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自由人

 己を『”親も無し、妻無し、子無し”職も無し、ローンもなければストレスもなし』と詠んで、六無斎清々を僭称。

ホタル便り、、、

2021年06月19日 07時44分44秒 | コラム

 散歩の途中で田んぼのわきに沢水が流れていて、その流れの中に、かわになを見つけることが出来た。もしかしたら夏にはホタルが見られるのではないかと思い、夕方の散歩を夜の散歩に切り替えてみたのだが、期待通り蛍の乱舞が何十年ぶりに見ることが出来た。その時から、清少納言の言葉にあるように、”夏は夜”を楽しんでいる。

 今年もそんな夜を楽しんでいるのだが、先日はとんでもないことが起きてしまった。車を止めて乱舞する蛍を楽しんでいたのだが、サイドブレーキをかけ忘れていたのか車が動き出し、車外に出てホタルを楽しんでいた私をもろともあぜ道に落下させる事故を起こしてしまった。風流を楽しむはずが、車の修理、己の右足の負傷、何が起きたのかはっきりとした記憶がないのだが、おそらく車が右足を轢いたのだあろう、、、。

 やや人家から離れた地であったので、事後処置が大変であった。近くの民家まで出向き、車屋に事後処理を願う電話をしてもらったのだが、親切に事故現場まで車で送ってもらって、感謝するのみである。こんなことがあって、この一週間は常に実行していた散歩が出来ないでいるのだが、マイナス思考をしないで、その代わりに何ができるかを考えることだろう。


三食、昼寝付の21日間。。。

2021年05月30日 09時12分35秒 | コラム

 後期高齢者の仲間に入っているのだが、知人を訪ねる途中で、変則五差路の交差点を右折にあたって、前方からの車の走行がなかったので、右折走行をしたのだが、その際、横断歩道を自転車でで走行していたご婦人と接触し、転んだその方に軽傷を負わせてしまった。そのことに気が付かなかった私はそのまま走行し、用件を済ませて帰宅途中で、パトカーに止められ、”ひき逃げ犯”として逮捕された。

 走り去った車ののナンバーが通報されたので、指名手配中のパトカーに止められ、容疑内容は認めたのだが、気が付かなかったので、ひき逃げではないと主張し続けたし、被害を与えた人には申し訳ないのでただちに謝罪したい旨を伝えたのだが、”ひき逃げ”を主張する刑事とのやり取りは、当方は冷静におのれの言い分を主張続けたが怒鳴り声をあげたり、免許証を直ちに返納しろと迫ったり、めったに体験できない貴重な時間帯となった。高齢者の交通事故を無くさんとする警察の仕事には理解を示すが。何せ車がないと生活に支障をきたすし、今も週一のサッカーの練習会のためにも車は必需品だし、何時かは返納しなくてはならなくなるだろうとは述べたのだが、、、、

 逮捕されると、私物はすべて取り上げられてしまう、最初は弁護士は必要ないと思って断ったのだが、まず困ったのは毎日配達される新聞、郵便物、豆乳を一時止めてもらう必要があるのだが、その連絡は一切やれなくなる。幸い翌日の新聞記事で、住所、氏名、年齢、ひき逃げの容疑内容、等が報道され、それを読んだ知人がすぐ面会に来てくれたので、それらの件は解決した。

 さて三食の内容だが、朝は食パン4切れにヨーグルト、ジャムかマーガリンが付いてくる。昼は米食、おかずは大きな容器に盛られてくる。夜はそれn味噌汁が加えられる。”冷たい飯”とのことだったが、昼の米食は暖かいときが多く、夜の場合は冷や飯であった。高齢者の小生にはやや残す場合が多かったが、働き盛りの人にとっては足りないのではないかと思った。連休中とあって、取り調べも行われることもなく、再拘留もなされたので、考える時間はたっぷり保つことが出来た。しかも18日間は独房だったし、、、。

 最高の屈辱は、取り調べに出向くときの犯罪者扱いである。独房のカギが開けられ、20メーターも離れてない取り調べ室に出向く際の対応である。手錠を掛けら、腰ひもをつけられ連行される。逃亡の恐れがあると判断されるのかもしれないが、、、、。

 


