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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

貧しい人びとを良心の呵責なく社会が殺す映画『パージ:エクスペリメント』

2022-01-28 22:45:55 | 映画のなかの思想

おとといの夜、テレビで2018年公開のアメリカ映画『パージ:エクスペリメント』を見て驚いてしまった。貧しい人々は もういらない、殺してしまえばよいという考えの存在を前提にしている。

この映画の「パージ(purge)」はジェームズ・デモナコが考え出した特別の夜で、夜7時から翌朝7時までの12時間、殺人を含むすべての犯罪が合法化された夜を指す。このテーマで、5本のホラー映画や多数のテレビドラマシリーズやグッズが作られている。この集約した商売をパージフランチャイズと呼ぶらしい。

私の見た『パージ:エクスペリメント』は4作目の映画で、マンネリ化していると ヒットしなかった。脚本も映画としては整理されていないと私は思う。それでも、4作目は、1300万ドルの製作費で、全世界で1億3700万ドルを売り上げたのである。たった、3か月の撮影で仕上げたホ-ラ映画がである。パージの考えを面白がって見ている人びとがいたのである。

この4作目はパージをなぜ新政権が導入したかを説明する。新政権は、犯罪を効率的に減らすために、1年に12時間だけ、すべての犯罪を合法化すればよいと主張し、その実証実験をニューヨークの貧民街で行う。ところが、思いのほか、住民同士が殺し合わないので、政権が傭兵にお面やフードをかぶせ、住民を殺しまくり、翌朝、実験が成功したとテレビが報道するという映画である。

この映画の中で、新政権の幹部は、貧しい人々は もういらない、殺してしまえばよいという本当の目的を語り、傭兵を雇ったという事実に気づいた社会心理学者をも殺す。

これまでは、資本主義社会では失業者や貧困者は必要だというのが、経済学者の主流の意見であった。社会維持に人間の労働力が必要だが、失業者や貧困層がいれば、個々人の生存に必要最低限の賃金で労働者を雇うことができる、と彼らは主張していた。

貧困層は不要だ、みんな殺してしまえという主張は、これまで表には出てこなかった。無能だから貧困に苦しむのだと、富裕層は あざけっているだけだった。

ただ、富裕層は、選挙権を全国民に与えたばかりに、社会保障や福祉も貧困層に少しは与えないと選挙に負けると不満をこぼしていた。

政府も殺人を犯したとか、国家に反逆したとかの人を死刑にすればよかった。貧困者が増え過ぎれば、他国と戦争すれば、人口を調整できた。

ところが、経済がグローバル化した現在、国内に失業者や貧困層を抱えなくても、海外の貧困層に働いてもらえば良い、という考えが出てきた。そうすれば、国内の貧困層は役立たずの犯罪者や怠け者や不満分子で、みんな殺してしまえ という考えも出てきても不思議でない。

この映画の主題は、道徳心を痛めず、貧困層を殺すには、貧困者同志が殺しあうパージが有効だ、である。

いま、全世界の新型コロナ対策を見ていると、この機会に、貧困者や老人や病人には死んでもらおうという、深層心理が政治家や官僚や財界に働いているように思える。日本でも「経済を守る」という言葉を夕方のTBSテレビのアナウンサーは口にし、東京都都知事の小池百合子は「社会機能の維持」という言葉を口にしている。

LGBTやジェンダだけを口にすることが社会正義ではない。弱者を見捨てない、殺さないことこそが社会正義ではないか。

思うに、去年のおわり、アメリカで 一時 新型コロナがおさまったとき、貧困層が職場に復帰せず、労働者不足で賃金が高騰し、インフレになった。すべての職種は社会に貢献していたのだ。経済のグローバル化で、国内の労働者は不要だというのは、幻想である。


映画『ギルバート・グレイプ』は家族の犠牲になる男の貧困物語

2022-01-09 23:09:52 | 映画のなかの思想

きのう、深夜にもかかわらず、映画『ギルバート・グレイプ』をテレビで見てしまった。ジョニー・デップとレオナルド・ディカプリオがでてくるので見てしまったが、家族のために自分を犠牲する男の物語である。原題は“What's Eating Gilbert Grape”の1993年のアメリカ映画である。

    ☆     ☆     ☆

映画は、一団のトレーラーが田舎町を通過するとき、若い女ベッキーがのる1台のトレーラーに故障がおき、田舎町のギルバート(ジョニー・デップ)とアニー(レオナルド・ディカプリオ)と出逢う。そして、しだいにギルバートをつつむ状況が明るみになる。

