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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

映画『ガーンジー島の読書会の秘密』と戦争時の占領の記憶

2020-09-27 23:02:13 | 映画のなかの思想


2018年のイギリス・フランス映画『ガーンジー島の読書会の秘密』は、イギリスの若い女流作家がノルマンディー沖の小島の読書会を訪れ、愛が芽生え、結婚するという物語である。占領されるという戦争の記憶を扱いながら、美男美女が結ばれるというハッピーエンドの物語である。

映画の原題 “The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society”は、その読書会の名前である。直訳すれば「ガーンジー島の文学とジャガイモの皮のパイの会」となる。 “Guernsey”がその島の名前であるが、私には「ガーンジー」とは聞こえず、「グールンズィ」と聞こえる。発音記号で示せば、[ˈɡɜːrnzi]となる。

グールンズィ島はイギリス王室の属領だが、第2次世界大戦中、ドイツ軍に占領された。読書会の名前は、4人の島民が夜歩いていると、ドイツ軍の兵士にとがめられ、とっさに「グールンズィ島の文学とジャガイモの皮のパイの会から帰宅する途中です」と答えたことからくる。そして、本当に読書会を継続的に開くことになる。

私自身は読書会というものを経験したことがないが、映画では、誰かが本の紹介者になり、何ページかを朗読し、そのあと、メンバーが議論する形をとっていた。

戦後、1946年に、島を訪れた女流作家のジュリエットは、読書会に主催者のエリザベスがいないことに気づき、それを探り始める。読書会のメンバーにとっては、それは、秘めておきたい悲しい記憶であった。エリザベスはドイツ軍に連れられていき、戦争が終わっても戻ってこないのである。いっぽう、ジュリエットが宿泊した宿の女主人は、読書会のメンバーはウソつきで、エリザベスをドイツ軍兵士の子どもをやどした「あばずれ」とののしる。

ジュリエットが島に訪れるきっかけを作った読書会の一人(男)、ドースィ(Dawsey)は、エリザベスとドイツ軍兵士の愛は真剣で、その間に生まれた女の子を自分が育てていると話す。

映画は、ジュリエットとドースィの恋心に焦点を当てているので、なぜ、島の女とドイツ兵士に愛が芽生えたのか私にはわからない。たぶん、その兵士は優しい人なのだろう。その兵士が、兵営を抜け出て、エリザベスと密会していることを密告する島民がいて、島から追放されるが、載せられた船が連合軍の攻撃に会い、船ごと死んでしまう。

一方、エリザベスは、脱走した捕虜少年のために夜間に薬を取りに行くが、ドイツ軍につかまり、エリザベスは大陸の収容所送りになり、少年は射殺される。

ジュリエットはアメリカ人の婚約者にエリザベスの行方を調査してもらう。エリザベスが、収容所で少女を殴っている看守を止めようとして、射殺されたという知らせをもって、婚約者はジュリエットを軍用機で迎えに来る。

とても、複雑なプロットで、時間の制限がある映画では、どうしても、消化不良になる。じつは、読書会のメンバーが本当の家族であったのか、それとも、疑似家族であったのか、私にはわからない。私は、読書会というもののもつ力を信じたいので、疑似家族であって欲しいと思うが、映画では本当の家族であるようにも見える。

この後、イギリスにもどったジュリエットは、島の読書会メンバーと離れることに耐えられず、婚約者と別れ、ドースィに結婚を申し込むという結末で終わる。

第2次世界大戦終結から70年以上もたって、この映画が作られたのは、心の傷の記憶がまだイギリスやフランスの人々に渦巻いているのではないか。

婚約者など不要な登場人物を消し去り、外部からの侵入者のジュリエットが、読書会をとおして島民の戦争の心の傷を暴くことに焦点を絞ると、もっと、深みのある映画になっただろう。島の女が敵の兵士を愛することこそ戦争のもたらす悲劇の中心テーマになると思う。本作は、イギリス映画としては、メロドラマ的すぎる。

映画『オズの魔法使い』コミュニケーション力がないと悩むあなたに

2020-07-17 20:43:33 | 映画のなかの思想

コミュニケーション力が欲しいと息子に責めたてられると、私が小学生のとき見たミュージカル映画『オズの魔法使い』を、いつも思い出す

それは、竜巻に家 (house) ごと「オズの国」へ吹き飛ばされた少女ドロシーが、うち(home) にかえるため、大魔法使いに会い、悪い魔女を倒す冒険物語だ。

 ドロシーは、途中で、自分は賢くないと悩むカカシと、自分は優しい心がないと悩むブリキ男と、自分は勇気がないと悩むライオンと出会う。彼らは、大魔法使いオズに会って願いことを言うと、悪い魔法使いを倒したら、と言われる。4人は、助け合って、ついに悪い魔女を倒す。