ラマダンに思う

2021年04月14日 10時43分04秒 | コラム

 世界人口の三分の一を占めるイスラム教徒にとって一番重んじられるラマダンが昨日から始まった。乾燥地帯のアラビア半島から起ったイスラム教は、マホメットがその開祖だが、遊牧の地であり、部族国家だったアラブ民族の結束を高める役割を示し、イスラム帝国を築き、東西からローマ帝国分裂後のヨーロッパに脅威を与えた。

 乾燥地帯に住む人々にとって、その日の食料を確保することは至難のことであったことだろう。”ひもじさ”は最高の苦痛だったし、飢えで命をなくす人が多く占めていたことであろう。イスラム教徒でない私がイスラムの教えで賛成できることは、イスラム銀行は利息を取らないこと、豊かなものは貧しいものに施すのは義務であるということ、等であるが、そのことを瞬時も忘れることのないようにとのイスラム教徒の慣習が、この”ラマダン”で”飢え”を通して顧みることが出来ると考えたのであろう。


一元史観の克服を、、、その4

2021年02月22日 16時31分18秒 | コラム

 応仁の乱から始まる約100年間の戦国時代は、長い我が国の歴史の中でも特異な時代であった。家柄、身分そのようなものに関係なく、個人の能力次第でどのようにも自分の力を発揮できる時代であった。いわゆる”下剋上”の時代で、その末期の役30年間、信長、秀吉、家康が活躍した時代は、まさにそのことを証明する時代と言えるであろう。尾張の小大名だった信長、同じく三河の小大名、人質生活も体験した家康、秀吉に至ってはその出所も明らかでない人物であった。天下取りを半ばやり遂げた信長は、本能寺の変で足元をすくわれてしまったが、もし本能寺がなければ、彼は確実に日本国王になっていたであろう。そうなればこの国から天皇制はなくなっていたであろう。天智、天武、聖武天皇時代以外の天皇は実権を持たず、常に時の権力者に、利用され続けた。戦国末期、天皇制の危機を救ったのが、秀吉であるである。信長を引き継ぎ天下統一を達成したのだが、大阪城に配下の大名を集め、天皇を血筋を引く人物を、”この国を作りずっとおさめられていた方の子孫である”と紹介し、今でいえば、誇大妄想症と言えるのだろう。”こんな小さなところは天皇にくれてやる、おれは漢、天竺(中国、インド)の大王になるのだ。”と豪語し、朝鮮に対して、その道案内をしろとの命令を下し、相手にしなかった朝鮮を懲らしめるために、”朝鮮出兵”を行う。加藤清正の虎退治の話があったが、その頃の朝鮮半島にはトラが生息していたのであろう。家康を荒れ地の関東に追いやり、断れば一戦交えて第一人者の地位を我が子に引き継ぐつもりだったようだが、じっとこらえて、先祖の地を捨て関東に住み、”天下餅をたらふく食う”ことになり、戦国の世を収め、太平の世の基礎を固めたのが家康である。

  家康は、鎌倉幕府、室町幕府に倣い、天皇から将軍の位をもらい全権を依頼される形式の幕府を開く、そのためには天皇が必要だし、京都所司代という役所の厳しい監視の下、天皇制は江戸270年間存続を許された。


一元史観の克服を、、、その3

2021年02月13日 09時11分09秒 | コラム

 飛鳥、奈良、平安の約600年間は政治の中心が関西にあり、その権力が全国に及んでいた訳ではない。関東は勢力伯仲地であり。東北や北海道に至っては至ってはまさに、アイヌモシリ、であった。東北に大和の勢力が進出したのは、中央では出世できない、藤原北家から外れた、藤原氏の一族が建てた、奥州藤原三代である。それ以前にも、”征夷大将軍”なるものに東北遠征をさせたが、それがのちの武家としての最高の役職となった。