ギルバートの弟、アニーは頭がちょっとオカシイのである。人の言うことに従わない。奇声を発する。風呂に入らない。誰かが見ていないと何をするかわからない。ギルバートは、そのアニーをつれて、古ぼけた食料雑貨店で働いている。

ギルバートの父親は、首つり自殺で、7年前にいなくなっている。父親は表情のない男だったという。

ギルバードの母親は、自分を見失って、ひたすら食べ、あまりにも太って動けなくなっている。田舎町の笑いものになってる。

ギルバートの兄は家を出ていったまま帰ってこない。ギルバートの姉は職を失って、家に引きこもっている。

ギルバートは、母、姉、弟、妹が食べるために、働いている。それだけでなく、弟を見守らなければいけない。いわばヤングケアラーだ。

アニーの18歳の誕生日パーティの前日、ギルバートが19ドルで買ったケーキをアニーがひとりで食べてしまい、今まで ためていた怒りが爆発する。ギルバートはアニーを殴って、家を飛び出す。

そんなギルバートは、ベッキーにどんな願いがあると聞かれ、家族のために尽くす いい人になりたいと言う。ギルバートは、はじめて家に帰らず、ベッキーと一晩を過ごす。

アニーの誕生日パーティは町のみんなが集まって無事に終わる。

ギルバートはベッキーを初めて母親に紹介する。

その晩、母親はテレビのある居間から2階の寝室にあがる。運動するために階段を上がったのかと、私は思ったが、そのまま死んでしまう。

死んだと知って、ギルバートは感情を爆発させ、2階が抜けないように入れた柱を殴り倒す。医師や警官が来て母親の死を確認し、どうやって母親を外に運び出そうか、と言って去る。

母親に死なれた兄弟姉妹は、母親ごと家を焼く。炎がすべてを焼き尽くす。

母親ごと家を焼くことを、みんなが家族の絆から解放されたことの象徴かと、私は思ったら、ギルバートはアニーを捨てられず、1年後のトレーラーの列にベッキーをみつけ、弟とともに、放浪の群れに加わって映画は終わる。

    ☆     ☆     ☆

ギルバートは、田舎町を捨て、他の家族を捨てたが、弟を捨てなかった。家族の犠牲になっていたギルバートは、ベッキーの存在ゆえに、弟のために生きることを選択するという物語である。

私の記憶では、2000年には、すでに、トレーラーに住むことは、ホームレスの一歩手前の貧困を意味していた。

映画では、宇宙人の軍団かのように、光輝く金属のボディーのトレーラーの列を写していたが、トレーラーで放浪することは、家族の犠牲になることの解決にならない。私は、このトレーラーの住人がどうやって生活費を稼ぐのか気になった。

橘玲は、ネット上のアメリカの知られざる下級国民「ワーキャンパー」の増加が意味するものとは?』で、トレーラーに住み、放浪することが、いかに悲惨かを書いている。彼によれば、放浪する彼らはじっさいには季節労働者になり、最下層の労働者として生きる。たとえば、アマゾンへの発注が集中するクリスマスシーズンに、彼らはアマゾンの倉庫で働くのである。


イーストウッドがベトナム難民のために死ぬ映画『グラン・トリノ』

2021-09-23 23:00:21 | 映画のなかの思想

2008年公開の映画『グラン・トリノ』はアメリカ人の思う良きアメリカ人の物語である。テレビで家族で見ていたが、差別用語が耐えられないと妻が最初に席をたち、つぎに息子があまりにもステレオタイプだと席をたった。最後まで見ていたのは私だけである。

私はアメリカ映画らしい、a humorous, touching, and intriguing old-school parable な物語だと思う。映画の良きアメリカ人は、最後には、他人のために死ぬのである。じっさい、興行的には成功している。良きアメリカ人がいるとアメリカ人は思いたいのだ。それは、悪いことではない。そうやって心のなかの良心が成長していくのだと私は思う。

1930年生まれのクリントン・イーストウッドが監督・主役の映画である。イーストウッドが演じる老人コワルスキーは、朝鮮戦争からの復員兵(Korean War veteran)で、フォード工場の元工員である。戦争で無抵抗の朝鮮人を殺したことに罪の意識をもっている。

