ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

待降節黙想会

2006-12-10 18:58:42 | カトリックの信仰
 今年の指導司祭は数年前司祭叙階前の助祭時代に初めての黙想指導ということで緊張していらした同じ司祭でした。彼は叙階され、都会の大きい教会で助任司祭をし、ローマで教義神学を勉強していらっしゃり、今は修道会の神学校教授、T教会の助任司祭をしていらっしゃいます。教えている現場に居られるせいでしょうか、勉強を積まれたせいでしょうか、色々と考える体験を重ねたせいでしょうか、思わずお茶のときに「神父様、ひとまわりもふたまわりも大きくおなりになりましたね」とお声をかけたほどでした。(体型は変わっていなかったですよ)

 イエス様の降誕を待つこの時期、世の中は早いところは11月から『クリスマス商戦』にはいりますが私達がクリスマスを待つときに同じようにただただハッピーというのとは違う。今親が子供を殺し、子供が親を殺し、自殺者が年々3万人を越すと‥事故、事件があちこちで起きて、その報道に痛みを覚える間に次の情報に関心が移り、本当に『いのち』の重みを感じない『慣れ』の中にすごしています。なぜいのちが大切なのか?

 神が私達をご自分に似せて創られた。一人ひとりが神のに姿を写している存在だからどの『いのち』も大切なんだと思います。私は人間が好きです。この間友人と話をしていて、「どうして人間が好きなの?」と聞かれました。「人間一人ひとりは完全な者はいない。でもあの人のあんないい面、この人の持っているこんな一面を大切に見ていくとき、一人ひとりと向き合って付き合うと神様がそれぞれにふさわしく与えてくださったものが万華鏡のように鏡に映り、綺麗な色模様を織りなして、きっと私の知らない何人も何人もいろんな人間のいいものを合わせてやっと園に姿に作られたという神が判ってくるのだと思う。だから勿論相性の悪い人もいるし、私は至らないから受け入れ難いときもあっても、でもやっぱり畏れず怖がらずに人と関わり続けたいなと思う。」

 K師は『「あの人がいなければ良かったのに~」「ああこの人がいるから駄目だ!」「自分なんかいないほうがいい」と自分の殻に閉じこもってその人との関わりを断ち切ってしまうこと、人を殺し、自分を殺している、時には神様をすら殺していることがないでしょうか。』とかなり厳しく罪の本質を話されました。『私達一人ひとりをいかしてあげたいと思っておられる神に気がついて欲しい。そういう神の姿を見えなくしてしまうのが罪。自分の人生の中で神が導いてくださった事に思いをとめてみましょう。』と第一講話終了。

 その延長線上で説教では、自分の信じている神はどういう神様なのか?とはじめられた。K師は自分なら『神は人間を放っておかない。人間にかまってくれる神。そして神はご自分のほうへと人間を導く、そのためならどんなことでもする、そういう神なんだ』と答えるとおっしゃします。私は弱虫でいろいろなことに流されやすくて神様へ信頼することを忘れて、おぼれかかったときに無我夢中、脚をバタバタさせて変な力が入って全然上手く泳げなくなる、そんな状況に勝手に自分を追い込んでいきます。どんなときにも『救ってあげる』のにと手を伸ばして下さっている神様を見失っています。『クリスマスは救い主が、そんな自分の心に入ってこれるように準備してください。これが回心です。何か良いことをするのではなく、神を知ったときのように生きて欲しい』と。

 第二講話…仕事で中途半端になって、全然聞いていませんでした。だから友人から聞いた話と頂いたテープとメモから。生とはちょっと感覚が違います。『クリスマスは何もない貧しさの象徴である『飼い葉桶』に生まれた幼子、布(ミイラを巻く包帯をイメージすると既に死が暗示されている?)にくるまれた幼子は極限の中で生まれた話です。フランシスコは『神が人になった、これほど神が私達を愛してくださった。神が貧しくなって飼い葉桶に横たわった。私達の間に来て下さり、共にいて下さる。それを祝った』のです。クリスマスに、そして毎回のミサの祭壇の上で。』…

