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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

引きこもったサリンジャー、映画『ライ麦畑の反逆児』

2019-12-22 18:03:04 | 映画のなかの思想
 
木曜日に妻と一緒にテレビで映画『ライ麦畑の反逆児』を見て、土曜日に図書館にサリンジャーの本を借りに私は出かけた。妻が、読みたいのに、サリンジャーの本を何冊ももっていたのに、それが見当たらないと言う。私は、自分のためにも、と4冊借りてきた。
 
妻は映画のタイトル『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』が良くないと言う。原題は “Rebel in the Rye”で、2017年のアメリカ映画である。少なくとも、「ひとりぼっちの」はおかしい。
 
映画でニコラス・ホルトの演じる色白で繊細で反抗的なサリンジャーが良かった。しかし、借りてきた本のサリンジャーの写真は、浅黒い「うまづら」で鼻がつぶれている。彼の父は、東欧の出身のユダヤ人で肌の色が褐色なのはしかたがない。映画は、読者の期待するイメージを視覚化するのだ。
 
“rebel”を反逆児と訳しているが、反抗する者のことである。昔、ジェムーズ・ディーンが『理由なき反抗』という映画に出ていたが、原題は “Rebel Without a Cause”である。適切な日本語訳は思いつかないが、要は、大人の社会にさからう不良なのである。自分に正直でありたい、うそつきになりたくないという、純粋であることを求めているだけなのである。
 
だから、日本でいえば、不登校の子や、引きこもりの子の気持ちに似ている。世間の常識にさからっているが、自分のこころに正直であるが、政府には反逆してはいない。
 
私は途中から見たので、映画に気持ちを入れ込むことができなかった。気持ちを入れ込まないと、サリンジャーはわがままな青年としか映らない。
 
サリンジャーは、出版社の人びとに“banana fish”ではだめで、“bananafish”でないといけないと言う。自分の写真を表紙にするなと言う。マーケテイング(販売活動)をしなくてもよいと言う。
 
サリンジャーは、町でチンピラに因縁をつけられたとき、自分は「帰還兵」であると言うが、結局殴られる。
 
サリンジャーは町ではじめてあった青年に、「どうして、自分のことをこんなに知っているの、自分はホールデンだ」と言われて、いやな思いをする。映画では、その青年の役をチビデブにしているのが、ちょっといただけない。サリンジャーが容姿に偏見をもっているように見える。この青年も主役と同じく、色白の繊細な少年にすべきだった。
 
サリンジャーが、田舎に引きこもったとき、地元の高校生のインタビューを引き受けるが、その高校生が新聞社に記事を売ったことに傷つく。どうして、彼が高校生を信頼したのか映画ではよくわからない。傷つくためには、信頼するステップがいる。直観的に信頼したというのは、映像化が難しい。
 
借りてきた、映画の原作といわれる、ケネス・スラウェンスキーの『サリンジャー 生涯91年の真実』(晶文社)を読んで、はじめて、サリンジャーの気持ちを理解できる。原題は “A Life Raised High”だ。
 
サリンジャーを理解するに2つの要素が必要だ。
 
第1は、両親との関係だ。父親は苦労して成功した食肉業者だ。第2は、第2次世界大戦で防諜員として参戦したことだ。
 
父親は、サリンジャーが実社会に背を向けているのを理解できない。しかし、別に、サリンジャーに暴力をふるうわけではない。サリンジャーも父親の指示にしたがうが、しかたがなくといった態度である。
 
サリンジャーは父の生き方が好きではないが、自分の生き方に確信があったわけではない。なんとなく、作家しかないと追い込まれていく。ただ、素晴らしいものを、こみ上げてくる魂の叫びを文章にしたいと思う。傑作だと思って書いたものが、出版社によって拒否される。お金のために読者に媚びたものが、受理される。
 