彼が 普段 乗っているのは、貧乏人の象徴、中古のピックアップ・トラックである。しかし、30年以上前のフォードの伝説の名車グラン・トリノを所有していて、毎日磨いているという設定である。彼は、遠くに住んでいる息子がトヨタ車にのっていると腹を立てている。2008年の映画だからは、定所得のある白人が乗っているのはレクサスだろう。映画でチンピラが乗っているのはホンダだった。

彼の住んでいる町は、典型的な貧乏人の粗末な木の家がならんでいる。昔はデトロイトで働く工員が住んでいたが、いまでは、アジア系が住んでいるという設定だ。

彼はポーランド系、友人の床屋はイタリア系、友人の土木監督はアイルランド系のアメリカ人である。みんなマイノリティのカトリック教徒である。そして教会に顔をだしなさいとお節介な神父(father)は、もちろんカトリックである。

本当のイーストウッドはポーランド系ではなく、祖先はメイフラワー号でやってきたというから、無神論者でなければ、プロテスタントであろう。

彼の映画の役コワルスキーは、デトロイトのなかのスラム化した町に、妻に死なれて一人暮らしをするマイノリティの白人である。彼はアジア系を「イエロー」「コメ喰い虫」と忌み嫌っている。

そして、隣人は、ベトナム戦争でアメリカ側についたため難民となったモン族(Hmong)である。彼は隣人の少年の親代わりになって、良きアメリカ人に導こうとする。が、少年の姉がひどい暴力をモン族のチンピラからうける。復讐に燃える少年に犯罪を犯させないため、みんなが見ている前で、モン族のチンピラに撃ち殺される。そうすることで、チンピラが刑務所に収監され、モン族の隣人の安全が守られるという物語である。

良きアメリカ人コワルスキーが、アジア系の隣人のために、コメ喰い虫のイエローのために、死ぬのである。当然、彼は、死を選ぶことに悩むはずである。が、脚本の出来が悪く、彼の悩みが見る人に伝わらない。

この映画は、アメリカのいろいろな現実を中に詰め込んだため、ステレオタイプにならざるを得ない。しかし、悩む弱き人が勇気を出して良き人になるのでなければ、本当のtouchingな映画でない。この点で、失敗作である。

ーマルコ福音書15章34節ー

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。(聖書協会共同訳)


実在の政治家の悪徳を曝露する不思議な商業映画『バイス(Vice)』

2021-03-24 23:13:57 | 映画のなかの思想
 
2018年公開の映画『バイス(Vice)』は、ウィキペデイアによれば、パラマウント映画会社が企画した商業映画である。だから、とても変なのだ。実在の政治家の悪徳を曝露する映画である。
 
パラマウントの重役は、これからは、政治的なメッセージのある映画が集客できると思ったのだろうか。20世紀フォックスの映画『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書(The Post)』に対抗したのだろうか。
 
興行成績としては、20世紀フォックスの映画が勝ちである。5千万ドルの製作費で、米国とカナダだけで、8千2百万ドルの興行成績を上げた。一方、パラマウントは、6千万ドルの製作費で、米国とカナダだの興行成績は4千8百万ドルであった。
 
20世紀フォックスは監督にスティーヴン・スピルバーグ、ヒロインとヒーローにメリル・ストリープとトム・ハンクスを使ったからかもしれない。監督や俳優が誰かで映画を見る人が多いのかもしれない。
 
あるいは、20世紀フォックスの映画は、ベトナム反戦という多くの国民に支持されているテーマを背景にし、民主党も共和党も断罪しているから、結果として米国では政治的でないのかもしれない。
 
それに対して、パラマウントの映画は、共和党政治家ディック・チェイニーの悪漢(ピカレスク)物語である。共和党の歴代の大統領たち、リチャード・ニクソンもロナルド・レーガンもブッシュ親子も無能なバカとして描かれている。共和党員からは見たくもない不都合な真実なのだろう。
 
映画としてはどうか。私はパラマウントの映画を支持する。脚本がよく書けている。パラマウントは、コメディ映画を専門にとるアダム・マッケイを監督と脚本に起用している。そして芸達者な俳優で固めている。リアリティがある。
 
平凡で粗野な田舎の若者のディックが恋人で妻のリンに支えられ、政治の世界でどんどん出世し、出世するにつれて冷酷な悪人なっていく。登場人物はみんな実在である。しかし、家族に対しては、ディックは、善き夫で、善き父親でありつづける。これってアメリカ人好みの悪漢の像ではないか。
 