ドロシーは自分をうちに返して、カカシは自分を賢くして、ブリキは自分に優しい心を、ライオンは自分に勇気をくださいとオズに言うと、ニセの魔法使いであるオズは、あなたがたの願いはすでにかなえられている、カカシは充分に賢く、ブリキは充分に優しく、ライオンは充分に勇気がある、と告げる。

最後にドロシーだが、良い魔女に教えられて、「おうちほど素晴らしところがない」という呪文を唱えると、目が覚めて「おうち(home) 」にいる。その枕元に、近所のカカシにそっくりの農夫、ブリキ男にそっくりの農夫、ライオンにそっくりの農夫がいて、ドロシーの意識が戻ったことをみんなで喜んでくれた。

 人は色々と能力がないと悩むものである。悩んでいるうちに能力がついてくる。けれど、自分でそれに気づくことはむずかしく、適切な人に適切に告知される必要がある。

 コミュニケーション力とプレゼンテーション力とは違う。相手が共感する心を持っていないと、コミュニケーションは続かない。相手に通じなかったからといって、くじけないように。

私と対話しているあなたには、すでに充分なコミュニケーション力がある。

マット・デイモンの出世作、映画『グッド・ウィル・ハンティング』

2020-06-15 00:03:09 | 映画のなかの思想
 
ひさしぶりに、妻とアメリカ映画『グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち』(1997年)をテレビで見た。今回見て、気づいたのは、Will Huntingの役を演じたマット・デイモンの初々しさである。マットの少年のような笑顔がかわいい。昔なかった感情である。私が年老いたのであろう。
 
映画は、子ども時代の虐待で、世の中に対して心を閉ざし、喧嘩ばっかりしている青年 Will Huntingが、彼の天才的能力に気づいた周りの人たちの働きかけで心を開き、女友達 Skylarを追って、ぼろ車でカリフォルニアに旅たつ、という物語である。
 
マットはこの映画で一躍スターになった。マットは1970年生まれであるから、この映画を撮影していたとき、26歳である。また、この映画の脚本を最初に書いたのはマットと友人のベン・アレックである。脚本を自ら書いて、マットとベンは、その映画化と自分の出演をあちこちに売り込んだのである。結局、新興の配給会社 MIRAMAXが映画化権を買った。そして、製作費千万ドルの映画が、北米で1億4千万ドル、全世界で2億2千万ドルの興行収入を上げる大ヒットになった。
 
マットとベンは、同じ東海岸の町ケンブリッジで育った遊び友達で、高校で演劇の授業をともに選択している。映画では、ベンがマットの兄貴分を演じているが、実際には、マットがベンの2歳上である。最初の脚本は、1992年にマットがハーバード大学の脚本の授業で与えられた課題製作である。課題は一人芝居の脚本であったが、マットは心を閉ざした天才少年の映画の脚本を書いた。この後、ハーバード大学を中退し、ロサンゼルスのベンのもとに行き、一緒に脚本を書きなおす。完成したのが1995年である。
 
マットもベンも、まだ演技が下手である。しかし、その素人臭さが、かえって初々しい。周りのわき役、精神分析医役のロビン・ウィリアムズ、MITの数学教授役のステラン・スカルスガルド、Skyler 役のミニー・ドライヴァーがみんな上手なので、マットとベンが素人臭くても、映画のリアリティは失われない。
 
マットの初期脚本で、最後まで残ったのは、Willと精神分析医の最初の出会いの場面であるという。精神分析医の死んだ妻に対する想いをWillがわからず、からかったことで、精神分析医が怒りを爆発するシーンである。
 
私も、NPOでの経験から、心を閉ざしている反抗的相手に対して、教育的配慮という上から対応より、ときに、生の感情を見せる対等な人間関係が良いと思う。
 
脚本で大きく変わった点は、Willがその天才性を発揮する分野を、物理学から数学に変えたことである。マットとベンは、ハーバード大学のノーベル物理学賞の教授に先端物理学の話しを聞きに行った。そのとき、物理学は個人的天才よりチームワークに移っているから、分野は数学にすべきだ、とその物理学教授は忠告し、義弟の数学教授を紹介した。マットとベンは、数学教授と彼の助手の話しを聞き、映画の脚本を変えた。
 
