自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

再びの、怒、恕、怨、

2015年02月02日 11時00分38秒 | コラム

 表意文字としての漢字は、表音文字の代表であるアルファベットとは違った格別の魅力がある。表題に掲げた、怒・恕・怨は似たような字だが、心がついてることから人間の心理状況を表す言葉であるのだが、語源の意味からは、心を除いた、奴と如はいずれも柔らかいという意味があり、怨の上の部分は、窪んだ、凹むという意味を持つそうだ。怒(いかり)・恕(ゆるす、おもいやり)・怨(うらみ)となるわけだが、人間関係、国際関係でも大いに参考に出来そうだ。
 まだまだ文明化していない人間は、その不完全さゆえいろんな過ちも犯すし、相手を傷つけたり、相手のものを奪ったり、極端な場合は殺してしまうこともありうる。つまり相手に対して怒りの感情を起こさせてしまうことになる。その怒りを鎮めるには、相手に対する真摯な心からの謝罪が欠かせない。その心が相手に伝われば、その相手は、忘れることは出来なくとも許すことは可能である。つまり怒りを恕に昇華させることが出来るものだ。その相手の怒りに鈍感だったり、知らん振りしたり、無かったことにしたり、ひどい場合は逆なでしたりしては、その怒りは怨みに変わり、復讐することに全力を尽くすことになるだろう、、、。人間の歴史はそんなことの繰り返しだったのかもしれない、、、。しかも歴史とは強者の歴史であり、恨みを残してこの世を去っていった者の数は果てしない数になるだろうし、歴史にも残されないまま消えていったのも多いだろう、、、。

 犬猫にも怒りの行動が見られるが、人の怒りの行動には犬猫と共通の私憤と、社会的、歴史的不正義に対しる心からの憤り、公憤とがある。不正を糺す人と、それを糊塗する側との論争は、両者の力関係で決着する。不正が糺されれば、怒りは恕に昇華するが、さもないと怒りは怨みに、さらに憎しみに変じ、弱者の最後の手段、テロまでもが正義の回復として正当化される。本日の新聞の第一面には、”イスラム国”によるジャーナリスト処刑が報道されている。アメリカ主導の、”イスラム国”壊滅の空爆が継続される中起きた不幸な事件である。

 この国の最高責任者は涙を浮かべながら、テロには屈しない、テロリストには懲罰を、そして前のめりにイスラム国壊滅を支援すると述べているのだが、どこかに、しめしめとにんまりしているヘッドクォーターの存在があるのではないかと疑いたくなる。フランスでのテロ。オバマの演説、イスラエルを訪問し、そこでバイデン氏と面談、イスラム国と戦う国への支援を強調、すべてある筋書通りの展開となっている、、、。

 中東問題の原点は、石油であり、その石油の支配をめぐる思惑が、イスラエル建国となったことを抑えて考えなければならない。中東から北アフリカ地域の国々の共通点は、アラブに油、イスラムにカラカラであった。つまり民族的にはアラブ民族、石油の世界的埋蔵地であり、宗教的にはイスラム教徒が多く、気候的には乾燥気候である。かってはイスラム帝国が存在したし、オスマントルコ帝国もこの地の大部分を支配した。この地に住む人にとって必要なのは水であって、石油ではない。石油を必要とした欧米帝国主義国が、アラブの民族主義を利用し、トルコを弱体化し、さりとてアラブ民族が統一されると困るので、第二次大戦後にシオニズムを活用し、アラブと敵対するイスラエルを建国したのである。(つづく)