6月6日の朝日新聞に、本田由紀が『鉄筆とビラ』(同時代社)の書評を書いていた。
鉄筆とは、昔、同人雑誌やビラなどを謄写版印刷するとき、その原紙に文章や絵を書くときに使う道具である。ロウの塗った原紙を「やすり」状の鉄板の上に置いて、鉄筆で線を書くと、やすり目に合わせて原紙に小さい穴があき、インクをつけたローラーを押しつけると、その穴からインクがにじみだし、文章や絵が印刷できるという、仕組みだ。
本書の『鉄筆とビラ』の副題は『「立髙紛争」の記録 1969-1970』である。だから、「ビラ」は、政治的主張を煽るための「アジビラ」である。「立髙紛争」は「都立立川高校扮装」の略である。「教育秩序に総反乱を!」と要求する一部の生徒によってバリゲード封鎖され、収束するまでに、書かれた膨大なビラをまとめたものであるらしい。
本田は書く。
〈この紛争の克明な再現からは、当時の高校生らの、荒々しいが賢明でかつ幼さもある思考と感情が、むせ返るように伝わってくる。〉
「教育秩序」に疑問を持ち、逆らうことは、人として当然のことで、支持する。一生、その思いを持ち続けて欲しい。
しかし、続くつぎの文には、ひっかかる。
〈「自己否定」を突きつけるバリ派により打ちのめされながらも、署名や話し合いを通じて民主的に学校生活を立て直そうとする生徒らの様子が胸に迫る。〉
「自己否定」が気にいらない。精神医学の立場からすると、「自己否定」は心を病む引き金となる。私は、NPOに来る子どもや自分の子どもに、「なにも悪くない、悪くない」と言い続けている。
他者に「自己否定」を突きつけることはいけないことである。
「自己否定」は「東大闘争」で出てきた言葉と言われる。たしかに、同時代に生きた若者として、私は「自己否定」という言葉を聞いている。「自己否定」とは、自分が「被害者」であるだけではなく、「加害者」でもあることを意識しろ、ということである。だから、それなりに、「自己否定」にも理がある。
しかし、「東大闘争」での「自己否定」は、それを超えて他者の「人格否定」になっている。人間は過去の記憶で動く機械にすぎない。他者との接触を通じて、新たな記憶を加えることができる。しかし、過去の記憶をすべて否定することは、自己を失うことであって、自分の脳を破壊する。
だから、「自己否定」は危険であり、人に しいては いけないことである。
いっぽう、バリケードを実行した「一部の生徒」はどのように扱われたのか。「バリ派の主導者の処分」は妥当だったのか。「一部」と書いてあるから、「先鋭集団」はもともと孤立していたのだと思われる。「先鋭集団」の孤立は、バリケードで解消したのか。多数派の生徒は「バリ派により打ちのめされる」だけでなく、バリ派との意思疎通をとったのか。「先鋭集団」も心が傷ついたのではないか。
「署名や話し合いを通じて民主的に学校生活を立て直そうとする」という表現に、多数派による少数派の排除が起きたのではという疑問が生じる。「民主的」という名のもとに、多数派が少数派に暴力をふるったのではないか。多数派はバリケードのなかにはいり、少数派とともに新しい日常を創りだし、「教育とはなにか」を考えることをしたのか、の疑問を私はもつ。
相手と共に体験することをempathyというが、empathyがなければ、多数派は署名や話し合いという形の暴力を少数派に ふるっただけである。
私の疑問が「取り越し苦労」であることを望む。
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