ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

雪とパイナップル

2011-03-28 09:51:29 | 日々の出来事
心が落ち着かない、この数日の間に私の開けた本は聖書、マザーテレサの日々の祈り
「探偵倶楽部」(東野圭吾著)→なんで〈探偵倶楽部〉だったのか、そこに本があったから、以外に答えはない。ちょっとした気分転換にはなったので○

そして「雪とパイナップル」鎌田實著 集英社 1500円 ◎ お勧めです!
       
チェルノブイリ原発で被災した少年との交流を描いた「ピュアな心を持った大人たちとやさしい心の子供たちに贈ります」という大人の絵本。集英社から2004年に出た本ですが友人が貸してくれました。
胸にジ~ンと来て、涙をこらえて… 今だから、いえこれから先でも沢山の方にも読んで頂けたらいい本だと思いました。

15~20分で読めます。何冊も買って沢山の方に読んで頂こうと思い注文するつもりですが、ここで紹介したら何人かは図書館や書店に行って手にしてくださるかもしれないですね。

お勧めです。

今日から1週間、娘たちと長野へ。寒そうですが…楽しんでこようと思っています。

地震 その後 Mのブログから

2011-03-27 22:31:19 | 日々の出来事
Mのブログを紹介したい

枝野官房長官が、言う。「生活様式にまで踏み込んだ抜本的な対策」を。夏の電力供給量不足についての発言。

ものすごく大きな改革をしなければならないのではないだろうか。

オットは以前言っていた。
原発に頼らない生活のために、農業、放牧に重点を置くように発想を転換しなければならない、と。オットは、このところずっと、耕作放棄地や荒れた山の再生のことを考え続けている。山羊を山に放つと良いらしい、とか。豚を耕作放棄地に放つと良いらしい、とか。有り余る竹を堆肥にすると良いらしい、とか。情報を集めては考え続けている。
それらにより、大地はよみがえり、イノシシやシカが田畑を荒らしに山から降りてくることもなくなると。賛同する農家の人や研究者仲間も多く、今はその夢が少しずつ大きく育っているらしい。私も、夢を助ける手伝いをしたいけれど、何しろオットは夢が広がるばかりで、具体的な計画書を書いたり、具体的に予算を算出したりしないので、夢が白紙のままなのだ。ともかく、人間は「農」に立ち返ることが大事ではないか、と。

今回の原発事故で、日本は、世界は、転換を余儀なくされる、と多くの人が言っている。私もそう思う。
けれど、便利を追い求め、消費して支えるこの社会を転換することは可能なんだろうか?家で節電するのとは訳が違う。人々の思想を、根本から変えていく必要がある。それを、国の先導で、変えていくことなんてできるんだろうか?

今回の震災による事故のことで、原発のことを詳しく(例えばどこにあるか、とか、どれだけの電力を作り出しているか、とか)知らないでいた友人がそのことを知るきっかけになった、と言っていた。
でも一方で、原発の問題というのは思想や価値観、政治への見方などにかかわることだから、友人と気軽に話せない一面もある。
なんというややこしさ。
原発で働いている人も大勢いる。日本を明るくするために。自動車を作り出す会社、コンピュータを使ってさまざまなものを作り出す会社、飛行機や宇宙基地、衛星などを作り出す会社。最新技術を用いた先端医療とその研究。
これらに使う莫大な電力は、きっと、今の原発による電力がなければ賄えない。一方で、命を削って、発電所で働く人の安全は確保されているんだろうか、発電所周囲の住民の安全は確保されているんだろうか、などということを考えると、とても心もとない。
どこまで、抜本的な対策ができるのか、すべての日本人が、当事者として本音の意見をぶつけて大きなうねりが生まれるとよいなあと思う。
友人間でも(場合によっては親族間でも)、タブーなく電力の話ができることも願う。


このブログを読んだ時に、枝野さんの「生活様式を含めた抜本的改革」という言葉を、こんな風に身近に受け止める人がいることに心が熱くなった。だから転載を許可してもらった。

今私たちの生活は、こんなにも電気エネルギーに依存した生活(個人的にも社会的にも)だったことに改めて驚いたことは前のブログで私も書いた。そして被災地の復興に当たって、また今、皆の心と体を復興だけではなく二分している原発が何とか落ち着いた時に、11日以前のイケイケ、ドンドンの生活に戻すことがいいのかどうか本気で自分のこととして考えなくてはいけないのではないかと思う。これだけ便利性の中、快適希求の生活に慣れてしまった私たちは、あえて多少の不便があっても、多少の不自由があっても譲りあえることができるだろうか。

