先週の金曜日の朝日新聞に関心を引く記事が2つあった。1つは雨宮処凛の新刊についてのインタビューであった。もう1つは『(耕論)評価と生きる』であった。
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雨宮処凛が新刊『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)の執筆のきっかけに答えている。最近まで中間層だった人が貧困化しているケースによく出合ったからと言う。最近まで中間層だった人は、貧困から自分の身を守る「サバイバルの知識」に欠けていると言う。
雨宮は言う。
「収入が生活保護基準をわずかに上回る人たちを支える制度がほぼありません」
「生活保護を勧めると強い抵抗を示される傾向がありました」
「生活保護が恥ずかしいという意識があるのではないでしょうか」
「政治家まで加わった『生活保護バッシング』が起きたことも影響しています」
「生活保護だけでなく、近年、公的に守られているとされるものが攻撃されてきました」
私は、立憲民主党の「中間層を増やす」という方針より、「貧困層をなくす」という理念を支持している。しかし、中間層から貧困層に落ちる人がたくさんいるというのも問題である。さらに、貧困化する人たちが自分が競争社会に負けたからとの考えに囚われるのはもっと問題である。他人に優しくできないからだ。
雨宮は、もともとの貧困層には互いに情報を共有し助け合うことを知っていると言う。
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『(耕論)評価と生きる』は、自分の仕事の評価を絶えず受けながら働くことの問題を取り上げている。石井てる美は、「世界広い、ここの評価だけを気になやむな」と言う。熊沢誠は、会社の評価が「社員の生活の明暗を大きく左右する」という現実を指摘し、「仲間同士の競争が強まり、労働者はバラバラになる」と言う。藤野寛は評価を気にするのは「承認欲求」で人間の性(さが)だと言う。
私は老人の熊沢に近い意見である。子どもたちが親の姿を見て、働くことが苦痛であると思っているのに、最近、私は困惑している。そういう子どもたちに、働くことは仲間を得ることだとNPOで話している。
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雨宮の問題意識は熊沢の考えに通じている。中間層が競争社会を絶対的なものと考え、貧困は競争社会に負けたからと考えるのは異常である。第1次世界大戦後のドイツに類似している日本の状況を私は憂いる。
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