ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

最近いわれて嬉しかった言葉 

2007-01-30 21:23:12 | カトリックの信仰
 教会であった信仰養成講座のレポートをファックスで娘達に送信した。受け取った娘が「最初から最後まで読んだよ。こういう本があればいいのに。」と言ってくれたこと。子供に伝えることができたらそれはとても嬉しいこと。数年前に、娘時代に習っていた料理を20数年ぶりに再開したときに宗家の奥様が「お嬢様たちに教えてあげたら立派よ。そのためにお稽古しましょう」とおっしゃった言葉を思い出した。

 料理教室で一緒の教授仲間、年は私よりずっと若いけれど、彼女といると気持ちがホッコリする。その彼女から「お隣にいてホッとしました。・・・今まで静かなMさんしか知りませんでしたが、オチャマな話を伺い、ますます大好きになりました」というメールが入り、嬉しかったですねぇ。静かなのも私、オッチョコチョイで失敗も多いドジなのも私ですから。

 逆に傷つく言葉も時にはある。言われていることは正しくもあるけれど、そういう言われ方したくないなと思うことがある。でも、それもまた現実の私の姿なので、反省。「気をつけよう」と思うチャンスをいただいたと思えば感謝なのだ。

 「過去にこだわらず、瞬間、瞬間、今日から明日へ、未来へ新しくなるのがキリスト者。それが回心につながる。回心したとき新しく生まれる。その積み重ね。」とK師の説教の言葉があった。納得。私、あと引かないものね、かなり前向きな生き方していると思っていま~す。

 先週かなり寝る時間を惜しんで発表の準備に費やし、資料が出来上がってからはある種のハイテンションで眠りが浅くなっていて、週末はイベントが重なって体力的にハードでしたが、今日は朝寝坊をしたので、かなり快調です。

「寒梅」の献立

2007-01-26 22:04:49 | 料理
 東京では早くも梅が咲いたというのがニュースになっているようですが、料理も春、一足早く「寒梅」の献立で料理教室でした。

 あん肝の小付け:あんこうの肝を血抜きして、蒸して頂きやすい大きさに切って紅葉おろしで。

 塩鱈ととろろ昆布の清汁:生のすけそう鱈を三枚におろし、大きめの切り身にしたものを塩して5時間おき、一口大にした鱈ととろろ昆布、へぎ柚のすまし汁。
 
 塩鱈のから揚げ:鱈の切り身をとった残り身にしょうゆをかけ、から揚げ。

 きうりとチーズの土佐和え:キュウリ、クリームチーズをそれぞれ8㎜角のさいの目に切り合わせ、削り節をふり、しょうゆをかけて頂く。

 車えびの飯蒸し:車えびをたま酒でゆでて小切りにしたものと、さつま芋をさいの目にしたものを、もち米を蒸したところに酒と塩で味付けして再度蒸しあげたもの。

 紅梅、白梅羹:赤ワインゼリー、牛乳ゼリー、白玉をシロップに漬けて。

 今日の教室はアシスタントでしたから、献立は私が立てたものではありませんが、それほど難しくないといえば難しくない。でも、あんこうの肝を美味しく頂くには下処理が大切、お刺身(昆布締め)でもいただける新鮮な鱈をその味のまま美味しく頂く下拵え、せりーを梅型に抜いて雪に見立てた小さな小さな白玉を作るというような細かい作業は日本料理ならではの手仕事です。飯蒸しもブラックタイガーなら簡単にできますね。それぞれ、調理して美味しく試食しました。

 フゥ~、疲れた。でもやっぱりお料理は楽しいですね。

『星たべよ』

2007-01-25 08:56:39 | 日々の出来事
 『星たべよ』というのは子供が食べても安心な塩せんべいのですが、初めて食べました。子供が食べるには塩気が強すぎるかも…。菓子袋3袋で300円というセールをやっていたときに何種類か買ったうちの一つでした。今日初めて開けてポリポリと。星型のおせんべが2枚一袋になっていて、15袋あるんですが、透明小袋に「ほしべそくん」と「ほしべそママ」の顔が印刷してあるんです。何で「べそ」かというと星形せんべの真ん中にさっくり美味しさのヒミツがおへそのようにくぼみになってついているからのようです。化学調味料、着色料、香料は無添加です。体に悪いものは入っていないようですが、やっぱり食べすぎは良くないでしょうね。

 プチ感動したのはイラストが二種類ではなくて、カラオケマイクを持ったママやエプロンママ、葉っぱの帽子をかぶったほしべそくん、お相撲さんに桃太郎さんのような日本一の旗棹と刀思っているものと7種類もありました。つい面白くなって、袋に書いてあるページへ行ってみました。さすがに会員登録はしなかったけれど…