何度も何度も考えてみるけれど、今起きていることに自分なりに受け止めたことを考えめぐらしてみるけれど……、気がついたらとってもとっても疲れている。
人と人との希薄になった関係性が、人の心をむしばんで今の社会を生きにくくし、自死者数が減ることなく、不条理な犯罪が頻発していると分析する場面が多い。東北地方での被災者と阪神大地震の被災者を比較する時に、都市型と地方市町村型、地震と津波の差、関西人の笑いながら苦難を乗り越える力と言葉少なく忍耐強く前を見ようとする力と色々という言葉も聞く。どれもこれもありだと思う。
被災地で特に孤立した村落や不自由な避難所生活の中で、自主的に出来上がった人々の支え合う姿、譲り合う姿、立ち上がろうとする力に私は励まされている。どれだけ怖いか、辛いかと思う子供たちがまだ2週間なのに(2週間だから?かもしれないが)大きくなったら人を助ける仕事に就きたいという。外国の人がほめてくれる暴動もなく、冷静で秩序ある生活の陰には勿論泥棒も詐欺も一人占めもないことはないだろうけれど、でも何もできずに考えていて疲れたなんて言っている私よりみんなすごい。彼らの立ちあがった先に、被災しなかった人も自分たちの生活を立て直すきっかけになったら、日本は少し変わるかもしれない。その時世界に胸を張れるかもしれない。
私が何度も思い出すのは、尼崎のJR事故の時に数分を急ぐあまりにスピードをあげて大事故のこと。あれは現代社会の一つのシンボルだと思う。いつも速さを競う。新幹線が新しい車両になるたびに何分早くなったと紹介される。その数分を早くするために多くの技術が開発される。多くの人がそれに携わり、「みんなが共有できる夢」を実現していく。いつも引き合いに出して申し訳ないが、今まで何年もの時間とお金と人が夢に見て、研究に研究を重ねてきているリニアモーターカーが実現して東京と関西を結ぶ時間を縮めることの意味を私は理解できない。

と…PCに向かうことも携帯も持たない生活にあなたは戻れるのかと自問する。大事故や大災害、大事件があると沢山の人が評論家化する。そうならないようにしたいと自戒する。・・・まだまだ続く問いかけと祈り。

地震 私にできることはなにか・・・

2011-03-24 08:22:18 | 日々の出来事
地震と津波によって、そしてその後の環境変化などでご家族や親せき、大切な関わりの合った方を亡くした方へ
かける言葉が見つかりません・・・亡くなられた方々のご冥福を祈り、あなたご自身がどうかいのちをつないで、また立ち上がることができるように心から願っています。

不便な生活環境を強いられている方々へ
体育館やそ施設の床に薄いシートを敷いて、数枚の毛布で横になってくつろぐことなどできない、たったそれだけを想っただけでもどんなにか辛いことだろうと思っています。住む家がなくなり、あるいは帰る家が壊れている、家族とまだ連絡のつかない不安感の中で、どんな思いで毎日を過ごしておられるのでしょう。遠くでも傍にいるよという気持ちしか伝えられません。

原発の事故現場でいのちをかけて、復旧作業を続けておられる方々へ
恐怖心と責任感・使命感だけではない支えがあるのだと思います。感謝の気持ちでいっぱいです。どうぞご自分の家族、ご自分のいのちも大切にしてください。その思いはとっても尊いものです、いのちを捧げつくす限界まで頑張らないで欲しい、と私は思っています。

今朝のラジオ番組でも、原発に、自衛隊に、警察に…避難所を支援している方…メディアには出てくる頻度は圧倒的に少ないけれど、復旧のためにあちらこちらの現場で不眠不休で修復工事や再建に向けて働いていらっしゃる方々の、本当に大きな力が本当に頼もしい、と話しておられた方がいました。

