進出してきて、韓国ドラマも放映されるし、韓国から輸入された物を扱う商店も、韓国料理店も、どっと増えました。

 韓国人が経営している店のひとつで、ビビンバや焼き肉を食べました。
 私にはその差がわかるほど、朝鮮料理と韓国料理を食べ比べたことはないのですが、1年この地に暮らしたクマさんによると、微妙に味が違うそうです。

 中国の自治体と日本の自治体が姉妹都市など、友好交流関係を結んでいるところが増えてきましたが、クマさんが勤務する県も、この町と長年の交流活動を続けてきました。
 クマさんは、国際交流課の仕事をこなすために中国語が必要で、交流課の仕事の一環として留学することになりました。

 お給料をもらいながら留学できることを、単純に、「うらやまし~い」と思っていましたが、クマさんの話をきくと、仕事として留学するというのは、絶対によい成績を残さなければならないし、中国語学習のほか、自治体交流課の現地事務所に顔を出して、課の仕事も手伝わなければならない。こちらが思うほど楽ではないようです。

 交流課の仕事もこなしながらの留学生活、クマさんは、中国語もしっかり上達したうえで、中国各地への旅行も楽しみ、充実した1年間の中国生活になったことが、ブログからもわかります。

 本当は、最終試験の最中なのに、試験が終わったらすぐに大連旅行へ出かけるので、試験初日に会うということになったのです。
 交流の話、太極拳の話、クマさんの出身地と私の舅姑の出身地が同じことから、「地元トーク」など、話がはずみました。

 本当はもっと話していたかったけれど、なにしろ明日も中国語の試験が続きます。公費留学のクマさん、絶対に単位を落としたりできません。勉強にさしつかえるといけないので、話はつきないけれど、「再見」となりました。

 ブログの文章からも感じられましたが、会ってみると、ほんとうに知的でさわやかで、人をあたたかい気持ちにさせてくれる人柄なので、留学を終えて県の交流活動の仕事にもどったら、きっと外国の人にも日本の人にも好かれる、すてきな国際交流職員になるだろうと思います。

 これから帰国までの間に、出張で中国へ来るご主人と待ち合わせたり、大連、内モンゴルに旅行したり、忙しいスケジュールになり、27日には帰国、というメールが届きました。この次会うとしたら、日本で、ということになりそうです。

 こうして出会えたのも、この町にいるご縁。ブログがとりもつ縁がまたひとつ増えました。

<おわり> 
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2007年07月27日


ニーハオ春庭「お仕事完了」
2007/07/27 金
ニーハオ春庭>お仕事完了

 連日「村に宿泊した」「延辺へ旅行した」というエッセイを掲載しているので、「仕事はどうした」と、ご心配くださった方のコメントもありましたが、もちろん、旅行などは週末だけ。平日月曜日から金曜日までは、毎日仕事を続けてきました。

 旅行に行けたのは、5月に山東省へ2泊3日(往復寝台車2泊)、6月に大連へ3泊3日、7月に東北地方の延辺へ1泊2日(往復寝台車2泊)。
 この3回の旅行、それぞれ思い出深いものとなりました。
 あとは、平日、仕事が終わってから市内バスに乗っての「夕食を食べに行くミニバスツアー」です。

 平日は、朝8時から5時まで勤務。家に帰っても翌日の授業準備、授業プリント作りや作文の添削などで夜寝るまで仕事を続けなければ、こなしきれない仕事量でした。

 日本でも、週日は毎日授業を受け持っている私ですが、大学の授業は一日に90分2コマ。授業時間以外の授業準備は、拘束されることなしに自宅でも図書館でも行うことができます。
 
 13年前に私が参加した同じ文部科学省プロジェクトは、午前中90分2コマの授業をしたあと、午後は自宅で授業準備ができる比較的自由なプログラムでした。
 しかし、今回は8時~5時の拘束、さらに仕事が残って、夜も自宅に持ち帰り残業。
 本当にたいへんでした。

 4月は毎日ため息をつき、「こんなはずじゃなかった、これほど仕事がたいへんと思わずに中国へ来てしまった」と、愚痴と涙の毎日。

 5月6月、日が延び、夕方8時近くまで明るさの残る町で、夕食ツアーを始めました。
 夕食を食べに、他の人たちは専家公寓の食堂や近所のレストランで食べていたところを、私ひとりバスに乗り、終点までいってそこでご飯を食べて帰る。

 ささやかなバスツアー。バスから町を歩く人々を眺め、繁華街でショッピングを楽しむ人たちを見て通る。
 細民街の細い道を通るバスから、傾きかけた家の中で暮らす人々のようすが丸見えだったり、田舎道の辺り一面トウモロコシ畑の中、デコボコ道をゆられたり。
 夕食、町はずれや村の小さな食堂で冷麺やチャーハンを食べ、ほっと一息、気持ちを切り替えて家に帰りました。