 鎌倉、室町、江戸の675年間は(1192~1867)は武家政治と言われているが、形式上は、元の権力(天皇)から、武家の最高位(征夷大将軍)を受け統治をおこなうという仕組みになっている。もともと武士とは、私有地を持てるようになった有力な自作農民がその土地を守るために武装したのが初めである、個人では不安なので、やがて武士団を作るようになる。そのまとめ役になったのが、平氏、源氏である。源平の抗争で勝利したのが、平清盛であるが、まだ幼かった源氏の嫡流を、一族の北条氏にゆだねたが、平氏滅亡の後、その嫡流(頼朝)を担いで関東地方の武士をまとめ地方政権をきづいたのが、北条氏である、鎌倉を根拠にして幕府(もともと戦いの相談をした幕間)を開いた。公家政権の京都から仕掛けられら戦いに勝ち(承久の乱)、執権政治を確立した。その北条政権が滅びる原因となったのは、大陸に出現した、モンゴル帝国の日本侵略である。鎌倉武士は減の襲来に対して多くの犠牲を出しながらも、元の侵略を撃退することが出来た。(靖国神社がこの国を守るために犠牲となったものを祭る社だとしたら、該当者は鎌倉武士の外にはいないのでなないか、、、、)

  モンゴル帝国の襲来で、鎌倉幕府は大打撃を受けるが、幕府の御家人で源氏の血筋を引く、関東の有力な御家人、足利氏と新田氏にはチャンス到来となる。事実、北条氏は新田氏に攻められ、鎌倉幕府は滅亡する。天皇家でも鎌倉時代いろんなもめ事もあったが、幕府の仲立ちで、交互に位につくとの妥協をなされていた。そんな時、まれな才能を発揮したのが後醍醐天皇である。天皇親政を志し、たびたび幕府追討の指示をなしたが、いずれも失敗し、本人も島流しになった。

 鎌倉幕府滅亡後、京都に戻り天皇親政をめざし、短いながら天皇中心の政治(天智、天武、聖武、時代の再現)を実現したのが、後醍醐天皇である。結果的には短命で終わり、足利氏の室町幕府成立とともに、吉野にのがれ、南朝を維持した(約60年間)。足利氏の政治ブレーンは、征夷大将軍というくらいを授けてくれる人物が必要なら、天皇を木か石で作ればいい、とまで進言したらしいが、足利尊氏は従来の方式をとり、もう一方の皇統である北朝から征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開設する。三代将軍、義満、征夷大将軍と同時に、それまでの貴族の最高位、太政大臣を兼任し、藤原道長以上に我が世の春を謳歌した。南朝を屈服させて、南北朝時代に終わりを告げたのも、義満である。約三代75年が、室町幕府の安定期であるが。義満の孫にあたる義政以降、内紛も起こり、応仁の乱(1487)以降世は戦国時代となる。


一元史観の克服を、、、その2

2021年02月12日 09時57分31秒 | コラム

 飛鳥時代の初期、聖徳太子。蘇我三代の連合政権は、のちの歴史家が、蝦夷、入鹿。馬子など蔑称で読んで貶めているが、大化の改新の正当性の根拠としているのであろう、、、。大化の改新後目指した、公地公民制、班田収授法による耕地の保障、豊かではないが平等で、その当時言葉となっていないが、”原始共産制”を実現しようとしてたのかもしれない。憲法17条を今読み直しても、日本国憲法の、”すべての公務員は全体の奉仕者エあって、一部の奉仕者ではない”を先取りしている。

 中臣氏(のちの藤原氏)中大兄皇子が組んだ、蘇我氏打倒のク、デターが成功し、天皇を中心とする律令政治が実現するが、旧勢力が残る飛鳥地方から、気分一新、奈良に都を移すこととなる。天智、天武、そして聖武天皇に至るまでが天皇を中心とする律令政治が実現した時代だが、その全盛時に政府自らが律令政治の原則を崩す法律、”墾田永代私有令”を制定する、当然私的奴隷を私有する有力者でないと、荒れ地を開墾し農地(当時の唯一の富の生み場所)に転換は不可能である。その有力者の筆頭が、言わずと知れた大化の改新時の最大の功労者の中臣氏の後継の藤原氏である。

  飛鳥奈良のおよそ200年間は、政治の中心が奈良にあり、政治的には律令政治(天皇中心)が行われていた時代である。その後の平安時代約400年間は、前半の約百年が、律令政治の立て直し、その後の200年間は藤原氏の摂関政治、あと約100年間の平安末期は藤原氏と血縁関係にない天皇が政治を取り戻す時期であるが、天皇の立場では、既存の藤原貴族にはばなれので、自らは天皇をやめ(院に居住)、自らの息子を天皇にし、院政を始めた白河天皇が最初でである。

