フルートおじさんの八ヶ岳日記

美しい雑木林の四季、人々との交流、いびつなフルートの音

横浜中華街をぶらつく

2012-03-10 | 旅行

大阪を出たころはいい天気だったが、名古屋を過ぎ、昼食を取った浜名湖SAでは雨になった。そろそろ観光シーズンが始まったのであろうか、SAは、車がびっしり止まっていて凄い人だ。

4時過ぎに横浜に着いた。夕食を食べに中華街に出かける。地下鉄を関内まで乗る。横浜市役所の隣は横浜球場、横浜公園を抜けると中華街の門が見えてきた。

中華街を歩いていると、やたら甘栗を売りに来る。「半額!半額!」と言いながら手に甘栗を握らせてくるのだが、そこらじゅうの街角で売っているのは驚いた。

先ずは、「肉まん」を食べよう。表通りは500円、小さい道に入ると350円くらいだった。店内で座って食べることができる店があったので入る。肉まんは、大阪の豚まんと比べてかなり大きいので夫婦で半分に分けて食べる。味はあっさりしている。皮が柔らかくふわふわなのが面白い。

中国茶の店や食器の店を覗く。夕食をどこで食べようかとぐるっと一回りしたが、どこも同じような感じだ。店の前で立っていたお姉さんも、「どこに行っても一緒だから、疲れるだけ、この店にどうぞ」と言っていた。

面白い、焼き餃子を陳列している店があったので入ってみる。「大連」(DALIAN)と言う店だ。「大葉焼き餃子」のパリパリの羽に気を引かれた。一口食べると、火傷しそうなほど熱々の肉汁がたっぷり出てきて、さすがに美味しかった。

坦々麺は、小籠包も注文したが、まずまずの味だった。先に肉まんを食べていたこともあり、それだけ食べると満腹になってしまった。7時過ぎになると、大分冷え込んできたので、ホテルに帰ることにした。


林望著「謹訳 源氏物語一」を読む

2012-03-07 | 濫読

 

イギリスもので楽しい本を読ませてくれる林望さんは、実は国文学者。長年研究していきた源氏物語を現代口語に訳した。本人は「謹訳」という言葉を次のように説明している。
「原典の持つ深く豊かな文学世界を、忠実謹直なる態度で解釈し味わい尽くして、作者の「言いたかったこと」を、その行間までも掬い取りたいという思いを込めたのである。それは、私の古典学者としての責任である。」

第1巻は「桐壷」「帚木」「空蝉」「夕顔」「若紫」までが収録されている。

思いだせば、高校生時代「霧壺」を初めて読んだとき、全く訳が分からなくて、受験勉強素材としか感じなかったが、少なくても、この「謹訳源氏物語」はそういうことはない。壇ふみが「いやはやとびきり面白い」と語っている通り、実に読みやすい。

ただ、平安時代というのは、こういう時代だったのかと改めて思うことしきりだ。若紫の帖に出てくる、紫の君はまだ字も読めない子供であり、義理の母親である藤壺が源氏との道ならぬ恋で懐妊する騒ぎが出てくるあたり、今日的な倫理観で迫ってもどうにもならないのだ。

大阪から清里に行くときに中央道恵那山トンネルを通過したところに園原というところがある。そこの月見堂に根元の幹のみが残っている「帚木」が生えている。「帚木」とは、遠くから見れば見えるのに近づくと消えてしまう、と言われている。

「帚木の心を知らでそのはらの みちにあやなく まどいぬるかな」との歌が出てくる。

「謹訳源氏物語」は、和歌の解説が分かりやすい。物語の話の展開より、和歌の方が何倍も面白い気がする。

林望さんのインタビューがある。
「本は娯楽です。勉強のために読むのではなく娯楽だと思ってほしい。誰もが読まなければいけない必読の書なんてものはなく、読みたければ読み、読みたくなければ読まない、それが読書の本来です。『謹訳 源氏物語』も娯楽として読んでほしいと思います。特に、声に出して読んでもらいたいですね。」

筆者がこう言っているのだから、第2巻も、肩肘張らずに楽しみながら読むことにしよう。
 


辻邦生著「背教者ユリアヌス」

2012-03-01 | 濫読

若いころ一度読んでみたいと思っていたまま読めなかった本がたくさんあるが、その一つが、辻邦生の「背教者ユリアヌス」だ。この本は、塩野七生の「ローマ人の物語」でも紹介されていた。

皇帝ユリアヌスが単にユリアヌスと呼ばれるのではなく、「背教者」と侮蔑的に呼ばれるのはキリスト教の立場からである。叔父のユスティニアヌスが「大帝」と呼ばれるのも、キリスト教から見ての尊称である。ユスティニアヌスが紀元337年に亡くなったとき、コンスタンチノープルの宮廷では、その子コンスタンティウスの異母兄弟が殺され、
当時6歳だったユリウスとその兄12歳のガルスだけが奇跡的に助かったことから物語が始まる。

生きながらえたとは言え、兄弟は直ぐに幽閉された。ユリアヌスが20歳になった時に幽閉されながらもアテネでのギリシャ・ローマ古典の研究生活が許される。兄ガルスが殺されたとき、ガリア地方の騒乱を抑えるために、突如「副帝」に命じられる。
人々は学究の徒にガリアはおされられないと軽侮していたが、驚くほどの努力で、騒乱を抑え込むのに成功した。
361年ユリアヌス29歳のときに、コンスタンティウスが死に、皇帝に指名される。そのとき行ったのが、ギリシャ・ローマ宗教への回帰である。313年にコンスタンティヌスが「ミラノ勅令」を発布して、キリスト教を公認した。皇帝権力の安定した継承を狙うコンスタンティヌスは、皇帝権力が「神から与えられた」もの、とするのが、支配する上で非常に都合が良かったからだ。

皇帝がキリスト教を崇拝すると、元老院や貴族等の支配階級は、全て「世の中の暮らし方」としてキリスト教を信仰するようになった。それから、キリスト教が権力によって広められる50年の歳月が流れ、社会にはすっかりキリスト教が定着した。それゆえ、ユリアヌスが、ギリシャ・ローマ宗教への回帰を訴えても、人々の共感をえることができなかった。ユリアヌスは皇帝になってからただちに、積年の課題である、東方ペルシャ戦役に出、363年、32歳の若さで戦いの中で命を落とす。

辻邦生は、ユリアヌスの「神像論」を次のように紹介している。
「太陽や微風が快いのは何故であろうか。それは太陽は微風を通じて神々の香しい息吹が送られているからである。それは我々に生命を送った息吹である。我々は太陽や風のなかで、われわれの生命の本源に迫るのである」
辻邦生の流れるようでいて、しかも綿密な文体に綴られた長編を読み終えると、しばし、ぼーとなって、遥か遠い4世紀のローマ時代のことを思った。