今年の指導司祭は数年前司祭叙階前の助祭時代に初めての黙想指導ということで緊張していらした同じ司祭でした。彼は叙階され、都会の大きい教会で助任司祭をし、ローマで教義神学を勉強していらっしゃり、今は修道会の神学校教授、T教会の助任司祭をしていらっしゃいます。教えている現場に居られるせいでしょうか、勉強を積まれたせいでしょうか、色々と考える体験を重ねたせいでしょうか、思わずお茶のときに「神父様、ひとまわりもふたまわりも大きくおなりになりましたね」とお声をかけたほどでした。(体型は変わっていなかったですよ)
イエス様の降誕を待つこの時期、世の中は早いところは11月から『クリスマス商戦』にはいりますが私達がクリスマスを待つときに同じようにただただハッピーというのとは違う。今親が子供を殺し、子供が親を殺し、自殺者が年々3万人を越すと‥事故、事件があちこちで起きて、その報道に痛みを覚える間に次の情報に関心が移り、本当に『いのち』の重みを感じない『慣れ』の中にすごしています。なぜいのちが大切なのか?
神が私達をご自分に似せて創られた。一人ひとりが神のに姿を写している存在だからどの『いのち』も大切なんだと思います。私は人間が好きです。この間友人と話をしていて、「どうして人間が好きなの?」と聞かれました。「人間一人ひとりは完全な者はいない。でもあの人のあんないい面、この人の持っているこんな一面を大切に見ていくとき、一人ひとりと向き合って付き合うと神様がそれぞれにふさわしく与えてくださったものが万華鏡のように鏡に映り、綺麗な色模様を織りなして、きっと私の知らない何人も何人もいろんな人間のいいものを合わせてやっと園に姿に作られたという神が判ってくるのだと思う。だから勿論相性の悪い人もいるし、私は至らないから受け入れ難いときもあっても、でもやっぱり畏れず怖がらずに人と関わり続けたいなと思う。」
K師は『「あの人がいなければ良かったのに~」「ああこの人がいるから駄目だ!」「自分なんかいないほうがいい」と自分の殻に閉じこもってその人との関わりを断ち切ってしまうこと、人を殺し、自分を殺している、時には神様をすら殺していることがないでしょうか。』とかなり厳しく罪の本質を話されました。『私達一人ひとりをいかしてあげたいと思っておられる神に気がついて欲しい。そういう神の姿を見えなくしてしまうのが罪。自分の人生の中で神が導いてくださった事に思いをとめてみましょう。』と第一講話終了。
その延長線上で説教では、自分の信じている神はどういう神様なのか?とはじめられた。K師は自分なら『神は人間を放っておかない。人間にかまってくれる神。そして神はご自分のほうへと人間を導く、そのためならどんなことでもする、そういう神なんだ』と答えるとおっしゃします。私は弱虫でいろいろなことに流されやすくて神様へ信頼することを忘れて、おぼれかかったときに無我夢中、脚をバタバタさせて変な力が入って全然上手く泳げなくなる、そんな状況に勝手に自分を追い込んでいきます。どんなときにも『救ってあげる』のにと手を伸ばして下さっている神様を見失っています。『クリスマスは救い主が、そんな自分の心に入ってこれるように準備してください。これが回心です。何か良いことをするのではなく、神を知ったときのように生きて欲しい』と。
第二講話…仕事で中途半端になって、全然聞いていませんでした。だから友人から聞いた話と頂いたテープとメモから。生とはちょっと感覚が違います。『クリスマスは何もない貧しさの象徴である『飼い葉桶』に生まれた幼子、布(ミイラを巻く包帯をイメージすると既に死が暗示されている?)にくるまれた幼子は極限の中で生まれた話です。フランシスコは『神が人になった、これほど神が私達を愛してくださった。神が貧しくなって飼い葉桶に横たわった。私達の間に来て下さり、共にいて下さる。それを祝った』のです。クリスマスに、そして毎回のミサの祭壇の上で。』…
『キリスト教、聖書のいう信仰はアクティブ(これを信仰のダイナミズムという人もいます)なんです。何事に対しても「ああ、そうなのか、分かった、分かった」では終わらない。羊飼いも「さあ、見に行こう!」マリアもご自分と同じく神に愛されたエリザベトに会いに行った。神様に愛されて、。神様がいると信じて、神様の愛のうちに生きている人が一杯いる。その事に気がついたら、確かめない訳にはいかない、いわない訳にはいかない。これが私達の福音宣教の基本になるところ。自分に大切なものをホッポリ投げて、イエスに従う。でも、全部は捨てきれない、一生かけて自分がイエス以上に固執しているものを捨てていくのだと思う。最後の最後までイエスに従っていくために自分の大切なものを捨てる、時には自分の体も。時には見える目かもしれない。時には耳かもしれない。でも一つひとつ捨てて回心していく。
羊飼いは天使に教えられて、すぐに探しに行く。そして飼い葉桶に眠る幼子にあう。見聞きしたことがすべて天使の言うとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていく。神の似姿として作られた人間が罪によってその事が分からなくたってしまった。飼い葉桶に眠る幼子によってもう一度、神に創られた人間であることを確認する。『神からのいのち』が分かる。生き方が変わって賛美する。神を賛美することは、神に感謝することと表裏一体です。…飼い葉桶とは、私達の心そのものではないでしょうか。私達一人ひとりのみすぼらしい心の中においでになられるイエス様。クリスマスを祝うときに、欠点や弱さを抱えた不完全私達の中にもイエス様は眠ってくださる。それこそ素晴らしいプレゼントにほかなりません。感謝できなかった人が感謝できるようになる。賛美できなかった人が賛美できるようになる。神を知らなかった人が神を知り、神と共に生きることができるようになる。幼子イエスを通してもう一度、神との間柄、絆に入れていただくのです。クリスマスまでの間に、自分の心にイエス様を横たえる場を作ってください。幼子イエス様によって賛美する人、感謝する人へと帰られて生きたいものであります』 良かった…
イエス様の降誕を待つこの時期、世の中は早いところは11月から『クリスマス商戦』にはいりますが私達がクリスマスを待つときに同じようにただただハッピーというのとは違う。今親が子供を殺し、子供が親を殺し、自殺者が年々3万人を越すと‥事故、事件があちこちで起きて、その報道に痛みを覚える間に次の情報に関心が移り、本当に『いのち』の重みを感じない『慣れ』の中にすごしています。なぜいのちが大切なのか?