 平安末期。”平氏に非ずんば人に非ず”、と豪語したのが、源平の争いに勝利した平清盛である。瀬戸内で、沈む太陽を止めようとしたりしたが、しかし彼の一族も、間もなく、幼少の安徳天皇を道連れに、瀬戸内に沈んでしまった。大陸中国では、秦の始皇帝の子孫がどこにいるのか、漢の武帝の子孫は、唐の太宗皇帝の血族じゃどこにいるか確かめようがないが、つまり、大陸では”王侯いずくんぞ種あrんや”の気概で、真の実力者がトップに上り詰めたのだが、この国では、おいしいところは戴き、失敗しても責任を取らずに済む策を考え出したようだ。唯一の例外は、今は神田明神に祭られているが、自から、”新皇”と名乗り、関東で反乱を起こした、平将門ぐらいであろう。本格的な武家政治を始めた源頼朝にしても、実権は平氏の一族、北条氏のコントロール下にあった。(執権政治)


一元史観の克服を、、、

2021年02月11日 09時42分59秒 | コラム

 今話題の元総理の頭の中は子供の頃培われた考えで固まってしまっているのだろう。現職中に、”この国は天皇を中心とする神の国”と述べて話題となったのだが、大日本帝国帝国憲法下の首相であれば問題ではないのだが、、、。つまり江戸幕府を倒し己の権力の正統性を明らかにするために、薩長政府は、大日本帝国憲法を制定し、その冒頭、大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す、天皇は神聖にして犯すべからずと定めた。たぶん彼は新しい日本国憲法下で幼少時代を過ごしたはずなのだが、新しい理念に抵抗し続けた勢力の中ですくすくと育ったのであろう、、、。

 この国の歴史を、多元史観で振り返ってみよう、、、。年表では、縄文時代、弥生時代、大和時代、そして年表で立で表示されてるのが、飛鳥時代の始まりの、聖徳太子が摂政になったとの593年である。それまでは斜線で表現されている。青森三内遺跡にみられるように、この列島の先住民の縄文人の生活が垣間見られるが、農耕とは言えないかもしれないが作物を栽培してたあとは垣間見られる。弥生時代の始まりは、大陸、朝鮮半島を経由しての農耕というのが一般的だが、当然その文化を持つ人の到来がなくてはならないだろう。海は人を隔てる役ととつなぐ役を同時に果たすものだ。環太平洋海流の先端部にあたる、日本海流、対馬海流は東南アジア系の民族の来訪になったであろうし、大陸で強大な帝国が出現すると、それレを逃れる自由民は、北西の季節風で容易のこの列島に到着したはずだ。

  紀元前3世紀ごろ北九州に弥生文化が栄え、この国の弥生時代の始まりと言われるが、稲作文化は当然大陸からのプレゼントなのだろう。稲作文化がこの国に伝わるには当然その文化を持つ人々が到来したはずだ、その北九州に王権なるものも成立し、その権力を巨大な大陸の権力に補償を求めたのだろう。後漢の光武帝に使者を送ったり、三国時代の魏に、使者を送った卑弥呼、4世紀半ばに大和政権が成立したようだが、それとて九州王朝の一派が大和に侵入し、地元の豪族との連立政権を成立させたとも言われているし、日本中の神様が10月には出雲に集結するといわれているのも、かって出雲王朝が成立してたと考えた方が歴史にあっていると思う。いずれにしても、4世紀半ばに、大和地方に王権が成立したのは間違いないであろう。その社会は、氏姓制度という権力機構からなっていた。中央の有力者は大王から役割を示す”姓”を授与され、大王政権を支え、その代表が、物部氏や大伴氏、中臣氏だあった。同じく、おそらく大王と姻戚関係がある有力者は、その地域を顕す”氏”を与えられその土地と人民(奴隷)を支配を許されていた。蘇我氏や。葛城氏、とかがその代表である。大王政権の中で、最有力者が中央の物部氏と蘇我氏であった。両雄共栄が成らぬものか、蘇我氏は物部氏に戦いに臨み、滅ぼすことに成功し、大和政権内で最大の権力者となった。ちなみに、その物部氏とのタカ科医の必勝祈願をしたのが聖徳太子だといわれているのも、聖徳太子の父方も母方も蘇我氏の血を引いていることで納得がいくのだが、、、。


新春の雑感、パ、ピ、プ、ぺ。ポ

2021年01月01日 08時24分58秒 | コラム

 新春雑感、、、パ’、ピ。プ、ペ、ポ

無くしたいもの、、、、

 パニック、、、、資本主義の調整弁、根本解決は

計画経済なのだが、政府が相手の軍需産業は売れ残り

の心配はないが、定期的な在庫一掃が行なわれる。

 ピカドン、、、、ナガサキを最後に! 9,11やフクシマで

小型ピカドンが使用されたとの疑念がある。

 プペット(操り人形)、、、、地位と金と脅迫によってなびく

人間が多すぎる。

 ペテン、、、、だまし、だまされるはおしまいに!