 『キリスト教、聖書のいう信仰はアクティブ(これを信仰のダイナミズムという人もいます)なんです。何事に対しても「ああ、そうなのか、分かった、分かった」では終わらない。羊飼いも「さあ、見に行こう!」マリアもご自分と同じく神に愛されたエリザベトに会いに行った。神様に愛されて、。神様がいると信じて、神様の愛のうちに生きている人が一杯いる。その事に気がついたら、確かめない訳にはいかない、いわない訳にはいかない。これが私達の福音宣教の基本になるところ。自分に大切なものをホッポリ投げて、イエスに従う。でも、全部は捨てきれない、一生かけて自分がイエス以上に固執しているものを捨てていくのだと思う。最後の最後までイエスに従っていくために自分の大切なものを捨てる、時には自分の体も。時には見える目かもしれない。時には耳かもしれない。でも一つひとつ捨てて回心していく。

 羊飼いは天使に教えられて、すぐに探しに行く。そして飼い葉桶に眠る幼子にあう。見聞きしたことがすべて天使の言うとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていく。神の似姿として作られた人間が罪によってその事が分からなくたってしまった。飼い葉桶に眠る幼子によってもう一度、神に創られた人間であることを確認する。『神からのいのち』が分かる。生き方が変わって賛美する。神を賛美することは、神に感謝することと表裏一体です。…飼い葉桶とは、私達の心そのものではないでしょうか。私達一人ひとりのみすぼらしい心の中においでになられるイエス様。クリスマスを祝うときに、欠点や弱さを抱えた不完全私達の中にもイエス様は眠ってくださる。それこそ素晴らしいプレゼントにほかなりません。感謝できなかった人が感謝できるようになる。賛美できなかった人が賛美できるようになる。神を知らなかった人が神を知り、神と共に生きることができるようになる。幼子イエスを通してもう一度、神との間柄、絆に入れていただくのです。クリスマスまでの間に、自分の心にイエス様を横たえる場を作ってください。幼子イエス様によって賛美する人、感謝する人へと帰られて生きたいものであります』  良かった…

職人さんがいても (>_<)

2006-12-07 16:07:43 | 日々の出来事
 先月末から始まった部屋の改築、壁を壊して二部屋を一部屋にしました。壁の中から出てきた梁部分を養生して、床材を張り、壁のでこぼこを直すところまでは先週終了。昨日と今日は壁紙を張ってくれました。小さい部屋が少しでも広く見えるように壁と天井は同じ白い壁紙です。若い職人さんが一人で朝9時から夕方7時近くまで(今日は午前で終わり)、頑張っていました。

 でも、でもやっぱり私もやらなければいけない仕事があって、昨日も日中留守、今日も朝迎えて仕事が終わるお昼までに帰ってくるいつもと同じパターン。家の外回りの仕事ならともかく、家の中の仕事を頼んでいるのに出かけていいの?と友人にはいわれますが、ずっと以前から頼む会社は同じ、信用のできる職人さんを手配してくれるので任せてしまいます。

 ちなみに私の出かける先は教会、事務の手伝いと入門クラスが二つ。クラスは二年がかりで取り組んでいるテキストを今年度春までに終える目処がついてきていて、ほっとしています。夜のクラスも昼のクラスも求道者がいます。一緒に勉強できるこの時間、かなり好きです。

 見積書を見ると窓枠など木材塗装という項目があって、出来上がった部屋を見渡すと扉の廻り、壁の間にある木枠、今まで壁の中だったところなどちょっとづつ気になるところが残っているようです。ちょうど、部屋から出した荷物を戻す体力はないので、時間を貰ってよかったかな。続いての仕事でなくて。年末にはすっきり片付けたいと思います。

一泊忘年会

2006-12-05 09:47:42 | 日々の出来事
 江戸懐石近茶流を習い、一応教授であります。自宅教室はもう3年近く開店休業、「再開したい!再開したい!」と思っているのですが一旦休むといけませんね。私が月1回伺っている宗家教室は決められた夏以外はお休みはないです。(生徒の都合で休む方は勿論いらっしゃいますが…)10月はお嬢様の結婚式を次の日に控えていても教室は休みにならずに教えていただきました。以前、「教える」ということはそういう厳しさをもってやりなさいと先生に教えていただいたとおりです。父を看取り、家に戻っても体力のせいにして休んで、気がついたら今は出張で出かけているお教室が一つ、娘達を相手に教え始めてボチボチ・・。一応、来年再開の決心を硬くしているところです。

