野田市に以前あった有線放送で、1974(昭和49)年から10年間、障害のある人や親たちが日々感じた喜怒哀楽を率直に語る番組が流れていた。番組の録音テープをもとに編集した本「昭和を生きた! 野田の障害者」が今冬、自費出版された。約30~40年前の当事者の肉声から、当時の障害者らの思いと社会状況が浮かび上がる。現在との比較もできる貴重な証言集だ。
番組の司会役だった市身体障害者福祉会の元会長、日佐戸(ひさと)輝さん(93)が二〇一五年十月から、保管していたテープをボランティア団体の協力で書き起こし本にまとめた。
番組のタイトルは「社会福祉の時間」。当時の「野田市有線放送」が七四年十月から八三年十二月まで、ほぼ月一回のペースで計百十回放送した。一回二十分で朝と昼に流した。
旧陸軍兵士だった日佐戸さんは終戦直前の四五年七月、仙台市で空襲に遭い、右足を負傷して失った。
有線放送から番組の依頼を受けた時は福祉会事務局長。「戦前戦中は障害者はやっかいもの扱い。これからは一人の市民、人間として生きていくために私たちも頑張ろう」と、仲間と熱心に活動していた時だった。
「番組は障害者の生の声を聞き、理解してもらう絶好の機会」と、知人たちに協力を依頼。出演を渋る仲間には「番組に出ることで社会が変わる」と説得したこともあった。
番組は日佐戸さんとの対談形式。延べ百五十人以上が番組で語った。放送期間中の七六年には、国連が八一年を国際障害者年に決めるなど、世界的に障害への意識が変わり始めた時期でもあった。
証言集では「私は車いすに乗ってます」「白杖(はくじょう)が頼りです」「施設がほしい」「戦争はいやです」など九つのにテーマに分け、三十四回分を掲載。出演者は自分の障害や生い立ち、外出時や仕事の苦労と楽しみ、障害への周囲の理解などを素直に語っている。
放送当時と比べ、障害者への支援制度は整えられ、道や駅など街のバリアフリーは進んだ。一方で、昨年七月には相模原市の障害者施設で殺傷事件が起きた。日佐戸さんは「本は、苦しい思いの中にいた障害者が立ち上がった記録。心のバリアフリーに時間はかかると思うが、読んでもらい、共生の社会の実現に少しでも役立ってくれれば」と話している。
三百部発行。県内の図書館などに寄贈。A5判。二百七十二ページ。問い合わせは日佐戸さん=電04(7122)1418=へ。
【障害者らの声】
下半身が不自由で車いすを使う男性「(外出時の障害の)1番がトイレでもって、次に段差。段差のない病院が近くにほしい」
下半身が不自由な別の男性「まだまだ車いすで大勢の中に行くと変な目で見られたり、必要以上に哀れみを掛けてくれる人がいますが、車いすに乗っていれば足が動かなくても大抵のことはできるし、健康な人と同じように接してほしい」
目が不自由な男性「(障害について)親御さん、家族の人たちははずかしいとかかわいそうとか、そんなことは一切もう捨ててね、どんどん世の中に出すべきだ。それが将来の幸せに結び付く大事なこと」
知的障害の子どもの母親「私たちが50歳、60歳と年齢を重ね、体力関係が逆になった場合どうしようかなというのが、やはり眠れませんね、そこまで考えますと」
昭和の障害者らの声を本にした日佐戸輝さん。手前は番組を録音したテープ
(番組での発言を本から抜粋)2017年2月12日 東京新聞