・・・

安全な生活がいかに危険と隣り合わせであり、そして多くの方々によって支えられているのか、東京を中心とする東電管内の生活が周辺にある電力供給施設、特に一旦綻び始めると核拡散への恐怖と紙一重になる原発施設をそばに抱える地域の方々が、数十年前にその最初の建設計画を聞いた時によぎった不安が現実となって、この数日すごく感じています。本当にありがとう、そして今までごめんなさい。原子力発電所建設反対の運動に関心を持った時に、もっともっと深く考えることをしなかった自分を恥じています。いつもどこかで中途半端な自分をまた省みています。

進んだ科学技術、数々の経験によって蓄えられた知恵と知識を超えて起きる自然災害、もっと人間は謙虚にならないといけないという警鐘にも思えます。いま、東京では計画停電が順次実施されています。
年代がばれても仕方がありませんが…私が子供のころはヒューズが飛んで良く停電がありました。雷が落ちればかなりの時間停電でした。電化製品が今ほど無かった時代を少し知っています。テレビを初めて見たときのこと、家に洗濯機が来たときのこと、製氷室に氷屋さんから氷を買って入れた冷蔵庫を知っています。エアコンなどなくて夏は風が通る場所を見つけて、廊下に自分の居場所を探したり、冬はまだ炬燵には豆炭とか炭を使っていた頃もありました。そんな小さかった頃まで遡らなくても、私たちがそんなにせわしい生活ではなくて、30年ぐらい前位の不自由さで十分かもしれないなぁと思います。道路に久しぶりに車の数が減ったように見え、徐行して交差点を過ぎるのを見てこれでいいんじゃないかと思います。数分おきに正確に駅に入っていた電車が、節電のために間引き運転になり少し早目に家を出たり、まばらな電車をまっている。何だか時間の流れがゆっくりになったような気がしているのですが…。駅の構内が、デパートやスーパーの売り場がどことなく薄暗くなっているけれど、それでもそんなに不自由しない。
家に電話がないのが当たり前の時代から、黒電話を経て今の電気を併用して機能が一杯あって便利になった電話機。停電になると使えなくなる通信網は次に衛星を経由した通信機器にと今回言われていますが、黒電話(震災直前の山村のおばあちゃまのお家では停電でもつながる黒電話がいまだ健在でした、びっくり)ではなぜいけないのかな、とふと思います。開発に開発を重ねて便利になったものはどこかの首をつかまれると簡単に身動きが取れなくなる、今回そんなことも思います。

色々なことを考える時を持てたこと、それはいいことなのかもしれない。まだまだ続きます。

神様 助けて下さい 力を与えて下さい

2011-03-18 23:22:41 | カトリックの信仰
東北地方北関東沖地震(名前がまだ決定できないらしく、何度も変わりますが)で被災されて亡くなられた方のご冥福をお祈りし、避難できた方々が様々な不安や不便な状況にに過ごしていらっしゃることを思い一刻も早い支援が届くことを祈り、、今まだ良い方向性が見えぬ原子力発電所の被害をどうにか抑えられるように祈る毎日です。早一週間が過ぎました。

先週は、東京で丁度外出中でした。大好きな料理の仲間と教室の真っ最中でした。新築とはいえビルの中での揺れは不気味でした。携帯はなかなかどこへもつながりませんでした。昨日になって母は「娘たちは冷たいのよ、夕方になってやっと連絡してきた」ってヒェェ~~~。真っ先に電話をしても全然つながらなかったのに。どれだけかけたか。・・・メールがやっとつながったのに、メールで済ませたと思ったらしい。先生が貸して下さった電話機もなかなかつながらないけれど携帯よりはましだった。ガァ~ン!という母の一言だった。それはともかく、余震の続く中、私たち30余名は膝を震わせながら、ただただ手順を追いながら料理を作り続け、途中で何度も何度も電話でかけ直し、実習を続けて、とうとう食してから帰路の心配をした。お友達を回り道をしてお送りするか様子を見つつ夜になって結局一人で帰路についた。2時間弱、歩きました。初めは人が沢山流れている大通りを、途中から道をそれて近道をしながら人気のないところも含めて坂を登ったり、下りたり、登ったり、下りたり…最後の坂は走り下りて、また登りきって帰宅しましたっけ。寒い夜でした。
体中冷え切って、家にだどりついてテレビを見てもっとびっくり。本当に信じられない光景だった。冷えたのは体だけではなく心もだった。気分だけ変な興奮の中にあるような~~。

とりあえず、親も子供たち、嫁、孫達の無事は確認できた。親せきも大丈夫。そしてあえて連絡を入れないほうがいいだろう位忙しい職場にいる息子も元気だろうことは推測できるのだからと気持ちを落ち着ける。

