猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ADHDで何が悪いか、岩波明の『発達障害』 2018/6/28(木)

2022-05-12 15:27:57 | こころの病(やまい)

昨日、わたしのお気に入りの1人が「多動」と診断されていると知った。彼女は非常に聡明な少女(高2)なのに。理解が非常に速いのに。(2022年5月現在、慶応大学に在籍)

「多動」とは、ADHDということである。改めてADHDについて考えてみたい。

いま手元にあるジョエル・パリスの『現代精神医学を迷路に追い込んだ過剰診断』(成和書店)は、過剰診断されがちな診断名として、大うつ病(Major  Depressive Disorder)、双極性障害(Bipolar Disorder)、心的外傷後ストレス障害(PTSD)、注意欠如・多動症(ADHD)をとりあげている。

この本の原題は“Overdiagosis in Phychiatry”である。日本語のタイトルは、副題の“How Modern Psychiatry Lost Its Way While Creating a Diagnosis for Almost All of Life’s Misfortunes”から来ている。副題は、今日の精神医療が道を踏み外して人の人生を不幸にする診断をしているという意味だ。

過剰診断の根拠として、ADHD は昔から知られた症状なのに、患者数が最近急激に増加していることをあげている。直接的な要因は、ADHD 支援団体の熱心な活動である。この非営利団体の資金源はリタリンを製造するノバルティス社である。(リタリンやコンサータはメチルフェニデートの商品名である。)

アレン・フランセスも『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』(講談社)で同様な指摘を行っている。

パリスもフランセスも「成人のADHD」の診断を特に憂いている。

憂いる理由は、2つある。1つは、ADHDは成人になっても症状が残ることがあるが、成人になってからの診断が難しいのである。もう1つは、DSM-5の神経発達症群に分類される診断名は、あくまで、「症候群」であって、無理に服薬で治療する「病気」ではないのである。

ところが、ADHDが製薬業界に大きな市場として目をつけられたのである。治療薬はADHDを治すのではなく、症状を抑えるもので、継続使用を前提としている。継続使用が製薬会社にとって一番オイシイのである。

過剰診断になる理由は、DSM-5で載っているADHDの症状は誰にでもみられる症状であるからである。診断基準の歯止めは、症状が「12歳になるまえに存在していた」こと、「2つ以上の状況(家庭・学校・職場・付き合い)において存在する」こと、「これらの症状が社会的、学業的、または職業的機能」に問題をおこしていること、他のメンタル不調ではうまく説明できないこと、この4点である。

例えで言うと、ADHD は「熱がある」というみたいなものである。熱があるというのは症状であって、色々な病気が熱を引き起こす。ADHDは、他の病気が原因と考えられず、生まれつきのもの(特性)とするしかないとき、しかも患者にとって困るような重い症状のとき、診断されるものである。

DSM-5 は、ADHDと症状が似ているが、区別されるべき診断名として次をあげている。

秩序破壊的・衝動制御・素行症群の反抗挑発症、間欠爆発症、

神経発達症の限局性学習症、知的能力症障害、自閉スペクトラム症、

心的外傷およびストレス因関連障害群の反応性アタッチメント障害、

不安症群、抑うつ障害群、特に重篤気分症。

物質使用障害や医薬品誘発性の注意欠如・多動症症状

パーソナリテイ障害群、精神病性障害、神経認知障害群

だから、岩波明が、成人の女性に「軽症のADHD」と診断し、本人の意志だからとして、メチルフェニデートの投与を継続していることに、わたしは大きな違和感を感じたのである。

岩波明が、ADHDの根幹的特性として「衝動性」を取り上げているが、わたしは別にこれを悪い特性だと思わない。始めに書いた「多動」と診断された少女は、生きる意欲に満ち溢れている。「多動」で何が悪いのか。


福音の落とし穴 岩波明の『発達障害』 2018/6/27(水)

2022-05-12 15:24:33 | こころの病(やまい)

岩波明は『発達障害』(文春新書)でADHD治療の福音を伝道する。かれの優れている点は、本人にADHDの人の特性を説明し、納得させて治療薬の服用を継続させることだ。そして、あなたがうまくいかないのは、すべて、ADHDのせいだ、という。

