猫じじいのブログ

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西側の価値を守れに同意せず、ウクライナ軍事侵攻反対する佐伯啓思

2022-03-26 23:16:20 | ロシアのウクライナ軍事侵攻

(Марина Девятова)

佐伯啓思は、『「ロシア的価値」と侵略』(朝日新聞寄稿、3月26日)で、西側の価値の優位にたいして異議を唱えている。私も、ロシア軍のウクライナ侵攻のなかでBBC放送が安易に「西側の価値」を強調しているのにウンザリしている。

だいたい、文明は東方からきたのではないか。キリスト教の発祥の地はガリラヤのナザレではないか。メソポタミア文明、エジプト文明、ギリシア文明の衝突によって生まれたのではないか。

それを16世紀末のスペインと海賊国家イギリスとの闘いで、たまたま、イギリスが勝ったから、海外に植民地をもつ帝国となっただけである。そして、厚かましくも、ギリシア文明の後継者のフリをしている。

「西側の価値」の1つは個人主義であるが、その発祥の地は東方のシリアである。自分は国家と切り離された存在であるとの認識が個人主義の原点である。

プラントンが何が善か何が正義かを論ずるに、国家(公共)にとって何が善か何が正義をもとに考えた。それは、古代ローマ帝国の政治家に引きつがれている。しかし、自分を国家と一体と思えない人びとには、国家の横暴のなかで、自分の幸せとは何か、自分の心の平安はどうして得られるか、真剣に考えざるをえない。個人主義はそのようしてローマ帝国の属州シリアに生まれた。

ところが、西側の個人主義は、王侯貴族が自由気ままにふるまっている「自由」を、新興勢力の自分によこせということに始まっている。17世紀の哲学者のジョン・ロックの『統治論』を読むと、「自由」と言っているのは、「私的所有」のことである。自分の財産を王や貴族に奪われたくないと言っているのだ。「公」に対して「私」の主張だが、「私」を主張できるのはどこまでの人びとなのか、ロックはその問題は真剣に考えていなかったようだ。ロックは、召使いが働いて収穫したものは雇用主のものとした。

19世紀、20世紀になると、国と国とが国民を動員して戦うようになる。総力戦である。総力戦を戦い抜くには、国民国家という装いが必要となる。選挙で選ばれた優秀な人材が国を統治しているという装いが必要となる。いっけん、民主主義であるように思えるが、この代議制は、偉大なるものが国を統治するという寡頭制、独裁制に容易に転換される。それは、西側の「自由主義」の内側に、能力のあるものが「自由」の果実を独占してもよいという堕落の種がまかれているからだ。

問われているのは、「市場主義」とかいう技術的な問題ではなく、本質的には、「私的所有」の問題である。これは自分のもの、あなたにはあげないという、「公」と「私」の境界の問題である。

「西側の価値」を守るために、私たちはロシアと戦うのではない。ロシア軍がウクラナイに攻め込み、住居やインフラを爆撃し、人びとを殺し、あるいは、いままでいたところでは生活することができないようにしているから、それを止めるために闘うのである。

佐伯啓思は、「西側の価値」にたいし「ロシア的価値」に言及する。しかし、「ロシア的価値」として言及しているのは「大地憂愁、神と人間の実存、それにロシア正教会風の神秘主義といった独特の空気」である。ピンとはずれでないか。

「西側の価値観」から抜け落ちているのは、私たちはみんな同じ大地に生きるもの、自分だけ豊かであってはいけない、人と競わないでみんなで穏やかに生きたい、という気持ちである。そういうものがトルストイやドストエフスキーの小説から聞こえてくる。そして、それは感動をさそう世界のすべての小説にも埋め込まれていると思う。「西側の価値観」こそ、決して普遍的でない。

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