四国四県のうち高知県は訪れたことがなかったので、博多に出向いた帰りに別府から四国に渡り、日本一の清流で名高い四万十川沿いに車を走らせ土佐の地に入る。四万十川の河口の街が旧中村市で、現在は平成の大合併で四万十市となっている。市役所の商工観光課を訪れ、観光マップを頂戴するが、そこに幸徳秋水の墓地の案内がありそこを訪ねることにした。検察庁敷地脇の狭い路地の奥まったところに秋水の墓はあったが、旧中村市議会で彼の名誉回復の決議がなされたのは、彼がえん罪事件で刑死してから90年後のことである。検察庁の建物から秋水の墓が見られるし、二度とえん罪事件を起こさないとの検察当局の決意が鈍らないのを願うものである。
大逆事件は1910年、信州の山奥で爆弾作成の疑いをかけられた宮下某の逮捕をきっかけに、天皇暗殺計画なるものが浮上し、1889年、大日本帝国憲法成立、大日本帝国は万世一系の天皇、これを統治す(第一条)、天皇は神聖にして犯すべからず(第三条)の国権主義の体制を目指した藩閥政治が、その体制を万全のものにするために、刑法73条を改正、反対勢力である社会主義、無政府主義(国権主義に対する民権派)を一掃すべく、幸徳秋水等を秘密裁判で断罪した出来事である。
幸徳秋水、名は伝次郎、中村の豪商の家に生まれ、土佐から沸き上がった明治政府の目指した方向とは異なる道を選ぼうとした自由民権運動の理論的指導者といわれ、東洋のルソーとも言われた中江兆民に師事し、師からその才能を見込まれ、秋水の号を与えられた人物である。徹底した民権思想を師の兆民から受け継ぎ、ジャーナリズム精神を発揮し、度々発禁処分を受けたり、逮捕拘束されたりしたが、一貫して民権の立場で論陣を張った。特に、万朝報が大勢に押されて日露開戦論に傾くと、平民新聞を発行し、日露戦争に反対の態度を貫いた。彼の尊い命は、天皇が神に昇格する儀式における生け贄にされたと言って過言ではないであろう。そして神となった天皇が人間宣言によって本来の人間に戻るまで、何をもたらしたかは、すでに歴史として明らかになっている。
土佐の国は、北は1500mを超える四国山地が屏風のように覆い、南は黒潮の波打つ太平洋を望む250キロにも及ぶ海岸線を持つ山国でもあり海の国でもある。多くの降水量、温暖な気候、それでいて台風の襲来地でもある。その地の風土はそこで育つ人に大きな影響を与えるようで、まさに環境は人を創るを実感できるのがこの地のありかたである。かんざしを買うお坊さんもいれば、ジョン万次郎、坂本龍馬は有名だが、大河ドラマにもなった主人公は400年前、良妻故に大名にまで出世した人物だし、その子孫は、幕末には公武合体の中心人物として力を発揮した。三菱の創業者、岩崎弥太郎も土佐の人間だし、自由民権運動の活動家には、板垣退助、植木枝盛等、この地出身のものが多い。植物学の牧野富太郎、漫画家の横山隆一、「天災は忘れられたる頃来る」等の箴言を残した寺田寅彦、まさに多士済々といって良いであろう。
東西に幅広い高知県は、中村から高知までは100キロ以上ある。高知市役所で高知市の案内図を受け取るが、訪れてみたいところが多く、とても二、三日では、回りきれないであろう。一カ所に絞るとしたら、この地を訪れた証となるのは、高知市立自由民権記念館であろう。高知市制100周年の記念施設として建設されたもので、『自由は土佐の山間から』をテーマに自由民権運動に関する資料を収集、展示し、次の世代にその精神を引き継ごうとする施設である。自由通行証という入場券で入場するのだが、パンフレットには、高知県の県詞となっている、『自由は土佐の山間から』が大書されているし、そのパンフの中の文を二、三紹介しよう。
『自由は取る可き物なり、貰う可き物にあらず。』・・・・中江兆民
『未来が其の胸中に在るもの、之を青年と云う。』・・・・植木枝盛
わが国の近代政治の抗争は、基本的には国権重視か、民権重視かであり(より分かりやすく云うと、国あっての民か、民あっての国かであり、孟子は紀元前に民本主義を提唱していた。)、国権重視派が一貫してわが国の近代史を動かしてきた。 『富国強兵』がその目指す方向であった。確かに19世紀、20世紀の帝国主義の時代、欧米列強のアジアの植民地化に抗して、独立を保つためには、中央集権国家、国権重視を選択せざるを得なかったことは理解できる。民権重視の自由民権運動が敗北したのも、ある意味では必然だったのかもしれない。しかし、欧米諸国との間に、幕末に結ばされた不平等条約の治外法権の撤廃・関税自主権回復した段階で、民権重視に切り替えるべきであった。それを目指し、半ば実現したのが、大正でデモクラシーといわれる民権重視の国民の政治運動であった。男子の普通選挙が実現し、労働運動や小作争議など一般民衆の民権意識が向上した時期である。吉野作造の民本主義を実現を目指した加藤高明の護憲三派内閣で大蔵大臣になり、1929年世界恐慌の起こった年に総理大臣となり、軍部の反対を押し切ってロンドン軍縮条約を結んだ浜口雄幸が土佐の出身であることは、自由民権運動は圧殺されたが民権意識がこの地の底流として彼に引き継がれていたのであろう。その浜口が東京駅頭で狙撃され、『男子の本懐』とつぶやいたと云われるが、彼の辞任後まもなく「満州は日本の生命線」を主張する国権主義者が満州事変をおこし、中国への侵略、、、。その結末が65年前の敗戦である。
民を護るには自由が欠かせないし、国を護るには軍隊が必要だ、と考えられているが、前半部は正しいが、後半部には疑問符が付くのではないだろうか、、、。しかも国権主義者は民を護るにも軍隊が必要だとの考えを刷り込むことに成功するばあいがある。9-11はアメリカを護る、我々をテロの恐怖から護ってくれるとの世論作りに成功したし、アフガン・イラク攻撃による国益(実際は産軍共同体の利益)追求に大多数のアメリカ国民は支持を与えた。時間の経過とともに真相が表面化し、引くに引けない泥沼化は、いつまで続くぬかるみぞと共通するものになってきている。軍が民を護らない現実を体験したのは、沖縄県民と満州(中国の東北)棄民である。
『こちらが軍備を撤廃したのにつけ込んで、たけだけしくも侵略してきたとしても、こちらが身に寸鉄を帯びず、一発の弾丸も持たずに、礼儀ただしく迎えたならば、彼らはいったいどうするでしょうか。剣をふるって風を斬れば、剣がいかに鋭くても、ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか。』100年以上も前、中江兆民が「三酔人経綸問答」の中で語らせている彼の哲学である。日本国憲法第九条,①、②項は、アメリカに押しつけられたのでなく、平和を愛する諸国民への日本人の約束であり、その精神は、中江兆民の徹底した民権思想の背後にある「武器よさらば」である。