ドナルド・トランプ大統領が6月3日から5日にかけて、英国を訪問し、チャールズ皇太子と紅茶を一緒に飲むという。BBCワールドによれば、トランプ訪英反対の大規模デモが予定されているという。うらやましいかぎりだ。
日本では、なぜか、トランプ訪日反対のデモがなかった。もしかしたら、あったのに、メディアが報道しなかった だけかも しれない。
トランプは、中国に貿易戦争をしかけ、今また、メキシコに25%の関税をかけると通告している。好き勝手に暴れているトランプに、そんなことをしてくれるなという、デモがあっても良いと思う。
私はこの「隣人」という言葉が好きである。日常の日本語には出てこない言葉であるから、どこか、異国情緒がある。「となり」の意味の漢字「隣」を使いながら、「りんじん」という語は、「人類一般」や「仲間」を連想させる。
日本語聖書には、旧約にも新約にも、「隣人」という言葉がたびたび出てくる。この「隣人」はギリシア語 ”πλησίον”(プレーシオン)の日本語訳だが、実は、プレーシオンの本当の意味はわからない。何が変かというと、プレーシオンは名詞なのに、格変化しない。英語でも、代名詞が、we, our, usと変化するが、ギリシア語では、名詞、形容詞、冠詞はすべて、格変化する。
格変化しないということは、プレーシオンはギリシア語ではない。
旧約聖書は、もともとヘブライ語聖書で、ヘレニズム時代に、ギリシア語に訳された。したがって、プレーシオンがヘブライ語であれば、謎の解決である。残念ながら、ヘブライ語聖書を参照すると、ヘブライ語 “רע”(レア)がプレーシオンに訳されていることがわかる。ヘブライ語レアには「隣人」という意味はない。ヘブライ語レアは、いろいろなギリシア語に訳されるが、プレシーオン以外に訳されるときは、「他の」とか「相手」とか「たがいに」とか「友」とか訳される。
旧約聖書のモーセの五書をとおして、訴訟の判例では、告訴者を“איש”とし、被告を“רע”としている。また“איש אל־רעהו”を「たがいに(one to another)」の意味で使っている。
では、プレーシオンが「隣人」という誤解は、どうして生じたのか。
「近い」という意味の形容詞“πλήσιος”の対格形に勘違いしたからであろう、と私は思う。人に対して使うから、「近い人」→「隣人」と思い込んだのだろう。
旧約聖書『レビ記』19章18節のヘブライ語“ואהבת לרעך כמוך”は、本当は、「あなたの相手を自分自身のように愛しなさい」という意味である。だからこそ、新約聖書『ルカ福音書』10章で、律法の専門家が「わたしの相手は誰でしょうか」とイエスに問うのである。有名なサマア人の寓話がここから始まる。
しかし、「隣人」という訳が日本で定着してしまったから、今更、「隣人を自分自身のように愛しなさい」を改めることができないのが実情であろう。昨年出た聖書協会共同訳も「隣人」と訳している。
しかし、「隣人」とは誤訳で、もともと、「人類一般」としてもよいような曖昧性があったのだ。そう、これから「りんじん」と書いたほうがよいかもしれない。