しかし、「整理や片付けができな」い「成人の女性例」を読むと

「当初は投薬の効果ははっきりしなかったが、十分量を継続することで感情的に安定し、以前よりも落ち着いて行動することができるようになった。」

「このような軽症例につては、病院での治療が必要なのか、意見が分かれるところであるが、最終的には本人の判断に任されるべきである。」

とある。納得させて治療薬の服用を継続させるが、服用することのリスクは自己責任であると言っていることに、注意してほしい。わたしは会社にいたから、これが「マッチポンプ」という営業手法と同質であると思う。

治療の福音は「再取り込み阻害剤」である。神経伝達物質(ノルアドレナリン、ドパーミン)は通常、それらを放出した神経細胞によって、再吸収されることで、効力は短い時間に限られる。阻害剤を使えば、近眼鏡や老眼鏡をかけたように、シナプスでつながった後神経細胞を刺激つづけ、伝達効率が上がる。これが治療薬の薬理である。

ADHD治療の福音は治療薬を飲み続けることを前提としている。治療薬は症状を抑えるだけで、治すわけではないから、治療薬をずっと飲み続けることになる。

「アルバイト先の会社のトラック2台のタイヤにハサミを刺してパンクさせた」Jさんの症例を読むと、問題の本質がわかる。

「衝動性に基づく粗暴な行動」で、「さらに小児期から不注意、集中力の障害がみられたことを考慮」し、「ADHDの治療薬を投薬したところ、衝動性や不機嫌さを改善し、就職した機械工場でも問題なく仕事を続けている。一時通院を継続することに不満も見せたが、自らの特性を理解し、服薬も続けている」とある。

「不注意、集中力の障害」とは、小学校の通知表にみられた次の記載である。

「時々、人の話を聞いていなくて注意されることがあります」(小1)、「教室での授業は、集中しきれないことがありました」「授業中、自分の世界に入り込んでいることが多い」(小3)、「特定の男の子とよく言い争っている」(小2)、「授業中、友達に手を出して遊ぶことが多く残念に思いました」(小3)、「女の子にちょっかいを出す」(小4)

このようなことは小学生の男の子によくみられることである。これらの行為は許すべきでないか否かは、もう少し情報がないとわからないが、他人に危害を加えるなら、すぐ、教師は止めるべきである。「特定の男の子とよく言い争」うや「友達に手を出」すは、両者の言い分を教師がよく聞く必要がある。

教師の適切な介入で子供の人格が成長するのだ。

ところで、中学生活では何の問題もみられなかったという。小学校の高学年の通知表にも岩波が引用するほどのことがなかったのだから、これは本当だろう。

ところが、高校にはいって、「2年次より急に成績が下がり、『学校に行きたくない』と言って家で荒れるようになった。このため、母が毎日車で学校まで送ることを繰り返しようやく卒業できたが、担任の教師に不満をいだき、無言電話を繰り返した」とある。

「急に成績が下が」るのは、心に大きな葛藤をかかえたからであり、両親はその理由を聞かないといけない。成績が下がるから学校に行きたくないのではなく、学校に属する人間たち、教師やクラスメートが Jさんに嫌なことをするからである。それなのに、「母が毎日車で学校まで送ることを繰り返」すとは、Jさんをさらに追い込むことになる。

わたしが Jさんだったら、「荒れる」のではなく、両親を殴り、学校の窓ガラスを割り、社会問題化させるだろう。Jさんは臆病だから単に「無言電話を繰り返した」だけで済んだのだ。

Jさんのケースは、小児期のADHDが続いていると考えるよりも、「重篤気分調整症(Disruptive Mood Dysregulation Disorder)」や「秩序破壊的・衝動制御・素行症群(Disruptive, Impulse-Control, and Conduct Disorders)」と考えるのが普通だろう。生まれつきの「発達障害」の枠で考えるべきでない。