出版社は売れるために書き直しを要求する。内容も改め、長さも出版に都合がよいよう短くさせる。書き直しに編者員が加わる。本のタイトルを勝手に変える。
 
これは、現在の日本のマンガ出版業界と同じだ。出版社の方が力をもっており、傲慢になっている。
 
防諜員として第2次世界大戦の参戦も、サリンジャーを理解するカギだ。単に多数の人びとが死んだだけではない。防諜員として、すなわち、より醜い役回りを戦争で行うわけだ。防諜員とは、捕虜を尋問して軍事情報を得るだけでなく、普通の市民をも尋問して、反米的な人間を摘発するわけだ。その結果が相手の死にいたることもあるだろうし、尋問の過程に暴力もあるだろう。
 
サリンジャーが徴兵されたとき、親元を離れ、自活でき、しかも著作に専念できると考えていた。ずいぶん身勝手だが、お坊ちゃんのサリンジャーらしい。確かに、最初は新兵教習所の教師役をもらえた。ところが、サリンジャーがドイツ語やフランス語を話せることが軍上層に気づかれ、1944年のノルマディー上陸作戦から、防諜員としてヨーロッパの最前線に投げ込まれたのだ。
 
だから、サリンジャーは自分を「帰還兵」だ、自分は戦争で変わったのだ、と主張したのである。
 
最後になるが、図書館に行って驚いたのは、以前に野崎孝訳でよんだサリンジャーの著作が、同じ出版社から村上春樹訳ででていることだ。
 
白水社からは、野崎の『ライ麦畑でつかまえて』に代わり、村上の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が出版されていた。新潮社からは、野崎の『フラニーとゾーイー』に代わり、村上の『フラニーとズーイ』が出版されていた。私の印象では、村上の訳は、文章に緊張感がかけ、失敗のように感じた。英文を読んでいないが、都会の引きこもりの緊張感のある話し方が、サリンジャーの作品にあっていると思う。これも、自分勝手な私のイメージだが。

靴を取り上げられたセールスマンの映画『ビッグ・フィッシュ』

2019-11-25 22:37:54 | 映画のなかの思想

『ビッグ・フィッシュ』(Big Fish)は、ティム・バートン監督による2003年のアメリカ映画である。

不倫していたのではと父を疑っていた息子が、死にいく父をふたたび信頼するという物語だ。

父親が浮気をして離婚となると、子どもは非常に傷つく。NPOで私の担当の子どもにも、そういう子がいる。今年20歳になったが、まだ傷ついている。自分が父の浮気に気づいて、母親に告げ口をしたから離婚になったと思い込んでいる。自分を責めるだけでなく、セックスをとても不潔でいやらしいものように思うようになっている。

この映画の場合は、父と母は離婚していないので、息子が傷つくまではいっていないと思う。

映画での父は、息子と母を家に残して、町から町へと旅するセールスマンであった。子どものときの息子は、帰ってきた父の冒険談をワクワクしながら聞いていた。大人になった息子は、父の冒険談はみんなウソだと思うようになる。そればかりか、父は浮気をしていて家に帰ってこなかったのではと疑い出す。

映画は、父が死にかけているとの母からの連絡で、両親のもとに戻り、父の最後に立ち合い、埋葬するまでの息子を追う。

そのあいだに、とてつもなく大きい巨人とかシャム双生児の娘とか大学時代や朝鮮戦争やサーカスでの活躍とか、父のいろいろな冒険談の思い出がつぎつぎと挟まれる。その中で、一番だいじなのは、森の奥に秘密の町を発見する話だ。

森の中の大きな人食いクモから逃げると、突然、目の前が開ける。明るい陽の光のもとに町が開ける。町の入り口には、たくさんの靴がぶら下げてある。
町の名はスペクター(Spectre)という。
町のみんなは、父を歓迎して、お祭りをしてくれる。町長の幼い娘は、父に町に残ってくれるよう、靴を取り上げる。町のみんなは裸足なのだ。

YouTubeには、靴のぶら下がった町スペクターの撮影現場の跡の動画が多数投稿されている。それほど印象深いシーンなのだ。

これは、思いもかけないところで、隠れたコミュニティを偶然発見したときの喜びなのだ。私も町を放浪する趣味がある。昨年、思いもかけないところに、小さいがにぎやかな商店街を見つけた。人びとがつどっていた。もう一度訪れようと思うが、道順が思い出されない。

