今年のつつじは満開です。こんなに綺麗に花をつけたのは9年ぶりのような気がします。9年前、ピンクのオールドローズが本当に綺麗でした。プリンセスダイアナというバラも本当に見事でした。どれも父が買い求め、地植えしたものでした。今考えると最後のお別れをしていたのかなぁと思います。バラたちは一年、二年・・数年で枯れてしまいました。つつじは花の付き方にバラツキがありました。父がいなくなったからと思いたくありませんでした。
前年のクリスマスに胸水が溜まり緊急入院してから、年明けの検査の結果が出てしばらくしたら父は病院の食事を食べなくなりました。朝、昼、晩と家から少量でしたが父が食べそうなものを作って運びました。ベッドから動くのも嫌がるようになりました。父は家に帰りたいと言い、医師は「今なら外泊ができる」と言われてその週末家に帰ってきました。
なんと家ではちゃんと食事を食べるではないですか。居間から食卓、居間から寝室へ手すりを伝って(その数年前に大たい骨骨折した折りにあちこち設置しました)移動するではないですか。
週があけて病院に戻るのを嫌がりました。でも何とか説得して病院に戻って診察を受けて、父はすぐに自宅に戻る気でいました。主治医と何度も何度も話しました。家族は「本人が望むのだから、いったん退院して、具合が悪くなったらまた病院に来ればいいじゃないか」と言いました。その通り伝えると医師は「その時を家で看とるかどうか、の覚悟はあるのか」と言います。何度も何度も仮定の話し、想定できる話をした記憶があります。2回目の外泊の後、父はてこでも動かず、外来受診に切り替えました。それでも医師は私にその時を自宅で看る覚悟があるか尋ねました。先生は余命を早ければひと月、長くても三ヶ月と思っていたと思います。「先生だったらどう決断されるのですか」「私に父がいますが、私は多分父を自宅で看るでしょう」と言いました。
家で笑顔が戻って、穏やかな表情になり、日常の生活ができている父には病院の先生には見えない生命力があったように思います。私は覚悟を決めて、ソーシャルワーカーさんと相談して介護保険ではなく、末期患者のための在宅医療補助(正式には何というのか忘れました)を使っての在宅医療専門医、訪問看護ステーションとの連携を紹介して下さって、父の看とりが始まったのでした。
在宅酸素を使いながら父は本当に穏やかな日々を過ごして、初めは週にそれぞれ一度の訪問医と看護師さんの訪問を受け、、段々に回数が増えて4月終わりに一度血中酸素不足で血圧も下がった時がありましたが、長男の結婚式には訪問医がついて車いすで参列してくれました。
移動がしんどそうなので寝室から父の介護用のベッドを居間の隣の部屋に置き、初めは二階から気配を感じて降りて看ていましたが、とうとう夜は隣りで練ることにしました。徐々に痰も絡みやすくなり(義父の看とりの時に覚えた吸入をする回数がどんどん増えて)、誤嚥性肺炎を回避するために普通食からとろみ食に移行し、段々と父の吸入酸素量を増やさないといけない時が多くなってきました。私の睡眠不足も重なってきた5月半ばから夜だけゲルパーさんにお願いしましたが・・・
亡くなる前の週には夜二回、妹弟家族の呼び出しをかけたこともありました。でも父は皆が集まってくれてむしろ喜んでいるように見えました。その頃には私に肉体と精神は限界に近くて食欲も体力も落ちました。父の横で横になり、痰が絡むと起き上がりという数日でした。(訪問医に相談したら口から飲めるなら点滴よりポカリを飲む方がいい、と)その頃に初めて(そう、病院で覚悟をしなさいと言った医師も教えてくれませんでした)「この病気を在宅で最後を看るのは本当に家族に負担がかかる。病院にいたら、患者の苦しむ姿を家族には見せないようにするぐらいなのだから、これからが大変ですよ。最後は患者さん自身は意識がないけれど見ている方は苦しむさまを看ていなくてはならないから」と教えて頂きました。1月からずっと父の様子を見てきて、その言葉は段々その時が近づいてきているのだと得心のいく言葉でしたが心が震えたのを覚えています。
5月30日(日)もお昼はにこにこと食事もして見舞いに来てくれた叔母や、聖体を持ってきて下さった司祭やシスターにも笑顔を見せていたのでした。
5月31日、父は朝から発熱して氷枕、アイスノン、保冷剤で身体を冷やしても、氷水を含ませても熱はどんどん上がり、昼前から母と妹と義妹がそばについていました。訪問看護師さんも訪問医さんも診に来てくれました。午後になると呼吸が機関車のラッセルのようになり、本当に苦しそうでした。あ~、先生の教えて下さった看ている方が辛くなるというのはこのことかと・・・夕方弟が帰ってくるのを待って父は逝きました。
今日、5時37分、久しぶりに母と二人一緒に祭壇に向かって手を合わせて祈りました。何度も思い出す父の看とりの半年近くです。あの時落ちた体力は戻ることなく、母は父の享年を超えています。もう少し元気でい続けて欲しいと切に思います。自分のことを自分でできる母に感謝です。