(1848年のドイツ市民革命の失敗)
ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』(みすず書房)を読みだして、すでに3か月になる。読みだした動機は、ユダヤ人がどうしてガザやヨルダン川西岸でアラブ人を虐待したり殺害したりするようになったのかだったが、彼女の「国民国家の衰退と階級社会の崩壊が全体主義運動と全体的支配とを招いた」の論理がわからず、いまだに読み続けている。
前者の問いは、ユダヤ人のエリート層はいまだに選民意識をもっていて、アラブ人、スラブ人、アジア人を劣った民族とみていることにあると、いま、思うようになっている。
後者の問いに答えるために、ドイツ史関係の書を読み続けてきた。
オスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落 』 (中公クラシックス) は読むに堪えない馬鹿げた本である。こんな本が第1次世界大戦後のドイツで大ヒットしたということは、当時のドイツに知的レベルの低い人が多数いたということを示していると思う。ナチスが台頭する土壌をうかがわせる。
フリードリヒ・マイネッケの『ドイツの悲劇』(中公文庫)やセバスチャン・ハフナーの『ドイツ現代史の正しい見方』(草思社文庫)は、それぞれ、ヒトラーが台頭した理由をブルジョワジーの立場から分析するエッセイである。私の立場からすれば、こんなバカな知識人がドイツにいたのかと思ってしまう。アーレントも同じ立場にいるのではと私は考え始めている。
マイネッケとハフナーの違いは前者がプロイセンに批判的、ハフナーが好意的であることだ。アーレントはハフナーに近い。マイネッケとハフナーとの共通点は共産主義に対するすさまじい嫌悪感である。
ドイツの外からみたドイツ史、阿部謹也の『物語 ドイツの歴史』(中公新書)、メアリー・フルブロックの『ケンブリッジ版世界史 ドイツの歴史』(創土社)のほうが、本質をついていると思う。阿部やフルブロックはそもそもドイツ人という民族がいたのか から疑っている。言語が互いに近いというだけで歴史的に文化を共有していたわけでない。
17世紀の30年戦争終結以降は、ドイツは大小100以上の国に分かれて、人々が暮らした。それ以前は、形式上の皇帝は存在したが、カトリックの教皇に権威付けられた象徴であって、ザクセン、バイエルンとか部族単位の社会があっただけだ。皇帝は居城を持たず、家臣を連れて、国内を移動して歩いた。
「国民国家」とは、18世紀後半から20世紀にかけてのドイツのブルジョワジーの幻想である。したがって、国民国家が衰退したというよりも、もともとなかったのだ。アーレントの歴史観は間違っている。
「ブルジョワジー」とは、日本では、ときどき、「市民」と訳されるが、この訳は誤解を受ける。ブルジョワとは城塞都市に貴族とともに住んだ裕福な市民をさしていたのが、城塞都市でなくても、裕福な市民をさすようになった。ブルジョワジーは「有産市民」のことである。「無産市民」は、古代ローマ帝国にならって、「プロレタリア」と呼ばれることが多い。
「国民国家」という幻想がドイツの知識人にあるのは、ばらばらの君主国家がプロイセンのもとにドイツ帝国に統合されていったからである。マイネッケもハフナーも、「国民国家」が市民階級と労働者階級の対立を解決するものと考えている。
アーレントが言う「階級の崩壊」とはこの階級対立の解消を言うようにみえる。第1次世界大戦後のドイツでは、社会民主党が政権を担った。この時代のドイツをワイマール共和国という。
アーレントの両親も社会民主党の支持だったとウィキペデイアにある。社会民主党がドイツ共和国の憲法を作った。しかし、ドイツ帝国軍は解体されず、皇帝の復帰を画策した。ヒトラーははじめドイツ軍の諜報員として働いていたという。また、ドイツ軍は義勇兵と一緒に行動して共産主義者の運動を暴力的に鎮圧した。社会民主党はそれを黙認した。ワイマール共和国は非常に脆い政治的基盤の上にあった。厳然とした「階級社会」である。
マイネッケは、プロイセンを軍人と官僚とブルジョワジーとが支配する国家としてみて、プロイセンの軍国主義を非難する。プロイセンでは軍人=貴族=地主と考えてほぼ正しい。ハフナーはベルリン生まれだから、プロイセンを理想化し、プロイセンが他のドイツを急いで統合したがゆえに、ドイツの悲劇が起きたとする。
どちらにしろ、ブルジョワ知識人の戯言である。しかし、戦前の帝国日本はプロイセンをお手本として「富国強兵」の道を歩んで、過ちを犯したのにもかかわらず、天皇制を残し、知識人はいつまにか資本主義を称賛するようになっている。第1次世界大戦後のドイツと同じ誤りに日本が落ちいる可能性があると危惧する。
[補遺]
「階級社会の崩壊」はもしかしたら、第1次世界大戦後のドイツのインフレーションによる小市民階級(小規模の資産をもつ人々)の没落を言うのかもしれない。アーレントの『全体主義の起源』第9章「国民国家の没落と人権の終焉」に「戦争に続いたインフレーションは所有関係を根底から変えてしまい、階級社会はそこから立ち直れないでいる」とある。大製造業の所有者・経営者は戦後のインフレーションを生き残り、ブルジョワジーと労働者階級の対立は以前として残っており、階級社会は残っている。映画『メトロポリタン』は、SFの形をとって、この事実を当たり前のことかのように描いている。