翌日は普段通りに仕事にでて、単純作業をしつつ、祈る。この日は何と夕方から夜にかけての講座もあった。
作業を進めながら、こなしながら祈る。勿論被災された方々、行方不明の方々、連絡の取れない方々のために。そして最後にこの緊急事態のために働いているだろう息子のことをちょっと加えて、「神様、みんなに力を下さい。この未曽有の大災害を乗り切るための力を与えて下さい。助けてあげて下さい」何度も何度も祈りを単純化させて祈り続ける。

その晩、長野に帰りました。長野県北部の地震は余震はあるものの家の中に被害もなく、それからの三日余もしなくてはいけない仕事を淡々と、片付けなければいけない仕事をひとつずつと過ごしていたけれど、「すべてを神様あなたにゆだねます」と祈りつつ、本当に情けないのだけれど心の中の小さな不安は息子がどうしているかということが重いのだと分かっていた。

水曜日、東京に戻って計画停電が発表され、嫁に実家に戻った方がいいのでは?と伝えようと思ったらすでに息子と連絡済みで里帰りしていてくれた、ホッ。そこで息子が◎県にいるらしいことを知った。少しだけ、ホッとした。同時期にNHKニュースで息子を見かける頻度が高くなった。連絡はないけれどそれだけで気持ちはちょっと落ち着く。

昨木曜日、やっと息子からメールが届いた。短くても何とか頑張っている様子でもっとホッとした。

引き続き祈り続けることに変わりはない。カトリックの信心の一つにノベナの祈りというのがある。9日間特別な神様への祈りを続けるのだが、その勧めを紹介して頂いたので、いつもは自分固有の祈りだったが皆と心一つにする祈りを加えることにした。やはり①被災者への支援が十分に行きわたりますように ②亡くなられた方の永遠の安息のために ③原発の事故被害が最小に食い止められ、収束に向かいますように といういことだが、欲張って ④安否の分からない親、兄弟、親せき、友人、知人がおられる方々の心労はいかばかりかと思うのでそのことも加えて祈る。そしてキャパシティーの大きな神様にもうひとつ加えるならば⑤原発を始め、津波の後の被災地で、いのちをかけて心身ともに疲労困憊している救助に当たっている方々とその家族のためにも必要な恵みと力が与えられますようにと祈る。

昨日から来週前半まで仕事は休み。頂いた日々を大切に過ごさないと、今を苦しんでいる方々に申し訳ない。できる何かを祈りながら探るつづける。

オーストラリアの娘とインターネット電話で話した。彼女の心配そうな顔を見たら、心細くなるけれど大丈夫、きっと時間はかかるかもしれないけれど、沢山に人の祈りと実際の支援が一杯の必要としている人たちに届くこともまた奇跡的な広がりがあるに違いないから。

神様、お任せします。必要な恵みと力を与えて下さい、すべての人に。

灰の水曜日

2011-03-09 22:42:11 | カトリックの信仰
今年はイースターが4月24日。
イースターはクリスマスのように何月何日と決まっていない。紀元前のイスラエルの習慣の過ぎ越し祭の決め方と同じ、春分のあとの満月に一番近い日曜日、だから一番早くて春分の日のすぐ後の日曜日になり、満月が春分の日の直前だと約ひと月後の日曜日になる。
そのイースターから40日前(日曜日を除く)に当たる今日が灰の水曜日。この日からキリスト教は四旬節といって主の受難、復活の記念を迎える霊的な準備を始める。今は今日の灰の水曜日と主の受難の日のみになってしまった大斎(軽めの一食、普通の一食、そして断食の一食を守る日)小斎、昔は四旬節中がささげる日々だった、小さい頃「何かを我慢する」ように教えられた。ちなみに昔は大斎の日も年に数度あって、内容も一食だけの食事が許されて断食であったし、小斎(肉食をやめる)は毎週金曜日だった。

