「最善を尽くしました。全力を出し切って戦えるレベルにはもっていけたと思っています」
そう言ってから、言葉を探すように話し始めた。
鹿沼は2014年7月ワールドカップのロード・タイムトライアルで銀メダルを獲得し、直後の世界選手権ロード・タイムトライアルでは初優勝を飾った。その頃までは練習を積めば積むほど強くなっていく実感があった。自身の成長に伴う結果が嬉しかった半面、世界選手権優勝以降、「日の丸」の重圧を感じるようになった。それは周囲の期待の大きさでもあり、追われる立場になったプレッシャーでもある。
「世界選手権の優勝後は自分の中でいろいろなものが変わっていきました。一度『世界』で優勝してしまうと、勝ち続けるしかないというプレッシャーに襲われたのです。楽しさも喜びもなく、日の丸の重さだけを感じるような時期がありました」
「負けてしまったら、全てを失ってしまうんじゃないかという恐怖に近い不安です。もちろんそれ以前にも日本代表であるという意識はあったのですが、勝ってからはそこに想像を超えた重みが加わったのです」
プレッシャーからの解放 失ったものと得たもの
勝たなければならない。優勝しなければ周囲の期待に応えられない。そんな思いが膨らんでいくなか、鹿沼はリオの前年、予期せぬアクシデントに見舞われた。
「修善寺(日本サイクルスポーツセンター)の5kmコースで、下りから左コーナーに入るところで転倒してしまい、外傷性くも膜下出血と鎖骨と肩峰を骨折、左に倒れたので左半身がひどい擦過傷に……。でも転倒したときに頭を打っていたので記憶に残っていませんでした。幸いにして転倒した記憶がないので、恐怖心も残らなかったのです。それが救いでした。もしも転倒時の記憶があれば、こんなシーンでこけたんだ、という恐怖心からトラウマになってしまったと思うんです」
「ケガは治りますが、トラウマは治そうとしてもなかなか治すことができないですからね。怪我だけで良かったと思っています」
クロスカントリー時代にもケガに泣いたことがあった。再び試練が訪れたのである。だが、この期間が鹿沼を大きく変えた。
「練習を離れ、それまでのことを振り返ってみたら、積み重ねてきたすべてを失ってしまったんじゃないかと思いました。でも、落ちるところまで落ちたし、失ったからこそ自分の原点に戻れたのです。失ったのなら、また積み上げていけばいい。練習量は落ちてしまったけれど、重く圧し掛かってきたプレッシャーもなくなり、精神的には大きなプラスを得ることができました。残された時間がどれだけであろうと、あとはやるだけだと思えたのです」
怪我を乗り越え、逞しいチャレンジャーとして練習に復帰した。
しかし、アクシデントはそれだけに留まらなかった。怪我を負った左半身をかばい、右腕に極度の負荷を掛け過ぎてしまったせいか腕の神経が麻痺してしまったのである。
鹿沼は上半身を前傾させ、肘や腕にかなりの圧力を掛けながら漕ぐタイプなのだが、手首を曲げることも、ハンドルを握ることもできなくなった。
「2016年の5月に発症しましたから、ほとんどリオの直前と言ってもいい大事な時期です。腕に麻痺があっても私はやるしかありませんでした。幸いなことに、足はケガしていないんです。だから、リオまでの期間にやれるだけのことをやりました。怪我は私にいろいろなことを教えてくれて、迷いはないという状態でリオに向かうことができたと思っています」
数値化による質の向上とメンタル面の強化
メダル獲得を具体的目標に掲げて取り組んだことは、『ワットバイク』というインドアバイクを使って、10分間踏み続けられるワット数を増やしていくトレーニングを導入し練習を数値化した。最初は180ワットで10分間という負荷からスタートして、リオの直前は270ワットで10分間まで踏み続けられるようになった。
