猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

苦しみは罰でも試練でもない、友達なら重荷をともに背負おう

2021-04-04 23:34:03 | 聖書物語

私は人を慰めるとき、あなたは悪くないということを伝えることが重要だと考える。

2,3日前のブログで、アメリカ映画『グッド・ウィル・ハンティング』で、子どものとき虐待を経験した数学の天才児(マット・ディモーン)が挫折の経験のあるセラピスト(ロビン・ウィリアム)に「あなたは悪くない、悪くない、悪くない」と迫られて、心を突然開いたシーンをのべた。

世の中には不条理や説明のできない大災害が起きる。自然災害で多くのだいじなものを人びとは失うだけでなく、復興の過程で不公平が起きる。自分が不幸なのにあいつは幸せそうに暮らしている思いである。

この問題をバート・D・アーマンが『破綻した神キリスト』(柏書房)で論じている。柏書房がつけたこのタイトルがよくない。もっと読まれて良い本だと思う。原題は、“God’s Problem: How the Bible Fails to Answer Our Most Important Question — Why We Suffer”である。訳すれば、『神の宿題:私たちのもっとも大事な問い、なぜ自分たちは苦しめられるか、に聖書はなにも答えられていない』という感じだと思う。

アーマンは本書で、聖書を書いた記者たちがこの問題をどう答えたか、それは答えとなっているかを論じている。第6章の旧約聖書の『ヨブ記』の議論が特に読むに値すると思う。

アーマンは、『ヨブ記』は2つの異なる構成のものをつなぎ合わせたもので、それぞれを書いた記者たちの答えは違う、という。

ひとつはヨブにたいする「神の試練」という寓話であり、もうひとつは、その間にヨブと彼の友人たちとの対話である。アーマンは寓話の部分は散文になっており、対話の部分は韻文になっている。散文の部分にはユダヤの神の名ヤハウェが出てくるが、韻文の部分には出てこない(対話の間にはいくつかヤハウェが出てくるが韻文ではなく、すべて地の文である)。散文の部分は短く、1章、2章、42章だけで、韻文の部分は3章から41章までである。

寓話は、金持ちのヨブを敬虔である(神を畏れ 悪を遠ざける)と神が言ったことに、何かの益なしに神を畏れることがあるだろうか、とサタンが反論して始まる。それで、神は、ヨブに試練を与えることをサタンに許す。サタンは、ヨブのビジネスを破綻させ、彼の使用人を殺す。そして、彼の10人の子どもを殺す。しかし、ヨブは神を非難しなかった。それで、サタンは、ヨブを足先から頭のてっぺんまで「できもの」に侵す。さすがのヨブも我慢できずに、自分が生まれてきたことを呪う。ここで、韻文の対話に切り替わる。

韻文の対話で、ヨブが神に屈服したところで、散文の寓話に戻り、神は試練を与えるのをやめ、ヨブの財産をもとの2倍に戻し、死んだ子供の代わりに、新たな10人の子どもを授ける。

アーマンはここで怒る。人が死んだのだから、財産を2倍したって、新たな10人の子どもをさずかったって、試練の埋め合わせにならないではないか。この寓話の作者は、使用人や子どもを単なる物、財産の一部としか考えていないのである。この寓話は、現代に映画化すれば総スカンを食うだろう。

そのことをのぞいても、人びとの苦しみを強くなるための試練だという考えは、私もおかしいと思う。苦しみは本来不要なものである。すなわち、避けられるのなら、避けた方がよい。わざわざ試練をあたえるのは、気違い沙汰である。

韻文のところは、ヨブが苦しんでいると聞いて友だちが次々とやってきての対話である。友だちは、ヨブが苦しんでいるのは神の罰だという。神は万能なのだから、お前が悪いと神が判断したことに誤りがない。いっぽう、ヨブは、悪いことをしていない、無実であるのに罰せられるのは おかしい、と言い張る。この対話が延々と繰り返される。

ここでも、アーマンは怒る。友だちなら慰めるべきだ。ヨブの悪かったことを具体的に挙げることができず、神のしたことだからヨブが悪くて神が正しいでは、神は人をもてあそぶ専制君主ではないか。神を正当化する理由はどこにもないではないか。

世の中には不条理は常にある。そして、人力でどうにかなる部分は人力をつくさねばならない。そして、友人なら、責めずに、その悲しみを慰め、共有しないといけない。

2011年5月のNHKの「こころの時代」で、気仙沼市の山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)が東日本大震災の津波の翌日の朝のことをつぎのように言っていた。

《すべてを失って、今、すがすがしい朝を迎える、
 自然は、今までと同じく、いや、それ以上に美しく、よみがえる、
 神は、人々を罰するために、地震と津波をもたらしたのではない、》

苦しみは罰でも試練でもない。説明のできない不条理である。こういうときこそ、慰め合い、助け合おうではないか。できたら、ずっと助けあっていこうではないか。


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