図書館でたまたま岩井克人の『21世紀の資本主義論』(ちくま学芸文庫)を見つけたので金曜日に借りてきた。彼の名前は新聞でこれまでちょこちょこ見ているし、短いエッセイの集まりなので、私でも読めるかなと思ったからだ。
これまで、彼のことを年寄りでもはや過去の人と思っていたのだが、「21世紀の」とあるのが気になり、ウィキペディアで年齢を調べてみた。誕生日が1947年2月13日とあるから、わたしの1学年上に過ぎない。もしかしたら、大学時代キャンパスで会ったかもしれない。
「無限性の経済学」の節を読むと、「私がいわゆる科学少年であった頃、それこそ繰り返し読んだ本は、ジョージ・ガモフの『1,2,3、……無限大』(白水社)であった」とある。じつは、私も中学1年か2年のとき、同じ本を読み、数学者になりたいと思った。「4色問題」や「フェルマーの定理」や「ゴールドバッハの予想」が同じ本に載っていて、私も解けるのではと思ったからだ。大学に入ってから志望を数学から物理に変えたから、私はこれらの問題を解けていないままである。
ガモフは、この本で、有限と無限の違い、無限の中にもいろいろな無限があるというカントールの無限の理論を紹介しようとしたのである。しかし、岩井はガモフの本からくるその驚きが心に刻まれただけで、サミュエルソンの「世代重複モデル」に有限無限をかなり無理やり結びつけている。意味のない含蓄を述べているにすぎない。
サミュエルソンの「世代重複モデル」は、生産能力のない老人世代が貨幣を渡すことで若い世代から消費財を受け取っている、とし、貨幣に貯蓄機能があると主張するものらしい。貨幣は共同幻想だから、信用が失われば、その機能が壊れると岩井は言う。それはそうであるが、老人が生きていけるのは若い世代が老人のことを憐れむ慣習があるからにすぎない。サミュエルソンや岩井などの知識人は言葉遊びをしているにすぎない。
貨幣のない時代も、生活に余裕があれば、長老として、共同体の中にいれただろう。最近の中世日本の研究によると、中世の村の生活は貧しく、働けるものだけで集団を構成しており、核家族が共同体の構成要素であり、家父長制なんてなかった、という。
貨幣で社会が構成されているというのは、現在の社会の一端にすぎない。自分勝手な人間が自由市場のなかで助け合う社会を意図せず実現したという経済学主流の主張は、単なる自己弁護にすぎない。今のところ、岩井の本より、ガルブレイスの『ゆたかな社会』(岩波文庫)のほうが、経済学批判として鋭く面白い。
「資本主義「理念」の敗北」の節では、「社会主義とは、この市場の無政府性を廃棄し、中央集権的な国家統制のもとで、労働をはじめとする生産要素の社会的な配分を資本主義以上に「合理」的に行うことを意図したものである」と岩井は書いている。これもひどい偏見で、社会主義や共産主義は誰かが誰かを統治する「国家」を廃棄し、「国家」を国民への「サービス機関」にすることである。みんなが対等で「respect」される社会を実現するという理念である。共産主義は、「私的所有」を生産現場からなくすという理念が加わる。
「社会主義」とは、決して、生産と消費の経済活動を効率的に管理することではない。
岩井の偏見は、彼の学部学生だったとき、東大の経済学部では「計画経済」の研究が盛んだったことと関係するのではと私は推測する。人によっては数学が出てくるとレベルの高い研究をしている錯角する。
そんなこんなで、私は、岩井が心の欠けているエリートではないかと思ってしまう。
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