映画では、結局、父は町スペクターから裸足で逃げ出した。

父の冒険談には、大きくなった町長の娘と偶然再会するという、続きがある。自動車でセールスの旅に出たとき、ひどい雨にあい、気づいたら、車ごとの湖の底だった。雨があがったら、すぐそばに大人になった娘の家を発見する。

ここで父の冒険談が終わるので、息子が父の不倫を疑ったのである。両親のもとに戻った息子は、父の所有物を整理しているとき、偶然古い証書を見つけ、そこに名前の記された女性ジェニファーに会いに行く。荒れ果てた家に1人で住むジェニファーから父の冒険談の続きを聞いた。父は、大恐慌で荒れ果てた町、スペクターを再建しようとがんばる。証書はそのときのものである。

この話をジェニファーから聞いたことを転機に、息子は父を信頼する。そして、病院から逃げ出した父が、巨大ナマズに変身し湖を泳ぐ作り話を、息子は死にいく父に聞かす。

墓に埋葬する日に集まった父の友人たちが、父の冒険談にでてきた人たちにそっくりなのに、息子がこころよい幸福感を感じるところで映画は終わる。父は大げさだったが、嘘つきではなかった。家族をだましていない。
アメリカの美しい田園風景がふんだんに見られる懐かしい映画である。

ファシズムの到来を予感させる映画『メトロポリス』

2019-09-10 23:54:23 | 映画のなかの思想

『メトロポリス』(Metropolis)は、1927年に公開されたドイツのサイレント映画で、SF映画黎明期の傑作とされている。『スター・ウォーズ』に出てくるロボットC-3POは、この映画に出てくる女のロボット、アンドロイド・マリアをモデルとした、と言われている。

いっぽう、『タイムマシン』や『透明人間』を書いたSF作家のH. G. ウエルズは、愚かな(silly)映画と評した。

私は、『メトロポリス』を劇場で見たことがなく、YouTubeだけなので、映像についてコメントできない。ここでは、シナリオの観点から論じてみる。この場合でも、もとのバージョンが失われているので、その点でも、留保付きの感想である。YouTubeにはドイツ語版と英語版とがあるが、いずれも、Kino International (2010)のコピーのように思える。
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YouTube版『メトロポリス』を見ても、どのような社会を設定しているのか、私にはわからない。見てわかるのは、地上の世界と地下の世界と別れていることだけだ。
地下の世界には、労働者たち(workers)の住む住居がある。
地上の世界には、たくさんのビルがあり、役所があり、図書館があり、たくさんの自動車が走っており、「YOSHIWARA」というダンスホールがある。
問題は、選挙制度があるのか、職業の自由があるのか、公共の学校があるのか、社会制度がわからないことだ。

映画の主人公フレーダーは、地上の世界の主人フレーダーセンの息子で、男たちと走ったり、女たちとたわむれたりして、地上のビルの屋上で遊んで暮らすが、ある日、偶然、地下の世界から子どもたちを連れて上がってきたマリアを見て、一目ぼれをする。フレーダーがマリアを追って、地下の世界に降りるという冒険物語である。

このフレーダーセンは独裁者なのかどうか、わからない。ビルの最上階で事務員の前を行ったり来たりする、背広を着た男である。この男がメトロポリス全体の支配者だというイメージがつかない。銀行の頭取のように見える。

イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒトラー、ソビエト連邦のスターリンは軍服を着て、いかにも独裁者らしく、大衆の前に姿を現す。

しかし、フレーダーセンは大衆の前に姿を現すことはない。彼が支配者なら、大衆から見えない支配者である。

地下に住む労働者たちはエレベータに乗って、職場に来る。全員同じ制服を着て、うなだれて歩く。労働者たちは計器を見て必死で制御しているだけである。まるで、「京急」の運転士のようだ。仕事はどうもメトロポリスの火力発電機を制御しているという設定のようである。

