ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

主日ミサ説教より(マルコ10:46-52)

2009-10-27 00:03:55 | カトリックの信仰
 久しぶりに母教会の主日のミサに参加した。気が散らないように聖堂の前の方に座った。不思議だが、会議の時は司会者に向かって左とか、電車に乗るときはこの辺とか、バスに座るならこの辺とか、聖堂だったら普段は右側の後ろの方とか…落ち着く場所ってそれぞれにあるように思う。

 マルコ福音書10章46-52はイエスが十字架にかけられる時期に近づいてきた日々、弟子たちについてくるよう招くが、イエスについていくということはどういうことかと伝えながら歩いている。今日の福音の箇所ではエルサレムにもう少しというエリコの町にいた盲人の物乞いが大勢の人に黙らされそうになりながらも「ダビデの子、私を憐れんでください!」と叫び続けて、イエスに「何をしてほしいのか」と言われる。「目が見えるようになりたいのです」という心からの叫びに、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」といわれる。盲人はすぐ見えるようになり、すぐに道を進まれるイエスに従った。

 ★☆★☆★説教:O師は先日香港であった修道会の会議に出席した。そこでは英語で会議は進められた。日本から参加したのはO師を含めて四人。その中の一人K師は英語が良くできない。でも見ていると彼はいつも誰かとコミュニケーションをはかっている。分科会でも、食事の時にも、懇談会でも彼はいつも誰かと話しこんでいた。あるとき散歩に行って来ると他の国の人と二人で連れ立って出て行った。散歩に二人で行くのに黙っていないだろう、きっと会話をしながら行ったと思う。最終日の自由時間には、おぼつかない英語でマカオへの行き方を聞いて一人で出かけていった。通訳しようかといったが彼は大丈夫といって出て行った。夜何事もなく戻ってきた。

 彼を見ていて、彼はどのような状況、苦境にも生きる力、人間が生きていくために必要な力、学力でも知識でもない力がある人なのだろうなと思った。彼は開かれている人なのだろうと思う。未知の領域に開かれている。

 イエスは「隣人を愛せ、神を愛せ」と二つの掟を遺した。神と隣人に向かっていつも開いておきなさいということだろう。倫理的な勧告ではない。他の存在との関係を通して、生き抜く力が与えられるのではないか。心を、存在を開くこと、神に向かって開くこと、それは生きるのに必要な力が与えられる道に繋がる。

 今日の福音はバルティマイの病気をイエスが癒した奇跡物語であるが、彼が心を開いていなかった、目を閉ざしていたとも思える。人間は時として知識や社会良識、常識によって自分を閉ざし、自分自身に限界をおく存在である。

 開いていなさい、イエスは存在が開かれていることを望んでおられる。根源的な力が与えられる為に自らを神に、他者に開いて置くように、と。 ☆★☆★☆

 この頃、少し仕事をさせていただいているO学習センターではまだまだ慣れないゆえに観察中の点もあるので疑問も主張も遠慮してしまうことがある。人間関係の複雑さも良く分からない。気をつけていたいのは、思い込みや先入観に惑わされずに、ストレートに心に響くものを感じ取りたいということ。今までヤマアラシのジレンマを恐れずに傷つくことを恐れずに、関わりを近くに置くスタンスであったが、今は全体が見えるように距離を置いている。その上で見えてくるもの、感じることに素直に反応して行きたいと思う。「おとなしいようで冷たい」と底意地の悪さを妹に指摘されたことがあったけれど、冷めた目で見ていてズバッと切り捨てる時があるからかなぁ…。自らを開いているつもりでしっかりガードしている臆病者の自分がいるようにも思う。変わるのではなく、変えられていくのだろう、神のときに。まだまだ成長中、神の前では。