このケースのもう一つの意味することは、ADHDの治療薬は、ADHDでなくとも衝動性を抑えるのに効くということであろう。ADHDは本人を説得するための方便であり、継続的服用で衝動性を抑えることが本質である。そして、怖いのは、政府に反抗すると、ノルアドレナリン再取り込み阻害剤を飲ませられ、温和な人間に改造されることである。

わたしはADHD治療薬の福音が信じられない。


製薬会社の太鼓たたきか?岩波明の「発達障害」 2018/6/25(月)

2022-05-12 15:20:26 | こころの病(やまい)

岩波明は ADHD 治療の伝道師である。しかし、わたしには、この福音を素直に受け入れることができない。かれの「上から目線」が気になるからである。

かれは『発達障害』(文春新書)のなかで、英語ではdisorderとしている診断名を「障害」を訳す。「障害」の英語はdisabilityである。

かれは知的能力のある成人のASDやADHDを問題にする。かれは言う。

「彼ら(ASDの子供)は集団の中にいながら他を無視して奇声をあげたり、ひとりで跳ねまわったりする」

かれの成人患者も、「奇声をあげたり、ひとりで跳ねまわったり」しているのか。

わたしの住んでいる所に近くに、少し重い「知的能力障害」児を受け入れている施設があり、かれらと緑道でよく出会うが、「奇声をあげたり、ひとりで跳ねまわったり」するのを目にしたことはない。いっぽう、近くに多数の保育園があり、土砂降りでなければ、保育児は、ほぼ毎日、緑道を集団で、大声でキーキーギャーギャー言いながら、保育士と共に歩いている。

年齢と共に人の振る舞いは変わるのだ。

ちょっと大きくなれば、子どもは理由もなく「奇声をあげたり、ひとりで跳ねまわったり」しない。「奇声をあげたり、ひとりで跳ねまわったり」するときは、その子の悲鳴であり、怒りである。大人はその理由を聞いてあげるべきである。ASDの子どものイメージを変える必要がある。

さらに、岩波明は「ASDの当事者は、自分の思ったことや本当のことを言いたいという考えを抑えることができないことが多い」というが、「本当のことを言」うのは良いことではないか。目上の人に配慮すべきという社会通念のほうが間違っている。

岩波明は、症例や文学作品の登場人物の診断を本に記す。興味本位の読者には受けるかもしれないが、「発達障害」の問題をまじめに問う読者には不適切である。小説家は、先人の文学作品や自分の経験をつなぎ合わせて、登場人物のキャラクターを創る。すなわち、フィクションである。症例も、個人情報をあらわにしないため、いろいろな患者の症例を組み合わせたものであり、書き手の偏見あるいは創作がはいってくる。

ASDの症例で岩波明は「身体が弱くてよく熱を出し、また初めての場所に行くと不安定となり泣き叫ぶことがあった」と書くが、これは別にASDと関係ないことである。「偏食、癇癪がみられ、通学路を1本違えるだけで不安が強くなるなど、常同的な行動様式があった」も別にASDの診断基準でもない。DSM-5のどこにも そんな記述がない。

さらにADHDの症例では、仲の悪い妻の言い分を書きならべている。

「仕事上の人間関係で疑心暗鬼になりやすく、『俺のことを気持ち悪がっている』などと発言、自宅で思い出して不安定となる」。

「常同的な行動パターンがあり、毎朝の身支度の順番は一定、いつも米粒、消しゴムのかすなどを丸めている。必要ないものを、いつも持ち歩く」

「非常勤の教師をしていた私に攻撃的で、『妊娠もしていないのに、家でダラダラしやがって』などと責める」

「仕事が多忙だとイライラが高じ、突然すごい剣幕で怒りだす。怒ると、魔法瓶やカメラを床に叩きつける」

こんなことでADHDと診断されたくないと思う。「怒ると、魔法瓶やカメラを床に叩きつける」は、妻を傷つけないよう、怒りを物にぶつけているからだ。「仕事が多忙だとイライラ」するのは当りまえではないか。

わたしのNPOでの観察では、「発達障害」児とされている子どもは、記憶力、認知力、発語に問題を抱えている場合が多い。さらに、学校で先生にいじめられている子どもも多い。いまの社会は、勉強ができるかできないかで序列をつくり、その序列を乱すものをいじめるようになっている。

