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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

人生は箱の中のチョコレート、映画『フォレスト・ガンプ/一期一会』

2019-06-11 21:16:04 | 映画のなかの思想



『フォレスト・ガンプ/一期一会(Forrest Gump)』は、日本でもアメリカでも大ヒットした、1994年公開のアメリカ映画である。

主人公のフォレスト・ガンプは、シングルマザーの子で、知的能力障害(Intellectual Disability)で、しかも、学童期には背骨の矯正装身具をつけていた、いじめられっ子である。それなのに、周りの人間が 不幸なままなのに、主人公は、どんどん成功し、お金持ちになっていく、という物語である。

多くの人の願っている おとぎ話だからから、ヒットしたのである。

“Mam always said life was like a box of chocolates. You never know what you're gonna get”(人生て箱の中のチョコレートみたいもの、(食べないと)おいしさが分からない、とママがいつも言っていた)
というフォレストのつぶやきセリフも大ヒットした。

そういえば、講演で、言語聴覚士の中川信子は、「発達障害児」を抱える親に向かって、「自分の子がどんな大人になるか、神様からもらった球根だと思って、どんな花が咲くか、楽しみにして、毎日毎日世話をしてください」と言っていた。彼女の言葉はフォレストのセリフと相通じるものがある。
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フォレストは、知能テストの成績が悪くて、田舎の小学校の入学を拒否されたが、母親が校長と交渉して、入学が許可される。

このとき、校長は、フォレストのIQが75点だから、入学させられないと言った、と私は記憶している。アメリカで、こんなことで、入学を拒否できるのか、拒否された子どもは、どこに行けば良いのか、と思ってしまった。

IQは、知能テストの成績を、100点が平均で、15点が標準偏差になるように、調整した、知能指数である。アメリカの精神医学会では、伝統的に、IQが70を知的能力障害か否かの境としてきた。

しかし、2013年発行の最新の診断マニュアルDMS-5は、IQがあくまで参考値で、生活や社会での行動能力で、診断すべきであるとする。すなわち、平均から大きく離れたIQの値は、信頼できないということである。診断基準となる能力は、ひとりで食事できるか、ひとりで排泄できるか、ひとりで公共交通機関が利用できるか、ひとりで買い物ができるか、などである。

映画を見ていると、フォレストは、バスを利用でき、アイスクリームを路上で買って食べることができる。さらに、運動神経抜群で、アメフットの選手として大学にはいり、ベトナム戦争に兵士として参戦し、上官の命を救い、勲章を授与されるのである。彼は、DMS-5の基準では、知的能力障害でなく、単に「とろい」、「勉強ができない」ということになる。

映画の中で、フォレスト役のトム・ハンクスは、どもっているような話し方をするが、決して南部訛りではない。南部訛りは、ゆったりしたペースで歌うように話す。日本で良く聞く、強いアクセントの話し方は、北部訛りである。トム・ハンクスの演技はほめたものではないが、成功物語を期待している観客には、ステレオタイプ的な演技が心地よいのだろう。
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フォレストの永遠のマドンナ(ヒロイン)となるのが、ジェニーである。フォレストの最初のスクールバスでの登校時に、だれも相席させてくれないなかで、彼女だけが、隣に座らせてくれたのである。子どもたちにいじめられるフォレストに 彼女は よりそう。その彼女は、家では性的虐待を受けている。彼女が自宅に向かって石を投げるシーンが印象的である。そして、父親が逮捕され、彼女は親戚に引き取られる。

フォレストが、そのジェニーと再会するのは、フォレストが国会議事堂でジョンソン大統領から勲章を授与される日である。授与式の後、間違って、反戦集会に紛れ込んでしまう。そこで、反戦活動リーダの女になって、虐待されているジェニーを見つける。活動家たちがドラッグまみれのきたならしい無法者として描かれる。(この映画製作者は、権力に逆らう者がきらいなのかな。)

次に、フォレストが、ジェニーと再会するのは、母が死んだあと、実家にひとりで住んでいるときである。自殺しようとしたジェニーが、フォレストに会いに来たのである。一夜をともにした後、ジェニーは夜明け前に黙って去る。

最後に、フォレストが、ジェニーと再会するのは、彼女が死ぬ直前である。ジェニーは、あの夜、フォレストの子をみごもり、生み、フォレストと名づけ、ひとりで育てる。彼女は、死ぬ前に、その子を託すために、手紙でフォレストに呼び出したのである。フォレストは、自分の子を見て、頭が良いと喜ぶ。