興味のある方は、どうぞ。
www.hoshi.ne.jp

 食べ過ぎるとよくないので、残りは教会のお茶菓子に持って行こうっと。

今更ながら納豆・・・テレビの魔力

2007-01-24 20:02:43 | 日々の出来事
 『あるある大辞典』での納豆ダイエットのお陰で、納豆が売り場から消えるほどの影響力を与えるテレビってなんだろう。納豆という日本の誇る健康食品は今更テレビの力を借りなくたって安定した売れ筋食品だと思うのに、ダイエットしたい人か中性脂肪の数値を下げたいと思った人のせいだけで、売り切れるのかなぁ。そういう番組のいうこと鼻から信用していない私は、作る側もそれに乗る人のこともそういう人もいるだろうと思うくらいだけど、捏造事件に発展し、TV役員が謝ったり辞職したり、番組を辞めちゃう。なんか変ですよねぇ、やっぱり。そんなものでしたかって。きっと『あるある』も始めた頃は、世の健康に役立とう、美容に役立とうという気概はあったと思うのだけど、視聴率をキープするにはちょっと気をひく取り上げ方をしないとならなくなるんだろうな。

 某局の『○○っ切りテレビ』や『○○してガッテン』もあまり好きではない番組なので、私の精神衛生上はみないにこしたことはない。でも、テレビの影響力は以前八百屋さんや魚屋さんと話していて、番組紹介雑誌を買ったり、当日新聞のラテ欄をみて、料理番組で使う材料や特集される品物の仕入れ調節することがあるんですって。違うようですよ、売り上げ。八百屋さんや魚屋さんではなくて、もっと資金力のあるところだったら買い占めちゃうこともできるかも。今回はそんな話もチラホラ…。料理番組はともかく、情報番組で嘘言っちゃあ、やっぱりあかんよね。それだけ影響力があるんだから、「効き目がありませんでしたm(__)m」で済むならいいけれど、体に害が及ぶことだってあるでしょう。

 体にいいものでも、多く摂り過ぎたり、少なすぎたりはいけないでしょう。何事もちょうどいい按配があるんですよね。

 今回は「納豆」でしたが、事件や事故、災害、政治問題に至ってもその取り上げ方は節操がないというか、社会の成員としての責任や連帯も勿論痛みも感じられないことが多くてマスコミに信頼をおけない世の中だなぁと思っております。といって世の中の動きを全部自分の目で確かめるなんてできるわけがないので、新聞やテレビやラジオ、ある人にとってはパソコンなどから得る情報をそのまま信じ込むのではなくて、咀嚼して思い巡らすことはとても大切なことだと思うのであります、自戒も含めて。

 ちなみに近所のスーパーの納豆売り場には、もうズラーっと納豆は並んでいました。 

 

ブログって正直

2007-01-23 18:59:42 | 日々の出来事
 2日間更新しないと、アクセスがガクッと減りますね。限られた人しかアドレス教えていないので、友人知人に知らせるともう少し読んでもらえるかなと思ったりしますが、それはもう一つのHPで良しとして、ここで気楽に日記を書くのもいいかなと思っています。

 昨日、本当に久しぶりに夜中の2時近くまでパソコンの打ち込み、というか勉強の資料つくりに没頭してしまいました。頭の芯が疲れているのか、冴えているのかやっぱりすぐには寝付けずに何度も時計を見ちゃいましたが、最後は3時ちょっとでした。8時半ごろ目覚めたのですがゴロゴロと9時ごろまで寝床にいたせいか、それほど響かず…そりゃそうね、6時間。寝られなかったとはいえ横になっていたのは7時間余ですから充分か (^^ゞ

 今日も一日、その原稿の推敲やら、これからの入門クラスへ気持ちを切り替えたり、ゆっくりしていましたが、さすがにお腹のほうは優しいものを欲しがって、温麺にしました。自宅で採れた葱を頂いて、土にいけてあったものを甘いので一杯と、かぼちゃもごろっと頂いたので、少しあった鳥肉を入れてみました。体に優しい一品でした (^_^)v

ボランティアといえども

2007-01-20 20:44:01 | カトリックの信仰
 教会事務の仕事はボランティアといえども、やはり会計事務は責任のある仕事です。

 今日の事務担、土曜だし、そんなに人の出入りがある日ではないので、来週の養成講座で発表当番なのでその資料作りに励みましょうと思ってMyPCも重い本も資料もノートも持っていきましたが、開く前にアッと気がつきました。