 こうして毎日仕事に励んだ結果。

 中国教育部と日本の文部科学省共同プロジェクト「赴日本国、国費留学生日本語教育」という留学生教育、基礎教育の部を終了し、7月26日、基礎教育最終試験「日本語能力試験2級レベル」が、実施されました。
 ドキドキしながらの採点。私の受け持ちクラス、ひとりでも不合格者がでたらどうしよう。

 どんなに練習問題や模擬試験で練習しても、聴解試験の成績が伸びない人が各クラス何人かはいます。
 私の受け持ちクラス19名のうち、どうしても2、3人は聴く力が弱く、聴解試験の模擬テストで合格ラインに達しないのです。

 彼らの気持ちがよくわかります。私も中国語、文で見ればだいたいの意味がわかっても、耳で聞くとなにがなにやらさっぱり分からない、「听不懂 チンブートン=理解できない、わからない」でしたから。

 でも、本番試験では皆、がんばりました。
 結果。
 103名全員合格。バンザイ!よかった、よかった。ほんとうにほっとしました。

 2週間の夏休み後、学生たちは東大、東工大の先生を迎えて専門教育を受けることになります。
 それぞれが自分の専門について習うのは、基礎日本語ほど修得が難しいものではありません。

 たとえば経済問題の研究者にとって、「経済分析師→経済アナリスト」「内幕交易→インサイダー取引」「貼牌生産/定牌生産→相手先ブランド生産」などの専門用語を覚えるのは、英語もできる彼らには、それほどむずかしくありません。

 基礎日本語の学習で、「どころか」と「ところが」を、いつも間違えてしまう、とか、「きっちり」「きっかり」をどのように使い分けるか、「彼は学者らしい人だ」と「どうやら彼は学者らしい」という文では「らしい」の意味が異なるとか、頭をひねってきたことに比べれば、2週間の短い「専門日本語研修期間」でも、十分に日本での研究生活に備えることができるでしょう。

 専門日本語の修了認定は試験ではなく、「専門研究発表会」での日本語による発表ですから、大学の教師である彼らには、皆の前で発表するのは慣れたもの。

 専門教育が終了したあと、9月は留学準備期間。
 10月、彼らは日本の各地の大学へ向かいます。

 さて、日本語基礎教育担当の私の仕事はこれにて完了です。お疲れさま!

<つづく>
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2007年07月28日


ニーハオ春庭「植物園風レストラン合格祝賀会」
2007/07/28 土
ニーハオ春庭>植物園風レストラン合格祝賀会

 27日に終了したコースで、昨年10月から日本語の授業を受けてきたのは、中国の大学で教えている若手教師たち。
 昨年10月に「あいうえお」の発音、ひらがなカタカナの書き方からはじめて、私が3月に赴任したときは、初級コースを半分おえ、4級レベルになっていました。

 皆、優秀な大学教師たちですから、ここまでは余裕で上達してきたのです。しかし、ここからの急坂を登るのは、本当に過酷でした。
 もともと「新幹線授業」だったのに、6月7月は「ジェット機授業」
 旅行カバンには詰め込む、詰め込む。乗り込んだと思うと、あっという間に走りすぎる。

 最後の2週間は、朝日新聞に掲載されたエッセイ、投書や「天声人語」の読解が中心でしたが、アップアップでした。

 まったくこれまで知らなかった言語の学習をはじめて、一年間で英検なら2級に相当するレベルに相当する力を培う、私なら「やれ」といわれても、たちまち挫折しそうなコースです。

 私の受け持ちクラスでは、19名が、北海道大学、東北大学、東京大学、東京工業大学、名古屋大学、神戸大学など、各地の大学院博士課程に留学し、医学や情報工学、環境科学、ロボットビジュアルシステム、カーボンナノテクノロジーなど、多方面の専門で博士号取得をめざします。
 
 文系の人もいます。東大大学院で美術史研究を行う人もいれば、名古屋大学大学院で教育経済学大学運営論を研究する人もいます。

 一橋大学で経済学の研究をする人は、今月出産したばかり。6月末から授業を欠席し、毎日友達が宿題プリントを届けて自宅学習を続けました。産後の体で最終試験を受けましたが、優秀な人ですから無事合格。

 10月には生後3ヶ月の赤ちゃんをお母さんに託して留学します。半年して日本に慣れたら、お母さんと赤ちゃんを東京に呼び寄せるそうです。3ヶ月から9ヶ月までの、日に日に大きく育っていく時期のかわいい赤ちゃんをだっこできないのは、母親にとってつらいでしょうが、せっかく得られた国費留学のチャンスを失いたくない気持ちもわかります。

