猫じじいのブログ

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学問の自由は啓蒙思想にともなうもの、カントの『啓蒙とは何か』

2020-10-07 23:00:50 | 思想
 
日本国憲法の国民の権利の1つに「学問の自由」がある。日本語ウィキペディアでは、「学問の自由は、研究・講義などの学問的活動において外部からの介入や干渉を受けない自由」と書かれているが、そのような狭いものではない。
 
「学問の自由」とは「啓蒙思想」と結び付いており、「思想信条の自由」「表現・出版の自由」と不可分のものである。そして、歴史は古く、ブルジョア民主主義のなかで生まれたもので、これを排斥するのはファシストかナチスかスターリニストぐらいだと思う。
 
ここでは、イマヌエル・カントの1974年の論文、『啓蒙とは何か』(岩波文庫)から、考えてみよう。原題は “Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung”である。
 
「啓蒙」とは、英語で “enlightment”、ドイツ語で “Aufklärung”である。英語の語義は、闇に光を照らし、何が正しいか明らかにすることである。他人に働きかけるというニュアンスが強い。ドイツ語の語義は、濁りをなくして明確にすることである。自分を自立したものにするというニュアンスが強い。
 
カントは、「啓蒙」とは、他人に管理(Leitung)されていなければ、何をなすべきか、何をなしていけないのか、判断できないという状態から抜け出ることだという。そして、個人が、その状態から抜け出ることは、怠惰と憶病が故に、むずかしいという。
 
ところが、個人でなく、公衆(Publikum)が自分自身を啓蒙するとなると、かえって可能だと言う。彼らに「自由」を与えさえすれば、かならず、自分で判断できるようになる、と言う。すなわち、自由に意見を述べ、自由に議論することを許せば、他人に管理されていなければ判断できないという状態から抜け出ることができるというのだ。
 
カントはここで「学問の自由」という考えに至る。
 
〈(政府組織の一員であろうとも)自分を同時に全公共体の一員――それどころか世界公民的社会の一員と見なす場合には、従ってまた本来の意味における公衆一般に向かって、著書や論文を通じて自説を主張する学者の資格においては、論議することはいっこうに差支えないのである〉
 
〈人類をいつまでも未開の状態に引きとめておくことを故意にたくらみさえしなければ、人間は進んでかかる状態から徐々に抜け出そうとするものなのである。〉
 
〈立法に関しても国民が彼ら自身の理性を公的に使用して、法文の改正に彼らの意見を発表したり、また現行法に対する率直な批判をすら公的に世に問うことを許しても、決して危険な事態の生じるものでない〉
 
「学問の自由」は、一人でひそかに何かを研究することではなく、公に意見を述べ、議論をし、社会制度の改善に寄与することなのだ。
 
機密保護法案に公に反対したり、共謀罪法案に公に反対したり、安保法制改正案に公に反対したりしたからといって、政府が、反対者を日本学術会議から排除することは、「学問の自由」の精神に反することである。「学術界のことは学術界にまかせよ」でなければならない。国税を投入しているからといって、政府が個々人の判断を管理するのなら、日本学術会議は政府から「独立な」組織ではなく、政府の「応援団」になってしまう。
 
じつは、カントは論文で、「君主」については、「啓蒙されている君主」だから、自分の説を理解してくれるでしょうと、主張の外においている。
 
しかし、約250年前のカントと違い、いまは、ブルジョア民主主義の「ブルジョア」も取れた「民主主義」の時代である。例外はない。総理大臣を批判して良いのである。「国会で選ばれた総理大臣に逆らってはいけない」と考える菅義偉シンパの頭はおかしい。まさに、彼らは、カントの言う「管理されないと判断もできない」未開の人たちである。
 
「民主主義」とは、みんなの上に立つ如何なる権威をも認めないことである。みんな自由で平等なのだ。


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