ジェニーは、フォレストと結婚式を挙げた後、ほどなくして死ぬ。
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この映画は、人が、陽気で、お人好しで、愛国者で、能力がなくても、努力しなくても、悪知恵を働かせなくても、運が良ければ、金持ちになれる、という、おとぎ話である。

ジェニーは、なぜ、不幸に次々と襲われ、死なないといけないのか。反戦活動家が、なぜ、ろくでもない人たちとして、描かれるのか。それも、アメリカン・ドリームのおとぎ話であるからだ。


ぼくユニーク? 愛されること、映画『A.I.』 

2019-06-07 22:52:35 | 映画のなかの思想


TSUTAYAの映画クチコミ・レビューのMYUSUKEの書き込み、
 切ないでしかない。
 どうしようもできんこの感じ、凄い悲しかった。
 母親が森に置き去りにするとこで、涙腺崩壊。
 みんなが公開処刑されるシーンは心が痛い。
 とにかく泣いた。
が、映画『A.I.』の感想にもっとも適切だ、と私は思う。

主人公デイヴィドに自分を投影できるか否かで、この映画の評価が大きく変わる。あまり、予備知識をもたずに、この映画を見る方が良い。

私は、初めてこの映画を見たとき、映画の始まりの部分を見損なったので、なぜ、ディヴィドがこんな理不尽な目に合うのか、わからなかった。

また、ディヴィドが、何度も、自分がユニーク(unique)だね、と、周りに尋ねるのが、記憶に強く残った。

ディヴィドが、なぜ、兄弟のマーティンに意地悪をされるのか、なぜ、子どもたちに仲間外れにされるのか、母モニカに愛されているのに、なぜ、森に置き去りにされ、逃げまわらなければならないのか、なぜ、自分やロボットたちが、処刑ショウで、人間たちに なぶり殺されなければならないのか、私は わからなかったのだ。

ディヴィドがロボットであることを受け入れるのに、私は時間がかかった。

後半では、ディヴィドは、ロボットであるから母モニカと別れなければならなかったと思い、人間にしてもらおうと、ピノキオの物語の「青の妖精(The Blue Fairy)」を探しに、熊のぬいぐるみのテディとセックスロボットのジゴロ・ジョーと、長い冒険の旅にでる。

「ユニーク」という語が、かくも、人と物を峻別する語であることに、かくも、本当に愛されているのかを確認する語であることに、この映画で衝撃を受けた。

ユニークとは、「掛け替えのない大切な存在」という意味なのだ。物は古くなると捨てられ、ごみ処理場で粉砕される。人は、秀でていなくとも、役にたたなくても、捨てられては いけないのだ。愛されるとは、愛する人にとってユニークなものなのだ。

ユニークという語にそんな重要な意味があると、私は、これまで気づいていなかった。

アメリカの精神医学会の出している診断マニュアル5版(DSM-5)に、パーソナリティの機能モデルがでている。この機能が失調したとき、パーソナリティ障害と診断する。この機能は4要素からなっており、その1つ、「自己(self)の同一性(identity)」の説明にユニークという語が出てくる。

問題の英文は、次である。
“Experience of oneself as unique, with clear boundaries between self and others. ”

この部分は、日本語訳DSM-5(医学書院)では、次のように訳されている。
ただ1つだけの存在として自己と他者との間の境界もって自身を体験すること」

私は、この文を読んだ後、長らく、しっくりとこなかった。しかし、映画『A.I.』を見て納得がいった。「自分(oneself)が掛け替えのない大切な存在(unique)であることを日々の生活のなかで感じること(Experience)」を言っているのだ。

この映画が切ないのは、ロボットのテディやジゴロ・ジョーが命がけで献身的にディヴィドを愛しているのに、ディヴィドは気づかず、人間になって、母モニカに「ただ1つだけの存在」として愛されたいと願うことだ。母モニカを恋人に置き換え、ロボットを非白人、民、あるいは、障害者に置き換えれば、いかに切ないか、「どうしようもできんこの感じ、凄い悲しかった」と叫ぶしかないか、わかってもらえるだろう。

愚かしく生きること、映画『俺たちは天使じゃない』

2019-05-31 11:43:02 | 映画のなかの思想


1989年のコメディー映画『俺たちは天使じゃない(We're No Angels)』は、びっくりするほど、人によって評価が違う。
大多数は、こんなひどい映画は見たことがない、入場料 5ドルを返せ、と言う。ところが、少数だが、こんな感動する映画は見たことがないと言う人もいる。
酷評は、ロバート・デ・ニーロの演技が大げさすぎること、ストーリー展開に無理があることから、当然だと私は思う。
一方、ある少数の人を感動させるのは、宗教的メッセージが背後にあるからである。

