ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

主の復活のメッセージ

2011-04-26 11:52:52 | カトリックの信仰
この春から赴任されていらした、この教会での初めてのミサ説教より

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今朝のこの天気を見てあぁ復活日和と嬉しくなりました。

復活徹夜祭に出られた方はその場面を思い出し、残念ながらあずかれなかった方も想像してみてください。復活徹夜祭は毎年、闇の中に一本のろうそくを囲み祈るところから始まります。一本が灯り、徐々に徐々に光が広がっていくところから始まります。復活徹夜祭の典礼は毎年神の創造のみ業の朗読からみ言葉の祭儀が始まります。そして、必ず読まれるのは出エジプト記が毎年読まれます。人間の創造から読まれ、聖書の記述は始め何もないところから神はすべてを作られたと書かれておりますし、また混沌とした状態から神はすべてを秩序付けられたと語られます。そして出エジプト記では、過ぎ越しの祭りの源泉となった出来事、エジプトから脱出した人々が紅海を渡るにあって、神の言葉に従って記述に寄れば紅海が二つに分かれてイスラエルの民は乾いた土を渡り無事に向こう岸に着いたと語られました。

ここに書かれていること、または聖木曜、聖金曜に味わってきたことを思いますと、私たちに一つの復活の意味を示されていると思います。闇に光が勝ち、荒れ狂う自然の力の中での神の支配、創造の話し、また出エジプトの話の背景にこのことがあります。考えますとおそらくこの四旬節の間、耳にし、目にしたと思いますが三月の大震災において自然の破壊力のすさまじさを目の当たりにしました。それと創造主である神を信ずるというのはどう結びつくのでしょう。神はすべてのものを作られた、神はすべてのものを作って良しとされた。
こういう言葉から聖書は始まりました。しかしいつの間にか忘れていました。神は混沌とか破壊に対する力に対して絶対的な支配の力をふるわれる。しかし私たちは生活の中で安全に生活することが出来たのは神様が守っていた下さっていたからだということを。ひょっとしたら忘れていませんでしたか。自然、安全を当たり前のように思いこんでいたことはないでしょうか。

聖書の別のところに、「もし神が町を守られるのでなければ町を守る人の努力はむなしい。もし神が家を建てられるのでなければ立てる人の骨折りもむなしい」という言葉があります。私達が守る、或いは建てる、そこに私たちを超える神の力がなければ自然の猛威が襲う異なるということ大きなメッセージとして感じました。これは私達が今日祝っている過ぎ越しの秘儀、イエスキリストの過ぎ越しの秘儀の大きなテーマでもあります。
イエスキリストは十字架上で人々の目の前で殺されます。死の力に巻き込まれ、飲み込まれたことを体験します。それを私たちは聖金曜の典礼で祝いました。墓に葬られてキリストを見ると死が勝利を収めるのではないかと思われました。弟子たちは肩を落として十字架の前から去りました。しかしこれから復活節の典礼で何度も朗読ますが、その後で弟子たちは恐れおののいてビクビクしていた、主はもう取り去られた。しかしそれで終わりではなくイエスキリストは復活されて死は死で終わりではない、私たちと共におられる。キリストの死は私たちにいのちを与えられたこと、神は私たちに死で終わることないいのちをキリストの復活をとおして保証してくださっています。

私たちは死の脅威にさらされ大自然のあるいは様々な暴力にさらされていても、神が私たちを守ってくださる、生かしてくださる、これが今日私達が祝う復活のテーマであります。私たちは洗礼の秘蹟を通してこの恵みを頂きましたし、ミサの中でみ言葉に働き、また聖体祭儀を通して私たちを生かし守ってくださる神の力を体験し、人々に証することに送り出されていきます。死は死に打ち勝ち、暴力は長続きしない、平和が必ず支配するこのめーッセージを神から託されているのです。今日、私たちはこのメッセージをしっかりと受け止め証することができるように祈りたいと思います。  ☆★☆★☆

四旬節から始まった私たちの今年の復活祭への日々は、4月26日喜びの日を迎えました。でも今年は時をほぼ同じくして始まった現実の東日本大震災からの復興・復旧はまだまだ道のりは遠いです。でもそれでも死に打ち勝ち、命を守り与えてくださる神を信じ、そのことに小さなともし火となることができるように更に更に祈り、思いめぐらしできることに辿り着きたいと思います。

ご復活おめでとうございます!!

2011-04-24 09:46:16 | カトリックの信仰
 おめでとうございます。今朝は晴れて気持ちいい復活祭です。

受難の主日、聖金曜日、昨日の復活徹夜祭のあずかることができました。復活祭への準備はいつもと違う日常の感覚の中で、それでも密度の濃い期間を過ごすことができたような気がしています。

そして、昨日は友人のお嬢様【今まで家族の中で一人だけ信者ではなかったけれど、彼女はじっくりと信仰への道を熟成させていたのかと思う。S子ちゃんはそんな風に色んなことを自分のペースで見つめていける子なんでしょう】が、洗礼を受けられました。小さい時から知っているわけではないけれど、最近は少しだけ友人を介さない本人のふれあいの時を持つことができて、大人になっても素直な純真さ、子供の心を持っている(決して幼児性ではない!!)素敵な女性になったS子ちゃんの入信のお祝いに隣りの教会へいきました。

25名の顔が見える方たちに祝福されて、落ち着いた復活徹夜際でした。

S子ちゃん、おめでとうございます! これからも生きるときに順風満帆とは行かない時もあるかもしれない、嬉しい時も楽しい時も、喜びの時も、そして思いもかけない理解不能なことに遭遇しても、辛い時も泣きたい時も、共にいてくださる方に信頼して歩んでいけますように。お祈りしています。神からの恵みは人知を超えて深く、偉大、そしてわぁ~と感動できる時とじわぁ~と納得できる時があるのがまた不思議だし、興味深いところ(清少納言のいとおかしの世界でしょうか)、信仰生活は決して固苦しい物ではない、安心してユラ~リユラ~リ楽しく身を任せてみて。ブランコが誰かに押されて怖くなったときに必死でとめてみる。でもまたちょっと脚を話してユラ~リ、ユラ~リ。静かに停まっている時が一番心地よいので、小さいユラ~リとボ~ッとやっぱり身を任せて思いふける・・・いいもんですよ。
改めて、おめでとうございます!