ブラジルのリオのカーニバルは有名だが、この四旬節でどんちゃん騒ぎを自粛しなくてはならないその前に楽しく過ごす祭りがカーニバル、ついこの間もニュースになっていた。

職場はカトリックを基盤としているので、お昼に灰の水曜のミサがあった。仕事中なので、そのミサに与っている人が灰の祝別の時だけ呼んでくれるという。確か去年もそうだった。でも、ミサに与らないで灰だけ受ける式に飛んで行ってスタスタと祈りもなくて戻ってくる、そのことを自分が許せなくて今日は行かなかった。この灰の式は、(去年の受難の主日に主の過ぎ越しの祭りのためのエルサレム入城に群衆が主を歓喜で迎えたエピソードにちなんで枝を手に行列した)その枝を今日のために燃やした灰を祝福して額に受ける。「悔い改めよ、神の国は近付いた」または「あなたは塵から出て塵に変える」という言葉とともに。

勿論灰の水曜日のミサに与って灰を頂ければベスト、でも来週の日曜にミサに与ると平日にミサにあずかれなかった人は四旬節を迎える灰を受けることができる。だから…来週の主日ミサに与れるので灰は受けなかった。

そして、晩に食事をするときに献立は肉がなかったので◎(小斎といい、この日は断食とともに肉を食べてはいけない決まりがある)だが、年齢的には大斎も小斎も免除の母と一緒の食事はちゃんと頂いてしまった。間食もデザートもなしの今日は今お腹がとても空いている。この思いだけで神様許して頂けますか?

0000ー0100 ?!? 着信歴 

2011-03-08 23:22:00 | 日々の出来事
ひと月ちょっと前に携帯を替えた。まだまだ不慣れなところも多いけれど、替えちゃったのだから少しずつ慣れなくては・・・と思っている。小さなパソコンとしてはとっても便利なようだし、私が機種替えをした一番の理由は海外も国内もインターネット無料電話スカイプがパソコンが手元にない時でもできるという一点で、その他は付録。だから電話とメールができていればとりあえず満足。スカイプも数回利用した。相手がパソコン経由なのでやっぱり相手がパソコンの前でないと使えないのはあんまり変わらない状況なのだけれど…。

今までの携帯だとメールの送受信で要らないものは一件ずつ消去できた。それは今の携帯でもできる。電話の送受信は今までの方が分かりやすかった。そして今までいらない履歴だけ消せた。でも今の機種は着信歴全部消去しないといけないみたい。着信通話できた履歴と不在着信歴と分けることができるのにさっき気付いた。着信歴はどのくらい保存がきくのかなぁ、何日すると自動消去になるのか何件着信すると自動消去になるのか、今度サポートセンターに聞いてみないと分からない。マニュアルもネット上にあって、それを読むよりサポートセンターに聞く方が楽ちんで質問もできるのでかなり初歩的なところから何度か利用した。

その不在着信歴の中に引っ掛かる番号がある。不在着信に気がついても心当たりがなければ放っておくけれど、その番号に問い合わせようと思ったのは気になったから。末尾に110と付くのは警察?? 警察から何で電話がかかるのだろう?? だから気がついてすぐ、着信してから30分ぐらいで電話してみた。やっぱり「○△警察です」という。「いま何と? 警察とおっしゃいましたか?」「ハイ、○△警察です」「あの~、留守番電話のメッセージはないのですが今携帯の着信歴にこの番号があったのですが、どんな用件で掛けられたのか分かりますか?」・・・気持ちも手先もふるえながら・・・

この感覚、味わいたくない記憶がふっとよぎった。警察からの着信歴は嫌なものだ。

「こちらは○△警察の総合受付なので、必要ならば担当からもう一度電話があると思います」と。間抜けなのだがもう一度電話があるものだと思って電話を切った。・・・でもなかった。そして、今更電話をかけ直してもきっと同じ答えなんだろうなぁと思いながら気になっている。

○△という所轄に親戚、知人が住んでいるだろうかと思うが全然思い浮かばないので、推察しようがない。そして自分が悪いことをしている訳ではないのに警察から電話がかかったということを、人に話すということが何となく嫌な気分にさせるので5日過ぎて、今日不在着信だけでも消去しようかなと思ったけれど、なぜか引っかかって残してある。警察が私に電話をしたのはただの間違え電話なのだろうか。何も用事がなくて掛けるはずはないと思うけれど、聞きたかったことはもう解決したのだろうか。こういう思いを残すこともあると今度○△警察に話してみようかしら? 解決したら、先程の件は解決しましたともう一度留守電に入れて貰えるようにして貰えないだろうか。…ってそこまでするのも面倒なのでここに書きこんだ。