若いころ一度読んでみたいと思っていたまま読めなかった本がたくさんあるが、その一つが、辻邦生の「背教者ユリアヌス」だ。この本は、塩野七生の「ローマ人の物語」でも紹介されていた。
皇帝ユリアヌスが単にユリアヌスと呼ばれるのではなく、「背教者」と侮蔑的に呼ばれるのはキリスト教の立場からである。叔父のユスティニアヌスが「大帝」と呼ばれるのも、キリスト教から見ての尊称である。ユスティニアヌスが紀元337年に亡くなったとき、コンスタンチノープルの宮廷では、その子コンスタンティウスの異母兄弟が殺され、
当時6歳だったユリウスとその兄12歳のガルスだけが奇跡的に助かったことから物語が始まる。
生きながらえたとは言え、兄弟は直ぐに幽閉された。ユリアヌスが20歳になった時に幽閉されながらもアテネでのギリシャ・ローマ古典の研究生活が許される。兄ガルスが殺されたとき、ガリア地方の騒乱を抑えるために、突如「副帝」に命じられる。
人々は学究の徒にガリアはおされられないと軽侮していたが、驚くほどの努力で、騒乱を抑え込むのに成功した。
361年ユリアヌス29歳のときに、コンスタンティウスが死に、皇帝に指名される。そのとき行ったのが、ギリシャ・ローマ宗教への回帰である。313年にコンスタンティヌスが「ミラノ勅令」を発布して、キリスト教を公認した。皇帝権力の安定した継承を狙うコンスタンティヌスは、皇帝権力が「神から与えられた」もの、とするのが、支配する上で非常に都合が良かったからだ。
皇帝がキリスト教を崇拝すると、元老院や貴族等の支配階級は、全て「世の中の暮らし方」としてキリスト教を信仰するようになった。それから、キリスト教が権力によって広められる50年の歳月が流れ、社会にはすっかりキリスト教が定着した。それゆえ、ユリアヌスが、ギリシャ・ローマ宗教への回帰を訴えても、人々の共感をえることができなかった。ユリアヌスは皇帝になってからただちに、積年の課題である、東方ペルシャ戦役に出、363年、32歳の若さで戦いの中で命を落とす。
辻邦生は、ユリアヌスの「神像論」を次のように紹介している。
「太陽や微風が快いのは何故であろうか。それは太陽は微風を通じて神々の香しい息吹が送られているからである。それは我々に生命を送った息吹である。我々は太陽や風のなかで、われわれの生命の本源に迫るのである」
辻邦生の流れるようでいて、しかも綿密な文体に綴られた長編を読み終えると、しばし、ぼーとなって、遥か遠い4世紀のローマ時代のことを思った。