言葉が話せること、発語は、虐待の訴えに必要なので、私は、NPOで発語に力を入れている。

朝日新聞の記者にノンフィクション作家の鎌田慧が、学校で数学の答案を白紙で出して文句を言われなかったと語っていた。わたしも、年号を覚えさす日本史の教師に抗議して、毎回、白紙の答案を出していた。現在の学校教育にもっと異議を申し立てるべきだ。

とにかく、岩波明が成人患者にアトモキセチンやメチルフェニデートの投与する根拠が症例ではわからない。前者はノルアドレナリンの再取り込み阻害剤で、後者はドパーミンの再取り込み阻害剤である。再取り込み阻害で、少量のノルアドレナリン、ドパーミンで神経伝達がなめらかにいくという理屈であるが、薬理メカニズム上、依存性が避けられない。投与停止のときに、離脱症状が避けられない。薬の投与が本当に必要なのか。

岩波明は、本人の自覚がないまま、製薬会社の太鼓たたきになっているのでは、とわたしは危惧する。


「障害」か「不調」か、岩波明の『発達障害』 2018/6/23(土)

2022-05-12 15:16:30 | こころの病(やまい)

岩波明の『発達障害』(文春新書)は、自分が専門とするADHD治療の重要さを訴える本である。この本には「障害」という言葉が多数出てくる。また、米国精神医学会の診断マニュアルDSM-5にもとづいているとしながら、自説を強く展開している。昭和大学医学部の教授であるから、その権利はあるが、自説は自説と言う率直な態度を求めたい。

「障害」という言葉は、岩波国語辞典を引くと、「正常な進行や活動の妨げとなる」とある。「正常な進行や活動の妨げる」は英語ではdisableと言う。それゆえ、英語では「障害」にdisabilityを使う。

ところが、診断マニュアルDSMS-5では、ただ一つの例外を除いて、disorderを使う。例外は、「知的能力障害群」のIntellectual Disabilities である。disabilityは補償を国に請求するときの言葉である。「知的能力障害」の子どもをもつ親の団体が、オバマ政権時に、Intellectual Disabilityを使うよう訴え、法律でこの呼称を強制するようになったからである。

米国精神医学会で一般にdisabilityを使わないのは、正常と異常との境界がもともとあいまいであり、社会の色々なステークホルダー、例えば、保険業界、製薬業界、医療業界、患者団体の戦いの中で決まる便宜的なものであるからだ。

日本の社会でも、法律用語で「発達障害」があるのは、似たような背景があるからだ。

日本精神神経学会ではDSM-5を訳するとき、出来るだけ「症」を使うようにした。ASDは「自閉スペクトラム症」であり、ADHDは「注意欠如・多動症」である。Nuerodevelopmental Disordersは「神経発達症群」である。DSM-5には「発達障害」という診断名はない。

それではdisorderとは何か。orderは「秩序がある」ということだから、「不調」または「失調」ということになる。日本語で「精神疾患」と言われているものの英語はmental disorderである。mentalは訳しにくい言葉であるので、「メンタル不調」とするのが良いだろう。わたし自身は、mentalを無理に訳するより、「精神疾患」を即物的に「脳機能の不調」としたほうがすっきりくる。

disabilityかdisorderかは、ささいな言葉の問題のように見えるかもしれないが、立場の違いなのである。NPOで活動する、わたしは、「発達障害」の問題を補償問題と扱うよりも、人権問題として扱うべきと考える。というのは、いま、学校で扱いにくい子どもを「発達障害」児として社会から排除する傾向があるからである。このままいくと、政府に反抗的な子どもや若者に薬を飲ませ、障害者として社会から排除する時代が来るのでは、と私は恐れている。

どの本にも「発達障害」児に薬を飲ませろとは書いてないが、NPOで相手をしている子どものなかに、薬を飲ませられている子どもたちが多い。親とスタッフとの信頼関係が築かれるまでは、親は薬の服用について語りたがらないから、NPOの指導員もなかなか初めは気づかない。