MIT大学の清掃人(janitor)をしていたWillの才能に最初に気づく教授を、フィールズ賞受賞の数学者にしている。フィールズ賞は数学の最も権威ある賞で、4年に1度、画期的研究をした40歳以下の数学者を選ぶ。
 
ところが、映画では、町の酒場の誰ひとり、そのMIT数学教授の名前を聞いても、フィールズ賞のことを聞いても、なんのことかわからない。ところが、セオドア・カジンスキーの名を言うと、酒場のみんながその名前を知っている。カジンスキーは、貧しい移民の子で、25歳で数学の助教授になり、2年後にその職を突然やめ、山に引きこもり、自然を破壊する現代社会への怒りから、爆破犯になった天才数学者である。
 
世の中の人びとは、数学の才能に関心がないのだ。テロリストにならなければ、どうでもいいのだ。
 
また、MITの数学教授は、自分とWillの関係をゴッドフレイ・ハーディとシュリニヴァーサ・ラマヌジャンの関係になぞらえる。ハーディはイギリスのケンブリッジ大学の数学の教授で、インドの無名のラマヌジャンの才能を見つけ、イギリスに呼び、一緒に数学の研究をした。ラマヌジャンは正規の数学の教育を受けていない伝説の天才数学者である。イギリスの風土が合わず病死している。
 
解体作業現場で働く兄貴分(ベン)は、Will(マット)が恵まれた才能を無駄にせず、社会的地位の向上を願うが、映画の最後のシーンでは、Willが女を追ってカリフォルニアにぼろ車で旅たつのである。これを「才能の開花よりも愛を選んだ」と見るか、「愛も才能の開花も選んだ」と見るか、この終わり方の意味が私にはわからない。
 
英語の解説を読むと、the story of a brilliant underachieverとか、Willのことをa brilliant but pugnacious slackerと書いている。underachieverとは成功しなかった者のことであり、slackerとはクズ野郎とか非国民という意味である。すると、この映画は東海岸の「敗者たち」すなわち「普通の人々」のための映画であることが間違いなく、Willが西海岸に脱出することで、もしかしたら、アメリカン・ドリームが実現するかもしれないという、希望をその「普通の人々」に残したものと思う。

美しい青銅色のおとぎ話、映画『ヒューゴの不思議な発明』

2020-05-13 23:55:47 | 映画のなかの思想
 
『ヒューゴの不思議な発明』は、2011年のマーティン・スコセッシ監督の初の3D映画である。2日前、私の妻は、テレビでこれを見て、とても面白いと言っていた。青銅色を基調とした美しい映像からなる おとぎ話である。5月23日(土)にテレビで再放送される。
 
スコセッシ監督は、ブライアン・セルズニックの本『ユゴーの不思議な発明』にインスピレーションを得て、この映画を作ったという。この本は、533ページのうちに、284枚の絵がある物語本であるという。日本では、2012年にアスペクト文庫から『ユーゴの不思議な発明』という題名で出版された。図書館が再開されたら、ぜひ読んでみたいと思う。
 
セルズニックの本では、孤児ヒューゴが壊れた機械人形(automaton)を直して動かすことが中心になるが、スコセッシの映画では、機械人形の元所有者ジョルジュ・メリエスがファンタジー映画の創始者であったことが、もう一つの中心になる。映画では、無声映画時代のファンタジー映画作りの楽しさが、伝わってくる。
 
映画も本も孤児ヒューゴの冒険物語で、鉄道公安官のグスタフと犬に追っかけられ、駅の大時計の針にぶら下がってやり過ごす場面では、高所恐怖症の私はハラハラさせられる。直した機械人形をメリエスに見せようとして、人形を抱えたヒューゴは、ふたたび、グスタフに見つかり追っかけられる。つまずいて、人形を線路に落とし、飛び降りるが、そこに汽車が迫りくる。と、とつぜん、逃げ場を失ったヒューゴをグスタフが助けあげる。
 
とにかく、おとぎ話だから、主人公が危険を冒してもうまくいくのだ。
 
映画で気になったのは、孤児ヒューゴが、「人間には神が与えた目的(使命)がある」とつぶやくことだ。神が与えたヒューゴの目的は、この映画では、元映画監督のメリエスに生きる意欲を与えることだ。
 
スコセッシ監督がイタリア系でカトリック文化圏にいると思うので、「生きる目的」という考えをもつことに違和感がある。「生きる目的」という考えは、「人間が神の道具」というカルヴァン派の考え方とつながる。イタリア人のスコセッシ監督がそう考えるはずがないと思いたい。
 
