猫じじいのブログ

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吉田嘉重の『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』

2020-05-17 21:49:24 | 聖書物語


きのうの朝日新聞の読書欄に、保坂正康が、吉田嘉重の『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(文芸春秋)を紹介していた。

副総統のヘスは、ドイツとイギリスとが戦争している最中の1941年、ヒトラーの承認もなく、ひとりで講和交渉をするために、自分で飛行機を操縦し、イギリスに乗り込んだのである。まだ、ドイツは負けていない状況で、なぜ、そんなことをしたのか、大きな謎になっている。ヒトラーはヘスを信頼していたので、もちろん、とても怒ったと言われている。

これは、その謎に挑んだ87歳の吉田の小説である。吉田は映画人であるから、軍国少年として育った自分を踏まえての次世代の日本人への遺言であろう。

本の題名の『贖罪』は、「罪をつぐなう」という意味と思われる。べつに「罪をあがなう」という意味があるが、それは後で説明する。「罪をつぐなう」というのは、近代的な概念で、自分の行為に許せないものを感じ、その行為を詫びるために、世のために何か「つくす」ことである。

まだ、本書を手にしていないので、世に詫びるべき「罪」をヒトラーの台頭を助けたこととヘスが考えたまでは、推量できるが、「つぐなう」行為がわからない。

単身イギリスへ飛んだことなのか、それとも、70年もベルリンの監獄で生きながらえたことなのか、私は鈍いので、保坂の書評からはわからない。

自信がないが、単身イギリスへ飛んだことで、狂気のヒトラーに苦しんでいる、ドイツ国民やイギリス国民を救おうとヘスはした。ヘスこそが唯一の正気の人間であった。と考えたい。ただし、成功しなかったし、その動機を明確に世に告げなかったので、理解しがたい行動として、これまで放置されてきた。

「贖」という字は「あがなう」という訓読みが定着している。「あがなう」という言葉は、怪しげな「聖書」の訳語で、江戸時代には「あかなふ」を、遊女を身請けするという意味で使っている。「あかふ」が本来の日本語で、「神や君主に対して罪や苦難を逃れるために金や物を代償として提供する」という意味である。辞書によれば、この用例は、『万葉集』、『今昔物語』、『華厳経音義私記』でみられるという。

聖書研究者の田川建三は「あがなう」を「古めかしい言葉」であると言い、彼の新約聖書では「買い戻す」という語に置き換えている。

聖書協会共同訳、新共同訳、口語訳では、これまでの、聖書翻訳の伝統にもとづき、今でも、「贖う(あがなう)」と訳している。聖書の訳は、意味不明だから、信者にとって良いのかもしれない。ただ、最新の訳である聖書協会共同訳には、「贖う」の訳に、「買い戻す」とも訳せる、という注を付けている。

じつは、この「贖う」は、ギリシア語聖書を訳したのではなく、英語聖書を訳したものである。英語のredeem、redemptionを「あがなう」「あがない」と訳したのである。明治時代にはいってきたイギリスのプロテスタントの聖書解釈である。ギリシア語では、異なった言葉 “λύτρωσις”、 “ἀπολύτρωσις”、 “λυτρόω”、 “ἐξαγοράζω”、 “ἀγοράζω”、そして、対応する語がないものさえある。

さらに、面白いのは、新約聖書で「あがなう」と訳されるものは、パウロの書簡の『ローマ書』『コリント書1』、パウロの書簡を装ったもの『ガラテヤ書』、『エフェソ書』、『コロサイ書』、『テモテ書1』、『テトス書』、その他の書簡『ヘブライ書』、『ペトロ書1』、『ペトロ書2』、そして『ヨハネの黙示録』に限定される。

新約聖書の最初の5つ、『マルコ福音書』、『マタイ福音書』、『ルカ福音書』、『ヨハネ福音書』、『使徒行伝』には「あがなう」という言葉は出てこない。

新約聖書には、「贖罪」という言葉がどこにも出てこない。

「贖罪」はキリスト教各宗派に共通の教条(ドグマ)であって、「イエスが人類の罪をつぐなうために死んだ」と信じることをいう。そう、パウロの書簡を解釈するというのが、教条であって、本当につぐなうために死んだのか、死ぬことでどうしてつぐなうことができるのか、問うてはならないから、ドグマなのだ。


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