猫じじいのブログ

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人は神の道具、神には計画が、映画『サイモン・バーチ』

2019-05-30 20:13:52 | 映画のなかの思想


1998年のアメリカ映画『サイモン・バーチ』は、ヒットしなかったが、テレビで見るにちょうどよいサイズの感動的な映画である。
父のいない子どもジョーと、生まれたときから背が伸びないサイモンとの、12歳のときの友情物語である。

サイモンは背が伸びないので、いくつになっても、クリスマス劇では生まれたばかりのキリストの役、だから「神の子」と呼ばれる。こんなサイモンがつらいとき、口にするのが「自分は神の道具」「神には計画がある」だ。

12歳の年、ジョーの母がサイモンの打ったボールにあたって死んだ。
さらに、その冬、教会のクリスマス劇にジョーとサイモンの出た劇が、めちゃくちゃになり、牧師はサイモンが悪いと責める。このとき、本当に「人は神の道具」かと、サイモンが牧師に問うが、牧師は答えを避ける。

その直後の、幼い子どもたちを集めての教会キャンプで、バスが事故で川に突っ込む。引率の牧師は気を失って倒れ、運転手は逃げ出す。そのなかで、サイモンは立ち上がり、非常ドアを開け、子どもたちを一人ずつ、逃がす。サイモンが「自分は神の道具」「神には計画がある」を確信する瞬間である。そして、この事故がもとで、サイモンはヒーローとして死ぬ。

脇のストリーとして、この事故の直前に、ジョーの父は牧師である、とサイモンとジョーが知る。ジョーは不倫の子だ。事故後も牧師は社会にそれを隠し続ける。
障害者のサイモンは聖なる思いを象徴し、牧師は現実を象徴する。

この映画の各登場人物のキャラクターはステレオタイプ的だし、ストリー展開にも無理がある。
背の伸びないサイモンの打ったボールで、なぜ、ジョーの母が死なないといけないのか。なぜ、子どもたちを助けた後、サイモンが肺炎で死なないといけないのか。
それでも、「人は神の道具」「神には計画がある」のテーマがあるから映画として成立する。

この「自分は神の道具」「神には計画がある」は、本当は聖書の言葉ではない。聖書の「誤読」から生まれたものである。

「人は神の道具(Man, the Instrument of God)」はイザヤ書10章15節にもとづくといわれる。が、自分の力でユダ王国を滅ぼしたと言うアッシリア王の「ごう慢さ」に、イザヤが怒って、「アッシリア王は(神の)斧かノコギリにすぎない」と言っただけである。
一方、映画では、サイモンに「神の道具」を「人には何かの役割があり、生きることに意味がある」こととして、言わしている。

同じように、「神には計画がある(God has plans for you)」はエレミア書29章11節にもとづくといわれるが、元の意味は異なる。この神の計画とは、「70年たったら、あなた方ユダヤ人がバビロン捕囚から帰還できる」ことである。

サイモンの言葉を通して、映画は、「どんな出来事にも肯定的な意味がある」と、観客を励ましている。

キリスト教には「霊にもとづいて聖書を読む」という伝統がある。元の意味からずれていても、それが人間を幸せに導く「誤読」なら、「霊にもとづいて読む」ということになる。