アレン・フランセスは『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』(講談社)の中で、精神科医療での診断名は流行で、現在の流行はアスペルガー症、自閉症だが、今後の流行はADHDになるだろうと予測している。というのは、ADHDの市場は大きく魅力的で、ADHDについて研究したり講演したり本を書いたりすることに製薬会社がお金を出すからである。

岩波明は、「自閉スペクトラム症」の「スペクトラム」を「『連続体』という意味である。つまり、ごく軽症の人から重症の人まで、さまざまなレベルの状態の人が広範に分布しているという意味である」と書いているが、これは間違いである。「脳機能の不調(mental disorder)」には、診断名が何であれ、軽症から重症まで連続に分布しているので、そのことを、わざわざ「スペクトラム」とは言わない。光はただ波長が違うだけの電磁波なのに多彩に見える。本質的には同一なのに多彩に見えるとき、スペクトラムと言う。すなわち、昔のアスペルガー症も自閉症も同根だというのが、DSM-5タスクチームの主張なのである。

だから、「スペクトラム」の語の使用は政治的な配慮からくるものであって、科学的な根拠があってではない。

ADHD は DSM-5 のAttention Deficit / Hyperactivity Disorderの略である。日本精神神経学会が訳したとき、「注意欠如・多動症」とした。この「/」や「・」は意味をもつ。「注意欠如」と「多動」を同時に示す子どもたちもいるが、「注意欠如」だけを示す子どもたちも、「多動」だけを示す子どもたちもいるからだ。岩波明の本では「・」が省かれている。これは単純ミスでないようだ。57ページにDSM-5のADHD診断基準がのっているが、基準の前につけられているラベルのA1、A2、B、C、D、Eの説明が本にない。診断名ADHDが下されるために、アルファベットのラベルは、その基準がすべて満たされる必要があることを示す。数字がついているときは、そのいずれの基準が満たされるのでも良いということである。A1は「注意欠如」に対応し、A2は「多動」に対応するのである。

「神経発達症群」の説明で、その中から「コミュニケーション症」の説明が岩波の本から欠落している。DSM-5では「自閉スペクラム症」と「コミュニケーション症」とを分離した。これによって、言葉の発達が遅い、対人関係に問題がある、だけでは、「自閉スペクラム症」とはならないことを、DSM-5タスクチームは明確にした。

岩波明は本で「過剰な診断と過少な診断」とを避けるべきだとしているが、その具体的な手段に関して、のべているわけではない。これでは、単に、昭和大学の自分の診療科に来い、と言っているだけになる。冷静に考えれば、正常と異常の境目が恣意的なものだから、「過剰」「過少」はどの立場から問題をとらえているかで、結論は異なってくる。DSMタスクチームは、境界を患者の困り具合として、判断を避けている。

『発達障害』は、読めば、読むほど、気がかりな点がでてくる本である。


大人のADHD、大人の発達障害の流行に懸念

2022-05-12 15:13:26 | こころの病(やまい)

いわゆるADHDや「発達障害」と言っているものに、程度の大きな差がある。

大人になってADHDや「発達障害」と診断されるものは、子ども時代には気づかなかったのだから、たいしたことはなく、「正常な範囲」の揺らぎと言ってよい。すなわち、個性である。したがって、社会のほうが、その揺らぎに寛容であれば、何の問題も起きない。

集団行動なんて軍国主義の名残で、不必要である。女性だからといって、家事・育児・賃金労働をすべてこなすなんて、はじめから無理である。やりたいことだけやればよい。嫌なことはしない。そういう社会であれば、大人のADHD、大人の発達障害は「病気」でなくなる。それで浮いた医療資源を重い「発達障害」に注ぐべきである。

ところが、あいかわらず、大人のADHD、大人の発達障害の診断や体験記が流行している。

この流行に、水をさすため、あえて、4年前のブログを4件ここで再録する。それは、岩波明の『発達障害』(文春新書)を読んで、納得できなかった点を私が書いたものである。

私は、岩波明が「発達障害者」を真摯に助けようとしていると思っている。したがって、彼個人への批判としてではなく、4年前の精神医学界の通念に対する不服申し立てとして読んで欲しい。