ストーリーは、二人の囚人、ネッドとジムが、死刑囚ボビーの脱獄に巻き込まれ、カナダの国境近くの小さな田舎町に逃げ込む。二人は神父と間違えられ、修道院に潜り込み、そこで、カナダに脱出する機会を伺う。修道院の聖母マリア像をカナダの修道院に運ぶ祭りがあるので、二人はその行列に参加しようとするが、奇跡を招く障害者を連れてくるよう言われる。ネッドはおし(唖)の娘をもつ女、モリーにその娘を貸してくれと願うが、500ドルを払えと言われ、話しが成立しない。

祭りの当日、たまたま、ニセ神父のジムがくじで説教の役に当たる。ジムの苦し紛れの説教が町のみんなを感動させ、モリーは娘をネッドに手渡す。ところが、一緒に脱獄した死刑囚ボビーがその祭りに現われ、追って来た警察隊に撃たれる。ニセ神父ネッドは瀕死のボビーの教誨師に呼ばれるが、聖母マリア像の後ろにボビーを隠して逃がそうとする。

そして、聖母マリア像を運ぶ行列が始まる。カナダへの橋の中央にきたとき、聖母マリア像の手からボビーの血が流れる。みんなは奇跡だとひれふする。ボビーは見つかったのだと思い、おしの娘を人質にとり、山車からおり、即座に、警察隊に撃ち殺される。そのとき、聖母マリア像が倒れ、娘を橋の下に叩き落す。ネッドは娘を追って、橋の下に飛び込む。ネッドは娘を水中で捉えるが、そのまま、ダムの放水路に流れ落ちる。聖母マリア像も放水路を流れ落ち、ネッドと娘はそれにしがみついて助かる。

そして、また奇跡が起こる。おしの娘が声を発したのである。「脱獄囚」と言う。聞いた修道院の院長は「君たちは改宗者だね」と言うだけである。ネッドは娘と母親とともにカナダに渡り、ジムは本当の修道士になるため、修道院に戻る。

この映画がコメディーであるのは、修道士たちや院長が、徹底して、お人よしで、善意と奇跡と聖母マリアを信じている、あるいは、信じようとしているからである。
また、映画製作者が、ロバート・デ・ニーロをネッド役にあてているので、ネッドが主役のようである。

しかし、私には、ジムの選択とネッドの選択が対等に、私には思える。ジムは、人を責めず、争わず、愚かしく生きること選択した。ネッドは、自由を求めてカナダに逃げることを選択した。

ジムの選択した生き方は、弱い人たちが寄り添って生きることを可能にする。
もちろん、これが、多数のカトリック信徒たちの考え方か、映画製作者の願いなのかは、私にはわからない。

人は神の道具、神には計画が、映画『サイモン・バーチ』

2019-05-30 20:13:52 | 映画のなかの思想


1998年のアメリカ映画『サイモン・バーチ』は、ヒットしなかったが、テレビで見るにちょうどよいサイズの感動的な映画である。
父のいない子どもジョーと、生まれたときから背が伸びないサイモンとの、12歳のときの友情物語である。

サイモンは背が伸びないので、いくつになっても、クリスマス劇では生まれたばかりのキリストの役、だから「神の子」と呼ばれる。こんなサイモンがつらいとき、口にするのが「自分は神の道具」「神には計画がある」だ。

12歳の年、ジョーの母がサイモンの打ったボールにあたって死んだ。
さらに、その冬、教会のクリスマス劇にジョーとサイモンの出た劇が、めちゃくちゃになり、牧師はサイモンが悪いと責める。このとき、本当に「人は神の道具」かと、サイモンが牧師に問うが、牧師は答えを避ける。

その直後の、幼い子どもたちを集めての教会キャンプで、バスが事故で川に突っ込む。引率の牧師は気を失って倒れ、運転手は逃げ出す。そのなかで、サイモンは立ち上がり、非常ドアを開け、子どもたちを一人ずつ、逃がす。サイモンが「自分は神の道具」「神には計画がある」を確信する瞬間である。そして、この事故がもとで、サイモンはヒーローとして死ぬ。

脇のストリーとして、この事故の直前に、ジョーの父は牧師である、とサイモンとジョーが知る。ジョーは不倫の子だ。事故後も牧師は社会にそれを隠し続ける。
障害者のサイモンは聖なる思いを象徴し、牧師は現実を象徴する。