 月末の日曜が信徒総会ですが、その前に明日会計監査があります。監査で引っかかるような問題はないのですが、帳簿の清書(これは問題!)本来改ざんしないように鉛筆書きはよくないのですが、何しろ間違えることが多くて…(^^ゞ毎月〆が済んでから清書する事にしています。鉛筆書きを、しかもどうせ清書するからと自分しか読めないような字もありですから、今日しなければと思ってやり始めたら午前中一杯かかってしまいました(@_@;)

 なるべくなるべく事務の仕事を合理化して楽しようと思っている割には7人のスタッフのそれぞれのタレントがうま~く動くようになって、気がついたら任される仕事が増えてきているような気がします。

 午後は、その一つ、新しいことを引き継いでしまった私達が一人ではなく7人でできるようにする下準備にノートを作ったり、司祭からの依頼をこなしたり、来客があったり。事務室にいれば事務の仕事をするのが当たり前でした"^_^"

 結局発表の準備は何一つ手をつけられず、重いバッグを又持って帰ってきました。さぁ、折角頭の中で形になってきたもの、少しは今晩手をつけておかないと‥

最近吐き気をおぼえた話

2007-01-19 20:16:37 | 日々の出来事
 もともと、『遺産相続』がらみの話は好きではない。

 ある聡明な婦人が痴呆症になって数年になった。5.6年前から施設にて穏やかに過ごしておられる。頭脳明晰、体格も良く、人柄も外向き、皆をまとめる統率力バツグンの彼女が痴呆になった遠因が『遺産相続にあるのでは?』という話を聞かされた。彼女が事実を話せなくなっている今、そんな風に忖度するのもおかしいと思う。そして、「当てにしていた方の遺言が有効になる前にその方が亡くなって、相続額が思ったよりずっと少なくなってしまっって…、多分それが痴呆の引き金になったと思うのよ。寂しいわね、あんなにお利巧だった人が…」とかいつまめばそんな話なのだけれど、「寂しいのはどっち??」と本当に吐き気を覚えてしまった。でも、そのまま話を辞めさせられなかったことを情けなく思う!! 「いやぁ、退職とか色々なことが重なったのではないのですか?」何ていうのが精一杯でした。

 遺産、特に直接の血縁がなくて、個人との関わりも薄い人に法定相続人というだけで遺される財産の額で、更に枠の外から云々するというのはいかがなものかと思う。他人のお財布の中身を云々するのが好きな人種がいるらしいのは薄々感じるときがあるけれど、私はそういうの、ものすごく苦手。去年の流行語ではないけれど「品格」に書ける話だと思う。でも、でも、きっぱりその場で収められなかった私も同類かもしれない。と思うとますます気持ちが悪くなる。

 もしも又そんな場面にあったら、「いい加減な想像で他人の尊厳を傷つけるようなことは辞めましょう」と言えるようでありたい。

自分の時間

2007-01-18 22:34:59 | 日々の出来事
 去年12月に入って、物理的に忙しく動きすぎたのも事実。寝不足で伊豆に行って寝不足をひどくして帰ってきたこと。それなりに楽しくもあったのではありますが、日をおかず又上京してすぐにとんぼ返りのように帰ってきてイベント続き。改装工事の残り、教会関係の片付けに引越しもありましたっけ。溜まってしまう色々なことを一つずつ片付けるにしても体力を使ってしまったこと。そしてあの人、この人、あの事、この事に気を回しすぎ、気を使いすぎて私には珍しく気力がなえていくのを自覚。同時に食欲は落ち、睡眠は浅くなり、かなりヤバイ?という状況がクリスマスまで続きました。教会というところはクリスマスは一年で二番目に大きなイベントですから、その前に色々と準備やらしなくてはいけないことは個人的にも共同体としてもありました。私の体質は疲れが溜まると血圧が低くなってしまうようで、医者は全然心配しませんが、最高血圧が82とか84という日々になってしまうとやはり、ねぇ。ちょっと辛いものがありました。

 何とか24,25日と最後の事務手伝いの26日を乗り越えたあと、やらなきゃいいのですが、やっぱり料理家としてはおせち料理を作らないと年は終わらない。去年はお掃除も手を抜きたくなかったので、ちょっと大変でしたが、料理し始めるとやはり好きだし、楽しいし、結果としては何品作ったのかなぁ。15~6品だったでしょうか。「今年はそんなにがんばらない!」と言い聞かせた割には作っちゃいましたねぇ。

 おせち料理を抱えて上京したときには、もう何にも食べたくない状態でこれで正月を過ごせるかと内心心配しましたが、次から次へと実家に集まる大勢の妹弟の家族達、自分の家族たちの食事の下拵えをやって、かえって元気になりましたね。朝ごはんが終わると、昼食の段取りを考え、時には夕食まで下ごしらえをして、一息ついて。後は集まりだした人たちに手伝ってもらって、ワイワイと過ごし、翌日の献立を考えながら食材をやりくり。お節もそうですが、基本的には台所に立っているのは本当に苦にならないのだなぁと改めて思いました。三が日母と二人の実家に集まった宣べ人数は30人をこえたのでしょうか?