マリアは、カタコンベ(地下の墓所)に労働者たちを集めて、メトロポリスの創造神話(バベルの塔)を話し、脳(HIRN)と手(HÄDEN)の仲介者(MITTLER)が現れるのを待つよう説教する。フレーダーはこの集会にくわわり、自分こそ仲介者だと思い込む。いっぽう、その場を隙間から目撃したフレーダーセンは、労働者たちが決起するのを防ぐため、マリアとそっくりの人造人間をつくって、労働者たちとマリアのなかを裂くように、科学者ロトワングに命令する。

科学者ロトワングは、フレーダーセンに復讐するため、にせマリア(人造人間)に、機械を破壊するよう、労働者たちを煽らせる。機械の破壊はメトロポリスの停電を導き、労働者たちの住む地下の住居をも水に沈める。

本当のマリアとにせのマリアの違いを、表情と動作、特に首の動きで演出している。

私には、ひとりの仲介者の出現を待つように教える本当のマリアも不気味である。暴動を起こす大衆も怖いかもしれないが、ひとりの仲介者に従順に従う大衆はもっと怖い。映画『メトロポリス』は労働者たちを没個性の大衆として描いているのだ。まさに、これこそ、ファシズム、ナチズム、スターリニズムの予兆ではないか。

ナチスの宣伝相ゲッべルスは、この映画を気にいり、ナチスの映画を作らないかと、監督のラングを誘ったといわれている。

映画『メトロポリス』は共産主義のメッセージを伝えている、とアメリカで批判された、とウィキペデイアにある。これが何なのか、わからないが、本当のマリアが語ったメトロポリスの創造神話で、バベルの塔の頂点に、“GROSS IST DIE WELT UND IHR SCHÖPFER UND GROSS IST DER MENSCH”と書くことを建設の目的だとしたことのような気がする。後半の意味は「人間たち(DER MENSCH)は偉大だ」という意味で、大衆の決起を促しているとも解釈できる。

映画は、メトロポリスの主人フレーダーセンと心臓部の機械の保守係のグロトとの握手をフレーダーが仲介することで終わる。次のメッセージがでる。

 MITTLER ZWISCHEN HIRN UND HÄDEN MUSS DAS HERZ ZEIN!
  (脳と手の仲介者は心臓(ハート)であるべし!)

私も、H. G. ウェルズが言ったように、この映画のシナリオを愚かだと思う。民主的だと言われるヴァイマル共和政時代に製作されたドイツ映画だが、大衆がその共和政に参加できていなかったことをうかがわせる。

病気を吸い込み治す大男の死刑囚、映画『グリーンマイル』

2019-07-14 21:36:47 | 映画のなかの思想


『グリーンマイル』(The Green Mile)は、スティーヴン・キングの小説を原作とした1999年のアメリカ映画である。話はこうである。

死刑執行の刑務所に、ひとりの大きな黒人が送られてきた。

その大男は、病気を治す不思議な力をもっていた。意地悪な看守が、囚人に飼われていたネズミを踏みつぶすと、大男はネズミを生き返らせるのである。そんな とても 優しい心の持ち主であった。

看守たちは、その大男が無実だと気づき、かれに脱獄するように勧めるが、「毎日のように、世界中の苦しみを感じたり聞いたりすることに疲れたよ」と言って、そのまま、電気椅子で処刑される。

そんな心の優しい不思議な大男ジョン・コーフィの物語である。大男の役のマイケル・クラーク・ダンカンは、これで、アカデミー助演男優賞を得た。

ジョン・コーフィは病気を治すのに、病気の邪気を吸い込む。苦しみながら吸い込み、吸い込んだ後、疲れ果てる。

じつは、人の病気を治すには不思議な力がいるが、人の心の悩みをいやすには不思議な力がいらない。

だれでもが、だれかの心の悩みをいやすことができる。別に、宗教の力も いらない。

悩みをいやしてあげたいという気持ちがあれば、できるのだ。しかし、それは大変なことなのだ。不思議な力が要らないが、人の悩みを吸い込んで無害にするには、大変な思いをし、疲れはてる。グリーンマイルの大男の場合と同じだ。