 ご主人は上海に単身赴任中。出産立ち会いも、3日間赤ちゃんのそばにいられただけですぐに仕事先へ帰ったそうで、超多忙のようです。

 最終試験合格発表のあと、7月26日夕方は、クラスの皆が集まってクラス写真撮影大会。教室や蓮の花が美しいキャンパスの池の前で、思い出アルバムの写真を撮りました。

 夜はそれぞれのクラスで合格祝賀会。
 私のクラスは、市内の海鮮レストランで豪勢な宴会となりました。
 体育館のような広い建物の中が植物園風に設計されていて、さまざまな木や花が植えられ、池には錦鯉やオシドリが泳いでいます。
 植物園の中に中国風のコテージが点在し、コテージ内で宴会。

 「今、中国では、このようなレストランが、え~、はやし、、、はやい、、、え~」
「はやっていますって、言いたいのかな?辞書形は流行る、テイル形は、流行っている、でしたね。ま、活用間違えても単語忘れても、もう合格しちゃったからいいさ」
 2級レベル試験に合格したといっても、聴き取りや会話はまだまだ弱い人もいます。

 「はい、はやる。流行っています。日本にもこのようなレストランがありますか」
「東京の木場に熱帯植物園があって、その中のレストランで食べたことはあるけれど、そこは植物園が主体で、レストランは付属の施設。ここは、レストランが主体で、植物園はレストランの付属の施設ですから、このような種類のレストランは、日本では私は行ったことがありません」

 学生たちは、思い思いに園内を歩いたり、池のそばのテーブルでトランプをしたり、ここ数日間続いた、連夜の猛勉強の疲れをいやしています。
 学生たちの宴会といえば、夕方5時半開始、6時開始が多いのに、今日は明日遅刻する心配もなく、翌週月曜日に提出の作文宿題もなく、ゆっくり7時すぎに開始、魚料理、ホタテ料理などがテーブルに並びます。

 美味しい海鮮料理をいただき、乾杯を繰り返しながら、本当に心晴れ晴れとおひらきになりました。

<おわり>
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2007年07月29日


ニーハオ春庭「動植物公園・東北虎とニセ縞馬」
2007/07/29 日
ニーハオ春庭中国通信>動植物公園・東北虎とニセ縞馬

 7月27日「日本語能力試験2級レベル全員合格」のお祝いをして、私の中国での仕事とは完了。
 あとは、自由な夏休み2週間。

 仕事を終えた後の休暇、まず最初の2日間は。
 この町で出会った「若い友人」ふたりを招待して、市内でのんびりすごすことにしました。

 ひとりは、私の中国語の家庭教師をつとめてくれた大学3年生ジョウさん。
 一生懸命に中国語を教えてくれましたが、私は予習も復習もしない不出来な生徒で、結局「指さし会話」以上に上達することができませんでした。

 私の「指さし会話」、けっこう生活できます。タクシーに乗れば、前方、右、左を指さし「走[口巴]ゾウバ(行こう)」
 買い物にいけば、欲しいものを指さして「多少銭?ドゥオシャオチェンいくら?
 これだけで生活はあまり不自由はしませんでした。

 最後の授業は、四つ星ホテルの和食レストランにご招待して、刺身、すし、天ぷら、うどん、鯖塩焼き、茶碗蒸しなどがセットになった「和食セット」をいっしょに食べました。どのメニューが一番お口にあったかきいたら、「和風さいころステーキ」、ああ、やっぱりね。

 もうひとり、友達になった「若い友人」は、14歳のシャンユエ。合隆鎮という田舎町に行ったときに出会った子。中学1年生。9月からは2年生です。

 28日の朝、合隆鎮までシャンユエを迎えに行きました。バスで60分ほどのところです。

 市内に戻って、まず、肯徳基(ケンタッキー)で、ハンバーガーやフライドチキンのランチ。

 麦当勞(労のツをとった上に草冠・繁体字では麥當勞=マクドナルド)は、混んでいたので、肯徳基へ行ったのですが、ここでもしばらく待ちました。

 土曜日の昼をマクドナルドやケンタッキーでランチしようという親子連れがワンサカ集まっています。
 ジョウさんの説明では、この近くに英語塾がたくさんあって、午前中子どもに英語の勉強をさせた親が、ランチは「洋風に」と考えて集まってくるのだとか。

 ランチのあと、動植物公園に行きました。
 入場料がひとり10元、動物ショウの観覧料が10元。1m以下の子どもは半額。中国では、年齢ではなく、身長で半額になります。鉄道などは1,4m以下なら半額。

