昨日の福音箇所はヨハネによる福音6:1~15
イエスについてきた大勢の群衆に食べさせる為に、少年が持っていた五つのパンと二匹の魚を増やした奇跡物語の箇所である。およそ5000人の人々が満腹し、残ったパンの屑を集めると12籠が一杯になった。という話である。これは四つの福音書に書かれているエピソードなので、きっとこのような場面、大勢の人々がわずかな食糧で満足したような場面があったのだと思われる。
説教は、この箇所を普段背負っているものからの解放されたときに味わう感覚と結びつけて話された。
★☆★☆☆ イエスが行われた不思議な業の物語は、イエスが神の本性を持った方だと確信した弟子達が、その神性を表す為に起きた出来事を膨らませて福音書に書き記したかもしれない。このエピソードの通り、パンが増えたと考えなくてもいいと思う。
イエスは向き合った人の本質、その人の持つ核とまっすぐ向き合うことが出来る人だった。その人が心を開いている限り、その人の持つ本質と核にイエスの言葉がダイレクトに響いたのだと思う。イエスについてきた多くの群集は、社会的な地位も名誉もなく、むしろ重荷、枷、くびきを負ってい世間から見放された人々だっただろう。イエスしか頼るところがなかった人々は、イエスが与えた五つのパンと二匹の魚を食べて充たされたのだと思う。イエスの言葉にであい、社会、世間のかせや重荷から解放されて、イエスと粗末な食事を共にした体験が満腹感をもたらした。
去年、フランシスコ会会員の研修で一週間神学校に滞在した。その中ほどにレクリエーションが企画されていて、前夜40,50代の仲間とお結びを握った。正直言って勘弁してよと思った。何で男達が作っているお結びを食べなくてはならないのかと思った。翌日、電車を乗り継いで2時間、そこから病人も高齢者もいたのでゆっくり歩いて2時間小高い山頂で昼食のときとなった。それぞれ輪が出来、やはり同じ年代の司祭とお結びを食べた。「おっ、美味しいじゃん。」と思ったとき、「旨いな、お結び。」「いいな、これ美味しいな。」と皆もお結びを美味しく感じたようだった。司祭達は日頃働いている場、小教区など日常から開放されて、素直な気分になっていたのだと思う。そのとき思い出した聖書の箇所が今日のこの箇所だった。
人間は自由になれる瞬間がある。ただ神の前にある自分になれる瞬間がある。このヨハネのパンを増やす奇跡は聖体祭儀を表しているといわれる。キリストの聖体、イエスによって、日常性から解放されて神の前に立って素直な自分と向き合うときが訪れることがあるのではないか。 ☆★☆★☆
私は、この箇所を読むとわずかずつでも持ち寄ったものを分け合いながら食すときに感じる豊かな分かち合いを実感することがあるのを思い出す。一人で満腹になるよりずっと心が満たされる思いがある。小さな心配事もみんなの祈りによって支えられ軽くなるときがある。イエスに信頼すると小さな喜びが大きくなるときがある、辛いことが小さな喜びになることがある。
イエスについてきた大勢の群衆に食べさせる為に、少年が持っていた五つのパンと二匹の魚を増やした奇跡物語の箇所である。およそ5000人の人々が満腹し、残ったパンの屑を集めると12籠が一杯になった。という話である。これは四つの福音書に書かれているエピソードなので、きっとこのような場面、大勢の人々がわずかな食糧で満足したような場面があったのだと思われる。
説教は、この箇所を普段背負っているものからの解放されたときに味わう感覚と結びつけて話された。
★☆★☆☆ イエスが行われた不思議な業の物語は、イエスが神の本性を持った方だと確信した弟子達が、その神性を表す為に起きた出来事を膨らませて福音書に書き記したかもしれない。このエピソードの通り、パンが増えたと考えなくてもいいと思う。
イエスは向き合った人の本質、その人の持つ核とまっすぐ向き合うことが出来る人だった。その人が心を開いている限り、その人の持つ本質と核にイエスの言葉がダイレクトに響いたのだと思う。イエスについてきた多くの群集は、社会的な地位も名誉もなく、むしろ重荷、枷、くびきを負ってい世間から見放された人々だっただろう。イエスしか頼るところがなかった人々は、イエスが与えた五つのパンと二匹の魚を食べて充たされたのだと思う。イエスの言葉にであい、社会、世間のかせや重荷から解放されて、イエスと粗末な食事を共にした体験が満腹感をもたらした。
去年、フランシスコ会会員の研修で一週間神学校に滞在した。その中ほどにレクリエーションが企画されていて、前夜40,50代の仲間とお結びを握った。正直言って勘弁してよと思った。何で男達が作っているお結びを食べなくてはならないのかと思った。翌日、電車を乗り継いで2時間、そこから病人も高齢者もいたのでゆっくり歩いて2時間小高い山頂で昼食のときとなった。それぞれ輪が出来、やはり同じ年代の司祭とお結びを食べた。「おっ、美味しいじゃん。」と思ったとき、「旨いな、お結び。」「いいな、これ美味しいな。」と皆もお結びを美味しく感じたようだった。司祭達は日頃働いている場、小教区など日常から開放されて、素直な気分になっていたのだと思う。そのとき思い出した聖書の箇所が今日のこの箇所だった。
人間は自由になれる瞬間がある。ただ神の前にある自分になれる瞬間がある。このヨハネのパンを増やす奇跡は聖体祭儀を表しているといわれる。キリストの聖体、イエスによって、日常性から解放されて神の前に立って素直な自分と向き合うときが訪れることがあるのではないか。 ☆★☆★☆
私は、この箇所を読むとわずかずつでも持ち寄ったものを分け合いながら食すときに感じる豊かな分かち合いを実感することがあるのを思い出す。一人で満腹になるよりずっと心が満たされる思いがある。小さな心配事もみんなの祈りによって支えられ軽くなるときがある。イエスに信頼すると小さな喜びが大きくなるときがある、辛いことが小さな喜びになることがある。