猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ETV『私は、母になる〜餅田千代と孤児たちの戦後〜』の再放送にふたたび泣く

2022-05-07 21:51:06 | 教育を考える

きょう、、ETV〈こころの時代〜宗教・人生〜〉で何年かぶりに『私は、母になる〜餅田千代と孤児たちの戦後〜』の再放送を見た。前回と同じくおろおろと泣いてしまった。戦後、長崎で孤児施設「向陽寮」の初代寮母になった餅田千代の物語である。

今回、泣きながら記憶に残ったのは、1つは施設に孤児60人がいたことである。もう一つ記憶に残ったのは、彼女が12歳になる孤児の男の子たちとお風呂にはいったことである。

私の子ども時代の1教室の定員は同じく60名だった。それにもかかわらず、先生たちに私はすごく愛されたと思っている。

私のいる放課後デイサービスの教室責任者(彼女)は小学校教師を25年務めた。務め始めたときは、お金をもらって大好きな子どもたちと接することができると感激したと言う。ところが彼女は3年目に仕事を続けることが苦しくなったという。それは、クラスのみんなに愛情を平等にいっぱい注ぐことができないということに気づいたからだ。彼女は苦しさから逃れるためにピアノの練習などに打ち込んだという。

私より約20歳若いから、当時のクラスの定員は40人ほどだと思う。現在、放デイサービスの法定定員は1教室1日10人である。そして、ふたたび、お金をもらって大好きな子どもたちと接することができると言い、張り切っている。

餅田千代は、子どもが好きだから寮母になったのではなく、親のいない子どもを社会人と育てることが、自分の「使命」だと受け入れたからではないかと思う。長崎県がGHQの指示で孤児施設「向陽寮」を開くとき、英語が少し話せるという理由で、未亡人の彼女を選んだ。

社会から見捨てられたともいえる孤児を社会人として育てることは並大抵のことではない。彼女は「子どもに負けない」ということを誓い、施設の職員にも そう言い伝える。人のものをとってはいけないと教える。自分の働きで食べていくことのだいじさを教える。だれかのボスになってはいけないと教える。

しかし、これを子どもたちが受け入れたのは、自分が彼女にすごく愛されていると感じたからだと私は思う。

彼女が孤児といっしょにお風呂にはいったというエピソードは、肌感覚の愛情を与えるための1つの選択だったと思う。抱きしめられるとか手を握られるとか、肌と肌との接触は、幼児が親からうけるだいじな愛情表現である。新型コロナで、このような接触は失われているのではないか、と気になる。

本当は、親子だけでなく、一般に、子どもが大人からの愛を受け入れるうえで、この接触が重要なのではないか、と私は思う。

私は小学校1年のとき運動場で転んだとき、膝の傷口をとっさに担任の先生(女)になめられた。私はこのことを今でもありありと覚えている。

日本では、親以外から肌接触は、性行為だけである。ヨーロッパやロシアとは大きく異なる。公衆衛生の観点からは日本の慣習のほうが優れているが、新型コロナの感染が収まったら、少なくとも、手を握る、肩をだくという行為を再開したほうが良いと思う。

3年前に放デイサービスで、小学1年の子と机を挟んで互いに椅子に座って学習指導しているとき、その子は、毎回、足を延ばしてきて、私の足に接触しようとした。日本では、大人と子供の肌接触は、親以外ではロリコンと誤解される。それで、私は気づいていないふりをした。

これが、女の子だともっと困る。いじめられて泣いている子は、誰かの胸に頭をつけて慰められたいのである。しかし、小心な私はどの子も抱いて慰めたことはない。日本でそういうことをすると性的虐待とみなされる。

情緒不安定になる子には、親から抱かれて慰められたことがない子が多い。理由は、子どもを甘やかしていけないという教育方針を信じていたり、親自身が情緒不安定で子どもに愛情を与えることができなかったりするからだ。

現在、日本社会が、肌接触をなんでもかんでも性行為の一部とみなし、性的虐待と大騒ぎするのは考え直すべきだと思う。肌接触の重要さに気づくべきだ。