ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

友人との距離感

2009-10-07 21:32:22 | カトリックの信仰
 新ゆりのホテルMのイタリアンが私たちのデートの場所。かなりの長い時間おしゃべりしても、もっとネバっているグループがいる居心地のいいところ。

 K美さんとはいつ頃からの付き合いだろうか、と改めて思い返せば、多分15年近く前に参加した霊性合宿からかもしれない。私は喫煙しないが、休憩時間に喫煙場所を囲む輪にあの頃彼女はいた。今はだれも信じてくれないが、人みしりの私は、実は煙は苦手でも知っている人がいたというだけでその輪に加わったのだった。だから、第一印象は「何を考えているか分からない」人であった。

 2~3年して、私が発題者にあたり、四苦八苦していた時に「そのままで大丈夫だよ」とぼそっと言ってくれた。そしてその合宿が終わるときに「私って住所交換なんかしないたちなんだけど…」と言いながら住所を書いた紙をくれながら「あなたを思い出す時には私、あなたを愛しているから」と訳のわからない言葉をくれた。でも「その言葉、頂き!!」とずいぶんいろんな人に使わせてもらった。実は、教会仲間が「いつもあなたのこと、愛しています。お祈りしています」という時に、私は時々閉口し、私にはできないと思っていたけれど、「そうか、思い出した時はその人のことを目一杯思い(愛し)、その時にその人のために祈ればいいんだ」と、気が楽~~になった。だから、以来K美さんはかけがえのない友達。

 昨日、久しぶりに会った。今年逢わなかったからと思ったけれど、もっと逢わなかった。二年近くになってしまったかな、きっと。K美さんの体調が悪い時もあり、私の時間が取れないときもあり…ときどーき電話で近況を話すだけで、距離感が遠のくような間柄ではないようだ。さっぱり、でも不思議な魅力は相変わらず、「死ぬまで友達だよ」といつかお互いに話したことがあったけれど、だからと言って「お互いのことよく知っている??」と昨日も首を振った。でも、私の気持ちが楽になる数少ない友達の一人でありであることは間違いない。多分、程々に気遣うことを知っていて、程々に人生の重荷を背負って、テキトーなズッコケ具合が周りを楽にするのが似ているのだろうなと自己分析してみる。でも、もっと奥深い洞察力は彼女の方がある、と思う。

 ずいぶん前に松本から私の車で彼女のお嬢さんと三人で上高地へ行った。ほとんど上高地に入る手前で車のガソリンメーターが点滅し始めた。私なりの計算で行くと、車を乗り捨ててタクシーに乗り換える沢渡までの往復はできるだろうなと思っていたけれど、でも「足りるかな」とちょっと頭をよぎったのも事実。ガソリンが少なくなっても平気で上高地へ行こうとする私に10キロ近く手前にあったガソリンスタンドまで戻れと親娘にやんやと言われて「ガソリンスタンドまで戻ったのと沢渡まで行く距離は同じくらいだったのに~~」とブツブツ思いつつ戻り、給油したこと。笑い転げながらスタンドのおじさんと記念写真まで撮って、上高地へ向かった時のこと、今でも上高地の風景よりも鮮明に楽しく覚えている。その夏には合宿地で昼休み時間に一人で箱根・函南原生林を歩いていて午後の集合時間に戻れなくなるほど迷い込んでしまった私だけれど、傍から見るといつもおっとりと一見ハプニングとは無関係みたいにしている姿とのギャップが大きいのだろうな、と思う。いつかK美と小旅行をしたい、そして思いっきり大笑いをしたい。

 年頭に意識がなくなって救急車で運ばれた話は、その後の電話でも聞いた。昨日もその時の無意識下で放った彼女の笑える暴言の話も聞いた。でも、昨日も聞き忘れた。どうして意識がなくなったのか。診断は何だったのか…その後元気になるまでは大変だっただろうけれど、どうも肝心なところが抜けている。気になるけれど、ま、いいか。

 「私のブログもヤフーとアメブロにもありますよ~~」と教えてくれたけれど、アドレス教えてくれていないからたどり着けない。ま、いいか。

 お互い信仰者であるけれど、きっとどこかで生きる支えになっているのだろうけれどご印篭のように振りかざさないおしゃべりは嘘がない。きっとそれがK美と一緒にいて疲れないという一点かな。元気でいてね、また会う日まで。