この映画の各登場人物のキャラクターはステレオタイプ的だし、ストリー展開にも無理がある。
背の伸びないサイモンの打ったボールで、なぜ、ジョーの母が死なないといけないのか。なぜ、子どもたちを助けた後、サイモンが肺炎で死なないといけないのか。
それでも、「人は神の道具」「神には計画がある」のテーマがあるから映画として成立する。

この「自分は神の道具」「神には計画がある」は、本当は聖書の言葉ではない。聖書の「誤読」から生まれたものである。

「人は神の道具(Man, the Instrument of God)」はイザヤ書10章15節にもとづくといわれる。が、自分の力でユダ王国を滅ぼしたと言うアッシリア王の「ごう慢さ」に、イザヤが怒って、「アッシリア王は(神の)斧かノコギリにすぎない」と言っただけである。
一方、映画では、サイモンに「神の道具」を「人には何かの役割があり、生きることに意味がある」こととして、言わしている。

同じように、「神には計画がある(God has plans for you)」はエレミア書29章11節にもとづくといわれるが、元の意味は異なる。この神の計画とは、「70年たったら、あなた方ユダヤ人がバビロン捕囚から帰還できる」ことである。

サイモンの言葉を通して、映画は、「どんな出来事にも肯定的な意味がある」と、観客を励ましている。

キリスト教には「霊にもとづいて聖書を読む」という伝統がある。元の意味からずれていても、それが人間を幸せに導く「誤読」なら、「霊にもとづいて読む」ということになる。

映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』、移民と星条旗

2019-05-19 21:03:29 | 映画のなかの思想


2002年の映画「ギャング・オブ・ニューヨーク」の原題は、Gangs of New Yorkで、ギャングでなくギャングズである。

タイトルからは暴力団抗争のように聞こえるが、アイルランド系移民と星条旗に忠誠を誓う者たちの抗争である。この2つに、ニューヨークのスラムに住む人々が分れて抗争していた1840年代から1863年が映画の舞台だ。

もっとも、この抗争がフィクションか歴史的事実か、私にはわからない。

しかし、アメリカが移民からの搾取で繁栄してきたのは、今も変わらない事実だ。また、この時代には、アイルランドで飢饉が起きて、大量の移民がアメリカに来て、最下層をなした。

この映画について日本のインタネットの書き込みを見ると、アイルランド系移民とWASPの抗争であるとか、WASPではなくスコットランド人との抗争だとか、プロテスタントとカトリックの抗争とか、色々な見方が書いてある。また、あらすじの書き込みさえも、同じ映画をみたはずなのに、互いに矛盾している。

確かに分かりにくい映画で、レオナルド・ディカプリオが出ている割には、ヒットしなかった。

この映画のテーマは、ニューヨークのスラムに住む人々が、移民であることを引きずって生きるか、星条旗のもとにアメリカ人として生きるか、に分断されていること、と私は思う。この抗争は、あくまでスラムの住人のなかでの抗争で、ニューヨークには、別に、金持ちと政治家とが特権的な暮らしをしている。その様子も映画で描かれている。

ディカプリオがアイルランド系移民派のリーダを演ずるので、移民派に、つい共感してしまうが、アメリカに次々と色々な国から移民が押し寄せるのだから、同郷意識だけでは、排他的になり、未来がない。本当は、自立したコスモポリタンとして、すべての人間と連帯するか、そうでなければ、星条旗をかかげるアメリカ人になるかしかない。

ダニエル・デイ=ルイスの演じるザ・ブッチャーは星条旗をかかげ、アイルランド系移民であろうとなかろうと、自分の手下に吸収していく。

そして、ディカプリオの移民派とデイ=ルイスの星条旗派の最終的決闘が行われる、その日に、南北戦争(American Civil War)のための徴兵に反対する暴動がニューヨークで起きる。特権階級は暴動を鎮めるため、スラムの住人をみさかいなく、艦砲射撃で殺していく。

ディカプリオとデイ=ルイスは艦砲射撃に吹き飛ばされ倒れるが、気づくと互いにすぐそばに倒れている。
ナイフで刺し合うが、デイ=ルイスが死に、ディカプリオが生き残る。
ディカプリオがヒロインのキャメロン・ディアスとともにニューヨークを去ろうとするシーンで映画が終わる。

スラムを二分して貧民同士が殺し合うより、愛し合うカップルとして生き残る方がましであるというのが、マーティン・スコセッシ監督のメッセージであるようだ。私は単に「ましである」だけだと思う。

いまのアメリカ国民の分断は、新しいアメリカが生まれるための必要なプロセスだと思う。2001年9月11日、同時多発テロの後、街頭で星条旗をふる群衆が現れたが、それは、いずれ、普遍主義に乗り越えられる、と信じている。