前回の更新から半月たってしまいました。勢いで更新していた時と今では新鮮な記憶が薄れているような気もしますが。
フリーマントルは1829年からイギリスの植民地として街づくりが始まったそうです。旧刑務所はイギリス本国からの流刑囚が収監されていた場所で1991年まで(つい最近ですね)囚人がいた所です。
孫達と一緒の行動が多かった今回の滞在中、初めて一人で歩いて行った場所です。家から徒歩30分ぐらい。確かに日差しはきつかったですが、日陰を選びながら歩くと途中の家並みや戦没者慰霊塔のある公園などを見ながら気持ちのいい散歩コースでした。フリーマントルで観る場所の一つですが、子ども連れで行く所でもないかと思い一人で行きました。
1991年に閉じるまで136年に約10000人近くの人が収容されていた建物は当時のまま、私たちガイドツアーが参加する時も出入り口、途中のブロックの移動の際など鍵を開け、鍵を締め(デモンストレーションでしょうが・・・)、日本語の音声ガイドを聞きながらガイドさんの身ぶり手ぶりの会話をかじりながら1時間半かけて見学しました。流刑者のほとんどは殺人罪だったといいますから、凶悪犯なのでしょう。まず、現地で切りだされる石灰質の石造りの建物づくりも囚人たちの労働で作られたようです。すべて独房の作りではじめはハンモックのような簡易設備で、小窓一つの、夜から朝までの排せつ用バケツがあてがわれただけの個室と強制労働のあるときは街づくりなどに駆り出され、そのほかの時には雨の日も酷暑の時も屋外にあるブリキ屋根の下のベンチで過ごしたとされる場所、大きな釜のある台所、特に暴れたりした時に入れられる監禁などを丁寧に説明を聞きながら回りました。
パースについてすぐに行った旧造幣局とは違って、犯罪者が収容されていた所でどんな思いで過ごしたのだろうか、とか脱走を企てた人の話を聞けばやはりつらい日々が続いたのだろうと思い、独房よりももっと厳しい夜も昼も分からない監禁室に入れられて精神が不安定になったり狂ったりした場所では(今なら収監される人の人権も考慮して、数時間しか許されていない罰)、苦しんだ人々のもがきや叫びが壁のひっかき傷や彫ってある絵や字から伝わってくるようで段々重たい気分になってきました。136年間、10000人近くの収容者のうち死刑処刑は41人だったという絞首台のある部屋ではとてもカメラを向ける気にはなりませんでした。ガイドさんの話で興味深かったのは、絞首台に立ちロープを首に掛けられて床が落ちて処刑になるのですが、そのロープの長さと床を落とすタイミングを死刑執行の看守の犯罪者への配慮の話でした。せめて犯罪者が苦しまずに死を迎えることができるように身長や体重に合わせてロープの長さなどを決める、その技術やタイミングを誤ると長く苦しむ姿を見る執行者も苦しい思いをすることになる、と。
イギリス国教会の聖堂があり、祭壇後ろには主の祈り、十戒が掲げられていましたが、十戒の中で「なんじ殺すなかれ」という個所は「なんじ殺人するなかれ」と書きかえられているとか。受刑者に悔悛を促すためとありました。植民地時代はイギリス国教会の実で良かったそうですが、のちにアイルランドからの流刑者を受け入れる時にカトリックの聖堂も作られたとか。毎晩神に向かう場で祈る習慣、監禁しつの一つは死刑処刑の直前に聴罪師と2~3時間過ごす部屋があったり・・・犯罪を犯した人が神に向かう機会があることに少しだけの救いの一筋が見えました。亡くなった犯罪者と執行者、刑を終えるまで過ごしていた犯罪者の方々のため、そしてその人たちに殺された人々や遺族のために祈りました。
屋外遊戯場所(ブリキ屋根もあるところ)にはバスケットボールができるスペースもとってありましたが、ある時に塀に絵を描くことが許された時に多くの人が描いたので刑務所内に絵画教室が開かれ、そんな機会に絵の才能が開花し出所してからプロの画家になった人も何人かいると、そんな人の絵も飾られていました。外の塀の絵は保存用に描かれたものではないために劣化してあと二枚を残すのみとなっていました。
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でてから子供たちと待ち合わせ、お昼はフリーマントルのカフェ通りで窯焼きピザを皆で食べて、ソフトクリームを食べ、満喫。
そんな日はお昼寝つき。