暦年制とは異なる、年度制、代表的なものに会計年度、学校年度があるが、明治時代に定着した4月から3月までの会計年度が学校年度にもなっているし、始まりが四月、終わりが3月というのがこの国の生活になじんでいる。学校では、入学式と卒業式が最大のセレモニーとなるのだが、”希望あふれる出会いと、悔いのない別れ”を確認するのが、桜の満開の時の入学式、梅の花が散り始め、白鳥の北帰行が始まる時期の卒業式だったのだが、、、。
学校とは、理想を学びとる場、そのためにひとくくりしない多様性を保障する場でなければならない。つまり民主主義の原点である“人間皆同じ、だが一人一人違う。一人一人違うが、やはり皆同じ。”を体感する場でありたいものだ。確かに人間は生涯未熟だし、生まれたときは“裸で名無し”なのだから、教育によって人間らしく育てられなければならない。家庭教育、学校教育、社会教育、自己教育によって、人間性豊かな自己を完結していくことだ。”三つ子の魂百まで”の諺にもあるように、家庭教育の重要性は当然だが、社会性を身につける学校教育の重要性も見逃してはならない。”お上には逆らわない”社会性は、権力者にとって好都合となるだろう。戦前の学校教育は、その点では大成功といえるだろう。ごく少数のお上に逆らうものは、治安維持法違反で召し捕り獄につないだし、、、。
人間として悩み苦しみ、自死を選んだ校長の存在を機に、この国の国会は多数決で“国旗.国歌法案”を可決した。当時の総理は強制するものではない、と主張していたのだが、、、。でもいったん法律が通ると、”能吏は酷吏より険し”を地でいくような状況が進行している。大阪の教育条例はどんな社会性を育てようとしているのだろうか、、、。確かに教員は、他の公務員同様、外から見て、楽で安定して、収入も多い、として他からやっかみを受ける要素はある。その人間的弱さを刺激し、そのやっかみを多数決に結びつける手法はファシズムそのものである。
経済の論理を教育に持ち込んではいけない。経済の論理は、”効率性”、“小さな努力で大きな成果”を目指すものであり、教育の論理は、”将来性”、”無限の努力で小さな成果”を期するという謙虚なものである。効率性からは、上意下達がベストであり、聖君の意志が滞りなく下々に伝われば、万民幸せの世になるものではあるのだが、、、。人類の将来性を信じ、最大の努力をしながら、人間を育てる学校では、上意下達は弊害こそあれ、信頼は得られないと思う。校長を頂点とするピラミット型ではなく、校長を中心のスクラム型の学校が、心豊かな人材を育てうる、生徒にとっての楽園となる。