Sさんとの出会いは8年ぐらい前。私のキリスト教入門講座に参加したいといらした男性はがっちりした体格の穏やかな表情なのだけれど鋭い感じがして、実はちょっとビビッた。でも、いつもクラスが始まる10~15分前にいらして、お話しするうちに、そしてクラスの中で彼が披瀝する積み重ねていらした人生の、そして知識に裏付けから良た逸話は(時に、話が長くなったことはあったけれど)、でもクラスが元気になった。
私は、クラスを持った時から、始めはその方のお名前しか聞かない。それぞれの事情があって「今、教会の扉を開けて、キリスト教それもカトリックの教会で教えを学ぼうとされている」そのことを受け止めようと勤めてきた。だから、Sさんもその例外ではなかった。
それでも回を重ね、皆さんがいらっしゃる前に問わず語りに彼の人生を垣間見る機会があった。彼が現役の頃、校長職までなさっていた東京の高校は、私の実家の父が学んだ成城学園(大正デモクラシーの時期、澤柳政太郎先生によって創立された私立学校)の創立以来の同僚であったた小原国芳先生が袂をわかって作られた玉川学園であったことは、少なからずSさんを身近に感じさせるエピソードであった。勿論時代は違うが、父の兄弟は皆、成城学園に学び、三男である叔父がいわゆる玉川学園騒動の時期に当たり、祖母は兄弟を分けて叔父を玉川学園に移して、双方の先生に報いたという話を何度も聞いた。(ちなみに、私の卒論のテーマが大正デモクラシーの教育論であったので、その頃は少しは勉強したり・・・) Sさんは晩年の小原先生と面識があり、その全人教育(キリスト教の影響下にはあるが会えてキリスト教教育とはいわない)に大いに共感したと話されていた。
高校生のラグビー部の顧問をした頃から、熱いラガー先生となり自身もコート(というのでしょうか)を走り回ったスポーツマン。入門講座にいらした前年、大きなくも膜下出血を患い、医師も驚く脅威の快復を見せて一命を取り留めたときに、長年校長職にあって、職員朝礼で聖書に基づいた話しをしていたけれど、もし自分が入信するとしたらカトリックかと思うが、実はカトリックのことを学んだことはないと長野に居を移されたのを機に、土曜日の夕方のミサに通い、火曜日の講座に通われることになった。国語教師であったことから、私がキリストのことを伝え、聖書の話を伝えると、中国の故事、論語や儒教の教え、エピソードの中にあることと関連付けてお話くださり、多分ご自身の中で腑に落とされる作業であったのだと思うが、神の教えの普遍的なものを受け止めていく作業であったかと思う。それでも何年来、プロテスタントの香りの中ですごされたにもかかわらず、信仰を得るということにはまだ踏みきる気持ちにはなれないのを察して、この方はご自分で探しておられるのだから、私はただそのままに来て下さったときにそのまま受けていただこうと思っていた。もしかしたら、洗礼は受けられないかもしれないな・・・と思いながら。
でも、神様のなさることは分からない。彼に何らかの問いかけを促し続けてていたH師の説教と拙い私の講座を通して、2年余の年を経て、あるとき恥ずかしそうに 「この私でも、次の復活祭には洗礼を受けられますか」と口にされた。いいも、何も・・・・あとは、H師と話していただき、洗礼の時を迎えた。6年前のことであった。
Sさんは定年で長野に戻ってこられたのであるが、電車で40分のふるさとである市でビル清掃職を選び、通っていた。「掃除好きですから」と。一清掃員のつもりがそのリーダーシップを買われて、清掃会社の人材育成などなど責任のある仕事を任せられるに従い、4年くらいから住まいをU市に移した。癌の発病は2年半まえ、そのときにはすでに手術不可能、転移も見つかった状態であったと聞く。あるとき電話が来て 「悪いものが見つかっちゃったんですよ。まわりはセカンドオピニオンというので、クラスで一緒だった外科のK先生を紹介してもらえますか?」ということで病気を知った。「頚椎骨折、くも膜下と危ない時は何回もあったのだから奇跡がまたあるかもしれない」と、元気そうではあった。その後も、時折電話で声を聞けば「いやぁ、大丈夫です。仕事もちゃんとしてますよ。すごく忙しくて県下を回ってます」と話しておられた。
その彼が6月頃電話してきて、「春先から調子は悪かったけれど、5月の連休にはあと2,3日と言われたんですよ。でも退院してきて、病院にいるときよりは好きなものを食べられるからいい。ついては先はそんなに長くはないと思うので、そのときの為にN教会に置いたままになっている教会籍をU教会に移したい。どうしたらいいだろうか」という相談だった。可能と思うので司祭と相談して欲しいとH師に取り次いだ。家庭の事情もあるのでU市のS師が受け入れるかどうかと心配はあったが、8月にお見舞いに伺ったときにスムースに転籍できたとのことで安堵していた。スポーツマンであったので痩せて体力も落ちてと車椅子ではあったが、生きているうちは寝たり起きたり、食べたいなと思うものを食べ・・・とはいえ「あ~ケンタッキーのフライドチキンを久しぶりに食べたいなぁと食べたら、お腹が大変なことになったので、今は肉系はこの間もブラジルの焼肉が食べたいなぁとブラジル人の友人の持ってきた肉を一口ガムのように咬み、味と香りを楽しんで、お行儀悪いけれど肉は食べないの」とか「そうめんなら食べられるので、好きな野菜だけ少し入れて食べるの」「なかなか字を追えないけれど、新聞の見出しをだけでもとおもって。。」と工夫しながら、残されている時間を大切にしていらっしゃる風だった。
先週の日曜、奥様から「もう残りわずかだと思う。なかなかU師と連絡が取れないのだが、籍を移したものの彼にとって馴染みの深いN教会のH師にそのときの司式をお願いできないだろうか」という相談だった。いやぁ、教会って許容量が広いようでいて決まりごともあって、籍を移したのでまずS師の意向を聞かないと物事は進まないとお返事して、枕元でSさんの容態等を話していた。私との電話と分かり、苦しい息遣いをしていた彼が電話口に代わった。
「どうですか?」
『いやぁ、大変です。』
「大変ですねぇ、こういうときに何といえば良いでしょうね。がんばって下さいというのは酷ですし、体も心も穏やかになれると良いですね。お体は辛いでしょうけれど、心は穏やかですか?」
『いやぁ、心穏やかじゃないです』
『あらぁ、それではせめて心穏やかになれるように心こめてお祈りしていますね』
「お願いします」
『お元気じゃない方に、お元気でねとは言えませんね。神様に良くお願いしておきますね』
それがお話した最後であった。しんみりしたくない私、精一杯の会話だった。
日曜日に救急車で病院に行き、『もう、これでお終いにしよう』と点滴もはずして民間の救急車で自宅に戻ったそうだ。その一言を口にしたときに彼はもう死を受け入れたのだと思うが、心中に深くしまわれた重い思いは最後まで愚痴ではなく、一人で引き受けていく覚悟をきめる最後の時だったのだろうと思う。火曜日の朝9時半に帰天。享年70歳。
葬儀はS師のたまたま都合がつかず、Sさんの遺志、遺族の意思、そしてH師がSさんの洗礼を引き受けたように彼の遺志も引き受けてくださり、希望通り洗礼教会であるN教会でとりおこなわれた。棺に眠るSさんの表情がすべての重荷を下ろした安堵の表情であったのが印象的であった。神様のもとで、永遠の安息に入られ憩うておられることを祈り続けたい。