私は、NPOで8年前から子どもたちの相手を始めて、不思議な力が要らない、誰でもできる、と気づいた。寄り添うことは、相手にリスペクト(敬意)を払うことである。

しかし、人の悩みを背負うことは疲れはてるから、できる範囲で良い。

悩んでいる人、苦しんでいる人は、子どもに限らない。心の悩みで苦しんでいる人が世の中に いっぱい 居る。だから、ほかの人を助ける人がいっぱい 要る。精神科医は薬を出して病気を治すが、悩みや苦しみには、付き合わない。

妻が私に寄り添ってきてくれたから、70歳になっても、まだ、NPOで働けた。しかし、体が動かなくなるだけでなく、最近、頭も働かなくなってきた。いずれ、私も「疲れたよ」と言って、誰かにバトンタッチする日が来る。

アメリカ憲法と自由と赤狩り、映画『マジェスティック』

2019-06-12 22:38:28 | 映画のなかの思想


『マジェスティック(The Majestic)』は、まったくヒットしなかった2001年公開のアメリカ映画である。製作費7200万ドルで、全世界の興行収入が3700万ドルであった。

この映画は、とても不都合な事実、アメリカ人の忘れたい過去を扱っている。戦争で自分の息子を失った親世代、そして、赤狩りで沈黙を強いられる若者世代の物語だ。

「赤狩り」は、英語で“red scare”と言い、「かかし」の“scare crow”の語順が ちがう。前者は「赤を恐れる」ことで、後者は「カラスを脅す」ことである。

「赤」とは共産主義者を指し、アメリカ人にとって、“red scare”とは、共産主義者が怖いという社会的パニックをいう。具体的には、魔女狩りのように、アメリカ議会の委員会が、次々と人に共産党員の疑いをかけ、公聴会で自分が共産主義者である告白させ、他の共産党員を密告させるものである。

複雑な映画のプロットを簡単に説明すると次のようになる。
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1951年、酔った青年が海岸線にそって車を運転し、橋から落ちて、記憶を失う。助けられ、青年は田舎町に連れていかれる。青年の顔が、第2次世界大戦で行方不明になった町の英雄ルークにそっくりだった。大戦で息子たちや恋人を失って元気をなくしていた田舎町の人たちは、行方不明のルークが戻ってきた、と喜ぶ。

青年は、自分がルークだと受け入れ、町のみんなや、ルークの恋人アデルや、ルークの父ハリーのために、尽くす。
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青年は、閉じられていたハリーの映画館、マジェスティックを再建する。再建された映画館の最初の上映の日に、ハリーが倒れる。いっぽう、青年は、上映されている映画のポスターを見て、その脚本を自分が書いたこと思い出し、ルークでないと気づく。

しかし、青年は、死にゆくハリーに息子ルークとして演じる。

ハリーの葬式の後、ルークの恋人アデルに自分はルークでないと告白する。そして、赤狩りの公聴会に被疑者として出席するために、町を去る。このとき、法律の勉強していたアデルから、ポケット版憲法書とルークの手紙、勲章を、青年は受け取る。
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赤狩りの公聴会で、共産党員だと告白し、ほかの党員を密告するよう、強要される。青年は、突然、嘘の証言をしてはいけない、と思う。ポケット版の憲法書とルークの勲章をかざし、アメリカは 憲法の のべるように 自由の国で、戦争で自由のために死んでいった若者たちのためにも、嘘の証言はできないと叫ぶ。

この公聴会は全国に放送されていた。騒ぎを起こさないため、公聴会はすぐ終了され、青年は無罪放免となった。

青年は映画業界に戻らず、アデルの住む田舎町に戻る。そこには、アデルだけでなく、放送を聞いていた町のみんなが出迎えに来てくれた。
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思想信条の自由、言論の自由、団結の自由を否定することなんて、あってはならない。

この映画は、ヒットするに難しい話題を扱っている。しかし、忘れたい過去を映画化することは、忘れないために必要なことである。

無理にコメディ映画とするのではなく、困難な時代に、普通の青年が、勇気をふるって良心にもとづく小さな抵抗をするという、地味でメロドラマ的な映画に徹した方が良かったと思う。