神が私達をご自分に似せて創られた。一人ひとりが神のに姿を写している存在だからどの『いのち』も大切なんだと思います。私は人間が好きです。この間友人と話をしていて、「どうして人間が好きなの?」と聞かれました。「人間一人ひとりは完全な者はいない。でもあの人のあんないい面、この人の持っているこんな一面を大切に見ていくとき、一人ひとりと向き合って付き合うと神様がそれぞれにふさわしく与えてくださったものが万華鏡のように鏡に映り、綺麗な色模様を織りなして、きっと私の知らない何人も何人もいろんな人間のいいものを合わせてやっと園に姿に作られたという神が判ってくるのだと思う。だから勿論相性の悪い人もいるし、私は至らないから受け入れ難いときもあっても、でもやっぱり畏れず怖がらずに人と関わり続けたいなと思う。」
K師は『「あの人がいなければ良かったのに~」「ああこの人がいるから駄目だ!」「自分なんかいないほうがいい」と自分の殻に閉じこもってその人との関わりを断ち切ってしまうこと、人を殺し、自分を殺している、時には神様をすら殺していることがないでしょうか。』とかなり厳しく罪の本質を話されました。『私達一人ひとりをいかしてあげたいと思っておられる神に気がついて欲しい。そういう神の姿を見えなくしてしまうのが罪。自分の人生の中で神が導いてくださった事に思いをとめてみましょう。』と第一講話終了。
その延長線上で説教では、自分の信じている神はどういう神様なのか?とはじめられた。K師は自分なら『神は人間を放っておかない。人間にかまってくれる神。そして神はご自分のほうへと人間を導く、そのためならどんなことでもする、そういう神なんだ』と答えるとおっしゃします。私は弱虫でいろいろなことに流されやすくて神様へ信頼することを忘れて、おぼれかかったときに無我夢中、脚をバタバタさせて変な力が入って全然上手く泳げなくなる、そんな状況に勝手に自分を追い込んでいきます。どんなときにも『救ってあげる』のにと手を伸ばして下さっている神様を見失っています。『クリスマスは救い主が、そんな自分の心に入ってこれるように準備してください。これが回心です。何か良いことをするのではなく、神を知ったときのように生きて欲しい』と。
第二講話…仕事で中途半端になって、全然聞いていませんでした。だから友人から聞いた話と頂いたテープとメモから。生とはちょっと感覚が違います。『クリスマスは何もない貧しさの象徴である『飼い葉桶』に生まれた幼子、布(ミイラを巻く包帯をイメージすると既に死が暗示されている?)にくるまれた幼子は極限の中で生まれた話です。フランシスコは『神が人になった、これほど神が私達を愛してくださった。神が貧しくなって飼い葉桶に横たわった。私達の間に来て下さり、共にいて下さる。それを祝った』のです。クリスマスに、そして毎回のミサの祭壇の上で。』…
『キリスト教、聖書のいう信仰はアクティブ(これを信仰のダイナミズムという人もいます)なんです。何事に対しても「ああ、そうなのか、分かった、分かった」では終わらない。羊飼いも「さあ、見に行こう!」マリアもご自分と同じく神に愛されたエリザベトに会いに行った。神様に愛されて、。神様がいると信じて、神様の愛のうちに生きている人が一杯いる。その事に気がついたら、確かめない訳にはいかない、いわない訳にはいかない。これが私達の福音宣教の基本になるところ。自分に大切なものをホッポリ投げて、イエスに従う。でも、全部は捨てきれない、一生かけて自分がイエス以上に固執しているものを捨てていくのだと思う。最後の最後までイエスに従っていくために自分の大切なものを捨てる、時には自分の体も。時には見える目かもしれない。時には耳かもしれない。でも一つひとつ捨てて回心していく。
羊飼いは天使に教えられて、すぐに探しに行く。そして飼い葉桶に眠る幼子にあう。見聞きしたことがすべて天使の言うとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていく。神の似姿として作られた人間が罪によってその事が分からなくたってしまった。飼い葉桶に眠る幼子によってもう一度、神に創られた人間であることを確認する。『神からのいのち』が分かる。生き方が変わって賛美する。神を賛美することは、神に感謝することと表裏一体です。…飼い葉桶とは、私達の心そのものではないでしょうか。私達一人ひとりのみすぼらしい心の中においでになられるイエス様。クリスマスを祝うときに、欠点や弱さを抱えた不完全私達の中にもイエス様は眠ってくださる。それこそ素晴らしいプレゼントにほかなりません。感謝できなかった人が感謝できるようになる。賛美できなかった人が賛美できるようになる。神を知らなかった人が神を知り、神と共に生きることができるようになる。幼子イエスを通してもう一度、神との間柄、絆に入れていただくのです。クリスマスまでの間に、自分の心にイエス様を横たえる場を作ってください。幼子イエス様によって賛美する人、感謝する人へと帰られて生きたいものであります』 良かった…