自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

雑感、、、その⑥

2011年08月02日 14時12分34秒 | コラム

 子どもの頃、伯母から石川五右衛門に関する話を聞いたのだが、今でもその時の内容を鮮明に記憶している。最終的に捕えられ、子どもと一緒に釜茹での刑に処せられたとのことだが、その際、五右衛門は子どもを両手で持ち上げていたが熱くなってきて、抱えていた我が子を足で踏みつけて死んだという話である。その有様(現象、事実)で五右衛門の人物評価が真っ二つに分かれる。一方では、五右衛門は義賊を気取った悪党で、最初は我が子と助けていたが、苦しくなってきたら、わが子を足蹴にしてまで這い上がろうとしたとの考えだし、もう一方では、彼は子煩悩で、じわじわ煮られる苦しさを味あわせないように、自分が耐えるだけ耐えたのち、一気に子供を死なせてやったのだ、というものである。どちらが真実であるかはわからないが、立つ立場によってどちらも真実であるといえるのだろう、、、。つまり、五右衛門から金を盗まれたものからは、前者の考えを持つだろうし、五右衛門から恵んでもらえた貧しい民衆から見れば、後者の考え方になるのは道理だろう。

 権力を保持するものと、その権力に支配されるものとの関係は、永い人類史においてはごく最近のことになるのだが、人類のDNAには差別を嫌うものが刻み込まれているし、真に人類が文明化される過程で、差別をなくし、真の自由獲得までその闘争は続けられるであろう。歴史的に見ても、名君といわれる権力者は、権力の腐敗堕落を食い止める苦心をした人物であるし、民衆に綿々と引き継がれている反乱者への賛美は、この国の歴史では、平将門、シャクシャイン、大塩平八郎、等に向けられているし、彼らが権力の圧政、不正義に、民衆の立場で異を唱え、自らの命を懸けたからなのであろう。世の中を変えようとする革命家は、失敗すれば反乱者、成功すれば革命の英雄となる。しかし。権力を獲得した途端、腐敗堕落はつきものだし、幕末の志士たちが、藩閥政治の母体となってしまったし、最近では、二年前の選挙で無血革命を起こし政権を獲得した民主党政権の現状がいみじくも象徴的といえるだろう。

 社会主義革命時に、プロレタリア独裁が求められたのは、旧勢力に対してその復権を防ぎ民衆の権利拡大のためには不可避と考えられたからだ。市民革命の時期でも、イギリス、フランスでも国王の処刑が行われたし、敵を作り、己の権力を拡大しようとするのは、権力の常とう手段である。スターリン政権下のソビエトの民衆、ポルポト政権下のカンボジアの民衆、の悲劇は、今後の人類史に生かしていかなければならな、人の業である。

 どういう人物にどんな権力を与えるかは、最終的にその国の民衆に依るのだが、今のこの国では誰に期待すればいいのであろうか、、、。面白いと思うのは、亀井静香という政治家である。警察官僚の出身で保守政治家であるが、彼の尊敬する人物は、大塩平八郎とチェ.ゲバラとのこと、CIAから命を狙われていると公言している人物だが、一本筋は通っているのは事実だろう。管総理は、政権パートナーである亀井氏に後事を託し、引退すれば、少しは歴史に名を残すかもしれない。そして亀井氏が、尊敬するチェ、ゲバラ氏が、アメリカの裏庭として長年虐げられていたラテンアメリカの民衆の立場に立ち、キューバではカストロと一緒に革命を成功させ、さらなる革命の地を求めてボリビアで命を落としたように、日本の真の独立のために奮闘し、CIAに命を奪われたとしても、名は歴史に残るであろう。