4年前に、ヤフーのブログに「軍人がいるから戦争が起きる」と書いたことがある。ここで「軍人」とは「兵隊さん」ではなく将校などの職業軍人のことだ。この言葉は、イノベーション論で有名な、資本主義大好きの経済学者、ヨーゼフ・シュンペーターの言葉だ。
そのとき、「戦争は国民が起こす」というコメントが早速ブログに帰ってきた。
また、きょう古新聞を整理していたら、11月28日の朝日新聞の《オピニオン&フォーラム》に、真山仁が「開戦を支えた民意 礼賛報道が刺激した」「振興メディア 熱狂」という見出しで、日本が戦争に至った要因を論じていた。かれの主張は「日本国民自身が開戦に加担していた」ということである。
日本国民とはなんなのか。人間は、それぞれ違う過去の体験の記憶で動く泥人形なのである。それゆえ、人間はそれぞれ考えがちがう。1つの意志をもつ日本国民なんて存在しないのである。
しかも、戦前の大日本帝国憲法には「国民」という言葉はでてこないのである。大日本帝国憲法は、天皇が「朕カ親愛スル所ノ臣民」に対する約束の明文化なのだ。
真山仁はつぎのように書く。
〈首相が、日本という国家の全ての決定権を握る責任者であった。したがって、軍人だけで勝手に戦争ができたわけでもない。中でも、国民の意向を無視して開戦などありえなかった。〉
大日本帝国の主権は天皇にあり、首相の権限がそんなに強いわけではなかった。陸軍、海軍を統帥するのは、天皇であって、首相でも内閣でもない。しかも、首相が内閣のメンバを更迭できない。
加藤陽子の『戦争まで』(朝日出版社)につぎの話がのっている。
1941年の日米交渉で、近衛文麿は、ホノルルで、5月までにローズヴェルトとの頂上会談をやろうとするが、外相の松岡洋右が抵抗するので、実行できない。それで、近衛内閣は総辞職し、再度、内閣を組閣し、外相を豊田貞次郎に代える。
もっと、ひどい話ものっている。
関東軍がかってに満州国を建設したとき、国際連盟に中華民国が提訴した。国際連盟のリットン調査団が日本にやってきて、その時の首相、犬養毅に会っている。その犬飼は、「満州国が建国されたとき、日本政府としては承認するつもりはない」と言ったが、軍部の怒りを買い、5.15事件で暗殺されてしまう。
一国の首相が、法の保護も受けずに、簡単に殺されてしまう。
これを知ったリットンは、平和的なアプローチを望んでいる日本人がいることを認めながら、いっぽうで、「大衆は多く事実の真相を知らず」、また、「日本における自由主義的な意見は、テロリズムのために抑圧されている。リベラルな考えの人も、生命の危険なしには、その意見を発表することは、まったく不可能な状態にある」と話していたという。
総体としての日本国民というものは、いまも昔も存在しないのである。暴力に訴えるものが、まるで、国民の代表に見えてしまうのだ。そして、伊藤隆によれば、「革新右翼」と言われる若手官僚、若手軍人がヒロイズムと野心に燃え、政治の前面に出てくる。
新聞やラジオが戦争を礼賛したからと言ってすまされる問題ではない。というのは、「革新右翼」のつくる熱狂に新聞やラジオが動かされたともいえるからだ。日本にもファシズム運動があったと見るべきである。伊藤の主張は、「革新右翼」が完全に権力を収めたのではないということである。「革新右翼」の熱狂が統制を受けた結果、日本に無責任体制ができあがったということだと私は思う。
1945年に日本が敗戦を迎えたとき、政府も軍部も開戦の責任を否定した。昭和天皇さえ、「下剋上」のせいだと言った。
私の母方の実家は、日蓮宗、しかも田中智学の国柱会に傾倒して、戦争に反対した。それで、祭りになると、いつも、神主が若者を煽り、神輿をぶつけ、家を壊していったという。神主の息子が戦死してから、その暴力が止まったと聞いている。
戦前と言うと、特高が拷問をしたという話も親から聞いているが、母の実家は特高に巻き込まれなかった。私は、国柱会が天皇制を否定せず、特高から共産党とは無関係だと思われていたから、と思う。
結論として、暴力的な「革新右翼」が戦前に勢いをもったのは、大日本帝国政府が共産主義者や社会主義者を徹底的に弾圧したので、「革新右翼」にしか、不満をもつ国民の直接行動の行き場がなかったからだ、と思う。
そして、加藤が『戦争まで』で指摘するように、政府と軍部の革新派も統制派も、何度も立ち止まるチャンスがあったのに、虚栄心の自縛から戦争に追い込まれていく。
加藤陽子は、戦前の誤りを繰り返さないために、大衆の教育がだいじだと言う。しかし、私は、単なる「教育」は「洗脳」で危険だと思う。多様な考えを知り、、自分の力で真実を求めることが、だいじだと思う。そして、自分の考えを発信することである。