 動物「表演」
 ライオン、虎、オオカミ、熊、猿、山羊、象たちが、自転車に乗ったり火の輪くぐりをしたり、綱渡りや縄跳びをしたり。
 子どもたちは大喜びです。

 大人ぶりたい年頃の中学生には「子どもっぽい」と思われるんじゃないかと心配しましたが、シャンユエも、けっこう喜んで、芸がきまると拍手して見ていました。
 
 鞭で叩かれたりしながら芸をする動物を見ていると、かわいそうな気もしますが、マクドナルドランチをご褒美に英語塾でしごかれる人間の子どもも、似たようなものだと思えばいいのかも。

 ショウのあとは、河馬、縞馬、頸長鹿(きりん)などを見て回りました。
 私の一番のお目当ては、「東北虎(シベリアンタイガー・アムールタイガー)」
 絶滅危惧種のひとつで、現在、中国政府は黒龍江省の東北虎林園で、繁殖をはかり、700頭まで回復したのだそうだけれど、パンダと並び、絶滅して欲しくない貴重な動物です。

 もうひとつ、見ておきたかったのは「偽縞馬」、白馬にペンキで白黒模様を描き、馬車を引いています。
 日本のニュースでこの「偽縞馬」の姿が放映されたということを、ネットニュースで知りました。
 日本で注目されたという、この「偽縞馬」の写真を撮っておきたかった。

 私の感覚では、馬車を引くのは白馬のほうがいいと思うのに、しっかりペンキで縞馬に変身していました。

 さて、中学生シャンユエと出会ったいきさつについて。

<つづく>
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2007年07月30日


ニーハオ春庭「農安県合隆鎮」
2007/07/30 月
ニーハオ春庭中国通信>農安県合隆鎮

 ミニバス185路線で1時間ほど北へ行ったところにある農安県合隆鎮。
 以前、一度、バスで行くだけ行って、そのまま折り返して帰ってきたことがあり、どこらへんにあるところなのかは、地図を見て確認してあるし、町のなかに旅店があることもバスから見て確認してありました。
 伊通鎮よりは小さいけれど、富峰鎮大屯よりは大きい田舎町。農安県の中心地が合隆鎮です。

 夜、仕事を終えてから、バスの終点へ夕食を食べにいく「どこへいくのか、自分でもわからない夕食ツアー」を続けてきました。
 7月13日、金曜日のこと。合隆鎮行きは、「遠いので、夕食を食べたあと、市内に戻るのはむずかしい」と、判断して、泊まりの準備をしてバスに乗り込みました。

 準備と言っても、歯ブラシ、タオルなど、「簡単お泊まりセット」のみ。元バックパッカーは、パジャマに着替えないでそのまま寝ても、翌朝は同じ服ですごしても平気。荷物は極力少ない方が安全。身なりはボロいほうが安全。
 カメラも持たない方が安全なのはわかっていますが、これだけはデイザックに入れておく。知り合った人と一緒に写真をとってもらうのは、私の楽しみのひとつ。

 近くのバス停からまず鉄道駅(火車站)へ。駅の中をのぞいてみる。金曜日の夜、どの窓口も長い列を作っています。出張や旅行の人もいるでしょうが、当日券を買うために並んでいるほとんどの人は、省都の出稼ぎ先から我が家へ戻る人。田舎へ商売モノを持って行く人もいて、皆大きな荷物を抱えています。

 鉄道駅から少し離れたところにあるバス発着所まで、少し歩きました。こんなに遅く、185路線のバスはまだ動いているかしら。夜6時には営業を終えてしまう路線もあります。
 あ、185路線の発着所、まだバスが泊まっています。

 7時15分に185路線のバスに乗りこみました。でも電車と異なり、田舎へ向かうバスには正確な発着時間というのはありません。「人数がある程度集まったら出発」です。
 7時45分まで待ち、やっと出発。

 合隆鎮についたのは、9時少し前になりました。こんなにおそくなっちゃって、夕ご飯食べられるかしら。一般の夕ご飯タイムは午後5時~6時です。9時は、食後のビールタイム。

 バス発着所には、さらに田舎へ向かうための人をあてこんだオート三輪タクシーやモーターバイクタクシーがたくさん停まっています。
 モーターバイクは、後ろの席にふたり乗せることもあり、オート三輪より割安なので利用する人も多いですが、私はまだ乗ったことがありません。交通事故が多い中国の道路では、もっとも危険な乗り物と思うので。

 ぐるりと見渡して、まず、「旅店」と看板が見えるところを探しました。

<つづく>

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