“The Hollywood Reporter”によれば、東海岸でも西海岸でも興行は成功した。それだけでなく、テキサス州のダラス、ヒューストンやアリゾナ州のフェニックスでも、善戦したという。どこで不評であったのだろう。
 
ディックが心臓病を患っていて、政界引退後に心臓移植を受け、いまだに生きている。心臓を提供した不幸な人がいるわけで、映画ではその裕福でない人がディックの物語のナレーターを務めるという構成になっている。映画の終わりで、交通事故にあい、心臓がとりだされ、米軍のヘリコプターで、ディックの手術の場に持ち込まれる。
 
心臓移植のことは知らなかったが、調べてみると、それは事実である。また、映画では、ディックは趣味の狩りで誤って人を撃ち殺すが、これも事実だった。
 
また、映画では、ディックの娘の一人は同性愛で、女性と結婚し、二人の子どもを人工授精で生む。共和党の基本方針は同性愛に反対だが、映画ではディックは娘の同性愛を受け入れて、娘を擁護する。自分と家族が一番なのだ。理想や原則なんて関心がないのだ。
 
映画では、ディックは、アメリカ国民を馬鹿にし、下品な言葉を発し、迷わず出世する。酒飲みで無能なブッシュ(息子のほう)を大統領にするため、自ら副大統領になり、彼から権限の委譲をうけ、すべての情報を一括に管理し、解釈を変え、あるいは広告代理店に調査させ、表現を変え、すべてのことを思い通りに実行していく。大統領ではないのに、Unitary Executive(独裁、モナキー)を実践する。政治の効率を追求する。2001年の9.11事件のあと、イラク陰謀説を捏造し、イラクを叩き、フセインを死刑にし、ブッシュを喜ばす。映画には、捕虜への残虐な拷問が映し出される。ブッシュは大統領に再選される。
 
原作もないのに、アダム・マッケイはいろいろなエピソードをよく集めたと思う。そして、彼が誰からも訴えられていないから、すべて、真実なのだろう。
 
よく、こんな映画が作ることができたのか、感心する。しかし、アメリカ人の半分にとって不都合な真実だから、この映画は、映画評論家以外には、話題にもならなかったのだろう。そして、アダム・マッケイはスティーヴン・スピルバーグに負ける。

とても残念なスピルバーグ映画『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』

2021-03-20 23:50:59 | 映画のなかの思想


いまちょうど、スティーヴン・スピルバーグの映画『ペンタゴン・ペーパーズ最高機密文書(The Post)』を見終わったところである。映画は、夫が死んでワシントン・ポストの社主になったキャサリン・グラハムが、記者が入手した国防総省の最高機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」を、投獄の危険を冒して、報道するという物語である。

ペンダゴン・ペーパーズには、ベトナム戦争に歴代の大統領や国防総省(ペンタゴン)が勝つと思っていないこと、それでも戦争を続けるのは、ベトナムに負けた大統領と歴史に残りたくないからなどが書かれた4000ページ以上の機密文書である。たんに政治家のメンツのために、若者がベトナム戦争に駆り出されて死んだのである。

現在も、ワシントン・ポストが健在で、この件で地方紙(local papers)から中央紙になったのだから、キャサリンの決断はみんなに支持されたわけである。ただの「普通の女」と思われていたキャサリンが、勇敢にも決断して、報道の自由を守ったという、スピルバーグ特有のハッピーエンドの映画である。

製作費が5千万ドルで、アメリカ・カナダだけで興行収入が8千万ドル以上だったから、ビジネス的には成功だが、見て、何かが足りない。

国家権力に対する報道の自由の戦いに若者が参加できていないからだ。年老いた上流社交界の女たち、老練な新聞記者や編集主幹が主な登場人物になっている。これでは、ベトナム戦争反対の若者が老人になっての同窓会のようだ。

少なくても、年老いたメリル・ストリーブやトム・ハンクスを主役、準主役に用いたのは失敗である。史実はそうであろうとも、若手の俳優を使えば、現在の若者にも見てもらえただろう。国家権力に戦う昔の若者の熱気を現在の若者に共有して欲しかった。

それに、日本語の映画名もダサい。原題の“The Post”を生かして、『ワシントン・ポスト社の勇気』でもすればよかったのではないか。

とても残念な2017年のアメリカ映画である。