 ただ、東京から長野へ戻る道々考えていたのは、「今年は、もうちょっとがんばったらここまではやれるかな、と思う、そのもうちょっとはがんばらないようにしよう。自分の時間を大切にしよう。」ということでした。あっちに、こっちに、あの人に、この人に気を使いすぎて体のバランスを毀すようなことはやめよう。あとひと踏ん張りは誰かにお願いしようと思ったのでした。

 ひと月半月たって、かなり体力・気力回復。本を読む時間もあるし、いいかな、この調子。

キリスト教入門クラス

2007-01-17 20:30:24 | カトリックの信仰
 昨晩に続き、今日の午前中は今年に入って入門クラス開始。昨日は5人(欠席3人)、今日は3人。今はテキストの中、『新しい創造の息吹』という単元もそろそろ終わりの箇所。聖霊について丁寧にみてきている。今日はその中でカトリックの教義の中の『三位一体』の神秘についてであった。

 神は「父なる神」「子であるイエス・キリスト」「聖霊」という三つの『位格』があって、しかも『唯一の神性』を共有していると教会の教義(教え)の中で定義されてきた。『位格』のことを教会の伝統の中では位格というが、私はペルソナ→パーソナリティーと言い換えるときがある。私がカトリック要理を教えられていたころは『三位一体の神秘』は人知をこえる神秘であるから、私達にはそのまま信じるしかないというような捉え方を勧められていた。でも、今は言葉によって理屈合わせのようにしないで、もっと身近に神の存在の神秘を受け止めたらいいとテキストの著者は言う。

 父である神のことは、イエス・キリストを通して私達に知らされ、イエスのうちに神は明らかにされた。私たちはイエスの言葉や行い(福音という)を通して、聖霊によって神のことを知り、神と親しく交わることができる。神はすべての初めから独り子イエスを愛されたように、イエスを通し、聖霊によった今もいつも私達を愛してくださっている。そのことが私達のキリスト教信仰の本質であり、『三位一体の神秘』だと思う。

 自分の身の回りにある人と人との出会いや交わりを通して、神の存在を感じることができる。神に感謝することも度々である。このクラスでの出会い一つをとっても、言葉で説明しようと思うと、まぁ色々な言葉を重ねなければならない。「○○さんが教会に来るきっかけはこういうことがあって、●●の気持ちで祈りたいと思った、あるいは祈って欲しかった、誰かに助けを求めたい気分だった。その対象は教会じゃないことだってあるのに、○○さんは導かれて教会に来た。たまたまその教会で誰かに声をかけられ、あるいは自分で貼ってあるクラスの紹介を見て、私のクラスに来てくださった。何か触れるものがあったから、私の拙いキリスト教入門クラスに来続けてくださっている。私の話の足りない分を神が聖霊の働きで補って下さっているから、少しづつでも伝わるものがあるのかもしれない。私は又、皆さんとの出会いによって、自分の信仰を見つめる機会を頂いてお互いが豊かになっていくことが本当に私の喜びになっていて感謝です。神がいて、神のことを話すときに必ずイエスの伝えたかったことを思い、聖霊の働きに祈って…云々、云々」と長々となってしまう。神の計らい、イエスの思いを語っていくとつい段々と熱弁になるときもある。私が心がけたい『神様へ信頼』できる生き方、信仰にある喜びを伝えたいと思っている。誰にでもあるイエスとの出会い、神との出会い(それがあったからこそ教会に来ている)を、自分の言葉で語れるそれぞれの信仰を養い育てて欲しいと願っている。

 水曜の午前のクラスを終えて、2日か3日はクラスのことを考えないようにしている。一旦気持ちを楽にしてから、日曜のミサの後ぐらいから火曜の夜のクラスのことを考え始める。テキストを何度も読み、聖書を読み、教会で教えている真理を曲げることなく私の言葉で伝えられるかと段々緊張していく。たいてい日曜も、月曜も忙しくしていて、気持ちのどこかで時間が足りない!と思いながら準備を進めるので、火曜日の夜のクラスを終えて、水曜の午前のクラスが終わると、ふーっと気持ちが軽くなる。あーも言えたら良かったとか、伝え切れなかったと思うこともあるけれど、信仰を伝えるという仕事は1回勝負ではないので、そのことでくよくよと思うことはない。

 今日は、よく寝られる晩である。