 ポルノ、、、、聖なる性を金儲けに導く。

求め続けるもの、、、、

 パラダイス、、、啓蒙思想家は現世での実現を主張

 ピース、、、、、、すべての人類の願い

 プライド、、、、、プベットにならぬための自尊心

 ペンは剣より強し!

 ポテンシャル(潜在力)、、、、すべて墓碑とに備わる


エチケットの問題をマインドコントロールに悪用することなかれ!

2020年12月26日 07時19分38秒 | コラム

 風邪をひいてて咳が出る、他の人に移さないように心掛け、マスクをするのはエチケットの問題である。一方、小学生から国会議員まで全員がマスクをつけている今の状況は異常ではないのだろうか。国会内には、利権菌や金権病が流行っているし、それにかからないように配慮しているのだったら話は分かるが、、、。

 子供の頃ツベルクリンの注射をし、何日か後、判定され、陽性だと、BCGの注射を受けなくてもよく、その注射の痛みから逃れるため、検査の前に鉛筆等でたたいて,腫れをあるよう見見せかけたりしたのを思い出す。人類の歴史は、病原菌との戦い、そしてその克服の歴史ともいえるが、かっては死の病と言われた結核、大量の死者をもたらしたペスト、予防医学が進んで、たいして恐れることのないものとなった今日である。

 日々の食生活と毎日の運動が、健康的な生活の源である、と言われているが、日々の食材を添加物、防腐剤、農薬漬けで賄っていれば、直ちにとは言わなくとも、いろんな病を生み出すこととなるだろう。コロナ菌の陽性反応が出たけど、発病してない人とは、免疫ができているといえるのだし、不断の食生活で、免疫力を高めていく必要がある。そして自らの健康のバロメーターを,快眠、快食、快便で判断するとよい。

 長年にわたって安全な食生活を支えてきたこの国の農業が、危機的状況にあるのを、この国の政治家は理解しているのであろうか、、、。この国の高度経済成長を支えた労働力の供給地は、小さいころから親の働く姿を見て育ち、手伝いをして喜んでもらえる喜びを知ってた農村の子弟であった。その農村の過疎化が進み、後継者も都市部に吸収されてしまい、高齢者農業となり、耕作放棄地は増え、ほど遠くない時期に離農となってしまうであろう。


語り継がれるべき‘12月8日、、、

2020年12月08日 12時27分57秒 | コラム

 1941年12月8日は日本帝国主義が、その生き残りをかけて対米英戦争に踏み切った日である。アメリカ太平洋海軍基地のあるハワイ真珠湾に奇襲をかけた日であり、”大戦果”に小躍りし、半年後ミッドウェイ海戦の敗北で、じり貧状態になったのだが、その事実を知らされることなく、”欲しがりません勝までは”に導かれ、二発の原爆の被害を受け無条件降伏に至った原因であった。

 かようにこの国の近代史の貴重な日になるのだが、メディアはほとんど沈黙を保っている。三大中央紙を購入して調べてみたのだが、朝日新聞が、社説の冒頭で触れていて、一〇二歳で存命中の、真珠湾攻撃パイロットの証言を取り上げてくれてるし、毎日は、余禄で触れているが、読売に至っては全くの無視を貫いている。

  開戦当時の海軍司令官山本氏は、さすが海軍だけに世界情勢にも明るく、1年間は太平洋での日本の優位を維持できるので、その間に対米交渉で決着すべきとの判断で、真珠湾攻撃に踏み切ったのであるが、航空機による軍艦攻撃の手法を、すぐさまアメリカにも利用され、半年後のミッドウェイでは痛い目にあったし、帝国海軍最後の手段として、沖縄戦の支援に戦艦大和を出撃させたのだが、アメリカ航空機の餌食となり、今も鹿児島沖の海底に鎮座している。