 その教授仲間の忘年会に参加しました。宿泊地は伊豆長岡。何かと普段、気働きをすることが多い(イエイエ、そんな器でないのに、ですから大変なんです)ので、企画された会にのって温泉につかってゆっくりできたらいいなと思って参加しました。朝4時半おきで支度をして、まず上京、バスで伊豆長岡へ。皆さんと顔の大きさもあるかき揚げそばで昼食。美味しかったですが、半分ぐらいで衣をはずして芝えびといかと野菜だけにして…。その後みかん狩り、ロープウェイ、温泉、宴会。かなり盛りだくさんのイベントでした。

 温泉、確かにすごく気持ちよかったです。夜中に入った二回目の露天風呂、「のぼせないわよね」という言葉に安心しておしゃべりしていたら、完全にのぼせました。バタンキュー。

 翌日はまた早起き、これが一番行きたかった沼津港の魚市場見学。漁から上がったばかりのあおりいか、やりいか、手長えび、黒むつ、赤むつ、かさご、穴子、的鯛、めごち、カマス…(メモしておいたのに、そのメモをなくしましてこれ以上思い出せませんが)あっちこっちで買い付けに来ているおじさんやお兄さんを捉まえて魚の名前を聞いたり、珍しいものは食べ方を教えていただいたりして、市場の真剣勝負「せり」をやっているところは遠慮するものの、かなり図々しく歩き回りました。実は素人が市場見学をすると嫌がられるという注意を聞いて、端っこのほうから見てくださいといわれていたのに、みんな日本料理の先生ですから、お魚には興味津々。質問は玄人ですもんね。おじさんたちも親切でした。活気のあるせり風景もつい近づいて、動画に録って、決してカメラのために隙間を開けてくれることはなくても叱られませんでしたよ。築地の場外のように買い物ができるところはなかったので残念ながら魚のお土産はなし。

 朝食を終え、もうこれ以上は無理と体が悲鳴を上げたので、帰京。その途中で頂いた温泉饅頭を友人、娘のところに落として、結局家に着いたのは夜11時近く。ふぅ~ハードな一泊旅行でした。でも楽しかったので、行って良かった!(*^_^*) 毎年ある訳ではないのですが、こういう会もいいかな、たまには。

教会でも安産祈願 「戌の日」の代わりに

2006-12-02 08:51:10 | 日々の出来事
 来年春先から長男に第一子、長女と次女に第二子誕生の予定は、このブログでも書きました。よく、5ヶ月目に入った戌の日に初めて腹鯛を巻き始める日とされてい手、丁寧なお宅では神社で安産祈願をしていただきます。長女の婚家では、いつもしてくださっています。

 で、私はカトリック信者、神社にお札をいただきに行く気にはなりません。でもやはり、それぞれの子供たちが新しいいのちをはぐくみはじめて(初期のものも、中期に入ったものも、後期に入ろうとしているものもいるのです)出産の無事を祈りたいし、三つの家族にこんなおめでたいことが重なる時のも嬉しい出来事なので、昨日安産とそれぞれの家庭に神からの平和がありますようにという意向のミサをあげていただきました。

 私の場合は、お願いのミサより感謝のミサの依頼をすることが多いのですが、私にとっては赤ちゃんが授かったことは本当に感謝ですし、それぞれが順調に家庭を気付いてくれていることも感謝です。

 教会の中でさえ、この問題微妙で、まだお子さん達が結婚していない友人、結婚していても子宝に恵まれない友人がいて、普段は気楽におしゃべりしお付き合いしているのに、あんまり嬉しそうにしていると「皮肉混じり」「やっかみ混じり」の感情を受け取ることがあって…。その微妙なずれは、おめでたいときだけではなくて、病気になったときにも「祈り」は支えになるはずなのにひた隠しにするような体質があります。不思議の一つです。勿論、個人のプライバシーのことがありますからなんでもオープンというわけに行かないこともありますが、できれば「ありのままの自分」でありたいなと思います。昨日もミサの前に司祭に「今日のミサ意向は、そのまま言ってもいいの?」と聞かれましたが、そこいら辺の微妙さへの配慮ですね。

 ミサ後、参加していらした9人ぐらいの方々にお祈りとお祝いの言葉を頂いたのはいうまでもありません。こういう共同体的な祈りの中、皆で神の思いの実現を祈るところがが、キリスト教のいいところかなと思います。すべての人々の何気ない生活の中で神様の愛と平和と喜びがありますように。