もし、ヒューゴが線路に飛び降りて機械人形を助けようとして、汽車にひき殺されたらどうなるのだろうか。一瞬のために自己を犠牲にすることを正当化する「神の与えた目的(使命)」は、とても危険な思想ではないか。また、自分の生きる目的がわからずウツになる若者がいるが、そこからの脱出は、「生きる目的」なんていらない、と気づくことではないか。
 
私の尊敬するイタリア人が、なぜ、くだらない「神の目的」を孤児ヒューゴにつぶやかしたのか納得いかない。おとぎ話に教訓とか教条(ドグマ)を持ち込んだのが納得いかない。

『アンドリューNDR114』 200年生きた男の物語

2020-03-28 21:22:16 | 映画のなかの思想


『アンドリューNDR114』は1999年に公開されたアメリカ映画である。原題は“Bicentennial Man”で、直訳すれば「200年目の男」である。話しはこうである。

製品番号NDR114のアンドロイド(人造人間)が、二人の娘をもつ夫婦に買われてやってきた。「アンドリュー」は次女のアマンダがつけた名前である。このNDR114は欠陥製品で心をもっており、次女のアマンダを愛してしまう。アンドリューは人間になろうと、どんどんと自分を改造し、ついに、200年目に、アマンダにそっくりの孫娘ポーシャが年老いて死ぬとき、自分も一緒に死ぬことを選ぶという物語である。

アンドリューは工場でつくられた機械である。欠陥製品だからユニークなのだ。個性をもつのだ。そして、その機械が「愛」のため人間になろうという意志をもつのである。工場製品が解放される過程は、古代ローマ時代の奴隷が解放されるのを模している。

アマンダの父親がアンドリューを気に入り、教育するのである。そして、アンドリューが作る精巧な木工細工を売り、そのお金をアンドリュー名義の銀行口座にたくわえさせた。教育を受けたアンドリューは、人類が求め続けた「自由」にあこがれ、自分自身を買い取りたい、と老いて死にゆく父親に申し出る。この申し出に父親は驚き、「出たければ勝手に出て行くがいい、おまえは自由だ」と言い、お金を受けとることを拒否する。

自由になったアンドリューは世界をさまよい、人造人間研究者と親しくなり、人工臓器の研究をたすけ、人工臓器のビジネスでふたりはお金持ちになる。アンドリューは体をどんどん人工臓器に置き換え、外見は人間に近づく。そのあいだに、アマンダも年老いて死に、その娘も死ぬ。

ところで、そのままだと孫娘ポーシャが死ぬときに200年目にならないので、物語の作者は、人類が老化を抑える薬を発明したとして、帳尻を合わす。
それで、孫娘ポーシャが薬を飲むことをやめ、みずから年老いて死ぬという展開になった。

ポーシャが死を迎える、その時に、アンドリューも人工血を輸血することで、老いてしわくちゃになったポーシャと手をつないで、いっしょに死ぬ。世界法廷は、アンドリューを人間として認め、ポーシャとの結婚が承認される。

機械が愛することができるか、この問題について、映画は肯定している。ただ、「欠陥製品」だから、そうできたとしている。(しかも、機械が機械を愛するのではなく、機械と人間が愛し合うことができたとしている。)

人間は確かに記憶で動く機械の1つである。最初は、遺伝子にコードされているままに、脳がつくられていく。そして、しだいに、遺伝子にコードされたプログラムから解放され、教育を含む自分の体験から自分の意志を形成していく。「自由」への憧れをもつのも、その1つだ。

しかし、私は、機械が人間を愛せるとは思わない。また、機械が機械を愛せるとは思わない。生き物は、増殖する。長い地球の歴史のなかで、生き物は有性生殖をするようになった。そして、さらに、子育てをする動物があらわれた。

社会に「愛」があるのは、男と女がいて性交をし、子どもが生まれてふたりで育てるからである。人びとが性交をしなくなったり、子育てをしなくなったら、「愛」が失せるのではないか、と私は思っている。

きょうの朝日新聞の読書欄で、長谷川眞理子が『2050年 世界人口大減少』(文芸春秋)を紹介していた。女性の地位が上昇すれば、子どもの数を減るという趣旨のことを書いてあるらしい。

男と女が性交をせず、子育てをしなくなったとき、社会から「愛」が失せる。そのとき、ヒトが 互いに助けあうことができるとは、生きていくことに肯定的な意味をもてるとは、思わない。私は、女性が男性と対等となっても、「愛」はもてるし、より充実した「愛」がもてると信じている。「愛」をもつべきだと信じている。