イースター前

2011-04-18 00:32:40 | 日々の出来事
来週は主の復活祭。
今年は遅い春。春分の日の後、初めての満月の直後の日曜日が復活祭。

イースターの遅い年は春が遅いという。40日前から復活を迎える準備が始まりました。

寝室が明るくて、綺麗な月に気がついた。携帯カメラなので、なかなか綺麗に撮れませんがアップします。

キリスト者にとっては大切な一週間がはじまります。

お休みなさい。

余震

2011-04-16 21:54:56 | 日々の出来事
先日11日ののM7.0の震源地は福島県の井戸澤断層に沿っていたそうです。

「予想外の断層が原因」という記事のタイトルを見て
本文には
「…井戸沢断層は長さ19キロ程度。国の地震調査研究推進本部は、地表でのずれの長さが20キロ以上の活断層は、M7相当の地震が起きうるとして、規模や発生確率を予測する長期評価を発表しているが、井戸沢断層は対象外だった…」とありました。

本震の時のM9.0も15Mを超える津波も想定外で、そのためにおきた原発事故も次から次へと想定外の事変が起きて、何とか核拡散は抑えているものの恒常的に押さえる為に必要な手順にまで辿り着けないでいる。この時にも内陸部の活断層が19キロだと20キロ以上の予測範囲を超えるものだった、って~~~。

気象庁の関係者だったと思うが、何日か前の新聞に地震予想の不確実性にもっと謙虚にならないとという声がのっていたが、なんだかがっくりと力がフゥ~ッと抜けていく感じです。1kmの差で切り捨てる研究は何のためにあるのだろうか。

分からないことが一杯過ぎて、やっぱり疲れてしまう。
今日の昼の地震は余震ではなく、別系統の余震だそうだが、東日本の被災者にとってのお起きの地震は同じように不安だろう。心が痛い。

ほぼ日刊イトイ新聞

2011-04-16 21:52:42 | 日々の出来事
久しぶりにあけた新聞に、やっぱり糸井さんらしく書いてあったので、さかのぼって関連の書き込みを読んで、何年ぶりかだったので、もっと早くあければ良かったなぁなんて思いながら読み進めた。

なんだか、とてもホッとした。

共感できる言葉に、糸井さんだけではなく、きっと○○と名前を書いた大きな垂れ幕やのぼりやニュースにならなくても、このひと月余りの間に、深く思い巡らしている人が、粛々と目の前のしなくてはいけない仕事をして下さっている救援、支援に携わっている方も含めて、いっぱいいっぱい沢山いるんだと確信できた。

なんだか、とてもホッとした。


東日本大震災 あれからひと月余

2011-04-15 21:26:47 | 日々の出来事
先月の11日、私はあの大震災の時の料理教室に行き、料理をしていたのでした。 今月の稽古日は今日でした。あの時以来…

生徒仲間は帰宅難民体験者、千葉の液状化にあった地で被災された方も数人。皆、無事を確かめてホッとしたひと時を過ごしたけれど、このひと月の間に何回かあの日のことを思い出すと、何事もなかったように余震に驚きながらも教室を続けていて、それは正解だったのかなと思うことがあります。今日お会いした方たちは一人で家にいる時だっらきっともっと心細かったから、皆と一緒に居られて本当に良かったという方が多かったですが。
この数年、教室では前月元気でさようならと別れたら、翌月寂しいことに訃報に接することが続いた時期があったので、当たり前の毎日が決して当たり前ではないことを痛感する場でもあるのだなぁと思う次第。

被災された方達も
首相をはじめとする関わっている政治家も
官僚として下支えしている国家公務員も自治体の職員も
原発の東電も協力会社や下請けやメーカーの人たち現場の人たちも
はじめて起きている色々なことに、一つ一つ驚き、戸惑いながら
必死でこのひと月過ごしてきたと思うのです。
足りないことは探せばいくらでもあります。
反省することだっていくらでもあると思うのです。

でも、今、目の前に起きていることに初めて対峙して、真摯に生きて働いていることをもっと受け止めることができないのでしょうか。
この大震災のこれからが大切な時に、知恵と力、譲り合い、支え合う力、どれだけそれぞれの心とありようを理解しあえるかが、みんなに問われている大切な機会であり、いのちを大切に送り、いのちを育み、繋げていくそのことに集結して英知を出し合う時なのに。

原発だって、安全だという神話から、危機に対してどんな対処の仕方ができるかという発想の転換が求められていると思うのです。 原発を推進して大量電気を使う経済、文化の発展、生活の利便性を良しとしていたのは、東電だけではなく(勿論、ほかの電力会社だけでもなく)、政府だけでもなく、経済界だけでもなく、どのレベルにおいても同じくそれぞれの責任を見つめながら、粛々とできることを実務的にしながら、意識改革はゆっくりでもいいから確実にしていく時なのではないのかなぁと思うのです。
政局の具にしてはいけない。日本人の品格(って何?かはまた論を要しますが)が下がるよ、って思いますし、退陣の時期はいずれきます、来ると思います。それは東電の社長さんも菅さんも思っているでしょう!ね。