「私の場合は瞬発力がなかったので1分間でどれだけ力強く踏めるかという負荷を上げつつ、10分間漕げるように増やしていったのですが、練習を可視化して、分析してもらって、自分でも確認しながら進めることができました。以前の私であれば、練習を数値化するなど考えていなかったのですが、メダル獲得を実現するためには必要なことだったのです」
またメンタル面では徹底して自分と向き合う心理サポートを受けた。毎日練習前と後に10分間自分の呼吸にだけ意識を集中し、いま自分がどのような状態で息を吸い、吐いているのかなどを具体的に感じられるようになると、さらに進んで、自分が現実に自転車に乗って、ペダルを漕いでいるようなイメージまで掴めるようになっていった。
「最初は落ち込んでいる人に対して行うものという印象があって抵抗があったのですが、私が受けたのは、『自分と向き合う』というものなので、それならやってみようと」
「続けるうちに、自分は座っているだけなのに、現実に自分が漕いでいるイメージを作れるようになるんです。漕いでいる負荷とか、いま自分の身体のどこの部分を使っているのか感じられるようになってくると、実際の練習でもその感覚を確認しながら、フォームに意識が向くようになって練習時間の短縮に繋がったのです」
もしも、あのタイミングで怪我を負わなければ練習の数値化も心理サポートも受けなかったのではないだろうか、以前のままの練習を継続していたのではないだろうかと鹿沼は振り返る。
「リオの直前には、呼吸への意識とトラック1周のイメージをひたすら行うことによって、実際のタイムも縮まっていきました。私の場合は、『私はやれる!』とか『勝てる!』という言葉を使うと、力んだり、縮こまったりして逆の結果に繋がりやすいので、ひたすら自分と向き合うというトレーニングが自分に合っていたと実感しています」
良い距離感で自立したチームワークに
健常者の田中と視覚障害者の鹿沼による二人乗り自転車のパラサイクリング・タンデム競技は、前にパイロットと呼ばれる健常者の田中が乗ってハンドル操作やブレーキ操作を行い、後部の鹿沼はストーカーと呼ばれ自転車に強力なパワーを伝える役割を担っている。ちなみにストーカーとは、蒸気機関車に石炭をくべる火夫という意味である。
二人が初めてペアを組んで出場したのが2013年カナダで行われたロード世界選手権。以来、怪我なども含め半年ほど離れたことはあったが、二人で国際大会を戦い続けた。
自転車競技はスピードとパワーに溢れる世界だが、チームワークという点では言葉以外にも繊細なコミュニケ―ションが勝敗を左右する要素となる。
「最初はお互いが気を遣い合って練習中も遠慮しながらやっていたような気がします。たとえばカーブの入りの体重移動で気づいたことや、相手にしてほしいことがあっても、気を悪くするんじゃないかと口に出せなかったり、自転車を降りてからも近くにいた方がいいのかな……、なんて考えて落ち着くこともできませんでした。長い間、お互いがそんな思いを持ったまま練習をしていたのです」
海外の選手たちは競技中でも前と後ろで言い合っていることが多いというが、日本人らしさなのだろうか、鹿沼達は必要以上に相手へ気を遣ってしまい、けっして良いとはいえない影響が出たようだ。
だが、お互いを思う気持ちというのは規律や自立した関係が構築できれば、強固なチームワークの基になるものだ。
「ふとした言葉がきっかけで、遠慮していてもタイムが縮まらないことにお互いが気づいて、言い合えるようになってから、ぐっと二人の距離が縮まったように思います。そして『私は田中まいとリオの表彰台に上りたい』と伝えました」
「今では練習のこと以外ではお互いに干渉しない関係にあります。話したいときは話すし、話したくないときは話さない。その干渉し合わない距離感を保って時間を過ごしています。お互いに自分のペースでやった方がコンディション作りのためにも良い結果を生みました。時間は掛かりましたが、その関係ができてからは練習中のコミュニケーションがよくなったと感じています」
2017年2月1日 ニフティニュース